現場はどんな感じなのか見たことないからわからないけど、手取り十数万そこそこで、時には暴力を振るわれながらも利用者や誇りや生活のために社会に貢献してる人に対して、この判決は酷い。なぜなら、これが国の政策だから。有権者が選んだ国会議員が決めた国家予算と運営方針に沿った法律によって定められた運営をしている特別養護老人ホームの現場の方がミスをして家族を亡くした方と親族や友人知人の実家で購読している新聞にそう書いてある。同じ法律の下に生活している全ての有権者に責任がある。にも関わらず、被告だけが有罪判決を受けてしまった。
植松受刑者は、心失者の人権を認めていない。一般的な人権の解釈とは隔たりがある。なぜ受刑者はその思想を得るに至ったのか。あるいは、どのような環境が思想を得るきっかけとなる経験を得やすいか。因果関係を明確にするのはとても難しいだろうと思う。
人の始まりはいつだろう。受精した時か、妊娠が分かった時か、身体機能が一定程度発達した時か、お腹を初めて蹴った時か。産声を上げた時か、母体から離れた時か、名前を決めた時か、名前が決まった時か、出生届が受理された時か。
人の終わりはいつだろう。誰からも愛されなくなった時か、死亡届が受理された時か。自分や家族のことがわからなくなった時か、身体機能が停止した時か。するべきことができなくなった時か、意識回復の見込みがなくなった時か。
この線引きが統一できないのは当然のことで、だからこそ、人としての始まりも終わりもない人の形をした心失者が出現する。つまり、重度障害者を人として認めない思想が出現した。思想を持つことと行動を起こすことが別系統の統制の話なのは明白なので、思想を持つことと行動を起こすことが別系統の統制の話だとは書く必要は無いが、大切なことなので二回書きました。線引きの幅に差があっても、五十歩百歩な考えを誰もが持ってる。生涯現役ぽっくり死にたい。家族に見守られながら穏やかに死にたい。家で終わりを迎えたい。ガソリン被って彼女の実家で焼け死にたい。誰からも愛されないからひっそりと迷惑かけずに死にたい。いろんな死生観があってもいい。自分の意思で決断するなら。