はてなキーワード: 失楽園とは
確かに馬の気持ちも聞かず、とにかく走れ走れと言って走れなくなったら肉になるのはかわいそうと思う。
しかし、馬はいっぱい走らされるけど、ブロイラーなんかはただただ怠惰に暮らして食われるわけで、その方が無理やり走らせるより幸せなのかと言われると、うーんってなってしまう。
私自身、怠惰な人間なので、例えば古代ローマのグラディエーターと、親の遺産大量に持って働かなくて好きなだけ食える怠惰な生活、どちらがしたいか?というと迷わず怠惰なほう。
でも、そういう怠惰で自堕落なのが死ぬほど嫌いで、自分を高め続け自己研鑽に身を置きたい人がたくさんいるのも知っている。
麦やコメを育て、食うに困らなくなった人間は、家畜と確かに変わらない。
食うために体で働く人間は、競走馬とほとんど変わらない気もする。
水木しげる先生が言っていたけど、「ネコは生きるためには働かない」わけで、ネコは人を使役することで無労働で生きられるようになった。
ハムスターもそんなもので、ただ見た目がかわいいというだけで何もせず生きられるようになった。
これは人間だったら、何不自由なく育て、与え、かわいがるし、健康管理もするし、働く必要もないけど、セックスだけは一生させないという人生。
子供も欲しいなと思う。
かつての人間は神の飼うハムスターみたいなもので、神に愛想つかされたから楽園を追放され、労働をする必要が生じた。
その代わりセックスして子を作ることができるようになった。
女は生みの苦しみもあるわけだけど、それでも喜びは大きい。
やっぱりそう考えると、エデンの楽園にいた頃の人類がブロイラーで、失楽園した人類が競走馬なのかもしれない。
競走馬はメスは半分はいかないかもしれないけど20%くらいはお母さんになれて、オスは1%くらいしかセックスを経験できないけど、それでも怠惰に暮らしてしめ殺されるよりは、戦いに身を置いてセックスを求めたい気はする。
イヴは裸を恥じらう知恵すらなかったけど、知恵の実を食べ恥じらいを覚えてこの世にエロスが生じたわけだ。
パンドラの箱みたいな話になるけど、苦しみと喜びは両方引き受けなきゃいけないのが人生で、そして喜びの質が大きいのは、怠惰に食う寝るできる方じゃないって気がする。
この人生が終わり、ブロイラーに転生するか、競走馬に転生するかなら、どちらを選ぶ?と言われれば、やはりセックスしたいから走るほうを選ぶと思う。
結局は生きるってセックスってことか。
日本でキリスト教徒の印象を聞くと、大抵”神”というファンタジーを本気で信じている幼稚な人間という扱いを受けるがそれはあまり正しくはない。
基本宗教において神の存在はあまり重要な意味を持たない。それについて簡単に説明をしてみようと思う。
まずキリスト教の前身はユダヤ教であり、その聖典は旧約聖書である。
旧約聖書でどんなお話が語られるかと言うと、有名な物では:失楽園、カインとアベル、バベルの塔、ソドムとゴモラなどであり
それらの共通点は全て人間が”やらかした”お話であるという事だ。
「人間は調子に乗るとロクでもないことをやらかしがちなので、皆ルールを守り慎ましく生きましょう」
という事を教えている。神が存在するか否かはあまり関係がない。
ではユダヤ教徒であったキリストが新しく提案した教えはどんなものであったのか?
キリスト教の聖典、新約聖書で有名な話は例えばは姦淫の女の話がある(ヨハネによる福音書第8章2節-11節)
姦通の罪で捕らえられた女性に石投げをしようとする人々にキリストが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言うお話だ。または良い羊飼い、放蕩息子のたとえ話なども同じ教えなのだが、
キリスト教では
「確かにルールを守るのは大事だが、ルールを破ってしまう人もいる。そんな人たちをただ排除するのではなく正しく導いてあげましょう。自らでさえもそうなりうるのだから」
という事を教えている。やはり神が存在するか否かはあまり関係がない。
そんな当たり前の事わざわざ神なんて言葉を使わず普通に言えばいいじゃないか!と思う人もいるかもしれないが、多くの人たちは今自分がしているように”物語”にしなければ物事を理解できない。
映画館で見たのは数えるほど。
踊る大走査線とあとなんか。
TVでいくつか見た気もするが、ドラマの劇場版の記憶しか残ってない(あぶない刑事とトリック)
40年分くらい生きてきた記憶があるから、話題になってテレビでも放送されてたはずなのに。
そういう邦画がぽっぽや(見てない)ぐらいしか思い出せない。失楽園はドラマが先だっけ? 見てない。
これは見たはず、記憶にはあるはずっていう邦画って他に何があったっけ?
以下、思い出し中
任侠系とかも見てない。
推理小説原作でなんかあった気がする。ガリレオ(容疑者X)はTVの映画化と思ってる。見たような見てないような。
実写化でなんかあった気がする。
シン・ゴジラは見た。
つーか、そのネットの局所的な流行を全国規模に押し上げた立役者の影響で、間接的とはいえ本当に死んじゃった人出たらしいからな…
私たちがファンフィクションについて話すとき、私たちはめったに「ジョンミルトン」とは思いません。 それでも、サタン(聖書ではほとんど言及されていない)を連れて、この倒れたアーチフィーンドをアンビバレントで壮大なヒーローにする彼のパラダイスロスト(1667)にどのように近づくのが良いでしょうか? ウェルギリウスのアエネーイス、オウィディウスの変身物語、ダンテの神曲、スペンサーの妖精の女王、その他の無数のテキストやジャンルから借りた技術とテーマに基づいて構築されたミルトンは、古典とルネッサンスの形式を再混合して、英文学の(おそらく)最高の設定に聖書の宇宙を作り上げました フィリップ・プルマンが信じている詩は、[「決して超えられない」」。
DeepL翻訳
ファン・フィクションというと、「ジョン・ミルトン」を思い浮かべる人はほとんどいないだろう。聖書にはほとんど登場しないサタンを、堕落した弓矢のような存在であるサタンを、アンビバレントな叙事詩的ヒーローに仕立て上げた『失楽園』(1667年)に、どのようにアプローチすればよいのだろうか。ヴァージルの『エニード』、オヴィッドの『変身』、ダンテの『神曲』、スペンサーの『フェアリー・クイーン』など、数え切れないほどのテキストやジャンルから借りた手法やテーマで構成されたミルトンは、古典とルネッサンスの形式を再構築し、聖書の世界を英文学の(おそらく)最高の詩の舞台に仕立て上げました。
みらい翻訳
ファン・フィクションのことを話すとき、 「ジョン・ミルトン」 とはめったに思いません。しかし、悪魔 (聖書ではほとんど言及されていない) をとり、この倒れた大魔王を両義的で叙事詩的な英雄にする失楽園 (1667) に近づくには、どうしたらよいのだろうか。Virgil's Aeneid、Ovid's Metamorphoses、Dante's Divine Comedy、Spenser's The Faerie Queene、その他無数のテキストやジャンルからテクニックやテーマを取り入れて構成されたMiltonは、古典とルネッサンスの形式をリミックスして、聖書の世界を英国文学 (おそらく) の最高の詩の舞台にし、Philip Pullman [n] が 「超越される」 と信じているようなものにした。
[“n]ever be surpassed”.とか訳しにくそうだな。