はてなキーワード: NHKスペシャルとは
NHKスペシャルで人工知能(主にディープラーニング)の後半で、AIによって会話するメッセンジャーと利用者の反応を見て、90年代後半に流行ったICQにハマっていた時期のことを思い出した。
テレホーダイでネットに接続、Webチャットで知り合った人と30分〜1時間くらいネットサーフィンしながらICQで会話して寝るような生活、フリーターしながら資格試験の勉強してたなあ。
会話相手のうちのひとりに、実際に会ったこともないのに恋心を抱いていた。他愛のない会話に混じって悩みを聞いてくれた人だった。
池上氏関連のホッテントリがここ数日あがってたので、自分の思うところを書いてみる。
自分は一応、新卒で池上氏と同じ業界に就職(といっても、自分は紙媒体)し、記者という肩書をもらっていた経験がある。
7年ほど現場にいて、体壊して、ちょっと内勤の管理部門にいさせてもらったのだが、なんか、内側から会社を見ているうちに
もともと、あんまり向いていなかったかな?と思っていた業界がさらに嫌になって転職して
10年ちょっとになる。
普通、あの業界では、最初の何年か地方で修行して、いずれ東京や大阪に戻ってくるパターンが多いが、
自分の就職先は、いわゆる経済紙で(ってもう社名明かしたようなもんだが)地方支局が貧弱な会社だった故、
新卒が地方支局に行くという制度がなく、入社から退社まで東京で過ごした。
池上氏の凄さは、なんといっても、情報を取捨選択してわかりやすく伝えるプレゼン能力と、守備範囲の広さだと思う。
で、あれだけのことを伝えられるには、背後に相当の知識があるのであろうと思われている。
その「相当」がどの程度なのか、というと、たぶん、世間一般の人が想像するよりは、かなり浅くて、
けっこうぎりぎりのラインでしゃべっているのではないか、という気がする。それでももちろん、かなりのレベルではあるだろうが。
いわゆる大手のメディア企業の記者にまず最初に求められるのは、
「昨日聞きかじったばかりのことを、あたかも以前から詳しく知っているかのようにしゃべったり書いたりする能力」である。
なにしろ、日々、いろんなことが起こるのだ。
なかなか深堀している暇などない。
そうこうして、キャリアを積んでいくうちに、それぞれの専門分野ができていくわけだが、
大半の人は、きちっと専門分野を確立する前に、デスクや管理職になったりして、だんだんと現場から離れていく。
記者職としてキャリアを全うする人(編集委員とか論説委員とか解説委員とか)は少数派だ。
池上氏の経歴を見ると、NHKで地方局や通信部を回った後、東京の社会部で気象庁や文部省、宮内庁などを担当した、とある。
東京では、悪名高き日本の「記者クラブ」に所属し、最優遇される立場で、役人から懇切丁寧なレクを受けて、
それをニュース原稿に仕上げるのが、まず最初の基本的な仕事だったと推測する。
NHKの記者は特に、「特ダネ」を取ってくることよりも、「報道されるべき情報を落とさない」ことをなにより求められるらしいので、
多分、想像以上に、定例記者会見に出席したり、資料をチェックしたり、他社の報道を確認したり、
思いのほかルーティーンワークが多いのではないかと推測される。
(なお、NHKスペシャルなどのドキュメンタリー番組は、主にディレクター職の人が担当しているので、
一つのテーマを深くじっくり追いかけるのは、あまり記者の仕事ではないらしい。
実は自分もNスぺ作りたくてディレクターを第一志望にしてNHK受けたのだが、見事に落ちた)
で、そんなに知識が深くなくても記者が務まるのかといえば、そこそこ務まる。
自分は、そのさして長くない記者のキャリアの大半を、メーカーを中心とした企業の取材で過ごしたのだが、
正直、最初は、「貸方」「借方」もよくわかってなかった。(大学は政治学選考だったし)
それでも、入門書片手に勉強しながら記事書いて何とかなっていたし、
そもそも「大手メディアの記者」が企業の広報部を訪ねると、結構いろいろ懇切丁寧に教えてくれるのである。
多分、NHKの記者というのも、それなりの対応を受けるはずである。
もちろん、伝えてほしいことは積極的かつ懇切丁寧に伝え、触れられたくないことは隠しながら、だが。
中には、「たいてい経験の浅い若手が担当する企業」というのがあって、そういう会社の古参の広報さんの中には
「今、編集委員の何々さんねえ、あの人が新人のころ、私がいろいろ教えてあげたものだよ、わっはっは」なんて言ってたりした。
もし、あなたの会社の広報部に、なんだか大学出たての記者ばっかりくるようだったら、
もちろん、教わってばっかりでは舐められるので、こっちも勉強していくわけだが、
相手はその会社一筋なわけで、知識の深さでは、敵わないのが通常だ。
知識を深めるのは、そこそこにしておいて、知らなくてもはったりかませる胆力をつけたほうが役に立つ。
そうこうしているうちに、正面から取材を申し込んだり、正規の記者会見に出席したり、
ニュースリリースを原稿に仕立て上げているばっかりでは通り一遍の記事しか書けず、
社内的にもマイナス点はつかないものの、プラス点がつけられることもないので、
独自に夜討ち朝駆け(アポなしで取材対象のところに押しかける)したり、独自ルート作ったりし始めるのである。
そんなことをしているうちに、自分のような、結局途中で業界を去ってしまうような木っ端記者でも、
ごくごくたまには、取材担当企業の株価をストップ安にしちゃうような記事を書くチャンスが巡ってくることもある。
まあでも、ぶっちゃけいえば、そこそこキャリアを積んでいる先輩の中でも
減価償却費が資金繰りにどういう影響を与えるのかよくわかっていないまま、
それでも企業の経営危機について記事を書いているような人はざらにいた。
(まあ、自分も経験積みながらようやくわかるようになったクチで、
当初はなんのことやらわからなかったのだから、偉そうなことは言えないが)
それでも、首にはなりはしない。
そういえば、思い出したことがある。
今の若い人にほ想像もつかないだろうが、その昔、世界のエレクトロニクス業界をリードし、
今でいえばappleと同じくらいのブランド力で各種製品を生み出していたSONYという会社があった(今もある)。
当時はまだまだ、かつての威光が残っていた。
自分は、そこのメイン担当になるほどの能力もキャリアもなかったが、
たまたま、SONYの会社が取り組んでいる内容が、自分の取材テーマに関わっていたことがあって
取材を申し込んだことがある。
いわゆるストレートニュースではなくて、連載コラムのような記事を書くためである。
で、SONYに行ってみて驚いた。
膨大でかつ、非常にわかりやすくまとまった資料をお持ち帰り用に用意していたのである。
なんかもう、取材しなくても、この資料テキトーにまとめたら記事書けちゃいそうな。
もちろん、そんな手抜き仕事をして相手の思うツボにはまってはいかんので、
きちんと担当者さんに話を聞いて、自分なりの記事を書いてみたのだが、
やっぱり資料に引きずられなかったかといえば、影響はあったわけで、
まあ、恐ろしい会社であった。
かつて「メイド・イン・ジャパン」の強さの象徴として流布されたSONY伝説は、
もちろん実力の部分もあったけれど、伝説を伝説たらしめようという広報戦略によって
かさを増されていた側面も多かったというのは、そこそこ業界で有名な話である。
なんだか、大分、話がそれた。
多分、池上氏は、NHKでそこそこの社会部記者だったのだろうと思われる。
そんな彼の経歴の中で異彩を放っているのは、そろそろ管理職か専門記者か、という分岐点にさしかかったあたりで
キャスターに転身し、その後10年以上にわたって「週刊こどもニュース」を担当していたことだろう。
(すごい優秀な記者と認められていたら、ここいらで、海外支局あたりで経験つんでいるはずである)
「衆議院と参議院って、どう違うのですか?」とか「比例代表制ってなんですか?」とか、
「どうして輸出が中心の企業は、円高ドル安になると困るんですか?」とか
あらためて、そういうレベルからニュースを解説する仕事を10年以上も続けたジャーナリストは、
少なくとも今の日本では皆無に等しいんではなかろうか?
普通、そこそこキャリアを積んだ記者は、あらためてそんな仕事をしたがらないし、
そもそも、そんなレベルことは、真っ当な社会人ならば学校で習っているはず、というのが日本社会の建前で、
読者や視聴者を、そんなこともわからないヤツらと想定して記事や番組を作っていたら、
ある意味、「お客様をバカにしている」ことにもなりかねない(と、みんな考えていたのだろうと思う)。
まあ実際、そのレベルで作ってみたら、予想以上に受けたわけだが。
「こども向け」の番組というフォーマットを得ることで、池上氏はそういう稀有な仕事を追及していった。
その結果、得たのが、あのたぐいまれなるプレゼン能力だと思うのだ。
多分、池上氏程度の知識や取材能力をもった記者は、NHKや全国紙にはゴロゴロしていると思う。
(自分のかつての勤め先でも、そこそこキャリアがあって、東京でそれなりに仕事している先輩は、皆さんそれなりに凄かった)
でも、その知識や取材結果を子供にわかるレベルでよどみなくしゃべれる人は、そうはいない。
池上氏のニュース解説番組をたまに拝見すると、自然災害のメカニズムから、最新の科学上の発見、日本の選挙から世界経済まで
だが、自分が見る限り、その解説は一般紙や新書本で得られる知見を超えるものはほとんど見ない。
「いや、それは、視聴者に分かりやすいレベルにしているからで、その背後には物凄い知識が・・・」という見方もあるが、
果たしてどうだろうか?
多分、毎日6紙読むという新聞をベースに、ひたすら横に広くいろいろな情報を取り入れておられるように見える。
海外取材などの映像を見ることもあるが、どうも、テレビ局とコーディネータによるセッティングが透けて見えてしょうがない。
多分、その経歴からいっても、海外取材に独自のルートなどはそんなにお持ちではなさそうだ。
やはり、「あまり深くないレベルで次々とあらゆる分野に取り組んでいく」ことがこの人の真骨頂だと思う。
それが悪い、ということではなくて、それがこなせる凄さがある、ということである。
著書を読んでも(といっても、ほんの数冊目を通しただけだが)、たとえば同じNHK出身の元ワシントン支局長の手島龍一氏とか、
あるいは日経の元スター記者で週刊ニュース新書の田勢康弘氏の著書のような、深い取材と鋭い洞察に支えられた
凄みのようなものは感じられない。
やはり、この人の存在価値は「広く入門レベルの知識を提供する」以上でも以下でもないのだろうと思う。
(なお、今、軽く検索してみたらどうやらニュース英語の本まで出されているようだが、
膨大な著書のどこまでご自分で書かれているのだろうか?という疑問は置いておく。
出版業界では、驚くほど「著者が適当にしゃべったことを編集者やライターがまとめた本」というのが、世間で思われている以上に多い。
あと、池上氏が英語を話しているところって、あんまり見たことないような。
NHKの採用試験を突破するくらいだから、読むことに関しては、そこそこのレベルと推察できるが)
さらに、分かりやすさの理由の一つとして、「子供のような素朴な疑問にも正面から取り組む」というのがあるように思う。
巷間よくいわれる、選挙特番の「池上無双」の象徴ともいわれる「創価学会の話題」についても、
タブーへの果敢な挑戦というより、素朴な疑問を追求していった結果なのかもしれない。
「どうして自民党は公明党と組んでいるんですか?」という質問は、大人はあんまりしない。
それは何となくタブーであると感じているせいでもあるが、一方で「そりゃ、理由はみんな知っている」からである。
ましてや、「政治記者歴何十年」を売りにするような政治ジャーナリスト諸氏は、
そんなことよりも、自分の掴んできた独自情報を話したくて仕方なかろう。
「それは、公明党には創価学会という支持母体があって、固定票が見込めるからですよ」と優しく語りかけるのだ。
で、「では、公明党と創価学会の本部がある信濃町に行ってみましょう!」と、女子アナを連れてツアーを組んだりする。
実際、やってみれば、放送しちゃいけないタブーというほどのこともない。
そりゃそうだ。
ある程度、日本の政治に関心を持っている人ならば、普通に知っていることなのだから。
公明党の側だって、連立与党として大臣まで出す立場になった以上、その程度の取材を拒否するはずもなく、
「創価学会の人たちが、選挙は功徳だなんていう仏教用語を使っていたりしますが、政教分離の観点からみて
「創価学会は、大切な支持団体ではありますが、創価学会と公明党は全く別個の組織です。
政教分離というのは、政府が宗教活動を行ったり、宗教活動に介入したり、宗教団体が政治に介入することを禁じておりますが
宗教団体が政党を支持することを禁じるものではなく、現在の公明党と創価学会の関係は問題と思っておりませんが云々」
「そうはおっしゃいますけれども、ここに創価学会の名誉会長が、公明党に指示した文書がありましてね・・・」
などと、爆弾情報でもぶっこんで来たら、それは多少「タブーに斬り込んだ」ことになるだろうが、
そこまでのことはしない。
多分、そこまでの取材もしていないと思う。そもそもが、そういう役割の人ではなくて、そこは、
「はい、そうですか、よくわかりました」と視線を投げかけるという、
「子供にも分かるように語ること」「子供の持つような素朴な疑問をゆるがせにしないこと」
を常に追求し実践してきた所にあるように思われる。
これは、なかなかに難しい。
多分、そこには、「相手(子供)が、何がわかって何がわからないのか」を推察する想像力や共感力と
「限られた言葉で複雑なことを説明する」ことを可能にする、優れた言語能力が必要なのではないかと思っている。
ただし、限られた言葉で語りえることは、やはり、ある程度、限られているわけで、
多分、その気になれば、そこまで難しいことではないと思う。
以下、列挙していく。
ネットはリアルタイムでトップに来る項目が変わるため、「その瞬間」のニュースに惑わされる。
それより、「昨日一日何が起こったのか」をまとめられたものを読んだほうが良い。
リアルタイム性にこだわるより、きちっと、毎日何が起こったのかを、把握するほうが良いし、
そこまで「瞬時にニュースを知らなければならない必要は、あんまりない。株取引とかやってなければ。
あと、何をトップに持ってきて、見出しをどの大きさにするのかは、新聞社のニュース価値の判断を示しているので、
蔑ろにすべきではない。
産経は、思想や主義主張以前のレベルで、誤報や事実誤認が多いので(他紙に全くないわけではないが、産経よりまし)
あまりお勧めしない。
「読売と朝日」、「日経と毎日」とか、傾向の違う新聞を併読すると尚可。
とくにビジネス方面に強くなりたければ、当然、日経がメインになる。
それぞれのジャンルの入門書や、最近話題のトピックについての概説書が毎月出ているわけだから、
うまく活用すべし。
池上氏が選挙特番でお得意とする「創価学会ネタ」なんかも、十分新書レベルで手に入る。
で、ちゃんとした著書のちゃんとした書籍ならば、参考/引用図書とかでてるから、さらに深堀りしたければ、
そこから入るのが近道。
とりあえず、自然災害からテロ、科学上の大発見まで、大きなトピックはたいていNHKスペシャルで「最新報告」をしてくれる。
受信料に対する怒りが軽減される。
ネットの情報が玉石混交なのは今更いうまでもないが、けっこう使えるのは、「議事録」とか「発表資料」とか
「記者会見の映像」とか、その他、いろいろな「原典」に直接当たれるのが、最大の強み。
多分、これくらいのことを継続していけば、
「あの人、いろんなこと知ってるねえ、池上さんみたいだねえ」と尊敬される程度の知識は身につくと思う。
ただし、これはあくまでインプットの方法なので、アウトプットの仕方を間違えると
ただのウザい人になりかねないが。
池上彰という人は、抜きんでた専門分野もないし、
ジャーナリストとしても、ものすごいスクープをとったことがあるとか、そういう実力はないと思うけれど、
情報を取捨選択してわかりやすく伝える能力と、選挙特番に見られるような、瞬時に判断して的確に質問する力がハンパないと思う。
残念ながら、こういうアウトプット能力の磨き方は、うまくまとめられないので、
どこかの増田さん、まとめてくれないだろうか?
今日は録画した「特攻~なぜ拡大したのか」を見て、怒りすぎて震えながら泣いた。
以下感想文です。長いよ。
熟練兵が零戦で出撃した最初のうちは大きな戦果を挙げたけど、戦闘機が出尽くして
特攻機や訓練機を持ち出し、新兵を搭乗させるようになってからはほぼ全く命中しなくなっていた。
そのような状況は国の上層部の会議で報告されることなく、盛りに盛った戦果が語られ、
「ならば総力を尽くした特攻作戦で沖縄戦を戦おう」で沖縄もあんなことになったのに
「総力を尽くした特攻作戦で本土決戦を」って準備が進んでいたところで、原爆とかソ連参戦とかあって終戦。
もうちょっとで私たちみんな死に絶えるところだったんだよ… 会社で言ったら粉飾決算のおかげで。
いくら粉飾しても会社なら倒産するだけだけど、戦争だと国民死ぬから。
軍の偉い人は、御前会議で「特攻作戦はもう続けられない」って言えなかった理由について、
戦後「あんなに大勢の人がいるところで肚のうちを明かせるわけがない」とか言ってた
(↑「っざけんな!」と叫んで震えて泣いたのはここ)
アメリカと日本のおかしな関係についても、なんだかわかったような気がする。
戦争中に日本人を山ほど殺したのはアメリカだけど、日本人が死ぬのを承知で戦争をやめなかった、
当時の人はみんなそれがわかってたんだろう…
戦争の最中に国民から奪えるだけ奪って戦後何も返さなかった日本政府の代わりに、
ごはんを食べさせてくれたのもアメリカ。だから昨日までの敵国にやすやすと懐柔された。
これを見て特攻賛美を続けられる人を見てみたい。
特攻隊員は最後まで立派だった、日本を、愛する人たちを守るために戦った、それはわかってる。
でもそれをさせた連中は嘘つきだし現実から目を反らしつづけた弱虫だし、
連中のおかげで数千人もの特攻隊員が国の犠牲となって無駄死にしている。
命を捨てても、戦勝のために貢献することはできなかった。
「国のために戦ってくれた人たちがいるから、私たちは平和に暮らせている」という考え方も思考停止だ。
故郷を家族を守るために出征した多くの兵士が、志に反して無謀な作戦に駆り出されて無駄に命を落とし、
残された家族も無事だったとは言えない。
平和になったのはそれらの悲劇が終わってからの出来事であって、英霊たちの尊い犠牲が直接平和を
もたらしたわけではない。
私は反戦主義者だけど、世界中から戦争がなくなればいいなんてこどもみたいな夢を見ているわけじゃない。
意志決定のゆるさや現状認識の甘さという日本の組織の悪いとこが直らない限り、
「死んでも契約取ってこい!」とぶち上げて仕事した気になってる営業部長がいなくならない限り、
複雑なんだなー今回の問題。国内や世界情勢の知識が色々備わってないと正確に把握できない。
あと、あらかじめ先に言っておくと、客観的に見て分かるように、右翼サイドも左翼サイドも悪い点があるということです。「どっちだけが一方的に悪い」ってほど簡単な問題ではなさそうです。
2. ISISがブチキレる。
・日本は(というか安倍政権)はアメリカとべったり路線なので、アメリカと関係が深いイスラエルも支援したかった。
・日本にある武器輸出三原則を変えてまでもやりたかった。それもそれで物議をかもす。
イスラエルというのはユダヤ人で構成されている。アメリカは優秀な少数のユダヤ人に掌握されてる面があって、じっさいアメリカの政治家や権力者にもユダヤ人が多い。なのでユダヤ人やイスラエルにあまり逆らえない。ちなみにアインシュタインもユダヤ人。
技術大国イスラエル 日本企業も熱視線:ワールドビジネスサテライト:テレビ東京 http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/newsl/post_82655/
ユダヤ教とイスラム教の聖地が両方ともその辺にあって、競合しちゃってるのが原因。しかもイスラエル軍が無駄にパレスチナ人を殺しすぎている。ひどい。でもアメリカはそれをあまり非難できない。イスラエルは中東らへんの周辺諸国に嫌われている。
・2001/9/11を発端とした、アメリカのテロとの戦いがある。
テロは悪いことなんだけど、それに対する報復戦争のやり方もマズかった。誤爆が多かったし。それがテロリストと無関係な穏健なイスラム教徒や中東の人からの印象も悪くさせた。報復と報復のいたちごっこになっている。
・少し話しそれるが、第二次世界大戦でアメリカがドイツでなく日本に原爆を落としたのは、民族的に近いほうだと抵抗感があったが、日本はそれがが少なかったから。という説がある。イエローモンキーだから。それと同じノリで「民族ちがうし抵抗感ないしテロむかつくしテキトーでいいんじゃね?」と誤爆しまくったんじゃないのかなぁ、と思っている。アメリカってあまり反省をしない気がする。ちなみにアインシュタインは大統領に原爆を進言したのを悔やんでいたそうです。
・そういうのもあって、昔(911前くらい?)までは中東からの日本への視線は同情的なものもあったらしい。なんだけども、「中東からの印象悪いアメリカ、イスラエル」に対して、日本がいままで以上に踏み込んでべったり路線になり、武器を売って支援しようと言うのだから。そりゃあその印象の悪さがそっくりそのまま日本にも適用される。同情の念も薄らいでしまう。
今、このタイミングでネタニアフと会う意味をまったく考えない安倍ちん - みんなどこか変わってるから大丈夫 http://d.hatena.ne.jp/mzponta/20150120/p4
2014/8月の時点ですでに捕まっていたらしい。日本政府は今まで何をやっていたのか?については、まだ調べてない。でも2番で挙げたような情勢を鑑みたら、そんな人質がいると把握している状況なのになぜそんなタイミングでイスラエルに武器輸出をすると言い出したのだろうか?そんなことしたら、こんなことになると予見できたのではずでは無いのか?
テロ組織に人質身代金払ったら、テロの勢力拡大に加担してしまうことになる。だから払えない。それは皮肉にも先述の「イスラエルに武器輸出したらどうなるか」と似ている。天唾ブーメランなのだ。
日本のマスメディアの「人命を救うためにお金を払え!払わない安倍政権は非人道的だ」という意見は全くの逆でしょう。人命を救うためにはテロ組織を拡大させないことが重要。wikipedia見るとわかるけど、いまもなおISISは周辺を侵略しまくって領土拡大しています。マスメディアがやりたいのはどんな手段を使ってでも安倍政権を叩きたいだけ。テロリストに加担してでも。政権叩きよりも他に優先してすることあるだろ?という状況でも。
身代金を出すなんてしたら、穏健派(非過激派)を怒らせてしまう。渋谷のモスクで人質解放の祈りを捧げてくださっているイスラム教徒たちも怒るレベル。
「ヨルダン人パイロット」とか、ISISが要求変更して捕まってる刑務所のテロリスト解放しろと言ってきたこととか、その辺はすみません把握できていません。
NHKスペシャル|追跡 「イスラム国」 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0201/
午後9時00分~9時49分
ふつうに客観的にみて選挙のシステムに色々問題点がある。低い投票率、パンダ議員、一票の格差、小選挙区と比例代表の問題点・・。
でもどんなにプロセスに問題があっても、建前上・対外的には、結果的に有権者が政党を選んだ・信任したことになります。
で、
このメディアリテラシーの低さや、世界への関心の低さで定評のある日本人のなかで、
この記事で調べてある程度まで把握できた上で考えたり発言をしている人は
一体どれだけいるのだろうか。という疑問。
ISISの声明は、日本国内の反政府組織や左翼に対して大義名分を与えている。それもあるけど、「言葉通りの意味」も一理あるのだと思う。つまり、国内でも色々あるけど結果的には「有権者が安倍政権を信任したことになる」わけだから、そんな政権を信任したような日本人(有権者)が悪いんだよ。と。安倍政権をおろせばすべてがうまくいく、とかそんな話でもないです。民主政権を思い出せばわかるでしょう。じゃあどうしたらいいんでしょうね。
平たく言えばこういうメッセージということ:
日本人の政治問題への無関心について自省的な態度で見ると、そう受け止めることができる。
いい歳した大人の有権者の日ごろの行いって、世界につながっているんだなぁと実感した次第。
※ほかにも、イスラム教のシーア派/スンニ派/アルカイダ/ISISの関係とか、過激派/穏健派とか、アメリカは石油を確保するために中東とそれなりに仲良くする必要もあったり、日本とアメリカの安全保障上の関係とか、集団的自衛権とか、いろいろ背景について調べるポイントはあります。
ユダヤ人といえばナチスに迫害されたことが有名ですが、ユダヤ人にも嫌われるだけの原因があったということです。だからといっても迫害は絶対悪ですが。
http://anond.hatelabo.jp/20150124122808
ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。
フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika
『男性権力の神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性の社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。
彼が目指しているのは女性差別と男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。
フェミニズム議論は「男性は女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、
「なぜ男性は女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性が女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、
男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
http://anond.hatelabo.jp/20150125113634
他人に価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。
人間はゲームの初期設定のように平等なスキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、
体力10+知力10+魅力10=総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間が存在するのが現実だ。
欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。
個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーとミサンドリーの殴り合いになる。
人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在を必要とする。
そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。
自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、
事故や病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき、精神的なクラッシュを迎える可能性がある。
また、テクノロジーの進歩によって、自分の役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。
親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。
他人に求めていただくこと、他人に価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。
特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。
「女性が待ち」の構図は戦前の男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya
女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性の格差を隠すことができる。
女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。
男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、
女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。
「男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。
たかが一人の女性に必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。
性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。
ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、
客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。
「強い男女」同士が同僚・友人・恋人・配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。
「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。
昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たちの未来」では、73歳の高齢男性が篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。
数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺の40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。
夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様や氷川きよし、K-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。
こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。
しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである。
ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。
受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、
弱者に、強者の個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。
現実どころがオタクなのに二次元でも恋焦がれるほどにキャラを好きになった経験が無いけど、恋愛(というより一目惚れ)してみたい。
今の悩みは一言、これですんでしまうのだけど、長くてわかりづらくていいから経緯が読みたいという方は下も読んでみてください。ですとあるがごっちゃになっているけどもう修正する気が無い…。
年齢、だいたい平成と同じ。これで紹介できるのは楽なところ。
現実での恋愛経験全く無し。まぁこれはいくらでもいると思うので細かいことは省く。学生の頃から恋バナには全く興味が無い人。もちろん現在もそうで、同僚との話への反応の仕方すらよくわかっていない。
後は小さい頃から順に印象に残った作品と自分の恋愛観(正直無いに等しい)と。作品についての説明は面倒なので省いてます。
幼少の頃はトトロやセーラームーンなどが好きな普通の女の子だった。また親の本棚にあったうる星やつらや宇宙家族カールビンソンが大好きだった。両親共にSF好きだから仕方ない(正確には好みはかなり違ってて、父はハード寄りで機械の細かい描写がある作品が好きだが母は面白ければスペオペ含め何でもいい感じ)。すりこみかどうかは知らないが、「見ていて好きなキャラ」ではなく「いつも一緒にいたいキャラ」ではまずトトロのおとうさんとカールビンソンのおとうさんを挙げる。つまりリアルメイでありリアルコロナであった(サツキの年になっても料理をうまく作れなくて親にツッコミくらったりしたが)。まぁ、小さい頃はカールビンソンの方はシリアスな部分を理解できなかった事もあるのだが、理解した今でもおとうさん大好きです。
小学生の時、親が買ってきた空想科学読本にはまる。考察好きなことや理系への道はこの頃からできていたのかもしれない。高専の図書館に置いてあったまんがサイエンスもこのくらいの時に知りたかったな…。後空想歴史読本リメイクして下さい、主にトップをねらえ!に続編ができたことに関してどのように書かれるか非常に気になるので。
犬夜叉とらんまにはまり始めてから中学校に入り、オタクな先輩と知り合い、二次創作の存在を知る。そして同人誌を知らなかった私に「こんなのだよー」と貸してくれた…のだが、それはBLの18禁物だった(なお先輩は主にジャンプ系漫画が好きな腐女子である)。トラウマと言っていいのかわからないのだけど、衝撃的なことは確かだった。原作からそうならばまだ踏ん切りがつくが、原作でそういう行動を全く取っていない組み合わせでそんな行為をするということが当時全く理解できなかった。そのせいでしばらく「同人誌は18禁しかない」と思っていた時期があった。今は他のもあるってわかってるけど。未だにコミケは行ったことが無い。決して嫌いなのではなく、人混みが苦手なだけ。
その後高専で銀魂にはまる。と言っても主に「江戸時代末期に外国人じゃなくて異星人がやってきた」というSF的背景となんでもありっぷりが好きで、なのに前の経験から18禁要素がかなり苦手だったのだが、結局一応ちょっと慣れる。といっても度を超えた下ネタはやっぱり嫌いで、例を挙げるならタマ菌やサラダ婆などの話は今もまともに読めない。一番好きなのは蓮蓬篇。基本良くも悪くも原作本位な自分だけど銀魂だけはアニメの方が好きになってしまっている。
会社に入ってからは忙しくなってしまったためか、新しく好きになった作品は少ない。一応挙げるならポヨポヨ観察日記とかキルラキルとか。そもそも本棚のスペースが無いというのもあるが…でも来年のりんねアニメすごく楽しみ。
…これだけだとほぼ先輩のせいじゃねーかと言われそうだけど、元々私は二次元ですら恋愛に疎い。幼少の頃からの二人を除いた好きなキャラは見た目というより行動などで大体決まり、また人というより集まりを表して好きだったりする。キャラよりも作品世界が好きな感じ。
例えば私が一番好きな作品と聞かれて即挙げるらんま1/2では、乱馬とあかねと良牙の三角関係が見ていて非常に楽しくて好き。笑える三角関係は大好きらしく、同じ理由で犬夜叉では犬夜叉とかごめと鋼牙。銀魂は万事屋の家族っぷりがいい。
うる星、らんま、犬夜叉と来てますが、めぞんは…ええと、四谷さん見てて面白くて大好きだよ!(つまり恋愛な方はよくわかってない)
また空想科学読本の影響か、キャラに対して考えることもキャラに何かしたりさせたいというよりはキャラの行動の背景など考察の方をよくする。
例えば、特に好きな良牙については土産の内容から何巻と何巻の間ではこのような旅をしていたとか、どこの県へ何回迷ったことがあるとか、爆砕点穴で間違って地下鉄に出ちゃったりしないのか、20巻の決闘の完成型獅子咆哮弾でグラウンドにできた穴の大きさはどれくらいなのかとか、電柱を抱き折る腕力とか。これらの中で実際に行動に移したのは「どうやって複数バンダナを巻いていたか」くらいだが、五枚くらい頭に巻いただけで結び目がひどいことになったし、一枚の下に何枚か薄く入れてみようにもきつい上に一枚ほどいたら当然全部落ちるので謎のままだった。その辺で売っている物ではなく非常に薄いバンダナかもしれない。実際二巻であんなに巻いていた後、恋の釣り竿の話では一枚しか巻いてなかったので本人もきつかったかもしれない。空想科学漫画読本ではうる星のしのぶのお手机が楽しかっただけにらんまが変身体質の方を取り上げていたことが個人的に残念でなー、この辺だったら面白い結果になっていたと思うんだが。
…とまぁこういう話ならいくらでもできるのだけど、三次元でも二次元でも恋愛話は全然できない。あと元ネタ探しも大好き。うる星もカールビンソンもケロロ軍曹も銀魂もいったん元ネタ調べ始めたらどこまでも止まらなくなる(どれもそういう作品だけど)。
大抵私が好きになるキャラには既に原作で相手がいるので、その時点で相手のことを考えてしまって一線を越えるような妄想は全然しない。「好きなキャラに何かされたい」という発想自体が中学で夢小説という物を知るまで出てこなかったし、夢小説は好きではない。そのためもし二次元の世界に行っても自分がやりたいことは好きなキャラを遠目で見て行動を楽しむという、ここにいることと全く変わらない状態になる。でも友引高校や風鈴館高校のドタバタした雰囲気は味わいたいからせめて一生徒となって騒動に巻き込まれるくらいはなりたい。特にうる星12巻の面堂邸のすごろくは是非参加したい。でもキルラキルの一般生徒だけは勘弁な!
それから結構人間的な(?)機械のキャラが好きらしく、前から敵は海賊のラジェンドラ、ナイトライダーのKITT、ロストユニバースのキャナル、ケータイ捜査官のセブン、そして比較的最近なガルガンティアのチェインバーでみんなでマスターへの愚痴やら何やらで盛り上がってみたいなという妄想はしている。極端にキャラが崩れていなければクロスオーバーは大好きです。多分一番はっちゃけるのがキャナルで、淡々と話すのはチェインバーだろう。あ、どんなデザインになってしまうのかはおいといて、iPhone(siri)に手足がついて自分で動けるようになったらこの中に入れちゃっていいかも。最初はあんなにお茶目だと思わなかったし。例えAIに心は無くても、応対している側が心があるように思うことができるならもうそれは心を持っているも同じ、それが自分の持論。…やべえ話題ずれすぎた。
こんな状態なので、高専に入って「自称『少し腐女子』」な親友にツッコミをくらうまで○○×△△の組み合わせはどっちでも同じ意味だと思っていたほど恋愛についての知識はあまりない。だってかけ算ってどっちに入れても答え同じじゃん。最近いろいろ言われているけど。世界観で惚れた銀魂をその親友に貸したら、「高杉さんすごいいいね!!」と言われたので、ああ感性の違いってこういう物なんだなと思っている。親友のおかげで今まで検索しづらかった単語を知ることができました。朝○○って何とかいろいろ聞いてすいませんでした。本当にすいませんでした。多分存在すら知らない単語はまだまだいっぱいある。(さっきのかけ算については最近別の人から「あれはベクトル積で考えればいいんだよ」と言われてようやくすっきりしてます)
親友とは去年の銀魂劇場版で久々に会って一緒に見たけれど、「銀さんかっこいい!高杉さんもかっこよかったけどもっと出てほしかった!!」という親友と、「この世界はパラレルワールドが全く無くて、一つの世界をどのように書き換えていくかなんだなー。今の銀さんの前には三人か四人ほどの銀さんが犠牲になっているようで…」という考察をひたすらがんばっていた私の差。相変わらずすぎて互いに安心してました。
…ところで、上の通り蓮舫編大好きなんだけど、未だに服の襟以外のエリの意味がわからないです。
憧れの女性キャラはいます。こわしや我聞の森永優。頭良くてさらに楽しい人になりたい。憧れの男性キャラは今のところいない。なぜだ。自分が何フェチなのかすらよくわからない。というかフェチって熱狂的に好きな部分って意味でいいんだよね?
…できれば動物のお医者さんのスナネズミのように、細かいことは何も考えずに人生を過ごしていきたい。できれば。
そんな私がどうして恋愛をしたいのかというと、年齢的なこともあるっちゃあるし、一人っ子なので将来が不安というのもあるのだけど、マンガ的な表現の一つである「ドキッ」や「キュン」を実際に体験してみたいため。
昔、保育園のお絵かきで、走る人の横にしずくをいくつか描いたら他の子に「これなあに?」と聞かれた。「汗だよ」と答えたけれど、「汗って体に流れるんじゃないの?」と言われて、しばらく言い合いになったことがある。マンガでは焦ったりする時によく汗がいくつか散っているけど、スポーツでも無い限り実際はそうならない。ただ、比喩表現として使われているだけなのだ。
じゃあさっきの「キュン」などはどうなのか。こればっかりは考察で解決できる問題じゃない。多分自分で体感しないとわからない類い。恋に落ちると本当にそういう感覚がするのか、もっと別の擬音になるのか。卒研発表よりもずっとドキドキする物なのか。未だに自分が恋愛的な意味で何が好きなのかすらわからないけど、二次元相手でもいいからそれを知りたい。もしかして恋に恋するってこういうことなんですかね。…もし本当に恋をしたら、その時はまた考える。なるべく恋をしても周りが見えなくならないようにはしたい。
最後に、エロもグロも苦手だけど例外的(?)にNHKスペシャル人体は大好きです。特にミトコンドリアが大好きでもうあの緑色にMとついた宇宙貨物船っぽいイメージしかありません(やってることは運ぶよりも工場に近いが)。この番組、もやしもんとかと同じくらい知られてもいいと思うの。キャラのベクトルは全く違うけど。
作用が強烈で死に至るような本当に危険なのが出てきたのはここ1年ぐらいだ。
理由は、片っ端から定番の脱法ドラッグを違法にしたので、逆に危険な成分が跋扈するようになったからだ。
大麻がタバコよりも健康への悪影響が低いのではと言われているのと同様に、たいして危険なものではなかった。
昨夜のNHKスペシャルで死亡者数が前年比で10倍になったといわれているが
死に至るような危険な成分が流通するようになったのは、取り締まりが厳しくなったのが原因
危険ドラッグを擁護する気はないが、死者が10倍にも激増したのは明らかに取り締まりの厳格化が原因だ。
成分を規制するのではなく、精神の変容を目的とした薬物を広く網にかけるような方法をとらないと
死者が増える一方だとおもわれる。
認知症の徘徊老人を特集したNHK スペシャル「”認知症800万人"時代 行方不明者1万人 ~知られざる徘徊の実態~」をこの前に見た。徘徊して保護されるが、自分の名前や住所を言えず施設に収容される。そのまま7年という人もいた。NHKが朝のニュースで、その人を放送したら家族が見つかったという。名乗り出た家族がエライ。放送を見たとしても無視していれば、厄介者がいなくて生活が楽なはず。それにもかかわらず、自ら手を挙げるのがスゴい。誰かから教えてもらったのであれば、無視できないので行動するしかない。もし、家族が無視したかったのであれば、真の意味で余計なお世話だ。保護していた施設からの請求書が怖い。
壊れた人間のために正常な人間が足を引っ張られるのは問題だ。回復不能であれば施設に閉じ込めるのが、全ての関係者にとって最善だと思う。介護する家族、加害者の責任と問われる可能性のある家族、認知症の本人、危害を加えられる可能性のある地域住民、儲かる介護施設。わたしはジジババとの交通事故が心配だ。実際はジジババが悪くても、ルールとしてはクルマが悪くなる。
徘徊老人にはサイバネティックスでGPS 発信タグを埋め込めばよいのに。それがイヤなら、老人にとってなじみ深い刺青を入れればよい。名前と住所を入れる。全ての衣服に名前を書くよりスマートだ。心配点は皮膚にハリが無くヨボヨボなので、入れ墨できるのか?ということだ。
http://ameblo.jp/tokutake-satoko/entry-11835477480.html
なぜ、女性が非正規に押し込まれているのか。
番組中でも言っていたけど、いまだに「女性労働者は父親か夫に養われているのが前提」。
なぜ、シングルマザーが増えているのか。
ビフォー均等法の世の中では、殴られようがモラハラされようが、離婚すると食えないので女は別れなかった。
女の働き口が増えたことにより、女には離婚するという選択肢が提示された。
暴力やモラルハラスメントは「夫婦ってそんなものでしょ」という認識だったが、世の中の認識がDVに変わり、離婚理由として認められるようになった。
シングルマザーを作り出しているのは、時代の変化を無視して殴り続ける・モラハラし続ける男である。
なぜ、生活保護が利用されていないか。
貧困下に居るとメンヘラ化することが多い。窓口で断られるのが怖くて申請ができなくなる。
単純に制度を知らないとか、メディアで叩かれている様子を見ておびえたりとか、手続きのやり方がわからないといった理由もある。
信じられないくらい手続きが下手糞な場合、重度のうつ状態か、軽度の知的障害の可能性もある。
母親が看護師なら母子家庭でもさほど貧しくないが、その他の職業の場合、ほぼ貧困化している。
貧困家庭の父親は産ませっぱなしのゴミであることが多い。浮気して離婚して慰謝料未払い・養育費踏み倒しという連中も多い。
なぜそんな男どもが子孫を残しているのか。ビッチっぽいブスを(最初だけ)丁寧に口説くからだ。
はてなに居るような男はプライドが高く、美人しか女として認めておらず、ブスを見下し、誰のことも口説かない。
シングルマザーになるような女は、自分の価値を認めてくれる男なら誰でもいいくらいに思っている。
なぜ企業や人がビッグデータに惹かれるのかというと、情報を持つことは無条件に快感だからだ。逆に持たれることは不快だ。
なぜならわたしたちは社会の中で有限なリソースを取り合う敵同士であり、他人の情報を持つ=社会の中で優位に立つということだからだ。
(というのは前も書いた http://anond.hatelabo.jp/20140222201724)
企業と消費者の間には情報の提供取得においても圧倒的な力関係があり法はこれを是正する必要がある。
本来不必要な情報の取得と第三者提供の許諾を求めるような契約は違法、無効とされるべきだろう。
https://twitter.com/hayano/status/440109004715347968
が、悲しいかな権力は安定した国民の統制を指向する物であり国民の情報は垂涎の的だ。
現在は戦前戦時の大日本帝国政治への反省から、権力による国民の情報へのアクセスは制限が課せられている。
そこに市場からもちかけられた、情報の取得提供に対する感覚を麻痺させようという流れは願ってもないことだろう。
そして近代の法と国家の役割を再確認させ企業に鎖をつけさせねばならない。
とか、左翼ぽく言ってみた。
あの辺の人とかがしっかり焼いといてくれねーかな
安倍首相がてんぷらを食っていた大雪の日に私もてんぷらを食べていたことがきっかけでこの問題をけっこう考えているんだけど、
そもそも前提って「大雪の日に安倍首相がのんびりしていて不謹慎」って問題でいいの?
個人的にてんぷら食っていていいのかを判断するのって、当時安倍首相にすることがあったかどうかってことなんだけど。
だから色んなところや人に「当時安倍首相にすること、もしくは平時に比べて緊急で判断する事項が発生する可能性の高さ」があったかどうかを聞きたいんだけど
誰も教えてくれない。
あと、個人的にはそんな状況で首相が判断しなければならないようなことがある方が恐ろしい。
自衛隊にしても災害基準定めて、それを超えたら裁量というか自動的に自衛隊派遣される仕組みであってほしいし。
知事の判断って何よ。
そんなもん知事だって初めてなんだから分かんないじゃん。かわいそうじゃん。
そういう意味で首相に特にすることがないんだったらそれはきっとある一面はいいシステムだ。
次に起こった時はどう対策するのか?っていうNHKスペシャルとかでたまーにじみーに特集組まれてるようなこと話したいのに誰も盛り上がってくれない。
俺さびしい。
でもあの件の首相のふるまいの是非基準がそれだけって。それだけってちょっとなぁ…。
その先にあるのって「綺麗なことだけしゃべってる無能」になるよな。絶対。
『生野区連続通り魔事件』の削除について 該記事は特筆性無しとの主張により数度の削除を経て、現在削除(白紙保護)という状態に陥っています。 経緯 ①(初版作成) ②Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130526(削除5、存続4)、管理者Muyo(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ③Wikipedia:削除の復帰依頼/生野区連続通り魔事件(復帰26、削除15)、管理者Freetrashbox(ノート/履歴/ログ)氏により復帰 ④Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130618(削除31、存続26)、管理者Triglav(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ⑤(復帰強行) ⑥Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件20130629(削除8、存続1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時削除、白紙保護 ⑦Wikipedia:削除の復帰依頼#生野区連続通り魔事件 - ノート(復帰1、反対1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下 ②③④ の段階では削除、存続意見が拮抗している状況が伺えます。つまり、特筆性無しでコミュニティでコンセンサスが得られている状況ではありません。しかし、④ の段階で削除が実施され、⑤にて手続きによらず復帰強行、⑥にて即時削除(白紙保護)がなされています。そこで、⑦にてわたしのほうから手続きに則り復帰 依頼をかけましたが、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下されてしまいました。事由としては<同じことを繰り返すな>ということですが、そもそもわたしの理解ではコンセンサスなき削除状態をただす依頼であったため、<同じこと>という認識は誤りだと考えています。 本件につきまして皆様のご意見、果たして特筆性無しというコンセンサスが得られているのかどうか、をお聞かせください。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月29日 (土) 14:54 (UTC) コメント ④の削除は、②の削除で合意不十分として③で復帰した経緯を全く無視したものに見える。よって⑦が提案されたものと考える。しかし、この経緯が理解されなかったらしく、⑦が即時却下されたため、まずここで認識の違いを埋める作業が必要だと考える。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月29日 (土) 16:23 (UTC) コメント この中で一番問題なのは⑤ですね。なので⑥は当然の処置、⑦は却下されて当然です。一方、②から④の判断が適切だったかどうかは削除依頼を隅から隅まで熟読していないので、判断は控えます。--JapaneseA(会話) 2013年6月30日 (日) 01:11 (UTC) コメント ②および④では、「特筆性あり。存続すべき」ということの妥当性を保証できるような情報がついに提示されなかった、ということでしょう。ですから、少なくとも④については、それぞれの経緯を踏まえた上での、問題のない判断だったと言えます。(個人的には、③では「復帰すべき」とするコンセンサスが得られていない状況だったので、復帰が適切だったのか、少々疑問に感じています。結果論ですが、あのまま「復帰せず」でも良かったのではないかと・・・)⑤は行為として最悪なので論外、⑥は当然の処置、⑦は却下されても仕方がないでしょう。⑦は、削除状態を「正す」のではなく「質す・糾す」依頼であったというふうに私の目には映っています。--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 02:26 (UTC) コメント 各依頼について、 ②の時点では存続意見より削除意見のほうが妥当(この時点から資料にニュースでは不十分、以後の経過次第では復帰可能と示唆されています)。 ③については削除依頼で不参加の利用者が多く参加した(何故最初の削除依頼で意見を言わなかった方々がこれほど参加したか原因は予想できますが)ため、意見の合意が出来てないという理由。 ④については意見が十分に出尽くしWP:DP#CLOSEで言うところの『審議がまとまった』(自分は削除意見と存続意見の大勢が出揃ったと解釈しております、意見がまとまったという意味ですと『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあります』と相反するものになるので)ところで、削除意見のほうが理にかなうという判断。 ⑥はGFDL違反が絡む案件。 ⑦は新たな材料が無いため③,④の焼き直しとなることは自明。 現状ではこういう解釈をしており、どの管理者の行為についても問題は無いものと考えます。そもそも特筆性を問題にされている案件なのに二次資料の提示がされないことが現状での特筆性の無さを示していると考えます。よそでも言ったのですが『現状では確認できる資料が新聞レベルでありその域を越える資料が提示されていないため、特筆性(WP:GNG)を担保する二次資料(WP:PSTS)がないためウィキニュースか最近の出来事止まりということです』。 ④において無効撤回も含め賛否コメントの内容を大分すると 削除意見「現状特筆性が無い、特筆性を裏付ける資料が無い、特筆性を担保する資料が出てきてからでも遅くは無い」27「ウィキニュースの範疇,報道量の不足」4「雑報である、単なる嫌韓感情」1 存続意見「犯行理由等が特異,人種にまつわる事件」10「特筆性の理由は不適」1「特筆性はある、資料は十分」11「ネットニュース,削除依頼などで多く関心を持たれている事が特筆性の証紙」3「発展性がある」3「削除に足る要件を満たさない」2「議論不十分」1「事件の大小は問題無く十分百科事典的」1--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) 分量が多いので若干見落としがある可能性などは否めませんが、だいたいこんなところです。加えて一度コメント入れて議論しない方もいますので編集者間の審議の合意は無理です、審議の内容であるコメントや議論に基づき管理者・削除者が削除の提案に合意をすることはあるでしょうが。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) コメント 大勢という文言を使ってらっしゃる方がいますが、基本的にWikipediaは多数決ではないと思っています。ですので、④の時点で「削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています。この間違いを糺そうとしたのが⑦の当方依頼および今次の議論提起です。削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です。多数決ではないんです、コンセンサスが取れているかどうかなんです。何回も書いているんですが、ここの観点でのご意見を伺っているのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:21 (UTC) コメント ヒートアップしすぎです。お茶でも飲みましょう。いま、生野の件の参加者を平等に招集したところでありますから、皆さんの意見を聞きましょう。 もう一点。返信を乱発するのはよくないので、私のコメントの一部を撤回しました。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月30日 (日) 05:30 (UTC) 仰ることはわからないでもないのですが、本議論を提起したことによりこちらWikipedia:投稿ブロック依頼/BlueSkyWhiteSunでわたしにブロック依頼がかけられています。わたしがブロックと決したならば、本議論も自動的にクローズとされてしまうでしょう。あまり時間は残っていません。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:37 (UTC) 『大勢』は『たいせい』であり大体の状況という意味です。すなわち削除意見、存続意見が大方出揃いコメントの傾向が定まったということです。 元々の英語版の『Wikipedia:Deletion policy』にある『Deletion discussion』によると「削除依頼に参加する編集者は削除するか否か見解を出せる」「可否は多数決により決まるわけではない」「参加者は各々が自分の見解について説明し方針を参照する」といった内容であり、利用者の間で合意形成をするのではなく、利用者各自が見解を述べ管理者・削除者に対し合意を得るというのが本義であると考えます。そういった意味ではWikipedia:削除の方針の削除依頼のところは主語が省略されており誤解を招きやすい表現です。 自分は削除依頼は利用者の間で合意形成をするものでは無く、個々人の意見が集まったところで管理者・削除者が判断し閉じるものであると解釈しております。今回の件に関しては存続方の見解が削除方の見解に比べ具体的な証左に欠けていたのではないかと考えます(特に資料が新聞・ニュース止まりで特筆性を押し出すには力不足であったと見ております)。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 08:03 (UTC) すべての合意は利用者間でなされるものと理解しています。管理者等は利用者間の合意に背くことはできないと存じます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 09:47 (UTC) 特筆性という『弱い』制約にしたがって削除するには合意のレベルが低い。合意が取れているのか自体も明瞭でない。--60.34.102.131 2013年6月30日 (日) 07:46 (UTC) コメント 「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています」とおっしゃられている方がいらっしゃるのでコメントします。そもそも、④の時点で「削除票が存続票より5票多いから削除しました」などという低レベルな判断・処置が行なわれたのではなく、削除票、存続票の中身をよく吟味し、検討して、総合的な判断の結果として、④で対処なさった管理者の方は「それぞれの投票時のコメント内容を見る限り、削除が妥当」と判断なさった、ということです。ですから、「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当』という解釈」があったかどうかということは問題になりませんし、④の時点での管理者の方の判断には「糾す・糺す」必要のあるような間違いもありません。「削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です」とのご意見については、結局のところ、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんから見た場合に、意地悪な言い方をすれば「全有効投票数における削除票の占める割合がある一定量以上でないと『削除』という判断を下せない」ということになってしまいます。そもそも、「削除票が相当な大勢を占めねばならない」とする根拠が不明です。ウィキペディアでは票の数でコミュニティのコンセンサスが得られたかどうかが決まるわけではありません。投票の際に、どのような理由を述べるか、が重要なのです。ぶっちゃけた話、仮定の話として「方針文書・ガイドライン文書と照合した上で、具体的に理由を述べた削除票5票」と「個人的・主観的な理由を述べているだけの、適当な理由付けの存続票5票」があったとした場合、表面的には「票が同数」ですが、これは「存続」以外では判断できないということなのでしょうか。そういう事ではないと思うのですが・・・。「多数決ではないんです、コミュニティのコンセンサスが得られているかどうかなんです」との仰せですが、一連のコメントを拝見する限り、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めねばならない。大勢を占めていなければ「削除が妥当」とするコンセンサスが得られたことにならない」という意見は、削除票を不当に軽く扱うものであると思います。その理屈ですと、「票の中身を検討する必要性」が度外視されているように感じますし、何よりもまず、「削除票と存続票の扱いや重さに極端な差をつけている」ように感じますが、ウィキペディアにおける「票」の重みは、「投票時のコメントの中身」によって決まるのであって、「削除票だから軽い」「存続票だから重い」というわけではありません。削除票が相当な大勢を占めていたわけではないことをもってコミュニティのコンセンサスが得られていないとするのはかなり無理があるのではないでしょうか。投票時のコメントの中身や説得力次第では、表面上の票数とは関係なしに、票数が少ない側(④のケースだと、「削除」側)の主張が通るケースもあるでしょう。しかし、④のケースでは残念ながらそうではなかった、ということでしょう。長文失礼いたしました。(結局のところ、「④の判断は誰が何と言おうと間違っていた。④の削除処置を糺し、正すために、記事を復帰すべきだ」ということなのでしょうか)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 08:18 (UTC) コメント そういうあなた自身が存続票の存在を不当に軽くみているとしか思えません。中身中身と仰いますが、一体どこで削除票には中身があり、存続票には中身がないということがあきらかになったのでしょうか。存続票に中身がないといっているのはあなた個人であってコミュニティはそのような判断はくだしていません。くだしていない以上、双方の見解票は同等の重みをもって扱われるべきでしょう。なお、「正す」「糺す」論については本論とは無関係なため割愛させていただきます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) 返信 (BlueSkyWhiteSunさん宛) 票の「中身」は管理者の方が判断材料としてよく読むわけです。そして、その結果として、記事は削除になったり存続になったりする、ということです。私は「存続票に中身がない」とは一言も申し上げておりません。強いて言うならば、存続票が削除審議に与えた影響力の結果は、管理者の方々のご判断(処置)に現れているのではないでしょうか。なお、「(存続票の中身についての判断をコミュニティが下していない以上)双方の見解は同等の重みを持って扱われるべき」とおっしゃられていますが、そうであれば「(削除票の中身についてもコミュニティが判断を下していない以上)存続票と削除票は同等の重みをもって扱われるべき」ということです。ということは、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という意見は説得力を失います。なぜなら、票の重みについていかなる予断もないはずの状況で、最初から「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」(語釈に忠実に言うならば「削除票は議論において相当な力を持つ中心勢力・メインストリームとならねばならない」となるでしょうか)とすることは妥当性がないからです。「相当な大勢を占めない限り、『削除票』を投じても記事は削除にならない」ということであれば、存続票に比して、削除票がクリアすべきハードルが高い(「相当な大勢」を占めねば考慮されない)という状況を招きます。しかしながら、「双方の見解は同等の重みをもって扱われるべき」であるおっしゃれたということは、「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という見解は撤回又は否定されたものと考えられます。なぜなら、「削除票の側だけ、クリアすべきハードルが高い」ということはなくなるからです。(翻って、存続票について考えた場合、存続票も「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」とお考えなのであれば、まだ話はわかりますが、一連のコメントを拝見する限りはそのようなお考えは読み取れませんでした)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 11:06 (UTC) あー、ごめんなさい。同等に扱われなければいけないのは「双方の見解」ではなく、「双方の票」ですね。これはわたしの2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC)のコメントを読んでもらえればわかると思います。それと作成された記事はWikipediaでは存続が基本です(誰でも勝手に記事作成はできますが、誰でも勝手に記事削除はできませんよね)。記事に対して削除すべきというのであればそれ相応の根拠がなければいけない。その根拠をまとめたのが削除の方針です。削除の方針を適用するためには根拠を述べて審議を通さなければいけないのです。なかでも削除方針ケースE(特筆性)は立証が難しい、というかほぼ不可能。であるならば、コミュニティの大勢を以って判断するしかないわけです。それが最前から繰り返しているコミュニティのコンセンサスです。もし、コミュニティの大勢が一致していない場合、つまりはコンセンサスがない場合、ケースEについては削除主張者は根拠立証不可であり、作成された記事は基本存続の原則に立ち戻るわけです。つまり、「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」ということはないのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 11:36 (UTC) コメント 私はもう、この事件に関連する議論はもう疲れたのであまり参加したくないのですが、会話ページにお知らせがありましたので、お知らせがあったら必ずコメントする義務はないのですが、一応コメント残しておきます。あと機種依存文字である丸囲み数字は代替できる時には使用を控えるべきかと思いますが・・・。 まず私からすれば、②の削除措置は私個人としては問題のない事だと思っていましたが、まぁ仮に合意が取れていなかったとしましょう。そのための③があり、現に復帰しました。私からすれば、復帰する合意も取れていないので、削除の合意が得られていないとする意見に対して復帰の合意が得られていない意見が出なかったの不思議なのですが、復帰依頼で十分な人数と期間を持って議論をすべきという意味合いがあったのかもしれません。では、その間で特筆性を有する資料をどなたか提示したでしょうか?私は無かったと考えています。特筆性が「ない」の証明は複数の状況から総合的に判断するしかないですが、特筆性が「ある」と証明するのは、たった1つの資料を提示すれば済むことです。それを悪魔の証明というかヘンペルのカラスというかは分かりませんが、そういうことです。 なお、⑤に関しては論外です。仮に前の復帰依頼で削除の合意が得られていなかったとしても、それは復帰の合意が得られている事と同義ではありません。議論を無視した復帰は方針に反します。したがって⑥の削除は全く問題ありません。 そして⑦についても問題ありません。というか、この議論もほぼ同義かと思います。④の削除でも言われていますが、記事の復帰にはこれまでに挙げられたもの以外の、全員とは言わずとも10人中8人くらいが「この事件には特筆性がある」と言える資料を提示すべきです。私はこの議論に対して最初から削除派を貫いていますが、そのような資料が提示されれば考えを変えますし、提示されても尚考えを変える気がないと判断するのでしたらいつまでも納得しない人としてコメント依頼を提出するなどの事は構いません。ですが現状では、はっきり言ってしまえばそういう現状を変えるような客観的な根拠を提示せずに復帰に固執する方が納得しない人に該当するのではないでしょうか?そして、各議論で「削除票と存続票は拮抗している」という意見が散見されますが、多数決主義ではないという方針は何度も述べられていますが、仮に票数を数えるとして、存続票のどの程度が中身の濃い、具体的な意見を述べていたでしょうか?依然出た意見とかぶるものもありますが、存続票が多いのに削除を断ずるのは不当だという意見は、中身の濃さを見ずに存続票と削除票のそれぞれの重さをないがしろにする意見かと思います。 --Kiruria281(会話) 2013年6月30日 (日) 08:33 (UTC) コメント 票の中身論については上にコメントしましたので割愛します。特筆性においての削除(削除ケースE)やその他の削除ケースは、削除要件によって削除を行うものです。そして、そのケースに該当しない場合、多くの記事同様、存続が適用されるわけです。削除を訴える側は自らの主張にともない、削除要件を立証する必要があると理解します。立証が不可能であれば削除を申請することは不可能です。ケースEについてはもっとも立証が難しいものでしょうが、コミュニティとして記事の特筆性がないという判断がくだれば、立証に代えることも可能でしょう。コミュニティとしての特筆性がないという判断、すなわち、コミュニティのコンセンサスが得られるかどうかが、ケースEの適用是非を決定するということになると考えます。しかるに本件の数次にわたる投票がなされている現況を顧みれば、コミュニティのコンセンサスが得られていないのはあきらかです。それを問うているのが本議論です。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 私は②には参加してませんが、読み返すと④の時以上に、②の存続票が酷過ぎるなと感じました。5対4と言ってもスピード違反の論理な意見が二つにそれと同調する意見だけでは、他の削除票と同価値と呼べるものではないでしょう。②の時点で削除で決着ついたと言わざる得ないでしょう。その後状況の変化があったわけでも、加筆されたわけでもない④の削除が正当か不当かなんて論じるまでも有りません。⑤⑦に至っては問題外でしょう。加筆さえされて充分量の内容になったのであれば、復帰に協力でもしますが、現時点ではあり得ない話です。--あな34(須魔寺横行)(会話) 2013年6月30日 (日) 09:25 (UTC) コメント 票の中身論については上に述べましたので割愛します。充分量の内容というのはどの程度の量か、具体的にご提示いただけますか。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 論点を整理します。ケースE(特筆性)による削除は立証は難しい(これは削除側にとっても存続側にとっても同様)、したがってコミュニティのコンセンサスを以ってその有無を判断せざるを得ない。本件については長期にわたってその特筆性の有無が審議されており、直近の正常審議の行われた④の投票においてもコミュニティとしてのコンセンサスが得られている状況ではない。票の中身云々については立場によってお互いが相手の票の中身を判断して良いものではなく、基本的にその票の重さはいずれのものであっても同等に扱うべきである。なお、わたし自身の特筆性を有りとする論拠は日本では稀有(初?)なヘイトクライムであること、外部のニュース媒体からWikipedia編集に関して報道があった、こちらも稀有(初?)なケースであることです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC) コメント 二度同じことを言うのもなんですが、削除の方針について日本語版のベースとなっている英語版では利用者各自が方針に則り削除すべきか存続すべきか意見しその審議内容から削除者・管理者が判断するようです。日本語版でもWP:DP#CLOSEに『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあり
ここ数年テレビを見ることがめっきり減った。
朝、時計がわりに情報番組、夜、ニュースをつまみ食い。あとは年に数本のドラマとアニメとNHKスペシャル。その程度しかテレビを見なくなった。仕事のある男性社会人なら、以外とみんなそんなものかもしれない。
テレビを見なくなった理由は単純に面白くなくなったから。それにニュース、情報やエンターテイメントもネットで事足りるし、もうテレビはどうしても必要なものというわけでもない。
ただ、テレビを見なくなったのにはもう一つ理由があって、それは僕の内面に理由がある。僕は祝福された人生を眼にするのを避けている。
テレビは祝福された人生であふれている。基本的に成功した人々しか登場しない。
ドラマでかわいい娘を見かければ、付き合ってる男のことが気にかかる。
ニュースを視れば、テレビ局社員という恵まれた雇用者に相対しなければならない。
そういった成功に満ち溢れた彼らを眼にすると、どうしても平凡な自分の人生を振り返らざるを得ない。
祝福された彼らの人生は、祝福されることのない僕の人生を傷付け、惨めなものにしていく。
それでも僕は祝福されることのない自分の人生を大切に生きなければならない。
これはある意味自分の人生からも逃げていることになるのだが…精神衛生にはいいです。
さっきEテレで荒木飛呂彦と千住明の対談を見ていて、椛島良介がでた時にテレビをけしてそんなことを考えた。
(なのでネットでも祝福されてそうな人には近寄りません。chikirinとかDankogaiとか。上場したらはてなもやめるかな)