2019-12-17

死ぬのが怖いので眠れない

死ぬのが怖いので眠れない。

睡眠は小さな死だという言葉の通り、意識がなくなる自分が怖くって眠れない。

そうは言っても睡眠障害というわけでもなく、眠ろうとすれば眠れる。

ただ、その眠りに入るのがとても怖いのだ。

ツイッターで、自殺を予告したアカウントツイートが流れてきた。

最近出来事だ。

私がそれを知ったのは今日なので、アカウントの持ち主は数日前まで生きていたことになる。

境遇特に当てはまるわけでもアカウントの持ち主と知人だったわけでもなかったし、最初目にした時は読むことすらせずスクロールした。そもそもニュースに疎いから、それが記事になった事件の話のことであるとも知らなかった。

その後、何となく気になったから巻き戻って、今度は不特定多数に晒された遺書を読んだ。

ただ怖かった。

社会に対する理不尽とか、彼が受けてきた苦痛とか、貶められたプライドとか、想像はできるが詳細が語られていないそれがどこまで彼を追い詰めたのかわからない。だが、ただ、怖いと感じた。

故人の復讐心とかではなく、そこで死を選択したことと、死んでしまった結果が怖いと思った。

いままでの人生死にたいと思わなかったことは一度もないし、今でも死んでしまいたいと思うことは多々ある。

だが、死にたいなと思うたびに、死ぬことに付随する痛みや恐怖を想像してしまい一度も実行しようとまで至ったことはない。

死にたいと思いながらも死ぬのが怖い臆病者なのだ

それは、自分が抱えている死にたいという感情がそこまで切迫していないからかもしれないし、死ぬ以外の選択が残っているからかもしれない。

ただ、運良く死ぬのが怖いと思い続けているので私は生きることを選択している。

電車人身事故による自殺や遅延など、数字だけでみてしまえばよくある話だ。

義務教育学校教育のころは、道徳の授業で命についてだとか自殺に関するビデオを見せられたものを素直に受け止めていた。

だが、今になって自分人身事故電車の遅延に巻き込まれるようになった時、そこで誰かが死んだ事実に対し、何とも思っていない自分がいた。

授業であんなにも素晴らしい理想の、自殺者に対する態度を考えていたのに、他者の死に煩わしさすら感じていた。

遺書と、最後ツイートに繋げられたリプ欄には「迷惑をかけるな」と言った趣旨リプライがズラリと並んでいた。

それに反論をしているツイートも勿論あったし、遺書個人ツイートスクショして、その死を広めようとしている人も何人か見かけた。

死ぬことは迷惑ではない。

電車が止まるのは迷惑だ。

線路自殺すれば電車は止まる。

なら、線路自殺するのは迷惑なのだろうか。

迷惑だと即答する人もいれば、自殺自体迷惑だという人もいるのだろう。

どこで死ねばいい。どこなら死ねるのか。

飛び込み自殺を止められて、それでも死ねと言われたら誰だってそう言う。少なくとも私はそうだ。

その答えを用意していなければ、飛び込み自殺批判してはいけないのか。

人の死生観死ぬという選択に至った感情尊重したいか安易自殺するなとは、私は言えない。

身内や仲の良い友人ならば死んでしまうことが悲しいとストレートに伝えられるが、赤の他人なんてそんな感情持つ隙がない。

画面越しの遺書を見て私は怖くなった。

自分にとって、どうでもよくなってしまう数値に感情がついてしまった。

きっと、まだ生きていた頃のその人にあっても性格は合わないし仲良くなれるかもわからない。

もし、生きていたとしても街中ですれ違うことすらないかもしれない。

ただ、画面越しの単なる情報感情を伝えて、関係のない他人の死を伝えた途端。赤の他人の死がとても怖くなってしまった。

故人は、死ぬのが怖くなかったのだろうか。

生きていた頃、存在すら知らなかった人物に聞くことは到底出来ない。だが、何となくザワザワとした感情を抱いた。

怖いまま死んだのか、怖く無くなってしまったのか、それとも怖いと思う隙間もなかったのだろうか。

死は怖い。

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