はてなキーワード: 死生観とは
先進国の中で最も自殺率が高いこの国で、経済と自殺数に明確な相関があるこの国で、ピーク時年間三万人以上が自殺するこの国で、老人がコロナで一万人死ぬのと、働き盛りが自殺で一万人死ぬのと、どっちが国の未来のために重大な問題か論理的な結論は明確であっても、結局は自殺者が増える方向に社会は進むんだろう。残念でならない。
そんなことを言うと、じゃあ自分の祖父母がコロナで死んでも良いのか、なんていうやつが現れるけれど、年長者から順に死ぬのは正しいという死生観を持つ自分としては、自分の祖父母がコロナで死ぬより、自分の同期の友達が自殺で死ぬ方が嫌だよ。
「命はなによりも大切なのです!」って教育をガキの頃からみんな受けてるせいで、ジジババは死んでもいいから普通に行こうやってノリにできない
ヴァイキングみたいな死生観で教育すればいいのにな ヴァルハラが待ってるぜええとか言いながら原発に特攻したりコロナで死んだりすればいいんだ
だいたいマジな話生命のどこが貴重なんだよ 日本だけで100000000以上あるんだぞ しかもひとつ10ヶ月くらいで生み出せる どうでもいいじゃん
今の社会は本当に中途半端だ 生命なんてどうでもいいとみんな思いつつ、生命より大事なものはないという道徳に縛られてる
捨てればいいのに ニートを障害者を老人をドンドン殺して、若くて使える人間だけで社会を回せばいいじゃん それだったらコロナなんてマジでノーダメージだよ
って常識だと思ってたんだが、そうでもないんだろうか。
「みんながんばって外出を自粛して、こんなの早く終わらせようぜ!」みたいなツイートを複数見かけたのだ。
今の外出自粛要請は、感染者が一気に増えて医療崩壊を起こさないための時間稼ぎであって、
コロナによる死者数は減るのだろうが、当然、終息は遅くなる。
死者数無視して手っ取り早く終息したければ、みんなで一斉に夜の街にでも行って感染すればいい。
日本だけで100万人くらい死ぬだろうが、集団免疫が獲得できることだろう。
コロナは免疫が得られない、なんて話もあるが、もしそれが本当なら、コロナ禍は永久に終息しないことになる。
そうなら一時的な外出自粛なんて無意味で、死生観の見直しが必要になるかもだ。
今、外出自粛! 呼びかけている人たち(政府も地方自治体も、Twitterで叫んでいる一般人も含む)って、
いつまでそれを続ければいいと思っているんだろう。
コロナウイルスを天然痘のごとく絶滅させるのはまず不可能であることを考えると、
自然に集団免疫を得るのに3年くらい、ワクチンができたとして1年半後ぐらいってところかね。
それまでずっと、こんなことが続けられると思っているんだろうか。
仮に続けられたとして、その頃には居酒屋も夜のお店も全滅してそうだ。
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- timetrain 種族としての生存が絡んでくるとそちらに傾くのもわかる気がするけど、基本的には大正時代ベースの概念としてこの点はなんも違和感なく読んでたなあ・・・(いや、他におかしなところはいっぱいあるけど) 鬼滅の刃考察
- gokkie そもそも大正時代の話なんだから現代よか遥かに死と日常は近かったわけで。 そういう死生観の世界なんだから肉盾は当然だよなぁ。
- harsh88 男の責任って、別に例に出てるキャラらは自分らの主張を「男の責任」だなんて言ってない。錆兎ぐらいだろ「男なら」て言ってるのは。つーかむしろ男に限らず「人間として」じゃね。あと長男は大家族で大正だから。
- kingate マンガの時代背景は「大正」ですってツッコんだら野暮かい? ホントオマエラの「現代の目で見る」ってクソで大嫌い。
- maharada 一応大正時代の話なんで…大正にみえないですか、そうですね
- otihateten3510 大正時代だからな
- twwgot 現代人の価値観で断罪するのいい加減やめれば?大正時代の設定よこれ。
あのな、舞台は大正時代でもな、作ってるのは現代、読んでる人間も現代、たまたま舞台が大正時代の現代の作品なんだわ。
その時点ではてブ民の意見は、以前の自衛隊のストパンポスターへの擁護として「いや、下半身丸出しなのは必然性はある!なぜならあの世界では~」って設定の話しだすオタクと完全に一致なんだわ。
設定の話してねんだわ。
近年のディズニー映画は数世紀前のヨーロッパが舞台でも黒人が平等に活き活きと描かれてるんだわ。なぜならな、それが現代の進歩的な価値観に沿うものだからなんだわ。当時、黒人の扱いが悪かったからと言って、劇中に登場する黒人が召使いと奴隷だけだったら、視聴者の黒人の子供たちに対してdiscourageなコンテンツになるんだわ。
鬼滅の刃って少年マンガなんだわ。成人済の女オタクがイケメンキャラ見ておしょんこぽんぽんするコンテンツじゃなくて、あくまでも主要なターゲット層は少年なんだわ。
その少年たちに対して、誤った価値観をインストールしてしまうのはまずいよね、っていうのが今回の議論の本質なんだわ。
またそこからですか?
二年前に彼女にフラれたが、その傷が癒えないのをみてとてもよくわかる。
18歳まで、告白してはフラれ、好きな人はスポーツできるマンに盗られ、告白しては「テメッキモいんだよカースッ!!!!!!」と言われ。
もはや意地だった。彼女いなきゃしぬ、作らねばこの傷は癒えぬ、という意地で、18歳になってようやく彼女ができた。
「彼女がいる」ということ、僕を好きであるというその事実が、とても心地よかった。
別段、「なんで俺のこと好きじゃねぇんだよぉ!!?」とかぶちきれるとか、そういうへんな拗らせ方もせず、順調に「呪い」は治っていたように思えた。
4年前にできた彼女はとてもよい子だった。
だから僕はこの子と当たり前のように結婚するのかと思っていた。
しかしそうはならなかった。
諸々あって、ともかく別れた。
仕事や家族や環境や死生観、色んなものが互いにしっかり考える人同士だったからこそ、お互いすきだったのに別れた。
まあここはどうでもいい。
「嫌いだったから別れたんだろ?笑」という解釈でも後の文章を読むのに支障はない。
ここで大事なのは、僕は「誰かに好かれている」という状態としての「付き合う」にとても固執していたのだ。
さてそこから2年、非モテ時代の17歳の僕に言ったら「彼女いる時点で勝ち組だろ紙ね、欲張るなカス、○ろすぞ」としか言わんだろう。
好かれたい、好かれたい。という想いをずっとずっと思春期に抱いていたから、なにかを与えないかぎり人に好かれることは微塵もないと思っていて、だからこそ、付き合っているなかで自然と「あっ、好かれている」という感覚、勘違いであっても、それが一瞬でもそこにあったことが、僕にとって何よりの救いだったのだ。
だが一方で、僕はそれに依存していたのだ。
甘く甘く溶けてぼくの脳内にでろでろと入ってきて、視界はぐちゃぐちゃで、別れた瞬間その脳内に入った「彼女」を無理やり引きずり出されたような感覚で。
甘い甘い、ぼくの脳髄を一瞬でも埋めてくれる女の子を求めるだけのクソメンヘラに成り下がった。
モテは麻薬だ。非モテにとって、好かれるということは、依存だ。麻薬だ。
この呪いは、永遠に解けることがないんだなと僕は改めて思った。
とかバカなことを思っていた。
脱出なんかできねぇよ。
永遠に貴様の脳髄にぶち抜かれてるクソな思考なんだよ、非モテは。
そのクソは永遠に抜けない。
クソクソクソクソクソ。
あとゲーム依存にハマってやり過ごすくらいしかやり方がわからない。
誰か助けてくれ
昼に服用。副作用は先日の通り。
仕事が終わり帰宅。早速、嫁の胸チラにエロスを感じる。この感覚は久しぶりだ。尻を触りたくなるが、抑える。しばらくセックスレスだと最初の一歩が踏み出しづらい。
セックスに備えて風呂でイチモツを丹念に洗う。みるみるうちに勃起した。薬効は抜群。イチモツに血液が集中しているのがわかる。イチモツが、熱い。
嫁と適当な雑談を交わしていると就寝時間になったので、俺は一人でベッドへ向かった。一人でだ。嫁に声をかけるタイミングを失ったまま二階へ上がってしまったのだ。このままではダメだと勇気を振り絞り、階下へ戻る。「どうしたの」と目をまん丸にした嫁に「セックスしよう」。無事、オーケーをもらえた。
ベッドで待っていると、ワンピース姿の嫁が来た。座ったまま嫁を脱がす。「一緒に脱ごう」と嫁。露わになった裸体。見飽きたはずのシルエット。闇に隠れた興奮状態のイチモツを嫁は未だ知り得まい。
セックスが始まる。おっぱいを弄り、クリトリスを刺激すると"いつも通り"の反応がかえってきた。サイドポジションでマンコに指を入れる。嫁は左手を伸ばし、ついにギンギンのイチモツに触れた。そうしていると、マンコが凄まじいことになってきた。ベチョベチョだ。触り方を変えたわけでもなく、俺の思い過ごしでもない。ギンギンのイチモツに間違いなく興奮している。なぜなら、久しぶりのセックスで恥ずかしげもなく「入れて」と口にしたからだ。こちらとしてもたまらなく入れたかったので、性欲に任せてイチモツを突っ込んだ。
するとどうだろう。いつもなら刺激が少なくイチモツが萎える体位でも、ガチガチのままだ。精神的余裕。いつまでも腰を振れる。挿入時間が長い。嫁のマンコはすでにいやらしい音を立てている。あまりに長く突き続けたため、お互いに「少し待って」となる。そのころには、部屋中にメスの臭いが充満していた。
……俺は、それなりにセックスを経験し、嫁に飽き、女に飽き、セックスに飽き、オナニーに原点回帰し、性欲を失い、ついには男性機能を失い、悟りの境地に達したと思っていた。死生観すら変わり、人のセックスは動物的所業で、虫と変わりない交尾、人生は行雲流水と悟ったはずだった。しかし、違ったのだ。俺は、男性機能を失った。それだけだったのだ。全部後付けの見苦しい言い訳。勃起しなくなり、セックスが怖くなっただけの男だったのだ。今、わたしは両方のセイを感じている。
嫁は壊れるほどのオーガズムに達し、俺は震えるほどの射精をした。事後、イチモツについて語られることはなかったが、信じられないほどに上機嫌の嫁を見て俺はまた勃起。改めてed治療薬の凄さを思い知ったわけである。
アニヲタ歴は22年くらい?
私はアニヲタとしては00年代世代で、攻殻機動隊やハルヒが印象的だったんだけど
とは言えあそこでどっぷりハマったのは当時学生だった子達だと思う
90年代、00年代を経験してきたアニヲタ的には多分「なんかバズったね」程度だったのではないかな
・百合
(個人的にTV版は非常に熱狂したんだけど、映画版をまだ積んでると言う程度ではある。見なきゃ・・・)
ただこういう衝撃系作品って類似作品を出しても上手くいかないイメージが有る
実はエヴァもそうなんだよね、20年に1個くらい爆発する感じ?
調べたらアニメ化一発目が2009年夏らしいが、そのブームは2010年代を彩ったと言って良いと思う
実はこれも途中で止まってるので語る資格がないんだけど、ふれないわけにもいかない作品でもある
といってもこれは西尾維新+新房昭之節が極まった作品であって、他のアニメへの影響はほとんどないかもしれない
主人公がひたすら語る作品といえば、ハルヒと物語シリーズが思い浮かぶけど他にあるかな?
そういえば、ネットでの話題性に比べて円盤の売上がかなり高かったのが特徴的だったね
これもオンリーワン系だと思う
大変面白いけどそんな売れると思わなかった系でもある
2010年代は「面白いけどそれマイナー系だよね(ジャンプでやるようなタイプじゃない)」というのが正当に売れた10年だと思う
私の趣味に近づいた感じなんだけど、私みたいな奴が買ってるのかもしれない
2010年代はとにかくクオリティ向上が目についたと思うが、その集大成のように思えた
とんでもなく善良なあたりが現代日本っぽい
昔はもっと「根はいいやつだけどヤンチャ」とか「根はいいやつだけどスケベ」とかそういうのが多かったと思う
本当はアイドルアニメでまとめるべきなんだが私がちゃんと見ていないせいでまとめられない
SHOW BY ROCK!! 2015年(見た)
まだまだある!
・3DCGの強みを最高に活かせる
・スポ根の文脈があるから、いい話にもできるし女子ウケも狙える
私はドルオタではないしライブには興味がなかったが、最先端の3DCGで踊るアイドルには目を奪われたし
それに負けじと手描きで挑むのも面白かったし
というかプリパラで何度か泣いた
何気にこれもいろんな影響を撒き散らしてる気がしてならない
このアニメは声優アイドルの方で影響が強い気がするが、私はそこら辺疎いので語れない
個人的には「森脇監督+ふでやすかずゆき」という最狂タッグがプリパラという女児アニメでミルキィホームズを再現したのが衝撃だった
ちなみにふでやすかずゆきはゴチうさもやってたりする
ふでやす脚本回ではコメントで「ふでやすwww」と草をはやしている(これは私だけではない)
2010年代は3DCGアニメーションが普通に放送される時代となった
ようやくと言う感じ
3DCGを省力化のためにつかうというよりは、表現の幅を増やすために使っていたのが印象的だった
楽をすることなど考えておらず、クオリティをがるために戦略的に省力をしているようで、頭が下がる
そもそもアニメ業界全体で、気づかないうちに3DCGが使われているらしい
「誰が」と言う部分を語るとわけわからなくなるので、手法について語ると
一見すると品質の高くないように見える(MMDのような)3Dモデルを使用してアニメを作る手法だ
この手法の強みは何より制作期間の短さにあって、できるだけ少人数でアニメを成立させるならどうするかの局所最適解のように見える
素早く作れることで何度も内部でバージョンアップを重ねることができ、面白さ向上に繋がってると言う話はなるほどと思った
アジャイル開発だ
SNSで考察し合う前提で色々仕掛けておくたつき監督流には唸った
ちなみにけものフレンズは私が2010年代にハマったアニメ5指の中に入ると思う
けいおんが2009年初出、ひだまりスケッチが2007年初出、ゆるゆりが2011年初出らしい
その流れを組んだゆるい百合アニメは明らかに2010年代全盛期だったと思う
2014年にご注文はうさぎですか?が出た前後あたりから、明確にきらら系を意識されるようになったと思う
おおよその雰囲気として
・故に男女間の恋愛話に発展しない
・緩めのギャグ
・落ち着いた雰囲気
みたいなものがあると思う
見ているのは9割くらいが男性で、どうやら癒やしを求めているらしい
かくいう私も難民だけど
・ご注文はうさぎですか?(2014年)
実際にはこの3倍位の数にはなる
女だらけのアニメと聞くと、普通はお色気路線だと思うだろうが、それだけじゃ説明がつかないアニメがちらほら出ている
こういうのを並べてみて気づくのは、大抵何か趣味や地域の紹介アニメであることが多いと思う
たまたまかもしれないけど
これだけポリコレが極まった2010年代において、真正面からロリコンアニメをやる流れがあってちょっと笑った
ただ昔と違って、一個メタ構造になっていて、1人大人がいることが多い
ロリアニメではなく正しく「ロリコン(でギャグやる)アニメ」である
ただ可愛いとかじゃなくて構造的に成立してるのがなるほどと思った
示し合わせたわけでもないのに、この2作品は構造がかなり似ているのも面白い
話を作るに当たって下地にするものというのがある程度戦略的にパターン化されて行った
10年以上前ならアニメの主役は「世界を救う」みたいな話で、趣味や雑学はアニメでは脇役だったと思うが
2010年代は明らかに主役のポジションにそういう趣味・雑学作品があったと思う
おっさんがやってそうな趣味を女の子がやるだけでおっさんは喜ぶようだ
(ちなみに「世界を救う」から「趣味アニメ」の間に「部活アニメ」が挟まると思う)
そしてこういうのが流行るとどうやら世間でもプチブームが来るらしい
これはアニメが火付け役なのか、火がついたからアニメをやったのかどっちなんだろうか?
咲は初出が2009年だった
両方とも大ヒットしたために単体で文化っぽくなっているが
いろんなマニアックな知識をスポ根に落とし込んでいったのは非常にうまかった
私は2期までしかみてないんだけど
00年代のラノベの系譜を受けているので、今見ると少し懐かしい感じがする
触れるには荷が重い、そして私に語れる気がしない
特になろう系
ジャンル内で色々なアイディアで蠱毒をやった結果、驚くほど面白い作品が出てくることもある
魔法科高校の劣等生は最初楽しみ方が全くわからないまま見ていたが、ニコ動で見ていたら最終的になんか楽しくなっていた
腹抱えて笑った
確かこれでなろう系の印象が変わった
色々な出来事がイレギュラーに思えるんだけど、コメディとしてみれば割と基本を踏襲してたりするので異世界転生に先入観を持っていたのは自分のほうだと気づいた
これだけじゃないんだけど
そんなの昔からあると言われそうだけど、精神レベルで悪役というのは昔はそんなに無かった気がする
(ここにはたらく魔王さま!や、まちカドまぞくを入れるとよくわかんなくなりそうだけど)
すごい爽快感だった
これ一緒に語ると怒られそう
漫画だとこういう描き方あるけど、アニメのようなチーム制作ではきついでしょっていう作品を結構すごいクオリティで仕上げてきた年代だと思う
愛と執念と労力を感じた
そしてここらへん、題材としてはマイナーになりそうだったのに一個突き抜けて人気作になったのが意外だった
視聴者の年齢が上がってるのかも?
2010年代は、リメイク系アニメが成功した10年だったと思う
昔はリメイク作品がそこまで成功するイメージがなかったんだけど、2010年代はかなり安定していた
SSSS.GRIDMAN
非常に面白かったけど、特撮が一ミリもわからないので何も言えん
映画系 ほぼ見てない
BL ほぼ見てない
ソシャゲ系 見てない
他にも触れていないものが多いな、触れたいけどどう捉えるか難しいもの
・悪の華
・監獄学園
・銀魂
・斉木楠雄
・神のみ
・僕ベン
・クオリティの向上
こんな感じかな?
クオリティの向上により「背景が主役」みたいな落ち着いた雰囲気のアニメも作れるようになったと思う
(女性向け・BLアニメも台頭したはずなんだけど追ってないからわからん)
あと個人的にはニコニコ動画でアニメが見れるようになったのが大きな変化だ
コメントを見ると伏線の取りこぼしや背景の遊びなどに全部気づくことができるので楽しい(代わりにネタバレを踏むが)
・ラノベ系
・ギャルゲ系
なろう系、百合系、部活系は結構食いつぶしていると思うのでそろそろ縮小しそう
アイドル系はもう少しで食いつぶしそうな感じがする
流行り廃れはあっても全体的にボリュームが全体の変化は感じないかもしれない
というか半分くらい置き換わるかもしれないね
死ぬのが怖いので眠れない。
睡眠は小さな死だという言葉の通り、意識がなくなる自分が怖くって眠れない。
そうは言っても睡眠障害というわけでもなく、眠ろうとすれば眠れる。
ただ、その眠りに入るのがとても怖いのだ。
ツイッターで、自殺を予告したアカウントのツイートが流れてきた。
私がそれを知ったのは今日なので、アカウントの持ち主は数日前まで生きていたことになる。
境遇が特に当てはまるわけでもアカウントの持ち主と知人だったわけでもなかったし、最初目にした時は読むことすらせずスクロールした。そもそもニュースに疎いから、それが記事になった事件の話のことであるとも知らなかった。
その後、何となく気になったから巻き戻って、今度は不特定多数に晒された遺書を読んだ。
ただ怖かった。
社会に対する理不尽とか、彼が受けてきた苦痛とか、貶められたプライドとか、想像はできるが詳細が語られていないそれがどこまで彼を追い詰めたのかわからない。だが、ただ、怖いと感じた。
故人の復讐心とかではなく、そこで死を選択したことと、死んでしまった結果が怖いと思った。
いままでの人生で死にたいと思わなかったことは一度もないし、今でも死んでしまいたいと思うことは多々ある。
だが、死にたいなと思うたびに、死ぬことに付随する痛みや恐怖を想像してしまい一度も実行しようとまで至ったことはない。
それは、自分が抱えている死にたいという感情がそこまで切迫していないからかもしれないし、死ぬ以外の選択が残っているからかもしれない。
ただ、運良く死ぬのが怖いと思い続けているので私は生きることを選択している。
電車の人身事故による自殺や遅延など、数字だけでみてしまえばよくある話だ。
義務教育や学校教育のころは、道徳の授業で命についてだとか自殺に関するビデオを見せられたものを素直に受け止めていた。
だが、今になって自分が人身事故で電車の遅延に巻き込まれるようになった時、そこで誰かが死んだ事実に対し、何とも思っていない自分がいた。
授業であんなにも素晴らしい理想の、自殺者に対する態度を考えていたのに、他者の死に煩わしさすら感じていた。
遺書と、最後のツイートに繋げられたリプ欄には「迷惑をかけるな」と言った趣旨のリプライがズラリと並んでいた。
それに反論をしているツイートも勿論あったし、遺書と個人のツイートをスクショして、その死を広めようとしている人も何人か見かけた。
迷惑だと即答する人もいれば、自殺自体が迷惑だという人もいるのだろう。
飛び込み自殺を止められて、それでも死ねと言われたら誰だってそう言う。少なくとも私はそうだ。
その答えを用意していなければ、飛び込み自殺を批判してはいけないのか。
人の死生観や死ぬという選択に至った感情を尊重したいから安易に自殺するなとは、私は言えない。
身内や仲の良い友人ならば死んでしまうことが悲しいとストレートに伝えられるが、赤の他人なんてそんな感情持つ隙がない。
画面越しの遺書を見て私は怖くなった。
自分にとって、どうでもよくなってしまう数値に感情がついてしまった。
きっと、まだ生きていた頃のその人にあっても性格は合わないし仲良くなれるかもわからない。
もし、生きていたとしても街中ですれ違うことすらないかもしれない。
ただ、画面越しの単なる情報が感情を伝えて、関係のない他人の死を伝えた途端。赤の他人の死がとても怖くなってしまった。
故人は、死ぬのが怖くなかったのだろうか。
生きていた頃、存在すら知らなかった人物に聞くことは到底出来ない。だが、何となくザワザワとした感情を抱いた。
怖いまま死んだのか、怖く無くなってしまったのか、それとも怖いと思う隙間もなかったのだろうか。
死は怖い。
孫の顔を見せると喜ぶので、たまに7歳になる娘を連れて遊びに行くのだが、
「私、この子が成人になるまで生きてたりしてね。うふふ。」
と冗談めかしてそんな事を言う。
それを聞いた義姉が、
え?
笑えるのか?
7歳の娘が成人って、あと13年程。
10年そこらってすげえあっという間だと思うんだけど。
そんな近い将来、自分が死ぬ事を想定して、しかも冗談めかして言えるって心境にまで達観出来るってどんなだろう?
母はいくつもの難病を抱え、正直今生きている事自体奇跡に近い状況ではあるが、さすがに心からその冗談を笑う事は出来なかった。
そしてそれを周りが冗談として笑い飛ばせるって環境も当事者意識が薄いせいか全く想像付かない。
私自身は妻の父と同居してるが、死期なんて考えたことも無いし口にしたこともなかったからある意味衝撃だった。
そうなんだよな。人っていつか死ぬんだよな。そしてそれはそう遠くないのかも知れないんだなと考えたら、何だか自分に残された時間もそう長くないのかな。と考える。
今日もまたジャニーズの話になってしまって、無言でお茶を飲んでいた
ああこの人たちがジャニーズの話なんかしなきゃいいのに、と思うが
他人が思い通りにならないことに苛立ちを感じることは、一体何歳になれば卒業できるのか
(この歳までダメだったのだ。生涯このままの可能性の方がが高い)
悲しいことに未だ苛立ちという感情を封殺することが出来ないので、せめて隠し通そうと2人が話している間私は疲れたふりをして無言でいたのだ。(本当のところ拗ねていただけだ)
コントローラブルからは程遠い人生に翻弄され、他人が思い通りにならないことを赤ん坊のように苛立っている自分にも、この無力な人生にもうんざりするし
ただなんの意味もない気がする
きっともっと人間に近い人間に生まれられれば、こんな風に自分から一歩引かずに「どうして私が興味ないってわかってるのにジャニーズの話するの!💢」とか言って不機嫌になれてたかもしれない
そうすれば優しい友人のことだから、私に気を使って別の話題に移ってくれただろう
結局のところ、言うべきことを言わないことで人生が思い通りにいかないのだ
しかし、他人が思い通りに動かないことには苛立つが、思い通りにしたいとは思わないし
幼稚な事を言えば、後から幼稚な発言をした自分にも嫌気がさすことは目に見えている
他者と関わる事で自分を感じるとは言うが、この臆病で陰険で幼稚な人間性を感じたくないから、人付き合いは嫌いだ
人間自体は好きなのだ。話すのは好きだ。人肌も好きだ。副次的に発生する自己の認知が嫌いだ。それは特に、自分と他者が違えば違うほどはっきりと感じられる。
ああなぜ私は私なのだろう。友人すら他者と呼ぶほど他人との距離が遠い。人に心を開かない。パーソナルスペースは広くとりたい。近づいてこないでほしい。肉親の葬式でも泣かなかった。泣くべきだったのに。大事なのだが、大事分の執着がもてない。他人に興味がもてない。そして一応アスペではないのだが、軽度にその傾向が入っているのは確かで、興味のあるフリすらできない。
人は色々なものに執着していられるので羨ましい。好きなものがたくさんあったら幸せだろう。どうして好きでいられないのだろう。その辺のオスを運命の相手だと信じ込んでヒロインになれる動物的に正しい人生があってもいいじゃないか。
羨ましい。他人のことが好きで、興味を持てて、人間と常に過ごすのが苦でなく、同族と群れを作り生きる人々が。
一方で彼らのようになりたいとも思わず、彼らを嫌い嫌悪している自分もいる。
人とは仲良くしたいが、距離を置きたい。でも都合がいい時はそばにいてほしいと思うのだから傲慢だ。自分自身の傲慢さを許容できればよかったのだが、残念なことに健全な精神の育成に失敗した半生のせいで理想には程遠い自分を許すことができない。こんな傲慢な自分を人に見せるわけにはいかないので、他人とは取り繕えるだけの短期間しか会いたくない。
自己の中で色々なことが相反し、それを処理しきれない。処理しないまま傍若無人に生きている人もいて、そうなりたい気持ちと、別にどうでもいいような気持ちと、ああはならないようにしなくてはという強迫観念から逃げきれずにいる。
それはジャニーズを好きになりたい気持ちと(人間の女に迎合したい)、別にどうでもいいような気持ちと(生来興味がないのだと思う)、あんな馬鹿っぽい奴らを(と母がいつも言っていた)奴らを好きになってはいけないのだという観念によく似ていると思う。
どうなってはいけないか、どうしたらダメか、といつも考えるのだが、肝心の自分が「どうしたいか」ということはよくわからない、というかあまりその欲求がない
どうにもなりたくない。
苦しまなければそれで良いのだが、幸せを勝ち取ろうとしない限り+1どころかマイナスに陥るのが人生だろう。(下方婚増田系の増田はその辺を理解していないのではないかと思う)
人生が0に近づければそれでいいのに、漸近線で永遠に0には近づかない。プラスを望む人間は少なくともマイナスにはいないように見える。
生きていくのはよくわからない。あと10分生きること、あと10年生きること、何が違うのだろう。終いには全てなくなる。自分が死ぬことを私は観測できない。よくわからない。この溺れ続けるような人生の意味が。
上へ、水面へと、もがかなければ沈み続ける。
しかし、どれだけもがき続けようと最終的には沈む。早く沈んだほうが楽ではないか。
しかし、それは間違った考えで、世の中というのは皆が正しいということの方が大抵正しい。私だって昔は多くの間違った考えを持ち、それを正しいと信じていたいたが、成長するにつれて自分の間違いのほうが圧倒的に多いと気づいた。
つまりこの死生観は間違いである。少なくとも、幸せな人生を送るためにはニヒリズムを捨て去る必要がある。
だが、ニヒリズムとの付き合いは遡ること幼稚園の頃からのことであり、エラーのように生まれてくるニヒリストの1人が私であった不幸はもう取り返しがつかない。
意味がない人生に、「意味を見出すことが幸せである」と信じながら、見出せずに生きていくのだろう。
世の中に馴染みたい。だがそれにもなんの意味もない気がする。このような思考こそが全く意味がないことであり、今は明治時代のように人生の意味など考えている暇があったらタピオカの列に並ぶのが正義である時代だ。ああつまらない。人など皆死ねばいい。
せめてこの世に絶望することぐらいは否定しない世だったらよかった。しかし、嘆きは文句と取られつべこべ言わずに幸せになるなり死ぬならしろというのが今の世だ。
黒板の上に学級目標の「ポジティブに」の文字に押し潰されそうな気持ちでいた頃から何も変わっていない。
ただ私だけ禅問答のドツボにはまり人生を嘆いている間に、人は実態の幸せを手に入れたり捨てたりしているのだ。取り残されていくように思うが、初めから私は同じところにいなかったようにも思う。
婚活を開始してある程度の期間が経過したので、情報をまとめておく。
ネット上で一方的に存じ上げているプログラマの方が「オミカレ」に転職した。それによって「婚活パーティ」というものが存在することを知った。
ttps://party-calendar.net/
その方がすごく楽しそうに仕事をしているのを見て、自分も婚活パーティに参加してみるか、と思うようになった。自分が諦めていた結婚というものも、まだ可能性があるかもしれないと考えた。
※こういったものに限らず、同業者の人が「面白い」と言っているものは自分にとっても面白いことが多いのである。その最たる例がゲームと漫画。
数々の下調べを踏まえた結果、婚活パーティに参加してみることにした。
事前の準備として、以下のことを実施した。
いざ意を決してパーティに申し込んだところ、前日の夜中に電話で「パーティはキャンセルになった」と言われた。明言はされなかったが、どうやら女性に比べて男性が多過ぎたのだろう。ここから得た学びは「直前に申し込むと、はみ出る」ということ。
前回の学びを生かして次に申し込んだパーティでは、実際に参加することができた。開催は土曜日の昼。8対8のパーティ。全ての女性と5分間程度会話できるものだった。普段の顧客折衝の仕事と同じ要領で話を聞き、こちらのことも喋ったりして手応えを感じたものの、誰ともマッチングせず。喋り方、容姿、学歴、収入、趣味、どれがダメなのかは不明。
自分の何がダメなのかわからないまま、2回目のパーティに参加することに。土日開催とは違う参加者層を期待して、平日の夜のパーティに参加してみた。6対6だった。ここではマッチングすることができて、とても嬉しかった。しかし、この方とは2回のお食事デートの後、3回目(年末年始)を前日キャンセルされてしまった。その後、次の回の日程調整を進めるものの2ヶ月間ほど全て無理と言われてしまったため、フラれたと判断。
次は土日開催のパーティに参加。8対8。ここで、2回目のパーティでマッチングしてフラれた方と再会して気まずい雰囲気に。
それはさておき、他の人ともマッチングすることは無くて、ここから「趣味が合うこと」が重要であることを推測し始めた。そう考えると、1回のパーティに参加して会うことのできる8人程度の女性の中から趣味の合う人と出会うのは相当に難しいのではないかと考えた。
もっと多くの候補者の中からお相手を見つけるのが良いだろうと考えた結果、結婚相談所を利用することを考え始めた。最初に行き着いたのは、これまでに参加した婚活パーティの一つの主催者でもある、恐らく最大手であろう「IBJ」が運営している「日本結構相談所連盟」だった。
この連盟に加盟している、近所の結婚相談所のWebページの様子を見に行ったのだが、ここで立ちはだかったのが、学歴の壁。
観測できる限りにおいて、IBJ加盟の全ての結婚相談所にて、会員登録するには短大・高専以上の卒業証明書が必須なのだ。おそらくIBJ本体の方針なのだろう。筆者はいくら入学試験の難しい大学に入ったとは言っても中退なので、このIBJの基準では高卒扱いなのだ。幸いにして、筆者は通信制の大学に編入して経営学を学び始め、2年後には卒業見込みであるため、2年後の時点でも結婚の目処が立っていないのならば結婚相談所のお世話になろうと考えた。
女性の立場になって考えれば、卒業証明書の提出を求めるような相談所じゃないと、高いお金を払いながら安心して婚活するのは無理だというのは筋の通った話なので、IBJ系列以外の結婚相談所のことは調べることすらしなかった。また、前年である2018年の年収の実績値が400万円程度しかないというのも、所得証明を求める結婚相談所の利用を延期する理由になった。
趣味の合う人を探す効率のことを考えると、同世代の人口の多いサービスを選ぶことが大事そうである。ネット上の噂を参考にすると、その条件に最も合致しそうなのは「ペアーズ」であると判断して利用し始めた。
ttps://pairs.lv/
使ってみた最初の感想は、「Facebookのタイムラインには一切何も投稿しない」のは本当だった!ということだった。権限も求められなかった。少なくとも筆者の利用時期&利用内容においては。(余計な投稿をされることは一番恐ろしい話だ)
まず、趣味の合いそうな人を探し始めた。とは言っても、キーワード検索等をするにはさらなる課金が必要であるため、次のようなルールで行動した。
という使い方をした。一番最初にマッチングした人にメッセージを送信したところ、数分後にブロックされるという洗礼を浴びた。
次にマッチングした方とは、互いのこれまでの人生の歩み方について3週間ほどメッセージを交わし、直接お会いすることになった。最初にお会いした際に別の通信方法が確立されたため、Pairsにはアクセスしないようになる。その後、3ヶ月間ほどに渡って何度かお会いしていたものの、1ヶ月間ほど連絡が途絶えた。ふと気になって久し振りにPairsを開いてみれば、ブロックされていた。恐らく、最後に会って話題が死生観になった際に、お相手の傷つくようなエピソードが含まれていたせいじゃないかと分析しているが、確かなことは何もわからない。
という訳で進捗はゼロに。
面の皮を厚くして「同時に複数の方とメッセージを交わす」ことを気にしないことにした。言い換えれば、己の清純さよりは、運命の相手に辿り着くまでの時間の短さを優先した。そのため、とても多くの方のプロフィールを閲覧することになった。
Pairsでは、お相手の検索結果の並び順は、30分〜1時間程度ごとに変わる。恐らく、時刻を種とした乱数を使って検索結果を並べ替えているのだろう。というわけで、デフォルトでは1ページ16件の検索結果が表示されるのだが、1ページ目を参照し終わって2ページ目に移動すると、さっき1ページ目で見た人が居る、ということが頻繁に起こる。もちろん、アイコンを全て覚えるなんてことは無理なので、同じ人に何度もアクセスすることになる。
更に、女性のプロフィールで時々見かけるこの言葉「同じ人に何度も足跡をつけられてて気持ち悪い」。これが心に刺さる。では、足跡を何度もつけることの無いように、より多くのプロフィールを閲覧するにはどのようにすれば良いのだろうか? まず、足跡は残さない設定にできる。しかし、それは「気持ち悪い」と思われてしまうことへの対策にしかなっておらず、同じプロフィールを何度も閲覧してしまうことへの対策にはなっていない。
そこで筆者は、閲覧したプロフィールは必ず、いいねを押すかブロックするかのどちらかの行動を取るようにした。この方法ならば、時間計算量 O(N) でのプロフィール閲覧が可能になる。弊害としては、ブロックした方は二度と Pairs 上では見ることができないし相手からも見られない、ということが挙げられる。悲しい話ではあるが、素早く運命の相手に辿り着くには仕方のないことだ。代替案として、ブロック機能ではなく「非表示」機能の利用も考えられるが、事実上はブロックと同じであるため、ブロックを採用した。
概ね、次のような基準で操作をした。まるでパケットフィルタ(ファイアウォール)の設定のようだ。
この結果、おおよそ1ヶ月間という短い期間でもなんと7人もの方とマッチングすることができたし、3人という大勢の方と直接お会いすることができた。これは絶大な成果であることは間違い無い。日常生活では絶対に得られることの無い成果だ。課金の価値はあった。
参考にどうぞ。
こうやって見てみると、メッセージを2往復することができれば直接会うことのできる確率は高いようである。試行回数が少ないあたりには目を瞑ろう。
直接お会いすることのできた方は前述のようにおられたものの、その後が続かない形になってしまったことと、精神的にも身体的にも疲れてしまった(システム利用はどうしても夜中になるので疲弊する)ことと、最初にPairsに支払った6ヶ月間の利用権も期限を迎えそうになったため、活動休止して退会した。でも、退会直前の利用方法ならば可能性は十分にあるかなという手応えだったので、前述の通信制の大学を卒業してから出直すこととする。
定職に就いて収入さえしっかりしていれば通常の恋愛結婚の場面では問題は無いだろうが、これらのお見合い的なシステムにおいては、やはり学歴等のフィルタにかけられることは多いだろうと推測している。やはり、フィルタで振るい落とされない 強いメタデータ というのは婚活する上ではとても重要なのだろうと思う。
下記箇所について、補足。
多少横道に逸れるけど、前近代の家族観の認識のずれの方が気になった。
今となってはそれが極論に過ぎないという批判も多い
お手数だけどこれの根拠があれば紹介請う。
引用いただいた「今となっては『それ』が極論に過ぎない」という部分の「それ」は、直前の、いわゆる「近代の見直し」が盛んだった時代の論、を受けているのね。自分は家族論や社会学の専門家とかではないけど、たとえば20年ほど前にはF・アリエスの「子供の誕生」について、次のような言い方で「近代以前に〈子供〉はいなかった!」的な紹介がされ、多くの人に影響を与えたわけだけれど、
子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。(みすず書房:https://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html)
実際問題としてこれは「(我々が思うような近代的)子供(観)」が誕生したのは近代の出来事に過ぎない、というだけの話に過ぎないわけだということは、今となっては説明するまでもないことだよね。親子像、子供像が「今とは(多少)違う」のは事実としても、親子や子供が過去の文献に登場しないということはない。自分が言いたかったのはそういうことです。そして、増田が引いてくれた極東ブログが引用している元論文も、原文では次のように書いてるよね。
これを、極東ブログさんは「日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ」というタイトルで紹介するわけだけれど、この図式は上に挙げたアリエスの事例とそっくりだというのは分かってもらえるのではないかなあ。つまりもともと「(近世に誕生した近世的)家族は近世以前にはなかった」というだけの話しかしてないのに、それをセンセーショナルに取り上げて過剰に敷衍した意味づけをしている、という構図。いかがでしょうか? 本当は、近世以前にも、たとえば古代的、中世的な形で家族はあったし、古代的、中世的な姿で「子供」も社会的に存在した、ということです(たとえば「子供」を人間以前の存在として大人とは別なる名を与え、一定以上の年齢になると新たに人間としての名を与える「元服」という風習とかがそう。)。
さらに、今私たちが思う「子供」観の全てが「近代に作られた子供像」で説明できるのかと言えば、それもまた違うのではないだろうか。単純に同じと言えないことはもちろん前提なのだけれど、1300年前に山上憶良が「銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と歌ったその親子観、あるいは800年前ごろに、合戦中に年配の熊谷直実が、組み伏せた若武者が十六、七と我が子のような年の若者であるのを見て思わず刀を止めるシーンを描いた平家物語に見られる「年少者に配慮する心境」のようなものが、現代の私たちの「子供」観と全く不連続であると言い切るとそれも相当無理があると思うのですよ。もちろん、1300年前、800年前の人々と私たちは、政治制度も世界観、死生観、何もかもを共有していないと言っていい。だから、本当のところ彼らが何を感じていたかなんて分からない。(まあそれを言うならそもそも現代を生きている私たち同士だって、何をどれほど共有しているかは保証されないけどね。)それより、そうして「ことば」に載せるべきことは何か、すなわち彼らが「想定した公共」が何かという点に着目してみるなら、彼らと我々の間に一定の何かを架橋することは十分可能だと言えるのではないか。それを安易に「親子像、家族像の根本」であるとか結論付けるのはそりゃ止めた方がいいと思うけど、そこに「引き継いでいる何かがある」ことは認めた上で話を展開するのは、それは十分建設的なことだと思うんだよ。
※コノハナサクヤヒメの話を書くスペースが無くなったんだけど、一言だけ言うとあれは一般的な婚姻の姿をイメージしたお話とは言いがたいのではないかなあ。「姉妹を同じ人のもとに嫁がせる」のは、あの話では天孫降臨した人間の祖に対して山の神が繁栄を授ける、という文脈だよね。それは、たとえば地域を訪れた新しい権力者に対して地元の豪族が取り入る、みたいな図をベースに作り上げた物語なんじゃなかろうか?
自分は島村卯月、藤本里奈、長富蓮実、黒埼ちとせが特に好きな一介のユーザー。デレステ2年目から始めたので正直にわかであるが、藤本里奈がピックアップされた時は感謝の意を込めて課金した。
「はすみん好きなのにちとせ嬢が実装されるときに抵抗なかったの?」と聞かれると、正直な話あった。にわかでもゴリゴリにあった。
デレステには声がなくても見るからに人気なキャラが結構いる。浅利七海、遊佐こずえ、的場梨沙あたり顕著な気がする。いや自分がロリコンなわけではなくたまたま今挙げたのが全員ロリだっただけです。クールでは篠原礼さんと美波が一番好きです。
そんな中でちとせと白雪千夜の実装は衝撃的で困惑をしたし、上記三人とか見るからに人気だから先に付けてやってくれやって思った。
それでも自分はちとせの死生観や精神力の高さや見た目や見た目に反した無邪気な声質に惹かれ、SSRの母性溢れたイラストに惚れてしまった。今や自分の中でちとせは「最期を看取りたいアイドルNo.1」である。モデル修正されたしSSR可愛いぞ。気になる奴はスカチケでとっとけハム太郎。
けれど同時に、「この子は総選挙で上位に入ることはないんだろうな」というある種の虚しさも感じた。
最初から声が付いてSSRが早く実装されたからアンチが更に増えたせい、とかではない。アンチがどれだけ荒れようがマイナス票などが存在しない限りファンが増え続ければ問題ない。
ちとせには声がもう実装されている。既に実装されていることで、「この子にはもう投票しなくてもいいか」と思われる欠点ができてしまう。声未実装アイドルに票を入れて総選挙を楽しむ層の票はもう全滅してしまったと言っても過言ではない。実際自分もはすみんに多く入れてる。はすみん可愛いからみんな投票してくれ。
声が付いた途端上位から消えるアイドルは珍しくない。総選挙は「上位に入ればアイドルに声が実装される」という、金が尽きない限りある種ゴールのあるイベントだ。
もちろん落ちたからといって人気がなくなったわけではない。声がつくことによって一区切りついただけで、みんな変わらずそのアイドルが好きなのだ。
今回の総選挙は例年にない大波乱である。夢見りあむの三位がそれだ。最初は苦手だったがどんどん好きになった点で、自分にとってはちとせと同じスルメアイドルである。応援したい。
そこで荒れるのが従来からいるアイドルを推したい人達。こんなの間違ってる。前々からいるアイドルを応援するべきだと声を上げる。
実に老人らしい考えだと思う。
「こちらの方が先に生まれたので考えを譲るべきだ」「こちらの方が下積みをしっかりしたので報われるべきだ」
職場でよく聞く「若い者はもっと苦労するべきだ」理論にかなり似ている。
しなくてもいい苦労は、しなくてもいいのだ。
「先人がクーラーをつけずに生活してたから」だとか、「自分も上司の飲み会に散々付き合わされたのだから」だとか、今はもうしなくてもいい苦労なのだ。常識や環境や技術は目まぐるしく変わっていくのだから囚われる必要はないのだ。
正直、今となっては最初に抱いていた「最初から声が実装されているなんておかしい」という固定概念自体がそもそもおかしいかったと思う。
むしろこっちを通常化するべきなのだ。過去実装されたアイドルも未来実装されるアイドルも全員声を与えるべきなのだ。
総選挙全部を批判をしようとは思わない。(歌出るし。)こういう金と数に物を言わせるある種のお祭りは話題にもなるし運営がやめたくなったらやめればいいと思う。そこに自分の好きなアイドルがあんまり入らないのは前述通り残念ではあるが。卯月がまだ居続けてくれるの嬉しい。
ただ、総選挙に関わらず将来的に声は全員実装して欲しい。190人超もいるので難しいことだとはわかっているが、もしかしたら声が付くことでその子は本当に1億のドル箱になるかもしれないのだし。
あとふじりなのソロとフェス限ください。はすみんもSSRください。はすみんの声はちょっと大人っぽい中に隠しきれない年相応の可憐さがある感じがいいです。卯月のフェス限と期間限定が来る運もください。あと美穂引きました有難う響子ちゃんのSSRも引きます。
追記:個人の日記に対してこんなに反応していただけると思ってませんでした。そうだよねーって頷く根本的な問題への言及だとかも見れて助かります。増田ってとしあきみたいなものですかね。今ここふたばみたいになってるのかな。
WWGはデレマスの絵が漫画の中に上手く落とし込まれてる感じがしていいですよねー。掲載がチャンピオン系列だけあって漫画家の絵が上手くて読みやすい。
メジャー界隈は自分の意見通らないと人の話聞かないでキレるケダモノが多いね…って思ってたけど、現時点だと目立つだけで数自体はそんなにいないっぽくて安心しました
アイマスのイラストレーターは女の人が多いので50%くらいはちゃんと女の子から構成されているのですが、構成といえば今流行りのVtuberは声と外見の構成100%おっさんがいるしおっさんがおっさんに恋をするのも不思議ではない時代になってるし、考えるとやはりめまぐるしいですね。
ここ数年、Myはてなブックマークオブザイヤーを増田に書き込んでいたのですが、昨年分は年末に家族が怪我をしてしまってそれどこではなく、書かず仕舞いになってしまっていました。しかし、改元を年越しのように迎える向きを見て、この雰囲気の中で書いてしまおうと今日慌てて筆をとった次第です。
https://anond.hatelabo.jp/20171230115549
それでは、2018年マイはてなブックマークオブザイヤーの発表です。
こんばんは、猫です。
https://anond.hatelabo.jp/20180629195858
この短い文章の中で静かな猫的死生観、世界観がしっかり底に流れているように感じられる文体が秀逸です。再読したときは後半がややウェットに流れすぎているように覚えましたが、三度読んだときにはそこに愛が感じられました。このような揺れが生じるのも優れた作品ゆえなのでしょうか。
地中海式ダイエットを成功させて健康になるために必要なものは実は「お金」と「教養」
https://gigazine.net/news/20170807-secret-ingredient-mediterranean-diet/
子どもの自制心が将来を左右するという「マシュマロ実験」が再現に失敗、自制心よりも大きな影響を与えるのは「経済的・社会的環境」
https://gigazine.net/news/20180605-marshmallow-test-rich-kids/
遺伝子研究で「才能ありで生まれるよりも金持ちに生まれる方がいい結果を生む」という結果が発表される
https://gigazine.net/news/20181103-born-rich-or-gifted/
これまで色々言われてきたけどやっぱりお金が(できればお金持ちの家に生まれることが)物を言うんだよという研究が相次いで出ていたようです。世知辛いですね。
大規模調査でわかった、ネットに「極論」ばかり出回る本当の理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58264
2年連続で現代ビジネスの記事の受賞となりました。ネットにおいてわりと自明に近い扱いをされている集団分極化は、ネットの力によって生じていることが確認できなかった(むしろテレビや新聞等の伝統的メディアの力によって生じているのかもしれない)という研究等を紹介する記事です。これまでの考えが揺さぶられるのは面白いですね。
現在のネットで「極論」が目立っている理由についての筆者の研究と考察は記事をご覧ください。
ところで、ブコメにおいて「虚構かと思った」というのは最も好きではない言葉の一つだったのですが、昨年終盤からホットエントリーに現れる虚構新聞のタイトルが風刺として成立するものになってきていませんか?なにがあったんでしょうか。
現場はどんな感じなのか見たことないからわからないけど、手取り十数万そこそこで、時には暴力を振るわれながらも利用者や誇りや生活のために社会に貢献してる人に対して、この判決は酷い。なぜなら、これが国の政策だから。有権者が選んだ国会議員が決めた国家予算と運営方針に沿った法律によって定められた運営をしている特別養護老人ホームの現場の方がミスをして家族を亡くした方と親族や友人知人の実家で購読している新聞にそう書いてある。同じ法律の下に生活している全ての有権者に責任がある。にも関わらず、被告だけが有罪判決を受けてしまった。
植松受刑者は、心失者の人権を認めていない。一般的な人権の解釈とは隔たりがある。なぜ受刑者はその思想を得るに至ったのか。あるいは、どのような環境が思想を得るきっかけとなる経験を得やすいか。因果関係を明確にするのはとても難しいだろうと思う。
人の始まりはいつだろう。受精した時か、妊娠が分かった時か、身体機能が一定程度発達した時か、お腹を初めて蹴った時か。産声を上げた時か、母体から離れた時か、名前を決めた時か、名前が決まった時か、出生届が受理された時か。
人の終わりはいつだろう。誰からも愛されなくなった時か、死亡届が受理された時か。自分や家族のことがわからなくなった時か、身体機能が停止した時か。するべきことができなくなった時か、意識回復の見込みがなくなった時か。
この線引きが統一できないのは当然のことで、だからこそ、人としての始まりも終わりもない人の形をした心失者が出現する。つまり、重度障害者を人として認めない思想が出現した。思想を持つことと行動を起こすことが別系統の統制の話なのは明白なので、思想を持つことと行動を起こすことが別系統の統制の話だとは書く必要は無いが、大切なことなので二回書きました。線引きの幅に差があっても、五十歩百歩な考えを誰もが持ってる。生涯現役ぽっくり死にたい。家族に見守られながら穏やかに死にたい。家で終わりを迎えたい。ガソリン被って彼女の実家で焼け死にたい。誰からも愛されないからひっそりと迷惑かけずに死にたい。いろんな死生観があってもいい。自分の意思で決断するなら。
筋萎縮性側索硬化症 通称ALSという病気がある。全身の運動神経が壊れ、徐々に筋肉が痩せて動けなくなる病気だ。最終的には食事が飲み込めなくなって呼吸筋を動かすことができなくなって死ぬ。100万人に1人発症するといわれている難病だが、それを専門に見ていると、毎月のように新しい患者に出会う。
この病気は基本的には動けなくなるだけである。なので胃瘻を作り、口から管を入れる挿管という処置を行い、人工呼吸器を装着すれば生きることはできる。しかし最終的には全身を動かせなくなり完全に意思疎通ができなくなる。感覚は正常で、認知症を合併する例もあるが半分程度は意識がしっかりしたままである。
診断がついて説明する際に、現場では挿管人工呼吸器を導入しないように持っていくことが多い。多くの人は一生寝たきりで閉じ込められたままになると言うことに対し恐怖を覚えるので、その恐怖によりそう。さらに日本で一度挿管人工呼吸を行えば、外すことは殺人になるので外せないという。選択する人は少ないという統計学的事実を話す。このようにして「自主的に」選択させてしまう。
私自身がもしALSになったときに挿管人工呼吸器の状態になりたくないので本音を持って勧めていない。これは閉じ込められたままでいること自体の不幸だけではなく、家族の負担のことを考えたり、家族が介護できず長期間入院可能な病院に死ぬまでいることになってしまうことを知っているということもある。もちろん幸福は人それぞれで、外から評価することなどしてはいけない。ただやはり挿管しても家族に囲まれ幸せというような例は極めて稀だと考えている(患者会やワークショップなどでそのような症例が示されることもあるが、稀なので示されている)。患者自身と家族に相当な覚悟が必要となり、それはかなりの負担となると考えている。
ALSに関しての人工呼吸器非導入については厚労省からの指針もあるがあやふやな部分も大きく、現場では倫理委員会などはほぼ通さずに医者と家族との話し合いだけで決定することがほとんどである。
今回、透析導入を行わずに死に至った腎不全の患者が多数いることが世間を騒がせている。日本と海外の死生観の違いや保険診療、移植へのアクセスなどの差がありどちらが優れているなどという話ではないが、海外では透析を行わなかったり途中で中止することも可能だとも聞く。
そして、ALSに対しての人工呼吸器導入は海外では殆ど行われないが、学会によると日本では30%ほどの患者で行われているという。
ALSは今回の透析の件とは全く異なる話であり、両者を比べる事自体が意味のないことである。ただ、ふと報道をみて、卑近な例であるALSについてどうなのだろうと思うところがあったため増田に吐き出した。
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補足
※挿管人工呼吸を選んだ患者を批判したり責めたりする気持ちなど全く無く、愚かな選択肢だと思っているわけではない。
※ここで記載した説明のやり方が完全に間違えているということは認識している。本来ICにおいて、医療者側は患者が必要としている十分な情報提供を行い、患者が”誤解なく”理解し判断できるように支え、専門的知識や経験を通して患者にとって何が最善となるのかを共に考えていくべきである。医療者は情報提供を恣意的に行うべきではないが、患者は殆どの場合自分からは決めきれない。決めて欲しいと丸投げされることも多い。このような形になってしまう。
※挿管までは至らないNPPVというマスク型呼吸器もある。最後は呼吸不全で死ぬが、一時しのぎにはなり呼吸苦の緩和もできる。緩和ケアの一部として推奨されているが、結局は動けないまま苦しむ時間が長引く。私はこれに対しても否定的ではあるが、導入することは多い。導入しなくても罪には問われないはずではあるが、罪に問われる可能性がないわけではない。使わなければ呼吸苦や不安が強くなり、夜間に自宅で突然死している可能性も高く、また患者も医者も何もしないという選択肢を躊躇するということ多いのだ。