はてなキーワード: エッセイストとは
1964年頃から活動していたが、男として頭角がなく、昭和54年以降の女性の時代になって、その独特の性狂いのエッセイが大流行し、一世を風靡した。
「真夏の豊穣の豊かさに比べると、冬枯れの無機能の美しかない今にあっては」というのは、串田孫一の、エッセイの一節である。
ここでいう、冬枯れの無機能の美というのは、現在の警視総監である、小島博史が書いているようなゴミの事である。これをあえてゴミと強く表現する必要はないにしても、宮崎県警通信指令課
宮崎県警本部長が最終的に書く行政処分書が上記のものに該当することは明らかである。代表作
著作は山岳文学、画集、小説、人生論、哲学書、翻訳など多岐にわたる。詩集『羊飼の時計』(1953)、『山のパンセ』などが主著。
『山のパンセ』実業之日本社 1957 のち集英社文庫・岩波文庫・ヤマケイ文庫
『現代人生論全集11 串田孫一集』雪華社 1966(のち私の人生論10 串田孫一、日本ブックエース)
『Eの糸切れたり』時事通信社 1987(のち平凡社ライブラリー)
『もう登らない山』恒文社 1991
誰が読むのだ、こんな手記は。
まったく誰の得にもならないことだ。
これを読んているのは、不幸にも偶然にもここに辿り着いてしまった人かーーよほどインターネットで文字を読むのが好きな変人かーーくらいだろう。
俺はここに、そんな誰が読むかも知れぬ場所に、"遺言"を書き留めておくことにした。
俺が傷つけ続け、俺が痛めつけ、挙句俺が捨てた、
この書き出しだけで痛い奴だカッコつけだ、文才も無さそうなパンピーがエッセイストぶりやがって、と怒りが湧いてきた人は今すぐブラウザを閉じ、元いた場所に戻るんだ。
そうでない奇特な人はーーーしばらく俺の話につきあってくれ。
恥ずかしい話てはあるのだが、何度か"ボヤ"を起こしたことがある。
その度に、自分が属している(と思い込んでる、思い込んでいた)界隈での肩身が狭くなっていって。
だいたい人生3回目?くらいのボヤをやらかしたあたりで、(自分の実生活の変化も重なって)
X含むインターネット上での(あるいは、インターネットが主になるような)交流に対して、それまで約十年程自分の中にあった執着や自己顕示欲や承認欲求が、急速に消えていくのを感じた。
それまでは誰がどんなポストをしていて
俺の知らないところで何を言われているのかと怯え
俺の知らないところで楽しそうなことをしている奴らに僻み嫉妬し
ブロックされていると判れば別垢から直近直後のポストを確認し反省会こそすれどその内容はまったく活かさず
インターネットの海を泳ぎながら傷ついたり傷つけたり
そんなような日々だった。
しかしいまは、その総てがどうでもいい。
いや、全く総てがどうでもよく、あらゆる評価をふいにするとは言えないが――
オブラートに書かれた文字と、オブラートの中にある真意を覗うことに、酷く疲れてしまった。
……というこの心境に対し、浮かんだ仮説がひとつ。
俺の自他境界は、俺と【俺が観測可能な世界の総て】だったのでは無いだろうか……
当時は本気で思っていたのだ。
俺の知らないうちに会合していれば呼ばれてないんだがと嘆き悲しみ
俺が顔を出したイベントに関するポストが少なければその日居た筈の人を心中で責めていたのではなかろうか。
いやはや、なんと傲慢不遜なことだろう。
自分がまるで世界の王であるかのような、そんな視座でインターネットを見ていたのだ。
しかし、いまこの視座を自覚した俺は、こんなところを見ているお前に言いたいことがある。
ーーそれに、お前がインターネットに疲れていないのなら……それはそれで別に良いのだーーが。
まあなんだ、言いたいことを言うのにえらく遠回りしてしまったが。
俺は一足先にインターネットをやめる。
喩えるなら、鉄骨を渡る者たちを別室で眺めているような距離感だ。
これもこれでずいぶん傲慢な物言いであることは自覚しているが、しっくりくる喩えがこれしかなかったのだ。許してくれ。
それにしても。
もし、お前たちにも、いつかインターネットをやめる日が来たのなら。
桜の色が。
新芽の緑が。
落葉の朱が。
お前の目の端に一瞬でも過ったのなら。
そのときは、俺とどこかですれ違おう。
それじゃあな。
【スクリーンの向こうに憧れ、
DPZ辞めた古河さんがエッセイストを名乗っているのを見て心配になってしまった。
ブログやnoteから書籍を出してエッセイストになった人いっぱいいるけど、みんな1、2冊で終わってる。
それはその人の才能とか実力とかがあったなかったって話じゃなくて構造的に不可能なんだと思うんだよな。
最初はそれまでの人生から厳選したエピソードを出せるから面白いわけじゃん。
でも、そんなのはいずれ尽きるからそこから新作をひねり出さなきゃいけなくなるわけでしょ?
なにか新しい行動をしてネタを生み出さなきゃいけなくなるわけだけど、それまでの厳選エピソードに匹敵するようなものを簡単に生み出せるわけがない。
だから、エッセイストをつづけようとする人っておかしな方向に行っちゃうんだよな。
エッセイストっぽい文筆家で継続しているのって時事ネタになんか言う的な人だけ。
でも、なぜかエッセイストに憧れる人っていっぱいいるんだよな。
お前らどう思う?
https://togetter.com/li/2254023
LGBT界隈で持て囃されていたキラキラトランスジェンダーの本性が暴かれた衝撃の事件。
「女の子になりたい」
アラサー男性が口紅に挑戦するエピソードが大反響を呼び、一躍5万超フォロワーの人気エッセイストとなった「いちとせしをり」
「可愛いってだけで許されてる女を滅○刺しにしたい」
「自サツするなら強カンでもしちゃえばいいのに」
可憐で健気なポエムからは想像もつかない、いちとせしをりの過去ツイートが明るみになる
芋づる式に裏垢も見つかり、大量の女性への殺意や蔑視、性加害発言…あまりのキャラの違いに騒然となった
・鬱病や元恋人の女性が亡くなったことで精神的に荒れて女叩きをしていた(?)
・別に女になりたいわけではなかった
カップルエッセイを描いてた漫画家が、パートナーと別れたことを報告した。
別れてからも続きを描くことは元パートナーに了承を得ていたが、しばらくして「漫画に描くのはやめてほしい」と言われたそうで。
だが漫画家本人は「最後まで描くことがけじめである」と言い、〇話より先は元パートナーに確認を取らずに描くことになると宣言した。
私はそれを読んで「そこまでして描かなくていいのに」と思った。
エッセイストだけでなく、YouTuberやインスタグラマーやTiktoker、昔ならブロガーなどで自分の日常をコンテンツにしている人々はいたが、常々思うのは「そこまで見せなくていい」ということだ。
確かに見続けていると段々と「もっとこの人のことを知りたい」と思ったりするが、無理してまで見せてこなくて良いと思ってしまう。
先述のカップルのように、関係性をコンテンツにしている方々は、喧嘩などで関係に変化があるとすぐ動画なりにして載せている。
質問コーナーで営みの頻度まで答えているカップルもいるが、みんなそこまで気になるんだろうか。
あと、ママやパパが子供との様子を載せているものなどで子供がなにかイタズラをし、それを叱っている様子を載せているものも「そこまで見せなくていい」と思う。
一時期、ジャガー横田の息子の受験の様子などがYahooニュースなどでよく流れていたことがある。
「スッキリ」のミニコーナーで追っかけてた流れで、ジャガー横田のYouTubeチャンネルでも色々報告してたようだが、逐一Yahooニュースになっていて可哀想だと思ってしまった。
発信する側は載せなければいけないと思っているのかもしれないし、求めている層もいるとは思うが「そこまでして見せなくていい」と思っている層がいることも知って欲しい。
なんかさ、そういう、社会の裏側っつーか汚いところつーか、性に触れてましたみたいな職業経験者が何か言うとさ、そういうの経験してきた人なんだから「社会の暗部をわかってる」んだろーなみたいな暗黙の前提で発言を受け取っちゃいがちじゃない? まあ一昔前ならともかく今時元AVだろうがソープだろうが「社会の暗部」では全然ないわけなんだけど。
いや、そりゃ本当にまっとうに生きてきた平均的な女性と比べて、そーゆー職業だった人は性がらみの色んな経験をされてきたんだろうとは思うんだけどさ、ただ、その経験を以て世間をぶった切れるのかって言うとそうではないじゃん、冷静に考えたら。
元AV女優がAV業界の裏側を語るみたいな状況なら「体験談」として一定の価値はあるだろうけど、AV女優でもキカタン以上クラスそれ未満とではそもそも扱いが全然違うらしいから、どっちかの言い分だけで業界全体を理解するのは危ないわけだし。ぶっちゃけ「それはあなたの経験ですよね、経験を否定するわけじゃないけど全体を理解してるわけじゃないですよね」でしかないわけじゃん。
峰なゆかさん、頭いいんだろうし、エッセイストとしてもマンガ作家として才能あるんだろうとは思うのよ。ただ、世間一般をぶった切るとか、世間一般に対して提言するとかになったら色々と勉強する必要があるよね。前置きがクソ長くなったけど、今回の「グラデーションレイプ」ってやつ、そこに「元AV女優」ってのは本来全然関係ないよね。ぶっちゃけ「(Twitter)発言力が高い人の体験に基づく思い付き」でしかないわけじゃん。あんた個人の体験談として「内心嫌だったんだけど渋々セックスを受け入れた」てのはまあ気の毒には思うけど、だからなんやねん的な。
てかまあ「受け入れた」て言っちゃうと「いや受け入れたんだからお前の責任だろ」て言われちゃうから、より被害者性を強調するためにレイプって言い換えてるのは正直なところ姑息だと思うよね。
話を纏めると、峰なゆかさんが女性一般とか世間一般とか的な話をするときに「なんかわかってる」という前提で耳を貸す価値は正直無いと思うし、元AV女優としての話をする場合でも、いちキカタン(だったっけ? ごめん詳しくない)女優の体験&見聞でしかないということを踏まえるべきだよね。
俺たちはさ、なんつうか、有難がり過ぎなんだと思うのよ。