はてなキーワード: サマセット・モームとは
三度寝した後、昼ごはんに彼氏にもらったノワールを食べる。それから、図書館へ向かう途中でコンビニに寄り、からあげクンとだしおにぎりを買う。
図書館の前のベンチで買った二つを食べる。からあげクンは、期間限定フレーバーなんて買わずに、素直にホットを買えばよかったな、と後悔するも、だしおにぎりは、値段の割に美味しかった。
軽くお手洗いを済ませて、なんとなく、クリスタルを読む。登場人物の暮らしぶりや、横文字の固有名詞がたくさん出てきて、高度経済成長期直後の70年代後半から80年代の一般市民にも余裕が出てきたイケイケな日本の雰囲気がよく伝わった。特に私が気に入ったのは、生まれてきてから苦労や不安といった暗い感情とは無縁な若者の浅はかさや薄っぺらさがよく現れている点だ。小説を読んでいて、やけに注釈が多く、無視して読んでいたが、思ったよりも早く読み終わったので読む。これがなかなか面白い。例えば、
エルメス …馬具商からスタートしましたのに、今や超高級ブランドになりまして
モデル …大した顔でもないのに、自己顕示欲の塊で、モデルをやっている女子大生もいます
サマセット・モーム…なんたって、由利(主人公)は一応、英文科ですもの
もはや筆者の皮肉混じりの感想となっているものが、ほとんどだった笑 また、最後に暗に少子化時代へと進む事を示しているであろう日本の出生率を示したデータが唐突に現れる。これは、10年後もシャネルを着たモデルをやっていたい主人公の、将来もモノに囲まれた裕福な生活が送れると思っている主人公の行く末でも表しているのかと思った。オシャレで裕福な生活を送っている若者たちの生活→筆者の彼らの暮らしに出てくるモノに込めた皮肉混じりの注釈→日本の出生率からそんなに長くは続かないであろう今の生活、という一連の流れは、実に見事だった。
マッチングアプリとは別の出会い方も試したく、増田婚活をしてみることにしました。
婚活中の男性からのコンタクトや、そうでない皆さまからのアドバイスをいただけましたら嬉しく思います。
31歳/ 東京在住/ 153cm/ 38kg(増量予定)/ 年収600万/ 国立大卒(社会学専攻)
お酒弱い/ タバコ吸わない/ 黒髪ボブ/ 外見とコミュ力は普通だと思いたい(注1)
売りにできる外見ではないもののお会いした方からはまた会いたいと言っていただけるので、最低限の足切りラインはクリアしている…と思いたい
31~36歳/ 東京~千葉で会える/ 子供を持たなくてもいい/ お互いの条件についてメールで話せる(注2)
できれば映画が好きだと嬉しい/ 年収にはこだわらない(注3)
(注2) (修正) 好きになるのには時間がかかる一方で合わない部分は一瞬でわかることもあるので、
そういった条件に関しては早めにぶっちゃけトークをしたいです。
ここに書いていたのですが傷つくという意見があり、取り下げました。申し訳ありませんでした。
(注3) ただ、仕事が好き/ 社会を生き抜く能力がある/ 転職できるスキルがある等の要素には魅力を感じます
本/ 映画/ 植物/ コーヒー/ 予定のない休日/ 雨の日/ 料理
かなり質素な方だと自覚しているのでパートナーに強いようとは思いませんが、
基本スタイルとして「贅沢を楽しみたい」より「ささやかな幸せを見出したい」派の方が合うかと思います
大体なんでもおいしく食べられます/ 高級店が苦手/ 外食より自炊派/
手料理は地味になりがち/ 中東料理やメキシコ料理などやや変わったものも作ります/
健康によいものが好きですが、ピザパーティーや深夜のラーメンも楽しめます
週末の外出は隔週に1度くらいが理想/ インドア派/ お家大好き/
出掛けるとしたら映画館・現代美術(意味不明なものの解釈をあれこれ言いたい)・キャンプ・海・山・夜のお散歩等/
一緒に暮らしたい/ たとえば
・外で面白いものを見つけたら写真を撮ってLINEしたり「早く帰って話したい!」と思ったり
・ポップストアでちょっといいスイーツやお惣菜を見つけ「買って帰ったら喜ぶかな」と想像して
→買って帰って、食後にお茶をいれて食べながらお喋りしたい
・問題が起きたら話し合いたい
→ネガティブな感情や価値観の違いも認め合って、長く一緒にいることを前提に向き合いたい
・キャンパー/ バイクやドライブが好き/ 登山好き/ 筋肉質/ 副業・起業している
→興味と憧れがあり、いろいろ教えてほしいです
→(追記) 重要ではない/ 自分になくて魅力を感じる要素の例です
・リモートワーカー
→アウトドアにも興味があります、と言いたかったのが、アウトドア派を求めているみたいになってしまいました
憧れもありつつ、以下のような発想の方は、私との相性でいうとちょっと違うかも
・せっかく旅行するならその土地でしかできないグルメやアクティビティを目いっぱい楽しみたい!
・なんだかんだ高校生の頃から使っているので、私らしい場所=相性の良い人に出会えるかも
・少なくとも考えを整理できるし、失うものはない
・知らない人の書いた文章を読むのが好きな人/匿名でなにか書こうと思う人が好き
hatena.anonymous.diary(at)gmail.comにメールいただけたら嬉しいです。
恋愛系のエントリから「こんな関係になりたい」というものをピックアップしました
→大学から10年付き合った人がいたけれど、子供がほしい/ほしくないで別れる
→どんな人とうまくいくかわからず、それからずっと右往左往しています
1人目は条件的な部分が合致すれば好きになれると思って付き合ってみたもののそうはならず、
2人目はスペックをまったく見ずフィーリングで付き合ってみたけれど育った環境の違いが障壁になり、
3人目は諸々違和感のない人だったけれど、彼にとって私は理屈っぽすぎ、私にとって彼は話合いのできない人で…
洋画派/ 字幕派/ SFやサスペンスが特に好き/ 痛いシーンが苦手
有名どころだと「メッセージ」とか「TENET」とか
not有名どころだと「ランダム 存在の確率」とか「スウィング・オブ・ザ・デッド」とか
要約すると「お家にいるままできる旅行、それが移住」という感じです
正直に言うと特になくて、村上春樹の話をするか直近で読んだ本の話にすり替えるかすることが多いです
直近で読んだ本は「山女日記(湊かなえ)」「モーム短篇選(サマセット・モーム)」「婚活戦略(高橋勅徳)」です
心身の面でも経済的な面でも支えになりたいので、質素な生活を基準にですが二人分の生活費を賄える仕事をしています
極端に細くはなく、筋肉が少ないのと骨格が小さい?のとで見た目のわりに低体重なのかなと…
最近は意識的に食べていて、ジム通いでメリハリボディを目指しています
フムス(ひよこ豆のペースト)/ タブーレ(パセリのサラダ)/ ブルグル(小麦の粒)のピラフなど
同性では絶対ダメということもないのですが、同性で長期的に一緒に暮らしてくれる/支え合えるパートナーを探す方が難しいと思っています
子供がほしくない=性的なことに興味がない、というわけでもないし、一緒に寝たり甘やかしあったりしたいです
ほしくない理由があるというより、ほしい理由がなくて、だからリスクやコストが気になってしまって…
ほしい理由がないのは本能の問題で、自分で選んで決めたというより、そのように生まれた感覚です
(恋愛対象が男性/女性/他であることに理由がないのと近いと思います)
幼少期にトラウマがあるとか家族関係が複雑とか、そういった事情は特にありません
家賃5+食費2+光熱費・通信費1.5+その他雑費1.5くらい
将来的にも同居の予定はなし(親も望んでいないらしい)/
パートナーの家族ともこのくらいの距離感だと感覚が合いますが、先のことはわからないので事情に応じて/
いざというときは支えになりたい/ 兄が一人と実家にカメが2匹います
一方で、誰かと長く一緒にいたいとは思っていて(いろんな人と遊びたいとは思っておらず)、
その場合には、するメリットはあっても、しない理由はないとも思う。同じように思ってくれる人がいい
ずっと一緒にいると約束できる/ 家族が喜ぶ/ 世間のプレッシャーから解放される/
一時的な感情で別れずに済む/ 一度手続きを済ませれば、以降の手続きは簡素化される
数年かけて話し合った上で10年寄り添った人と別れたため、条件の合致も重要と考えています。
他のことは「異性として魅力を感じられて、価値観の合う人がいいな」と思っているのですが、
そんなの皆そうだし何も言っていないのと同じなので/
お互い不特定多数と繋がれる婚活の場で「条件をつけずまずはお話してみる」は現実的ではないので、
上に書いた条件があり、以下の順で優先しています。
年齢:変えられないからこそ重要、大きく年上は将来が不安。年下についてはもっと柔軟に考えるべきかも
外見的魅力(変えられない部分):変えられないからこそ重要、逆に変えられる部分は変えればいいのであまり気にならない
年収/社会的能力:大切ではあるが、年収が低くてもOKな例はたくさんあるので条件としての機能は弱い
趣味の合致:大切ではあるが、新しい趣味が始まる可能性もあるので条件としての機能は弱い
居住地:写真を送って晒されるリスクが怖いのでお会いできる距離がいいけど、顔を知らないままやり取りしてメル友止まりでも構わない
嬉しいです!メールください。友達希望と明示いただけたら助かります。
これまでのところ大変有難い形で進んでおり、投稿してよかったと思っています。
経過報告はこちら: anond:20230814175244
この記事の主旨は「ウクライナのゼレンスキー大統領のパーカーは略式軍服である」ということではない。
あくまで「略式軍服という日本語はなかった」「一年ほど前から急に現れた言葉だ」という誤認を訂正したいだけである。
「略式軍服」という言葉の使用例は、国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索では33件 - 法華狼の日記
どう見ても定着した言葉や概念ではない。ほとんどが翻訳で採用された言葉だったり、あくまで「略式の軍服」という意味の表現にすぎない。同一作品の重複も多い。
法華狼氏のエントリでは近年の用例はないとされているが、実際にはそうした用例は存在する。
枯野瑛『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』
あえて翻訳は除外したが、日本人作家の商業作品に限定してもこうしていくつかの使用例がある。
池波正太郎以外は、2000年ごろから2020年までに刊行された新しい書籍である。
もちろん10件足らずでは「定着していた」とまでは言えない。
しかし「用例がまったく無いわけではない」ということはわかるはずだ。
「用例」の存在を確認したところで、次は「用法」の確認をしたい。
国立国会図書館デジタルコレクションで「略式軍服」を検索すると、1940年発行の岡倉由三郎編『新英和大辞典』がヒットし、以下のような項目を見つけることができる。
tu'-nic [tjúːnɪk] n. 1) 〘古代ギリシャ・ローマ〙襦袢, 肌着, シャチ; 2) 一種の陣羽織; 3)(現代婦人の用ひる)腰部緊着上衣; 4) 〘俗〙密着短上衣, 略式軍服(又は, 警官服); 5)〘解・動〙被膜, 膜(=integument); 7)〘植〙膜質外皮, 種皮(=husuk). [OF tunique, < L tunica]
つまり辞書レベルで「略式軍服」は「(軍服の)チュニック」の訳語だったのである。
これは法華狼氏が「ほとんどが翻訳で採用された言葉だった」と書いているのにもつながる。
実際に、国立国会図書館デジタルコレクションで読めるいくつかの翻訳書籍の原文を確認してみると、
エリック・アンブラー著・宇野利泰訳『真昼の翳』(1963年)
He stood up, as if to end the discussion, and smoothed down the front of his tunic.
when he came back he looked lovely in his uniform, with all those pretty ribbons on his tunic,
コーネリアス・ライアン著・木村忠雄訳『ヒトラー最後の戦闘』(1966年)
Golbov took out of his tunic pocket a folded copy of the newspaper Red Star
用例が少ないために「それが定訳だった」とまでは言えないかもしれないが、「チュニックを略式軍服と訳していた」ということの証左にはなっていると思う。
英語の小説を挫折せずに読む方法というエントリをこの前書いた増田だよ。その後『月と六ペンス』を英語で読み続けて、とうとう今日読み終わったよ。めちゃくちゃ面白かったよ。
サマセット・モームの小説はテンポがよくて、英語も簡潔で読みやすいよ。エンタメ要素が多くて普通に楽しいよ。人物描写がとにかく上手いよ。
ロンドンで株式ブローカーとして40歳までわりと平凡に暮らしていたストリックランドという奴が、絵を描きたいとか言ってパリに失踪して、その後タヒチに渡って絵を描き続けて、死後になって美術の世界に革命をもたらした偉人扱いされる話だよ。このストリックランドという画家はポール・ゴーガンがモデルになっているらしいよ。
バルガス=リョサもゴーガンを題材にした『楽園への道』という長編小説を書いていて、そっちの方を先に読んでいたから、『月と六ペンス』を読んだらなにかしら既視感があったよ。こっちの方が時代的にはもちろん先の作品だね。バルガス=リョサはモームの作品についてどう思っていたんだろうね。
それはともかく、『月と六ペンス』の前半はストリックランドという男がどれほど周りの意見を気にしない自己中心的な男で、どれほど他人を残酷に扱ってきたか、嫌というほど読ませられて、強烈な印象を受けるよ。それで小説の後半はストリックランドの死後に周りの人間の傍証をたどる形で、色々な人の声が挟まれていく文体になっているよ。いわゆるポリフォニー小説だね。
ストリックランドは最後はタヒチでハンセン病になって、まったく治療を受けず壮絶な最期を遂げるんだけど、この描写がかなり強烈だったよ。ストリックランドが追求し続けた世界を作者は垣間見させようとして、けっきょくよくわからないので、読んでいてもどかしい感じがするよ。
小説の始めの方で、ストリックランドの(最初の)妻は、ストリックランドが他に女を作ってパリに駆け落ちしたと思っていたんだけど、じつはそうではなく、恋愛絡みではない理由で自分が捨てられたと知ると、この女はストリックランドを激しく憎むよ。
小説のラストシーンは、それから20年ぐらい経って、語り手がロンドンでこの妻に、ストリックランドの最期を告げるシーンだよ。この時になったら妻の態度はガラリと変わっていて、すっかり有名人になったストリックランドと自分との関係性を周りに触れまわりたそうにして、馴れ馴れしくストリックランドのことをチャーリーとか呼んで、家にきたストリックランドの研究者からノリノリでインタビューを受けているよ。この妻の俗物ぶりがとにかく胸糞悪いよ。この胸糞悪さは、それだけモームによる小説の構成がうまく行っている証だと思うけど、それにしても胸糞悪いよ。
最後の最後にストリックランドの家族が聖書を引用して何か言って、語り手がそれをうけて自分の思いを語って終わるんだけど、これはぜんぜん意味がわからなかったよ。
たぶんこの小説はまたいつか読むと思うよ。
はじめてiPhoneのBooksアプリだけで英語の長編小説を読んだら、まずまず快適だったよ。英語のわからないところはその場で辞書を引けるから楽だったし、新しい語彙をけっこう覚えたよ。
英語の小説を途中で投げ出してしまう原因のひとつは、書いてある情景描写がよくわからない(伝わらない)ことだと思う。
自分の場合、古い小説に出てくる昔のヨーロッパの景色はその知識がないから想像もしようがないのだ、で、そういう想像のつかない文章がずっと続くと疲れてしまって途中で読むのをやめてしまう。
やめてしまうのを回避するために最近いいかもしれないと思っているのは、小説の描写をAIで絵にしてみることだ。
There was a high dado of white wood and a green paper on which were etchings by Whistler in neat black frames. The green curtains with their peacock design, hung in straight lines, and the green carpet, in the pattern of which pale rabbits frolicked among leafy trees, suggested the influence of William Morris.
Deepl翻訳
白木の高い庇があり、緑の紙には黒い枠に入ったホイッスラーの銅版画が飾られている。孔雀をデザインした緑のカーテンは直線的に吊るされ、緑のカーペットは、葉の茂った木々の間を淡いウサギが戯れる柄で、ウィリアム・モリスの影響を感じさせます。
すると、結構似たような、時代がかった室内画像が表示される。もともとなんのイメージも持てなかったので、突然現れるこの合成画像の説得力はすごい。
それで英語の描写がなんだかわかったような気になって読み進めることにしている。
■追記
もちろん電子書籍のアプリから文章をコピペできるのがいいよ。自分はiPhone のBooksアプリからコピペしているよ。サマセット・モームの全集を450円で買ったよ。編集はちゃんとしてて、なによりモームの小説には文章を読む楽しみがあるよ。
■教養を身に付けられる本を教えて欲しい。
この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。
しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。
これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。
ただ日本でキリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)
個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。
なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。
ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。
その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。
むかしは手に入りやすくてわかりやすい入門書が不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイの入門書をお勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三の著作は今でも分かりやすくてよい)
みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。
マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観を学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。
好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。
ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。
なお、第二次世界大戦については最近、川田稔『昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。
文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。
そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教の知識がここで生きてくる。
日本の小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本の近代について一席ぶてるようにしておこう。
それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事。
わが国では哲学について昔から「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルト・カント・ショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。
ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。
どうせ正確な理解なんて無理なのだから、適当なアンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。
なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。
「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。
上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。
下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹の解説を読んで都度勉強すると良いだろう。
ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。
こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。
ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛な作業になるので、視野を広げて中国思想・インド思想辺りに目を向けるのが良い。
「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。
自然科学の話題になると、トーマス・クーン『科学革命の構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。
ヨビノリをはじめとした学習コンテンツがYouTubeに転がっているので、せめて高校数学と物理ぐらいはやっておかないといけない。
上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。
論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。
幸いなことに最近、詩人の渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。
なんか知らんが「教養人」は映画が好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。
イギリスのエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。
とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。
ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。