はてなキーワード: 熊谷直実とは
下記箇所について、補足。
多少横道に逸れるけど、前近代の家族観の認識のずれの方が気になった。
今となってはそれが極論に過ぎないという批判も多い
お手数だけどこれの根拠があれば紹介請う。
引用いただいた「今となっては『それ』が極論に過ぎない」という部分の「それ」は、直前の、いわゆる「近代の見直し」が盛んだった時代の論、を受けているのね。自分は家族論や社会学の専門家とかではないけど、たとえば20年ほど前にはF・アリエスの「子供の誕生」について、次のような言い方で「近代以前に〈子供〉はいなかった!」的な紹介がされ、多くの人に影響を与えたわけだけれど、
子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。(みすず書房:https://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html)
実際問題としてこれは「(我々が思うような近代的)子供(観)」が誕生したのは近代の出来事に過ぎない、というだけの話に過ぎないわけだということは、今となっては説明するまでもないことだよね。親子像、子供像が「今とは(多少)違う」のは事実としても、親子や子供が過去の文献に登場しないということはない。自分が言いたかったのはそういうことです。そして、増田が引いてくれた極東ブログが引用している元論文も、原文では次のように書いてるよね。
これを、極東ブログさんは「日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ」というタイトルで紹介するわけだけれど、この図式は上に挙げたアリエスの事例とそっくりだというのは分かってもらえるのではないかなあ。つまりもともと「(近世に誕生した近世的)家族は近世以前にはなかった」というだけの話しかしてないのに、それをセンセーショナルに取り上げて過剰に敷衍した意味づけをしている、という構図。いかがでしょうか? 本当は、近世以前にも、たとえば古代的、中世的な形で家族はあったし、古代的、中世的な姿で「子供」も社会的に存在した、ということです(たとえば「子供」を人間以前の存在として大人とは別なる名を与え、一定以上の年齢になると新たに人間としての名を与える「元服」という風習とかがそう。)。
さらに、今私たちが思う「子供」観の全てが「近代に作られた子供像」で説明できるのかと言えば、それもまた違うのではないだろうか。単純に同じと言えないことはもちろん前提なのだけれど、1300年前に山上憶良が「銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と歌ったその親子観、あるいは800年前ごろに、合戦中に年配の熊谷直実が、組み伏せた若武者が十六、七と我が子のような年の若者であるのを見て思わず刀を止めるシーンを描いた平家物語に見られる「年少者に配慮する心境」のようなものが、現代の私たちの「子供」観と全く不連続であると言い切るとそれも相当無理があると思うのですよ。もちろん、1300年前、800年前の人々と私たちは、政治制度も世界観、死生観、何もかもを共有していないと言っていい。だから、本当のところ彼らが何を感じていたかなんて分からない。(まあそれを言うならそもそも現代を生きている私たち同士だって、何をどれほど共有しているかは保証されないけどね。)それより、そうして「ことば」に載せるべきことは何か、すなわち彼らが「想定した公共」が何かという点に着目してみるなら、彼らと我々の間に一定の何かを架橋することは十分可能だと言えるのではないか。それを安易に「親子像、家族像の根本」であるとか結論付けるのはそりゃ止めた方がいいと思うけど、そこに「引き継いでいる何かがある」ことは認めた上で話を展開するのは、それは十分建設的なことだと思うんだよ。
※コノハナサクヤヒメの話を書くスペースが無くなったんだけど、一言だけ言うとあれは一般的な婚姻の姿をイメージしたお話とは言いがたいのではないかなあ。「姉妹を同じ人のもとに嫁がせる」のは、あの話では天孫降臨した人間の祖に対して山の神が繁栄を授ける、という文脈だよね。それは、たとえば地域を訪れた新しい権力者に対して地元の豪族が取り入る、みたいな図をベースに作り上げた物語なんじゃなかろうか?