はてなキーワード: 初版とは
中国では新型冠状病毒肺炎诊疗方案(试行第六版)つまり新型コロナウイルス肺炎の診断と治療計画を短期間の間に6回バージョンアップして公開しています。
全文翻訳はしませんが、5から6でどのような修正があったのかをまとめた資料がありますので、それを日本語にしてみました。
急いで翻訳したので、日本語がおかしいところもあるかと思いますがご容赦ください。
新型コロナウイルス肺炎の診断と治療計画(Version 6)
2020年2月19日に、中国の国家保健衛生委員会は「新型コロナウイルス肺炎の診断と治療計画(Version 6)」(以下「Ver.6」と呼びます)を発行しました。
I.感染
感染経路が「咳やくしゃみなどの飛沫感染と接触感染が主な感染経路」から「飛沫感染と密着接触感染が主な感染経路」に変更されました。「接触」の前に「密着」という言葉が追加されました。
また、「比較的閉鎖された環境で高濃度のエアロゾルに長時間さらされると、エアロゾル感染する可能性」を追加しました。
II.臨床症状
重症の患者では、「急性呼吸窮迫症候群(ARDS)、敗血症性ショック、治療が困難な代謝性アシドーシス、凝固機能不全に急速に進行する」ことに加えて、「多臓器不全」も発生します。
臨床検査では、「核酸検出の陽性率を高めるために、できるだけ患者に気管挿管を行って下気道分泌物を採取し、採取後できるだけ早く検査に送ることが推奨される」と強調しました。
III.診断基準
Ver.6は、湖北省と湖北省外の他の州との区別を排除しました。新しく「疑わしい症例」と「確認された症例」の2つのカテゴリに分類されます。
「疑わしい症例」には2つあります。 1つ目は、「疫学歴のいずれか1つを持ち、臨床症状のいずれか2つを満たす(発熱および/または呼吸器症状;
上記の肺炎の画像特性を有する;疾患の初期段階の白血球の総数は正常または減少し、リンパ球数が減少する)。
2つ目は「明確な疫学歴がなく、3つの臨床症状に適合している(発熱および/または呼吸器症状;肺炎の前述の画像特性を伴う;疾患の初期段階における白血球の総数は正常または減少、リンパ球数減少)。
Ⅳ. 臨床分類
依然として「軽度、中等度、重症、重篤」に分類され、動脈血酸素分圧(PaO2)/酸素濃度(FiO2)≤300mmHg(1mmHg = 0.133kPa)および肺の画像で病変が24〜48時間以内に50%以上進行している場合重症になります。
高度1000メートル以上の場所では PaO2 / FiO2は、次の式に従って修正してください。:PaO2 / FiO2 [[大気圧(mmHg)/ 760] "。]
Ⅴ. 識別診断
つまり、新型コロナウイルス感染症の軽度の症状は、他のウイルスによって引き起こされる他の呼吸器感染症と区別する必要があります。新しいコロナウイルス肺炎は、主にインフルエンザウイルス、アデノウイルス、呼吸器合胞体ウイルスおよびマイコプラズマ肺炎感染症などの他の既知のウイルス性肺炎と区別される必要があり疑わしい症例は、可能な限り、一般的な呼吸器病原体を検出するための迅速な抗原検出やマルチプレックスPCR核酸検出などの方法でテストする必要があります。
Ⅵ. 症例報告
湖北省における臨床診断症例の処遇要請について”を削除します。
“疑似症例”基準は削除し、疑い例の隔離解除の基準は“隔離解除基準”と一致させました。
1. 病状により治療場所を決定する。“疑い例と確定症例”を前バージョンから削除し、“適切な隔離条件と保護条件を備えた指定病院で隔離治療を行うべきであり、確定した症例は多くの人が同じ病室で治療することができる。”に変更しました。
2. 抗ウイルス療法:薬剤を試験的に削除。“現在有効な抗新型コロナウイルス治療法は確認されていない。”と、するとともに、追加でリン酸クロロキン(成人500mg,1日2回)とアビドール(成人200mg,1日3回)”を追加しました。
リバビリンはインターフェロンまたはロピナビル/リトナビルとの併用が推奨される。治験薬の投与期間はいずれも10日以内である。臨床応用において現在試用している薬物の治療効果を更に評価することを提案する。
3種類以上の抗ウイルス薬を同時に使用することは推奨されず、重篤な毒性、副作用が現れた場合は使用を中止すべきである。
3. 重症、重篤病例の治療。“回復者血漿療法”を追加し、進行の速い患者、重症患者、および重症患者に推奨する。用法用量については《回復期血漿療法(初版)》を参照すること。
4. その他の治療措置:高炎症反応の危篤患者に対し、“条件付きで体外血液浄化技術の利用が考えられる。”を“血漿交換、吸着、灌流、血液/血漿濾過などの体外血液浄化技術の使用が条件的に考えられる。”に修正した。
5. 漢方医治療について。患者に対する治療観察を通じ、全国各地の漢方医の診療方案をまとめて分析し、各地の漢方医の治療経験を整理し、有効な処方を選択した上で、すでに印刷・配布した《新型コロナウイルス感染肺炎に対する中西医結合医療の推奨“清肺排毒湯”の使用に関するお知らせ》、《新型コロナウイルス肺炎重症、重症病例の診療方針(第二版)》と《新型コロナウイルス肺炎の軽度、普通型の病例管理規則》などを総合し、《新型コロナウイルス肺炎の治療計画(Ver.5)》に対して調整と補充を行った。前の版に引き続き疾病の全過程を分け、漢方医治療を医学観察期と臨床治療期(確定症例)に分け、臨床治療期を軽度、中等度、重症、重篤、回復期に分けた。漢方製剤は医学的観察期間に推奨される。臨床治療期に普遍的処方“清肺排毒湯”を推薦し、そしてそれぞれ軽度、中等度、重症、重篤、回復期に臨床表現、推薦処方及び投与量、服用方法の三つの方面から説明を行った。同時に、計画に重症、重篤の症例向け中成薬(漢方薬注射剤を含む)に適用する具体的な用法を追記する。各地は病状、現地の気候特徴および異なる体質などの情況により、推薦した計画を参照し、弁証論治を行う。
1.平熱に戻って3日以上;
4.連続二回の気道標本核酸検査で陰性(少なくとも間1日は空けて);
1.指定病院は患者居住地の基層医療機関との連絡をしっかり行い、カルテ資料を共有し、速やかに退院患者の情報を患者管轄区或いは居住地の住民委員会と基層医療衛生機関に送る。
2.患者が退院した後、回復期には機体の免疫機能が低下し、その他の病原体に感染するリスクがあるため、14日間の自己健康状況の監視測定を続けることを提案し、マスクを着用し、条件が整った風通しの良い個室に居住し、家族との近距離の密接な接触を減少し、食事を分け、手を衛生的に保ち、外出活動を避ける。
思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月の初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分の世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。
思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、
古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会の特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授を和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合・本地垂迹説・卜部神道・中世日本紀等々…の奇妙奇天烈な世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義、評価軸じたいが古今伝授の支配圏内で形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体がナンセンス。)
古今伝授が古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い・民族文化の精髄のように認識されていくその過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたかも胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割を果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造を捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的な断罪とか文化的価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。
本来ウイルスのもつ能力を自己の一部として、機能として取り込む。生物は自己の維持に必要な機能の一部を外部環境に依存する。ポータブル外部環境としての細胞。生命と非生命の境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命の定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだものの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。
契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念を押し付けてるだけじゃないの?とも思う。
根拠がない、合理的でない、和歌の質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?
これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授を擁護する側)にもその立場から反論するやつがいるからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人の気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからん、しかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感。いかにも科学的合理性に偏っている。
しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。
本書の示唆する構造は、外来文化を自家薬籠中の物にする日本文化の性質(漢字・仏教等々)、中世の遺制としての近世的身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。
本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまうことなく、細胞に異変があれば細胞内生物が独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。
文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教の信者でないのか?わけが分からない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか。
毎日新聞の空いたポストは若手に…「はしごをはずされた」 50歳大学非常勤講師の絶望を読んだ。可哀想だなと思ったが、ふと、あまり関係ないが、博士号持ちタクシー運転手の小話を思い出した。曰く、アメリカでは博士号持ちが多すぎて、大学教員になれずにタクシー運転手をしている人もざらだという。
しかし、この小話はどこが初出なのだろうか。漠然と1970-80年代ぐらいのアメリカの話だろうと思っていたが、最近、おそらく初出と思われる文章に出会った。
If I took a taxi in New York, I would often find that the driver was a Ph.D., who would start arguing about philosophy at imminent risk to himself and me.
この文章はバートランド・ラッセルの The Impact of Science on Societyからのもので、驚くなかれ1951年初版なのである。もっとも仮定法過去で書かれているので、タクシー運転手にも博士号持ちがいると思わせるくらい、アメリカの教育環境は恵まれている、と言いたいのだろうが。
ちなみにONE PIECEの初版が史上最多を記録したのは2010年代に入ってから。
80年代後半連載開始のジャンプ黄金期の連載陣が初版100万部を超えたのも90年代に入ってからだろう。
ざっくりで70年代1作品、80年代5作品、90年代7作品、00年代6作品、10年代3作品くらいと見るべき。
で、90年代半ば連載開始組は暗黒期でるろ剣くらいしかいないし、00年代後半から10年代前半はワンピ・ナルト・ブリーチの三本柱が盤石で新連載があまり出てこなかった時期。
つまりコミックスの売上どうこう以前にラインナップにムラがある。
この前、「すぐ打ち切る出版社はクソ。作品を想うならもっと続けてから判断しろ」というような意見をツイッターで見かけた。
流行りのWEB小説→書籍化という流れで、1巻の売上が芳しくなく続刊が打ち切られたパターンだったと記憶している。
別に打ち切り作家の八つ当たりはよくある話なのだが、俺が暇なので分析する。ブログでやってもいいんだけど、割とテキトーだからここでいいや。あとなげーし。
なお、打ち切りにも数種類の理由があるが……作家が女子高生に手を出したとか、レ〇プ描写で連載が続けられなくなったとか、そういうのは排除。
「売れなかったから打ち切り」という場合についてだけピックアップする。
あと、ジャンプみたいに「人気がないと打ち切り」ってのも除外。アンケ至上主義は実は特殊で、ほとんどの出版社は売上で打ち切るか判断している。
人気があるから売れるというナイーブな考えは捨てろ。最近はジャンプですら懐疑的になってきたのがアンケ至上主義ってやつだ。
さてさて、「すぐに打ち切る」というものは悪なのか、という問題だ。ここからは真面目に書く。
仮に悪だったとして、打ち切りは、「誰に対する悪なのか」という部分を考える。
「会社員は作品を打ち切っても給料が出る、直接的に生活に響くわけではない。不公平だ」という論法をよく聞く。
これはかなり偏った見方だ。まるで出版社は冷血な売上主義者で、作家を駒のようにしか考えていなくて、創作者を鵜飼いの鵜に過ぎないと小馬鹿にしているようにすら聞こえる。
だが仮にそうだとしても、だ。打ち切りは出版社にとっても手痛い。
ある程度売れる見込みがあったからわざわざ編集が作家とコミュニケーションを取り、内容を読み、校正部によって校正がなされ、デザイナーがパッケージを作り、印刷所が刷り、取次が配本し、書店が売るのだ。
そんな初期投資が「売れなかった」という理由で全部おじゃんになるのだから、当然「打ち切り」とは即ち「損」となる。
よって、冷血なる出版社様にとって打ち切りは悪だ。「損」は「企業」にとっての絶対悪だからだ。
だが悪ではない面もある。
初期投資が回収できなかったとしても、売れない作品を続けて赤字を垂れ流すよりはずっとマシだからだ。
「作品を打ち切れる自由」は出版社側に担保されているべきものだ。
多用なジャンルの本を作るのも、出版物を多くだすのも、返本制度を利用するのも、立派なリスクヘッジだ。
「打ち切りが可能」というのも、そのリスクヘッジの重要な一角である。
あらゆる点で、出版社というのは「作品が売れない」ことでダメージが受けないように工夫をしているのである。そうじゃなかったら怖くて誰も本なんか出せない。
「多くの作品が売れないのは問題だが、1本の作品が売れなかった程度で揺らぐ」ということはない。それを支えているのは「打ち切り」だ。
「売れない作品を、作家がNOと言えばコストを支払ってでも続けなければならない」という慣習が基本的にないことは、実はものすごく健全なことなのだ。
付記:上の文章、作品を完全に商品としてとらえていて、作品に対しての情や尊敬が全くないように見えるが、
そもそも「情」や「尊敬」なんてのはあるのが前提のもので、「特定作品が特別好き」でなければ仕事をしない編集など出版人失格だということは抑えておいてほしい。
面白いと思ったから出版するのだ。売れると思ったから出版するのだ。社会人として可能な限りの努力をした上で売れなかったから、打ち切るのだ。
次に「打ち切り」が「読者に対する悪」かというとNOだ。
何故なら売れていない作品というのは、それを商品として欲しがる人間が少ないということ。
だったらその作品を続ける労力を売れる作品=読者が欲しい作品に回した方が多くの人を幸せにできる。
正直、続きが見たかった作品が打ち切られたら出版社を恨む。キャラクター達の行く末をずっと見ていたかったのに!と怒り狂う。
だが、そこはその分の労力を作家も編集も「よりレベルの高い好みの作品」を提供するための準備であると割り切るのが互いにとって一番いいと思う。
とはいえ権利だけ抑えてWEBから作品削除させて続き打ち切るようなのはマジ許せんがな!うおお!
ここを書きだすと原稿用紙100枚くらいになるからやめることにする。
実はこれ、明確にNOと言いたい。
「売れないものしか作れないのに人生を浪費するな」という言葉だ。
実は本が売れないと、作家は生活できないのだ。「知っとるわ」と言われるかもしれない。
だが、原稿料は、安い。本当に安い。原稿料だけでは食っていけない。
なろうのようなWEB小説をまとめて単行本化するものに関しては、そもそも原稿料というものすらない。
だからこそ印税がある。印税があるから作家は食っていける。いや、大体の作家が食っていけない。だから兼業だったりバイトをしていたりする。
根本的に、
なのだ。実は、金額という意味だと作家と出版社の最低目標は釣り合っていない。
初版2万部の本を1000円で刷るとする。これ、今の大抵の出版社にとっては悪くない話である。全然採算がとれる。(初歩の話をすると、出版は「刷った段階で」、その分の「刷った部数だけ」売上と印税が出版社と作家に発生する)
だが、作家はそうも言えない。印税は10%だとして、200万円しか収入がないことになる。(かなり単純な計算だが論点がズレるのでカットする。そもそもみんな10%印税もらえてるんですかね……)
だからこそ作家業というのは割に合わない。ものすごく残酷なことを言うと、打ち切りレベル作家、そして打ち切りラインとまではいかないまでも、
なんとか食らいついていけるレベルの作家は、早めに諦めた方が人生を有益にする可能性が高い。価値観は人それぞれだが……
暖かい言葉は、「次の執筆のために早めに損切ができたね」という言葉だ。
実はダラダラ続けた場合の方が、作家にとってダメージはデカいのだ。
大きな前提がある。
『ありとあらゆる作品は、同じタイトルである限り1巻が一番売れる』
これは絶対だ。例外はない。あったとしても、マジで例外中の例外でサンプルにするべきではない。
作品の売上は、どんなに売れる作品でも絶対に1巻を先に逓減していく。
だから「1巻2巻が全然売れなくても、打ち切らないでくれ。続ければ売れるかもしれないだろ」という話は、まず破綻している。
もちろん、例えば続けているうちに時事ネタと噛み合ったとか、SNSでバズったとか、そういう意味で続けている途中で「1巻から」売れることはある。
だが、そんな「続けているうちに売れた」とか言える程度の時間が確保できている時点で、速攻打ち切られる作品よりずっと多くの売上は叩きだしていたということは覚えておいてほしい。
要するに、「続けたら売れる可能性がある」なんてのは初めから全ての作品の前提に入っていて、その上で見込みなしだという最低ラインを割ったと判断されたから打ち切るのだ。
加える。
「初版を決める上で重要なのは出版社ではなく数字しか判断材料にしない取次」
「取次と出版社はほぼ全ての出版社の出す本の売上を共有している」
これは、まあ最近は知れ渡っている話なので別に細かく説明することはないだろう。
だが、もう一つの事実がある。それは「取次は最新刊のデータを元に交渉をする」ということである。
上の二つを組み合わせて、「最初の方売れなかったけど打ち切らず続けた場合」どうなるか、ということを考えてみる。
『2万部の本を刷った。だが20%しか売れなかった。よって取次と出版社の会議の結果、2巻は刷り部数を減らし6000部で出すことにした。
2巻、6000部のうち10%しか売れなかった。しかし、打ち切らずに3巻は3000部で出すことにした。
3000部のうち、8%しか売れなかった。しかし、打ち切らずに4巻を出すことにした。部数は1000部……3%しか売れなかった』
上の流れを経た後、例えば別の出版社で企画をやろうとするとしよう。すると、取次的に見るデータはこうなる。
『1000部刷って、売上率は3%』
散々な数字だ。ちなみに上の数字はかなり極端に書いている。1000部の本とか紙代や印刷代すらペイできないから、まず刷ることはないし、%もかなり適当だ。
さて、話は戻るが売上率というのは、刷り部数が少ないと減るのだ。
上の事例を経た作家が次の作品を出す、となった時起こる事態はこうだ。
『出版社的にも、次の作品を出すとき、企画を立案する時、「でも1000部刷って3%の売上しか出てないけど今度は売れるの?」という追求を躱さなければならない』
『そして、取次はもっとシビアに、最新の数字だけを見て、そもそも初版を刷ることを許してくれない』
長くなったが、要するに「残念な数字を残すくらいなら傷が浅いうちに撤退した方が次に繋がる」構造なのだ。
おっと、賢明な人なら気づくだろう。「でもそれって電子書籍版の売上が入らないよね?」と。
「8割方、電子版の売上は打ち切り判断のプラス材料にならない。何故ならほとんどの出版社には、各ストアの電子売上を合算しデータとして参照できる能力がないから」
これは怠慢というよりも、現状の電子書籍ストアと出版社の、さらに言うなら業界全体のシステマチックな問題で、解決するには多大なコストがかかる。言いたいことはあるだろうが、すぐには是正できなさそうだ。
長文になってしまったが、「打ち切り」には多くの事情が絡んでいることが分かったと思う。
「打ち切り」そのものは、残念なものだ。できれば、そうならないでほしい。
出版社の努力不足、作家の努力不足、書店の努力不足。言い始めたらキリがない。
でも、過去に打ち切られた作品のケアよりも、未来を見据えて新しい作品を創る方が、現環境には見合っているように思える。
作品にとっては悲しいことだが、逆に言うと売れない作品のキャラクターと話に縋らないといけないのなら、それは商業作家ではない。残酷ながら。
書きたいものだけ書いていたいなら、同人誌でやるなり、それこそなろうにでも再び投稿して、自分を満たしていけばいいと考えている。
(本当、権利だけ持っていくのやめてほしいんだけどね)
まず最初に、こちらフェミニスト業界では、昨今の性教育関連エントリの各所でのプチブームを、大変嬉しく思っていることをお伝えしておくよ。
本当は、性教育を語るには、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利)から入らなきゃいけないんだけど、ちゃんと書くとそれだけで元田が眠くなるくらいの長い記事になるので、ここでは簡単に触れるだけにするよ。
セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(SRHR)とは、男性も女性も、それ以外の性別の人も、同性愛者も異性愛者もそれ以外の性指向の人も、とにかくあらゆる人が性(性欲を満たすこと。以下、セックスとしよう)や生殖(子どもを産み育てること、以下、出産・育児としよう)に関して自分の意思を持つことが許され、その意思が尊重され、セックスや出産・育児についてのやり方を自分で決めることができる権利のことだ。
例えば、親や親戚、近所の人に「あんた長男なんだから、はよ結婚して子ども産みなさいよー」って言われて無理やり見合い結婚させられるのは、SRHRの侵害だ。逆に、結婚して子どもを産み育てたいのに、「あんたには家事・介護をして欲しいから結婚は許さない」とか、望まない妊娠(これ自体がまずSRHRの侵害だ)をした時に、産もうと決心した女性を無理やり中絶させたり、逆に中絶しようと思った女性を法律や説得で無理やり出産させるのはSRHRの侵害だ。
セックスと出産に関する体の部品(男性なら主にペニス、女性なら主に子宮)の使い方、政治家さんの好きな言葉を流用するなら「子どもを産む機械」は、持ち主である男女が自分の意思で自由に使い道や使い方(使わないことも含めて)を決める権利だ、と言ってもいいかな。
純潔も、淫乱も、本人の好きにすればいい。ただし、他人に迷惑をかけない(他人の道具を相手の同意を得ずに使わない)ことが条件だよ。ってことね。あと、好きに使うためのメンテ(性感染症の予防や、妊娠出産に伴う医療リスクの軽減)ができる環境が、全ての人に与えられなければならない、っていうのが、SHRHの考え方だ。
そんでね、性教育っていうのは、この権利について学ぶ、人権教育なんよ。
元田も、多分これを読んでくれる多くの人も、日本で育っていれば性教育っていうのはほとんど受けたことがないと思う。保健体育でちょこっと生殖の仕組みについてやったり、性感染症について学んだり、あと女性なら初潮が来る頃に生理について学んで生理用品のサンプルもらうくらいかな。
でも、実はこれは国際的に見るとかなり遅れている。
国際的に、って言ったな。うん、言った。
実は、ユネスコが「性教育の国際的ガイドライン」を出してるんだ。英語、フランス語、中国語などはここで見れるよ(これは2018年の改訂版。初版は2008年に出されている)
https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000260770
https://www.akashi.co.jp/book/b297731.html
性教育は、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」というのが、ユネスコの定義だよ。これは通称「包括的性教育」と呼ばれる。
日本でやることは、あくまで身体面の、生物学的な性(というか生殖)についての教育でしかないんだよね。でも、「包括的性教育」では、自分と他人の体の仕組みを学び、それに自信を持つことから、他人を尊重すること(ここには、シスヘテロでない少数派の人たちの多様性を理解し、尊重することも含まれる)、自分と他人の感情を理解・尊重することなども含まれる。当然、セックスの前の合意の確認の仕方や、嫌なら嫌と言っていい(むしろ言うべき)っていうことも教わる。
この手の問題になるとよく「セックス同意書ないと安心してセックスもできない」と言い出す人達がいるけど、その発言自体が日本に包括的性教育が欠けているということの証明になってるわけだね。(日本では性犯罪の構成条件が難しすぎて現実的に無罪になりやすい、というのは、それとはまた別の問題だ)
そう考えると、男子が生理を含む「女性の生殖器の特性について知ること」と、女子が勃起や射精を含む「男性の生殖器の特性について知ること」は、表裏一体なんだ。
同時に、男女それぞれが自分の生殖器について理解し、例えば男性なら「仮性包茎は問題ない」とか、女性なら「生理の辛さには個人差があるから、必要なら産婦人科に診てもらう」とか、知識を持ってきちんと自己管理することを学ぶのも、性教育の大切な意義だ。
さらにいうと、男女問わず子どもが性的なパーツを触られた時に、「それは犯罪であり、拒否する/拒否できなかった(暴行された)時は、大人に報告するべきだ」という理解を持つことに持つことにもつながる。
実際のところ、未成年の性的虐待っていうのは、当初は「子ども自身がおかしいと気づけないから」表に出ないっていうことがすごく多い。たまたま性について学んだことがきっかけで、気づいて病院を訪問するケースが、かなり多いそうだ。
さて、ユネスコの定義に戻ろう。性教育とは、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」だったね。
元田のいう(1)は、「性の感情面の理解」という文脈に含まれる。これは明確だからいいよね。
(3)は、身体面と社会面になるかな。例えばテクノブレイクは都市伝説だし、AV男優とペニスの形が違う(=包茎)も大抵は問題ないし、手マンは爪を切って手を洗ってからやらないと膣を傷つけて女性が大変なことになるし、潮吹きはAV女優側が水とかいっぱい飲んで頑張って出してるもので普通は起きない。そういうことをきちんと知ったり、あとは「女性は男性に従うもの、好きなら生でセックスさせて当然」みたいな社会的規範はおかしいというのも、当然教える前提になる。
(4)は、身体面だね。マスターベーションは普通だし、テクノブレイクなんて存在しないし、女性だってオナニーしていい。オナニーって言い方がなんかやだったらセルフプレジャーって言おう、みたいな。
(5)は、社会面と認知面かな。恋愛工学なんて典型的な認知の歪み(自己中心性バイアス、投影バイアス、多集団同質性バイアスあたりか)に基づく行動原理だしね。
さて、問題は(2)なんだけど、これは典型的な権利(自由)に関する問題だ。
日本人は自由を「無制限に好き勝手する権利」と考えがちなんだけど、実は自由というのは、近代では「他人に迷惑をかけない範囲で、自分の好き勝手をする権利(バカなことも含む)」だと定義されている。フランス人権宣言第4条とか、ジョン・スチュアート・ミルの自由論とかが、この辺の定義として著名なソースだね。
そこに基づいて考えると、「他人の自由を害さなければ、好きにセックスしたりオナニーしたりしていい」し、逆に「他人の自由を害するならば、セックスやオナニーをしてはならない」ってことになる。
こういう部分は当然、包括的性教育にも含まれるわけだけど、それ以前に「社会生活をする人間としての常識」なんだよね。
たとえば私は「SRHRは最終的にはKKOもインセルも救うことを目的としている」と思っているんだけど、それは「KKOやインセルに彼らの望む可愛い恋人をあてがう」という形では実現し得ない。なぜなら、それは「恋人としてあてがわれる個人」の自由を侵害してしまうからだ。他人の自由を侵害する自由は、存在しないのだ。
彼らを救うには、「モテないことが悪いことではない」という認知を全ての人が持つように働きかけることや、相手の感情を理解し合意の取り方を知ることで交際の入り口をなだらかにすること、同時に他人を尊重し、断る権利・断られたら(少なくともその時は)諦める責任を腹落ちしてもらうこと、などが必要だろう。
これらは全部、包括的性教育のカリキュラムに含まれるものでもある。
包括的性教育は、男性の性欲を管理するだけのものでも、女性の性欲を解放するだけのものでもない。これまで、日本を含む多くの社会が男性の性欲に寛容・女性の性欲に抑圧的であったがために、一見そう見えるけれども、本来は「あらゆる人が、自分のセックスと出産・育児について、自分で決断できるようなライフスキルを身につけること」なんだ。
だから、増田の意識しているものは当然のように含まれるけれど一部でしかない、ということと、そういうことを教えるためのノウハウは欧米諸国を中心にすごく普及しているよ、ということを伝えたくて、長々と書いちゃったよ。
本当は日本は女性のSRHR、特にヘルスではなくライツの部分が世界でもかなりやばい状況にあるとか、そういう話もしたいんだけど、若干オフトピックなので今回はぐっと我慢するよ。
ダール(ヒンディー語:दाल/ウルドゥー語:دال dāl/マラーティー語:डाळ ḍāḷ/カンナダ語:ಬೇಳೆ bēḷe/マラヤーラム語:പരിപ്പ് parippu/タミル語:பருப்பு paruppu/テルグ語:పప్పు pappu/オリヤー語 : ଡାଲି ḍāli)、またはダル(ネパール語:दाल dāl/ベンガル語:ডাল dāl)とは、剥いた小粒の
でようやく本文。
左下メニューの他言語版では、くどさのかけらもなく簡潔な感じ。(ブラウザの翻訳ボタンぽちぽち)
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB&oldid=30161325
直後に微調整的な意味でふたつ追加。初期の段階ですでに完成されていたと言っていい。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB&diff=30161502&oldid=30161325
ささいな編集はあるものの、くどさをそのままに6年と少しの歳月を経る。
別アカウントの方が前任の意志を受け継いでちょっと追加。磨きがかかる。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB&diff=59855705&oldid=57558037
ないことを願いたい。
※夢の中身を箇条書きにしただけなので面白くありませんよ
その路線は実在する路線でもない、実在する駅名でもない、夢の路線。(駅名は名詞ではなく砕けた口語調のようなもの)
最初に降りた駅は海のそばで海産物が豊富な町。人の往来も多い。
瀬戸内海のとれたての美味しそうな魚がたくさん売られていた。(けど、実在する魚ではなかったような気がする。皮が赤いのは覚えている)
その町は町興しの一環として今から60年前の風景を再現する、ようなこともしていて、どことなく懐かしさを感じる黒電話やレトロな家並みだった。
私は何を思ったのか、「これを掛けるとレトロな色に見えますよ」という売りのサングラスを買って、それを掛けた。町並みがレトロな色調に見えた。(つまりはセピア調)
そして公園にたどり着いた。公園に座る半袖半ズボンの若い青年に声をかけた。
「意味?…ありませんよ?」
と歯を見せて笑顔を作った。私と青年は軽く声を出して笑った。私は青年にありがとうと会釈をし、公園をあとにした。(サングラスを外した時点でセピア調の色彩からもとの色彩に戻ったことを夢の中で知覚しているので、意味はあったんだと思う)
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こちとら大好きなんだよォ久美沙織の癖がありまくりのゲームノベライズがよおォ!!!!!
お前らの小説ドラクエ(精霊ルビス伝説でもMOTHERでも何なら天地創造でもいいぜ!)愛を久しぶりに聞きてえんだよォ!!!!!
例の訴訟があったのも幸いに小説DQ5のここが好きって所を率先して一部だけ語らせてもらうから自分が語り足りてない所をお前らが語って聞かせてくれよォ!!!!!!!
http://blog.yuryu.jp/2012/05/blog-post.html
当時とは状況も違うしね。
といっても、〇芝や〇菱と違って学閥は感じられないのでほとんど影響はないんだと思う。
学部生は、主務昇進前の同期横並びになってる時期は、院卒の2年遅れ。
あとは様々。実力(いつ昇格研修に推薦されるか)次第
入社3年目くらいまでは夜10時くらいまで働くことも多かったけど、働き方改革の旗印のもと、8時以降の残業が禁止になり、定時日が週1設定され、
40時/月以上の残業についての手続きが煩雑になり上司もやりたがらなくなりました。
入退門システムと勤怠が連動してるので、サービス残業はありません。
GAFAとか行っちゃう強い人は↑で年収600万はあまり高くない・・と思うかもしれないけど、
結構な額の住宅補助と、ほぼ全額の通勤手当が出ます。自転車通勤でも出ます。(安いけど)
入社数年は寮か、寮扱いのレオパレスに月5000円で入居でき、
転勤すると自分で選んだマンションに住めて数年間家賃半額補助されます。
首都圏・大阪・名古屋だと補助倍率が変わり、もう少し安い。(東京勤務だったのでだいぶ助かった)
上司推薦の上研修に合格すると主務職という等級になり、お給料が一段踏みあがります。
平均給与ランキングみたいなので比較するとソニーとかと比べて安いのは、
工場の要員いっぱい抱えてるのと手当てを数字に反映してないせいもあると思う。 (借り上げ社宅だと所得税がかからないのでそこは有利)
あとは生命・傷害・自動車保険料がすごく安かったり、カフェテリアポイントがついたり、社割で家電とか買えたりします。
このあたりの福利厚生や人事制度は聞けば教えてくれると思うので、興味があったら就活生は人事に聞いてみて下さい。
とりあえず、この記事の内容について気になるところにコメントしていきます。
元記事の筆者の言う通り、パナソニックは事業部によりかなり風土が異なり、一部の全社共通の事項以外は結構異なります。
これは本当だと思う。
社員はエクセル方眼紙の仕様書を書くのが仕事で、バリバリコーディングすることはないという部署もある。
ただし、この点は事業部の中ですら風土が違い、僕のいる部署では協力会社にコーディングさせることもあるけど、
みんなプログラミングはするしできる。事業部と部署によるかな。
例えば、メモリ 1GB ぐらいの遅いマシンでビルドしている、ディスプレイが17インチ、
きちんとしたソース管理がない、などです。PCスペックやディスプレイなどは入社の時期によってはそこそこいいものになるんですが、
「壊れるまで使う」のが基本のためなかなか新しくなっていませんでした。
これは明確に違う。少なくとも、入社した2013年時点ではCAD用PCはメモリ16GBでQuadro積んだものが与えられてたし、デュアルモニタも使えた。
ラップトップはまともなスペックのレッツノートが与えられ、どちらも4年更新のリースなので、レッツノートのメモリが4GBだった次期はちょっと不満でしたがそれなりに使えるものでした。
ソース管理についてはメカ屋なのであんまり詳しくないのでノーコメ。なんらかの管理システム使ってたと思うけど・・・
具体的には書けませんが、改善提案をしたときには「新入社員(または入社2年目)なのに」というリアクションがついてまわりました。
中には「話を大きくすると、新入社員が思いつくようなこと何故今までやっていなかったのか」と問題になるのでと却下されたこともありました。
これはある。「物を作る前にひとをつくる」社風のため、若手は修行中とみなされる。
2年前くらいまではそうでした。
しかしここ2年くらいはセクハラに関する判定は厳しくなり、アファーマティブアクションとしてむしろ女性を優先して昇進させるという方針がトップから出されています。
逆にそれはどうなんだ・・?という気はしなくはないですが、「アファーマティブアクションである」と言い切られると納得できるところもある。
なんだかんだトラディショナルジャパニーズカンパニーなので言いたいことはいっぱいあります。
ほとんどの部署では毎朝・毎昼・毎夕のどれかで部署全員をあつめた会をやると思います。
そこで「綱領・信条・七精神」と呼ばれるチャントをみんなで唱え、小話をする儀式が発生します。
小話は持ち回りなので、人前で話しをすることが苦手な人はきっついと思います。
話が長い人も多いし・・
あなたがパナソニックで仕事を始めた場合、この3つに出会わない日はまずないと思います。
ワークフローシステムはあるんだけど、なぜかみんなエクセルの帳票を作りたがる。当然のように検印欄つき。
2001年にテンプレートの初版を作ったエクセル方眼紙でプロジェクト管理をするなボケ
研究所でもわりと「まとも」なことをしてる人ばかりです。
居室をドローンが飛んでるとか、そんな愉快なことはないです。夢のある話より事業貢献。当たり前といえば当たり前か。
新しいことに対してはまずリスクを考え、製造に根回しをし、品証、法務、営業エトセトラエトセトラに合議をとりつけないと何もできないので、
必然的に新しいことはしにくくなります。年初の計画にないことは予算付かないし。
でも偉い人がオッケーっていったらぜんぶオッケー!予算もつくし忖度してくれるぞ!
カイゼン活動やQC活動もやらせたがる。別にいいけど、本当に役立ってるかなぁ・・?
すっげえ時間と手間のかかる昇格研修(日立のケンロンみたいなやつ。5~10年目の中堅の昇格と、管理職候補のときにやる)とかね。
社内のシステムは全部クソです。20世紀のシステムが平気で動いてたりして驚く。
PLMシステムはほんとクソだし、
これにエクセル方眼紙を組み合わせた地獄の業務基盤が構成されてたりしてひっくりかえることがあります。
エクセル方眼紙をアップロードして印刷して・・・っていうのは構築時に誰かおかしいと言わなかったのか。
こいつのせいで設計資料どこだっけ(図面はあるけど設計書がない)などがおこりがち。
後述のe-チャレンジのセカンドチャンスがあるとはいえクソ度が高い。
入社時の話と配属の話が違うのは残念ながらあるっぽい。
というのは、どうも採用時点では部クラスまでは決まってるけど、
その中での課クラスの割り振りは後で決めるやりかたをとってるところがあるようだ。
例えば、xxxx事業部 開発部 までは決まっているけど、担当機種やシリーズは決まっていないとか。
これも事業部単位でやり方が違う。僕のときは研修時にヒヤリングがあった。
採用後、配属の決裁が下りてしまうと覆すのは結構たいへんなので、
やりたいことが明確な人は早めに人事部長と
明確にしておけば一応考慮はしてくれるはず。
僕のいるコネクテッドソリューションズ社(カンパニー)に限定されますが、
カンパニー社長が変わってからは上記の「ここがクソだぞ」を消していこうとしてくれてます。
問題を素直に言って改善しようとしたり実験的なことをやることを推奨しよう、というメッセージは発信されています。
ボロボロだったトイレや食堂も現代基準に合わせて改装されたし。
朝会の呪文詠唱はなくなっていないですが、鶴の一声で小話は、苦手な人は特にしなくてもよくなりましたね。
工場文化と研究開発のイノベーティブな文化を切り分けようとしてくれてるっぽい。
ただし、中間層まではまだ意識改革が行き届いてないっぽく、まだ保守的なことをいう人は多いです。
経営層の品位に関してははっきり言って経団連で迂闊なことを言って燃える他社よりはかなりましじゃないかなと思ってます。
事業部が変わるとほぼ他社な感じの会社なので、それまでの社内の実績を持ち込んだまま転職できるのはそれなりに普通に転職するより利点があります。
この制度の利用に関しては現職場にはすべて終わってからしか伝えられないので、どうしても無理になったらスッと転属するという、セカンドチャンスとなりえます。
長期所得補償保険に加入できますが、グループ社員は精神障害も対象になります(普通の保険は対象外)
鬱になってもなんとかなると思うと精神的に逆に鬱にならなくなるっぽい
少なくとも、僕の周りにいる人間は何かしら優秀なところがあり、人格的にもまともな人がほとんどです。
「ほとんど」としたのは、僕の知る限り数名頭のおかしいとしか思えない人もいるので・・・
ただ規模に比して無能・性格的に問題のある人は少ないと思います。
毎年25日付与されて、付与から2年超えても消化できない場合は毎年10日積み立てられます。
退職前にはちゃんと消化させてくれるし、普通に申請すれば休めるのでありがたい。
クソみたいだと思ってるところもありますが、案外、世間で言われるよりも変革に向かってる空気はあります。
車載部品や自動運転システム、電子部品組み立て装置やセキュリティシステム、工場ロボットやデジタルサイネージ、プロジェクターなど、
ぶっちゃけ家電以外の部門のほうが面白いと思ってます。地味なところでいろいろやってるよ。
家電も異常に軽い掃除機とか謎の球体扇風機、卓上燻製機など尖った製品は面白そうなんですけどね。
なんだかんだ家電もすげえまじめな作りしてるし。同期が調理家電の開発のベンチマークでコロッケ揚げてたら、見飽きすぎてプライベートでコロッケ食えなくなったとか言ってた
組織の慣性はあってクソなところもありますが、一つ一つつぶしていって、規模と革新性を両立させようと頑張っているところです。
改革が成った暁にはとても強い会社になりそうな気はするので、敬遠せずにぜひ話を聞きにきてみてください。
特に通過儀礼的な要素を含む新入社員研修、すごくリソースを取られる主務・主幹研修やエクセル方眼紙文化、根回し文化だのは、
IT基盤も現代の基準で構築してほしいし、提案活動や小集団活動はお手盛のパワポ発表会じゃなく、
データやノウハウも個人単位で溜め込まずにオープンに蓄積できるようなIT基盤にしてほしい。
社外の技術者や学生、そして僕とお客様にとって魅力的な企業であるために頑張って下さい。僕も頑張ります。
新卒でパナソニックに6年勤めましたがまだ退職しません。最先端の設計をしながらお給与も一定水準をクリアできる会社はなかなか多くはないと思うので、
日本の書籍流通って特殊なので、どんだけ売れるかが出版社の手腕によるものだってのは当たってるよ。とくに初版が1000、2000ぐらいの本だと尚更。
あと紙の本の初版発行数と電子書籍の販売数は合体してないから、「本当にどのぐらいの人が読んでるか」って答えは簡単にはでないんだよなー。
「○○感を感じたくない」←無神経な表現をする脚本家を疑問視したらガキ?ガキはお前だろ
少しでも言葉を意識している人なら「○○感を感じる」という表現が拙いと気付く。
これは正誤から一段上の話。いや、正誤以前の話とも言える。
信じがたい。
モノ書きではない人でも感が重なる事を無意識に避けるのが自然だと思う。
「○○感を感じる」よりも「○○感がある」や「○○感を持つ」といった表現を好ましいとして用いる。
深く考えるまでもなく「感を感じる」という表現にひっかかるのが素直な反応ではないのか。
プロである脚本家がそこに何故ひっかからないのかどうしても理解できない。
脚本家なら「罪の意識を感じたくない」とでも書けば不自然にならないことくらいわかると思うが。
表現に疑問を抱いた場合、私は直接脚本家に問い合わせるのだが今回は連絡先が見当たらない。
問い合わせできないままでは気がおさまらない。
どこかにコメントくらいしてやろうと思い立ち検索結果を辿り、とあるまとめサイトを訪問した。
そこで脚本家として平気なのか恥ずかしくないのかとコメントしたところ
どこかの質問サイトから「○○感」は名詞だから問題ないという回答を貼り付け
どっちがガキだよ。
・故に私の指摘コメントが滑稽に見えた
重言に対して何も感じない愚鈍な奴が私の指摘コメントを否定する。
頭 イ カ れ て ん の か ?
自分の言語回路が乏しいせいで私のコメントがバカに見えるならもう救いようがないだろ。
死ねよ。死んどけよ。
こちらは、脚本家というプロが、言葉を知らない子供のような表現を
いかにもクールで理性的に振る舞う人物が発した台詞なので余計滑稽だった。
そんな事も理解せずに反論できる俺カッケー!と悦に入っているのだろうか。
間違いではないから用いても構わないという発想は
法律や規制に反していないから転売目的で福袋やチケットを買い占めるようなもの。
大袈裟な例えかも知れないが発想は同じ。
正誤から一歩踏み込んだ話をしているのがこいつには理解できないらしい。
間違っていないから、あるいは今まで咎められなかったから何をやっても良いというのは
こいつは小学生どころか胎内からやり直すべき。なんなら生まれてこなくて良い。
「感」という文字に溢れた世の中にしているのは何者かこいつは考えたこともないのだろう。
過剰な「感」に晒され刷り込まれている事にも気付かないボケナスが。
ガキ呼ばわりされるべきはこいつの方だ。
あまりに腹が立ったので、重言について触れている多くのサイトから要点を転載し
人を見下しガキ呼ばわりするそいつに○意すら沸いたので
「半○しにするぞ」とか「く○ばれ」とか罵詈雑言を連投したので
文意も汲み取らず掘り下げて考える事もできないくせに
やり込めてやろうという卑しい根性だけで返信するガキは
半○しではなく3/4○しぐらいやらないとダメだ。
目の前にいたらアゴを粉砕しているところだ。
ガキをつけ上がらせるだけなので、やはり即座に叩き○めすのが一番。
精神を病むまで殴り倒したいほど腹立たしい。そして嘆かわしい。
指摘や疑問を投げかけ好ましい表現を提示すると、どうしたわけか
あらゆるサイトで上記のようなやり取りを何度も見かけた。今回も同様の展開。
子供がやったことだから仕方ない。目くじら立てずに見過ごしましょう。
言葉の扱いに関しては改善や修正や情報共有という概念が希薄だ。
不思議でならない。
■違和感を感じる
この表現、変じゃありませんか?
〇〇感がある と言うのが正しいのではありませんか?
〇〇感を感じる
なんだか、女のお母さんになりたいとか、頭痛が痛い のような表現と同類ですかね
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12102478892
tob********さん
略
それでどのような不都合があるのでしょうか。
個人的には「違和感を覚える」だって厳密に考えれば重言風だと思います。
略
当方は「違和感を感じる」は「【1】不注意もしくは無神経の例」で
「違和感を覚える」は「【2】重言っぽいが直せない」と考えています。
■【2001625】イラっとくるから〜感〜感、カンカン言わないで
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?1671,2001625,2001894
落ち感、ゆる感などやたら感感いうキャスト?にイラッときます。
ショップなどでも若い店員の子が、やたら感感言いまくりますね。
http://girlschannel.net/topics/372134/
ファッション誌関係の人間って、アホみたいな言葉を次々作り出してドヤしてるけど、何?
抜け感とか丈感とか裾感、とかやたらと「~感」って使いたがる。
本当にバカっぽい!!
https://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
「危険が危ない」「頭痛が痛い」などにおける、同意語の繰り返し。
「後で後悔する」はアナウンサーも乱用。
「旅行に行く」「責任感を感じる」「馬から落馬する」「挙式を挙げる」
■筋肉痛が痛い?メディア関係者なら知っておきたい二重表現・重複表現20選
http://liginc.co.jp/life/matome-life/151543
略
7. 不快感を感じる
不愉快に思う気持ち。「―をあらわにする」「―をつのらせる」「―が軽減される」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/191081/m0u/%E4%B8%8D%E5%BF%AB%E6%84%9F/
例文
■読書感想文/『続弾! 問題な日本語』(北原保雄編/大修館書店/2005年11月3日初版第1刷発行)【1】〜【3】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1717.html
「違和感を感じる」(p.39〜)
【関連日記】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1176.html
略
重言を許容できるか否かは、言いかえができるか否かで判断するのがわかりやすい。
「違和感を感じる」は「違和感を覚える」にできるのだから許容する理由はない。
なにより違和感があるのは、前弾の『問題な日本語』ではあれほど「違和感を感じる」を使っていた
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1574723654&owner_id=5019671
のに、今回は1回も使っていないこと。
当方が見た限りでは、「違和感を覚える」さえp.27で1回使っているだけ。
ほかは「違和感を持っている」(p.105)、「違和感の生じる理由」(p.108)などを使っている。
こういうのを見ると、なんか都合の悪いことでもあったのかな、と勘ぐってしまう。
正当化しようと試みながら自分たちでは使わないという態度は矛盾している
(そもそも使う機会がない語彙なら、話は別だけど)。