はてなキーワード: 226事件とは
がアメリカで大ヒットしているらしい。
それでも見所は少なからずある。と言っても猛追してくるゴジラに機銃で挑む場面と高雄が砲撃する合計10分に満たない一部分ぐらいしかない。大体映画の構成シーケンスが上記二作からパクっても換骨奪胎できずまたこの展開かと見てて眠くなってくる。
結論から言うと、高雄が近接で誘爆しても爆風で主人公らの髪すら逆巻かない低予算ロークオリティ映画である。そのぐらい送風機で飛ばせよと述べるしかない。さらに夏の終戦期間によくありそうな戦争ドラマをプラスした糞脚本にしろ電車内でゴジラに襲撃された浜辺美波がSASUKE選手ばりの膂力でぶら下がりコンクリート並の硬度になる高さから海水に落下して無傷だったり、あらゆるところがお粗末で、敗戦した日本がさらに絶望のさらに底に叩き込まれるという話のコンセプトから感情が脱線しており作品の肝である緊張感の一抹すら感じられない仕上がりだった。
では何故天下のハリウッドでこんなチープな作品が大ウケしたのか?
・ハリウッドのポリコレ映画に飽いたアメリカ人には単純な怪獣パニック映画が刺さったから
・戦争にトラウマを持った主人公というランボー擬きの設定が刺さった
なるほどどちらも頷けそうな凡論であるが自分はどちらも否定したい。
そしてタイトルの主張に移るが、マイゴジがアメリカ人(主に白人)の心を掴んだ要因は、マイゴジが特段ストレス無く人間をスプラッターできる映像が見られるからというのが今回の主張である。
被爆国である日本原産の作品であると思われがちではあるが、ゴジラはどちらの意味でもアメリカが起源である。
ゴジラを監督した本多猪四郎は満州帰りの日本兵だった。226事件の反乱部隊にいた本田は東條率いる統制派が皇道派を賊徒の名目で一掃した後、クーデターに与した反乱部隊の兵卒を全て満州に飛ばして島送りにした。事実上の死刑宣告であった。それでも過酷な戦争経験を経て中国軍の捕虜となった本田は程なくして映画監督となった。
本田が従軍していたという証拠は初代ゴジラの描写として警察官が死体の足を踏んで拳銃を確保するなどの戦争経験がない人間以外には当時では発想できないであろうディティールから見受けられる。
初代ゴジラの根幹は反核反戦であると巷に言わているが、実態は上意下達を絶対する日本軍の将校に命に渋々従っただけで満州に飛ばされ死の淵に誘われた本田の憎悪を込めた日本人と国家への復讐作品であった。
本田を憎悪を具現化したゴジラが国会議事堂を粉砕し永田町を焼き払い日本人を火炎放射で再度炭にして、オキシジェンデストロイヤーとご都合な兵器でゴジラを白骨化させ目出度目出度とする便利なステーリングはゴジラの二面性を浮き上がらせる。
ゴジラは観客の破壊衝動の加害欲の受け皿であり同時に被害者的な意識を発露させて高邁な思想にもシフトできる全く便利な投影生物であった。
この事から本土決戦を叫んでいた日本帝国からあっさり属国に成り下がった戦中派日本人庶民は自らが英霊となった者たちを裏切った事への罪悪から焼き殺されるマゾヒズム的な自罰的快感と戦争遂行を断念した責を政治家政治中央に転嫁して他罰できる作品として本田の思想とは裏腹に国民感情を射抜かれ初代ゴジラは大ヒット作品となったのである。
このステーリングはシンゴジラでも受け継がれており、タカ派オタクの庵野秀明はゴジラを反日的な作品から東日本大震災の戦犯として民主党閣僚ら菅直人らをレーザービームで天誅を下し殺害し米軍と共同し巨大生物の如く進化を遂げた軍事大国中国のメタファーであるゴジラをオキシジェンデストロイヤー的なデウスマキナで倒す火葬戦記的な愛国作品にコンバートしてはたまたシンゴジラは大ヒットした。
シンゴジラのエンディングはゴジラの火炎放射で東京一帯を燃やし尽くすところまでであり無類の戦争オタクである庵野のタバ作戦でAH-64Dやら90式やらの兵器群で攻撃を仕掛けるが核武装国の中国メタファーであるゴジラには全く通用せず火炎放射(核攻撃)で東京を逆に更地にされるリアリティの庵野の脳内シミュレーションで前半は幕を閉じた。後は電車で特攻を仕掛けというあまりにも荒唐無稽な展開が続く。これはあくまでコンテンツである"作品"としての体面を保つためであろう。
このようにゴジラとは自罰と他罰の生物であり絶妙に使い分ける事で作品としての玄妙さが出る。
アメリカ人に大ウケしたのはアメリカ人として自罰の感情ラインが欠落し他罰のラインで感情を射抜かれ特にポリコレらの罪悪感情のハードルに足が掛からず日本人が虐殺されるスプラッターを安心して楽しむことができるからである。シンゴジラと違いマイゴジには米兵が死ぬシーンがないのも興行に影響したであろう。作中で浜辺美波が仮に黒人女だとしたらリベラルは悲しむだろうし共和党支持者は黒人女なぞ出すなと怒り狂うに違いない。こういった心理的ストレスはパブロフの犬の如く視聴者に影響し鑑賞への妨げとなるがマイゴジではストレスフリーだったに違いない。
アメリカのゴジラ作品では体面での反戦反核の要素が極端に低い。
ギャレゴジではビキニ環礁の水爆実験から生まれたアメリカの罪の生物ゴジラから自然発生した恐竜となって一応のモチーフが崩れていたし、その後の米ゴジラ作品では当たり前ように核攻撃がなされる。
自罰のラインを抜いたら単なるスプラッターポルノであり山崎がアメリカ人(白人)の特性を見抜いて逆算的に作品を製造していたらまさに白眉としか言いようがないであろう。
ポリコレとはあくまで白人黒人での適用内でありアメリカではアジア人、特に日系人は価値が低い人種として見なされていたとこの作品を通じて偶発的に警鐘されているとしか思えないのである。
過去のアメリカに起きた2021年アトランタ連続8人銃撃事件でも報道したのはCNNでもなく第一報を報道したのはFOXニュースだけであった。BLMの運動に見られるリベラルの激情は特にアジア人には注がれていないようである。
ウクライナに続いて台湾有事などのキナ臭い戦争ネタが続くが、果たしてアメリカはウクライナのごとく軍事支援できるか日本が攻撃されても防衛し貫徹できるか。してそれを貫けるのだろうかと合衆国憲法にもある万民皆平等は果たして存在するだろうかと頭を擡げざる負えない。
226事件の幸楽→小沢専七郎→米軍→ホテル・ニュー・ジャパン→プルデンシャルタワー
ここまで変わるかってぐらいだな
(追記再掲)
圧死事故が起きたイテウォンの通路脇のハミルトン・ホテルにはかつて
スポーツ用品のアンダー・アーマー(米国ボルチモア)と化粧品のラッシュ(イギリス)の店舗が、大通りに面して入っていた
おそらくホテルは西系資本で出来たのだろうが、違法建築を無視していたんだろうか
何度も書くけど鉄鋼・造船業ボルチモアの議員が上院議長ナンシー・ペロシ(旧姓ダレサンドロ、硫黄で栄えたイタリアの移民の子孫)
米軍が手放した土地にあったホテルニュージャパンも、防災設計になっておらず大火災で死者33人
そうすると注目すべきは、米軍の山王ホテル跡にある「山王パークタワー」もである
「63人乗りという日本初の大型かごを用いた三菱電機製の高速シャトルエレベータ6機」
これ、いつか墜落か圧死事故が起きるのかね
保険業は古代の貿易船の保険から始まっているので、海運造船業界と保険業界は異種同業
船同士の事故、難破、事故船があえてコンテナを捨てざるを得なかった場合、過失割合、どちらの船がどこまで損害を負うのか
ドイツ帝国が率先して、国際法をまとめる国際法協会を作り、共同海損の保険規則を作った
そのドイツのシーメンスは薩摩閥と海軍軍人斎藤実などに贈賄したのはバレたが、当時の検事総長は忖度思想検察の平沼騏一郎
しまいには満州事変がおきて犬養が暗殺され、斎藤実の軍事政権が初登場
ナチス内閣は保険会社アリアンツ出身の閣僚が仕切り、平沼騏一郎も大審院長やら総理大臣になった
つまりナチス・保険業界・海運造船業界が、日本の人事をやって戦争計画を推進したようなもん(あるいは国際法協会も)
ロシアの政治家もよく「国際法がー」言うが、彼らは国際法協会の何だろうな
226事件だって斎藤の口を封じるための暗殺事件だったかもしれないしなぁ
本当に政府が何もしないという意味で純粋な自由主義を消極的自由主義とも言う。
だけども、消極的自由主義だと金持ちや政府外で権力を持った人間(例えば企業の社長)から弱い人間が守られない。
そこで適切な法を持って政府が干渉する。そして各々の自由が守られるようにする。それは積極的自由主義であり、逆を言えば政府の干渉によって多数者の自由を守っている。
社会主義、共産主義を悪なるもので良くないと教条的になっているように見えるし、社会主義と共産主義の関係をどうみているのか、それこそイコールで悪の枢軸にみているような気もする。
だけども、もと元はと言えば19世紀末から20世紀初頭にかけて自由放任主義で経済が成長した。しかし1930年の世界恐慌で大不況になった。それこそ身売りが多発して、日本でも若手将校によるクーデター未遂事件が発生した。(226事件)
そこで、政府が金融、財政、税制で経済を調整しよというケインズ主義と、政府が計画経済してそもそも経済変動が生まれないようにしたマルクス主義が主導権を握り、世界は二分された。その時代の名残だよ。
自由主義陣営といえどもケインズ主義で積極的自由主義であり、消極的自由主義は世界中から放逐された。マルクス主義は共産主義であり間違いがない。
そして政府が財政を持って国民の役に立つことをするようになり、社会保障が生まれた。さて、社会主義はどこまでの領域を指すのかと。
ただし、1970年代のオイルショックや、アメリカイギリスの経常赤字、そしてアメリカの金流出が起きた。そこでケインズ主義が限界がある。理由は政府の肥大だと言うことで新自由主義に転換した。
もっとも、一度大規模経済危機を迎えたら日本では1990年バブル崩壊、欧米でも2008年リーマンショック後の長期不況が続いている。そしてのコロナショックで、間違いなくこれは大規模経済危機だ。
さらに、すぐ確実に儲かるものしかしてはならないということで、政府は緊縮して科学が衰退し次の産業の種が生まれなくなる。企業も不確実な投資を嫌い産業が生まれなくなる。その結果長期衰退を招いて日本で貿易赤字が出るようにまでなっている。
経常黒字もいつまで持つか。
そのうえで、やはり新自由主義の「政府が何もしない」というのは誤りで「では政府は何をするべきなのか」は議論の俎上に上がる。
とくに新自由主義とケインズ主義では「税をどうするか」「財政出動をするか」が大きく分かれる。立憲民主党は内部が割れてるよ。
という前提があった上で「社会主義」が何かを考えずに「負の側面」と言っても何を言ってるの?とは思うね。内部割れていることにも気づかず、教条的な社会主義、共産主義の担い手であり、反省しろって一体何をみているのかとは思うね。
僕自身は、適正な経済運営の答えは供給側対策をしたケインズ主義だと思っている。
だけど、人類がケインズ主義が良いと一度決着がつくまでには様々な暴走があった。そして、ケインズ主義も一度放逐されて帰ってきていない。今のトランプの騒動も1930年の世界恐慌後に正しい経済政策の答えがなかった日本やドイツを繰り返してるだけに見える。
1930年世界恐慌があった。そして、資本主義は、一度大規模経済危機を迎えると、企業が金を貯めこみ、設備研究投資をしなくなり、資金余剰側になり、金の回転が悪くなるという根源的な欠点がある。
そもそもが、過去の貯蓄の取り崩しを含めて資金調達しての支出を初項、収入のうち消費に回る比率(消費性向)を公比とした等比数列の和という側面がある。
ジョン・メイナード・ケインズがモデルを作り、それが社会に受け入れられた。その結果が1940-1990年の西側諸国の繁栄。
なお、東側諸国はそもそもが景気変動があるのが良くないからと計画的に生産をするというマルクス主義に転じた。
世界の右左、保守革新とは、ケインズ主義VSマルクス主義だった。1930年以前の政府が何もしないのが理想的だという自由主義は放逐された。
しかし、ケインズ主義は、1970年代の石油産出国の戦争で石油供給が絞られたり、一部の国が経常赤字化と、その後のインフレによって一度批判されて新自由主義に移っている。その転換が1980年代に始まる。
そして、日本は1990年にバブル崩壊が起きたため、資本主義の最大の欠点の企業の保身化、設備研究投資の衰退、資金余剰化をもろにかぶり失われた30年となった。
ケインズ主義は、法人、富裕層の税金は高い。理由は法人、富裕層の金を放置すると金を貯め込み公比を落とすから。富裕層もなんとか新自由主義VSマルクス主義の議論であってほしいと願ってるんだろう。
ケインズ主義は新自由主義に乗っ取られ、新自由主義VSマルクス主義だったら新自由主義がいいよね。みたいな形になっている。しかし、新自由主義の下だと、一度経済が低迷したら永久に不景気が続く。
労働需要が低いということで、労働者の扱いはどんどん悪くなって貧しくなっていく。
だけども「解がない時代」でも解を求めないとならない。誰か英雄に任せたらうまくいくんじゃないか。それがトランプと、トランプの支持者だろう。かつてのドイツのナチスドイツの崇拝や、226事件での日本の天皇親政を叫ぶ声だっただろう。
世界恐慌後の世界をなんとかしろなんての天皇陛下に投げられても天皇はそんなのわからんとしか言いようがないだろうが。
日本でも新自由主義化で停滞していたところの小泉自民党と民主党の崇拝だ。結果的に見たら両方まがい物だったが。
ケインズ主義のもとでも、資源不足など突発的な供給対策をし、新しい産業を作っていき恒常的な供給対策をし、外貨借金由来の財政破綻やハイパーインフレを回避していかないとならない。
新自由主義でもサプライサイドを叫んでいたが、新しい産業なんてまだ見えない状態で金と時間をかけての研究と吟味が必須だが、不確実なものを嫌う新自由主義ではむしろ供給も毀損する。それが今の日本の科学の衰退。
自由主義経済だと、大規模経済危機の後だと世界が完全に詰むってだけ。226事件だってその前の世界恐慌の後の傷を日本が覆った状態で起きた。
海外の一部の国はケインズ主義のもとで経済を復活させたが。(新)自由主義とケインズ主義は別の概念と言えるだろう。
(新)自由主義は政府が何もしないのが望ましい。企業に対しても何もしないのが望ましい。
ケインズ主義は経済が加熱したら政府が抑え、経済がしぼんだら財政出動をする。また、税制で国内の金を整える。
資本主義と言っても別の概念と言ったほうがいいだろう。日本は1990年頃まではケインズ主義であり、1990年頃からは新自由主義だった。
日本も1990年のバブル崩壊のあとの傷が消えない。新自由主義こそが解だとかのべてたが、氷河期生むわ、ただ単に中国韓国フェミに吠えるネトウヨを生み、次から次から敵を求めてさまよって敵認定されたものを破壊し、
なお、その敵として破壊された物の一つが、次の産業の種を生む大学研究環境というのも皮肉なものだな。
自由主義は一度景気が落ちたらもう治すことはできない。規制緩和だの構造改革だというのは、種があって成長をするのを阻害するのを防ぐだけで、種自体がない状態では全く意味を成さない。
育った後の遊郭に売られたのは常じゃなくて、飢饉などが起きた状態での話。日本でも世界恐慌のさなかに東北地方で飢饉が発生したがゆえに身売りが多発して、226事件みたいなクーデターに発展した。
まあ恐慌に対しての経済措置というのを人類は持ち合わせてなかったということもあろうが。
漁師や奉公はこれはただの労働者だからな。そして人権意識の代わりに、儒教精神があった。儒教は本来は上が下に目配りして、下が上に従えば理想社会になるという形であるので、上が下への気配りはしていたよ。
昔の労働は暗黒時代だったというのはそれはそれで変な観点に侵されすぎてる。
それでも性病への対処法がなかったのと、どうしても若い時期を過ぎたら捨てられる存在だから性風俗が多くの女性にとって苦界だったのは違いはない。一部身請けとしての開放があったけどな。
右派、左派そのものは強者より、弱者寄りぐらいの意味しかない。
もともと封建主義(王様が決めた法律できちんと運用するのが良い)に対して自由主義が生まれた。
自由主義は一度大規模経済危機を迎えたら、企業が保身に入り、金をため込んで設備研究投資をしなくなる。そして金をため込むから経済は悪化し、設備研究投資をしなくなるから、競争力が落ちていくという特性がある。
1930年世界恐慌で世界中はこの経済悪化の流れに乗りこまれた。1930年代時点では解がなかったためドイツはユダヤ人やジプシーが原因であるとヒトラーを選び、日本でも天皇親政がよいと226事件のようなクーデターを起こした。
それに対して、ケインズが金の回転をきちんと制御するのが良い。マルクスはそもそも大規模経済危機は過剰投資によるものが多いので計画的に生産がするのが良いという立場だった。自由主義は世界中から放逐された。
マルクスの計画経済がうまくいかなかったのはそうなんだが、ケインズも突発的な海外でのオイルショックといった供給不足には対応できないためケチがついた。そこで自由主義が新自由主義として再来した。
しかし自由主義は一度大規模経済危機を迎えたら不況と競争力低下が起きるという特性は変わっていない。1990年バブル崩壊で日本では経済悪化と競争力低下が起きている。
1980年以前は自由主義が放逐されていたため、ケインズ社会主義(右)、マルクス社会主義(左)でよかったが、自由主義が復活して主流を担ってるため、ケインズ社会主義もマルクス社会主義も相対的に左になる。
そもそも右だの左だの言ってる中心の連中は両方経済については自由主義だ。そして中国韓国北朝鮮だの、見たことも無い性的マイノリティ―や動物の権利だの国民経済と遊離した話題に注力している。
バブル崩壊や、リーマンショックの後、企業はビビッて金をため込むばかりで設備・研究投資をしなくなったんよ。
景気は不景気基本。また設備・研究投資をしないから産業の競争力もおちる。
そこに財政均衡論と新自由主義と構造改革が合いまうと失われた30年になる。
1990年バブル崩壊は日本だけの現象で、ゆえに1990年以降に発展したITについて、日本は完全に競争力がない状態になってしまった。資金過不足統計で企業が資金余剰に転じた。
ただ海外もリーマンショックの後資金過不足統計で企業が資金余剰に転じてる。
何もしなければ長期不況が起きて再びブラック企業が栄えだす。ブラック企業は労働需要低、労働供給高で、労働者を買いたたけるときに栄えるから。
肝心なこと忘れてた。何もしなければ激しい不況が継続する。ブラック企業が栄え、岡村の言うような女は売春をしないと食っていけないようになる。
いや、中選挙区制度に戻すことだろ。
小選挙区制は何らかの論点での対立を狙う。だけど、一番大事な「経済」をごまかして、経済以外のくだらない論点での対立にする。
経済は新自由主義緊縮で運用し、バブル後のバランスシート不況から逃れられない。
とすると、論点が複数立つというのも大事なんだと思うわ。それがゆえに論点が偉い奴の誘導で1つになる小選挙区制が欠陥だということだと思う。
MMTで自国通貨建て借金では破産しないという言説が普及したこと、参院全国比例でれいわが2取れたのが救いみたいなものか。
でもまあ、1919年世界恐慌というバブル崩壊のあと、ドイツは拡大路線を目指したが、日本は226事件で軍部が強引に物事を動かすのが良いとなったんだよね。
クルーズ船COVID19の対処には何らかの計画が建てられていたのでしょう。で、その前提に経てば「クルーズ船の隔離は成功していて」「成功したスケジュールを元に行動しないとならない」というものだった。
だから、隔離が失敗したという前提にたつと困るし、計画通りに隔離が成功したと言いがたいがために感染症の専門家を入れたくなかったんだろう。
本来であれば隔離が失敗した上での次の対策をねらないとならない。もともとは計画を作る段階でセカンドプランを作っておく。
ちなみに共産主義ことマルクス主義は、その前の自由主義の失敗によって生まれた。
自由主義の前提だと時折過剰投資によりバブルが発生する。そして、1929年大恐慌が起きた。
ドイツはユダヤ人虐殺や拡大主義に走り、日本でも226事件が起き軍部が強引に物事を動かすのが良いという風土になった。
他にも対処する案が生まれた。一つはケインズ主義で需給調整をするものがあったが、もうひとつはマルクス主義で計画を作りバブルが発生しないようにするというものだった。
なお、新自由主義はバブルが起きても金融政策だけでなんとかできる。である。
だけど計画主義はイレギュラーな事態に対応できない。試行錯誤も許さない。ゆえにマルクス主義は失敗に終わった。
例のクルーズ船も「隔離がうまく行くし行かなかった場合の計画なんて考える必要がない」だったんだろうねぇ。で、計画立ててそのとおりに進みつつ有り、そして、パンデミックを起こすと。
思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月の初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分の世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。
思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、
古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会の特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授を和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合・本地垂迹説・卜部神道・中世日本紀等々…の奇妙奇天烈な世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義、評価軸じたいが古今伝授の支配圏内で形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体がナンセンス。)
古今伝授が古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い・民族文化の精髄のように認識されていくその過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたかも胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割を果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造を捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的な断罪とか文化的価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。
本来ウイルスのもつ能力を自己の一部として、機能として取り込む。生物は自己の維持に必要な機能の一部を外部環境に依存する。ポータブル外部環境としての細胞。生命と非生命の境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命の定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだものの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。
契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念を押し付けてるだけじゃないの?とも思う。
根拠がない、合理的でない、和歌の質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?
これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授を擁護する側)にもその立場から反論するやつがいるからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人の気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからん、しかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感。いかにも科学的合理性に偏っている。
しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。
本書の示唆する構造は、外来文化を自家薬籠中の物にする日本文化の性質(漢字・仏教等々)、中世の遺制としての近世的身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。
本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまうことなく、細胞に異変があれば細胞内生物が独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。
文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教の信者でないのか?わけが分からない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか。
逆だろ?
とにかく自由にするのが最適なんだ!という考えのもと法人と富裕層をとにかく減税してきたから財源がなくなったんだよ。
挙句の果てに、そいつらが金を溜め込みまくったから、景気も悪化した。
更にいうとこれは100年前の再来な。100年前も自由主義がおき、その元産業化がすすんだ。だが、貧富の格差が膨れ上がり、さらにはバブル生成、バブル崩壊と、バブル崩壊後の長期不況が起きた。
その過程の中で、ドイツはメフォ手形を使っての財政出動をしたが、行きづまって海外拡張をした。
日本でも国を守る兵士の姉妹が貧困ゆえに売春宿に売られるとは何事だ!と226事件が起きた。226事件は鎮圧されたが、軍部が強引に物事を動かすのが良いという風土になり、二次大戦に至った。
一方で、ケインズが生まれ、資金循環についての思想が生まれた。西側諸国であれど、戦前の自由主義思想は放逐されて、国が資金循環を調整する考えがあった。
ケインズ単独ではオイルショックのような突然の生産力減少に対処できないが、だからといってケインズを否定する形で生まれた新自由主義はそれに解を与えるものでもない。
ただバブル生成崩壊とバブル後の長期不況が起きるという100年前と全く同じ流れとなっている。失われた30年を作った。
ケインズ時代に富裕層、法人にとって税金が高くて嫌だったというのはわからんでもないが、放置していたら金を溜め込んで景気を落とす。