はてなキーワード: 仏教説話とは
議論の作法とか過去の議論からの流れとかは例のにわか氏のほうがあかんのだろうけど、ダーティハリーみたけどつまらんかったわ!って文章よりもアメリカンニューシネマおもしろいねん!って話の方が好みだったので、そこらへんに乗っかって紹介されてた中で特にオチが知りたくなった「泳ぐひと」を見た。
単になにも解説みないで見てもまあなんか主人公がいろいろとイキリ散らかしてて最終的にその報いを受けることになる・・・っていうなんか仏教説話というかクリスマスキャロルとかああいう系の話なんだろうなってみてたのだけど、あとで解説みたらおおよそそんな感じなんだけど当時のアメリカの世間の状況(広告業界が猛烈に景気よくてやりたい放題やってたとか。)に対する批判とかになっているとかあってその辺は全然わからなくてなるほどなあ・・・と思った。アメリカンサイコとかに繋がる流れの映画ってことなのかな。
当初は陽気なムキムキのイケメンだったのがプールを渡り歩きいろいろなことが明らかになっていくにつれてだんだんみじめな実情があからさまになっていく、というストーリーを主に演出や撮影の技術で見せていくというのが面白くてよくわからないなりに退屈せずに見ることが出来た。
「君の名は」は、東日本大震災を事前に知って回避したらどうなるかっていう話。題材を変えているだけで、あれは不謹慎な話でもある。
街が破壊される描写も東日本大震災が元ネタ。日本でウケたのは、皆東日本大震災を経験して、あの空気感を思い出して心が揺さぶられるから。
東日本大震災で誰も死ななかったら?という、もう起きてしまった事に対して過去を否定する話。
「天気の子」は、ポリコレ社会に対してのアンチテーゼが元ネタだった。ポリコレを大事に思っている人は苦々しいだろうし、
責任のある立場で色々犠牲にしてきた大人は批判されているようで気持ちよくないだろう。
東日本大震災から離れつつ、相次ぐ自然災害を「異常」だと言うことと、社会の正義を1つに定めることを重ねた。
「青空(正しい世界)よりも俺はひな(間違っているが信じている存在)がいい!天気(社会)なんて狂ったままでいい(間違ったままでいい)んだ!(だって世界は元々間違っているのだから)」
という主人公の言葉は痺れた。個人主義の皮を被った全体主義に対する強い批判のように感じた。
「すずめの戸締り」は正直駄作だった。ネタが尽きたんだろう。イケメンの声優は下手糞だし、話も先が読めるし、感情移入できないし、テーマ性も問いかけるだけで終わっている。
結果的にダイジンは世界の為に犠牲になり、すずめはダイジンをうちの子じゃないと言い放ち。
ただこれは、「君の名は」が「あったことをなかったことにする」、つまり「3本脚の椅子を4本に」ということはせず、傷ついたものは傷ついたまま、あったことはあったまま、
前に向かって歩くと言うテーマには、平凡なストーリーが合っていた。
3部作を閉じるにあたり、始めてしまった「嘘」を「閉じる」、贖罪の為にこの作品を作ったと考えれば納得できる。いつか新海のインタビューで「君の名は、は一時の傷を癒す絆創膏のようなもの」という言葉を見た気がする。
新海はその傷痕を傷痕のまま、絆創膏を剥がす痛みをこの映画で描きたかったのだろう。l
勿論それは君の名のように劇的ではなく、天気の子のように動的でもない。
源氏物語を書いた紫式部は、仏教説話によると地獄に落ちたらしい。
現実に向き合うべきなのに、人の心を惑わし夢の世界に閉じ込めたと。
新海誠はその点、物語の扉を閉じてみる人を夢の世界から引き揚げた。すずめの戸締りは駄作だけど、新海誠は嫌いになれない理由がそれだ。
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。
「死後の世界では、食事の際に1mもあろうかという箸を渡される。地獄の亡者たちは四苦八苦して食べ物を取ろうとするが食べることができず、苦しみ暴れる。いっぽう極楽に行ったものたちは人間ができているのでその長い箸でほかの者に食べ物を食べさせ、また自分も誰かに食べさせてもらう。
同じものを与えられても、ふるまいによって結果は大いに変わるのだ。」
みたいな話あるじゃん
せっかく極楽に行ってもクソ長い箸渡されるのメッチャ嫌じゃない?
孤独のグルメでも言ってたけどさ、食事ってのは孤独に自分のペースでやってこそだろ まあときどきは人と食うのもいいかもだけど、毎食毎食食わせ合うのはしんどくない?
この話がどのくらい正典扱いされてるのか知らないけど、極楽に行く人間を上げるために極楽そのものの利便性を損なってしまった ってのは示唆的だなあ
http://anond.hatelabo.jp/20160229202916
この記事のコメント欄に、「こういうのは宗教が救えれば良いが日本はそのあたりが弱い」というコメントがあった。
自分は大きくこれにうなずいた。
最近の日本仏教、とりわけ江戸期の葬式仏教以来、崇高な精神を日本の仏教は失ってしまった。
同胞が殺されているのになぜ声をあげない。
世界平和を望むなどと口先ばかりで何もしない。ようはお金にならないことはしない。
ホームレスに対する炊き出しもそうだ。やっているのはキリスト教の団体ばかり。
昔の仏教説話には、弱い立場のものに仏が姿を変えて出てきて、功徳を積むよう
諭すものがたくさん出てくる。
とにかく金、金、金、そればっか
恥を知れ!