はてなキーワード: 教会とは
某スケートアニメを見始めたのは、1話が放送されて2週間ほどたってからのことだった。
初めて見た時、主人公が「僕はいたって普通の人間です」的なことを言っていて「いやいやいやwww」と苦笑したのを覚えている。
そんなことを言ってしまうような気弱な性格の彼だが、後半部で流れるスケートには彼の持って生まれたセンスや努力が垣間見え、とても感動した。
しかもトップの選手がそんな彼の演技をたまたまネットで見て、心惹かれ、コーチに名乗り出るなんて!
1話の時点で「面白い!」とはまった私は、気づけば10話まで見ていた。
その間には「あれ?これってBLアニメだったのか…?」と疑問に思ったシーンも多々あった。
特に7話のキスシーン(ハグシーン)ではファンたちが大変にざわつき、自分も少々思うところがあった。
でも、まぁ、ハグだなと私は思ったし、あれは主人公のスケーティングへの感動や、これから一緒に本気で金メダルを目指そう…だとかいう色々混じった感情の爆発に見えたので、あの瞬間を見た私は「あぁ、スケートアニメだなぁ。スポーツしてる!!」と感動を覚えた。
それがどうだろう。10話。どうした?
フィギュアスケートはどこへいった?
そんな気分で今は一杯だ。
ちょいちょい違和感に覚えたシーンも、10話を見た後では納得いく部分ばかりだ。
これはフィギュアスケートアニメじゃなくて、恋愛を描いたアニメなんだ、と。
10話を振り返っていこう。
最初、各キャラクターたちは本番のリンクで公式練習を行っている。
練習時間も終わり各選手がリンクから散っていく中、主人公とコーチが次にやることとして選んだのは観光と買い物だった。
でも、そういう息抜きは前乗りして済ませておくのでは?
精々短い時間で済ませるべきでは?
なのに、彼らのお遊びは夜まで続けられ(おそらく公式練習は午前中にあったんだと思われる)、しまいには観戦に来ていた姉とバレエの先生に強請られファイナル出場選手たちとディナーを共にするという。
初めに、主人公くん。
君はカナダの選手と比べられ「このままの構成じゃ勝てない」と言われているんだ。
公式練習が終わったら、スタッフを集めてこれからどうするかのミーティングをするべきではないのか?
演技構成を変えるのか、それともこのままいくのか、その辺きっちり相談をすべきだろう。
なのに、観光に出かけ買い物に行き、夜まで遊びまわる。
陸上トレーニングとかイメトレとか、氷の上以外でもできる練習は山ほどあるだろう?
なんだそれ。
次にコーチくん。
荷物を選手に持たせているのを見る限り、リビング・レジェンドの傲慢さを感じさせる。
しかも、夜まで買い物に付き合わせるとか…おい、主人公に練習させろ、練習を。
自分たちのテンションが上がったからと言って、弟に強請って他の選手を呼び集めてもらうか?
せめて弟だけにしておけ。
ファンの行き過ぎ行動としては、精々ホテルでの出待ちまでだろう。
なのに、作中のファンたちは選手が出かける先にまで付いて回り、しまいには「これ!彼の髪の毛だわ!匂いがする!」てなもんだ。
ストーカーかよ。
選手に多大な迷惑掛けるファンをアニメで描写されると、フィギュアファンが誤解されそうで心配だ。
「ああ、リアルもこんなことやってそーw」って。
ロシアのコーチもホテルのロビーで自分の選手がファンに迷惑しているというのに、何もファンに注意をしないのも違和感だった。
彼は選手が大切ではないのだろうか…?
そしてまぁ、例の指輪。
人が二人・ペアリング(ウエディングリング)・教会・指輪の交換・頬を赤らめる。
上記の単語で結婚・婚約というイメージをしない人はあまりいないのではないだろうか。
彼らの愛の対象が男だろうが女だろうが無機物だろうがなんでもいい。
でも、それまでの過程や葛藤を描かずに、散々ぼやかしてきて、いきなり指輪の交換というのは納得がいかない。
『お守り』なんて予防線を張らずに、ちゃんと「付き合おう」だとか「結婚しよう」だとか言わないと違和感しかない。
これがたとえ男女の間柄だったとしても、私は違和感しか覚えない。
だって彼らは1年を通して選手とコーチとして付き合い、そして念願のファイナル出場までこぎつけたのだ。
そこに過剰なハグや裸体の見せあい、キスがあったとしても、一言も彼らは「好き」とは相手に伝えていないのだ。
ああ、そうか。
いつだか「離れずにそばに居て」と言っていたな。
あれが告白か…。
EDでは特別EDとして、作中で行われた昨年のバンケットの様子が流された。
バンケットはフィギュアスケートの大会後の打ち上げパーティー的なものだが、選手間の交流や社会での作法を学ぶ場としての位置づけが大きい。
だけど、そこには一定の品が求められる。
でも、そんな場で彼らはパンツ一枚になってポールダンスに興じたのだ…。
なぜ?
酔ってふらふらの男がいきなり脱ぎだし踊り狂うのは下品以外の何物でもないのでは?
そんな醜態を晒していたのに、主人公は「覚えていない」とのことだった。
ここが10話を見て一番信じられなかった。
酔って記憶を無くすというのは、よく話に聞く。
私は記憶を無くすまで酔ったことが一度もないので、本当かどうかは実のところ半信半疑なのだが…。
と、いうのが理解できないのだが、誰かこれがどういう意味なのか納得いく説明を私にしてくれ。
覚えていなくたって、主人公はコーチやスケート連盟などから注意されて当然では?
まわりの選手たちも「君のダンスは最高だったね!」だとか「酔ったからって、脱いじゃダメだよ」なんてことを主人公に言っていてもおかしくないのでは?
なのに、主人公は何も覚えていない。
この世界のスケート連盟は選手たちがが「面白かったね」と言えば「ははー!」と頭を下げる程度のポジションなのか?
だからあれか。
ロシアのスケート連盟は、自国の現役トップ選手が飛び出して他国の選手のコーチになることに何も言わないんだな。
あー。
やべぇ、この世界!
しかもバンケットで「コーチになってよ~」と主人公がねだっているので、冒頭に書いた『彼の演技をたまたまネットで見て、心惹かれ、コーチに名乗り出るなんて!』という部分はまるっきり意味の無い話。
他にもまだ疑問に思った所はいくつかあるのだが、この辺にしておこう。
そんで、なんだ。
あー、あれだ。
原案を描かれている漫画家の方がツイッターにて『(略)この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです(略)』と呟いておられた。
そうかー。
このスケートアニメの世界では、誰を、何を好きになっても差別されない世界なのか。
いい世界だなぁ。
でも…なら、なぜ主人公とコーチの愛にしか焦点が当てられないのだろう。
他の愛は、ギャグや嫌味でまみれていた…。
カナダ人選手の婚約者は「あんたのファンって最低ね」みたいなことを言って、他の選手を煽るような嫌な女だった。
男女と男男のカップルだけで、女女のカップルなんて皆無だし、多性愛の人とかも出てこない…。
ああ、なんだろう。
この微妙にずれている感じ。
私だけだろうか。
最初のころは試合や演技にドキドキしてた視聴者たちの多くが、今は主人公とコーチの今後がどうなるかにしか興味を抱いていない感じ…。
彼らのフィギュアスケートはどこに行ったんだろう?
愛を描くなら、ちゃんと愛を描く。
フィギュアスケートを描くなら、ちゃんとフィギュアスケートを描いてほしい。
どちらも描きたいのなら、今の状況ではどちらもお粗末に思える…。
はじめに言っておくと、私は一切某アニメを見ていない
そのことを留意した上で読んで欲しい
そして私の友人にも腐女子が沢山いる。
おそらく私の周りだけではなく日本中の腐女子が今期一番見ているアニメだと思う。
よくその代表格で語られる某水泳アニメや某六子アニメは確かに見られないからだ。
しかし、男性も見ている、という声や競技の作画が素晴らしい話も聞く。
だから最初は抵抗を感じつつも見ようかな、という気持ちがあった。
何度も言うが、私は一切本編を見ていない。だから周りの感想しか知らない。
腐女子というのはすぐに死んで墓に入るが、今回は相当だということはなんとなくわかった。
指輪がどうの、とか教会がどうの、とか、まさに結婚としか言いようのない展開らしい。
ただ、それを腐媚びと言うのはおかしい、と皆口を揃えて言う。
むしろそんな軽さではなく、LGBTについて丁寧に考えている、と言う人もいれば、
色々な愛の形を提示しているだけ、と言う人もいる。
とにかく、媚びとかそういう話ではなくて、どこまでも純粋な愛の話だと。
関係者のツイートも見た。どんな形の愛もこの作品の世界では差別しない。
そこまで言うのだから、本当に考えているのだと思う。そしてこの作品のテーマの一つでもあるのだろう。
そこまで理解した。
でも見られない。それどころか、さらに抵抗感が増してしまった。
それなのに抵抗感がひどい。本当に何故かわからない。
自分は思っていたより天邪鬼なのかもしれない。かなり拗らせて捻くれているのかもしれない。
深層心理ではLGBTを嫌悪しているのかもしれない。腐女子なのに。
ただただ見たくない。
これからおそらくラストスパート。目にする機会はさらに増える。
1人謎の憂鬱に襲われているのが辛い。
でも、とにかくもやもやする。
同じような腐女子の方、いませんか?
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追記
真夜中の投稿にもかかわらずたくさんの反応ありがとうございます。
確かカトリックの反動でプロテスタントそしてプロテスタントリベラルの反動でプロテスタント福音派が生まれたと認識してるがそういう背景か(違ったらゴメン)
あちらには再生産できる継続性を保ちながら丁度良い生き方の着地点を
カウンターを繰り返し分派しながら探し続ける文化があるのかなぁ
日本では一斉で増えて一斉に潮が引いてるっぽいけど此処で何か丁度良い哲学生まれないものか
どうも極端だったり一世代だけ如何に凌ぐかというある種ニヒリスティックなソフトランディング志向ばかり目につく
まぁそっちが目につくだけなんだろうけど丁度良い人達の方は丁度良いだけに溶け込んで見えづらい
キリスト教の教会なんかはそういう意味でも明確に存在してて見えて合理的なんかなぁ
うーむ
ドイツ軍のソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組織的殺戮作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人の絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。
「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパのドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決』遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段の計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」
この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議を召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民局ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。
「ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。
1941年12月11日、日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツはアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦の様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツを戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界の世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。
ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録はニュルンベルク国際軍事法廷に証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分がゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。
「総統の意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方に追放し、その跡地に対して行われることになった…
ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」
ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域のユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツの占領国や同盟国とは別にイギリス、ソ連のヨーロッパ地域、また中立国のポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、アイルランド、トルコといった、ドイツが占領する予定だった国も含まれていた。
ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後の証言で「ヒトラーがユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実、東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害—特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務に対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所を対応させる必要があった」。
この会談の直後、アイヒマンはアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。
ガスを使った殺害はナチ・ドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画は1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式な組織として医師を擁する医療関係の諸機関(大学・研究所・病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。
かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体は特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会側から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。
しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである。
絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍の戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間で捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車か冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊なパイプが排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。
「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連のドイツ占領地域では1941年の12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。
1941年12月8日。占領下ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初の絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれた区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」
「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれた場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年春から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティ(ヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。
1941年11月。ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議でハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人である。ハイドリヒは1942年5月にチェコのレジスタンスに暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファースト・ネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官兼警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツの東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者のウクライナ兵部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近の住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。
ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室へ直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人が 処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。
ルブリン近郊のマイダネク収容所はユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。
強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国領ポーランド南部、シレジア地方に建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランド名オシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎の敷地に強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校と政治犯を収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍需工業に囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所、アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所の建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所(アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体はガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム=火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体はガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所へ移送された。他に子ども、双生児、脊髄に障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。
生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。
厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓にさらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道な所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人用バラックからは毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。
相手の内に貯め続けた抑圧がついに破裂して私の頬を切り裂いた瞬間に感じた、あの胸の軋み、頭と身体に血が逆流したかのような感覚。
この断絶される瞬間を私は望んでいたのだろうと思わざるをえない高揚。
私が幸せにならないように行動を抑制妨害してくる自分が確かに居るのだと知覚する。
社会的にも家庭的にも破滅してしまったことだし、もう許して幸せにさせてはくれないものだろうか?
(できることなら、失ってしまった社会的地位や家族を再獲得したい。幸せになりたい。)
(ああでも、マイナスから立て直すというのは酷く面倒だよね。頑張りたくないから壊したくなかったのに。)
自分で自分の足を引っ張るという性質は、弱者の“言い逃れ”のための衝動だとか。
確かに、“私の妨害をしてくる私”とのバトルを最重要問題にしているうちは、頑張らないと掴めない理想の幸せ獲得へ立ち向かわない言い訳になる。
誰からだろうと全ての電話に出ないし、全てのメールを読まない・返さないから、「あなただけ特別無視している」のではないのだと言い逃れしている。
(しかし実際のところ、電話やメールなどの予告ナシに他者から切り込まれる行為に対して、めちゃくちゃ磨耗疲弊するという部分はある。)
『逃げ恥』原作の「なんだか 俺はいつも逃げている」からのくだり、すごく好きなんだよね。身に染みた。
(女だけども、感情移入自己投影するのは圧倒的に平匡さんの方で、みくりちゃんは理想の王子様に見えている。)
私だって、もう戻りたいよ。(でもどうすればいいかわからないんだ)
教会とかで懺悔をすることで、自罰衝動が癒されることもあると聞く。
試す価値あるのかなぁ…という考えを今こうやって増田にぶつけてる。
涙が流れるほど心震えるのは、“正しいこと”が肯定されるシーンと、美しい男性が自意識拗らせて破滅する物語、に触れた時。
“正しいこと”を正しいと認め合うことってさぁ、仕事してるとびっくりするほど少なくない? 私が働いていた環境下がブラックばっかりだっただけかな?
なんかもう生活しているだけで恒常的に信念とか倫理観とか自分の柱を削られまくっていたんだろうね…
綺麗事が王道歩いてる職場って何系に多いの? 転職するから教えてほしい。
美しい男性が自意識拗らせて破滅するっていうのは完全に自己投影の道ずれ慰めだよね。
(文字や絵のイケメン描写よりも、現実の美丈夫が演じている方がたぎる。)
彼らの嘆きがすごくよくわかる。わかるからこそ、“美しい彼らでさえも”救われないということに癒される。私たちの敵はこんなにも強大なのだと(だから負けても仕方がないのだと)。
たぶん女性の物語では駄目なんだよね。破滅する女性では“私の道ずれ”ではなくて私自身とイコールになり、ひとりぼっちになってしまうから。
ねぇ、私はただ、私が考え得る最善な行動をしたいだけなの。
それを自分自身に阻害される・阻害したいという衝動を消去したいだけなの。
どうすればいいの?
なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます。
最初からいいますが、僕は新興宗教自体を胡散臭いとは考えていません。
身も蓋もない言い方ですが、キリスト教はユダヤ教の新興宗教ですし、仏教も日蓮宗や浄土宗、臨済宗は密教系とは重要な教義が異なっています。
私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教や福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます。
基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います。
ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります。
そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります。
宗教側からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います。
僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。
商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。
ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動や宗教活動を通じてということになります。
代表的な新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります。
PL教団の花火大会や、米ソルトレークシティのモルモン教の大寺院などはその代表的なものです。
このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教は伝統的に文化・芸能活動の庇護者であったのです。
長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます。
例えば東京観光や京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値は一般の方には庭園や天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います。
そのような文化活動は信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います。
新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由はちょっとわかりません。
ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。
教義は信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。
本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。
ただ、いきなり相手のホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?
自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。
元増田のアプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質は活動です。
「wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います。
完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教は既存の宗教の派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、
一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものはシンプルで良いものであると私は信じています。
長い人類の歴史の中では宗教と歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。
それはさておき、宗教が政治を無視できないのは宗教が人の本質にアプローチするものだからです。
人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教が政治に関わっていく要因でしょう。
「波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます。
それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語の因果や因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。
これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学と矛盾するものとしてキリスト教の進化論や地動説を否定があります。
私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球は太陽の周りを回っていると思います。
非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います
これはどこの宗教でもつきものだと思います。検証不可能なことは証明できませんし聖典は多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。
「聖典が正しければ寺院(教会)・教義は正しい」そして「寺院(教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。
これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みなものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています
マジレスするね。
一応自分はどことは言わないけど、とある新興宗教を信じてるものです。
と言っても自分が信じてる宗教に限った話ではなく、一歩引いて宗教ってこういうものーという視点で答えてみます。
まず全体的に「胡散臭い」と思うのは正直、正常というかしょうがないなーと思う。
「マスコミガー」とは言いたくはないけど、実際問題としてマスコミの影響ってかなり大きい部分があるかな。(報道しない自由ってやつだけど)
理由は大手のメディアやマスコミは新興宗教を全くと言っていいほどほとんど報道しません。
(歴史ある有名宗教ですら、一部観光的な部分(京都のお寺とか)か歴史的な部分やおぼうさんの良い話くらいしか報道しないけど。)
だいたいどの新興宗教も一般的な善行(震災時の炊き出しとか寄付とか)をしてることは意外と多いんだけど、良いことをしてるときは基本報道しません。
報道するときは、だいたい事件性があるときや、何かスキャンダル的な部分を面白おかしく盛ってるときくらいです。
要は、良いことや肝心の中身は伝えないけど、悪いことをした(とメディアが思った)ときだけ報道します。
そりゃーいい印象もてないよ。何をしてるかわからない集団がいつ事件を起こすかわからない!みたいな印象になっても不思議じゃない。
しかもオウムという超特質な宗教も実際に出ちゃったし。(実はこれが一番の元凶だと思ってる)
これはたぶん宗教によるかな。そもそも新興宗教と言っても、仏教やキリストなど伝統ある宗教の派生系のものが多かったりします。
実際に中の人たちもよくわかってないけど、「昔の偉い人が言ったものをそのまま伝えてるから」という場合もあるし、
逆に古い教えを簡単に現代語で言い換えた時点で、「その言い換えた人の解釈が加わってしまうので、元祖の言葉の意味を曲げちゃう」からあえてできない、というのもあるし。
それと、他でもでたけど、元々教義がなかった宗教もあります。教祖や預言者が言ったものを後年、誰かが編纂して教義にした、とかね。
あと、「あえて難しく見せたほうが権威がある」ように見えるから、というのも宗教によってはあるはず。権威というのは意外と重要な部分だったりします。
もちろん、現代的にわかりやすく作ってる宗教もあったりするけどね。一見簡単に言い換えられてる教義はすぐ反論できる気になっちゃうでしょ?
これも宗教によって考え方が違うと思うけど、基本的にはその宗教の「神」を祀る領域なので、信じてる人にはとっても「神聖なもの(領域)」です。
その神聖な領域をチープにするというのはないよね?という感じ。
歴史的に見ても、多くの歴史的建造物は宗教が関係している建物だと思います。お寺とか教会とかお墓とかね。おそらくその時代の最高の装飾や技術を投入してるはず。
もちろんそれに伴って金銭的に法外にはなると思うけど。
そもそも宗教は人助けや悟りを求めるもので、多くの人を救いたいという欲求があります。
実際問題として、突き詰めると政治を変えなければ世の中が良くならないという事象に行き着くので、政治に介入するというのはある意味しょうがないです。
むしろ政治に興味がないということは、世直しや人助けを本気でしようと思ってないとも言えるけど。
あと、逆に歴史的にいうと宗教が政治に介入していない時期のほうが長い時代で見ると圧倒的に短いです。詳細は省くけど宗教と政治が関わってるほうがむしろ普通とも言えます。
一般的にどの宗教も教えを広める布教活動をしないことはありえなくて、良い教えは広めたいという欲求は不可避です。
ただ、その布教する人が一般的に信者さんで、その信者さんはごく普通のおばさんやおじさんだったりします。(若い人もいるけど)
要は教えることや人に何かを伝えるプロというわけでもない普通の一般的な人なので、アプローチの仕方や接し方が下手だったりします。
むしろ側で見てると、その言い方ないわーって思うこともしばしばw その方法が下手で気持ち悪い、と思われる原因にもなってる気がするんだけどね。
この世的な現代の科学が全てという認識をもってしまうと、全てが非科学に見えるかな。
そもそも「魂」や「神様」というのは現代の科学で計れないものでしょ?
逆に現代の科学がそこまで進んでなくて、魂や神様を証明できないくらい遅れている、という見方も一部あったりするけどね。
これも布教をするためには、現代社会にはどうしてもお金がかかっちゃうからしょうがないかなーと思う。
あと、この世的な「お金」が全てじゃないよ、という視点があると、その執着を持たないというのも考え方の1つかな。
突っ込みどころはたくさんあるのは承知で、今自分が知ってる範囲の浅い知識で答えたけどこんな感じ。
ただ、1つ言いたいのは目に見えない崇高なものを信じるというのは「とっても尊い行い」で決して悪いことではないんだよということ。
そういう目に見えないものを信じてるからこそ、誰も見てなくても悪いことはしないというような道徳的な考え方になるしね。
(日本人のモラルが高いのは意外とこの宗教心が高いから、とも言えるんだよね。)
こいつは騙されてるんだとか、洗脳されてるんだみたいに思われちゃうのもしょうがないと思うけど、崇高なものを信じてる人を悪く思う現代の日本の考えはちょっと悲しいことかなとは思います。
追記
>なんで伝統宗教じゃダメなのか、っていう一番大事なことが書いてない
いくつかあって、おそらく各宗教によって違う部分だと思うけど、
から。確かに伝統宗教の教えで、多くの人も(考え方によるけど)救われてきただろうし、安らぎを得られた人は多いと思う。でも現代の複雑な問題や昔の考え方だけでは対応できない時代になっている。
個別のところで言うと、「現在の貧困や経済原理」や「グローバル化した社会の問題」、「クローン」、「宇宙問題」、「性差別」や「インターネットやメディアの問題」、などお釈迦様やキリスト、ムハンマドが生まれて教えを解いた内容やその次代の考え方では解決できない。というか時代背景を考えると当然といえば当然で、これは伝統宗教が悪いとかではなく、時代が代わりすぎてしまったから新しい考えや教えが必要だよねという考え方が1つ。
もちろん伝統宗教の普遍的な教えの部分は今でも十分通じるし、正しいことだとも思うけど、やっぱりそれだけでは現代社会の問題を解決できないからじゃない?と思う。もちろん伝統宗教を否定しているわけではなくて、いい部分や不変な部分は残せばいいと思う。もちろんすべての新興宗教がこれらの答えを出せているわけではないけど、考え方としてね。
それともう1つ。
伝統宗教と言っても、「巨大組織が長く続くと、腐敗も進む。」組織を運営してるのは所詮人間だからね。その腐敗した組織は淘汰や改変が必要で、長い歴史の中では、派閥や会派など、分裂、競争、差別化、滅亡などいろいろ繰り返している。
そのあたりは企業と一緒で、古くて大きい会社がいつまでも最高かというとそんなことはなかったりするでしょ?イノベーションや進化、新しい考え方みたいなものを取り入れたところだけが生き残る感じ。
実は新興宗教というか宗教の世界って、かなりの競争社会で国内だけで数万団体があるのだとか。その中で滅びる宗教もあれば、生き残って大きくなる宗教もある。市場原理と一緒で競争社会。より多くの信者を獲得できた団体が生き残るというのはその通りで、かと言って営利主義的だけに走っても人は離れていったりしちゃう。
もちろん、戦争に負けた、国が滅びたなど物理的な問題で滅びたところもあるだろうけど、多くの人を引きつけることができなくなった宗教は淘汰される。ざっと思いつくところはそんな感じ。ところどころ乱文になってるけど、文章が書くのが下手なのですいません。
正直、ここまで数字が伸びると思ってなかったので、ちょっと驚いています。あっさりスルーされると思っていたので。
多くの反論や暴論、各人の経験談や心情などいろいろ拝見しましたが、全てを尊重できるものだと思います。
特にそれぞれの思想や今までの経験、宗教というものに嫌気や嫌悪を感じてる人が多いというのも理解できます。自分も人生の多くをどちらかというと反対の立場で過ごしていたので。
個人的に感じたことは、どんな意見であれ「宗教」という繊細なものにみんな一言物申したい!という感情を感じました。
先にメディアがどうのと言いましたが、ある意味リアルな生活上でもメディアでも日本国内では話題にしちゃいけない領域、見てみないふりをしていた話題というのを再認識できました。
ポジティブに考えると、多くの人が興味関心がある領域とも言えると思うので、リアルな場でもそれぞれの意見をはっきり言えるような話題に昇華できる日がくるといいなと思いました。
アメリカ大統領選挙が終わりましたね
(人によっては)窮地の状態になったせいか、オバマ氏やめないで!とか現地の方のツイートがTLに流れてきたけど、弱腰で何も出来ない駄目大統領みたいな風に昔言われてませんでしたっけ?
政治思想や実際にこれまでされてきたことなど、候補者両名について詳しい事は知らないのでどっちがよかったとかはないのですが、今回の選挙について気になったことがあるのでひとつ
アメリカの新聞は大半がヒラリー氏応援だったのに、選挙で勝ったのはトランプ氏だった!というまとめ記事に、もうマスコミになんか騙されねーんだよwwwみたいな…しかも論調的に大方そんな意見が主流の記事を見ました
うん、そう思う
日本なら
日本の報道の仕方には、かなり疑問がある。ひどいよね、とかずるいなーと思う事も多々ある
あれだけ国土が広いので新聞社も数多あります。日本の比じゃない。お住まいの地元でしか発行されてないなんとか新聞も、当然アメリカにもあります
アメリカにおける州=都道府県、国=国とお考えの方もいるかもしれませんけど、むしろ州が国、国が全世界みたいなイメージなんじゃないかな
だから州の中で発行されるものにも、由緒ある新聞社もたくさんある
「ボストン・グローブ」とか聞いた事ありませんか。マサチューセッツというひとつの州のなかのボストンという街で発行されてる新聞
そこが「キリスト教の神父が子供たちに性的いたずらをしているけどもみ消してる」という記事を掲載し、世界中の教会でも同様のケースが発覚して大問題になりました
キリスト教なんてアメリカどころか世界規模の組織で、権力者を含む色んな人が信徒で、敵に回してすんなりいくわけない相手です
そこを相手にして、世界的なスクープをすっぱ抜いたのが、そのひとつの州の都市部で発行されている伝統ある新聞社だったわけです
日本の大新聞社でもできない取材力、記事を書く力というか文章の説得力、などなど日本のマスコミと一緒にしないでくれー!!
そもそも「真実をお伝えします。ここに書いてある事だけ信じてください」なんて報道の仕方もしない!!
はっきりいって全ての新聞社が公平でもない。公平な報道はするかもしれないけど、公平な論説ばかりではない
朱色だったり、ブラウンベージュよりだったりの色んな赤旗新聞がたくさんあると思ってください
マスコミと購読者、何が違うかっていえば「取材をする手段があるかどうか」じゃないですかね
それらを元に我が社はこういう理由でヒラリー氏を応援しますって方針を決め発表してるんです
ヒラリー氏を応援してくださいそれが正しいんです、とは微妙に違うんですよ
それが気に食わなければ購読をやめて別の新聞を読めばいいだけ。たくさんありますらかね、選び放題です
当然どこの世界のマスコミにだって煽動記事を書く記者はいるでしょう。でも自分の本名を記載して、社運をかけた意思表明記事なわけなんですよ
新聞社が騙す、騙されるのレベルの話じゃない。購読者が新聞社を選ぶ、という話なんです
日本のことしか知らなければマスコミ=巨悪と思いたくなる方がいるのも仕方ないのかなと思うんですけど、世界には自分の信じた正義の為に真面目に報道に取り組んでる人もいることを思い出して欲しいです
自分の国がこれだけひどいと世界的にもひどいのばかりだろ!と思いたくなるのはすごくわかりますが!
こちらは新聞社が誰を支持するか発表するってことがアメリカでは割と重要な判断ポイントになることがよくわかるブログ記事でした
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2016/10/post_484.html
取材し、経歴を調べ、見聞きして、頭のいい方々寄って集まって考えて、トランプ氏を応援しない(けどヒラリー氏を応援するとも言ってない、っていう記事すらある)と大多数の新聞社が発表したのにトランプ氏は当選してしまったという話です
Yahoo!で数日前にポリアモリーの女性の記事が上がって話題になってた
私はレズビアンだし、婚姻制度にはどっちかというと懐疑派(ゆえに同性婚賛同しない派)だけど
だからといってポリの連中の苦しみなんかに共感できないし連帯もしたくねえやって思っちゃう。
好きになったポリにいいように言いくるめられて付き合わされて
むかし知り合った女性がまさにそういうポリに破壊されたタイプで
「私ほかの彼女がいても大丈夫だしそういうの慣れてるから平気!付き合って!」
と平然と迫って来たもんだ
その人クリスチャンだったんだけど「教会にすら不倫している人がたくさんいるから!」とか
言いわけがましく語ってて そんなん知らんわ 私クリスチャンじゃないし
あとその人「私は自分自身が希薄なの」と口癖のように言ってて、まあ実際そもそもボダっぽい人だったけど
何がまずいって、「モノと付き合うと一対一でべったり依存してしまうけど、
相手がポリなら依存心を克服できて自分が自立・成長できる」とか信じてるっぽい点だった
たぶん前のポリ恋人(既婚者)がそれを植え付けたんだろうと思うけど本当うんざりだった。
レズビアンだってふわふわした意志薄弱なノンケに好奇心で手を出されかけることはあるけど
入ってくんなって言うのが筋だと思ってますよ
その上でのパートナーの死に際に立ち会いたいとかそのくらいの最低限の権利の話を
したいだけですよ。
ポリは同じことがちゃんとできますか?
シナリオの教科書に失敗作の例として載せるべきなくらい支離滅裂な話だった。
戦後、日本軍と戦った南の島にそのまま住み着いた医師ディダムの元を、故郷ボストンから娘アメリアが尋ねて来る。ディダムに実家の海運業の株が相続されることになったのだが、彼がもし現地で家族などを作っていると「ボストンの慣習に照らして」道徳的に問題があるため、遺言状の条件により相続の資格を失う。それを暴いて相続権を取り上げるのが目的である。娘が来ると聞いたディダムの仲間は、彼の家族を隠そうとする…。
というと、まるで相続権を争って秘密を守り通す紆余曲折という話になりそうなあらすじだが、違う。まずもって、ディダムの仲間たちは相続の話は最後まで知らない。ディダムが回診で近隣の島へ出掛けているうちに、なんとなく「娘には新しい家族とか隠しとかなきゃいけないよね」で隠すのである。ディダムは島に帰って早々、娘に直接「株とかそういうの要らないし」と、自分がいかにこの島が好きかを語る。この時点でメインプロットは終わったも同然だが、何故かその後も惰性でディダム医師の3人の現地子(娘ふたり息子ひとり)の存在は隠されたままになる。
そもそも島の仲間は株のことなど何も知らないのだから、相続権を巡って必死に秘密を守る話にはならない。代わりに、ディダムの子供たちの偽の父親役を引き受けたドノバン珊瑚礁(店名)店主ドノバンとディダムの娘アメリアのロマンスが途中から話の中心になる。相続の話は知らないくせにアメリアに資産があることは「調べ」ただけで突き止めたフランス人総督が微妙にちょっかいを出してきたりもする。
しかしこれもよく見ると変な展開である。ドノバンはディダムの子供たちを隠すために父親役をやりながら、何故かアメリアの案内役のようなものも同時に務める。他に人材がないなら仕方ないが、隠すなら極力近づかないようにする方が良いのは当然である。このせいで、ディダムの子供たちと交流を深めたアメリアが、子供たちをディダムの家(つまり子供たちの家)のパーティーに招待したりして、変な感じになったりする。
結局のところ、この映画においては全ての出来事がドノバンとアメリアの交流を無理矢理作り出すためのヘタクソなお膳立てなのである。アメリアが島に来るために相続の設定をつくり、アメリアがドノバンに惚れるために、ドノバンがディダムの子供たち相手に「良い父親」を演じる状況を作り出す。
あげく、アメリアは島のそこここで見た「マヌラーニ(姫?)」の名前から、これが子供たちの母親であり自分の父の妻である事を勝手に推理し、そもそも相続の問題もなければアメリアに新しい家族に対する抵抗もなかったので、そのまま家族と和解し、本当は独身とわかったドノバンにプロポーズされて終わる。(この「マヌラーニ」の名前も、父親たちと一緒に戦った記念碑に名前がある、父親の病院がマヌラーニ病院となっている、マヌラーニの墓を教会で見かけた、だけで父親のプライベートな手紙に名前があったとかですらないので、よく当たり前に推理したもんだと感服せざるをえない。)
こんな「父親に現地妻がいたらすわ大問題、かと思ったらそんなことはなかったぜ」的尻切れとんぼな話が、脈絡のない乱闘シーンや、おっさんたちの「俺たちはよゥ…ここで戦ったんだよゥ…」という郷愁、ポリネシア?のエキゾチックな儀式とむりやりシャッフルされて映像化されたのがこの映画なのである。
長々書いたが、実際この映画のめちゃくちゃさを実感するためには、見た人の大半がストーリーを間違って理解している、という事実を指摘するだけで十分なのかも知れない。ともあれ、何がしたいのか理解するのに苦労する映画だった。
南の島の風景はよかった。
当時、合奏のグループメンバーにクリスチャンがいて、そこから教会のご厚意で、ミサが終わった午後に練習することが何度かあった。
その時、たまたま合奏を聴いていたドイツ人の信者さんから「あなたのモーツァルトはおかしい」と言われ、後でそれを楽器の先生に話した所
「ヨーロッパ人の言うことはあんまり気にしないほうがいいよ」と言われた。
そこから「現代ヨーロッパ人にとってのクラシック音楽の受容」という話になって、先生から出てきたのが以下の喩え話。
個人的にはかなり納得した。
讃美歌リスト。順番に聞いていきたいなと思ったので
番号 讃美歌1番~100番 番号 この頁のトップに戻る
1 主イェスよ、われらに 2 聖なるみ神は
3 扉を開きて 4 世にあるかぎりの
7 ほめたたえよ、力強き主を 8 心の底より
9 わが身にたまいし 10 今こそ人みな
13 みつかいとともに 14 たたえよ、王なる、われらの神を
15 みことばにより 16 われらの主こそは
17 聖なる主の美しさと 18 「心を高くあげよ!」
19 み栄え告げる歌は 20 主に向かって喜び歌おう
21 主をほめたたえよ(歌えハレルヤ) 22 深き悩みより
29 天のみ民も 30 主よ、あわれみを
35 主よ、あわれみたまえ 36 いと高きところには
43.1 マラナ・タ 43.2 マラナ・タ
43.3 主よ、おいでください
44.3 キリストは死に
45 わが主のみことばは 46 すべての人よ
47 とわに たたえて歌え 48 主をほめうたえ
49 全地よ 主をほめうたえ 50 みことばもて主よ
51 愛するイェスよ 52 歌え 高らかに
55 人となりたる神のことば 56 主よ、いのちのパンをさき
59 この地を造られた 60 どんなにちいさいことりでも
63 天にいます父よ 64 まごころこめ
65.1 今ささげる 65.2 今そなえる
66 父と子と聖霊の
67 貴きイェスよ 68 愛するイェスよ(おさなごとともに)
71 近づき、み前にでよう 72 まごころもて
75 今、装いせよ 76 今こそ歌いて
77 パンくずさえ拾うにも 78 わが主よ、ここに集い
79 みまえにわれらつどい 80 今 与えられる
81 主の食卓を囲み 82 今こそここに
83 聖なるかな 84 聖なる神よ
87 罪なき子羊 88 心に愛を
89 共にいてください 90 主よ、来たり、祝したまえ
93 礼拝文 94 わが主よ、すべてを
95 聖なる霊よ 96 恵みあれ しもべらに
99 主イェスよ、われらの 100 聞きたまえわれらの祈り
125 いかに幸いなことだろう 126 感謝してあたらしい歌で賛美せよ
129 私の望みは 130 涸れたる谷間に
131 谷川の水を求めて 132 涸れた谷間に野の鹿が
133 み神は避けどころ 134 神よ、われをあわれみ
135 あわれみをたまえ 136 わが魂 黙して
137 聖なる主の家で 138 全地よ、神に向かって
141 主よ、わが助けよ 142 主はわがかくれが
143 主をほめ、主に感謝せよ 144 主に向かって喜びうたおう
145 全地よ、主に歌えよ 146 主は来られる
151 主をほめたたえよ 152 みめぐみふかき主に
157 いざ語れ、主の民よ 158 捕われの民
159 主が建てなければ 160 深き悩みより
163 み恵み深い主に 164 バビロンの流れの
169 ハレルヤ。主をほめたたえ 170 わが魂よ、主をたたえよ
181 主よ、今こそ 182 ほめうた歌え
187 よろこびの歌で 188 歌え、デポラ!
191 われら迎えん、救いの光 192 主イェス・キリストはわれらの道
193 神の使者、その名ヨハネ 194 神さまはそのひとり子を
195 まかれた種 196 主のうちにこそ
213 み神をたたえよ(さびしきこよいも) 214 わが魂のひかり
215 心をはずませ 216 月はのぼりて
219 夕日落ちて 220 日かげしずかに
221 この日のつとめ 222 キリストよ、光の主よ
227 主の真理は 228 造り主なる主
229 いま来たりませ 230 「起きよ」と呼ぶ声
231 久しく待ちにし(すくいの主きたり) 232 神のみ子は世に来られた
235 久しく待ちにし(イェスよ、きたりて) 236 見張りの人よ
241 来たりたまえわれらの主よ 242 主を待ち望むアドヴェント
251 羊飼い群れを守る夜に 252 羊はねむれり
255 生けるものすべて 256 まぶねのかたえに
259 いそぎ来たれ、主にある民 260 いざ歌え、いざ祝え
265 天なる神には 266 イェスは生まれた
269 飼いば桶にすやすやと 270 神はひとり子を
271 喜びはむねに 272 おやすみなさい
273 この聖き夜に 274 救い主キリストよ
277 罪なき神の子 278 暗き闇に星光り
291 み神の座を捨て 292 勝利をたたえて
293 救いのぬしは罪もなしに 294 ひとよ、汝が罪の
297 栄えの主イェスの 298 ああ主は誰がため
番号 讃美歌301番~400番 番号 この頁のトップに戻る
301 深い傷と流れる血に 302 暗いゲッセマネ
303 丘の上の主の十字架 304 茨の冠を主にかぶせて
305 イェスの担った十字架は 306 あなたもそこにいたのか
309 あがないの主に 310 血しおしたたる
313 愛するイェス 314 神の国の命の木よ
315 茨の冠かぶせられ 316 復活の主は
317 主はわが罪ゆえ 318 勝利の声を
341 来たれ聖霊、わが主 342 かみの霊よ、今くだり
347 たたえよ、聖霊を 348 神の息よ
349 神の息よ 350 来たれよ、聖霊
351 聖なる聖なる 352 来たれ全能の主
355 主をほめよ わが心 356 インマヌエルの主イェスこそ
357 力に満ちたる 358 小羊をぱほめたたえよ!
361 この世はみな 362 創造の主
363 み神の力は 364 いのちと愛に満つ
365 古い年は行く 366 悔い改めつつ
367 偉大なみ神の 368 新しい年を迎えて
369 われら主にある 370 おもいもことばも
371 このこどもたちが 372 幾千万の母たちの
375 賜物と歌を 376 人の知恵と言葉を超え
377 神はわが砦 378 栄光は主にあれ
381 力に満ちたる 382 力に満ちたる(わがかみの)
383 証し人の群れ 384 盾も武器もなく
385 花彩る春を 386 人は畑をよく耕し
389 み神をたたえよ 390 主は教会の基となり
395 建ちては崩るる 396 喜べつねに
397 主の教えのべ伝え 398 光りさす朝
399 さすらいの民よ 400 たとえ塔は崩れ
番号 讃美歌401番~500番 番号 この頁のトップに戻る
401 しもべらよ、み声きけ 402 いともとうとき
403 聞けよ、愛と真理の 404 あまつましみず
407 この世のすべては 408 この世のもので
415 せかいの友と 416 神の民は
429 世界のどこかで 430 とびらの外に
431 喜ばしい声ひびかせ 432 重荷を負う者
433 あるがままわれを 434 主よ、みもとに
435 主よ、みもとに 436 十字架の血に
437 行けども行けども 438 若き預言者
439 暗い夜 440 備えて祈れ
441 信仰をもて 442 はかりも知れない
443 冠も天の座も 444 気づかせてください
445 ゆるしてください 446 主か手をとって起こせば
449 千歳の岩よ 450 死に勝利された
451 くすしきみ恵み 452 神は私を救い出された
455 神は私の強い味方 456 わが魂を愛するイェスよ
459 飼い主わが主よ 460 やさしき道しるべの
461 みめぐみゆたけき 462 はてしも知れぬ
463 わが行くみち 464 ほめたたえよう
465 神ともにいまして 466 山路こえて
467 われらを導く 468 神をたたえよ
469 善き力にわれかこまれ 470 やさしい目が
471 勝利をのぞみ 472 朝ごとに主は
473 世界の望みなる主よ 474 わが身の望みは
475 あめなるよろこび 476 あめなるよろこび
477 主イェスを想えば 478 どんなものでも
479 喜びは主のうちに 480 新しい時をめざし
481 救いの主イェスの 482 わが主イェスいとうるわし
483 わが主イェスよ、ひたすら 484 主われを愛す
485 この世を愛する神は 486 飢えている人と
487 イェス、イェス 488 この世に造られた
495 しずけき祈りの 496 しずけき夕べの
497 この世のつとめ 498 道、真理、命
499 平和の道具と 500 神よ、みまえに
505 歩ませてください 506 すべては主のため
507 主に従うことは 508 救い主イェスこそは
513 主は命を 514 美しい天と地の造り主
515 きみのたまものと 516 主の招く声が
517 神の民よ 518 主にありてぞ
521 とらえたまえ、われらを 522 キリストにはかえられません
525 主なるイェスは 526 苦しみ悩みの
529 主よ、わが身を 530 主よ、こころみ
531 主イェスこそわが望み 532 やすかれ、わがこころよ
535 正義の主イェスに 536 み恵みを受けた今は
537 眠りからさめよ 538 力の限りに
539 見よ、闇の力 540 主イェスにより
541 また会うその日まで 542 主が受け入れてくださるから
549 わたしたちを造られた神よ 550 大地よ、星々よ
555 真っ青な空と海に 556 神の賜物を
557 み神の風うけ 558 主よ、聞きたまえ
559 見よ、世はすべて 560 主イェスにおいては
565 働く人びと 566 むくいを望まで
569 今やこの世に 570 主はわが命
571 いつわりの世に 572 主をあがめよ
573 光かかげよ、主のみ民よ 574 雪より真白い
575 球根の中には 576 天の輝きの宿る都よ
577 聞けよ、主の民 578 平和を求めよう
579 主を仰ぎ見れば 580 新しい天と地を見たとき
7月31日フランス全国各地で、26日に殺害されたアメル神父を追悼するミサが行われ、どこでも多くのイスラム教徒が出席しました。
特に事件現場に近いルーアン大聖堂のミサは感動的な空気に包まれていました。
地元のイスラム教徒の代表団に語りかけているのは、先月26日に起きた教会襲撃事件で殺害されたアメル神父の妹です。
深い悲しみの中にいる彼女を、イスラム教徒の女性がなぐさめています。
「お兄様は私達にとっても兄弟同然です。お互いの間に溝を作ってしまったら、テロリストの思う壺です。私たちは隣人であり友人です。神を信じる者同士です。人と人とを結ぶことに尽力されたアメル神父の功績は、我々の記憶に刻まれ、永遠に語り続けられるでしょう。」
ミサには、男性、女性、大人も子供も、様々な宗教の人が出席して、カトリック教徒への連帯の気持ちを表明していました。
「深く感動しています。あのような野蛮な行為には、断じて抗議します。アメル神父を思って今日は出席しました。」
友愛の気持ちを表し、相手をよく知るきっかにもなったミサでした。
「カトリックのミサに出席するのは初めてですが・・・、説教の言葉は、コーランの言葉ととてもよく似ていました。」
カトリック教徒は、イスラム教徒がミサに出席したことに、とても心を打たれていました。
「素晴らしい事であり、殺害事件のようなものを避けるには、宗教間の関係をより密にしていく必要があります。・・・感涙してしまって。すみません。」
今回の悲劇が、カトリック教徒とイスラム教徒の関係を更に密にしたようです。
snip
@フランスF20
以前から気になっていた「まおゆう」を見た。駄肉と取り外し可能な角しか知らなかったけど、結構考えさせられるアニメだった。
たぶん、監督は原作で下敷きになっている背景を知らないで作っているのではないかと思った。シーンがぶつ切りでどうなっているのか分からなかったし、特に戦闘シーンはどんな舞台がどこに向かっているのか全然わからずポカーンだった。
物語の下敷きになっているのは歴史なんだろうけど、経済の部分だけよく分からなかった。奴隷の成長は人権の萌芽を描いているんだろうし、その過程で世俗と教会の2重権力を描写してるしとても面白い素材ではあるけどそれを生かしきれてないという印象。
登場人物の役割が職業別にうまく分かれていてわかりやすかったので、この点は良かった。商人、軍人、役人、農民、政治家そして魔王は学者・思想家という立場か。魔王だけはチート技術で未来技術をバンバン導入してるので学者というのはちょっと違う?
特に商人は見方でも敵でもない、儲かることが正義という精神を体現する非常に面白いキャラだった。儲けるためには敵とも手を結ぶ、戦争を商機と見る悪人か、それとも経済交流と相互依存を通じて戦争を遠ざける平和の使者か
この物語を通じてなにが言いたいのだろうか? 魔王が「あの丘の向こう側が見たいんだ」といったことが、「技術と文化の発展によって戦争のない世界を目指す」という意味なら、それには望みがない。技術の発展はむしろ大量殺戮を可能にした。経済発展も貧富の差を作り出し社会の混乱を生み出した。人間の欲望が限りないことを考えれば、戦争は食えないからするというのは単純すぎるといえないだろうか。
なぜか最終話で火縄銃が登場して、はなしの展開を描く気がないでしょと感じざるおえない。史実では火器は歴史を動かす重要な役割を演じているので面白いネタを前にして最終回とは、非常に惜しい。2期がないのはわかっているが、このアニメの面白さに気づいてくれる人が多く現れることを望む。