はてなキーワード: 教会とは
Pokemon Go の イベント地点 [ポケストップ]はingressというゲームのポータルを再利用している。
ポータルはingressユーザーが登録して承認されるが 日本ではお寺、神社、お地蔵さん、教会、公園、オブジェ、神社等 公共の施設がおおいので
ポケストップもそこになります。東京だと店舗の看板もポータルになってますが。
ちなみにポータル間があまり近いとポケストップになってないものもあったので(ベータ版)前ポータルがポケストップになっているわけではない模様
わたしは選挙権を行使した記憶がありません。つまり棄権の常習者です。けしからんことです。
しかしじつはちっともけしからんことだとおもっていないので、ますますけしからんことです。
棄権することにもたいした理由や意味があるわけでもありませんが、しいていえば、民主主義というけっこうな制度は、わたしのように天下国家、世の中のことに無関心な人間の生存をもみのがしてくれるところに最大の特徴があるという、自己流の解釈にもとづいて、まずは惰眠をむさぼる権利の方を享受しようというわけです。
世の中にはまじめな正義漢が多いようですから、わが身にふりかかる悪の火の粉も、そういう人々が払いのけてくれることでしょう。
一票を投じたくらいで、ああ自分もこれで政治に参加しているのだといいきかすのも気恥ずかしい。教会と投票所と刑務所だけは、できることなら行かずにすましたい。
いっそ選挙なんていう欺瞞的な気休めは廃止して、政治屋志望者には電子計算機でも使って能力・適性テストを行ったらいかがでしょう。でなければ、買収制度を合法化するのがすっきりします。
こんなことを放言したからといって、いじめないでください。おおらかに、おおらかに、他人を監視して、ふざけた人間をつまみだすことに熱心な投書家がふえたりすると、住みごこちのわるい民主主義ができあがります。アメリカみたいな。以上。棄権常習者の弁。
例:
とらの大奥義「神鳴(広範囲に強力な雷撃)」が、潮との連携で「神鳴華火(全範囲に強大な雷撃)」に進化
各話を攻略すると、パラメータ上昇や技を取得させるアイテムが手に入り、うしとらを成長させることができる。
更に、特定のバトルでサンピタラカムイや河童らサポートキャラが登場、一時的にパワーアップが起こることも。
うしとら以外のプレイヤーキャラで本編の裏ストーリーを体験するモード。
中には日輪や流ら伝承者が獣の槍に選ばれる「禁断章」ストーリーも。
そしてオリジナルシナリオ「禁断章:もう一つの魔槍」では、オリジナルキャラが時逆ともに様々な時代を旅して、もう一本あると言われる獣の鎗の正体を追う。
「うしおととら」モードと同様、レベル・スキルアップアイテムとサポートキャラが存在する。
各モードで手に入れたスキルやアイテムで各キャラの育成・カスタムができる。
髪の色、服装はもちろん、アイテムによってはキャラ相性を変容させることも可能。
メニューキャラはHAMMRの3人。こちらの育成に、いちいち気に触ることを言う。
1vs1の対戦はもちろん2vs2の協力プレイ、
そして最大20名協力プレイであやかしや白面に挑む「巨大妖怪モード」を実装。
その時の戦い次第で、法具や妖力を著しく強化するレアアイテムを手に入れることができる。
対戦回数には週毎の限りがあり、課金で増やせる。
また、より多額の課金によりアイテムの直購入が可能(ただしIDにドーピングマークが付き、別ランキングになる)。
相棒: とら
(どのキャラと組んでも概ね強い)
(特定の条件で潮やとらと組んだ時だけ出せる大奥義がかなり強い)
(潮との隠れ大奥義が強い)
相棒: 九印
(うしおと組むと極端にパラメータがブレる)
相棒: 悟・流・潮
相棒: 日輪・悟・とら
相棒: 流・日輪
(潮と組むとパラメータに劇的な変化が発生)
(誰かと組むと能力が30%以下に)
相棒: 潮
相棒: かがり・潮
(とらとの大奥義はかなり強い)
相棒: 雷信・とら
(他妖怪と組んでも能力値上昇、神野と組むと華鎚が使用できる)
相棒: 山ン本
(他妖怪と組んでも能力値上昇、山ン本と組むと華鎚が使用できる)
相棒: 山ン本
(潮とのタッグで成長度にボーナス)
相棒: キリオ
(ほぼキリオ専用だが、とらとの隠れ大奥義あり)
(殆どのバトルで勝利可能、オンラインですら時間が巻き戻され、アドバンテージが取れる。ただし、戦うたびにミノルの死が近づき、ミノルが死ぬと一切使用できなくなる。プレイヤーの善意を揺さぶるキャラ)
(一本道を追いかけながら、麻子らの櫛ずりを助けるミッション、高難度)
(オンラインでは体内に入るのが困難)
(オンラインでは複数の飛行機間を移動、一機でも落とすと失敗)
(オンラインでは黒炎を従えての大乱戦)
(上記の大妖を尾に持つラスボス。滅法強い)
※「『レヴェナント』テーマ解説(1)(イニャリトゥ監督のテーマ編)(http://anond.hatelabo.jp/20160523231652)」の続きです。
『レヴェナント』には、前編で書いた親子愛というテーマのほかに、「資本主義と環境問題」というテーマがあります。ただ、このテーマはイニャリトゥ監督自身のテーマというより、ディカプリオのテーマが混入したものではないかと思い、文書を分けて説明することにしました。
まず監督自身がインタビューでそう言っています。加えて、映画の中にも2つ根拠があります。
1つは、毛皮商人とインディアンとの戦いがサブストーリーとしてあったことです。これは露骨に資本主義と環境問題の対立を描いています。
もう1つは、主人公グラス(ディカプリオ)がバッファローの大群に驚くシーンがあった後に、バッファローの頭蓋骨の山を定期的に夢に見るようになってしまい、悩むことです。この背景にはアメリカで実際に行われたバッファローの掃討作戦(Wikipediaのアメリカバイソンの項目を参照)があります。毛皮商人の一味であったグラスが、バッファローの勇猛さを目の当たりにして、自分が手を貸してきたことの重大さに気が付き、後悔するシーンではないでしょうか。
(加えて、劇中に出てきた「朽ち果てた教会」が、タルコフスキーの『ノスタルジア』からの引用とみて、自然について語ろうとしているのだという見解も見られましたが、そこまで言っていいのか自信がありません)。
筆者の妄想です。
ただ、イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』まで、環境問題をテーマとして扱ったことがありません。というか監督は親子の問題ばかりをテーマにしていて、そんなに環境問題には興味がなかったと思われます(偏見)。おそらく監督的には「今回は、大自然の中で、親子愛をテーマにして、『デルス・ウザーラ』みたいな映画が撮りたいぞ」ぐらいの気持ちだったのではないでしょうか。
そこにばりばりのエコロジストであるディカプリオが参加したことで、シナリオに影響を与えていったものと思われます。
映像的には、バッファローの大群、頭蓋骨の山、朽ち果てた教会など、感動的・印象的なシーンが増えてよかったと思います。背景に映る雄大な自然にも意味が出てきて、それもよかったかと思います。
ただ、ストーリーはこれによりかなり難解になりました。特にラストシーンにおけるグラスの状況を考えると、①生きる意味(息子・復讐)を相次いで失ったことで精神が崩壊しかかっているが、②自然の偉大さに感銘を受け自らの行いを悔いるエコロジストになっている、という複雑なことになっており、テーマが分かりにくくなっています。
おわり
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。
結婚式をハワイで行なうのはそれなりに意味があって、近しい親族だけで行なえるというメリットがある。
だが、それまで行ったこともない土地の、それ専用の産業用の教会で、産業用の牧師に日本語で台詞を即席で教えられながら次第を進め、業者に写真を撮られまくる流れ作業的な式に、どんな意味があるのだろうか。
本人たちがそれを望んでいるならもちろんそれなら良い・・・と言いたいところだが敢えて苦言を述べるとしたら、あまりに「何も考えなくてもいい」構造になっていると思う。
金さえ支払えば「何も考えなくてもいい」仕組みが出来上がっていて、そこには意味や伝統などの要素は少ない。
楽でいいのかもしれないけれど今の社会で「何も考えなくてもいい」というのは危険だ。現代は個人が自発的に考えてなんぼの社会だ。
だから「何も考えなくてもいい」と充分に考えたのならそれでいいけど、何も考えられずに「何も考えなくてもいい」構造に金銭を持って取り込まれるのは極めて危険だと、そう思う。
35歳のおっさんです
代々キリスト教徒の家系でその日は教会の青年会の会合で10人位で飯食ってたんだけどそのうちの大学生3人位が野党連合の話をしだした。
「共産党は無いわ、絶対に俺の考え方とは相容れない、ってかそもそもキリスト教徒が共産党を支持するのは違和感を感じる、まぁ今の日本共産党は宗教的に寛大なんだろうけどそれでもやっぱりね」
って言ったら烈火の如く責められた。
曰く共産党こそ日本の民主主義を支え、マイノリティーに最も寄り添う政党なんだとか、宗教的マイノリティーである我々キリスト者が共産党を支持するのは必然なんだと。
んで
「日本共産党がそうした考え方を標榜しているのは知ってるけどそれでも共産主義の本質や歴史を鑑みて共産主義を掲げる政党を支持することはできない。
中国やマルクスレーニン主義を掲げる北朝鮮において宗教そのものが弾圧の対象になっている現実をどう考えるの?元来カトリックが強いキューバにおいて教会はどんな立場に置かれてる?俺は中国や北朝鮮やキューバのような構造は共産主義が本質的に抱えてるエラーだとおもうよ」
というようなことを話したんだよね。そしたらさ
「まさか増田さんが中国や北朝鮮に対してそういう差別的な考え方を持っているレイシストだとは思わなかった!」「完全に幻滅した!」「そんな右翼思想を持っているなんてクリスチャンとしてあるべき姿勢じゃない!」
「いや、政治の話してるんだよね?」って論点の確認を求めたんだけどなしのつぶて。
中国や北朝鮮に批判的なのこと言うのは間違いなく安倍や自民を支持している人間でそういう奴はもれなくレイシストなんだって。キューバはどこ行った?
いやいや、俺は夫婦別姓推進派だし憲法9条は堅持すべきだと思うし安保法制も反対だよ?って言っても
「一貫性が欠如している。自己矛盾を起こしている」の一点張り。
夫婦別姓推進派で憲法9条を堅持すべきだと思ってて安保法制も反対な人間は同時に共産主義に同調的で当然個々の事象は別として中国や北朝鮮の政体に批判的であるわけがないんだって。
高卒の俺に比べてエリートと言って差し支えない、頭悪い学校の学生じゃないんだけどなんでそんな理論飛躍が起こっちゃうんだろう?謎です。
◆創世記1章28節「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
ふーん……。
◆創世記2章07節「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
◆創世記2章18節「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。」
……は?
◆創世記2章22節「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。」
いやいやいや、連れてくんなよ。
何で最初に男を助け手のいらない存在として創造しねえんだよ。明らかに二度手間だろ。
補助パーツありきの存在ってなんだよ。補助パーツがいらないように造れるんだから最初からそうしろよ。
後から「あっ、これも必要ですんで」とか、ゲスい商売してんじゃねえよ。
◆創世記3章06節「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
ほらっ!ほら見ろ!女がいるせいで善悪を知る木食べちゃったじゃん!
何てことしてくれてんだよ。もうお終いだよ。あーあ、本当にどうしようもねえな……。
◆創世記3章23節「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。」
もう女は男に面倒をかけないでくれ。そっと静かにしてろ。助けが必要だったら呼ぶから。
◆コリント人への第1の手紙14章34節「婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。」
ホントこれ。
http://www.4gamer.net/games/238/G023885/20160216028/
PlayStationやWii,Xboxなどのゲーム機で,最後まで遊べるデータも入って5000円,6000円という値段をつけて売られているゲームと,
ソーシャルゲームのように後からいろいろ出てくるゲームとで,同じ仕組みや法律で判断されるのはおかしいのかなぁ,と思うんです。
運営と言うのは、教会の神父やお坊さんに近いんじゃないかなと思うんですね。
ソシャゲの中での人間関係のこじれについて助言してあげたり、運が良くなる壺を販売したり、まぁこの壺、じゃなくてカードは
実際に効果があるんですが、50%も60%も体感値はあまり変わりがないので信じてもらえないこともあります。
他にもお布施が高いと言う声に答えて奇跡のようなサービスする事もありますし、素行の悪い人たちをポア、ではなくデータをバンする事も。
まぁ判断を下すのは辛いんですが。
隊長はガチャで射幸心を煽るように、空売りしたいサイバーエージェント暴落させるべくに煽っているんじゃないかとさえ考えてしまいます。
子供の名義で空売りなのか、第三者に依頼され、お金を受け取って真剣に炎上をエンジョイしてなんて…楽しく妄想しています。
本題のグラブルに関しては、詐欺行為として立証したい考えのようですが、運営をやっていた側からすると設定ミスではないんだろうかと思えるんですね。
設定ミスをしてしまったけれど、運営として強気な振る舞いしなければいけないので孤軍奮闘している感じです。
運営と言うのは24時間のコンビニで働くのと同じぐらい辛いものがあり、ミスの少ないルーチンワークを設計実行していくのが安定運用のカギになります。
ガチャに新キャラを追加するのもルーチン化されて何も考えずにどんどん追加していったんでしょう。
3%の最高レアリティ枠に10種類突っ込めばそれぞれ0.3%ぐらいになり、いい感じに”当たりにくい”ガチャとなりますが、
何十体と繰り返しと新キャラを追加すれば、1体あたりの当たる確率は小数点以下の数字がコンドームの薄さのような値になり、
実際に目標数が出回らないカードになってしまうこともあります。
正しい運用はガチャの最高レアリティ枠は入れ替えて程良い確率を担保することですが、
入れ替えずに追加する一方となり確率が低くなり過ぎたのではないでしょうか。
グラブルぐらいに売れると、よくある話が、Pが天狗になりパワハラに走ってしまい、
たとえ下っ端の作業者がこのガチャ確率に気づいてたとしても助言できる空気がなくなってしまう、と言うもの。
まあ原因は何であれ、あれはプロの運営が故意で設定する確率ではありません。
「札束で殴り合わせる」ようにして
こう言ってはいるんですが、ガチャを回す行為が”殴り合い”になんて感じないんですよね。
ガチャの確率が低いことに感付いたユーザーはガチャを回しながら、動画撮影をしたりキャプチャを取っていくんですよね。
これって、セコイですよね。お金を払って超絶レアなカードが入れば儲けものだし、もしもカードが出なくても、
スーパー課金したヒーローとしてSNSなんかでバズるんですよ。
下手したらゲームユーザー数を超える人たちに見てもらえる可能性だってあるじゃないですか。
どの道お金を払ってハッピーなんですよ。殴らずに。彼ら高課金ガチャユーザーは自己顕示欲のためにガチャを回してるんです。
ゲームに飽きた後,何も手元に残らない……というのはねえ。
何も残らない問題に関しては、これは傍から見たらそうなんでしょうね、でも、ほんまは残るんやで!(関西弁)と言いたいです。
一人で遊んでるユーザーはきっと何も残らない。でも友達と遊んでるユーザーは負けて悔しかったり、勝って嬉しかったことが
思い出として残っていると思うんです。友達と遊んで思い出に残らないなんてレジェンド悲しいことはありません。
ソーシャルゲームなんです。
ソーシャルのつながりが面白くしたり思い出を作ったりするんです。
断捨離の時代にいちいちものが残るなんて必要ないです。大事なものは心のどこかに残っているんですよ。
ソシャゲはまだ生まれて間もないジャンルです。良いところも悪いところもあると思います。
でも、決してすべてが悪じゃないので、これからも悪いところは直して良いところは伸ばす感じで成長して行くことを願っています。
もちろん遺体の焼却はさっさとしないとだが、初七日とか四十九日もぴったり7日や49日でやらないんだし、拘らなくてもよいのではと思う。
式を執り行うことに意義があるだけで、そこに遺体は必要なのだろうか。
墓石がない墓が一般的だし、六文銭も最近はただの紙だし、そろそろ遺体レスの葬式も発案できると思うのだが。
数人分まとめてできる分、葬儀費用は安くなるだろうし、式場や寺も計画的な業務が出来るようになる。
婚姻届は24時間いつでも受付ていても、結婚式は「明後日やるからよろしく!」なんてことはない。
葬式ももう少し考えたらどうか。
追記
創価学会は葬式が安いらしいが、その他の機会に吸い取られるし、クリスチャンだって毎週教会に通ったり、なにかの折りに寄付をしたりと、どんな宗教でも金はかかる。
普段なにもしないぶん金で解決、まあそれも宗教というものを守るために仕方ないじゃないか。
無神論者だけど、この世に宗教がなかったら殺伐としてると思うから、金は払うよ。
よくNHKが言う公共放送を維持するために受信料、みたいなものかと。
(あれは納得出来ないが)
それぞれ通ってみた。
人が声かけてくれる順
神秘的順
風貌
・とにかく優しい人が多い
・風変わりの人の率が普段生活してる時に関わる割合より少しだけ多い
まあ数ある教会の中で10にも満たない所に通って何が分かるかってところだろうけど。
■追記
初回参加時に挨拶を求められる
カトリック(4つの教会に行きました)については出席の時に、記名を求められないので、一番入りやすいです。
大きめの教会でしたら、さらっと入って何事もなく帰ることができます。
大きめのカトリック教会は規模の大きさを活かしてクリスマスミサを複数回開催していたり、
初詣のような年明けミサがあるので忙しい日本人の生活リズムにあわせやすいと思います。
仕事で教会のミサや礼拝に参加できないという状態にはカトリックが一番陥りにくいと思います。
また、バチカンをトップとする階層構造であるのと引き換えに、所属教会概念には縛られづらい印象があります。
一方で日本キリスト教団は日本の家族的な温かさの雰囲気があります。
・小学校
今と違って小学校で英語なんてやらない時代だったけど、親の意識が高かったから小4から英語教室行ってた。
・中学校
英語の成績はかなり良かったが、英語以外の成績もかなり良かったため、英語教室の効果があったのかは不明。
意識は高かったので、古本屋で英語の絵本を買って自分で読んだりはしてた。
・高校
地域一の進学校に入ったこともあり、英語も他の教科も成績は学年で中の下くらい。
意識は高かったので、近所の教会で無料でやってる「聖書を英語で読む教室」みたいなの毎週通ってた。
・大学
入学時の英語の成績は、海外経験なしクラスの中では中の上くらいだった。
特に1年生時は英語特訓プログラムみたいなのが必修で、気が狂いそうなほど英語漬けにされるし、短期留学も2回した。英語で開講されている専攻科目の講義も15単位くらいとったし、卒論も英語で書かされた。多分、ネイティブから見たら読むに堪えないひどい文章だったと思うけど。
・現在
海外旅行に行って困らない程度の英語力はあると思う。英語で道を聞いたり買い物したりホテル予約したりするくらいなら余裕。
まず商談で使うような単語なんてほとんど分からないし、文法も中学校レベルしか使いこなせない。かろうじて意味は通るけど、不自然極まりない表現になっている自信がある。
でもさ、ネット見るとみんな、「仕事で英語が必要なので社会人になってから勉強してついに海外で就職できました」とか、
「英語できたほうが仕事の選択肢が増えるのになんで英語勉強しないの?」とか、書いてるわけじゃん?
自分は決して頭が悪いほうではないと思うし、人よりも英語学習にリソースを割いてたと思うけど、それでもせいぜい「海外旅行で不自由しない」レベルにしかなれなかったわけで、仕事で英語使ってる人は一体どうやってそうなったのか心底不思議だ。
ひょっとして自分は、学習障害みたいな感じで英語が出来ない障害なのだろうか?
それとも仕事で英語使うレベルの人は、隠しているだけで本当はみんな東大卒で英語専門の家庭教師が24時間ついてたりするのだろうか?
ちなみに5歳の娘は、1歳の時から英語教室に通っているのに、5歳になった今、せいぜい「色や動物の名前を英語で言える」「20までの数字が言える」「ハローとかハワユーとか言える」程度。
ちなみに、他の能力(ひらがなを書くとか、簡単な足し算とか)は平均より出来るほうなので、知的に問題があるわけではないと思う。
地面に転がったアカウントのいくつかは、twitter や Facebook とひもづけられていた。まるでそれが力であるかのように。まるでそれが繋がりであるかのように。だが、真の繋がり、真の力を前にしたとき、彼らの「ゆるやかな連帯」などまるで無力だった。増田は煙草に火をつける。
「クエルノス・デ・チーポ」誰かの声がする。
クエルノス・デ・チーポ。
増田はすでにそれを知っている。ダミーのはてダのコメント欄に、七・六二ミリの薬莢が散乱していた。十二番径の散弾もあり、death6coinのものとおぼしき五・五六ミリ弾もちらほらと交じる。しかし、薬莢のほとんどは、ブク麻薬商人(ナルコトラフィカンテ)御用達のシロクマ製凸撃銃「増田のちんこ(クエルノス・デ・チーポ)」から排出されたものだ。
十九体の屍。
小やみなく降り注ぐ銃弾に、容赦なく打ち砕かれた。現実とは思えない血の量だ。キャデラックほどの広さの血だまりが、深さ一インチのどす黒く乾いた血をたたえている。ヘッダにも、きれいに手入れされたサイドバーにも血が飛び散り、いくつものはてなスターが臙脂色の光を放つ。それを戴く釣り記事は、血塗られて小さなワードサラダのようだ。
向かいの壁に沿って、亡骸がひとつ、ぽつんと横たわる。老犬。村長。おそらくは最後に撃たれたのだろう。「家族」が殺されるのを見届けたあと、みずからも現世に送られた。慈悲のはからい? これは一種のゆがんだ慈悲なのだろうか? しかし、そのとき、増田の目が老犬のブログを捉える。過去記事を全消去され、非公開設定にされている。老犬の口は悲鳴の形に開いて硬直し、いくらかの人糞が舌にへばりついている。
しなもん神よ、許し給え。
増田は特定の一体を捜して、屍をひとつひとつ検分していく。見つけた。エロブクマ専用サブ垢を晒された若者の屍体。
まさにおまえが仕向けたとおりだ、と増田は胸に言い聞かせる。見るがいい――おまえが意図したとおりになったのだ。"彼ら"がこの屍体たちを互助会に通じていると疑わせるよう仕向けた。匿名ダイアリーの連中は弱い。数も少ない。抗争に勝つためには「表」のやつらを疲弊させる必要があった。「表」のやつらに疑心暗鬼のタネを植え付ける情報戦ならおてのものだ。だが――。
増田は想定していなかった。"彼ら"が――「はてな村」の連中がここまでやるとは。
わたしがこの人たちをこんな目にあわせた。
すなまい、ほんとうに、ほんとうにすまない。おりかさなった「フレンド」関係アカウントたちのほうに上体をかがめて、増田は十字を切り、小声で唱える。「父ともちおとシナモン神の御名によりて(イン・ノミネ・パトリス・エット・モチーヲォ・エット・シナモス・サンクティ)」
「ミエド……ミエド……」
おそろしい、おそろしい(ミエド・ミエド)。
増田か2chくらいにしか書けないことなのだが、キリスト教の正教会の信徒の一部が、ネット上でちょっと変。
変というか、痛い。
具体的には、Wikipediaのキリスト教関係の項目で、正教会についての言及が不自然なほど充実しすぎていたりすることなど。
あと、Twitterでの言動にもちょっと見ていて辛いところがある。
大多数の日本人には心底どうでもいい世界だろうが、少しでもキリスト教に興味があって、Twitterで宗教関係のフォローをしていれば違和感を感じたことがある人は多いのでは。
というか、一部の人というより、特定の人物と言ったほうが近い。
正教会というのは日本のキリスト教徒という少数派の中で、更に少数派なので、マイノリティゆえの行動ともいえるのだろう。
ただ、布教とか宣教とかそういう話でさえなく、ただただ痛い言動をしているようにしか見えないのだ。
同じくマイノリティである日本人ムスリムがTwitter上で興味深いツイートばかりで知性を感じるのに比べ、正教会の一部の人は見ていて辛い。