はてなキーワード: アジるとは
他にあったら適宜追加します。
単語 | 元の単語 | 備考 |
サボる | サボタージュ(sabotage) | 前方一致 |
ダブる | ダブル(double) | 発音一致 |
ハモる | ハーモニー(harmony) | 前方一致 |
ググる | グーグル(google) | ググレカス |
パニクる | パニック(panic) | 後方追加 |
ディスる | ディスリスペクト(disrespect) | 前方一致 |
ミスる | ミス(miss) | 後方追加 |
トラブる | トラブル(trouble) | 発音一致 |
デコる | デコレート(decorate) | 前方一致 |
メモる | メモ(memo) | 後方追加 |
バズる | バズ(buzz) | 後方追加 |
スペる | スペランカー(spelunker) | 前方一致 |
前方一致:元の単語の後方が省略され「る」が付加されている
後方追加:元の単語にそのまま「る」が付加されている
=========以下追記分=========
ブコメとコメントから拾いました。全部拾えていないがご勘弁を。
個人的には、「ポシャる(なぜ「シャポる」ではないのか)」と「テンパる(麻雀用語からはやや異なるニュアンスで一般化した)」と「スタンバる(なんかトリッキー)」が興味深いです。
サチる | サチュレーション(saturation) | 前方一致 |
ディグる | ディグ(dig) | 後方追加 |
バグる | バグ(bug) | 後方追加 |
ネゴる | ネゴシエーション(negotiation) | 前方一致 |
ダフる | ダフ(duff) | 後方追加 |
タクる | タクシー(taxi) | 前方一致 |
コピる | コピー(copy) | 前方一致 |
スタンバる | スタンバイ(standby) | 前方一致 |
タゲる | ターゲット(target) | 前方一致 |
ネグる | ネグレクト(neglect) | 前方一致 |
ハウる | ハウリング(howling) | 前方一致 |
リムる | リムーブ(remove) | 前方一致 |
ファボる | フェイバリット(favorite) | 前方一致 |
ジャムる | ジャム(jam) | 後方追加 |
アピる | アピール(appeal) | 発音一致 |
アジる | アジテーション(agitation) | 前方一致 |
カニバる | カニバリゼーション(cannibalization) | 前方一致 |
エターナる | エターナル(eternal) | 発音一致 |
ポシャる | シャッポ(chapeau) | 特殊 |
テンパる | テンパイ(聴牌) | 前方一致 |
不運(ハードラック)と踊(ダンス)る | hard luckとdance | !! |
https://anond.hatelabo.jp/20220606174313
論文に目を通したけど、概要でも本文でも参照しているデータはインターネットの普及率や利用率であって、ポルノ消費率がどういった影響をもたらしているかは直接見ていないじゃん。
実際、本文2.1でもポルノ消費が被験者の攻撃性を高めるとする実験はいくつかあるけど具体的にそれが現場での犯罪に結びつくかは明らかではないって言うに留めてる訳だよね。
それを無視してポルノの消費の増加によって性犯罪が増加したことを示唆する論文と言い切るのって概要以外をちゃんと読んだのかな。まさか知的な誠実さを他人に問うている人間が読んでない論文を他人への叩き棒として使ってる訳ないよね。
チェリーピックについて嫌疑をかけるだけなら元増田の言ってることは正しいと思うけど。恣意的に論文を曲解して読者をアジることは元増田の中では真に知的に誠実という扱いなのかな。誤訳したと解釈しても結論が正しけりゃいいだろって態度にしか見えないんだけれど。他者の態度について咎めるなら、少なくとも自分にも当てはまるような言葉で他者を批判すべきではないと思う。
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。
最近もそうだけど景気が悪くなると飛行機や電車を撮ったり録音したりする人をいつも以上に見かけるね。あいつら、ストレス発散する場所がなくて萎縮して生きているから爆発するんだよ
つまりベースには不満意識の共有があり、当事者。彼らが爆発する勢いがあることは時々暴れる様を見たらわかること。「アジる」人がいないからうまくまとまってるだけで、いたらあそこから反乱や暴動が生まれかねないよ
E235系1000番台絡みで大船駅に来ていた鉄道系の奴らはそうだよ
出版不況でコロナ渦で外出先は公園か公共施設周辺しかなくなったから、若者が荒れ出したの
普通なら博物館とか図書館とか書籍でそのひまつぶしできた人達。
いまはいつ博物館や図書館に行けるようになるかもわからない。好況期ならどうにかなったけど不況期になればどうしようもないから、オタクなことでフラストレーションの発散すんの
「先生! 、、、好きになってもいいですか?」 「好きになっちゃいけない人なんていないよ」
「あさひなぐ」 「こんなの意味ないって!」白石「ぶちのめしてやります!」西野
「亜人」 バトルシーン
「アウトレイジ」 あり
「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち/第三章 純愛篇」あり
「弱虫ペダルregeneration」 走るシーン
「南瓜とマヨネーズ」 「稼いでこないとしょうがないでしょ!」臼田
「氷菓」 なし
「探偵はBARにいる」 「なんでそういうやり方しかできねぇんだよ!」大泉洋
「鎌倉物語」 「連れ去られてしまったんだぞ!どうしてくれる!」堺雅人
「仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイド with レジェンドライダー」「ふざけrrrるなぁ!」
今般の安保法制そのものが、合憲かどうかといった議論はひとまず脇におく。
すくなくとも今までの憲法解釈はなんだったんだ、という気持ちにさせるのは確かだ。
が、落ち着いて考えればそれに対する批判の程度の低さがあまりに目に余る。
これでは、本気で法制化を阻もうとなど誰もしてないのでは、野党は論理的な反対などできないと割り切って政権攻撃のプロレスをやってるだけなのではと勘ぐりたくもなる。
以下、いくつか例をあげる。
数に訴える論証。もっとも基本的な詭弁のテクニック。「これこれこういう理由で違憲だ」という論理に説得力があれば大多数かどうかなんて関係ない。
しかし新聞紙面やその他報道で焦点があたるのはもっぱら数だ。読者もそれにしか注目していない。
こんなものを根拠にしたら国会議事堂の議員たちの数に訴える論証に反対できないことになる。
恐怖に訴える論証。もっとも安全保障というものは恐怖から逃れるためにあるのだから、安保法制自体が恐怖に訴えることによってなりたっているのではないか、という反論はありえる。
だが、まあホルムズ海峡が機雷封鎖されたら困るしそういうときに自衛艦が能力としては掃海できるのに法的にできないのは困るよねとかってのはわかるけど、安保法制を通したら徴兵制になるってのは論理のつながりが俺にはわからない。
ということになるのだが、一体どんな成り行きでそんなことになるか想像がつかない。
まずは、かつてソ連の着上陸侵攻が差し迫った危機として語られていたころにも徴兵制などまじめに議論されていなかったことを思い出すべきだ。
こんな軍事情勢の根本的変化がわが国の国内法制ごときが原因で起こせると本気で思っているのか?本気で信じている人がいるとしたら、日本ってそんなにえらいんだっけ?それこそ日本が中心に世界が回っていると思い込む誇大妄想というものだろうといいたいところだ。
むしろ、そんな種類の軍事的情勢の変化は日本人を守ろうとした米軍を自衛隊が見殺しにして、米国国民が日本など知るかとなったときにこそ起きるんじゃないかと思われてしかたないところだ。
こうしたことを踏まえると、より不合理でより悪質な詭弁は「安保法制→徴兵制→怖いヨー」論だと少なくとも個人的には思う。
(( 時代錯誤というか懐古趣味のじいさんが「近頃の若いモンは軍隊にいかないからしつけができとらん」とか言っていたのが今では懐かしいが、そんなものはまじめな議論とは呼べない。そう思うんだったら自分の孫を自衛隊に入れればいいだけの話だ ))
感情に訴える論証。大体、どういう状態だったら日本は米国の植民地でない、属国でないと言えるのだろう?
国際政治というものは相互の関係や力の大小があってあるときは言い分がとおり、あるときは通らないこともあるのは当然ではないか。より大きな力があればより多くの言い分を通せるだろう。わけても特別におおきな力を持っているのが覇権国家や超大国と呼ばれる国なわけだ。そうした超大国さえ、政権がふらついていたりすると時としてわが方の要求を飲まされたりする。
我が方の言い分が通らない場合や相手の言い分を受け入れる場合、相手に協力する場合のことだけをことさらに取り上げてやれ属国だ植民地だだのと言い張っていては、国際関係など成り立たない。どうしてもそういう主張をしたいのなら、どういう点でどのように我が国の主権がそこなわれ不当に不利な条件を強いられているか論証すべきだろう。その論証に納得がいくならば俺も安倍総理を売国奴と罵ろうでは無いか。
確かに日本は覇権国家でないし、核武装もしていない。そりゃまあそういうことをしたら胸をはって独立独歩と言えるのかもしれない。
でも、そうなりたいの?やっていいの?
こういう主張は、日本よ21世紀の覇権国家たるべし、とか核武装なくして独立なしといった危険な主張と紙一重と知るべき。
どうせ「あそこの国はこうだ、こうしてる」といったことを言い出すのだろうが、日本は日本なのだから、どこそこの国を真似しなければならんということになるならその国の属国か植民地ということになるだろうに。
ソ連があった時代からの論法だけど、カビ臭すぎる。愚民をアジるにしてももっと洗練された技法を勉強するべきではないか。
以下、追記。
軍事力だけで中国の脅威を食い止めることができないということと、中国の脅威から日本国の権益を防衛するには軍事力が不可欠なことは矛盾しない。
要するに反論になっていない。
前提が変われば、結論も変わる場合があるのは当然というものだろう。
この論理はソクラテスが人間である場合に限り有効なのであり、ソクラテスが犬のぬいぐるみのことだったり、不死の神だったなら異なる結論が導かれえるのは当然では無いか。
要するにこれも反論になっていない。
たとえ話というのは、抽象的な議論を身近な物事との類推で理解を深めるために用いる技術である。
「軽い」のは当然であって、それを「軽すぎる」などと非難するのは、要するに理解が深まってはこまる。国民の理解が進んだら自分たちの言い分のばかばかしさが明らかになると思っているのだろうか。
あるたとえ話が不適切だと難ずるのならば「軍部隊を個人になぞらえると、こういう場合の類推がうまくない。誤解を導く虞がある。けしからん」とやればいいのであって「軽すぎる」などというのは首相のたとえが「わかりやすすぎる」と賞賛しているのに等しい。
なんといえばいいのだろうか。どれもこれもため息がでるとでも評する他ない。こんなレベルの反論しか本当にできないのだろうか?