はてなキーワード: 日本画とは
村上隆氏と左派論客の斎藤幸平氏がReHacQ(高橋弘樹氏が運営するチャンネル)で対談している動画が4連続で上がっていてすべて見た。
※以下敬称略
結論から言うとこの動画で村上隆が何をやろうとしているのかよくわかったので彼への嫌悪感はすべて消えた。
1動画40分近くあるので見るのは大変だと思うが興味深く見れたので余裕がある人は見てほしい。
一応言っておくとこれはあくまで私の個人的見解なのでその点には注意してほしい。
ざっくり動画の流れを説明すると斎藤幸平が布施英利と対談した際に村上隆が嫌いと悪口を言ったので、村上隆がYoutube?にコメントを書きそれを見てチャンネル運営者の高橋弘樹が対談に誘ったという流れのようだ。
※斎藤幸平氏はマルキストなので拝金的に見える村上氏の行為があまり好きではない
現在京都で開催中のもののけ展の展示内容を村上隆が斎藤・高橋、両氏に説明しつつ最後に対談という流れになっている。
そこで現代美術とは何か、芸術とはなにか、現代美術のマーケットがどのようになっているのかという基礎的な内容を質疑応答形式で確認していく中で村上隆がどのようなことをやってきたのか、目指しているのかという事も語られていく。
村上隆の顧客はforbes上位に入るような超大金持ちであるだとか、日本人の想像もできないような西洋のお金持ちの間でアートはある種のコミュニケーションツールとして機能しているだとか。斎藤氏や高橋氏のアート素人の目線からの質問として、アートは大衆に開かれるべきなのでそれほどの高額でアートがやり取りされるのがどうなのかという質問などもあった。
ただ、結局動画の内容を見た上で私が理解した村上隆がやっている事というのは以下のようだ。
「西洋を中心とした世界の信じられないようなハイソサエティの間で流通している概念上のアートの文脈に日本のアニメや漫画といったオタクカルチャーのスタイルもアートであると認知させるため芸術活動をしている」ということだ。
それゆえに、彼のアートは"芸術の枠を拡張する"という典型的な現代美術ということになる。
これは別の動画(漫画家の山田玲司のチャンネル)で言及されていたが、村上隆はもともとは典型的な第一世代のオタクで宇宙戦艦ヤマトのファンであった。そこでアニメ業界に憧れはあったが庵野秀明の作品が続けざまに放映されるのを見て業界を諦めたらしい。その結果彼はアニメ以外に興味のある分野として日本画を専攻することになる。
つまり根本的な動機としてアニメは素晴らしいものなので世間に認められるべきだというものがあり、それがスーパーフラットという概念「アニメも漫画も日本画も同じような手法を使っており、同じようなシステム体系であり、アートである」という主張に繋がることになる。
だから、オタクカルチャーを世界に認めてもらう手段として、西洋のハイソサエティのコミュニティを顧客とし、自分の作品をその人たちに売るという行為につながる。
彼はしばしば「高額で売ることが重要なのではない」と言うがこのロジックを理解すると容易に彼のアートや発言の意図がわかるようになる。つまり西洋のアート文脈を支配しているハイソサエティにオタク系の作品をアートであると認知してもらうには彼らのマーケットに入り込みそれらの作品を売り込む以外に方法がないのだ。だから値段は顧客が勝手に決めることになるし、高く売ることが重要ではないという事になる。目的を達成するための単なる手段に過ぎないわけだ。
またそれが彼の作品がオタクカルチャーの作品をパクったかのような作品群が混じる理由でもある。動画のなかでドラえもんとソニックを混ぜて作った作品がある(ルックとしてはミッキーマウスに似ていたためにディズニーに買われたらしいが)
これはつまりドラえもんとソニックを混ぜて作った作品が美術マーケットで売れたということは大本であるドラえもんとソニックもアートである。という論拠になる。むしろ元ネタがある作品をあえて作ることで"漫画やゲーム作品もアートである"という事になる。
"世界のアートとはいったい何なのかという概念を決めているのは西洋を中心とした大金持ちの上位層である"という彼の視座から見ると、日本人は資本主義に組み込まれてすらいないとか、敗戦国の悲哀等という発言の意図も理解できる。
アートとはいったい何なのかというルールを決める場に日本人は存在しない。
だからその世界に入り込みその概念そのものを拡大して自分の好きなオタクカルチャーをアートであると概念を変容させる。
アニメやゲームの制作者や漫画家がエンタメとして世界に売り込むことで楽しんでもらい大衆という社会階層の下からオタクを世界に拡散している。一方で村上隆がやっていることは世界の上位層に対してオタクカルチャーを広めオタクを拡散することだ。
1990年代以降実際にオタクカルチャーは全世界に拡散し人気を得てきた。私もアニメや漫画を楽しむ人が世界中に増えることは純粋にうれしい。直近でもご当地初音ミクに感動した人もいたはずだ。
だから私は村上隆がやろうとしている事に反対しないし、もう嫌いではなくなった。
※追記
幸いいくつかブコメが付いたので補足する
昔からこの趣旨の発言はしてて、それをオタク文化の収奪と見る界隈から批判されてた。ドラえもんとソニックを混ぜた作品をアート領域で認めさせてくれたからオタクの味方!というのはむしろ議論が後退してる気が
はっきり言うが、村上隆が文化盗用だと批判されたのはオタクの部族主義(トライバリズム)が原因だと思うので"村上隆がオタク第一世代である"という部分が広まれば相当数その批判は収まると思う。もともと知っていた人はいると思うが、今回かなりのコメントで"村上隆のオタクのとしての過去の部分をここまで詳しく初めて知った"という意見が目についたので。
これもクリティカルな部分で、では集団製作のアニメはアートではないのか?アシスタントを使っている漫画はアートではないのか?
というところにロジックがバックボーンとしてある。まぁ要するに高畑勲みたいに絵を描けなくて指示して作らせても別にアートだろということ
トラバにも書いたけど、もともと王侯貴族のものだった芸術をフランス革命でルーブル美術館の門戸を開いて大衆に開いたという文脈がある。つまり展覧会とか美術館で公開するのはあくまて大衆にアートを広めるのが目的であってハイソサエティのアートを変容させるという事にはならない。日本人から見るとルーブル美術館は権威だというように見えるかもしれないが、あれは権威が"大衆"に啓蒙するという文脈がある。
コミックとかを芸術にするのってロイ・リキテンスタインがすでにやってて、その土壌がすでにあるうえでヲタク文化を単にスライドで持ってっただけに見えるから嫌われてるんでは?
コミックは西洋のものであって、日本のものではない。村上が広めたいのはあくまで漫画とかアニメといった和物(より狭義に言えばオタクカルチャー)。そして西洋人がアートを決めてるんだから西洋のものがアートとみなされるというのは当たり前だと思う。
ただ、村上隆の発言を見て分かったけど、彼の思想は明確にナショナリズム(日本)やエスニシティー(アジア人)を強調してる。これは日本のものである漫画やアニメを広めたいという思考で直線的に結びついている。今回の動画で弥助問題に言及したのは非常にわかりやすい。つまりはてなのリベラル左派と相性多分悪い。
関西に限ってみるぜ! 行ったことがある中で、特に印象に残ったところ(あるいは定期的に足を運んでるところ)をリストアップ。増田は今は阪神間在住なので行きやすいところがどうしても多くなる。
京阪神+奈良以外は日頃の行動範囲に入ってないので、だいぶ適当。
道近美で展示予定の田中武「十六痴漢図」の作品紹介をXでしたところ、フェミニズムクラスタから批判を受け、Xの投稿をコメントなく取り下げたもの。作品は以下の「裏側」。
https://www.artid.jp/tanaka_works_category/%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%81%A5%E6%BC%A2%E5%9B%B3/
https://twitter.com/takinamiyukari/status/1697049349656859061
瀧波は北海道出身で現在は札幌市在住。ご存知の通り女性の機微や男女間の複雑な感情の交差を作品に仕立ててきた。「マウンティング女子」という用語の発案者でもある。
こうした事情から北海道近代美術館の投稿を批判的に取り上げることは十分に文脈的である。
フェイスパックの裏側に現れたのは真実の顔か、それとも…。機知と皮肉、古典絵画へのオマージュが複雑に絡み合あう画面の解読は、さながら知的ゲームのようです。
若干良くない。よくないと思う要素として、偉そうというのがある。「機知と皮肉」「さながら知的ゲームのよう」のあたり。
ひらかれたミュージアムである(はず)なのに、「わかる人にしかわからないでしょう?」、転じて「これわかる学芸員としての自分・我々すごい」みたいな構成になっている。
これがTwitterフェミニストたちの攻撃の際のテコになってしまっている。
たとえば「古典絵画へのオマージュを含め、現代的なスタンドポイントから描かれた日本画です」みたいに顕示欲の贅肉を落とせなかったのか。
フェミニズムクラスタほど批判的には思わない。「十六痴漢図」は女性ばかりが取り上げられているが、男性の私にとっても現代の欲望に関する感情を惹起させる。
一方、フェミニズムやジェンダー論に強く関心を持つ人々にとっては、論いたくなる表象であることは否定できない。
なお田中武の本作品がこれまでジェンダー的観点から批判されず、 道近美のポストで炎上に至ったことは留意するべき。
X上のフェミニストたちの反応の遅れというか、リポストされて初めて反応する受動性というかは留意しておきたい。
あと「気持ち悪い」という感想が多いがこれは批判の範疇にない。気持ち悪いことを表象していることは明確だからだ。
塩を舐めて「………しょっぱいです!!」って言っている塩初心者みたいなもんだ。
割と強めの言葉での批判が見られるが、主にフェミニズム・ジェンダークラスタからのもので占められ、美術界隈やそのた近傍の界隈からの批判はほぼないと言って良い。
すなわち、その是非は措くけれども批判は一様である。批判者は一様で、ある一方からの批判に過ぎない印象を持つ。
良くない。上の批判クラスタが幅広くない点と関連して良くない。
投稿を取り下げたことで、ジェンダークラスタのみならず、美術館や博物館に関心を持つ層も批判を加えることになった。
新しい層は、説明なく取り下げたことで、しっかりした作品解釈やそれに基づいた反論ができない、自信を持って紹介していない美術館側の脆弱性を批判。炎上が多層性を持つに至る。
総じて道近美の投稿、削除に難がある。
XなどのSNSにはフェミニストがいるのは周知の事実なのだから、彼らへの配慮というか、彼らへの射程を十分に持った文章表現をするべきだろう。
なんか偉そうで脇が甘い文章なのも良くない。道立(県立)美術館の学芸員なんて相当偉いんだろうけど。
そして、偉いのであるならば、彼らから意見や反論が出た時、(無視含めて)どっしりと美術的な観点から議論できるよう準備しておくのがこの時代のSNS所作だろう。
https://twitter.com/dokinbi/status/1695632225549865351?t=gDZaNRHPzigAaQa2N0cQow&s=19
「揺さぶる絵ー変貌する日本画のイメージ」展(9/16-11/12)出品作紹介④
フェイスパックの裏側に現れたのは真実の顔か、それとも…。機知と皮肉、古典絵画へのオマージュが複雑に絡み合あう画面の解読は、さながら知的ゲームのようです。
フェミニストの反応
うちの娘が通ってた画塾の先生が、女の子は日本の美大や芸術系大学行かずに海外行った方がいいと言っていた理由が、よくわかる。日本の女性蔑視に搾取されないためだ。
田中武氏が恥漢図で描いた「食欲、色欲、金銭欲などの煩悩や欲望を露わにした現代人」、全員女性。
artid.jp/tanaka_works_c…
あいちトリエンナーレで、アーティストもキュレーターもジェンダー平等を目指したのは、このような女性蔑視を「知的ゲーム」などと礼賛しないようにだと思います。
北海道近代美術館に苦情のメールを送りました。メールを見ないと、美術館の人も、先進的だと思いあがっている自分たちガラパゴス業界の感性が、実は市民感覚より劣っているということがわからないと思う。本来は、彼らが社会の発展をリードするべき存在なのですが、
昭和のある時期まで、文学全集、図鑑、画集、百科事典が流行ってたと思う。名画のレプリカとかも。
自分の世代ではすっかり下火だったが、それでも幼き日の新聞広告には全集やけっこう載ってた。
今でも田舎の家にはけっこうあるんじゃないかな。木彫りの熊やペナントとかと並んで飾られてるモナリザとか。
紙の質も印刷も最悪で、今じゃ見るに堪えないけど、カラーページが作れなかったのか、カラーページにだけ石版や木版で作ってたりして技術的に面白い。レプリカとしての質は総じて悪く、昭和を味わうためのものという感じ。
ちなみに、昭和前期の画集とかになると滅茶苦茶な超絶技術でレベルが違う。中期以降のそれは、成金向けを騙すために粗製濫造というやつだと思う。
山師が新聞社に企画を持ち込んで、新聞社の名前で予約をとり、何重もの下請けの果てに、西洋絵画も日本画も知らないが手先は器用な印刷職人が、模写して印刷したんだろうなと。
でもな、それが昭和だったんだ。
昨日スーパーポテサラアニメおすすめしたけどお前ら見とるんかって思ったしこのチャンネルマジおもろいから是非観てほしいけど私はスーパーポテサラアニメ本人じゃないからステマでもダイマでもないしただここの住人は年齢的に私の親と同世代でガンダムとかハンターハンターとか好きそうやから言ってるだけやけど私はそれわからんから以下のネタで笑ったんやけど。
【アニメ】もしもマネーの虎に新海誠監督が出ていたら…【衝撃の南原社長登場】
https://www.youtube.com/watch?v=NDs_M7cN1sk
岸辺露パンは耳をすまさない Part.1『岸辺露パンがやって来る!』
https://www.youtube.com/watch?v=JaFe2v7BkCY
岸辺露パンは耳をすまさない Part.2『岸辺露パン、杉村ペッシに出会う』
https://www.youtube.com/watch?v=c2FVi_DfalU
新海誠とジョジョはわかるから笑ったけどマネーの虎って番組は世代やないから私はわからんしでもつべの動画でおおよその雰囲気は把握して昭和世代はひでえ番組作ってたんやな思って見てたけど今のテレビがつまらんのはこういう暴力性を剥ぎ取った結果かもしれんしこれは悪しき大衆性に染まった日本の現代美術と時代を超え倫理や法律を超越した欧米の現代美術の歴然たる差に似てる気がするし私の一番好きな芸術家のアンディ・ウォーホルが未だに現代美術のトップに君臨してるのは高尚ぶってマスメディアを忌避する欧州の芸術家連中の逆手を取ってアメリカのマスメディアをハックしてそれを作品にも反映して有名になってしまえば二流イラストレーターでもこんな時代ではアート界で天下を取れるという汚らわしいけど疑いようのない事実にスポットライトを当ててアンチを増やしまくって急速に有名になり銃撃事件に巻き込まれたりしながらも軽薄極まりないポップアートというジャンルを人生を賭けて決まり手の一つとして浸透させて行き詰まりを見せていた旧来のアートを合法的に粛清し新たな道を開拓した第一人者として地球規模で見ればマジョリティである日本を含む新興国からもともすれば我々も成り上がれるのではと思わせるカウンターカルチャーとして支持されて未だに現代美術の王として君臨してるんやけど彼の手口を周到に模倣して次の王座に着こうとしてるのが村上隆であやつもウォーホルの手口を真似てまず日本のメディアで嫌われ者として手っ取り早く有名になりそれを欧米に輸入しつつ世界一教育が厳しいと言われる東京藝大の博士号持ちとしてアカデミシャンの肩書を振るいながら敢えてピエロとしての立ち回りを徹底しジャンクな漫画アニメや黒人カルチャーとコネクトしたりしてアウトサイダー感を出しつつもテクニカルな日本画由来のオリエンタリズム溢れる作品を発表し度々話題をさらいアジア圏では俺はニューヨークで実績を残したアーティストだぞとふんぞり返って欧米ではありえないようなハイロー交えた大規模な展示即売会を開き見事に実績を残し一方ニューヨークに帰ったら俺は世界最大のアート作品即売会を企画運営したやり手だぞと威嚇しながら独自のポジションを確立しつつその市場でしょうもない映画やアニメを作って欧米の芸術観を貶め揺るがしながら欧米人がエントリーしにくいアジア的な予備校ライクなテクニカルなアートを評価する市場をグローバルサウスに着々と拡大しつつあってそこに日本のアーティストたちも乗っかろうとしてる昨今ではあるが正直あんまりうまく行ってる雰囲気無いし最近の欧米のアートの流行はインターネット文化とそれにまつわる身体性への忌避と回帰とかめんどくさいテーマにフォーカスしてるしルシアンフロイドが描いたような人間の身体性へのトホホ感がまた再評価されてきてる感じがするけど日本が誇るぴえん文化こそフラットなネット上の美意識と肉体的な売春ODリスカ等の行為との対比で今の時代に忌避される人体の生臭さとそれに伴う肉体美の再評価的なカルチャーであるし病み系地雷メイクの平面性と人体の立体性を想起させるセルフクンニとの融合はまさに現代美術の最前線に渦巻く複雑なテーマを完結に表したものでありスーパーポテサラアニメの他にもShingo TamagawaのPUPARIAも五十嵐大介の影響をガッツリ受けててわかる人には笑えるよとか私の区切らない文体はかつて横山裕一が提唱したものだよとか言いつつもう眠いので寝るわ
【続きのようなもの anond:20230328202632】
三年前に祖母が亡くなったとき、私は孫代表スピーチを頼まれた。それで葬儀に出るまでの短い間におばあちゃんとの思いでをふりかえることになった。
そのころ大好きだったアイドルが載っていたMyojoやPOTATOを見せて、おばあちゃんに誰が好みか聞くと、「みんなすてきでかっこいいけど、この子が明るい感じでお話がしやすそう」といって、当時の私の推しを選んでくれた。
画家だった曾祖父の描いた、ふたつのあけびが木になるままにはじける刹那をとらえた、グロテスクで美しい日本画をいつもいとおしそうにながめていた。
横山大観の展覧会に行きたいというから、じゃあ一緒に行こうと博多駅で待ち合わせをした。前日に何度も何度も電話で確認したホームにおばあちゃんはいなくて、慌てて必死に探したら、私の母が以前に贈ったあみめの大きなベージュのレースのよそ着をきて、博多口のすみっこにぽつんと立っていた。
ずっと戦争の話をしなかったのに、終戦70年の年だけは、学徒の鉢巻きを巻いて軍需工場に潜水艦の部品をつくりにいっていたこと、午前中から午後の四時半まで作業して、だからろくに学校にいけないまま学齢を終えてしまったことがとてもくやしく、今もかなしく思うことを、ぽつりぽつりとはなしてくれた。
彼女は何らかの情感を込めて、何かを語り伝えようとして話した様子ではなかった。そのとき自分の身におこっていたことを「それ以上でも以下でもない、ただ覚えていること」として恬淡と、他の話題と何もかわらない調子で話すものだから、太平洋戦争は決して歴史上の出来事ではなく、今日につらなる地続きの事実であり、たった今目の前にいる彼女や誰かの人生なのだなと私は思った。
さきの戦争は、今ここにあり、明日へ続く祖母のきた道の最初の方にあることで、彼女にとっては、そのときすごした日常にほかならないのだと。
そして、桜の咲く時期にみやまの清水寺に行こうねとずっと話していたのに、とうとう行かずじまいになってしまった。
またいつか会える日があれば、絶対に行きたいと思っている。
そういうことを、ひとつひとつ言葉にしながら思い出していったのだけど、そのときその話をきいてくれていた男性と私は、まさにセックスを行おうとしており、私は話しながらも彼の乳首をいじりまくっていた。
彼は私の話をしばらくしんぼうづよく聞いてくれた後、「ごめん、気持ちいいのとしんみりするので感情がくちゃくちゃになる。集中できないので乳首かおばあちゃんの思い出話かどちらかにしてほしい」というようなことを言った。
わたしはそれもそうだなと納得したので「ごめん、確かにしんみり乳首はよくないね」と反省の意を示した。それでしまいのつもりだった。
ところが大変なゲラである男性は、「しんみり乳首」ということばがどうにもツボに入ってしまったようで、ひとしきりげらげらと笑った後、怒り出してしまった。
彼は、エロとしんみりの相性がいかに悪いかということ、自分の考えをまとめるためにしゃべりながら手すさびのように他人の性感帯をさわるのはよくないこと、自分がされて嫌なことを人にしてはならないこと、エロと笑いの相性はエロとしんみりの相性よりもさらに悪いのだから、しんみり乳首などという単語を創出するなということを、怒りながらひとつひとつ述べた。
もう今日はそういう気分がそがれてしまったので一回寝る、よくよく反省したまえ、というようなことを最後にいわれてお説教は終わった。
私はそのひとつひとつのことばに反論するすべをまったくもちあわせておらず、しかし性行為への未練があったためにちょっとはぷーぷー言てみたが、男性の、今日はもうそういうことはしない、という決意が翻らないとみるや、おとなしく就寝した。
セックスは翌朝にした。
そして昨日も、私はその男性と性行為を行おうとしていた。(この3年間恒常的に会っていた)
生理で少し間が開いていつもよりむらむらしていたし、世間話をしながらこたつの中で足をもちゃっとさわりあったりしていたので、頃合いもよいだろうと、私は「乳首が吸いたい」と切り出した。
しかし彼は、勤務先の広報誌の自分が載っているページのことについて話したかったらしく、私の「乳首が吸いたい」という言葉を全く無視して、広報誌を広げて「このページの…」と、しゃべろうとする。
まだそういう気分でないのであれば、その旨を一言述べてくれれば私も一度は引き下がり、そのまま広報誌の話でもなんでもきく用意はある。
が、そういう打診がいっさいなかったので、私は男性の言葉をさえぎり「乳首が吸いたい」と再度申し出た。
男性はやはりその言葉をまるできこえていないかのように無視して、広報誌の話をしようとする。
そのやりとりが4・5回あったところで、私の方が一旦折れ、しかたがないので広報誌の記事についてひとしきり語り合った。
その後、実際に男性の乳首を吸う段になって、私はさきほど「乳首が吸いたい」という申し出をさんざん無視されたことについての苦情を述べた。
別に一言ことわってくれればいくらでも話をきくのに、なぜ乳首が吸いたいという私の言葉を無視するのか。人の言葉を無視するのは人権侵害だ! というようなことを乳首をちゅぱつく合間に言いつのっていたのだが、私はそこでハッと気づいた。
これはもしかしなくとも、三年前の状況に酷似しているのではないか。乳首をいじりながら別のことをしゃべると気がそがれると怒られたあの状況に。
思わず、「あっ、人権侵害だとかいいながら乳首すってたら、またしんみり乳首のときみたいに怒られちゃう。人権乳首じゃん。人権乳首で怒られる!」とあたまに思い浮かぶままにしゃべると、それまであんあんいっていた男性は急に「人権乳首!!」と短く叫び、あのときと同じようにげらげら笑いだした。
男性は「人権乳首ってなんなんや!」(関西人)と笑いながらいうので、「しんみり乳首のときと同じだよ。しんみりした話をしながら乳首をさわらせてもらえないように、人権侵害を訴えながら乳首をさわらせてもらうことはできないっていう事象だよ」と答えると、男性は私の肩をつかんでぐいぐいと遠ざけ、ひとしきりひいひい笑ってから「ちょっと一回お茶飲む」といって寝床から出て行ってしまった。
さすがの私も学習している。このままではセックスできない。だが私は絶対にセックスがしたかった。なのでお茶を飲んで仕切り直し、寝床にもどってきた男性に有無を言わさず襲い掛かり、喘ぎ声を除いて無言の時間の比率を増やすことで笑いのツボを絶対に刺激しないように気を付け、無事に本懐を遂げた。
しんみり乳首のときは私に全面的に非があったのはみとめるけれど、人権乳首に関しては私の言い分に一理あるのではないかというのはちょっと思うが、どっちに理があるにしても相手の気分をそぐとセックスはできないという、ごく当たり前のことを感じた一日だった。
僕のバスケ歴は割愛するが、一応、最低限はバスケを語れる資格を持つ経験者だ。
スラムダンクは漫画は全巻持ってたし、連載当時に週刊少年ジャンプでも読んでいた。
でも、他にも色んな漫画をたくさん読んでいたから、特に好きな作品な訳では無いが、スラムダンクを語れる資格も持っている筈だ。
プロ選手になるという夢が存在しない分、現実的な折り合いを付け易くなる。
社会人になった元経験者達が資本主義の世界の中で大人になって、自分の取り組んでいたアマチュアスポーツを盛り上げようと画策する。
例えば、バレーボール。
そこまで人気でもないのにも関わらず、毎年、日本では世界大会を開催。
試合中に今のスパイクは何mの高さだったと計測された数字がリプレイと共に表示される。
人気に見合わない大袈裟な演出は、野球やサッカーと比べても遜色ない練習の過酷さが当たり前のバレーボール経験者達がサラリーマンとして社会で活躍しながら競技を後押しし続けた結果だと思う。
一方、バスケットボールはバレーボールと異なり、野球と同じで日本に強い影響力を持つアメリカ合衆国の4大スポーツの一つだ。
サッカー、野球、バスケットボールは、日本が戦後から続く海外への憧れを象徴するスポーツだと思う。
しかし、野球やサッカーと比べて、バスケットボールはようやくプロ化に辿り着いたが、まだまだ日が浅い。
野球ほど社会的影響力は無いし、サッカーと比べて世界的人気は少ない。
だから、プロバスケ人気を盛り上げるための苦心の策として、 数年前にLEDパネルのコートで行われたBリーグ開幕戦の試合中継なのではないかと思う。
しかし今のところ、バスケは観るよりもプレイした方が楽しいスポーツだと思う。
現状の日本バスケ界に不足している重要なピースの一つが、世界観作りだ。
サッカーにおけるキャプテン翼のように、日本バスケ界でその一役を担うのが、この映画『THE FIRST SLAM DUNK』なんだと思う。
今のスポーツ中継のカメラワークは、どの競技も完成形だとは思うべきでは無い。
ドローンなんて現時点のテクノロジーによる妥協の産物に過ぎない。
モーションキャプチャーのCG合成をリアルタイムで処理しながら無制限のカメラワークをコントロール出来る時代を待つしか無い。
それが実現するのは少なくとも100年先の未来になるだろう。
でも、CG作品ならば、フィクションの試合を無制限のカメラワークで演出することが可能だ。
『THE FIRST SLAM DUNK』は100年後の試合中継のカメラワークだった。
かつて映画製作を学んでいた僕は、映画を観るためではなく、バスケの試合を観に行くつもりで数年ぶりに映画館へ足を運んだのだ。
そんな僕の判断は間違ってないと思った。
当初、ジャイアンの声優の人が桜木花道であることを知って、困惑した。
ジャイアンを襲名したからには、ジャイアンの色が付いて回る宿命をスラムダンクに持ち込んで欲しく無いと思った。
監督がリアリティを追求した結果、出刃庖丁を持った2mの巨漢が全国大会のコートに乱入する大事件はオミットされた。
桜木花道は終始、バスケ歴4ヶ月のフィジカルモンスターだった。
デニス・ロッドマンそのものだった。真っ赤な坊主頭が試合を引っ掻き回してた。
かつて緑川光が演じた流川楓も、味方にパスをしない異常プレイヤーだったし、寡黙なキャラに合った雰囲気さえあれば声優なんて関係なかった。
急展開過ぎる。
もう少しモーションキャプチャーの演技でスタミナ消耗の下降線を丁寧に描けよって笑ってしまった。
バスケットボールを描くに当たって、ボールのドリブル音、バッシュの音にしっかり拘りを持った演出をするのは明らかだった。
けど、屋外を歩くだけのシーンでも露骨に足音を鳴らすのはやり過ぎ。この一点だけは偏執過ぎる。まさに勇み足だ。
僕の記憶が正しければ、バスケのルールとして、敵陣のゴール下の台形ライン内に3秒間ずっと入りっぱなしだと、3秒ルールが適用されて相手ボールからのスローインになってしまう。
湘北高校のオフェンス時の桜木花道の立っている位置は台形内っぽいことが多い気がした。
桜木花道は何度も3秒ルールを食らってないとおかしいと思った。
渡米していた宮城リョータの出現にえっ!?と一瞬、頭が混乱した。
というか、この映画自体がスラムダンク奨学金のための伏線だったのか…と思った。
その中での90点だ。
100点じゃない理由は原作漫画を読まないと理解出来ないからだ。
当時、原作漫画を読んだバスケ経験者の親達は、この映画を観た感動を情熱に換えて子供と日が暮れるまで沢北の父親さながらの1ON1を続けるだろう。
原作者であり映画を監督した井上雄彦は、バカボンドのヒット後にどこかの寺の襖だったか屏風に直筆を描いて日本画の領域に進出した。
結果は散々。漫画は所詮は漫画であり、漫画絵が日本画と肩を並べることは叶わなかった。
かつて、日本映画界はアニメーション映画を日本映画として認めていなかった。
日本映画界が斜陽が限界点を突破した結果、映画産業を水増しするためにある時期を境にアニメーション映画を渋々受け入れた印象がある。
日本のアニメ界はファンタジー性や虚構に拘り過ぎている節がある。
だから身勝手に3.11を風化している扱いにして傲慢なアニメ作品で大プロモーションをしちゃったりする訳よ。
『THE FIRST SLAM DUNK』のようにモーションキャプチャーと2Dライクな3DCGを使ったリアルアニメーションこそ、次世代の日本映画だと思う。
ちなみに、小学2年生になる息子がいる。
高校時代は山王戦でメガホンを持っていた奴らのような惨めな3年間を送った過去のある僕は、子供に運動部の残酷さを味わせたく無いと思っている。
でも、たまに、自宅の庭でバスケットボールを使ってドリブルやパスの練習をして遊んでやってた。
昨年、小学校の七夕に「バスケがしたいです」と書いていたことを耳にした時は狼狽した。
で、今回の映画鑑賞は息子を初めての映画館に連れて行った訳だけど、感想を伺ったらバスケに目覚めなかったらしく、内心ホッとしている。
日舞を始めたくて調べていたら師匠にお中元、お歳暮を送らないといけない?月謝の1ヶ月から2ヶ月ぶん?とかでてきて「ムリムリムリムリ!!」って思った。
日舞界隈って他のダンスの習い事よりお金かかるじゃないですかー??
日本人の若者そんなにお金持ってないので無理ですよ。こんななら他のダンスの習い事やりますよ
日本画も油絵とか水彩画に比べたらたっかいお金がかかるじゃないですかー??日本画を本気でやったらクルマが買えちゃう!!
着物だって、洋装よりもはるかにお金がかかる。子供の入学式や卒業式で着物を着ようとしたら旦那に「目立って恥ずかしいから着物はやめて」と止められた話しもある。恥ずかしいってねえ。着物って私たちの民族衣裳なのに恥ずかしいって……
まぁ私もお金をそんなに使いたくないから子供の行事は洋装ですね。
私は今、手ぬぐいにハマっているのだけれども
みんな知っての通り手ぬぐいよりもハンカチやタオルやスカーフのほうがお店で売ってるしよく売れているのよ!!
手ぬぐいを持ってる人は手ぬぐいが好きだから持ってるんだけど、ハンカチやタオルは別にハンカチやタオルが好きじゃない人でも誰でも持っているのよ。手拭いを好きでもないのに持っているって人は剣道をやっている人とかごく限られた人なのよ。
手ぬぐいって日本のほこるべき伝統工芸品なのになんででしょうねえ?それは幼児が手拭いよりもハンカチやタオルのほうが使いやすくて手ぬぐいはでかすぎて子供には扱いづらいからじゃないかな?って思ってる
(イノベーションの定義は人によって違うが、創意工夫で少しでも新しい物が出来るとする)
食に関して何が支えてるかは
このあたりだろうか。
絵についても差異はあるが似たような感じだろう。
漫画やイラストはイノベーション起こせているが、日本画や油絵など起こりにくいなど、比較すれば差はあるはずだ。
日本衰退が語られる背景に、ハイテク分野でイノベーション起こって欲しいのだろうが、
先の食と比べたら違いがある。
公共の福祉とは、原則として権利や利益同士が対立した時にそれを調整するためのものだ。
ここで問題になるのは『権利や利益同士』であることだ。決して権利を超えた❝公共の福祉❞があるわけではない。それでは結局、『権利を超えたものを理由にすればいくらでも人権を制約できる』ということになり、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ」権利を有していた大日本帝国憲法と何ら変わらないことになってしまう。
表現・出版の自由が公共の福祉によって制約された例としては、『ジャニーズ追っかけマップ裁判』というのがある。
かつて出版社が『ジャニーズ追っかけマップ』という書籍を出しており、そこにはジャニーズのメンバーに会える場所としてスタジオなどの場所の他に自宅の最寄り駅、自宅の住所、電話番号といった個人情報が掲載されていた。
このことについてジャニーズのメンバーが『プライバシーの権利の侵害』として訴えたことに対し、出版社は『表現・出版の自由』を主張した。
そして最終的に『ジャニーズのメンバーのような社会的影響力のある芸能人のプライバシーの権利は著しく制約されるが、それでも自宅で静穏に過ごす権利は認められるから自宅の住所と電話番号は削除するべき。それ以外については出版社の表現・出版の権利を認め、出版自体は認められる』という判決が出た。
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
わいせつな文書、図画を作ったり売ったりすると罪になるということは大抵の人が知っている。だが、この法律が何を目的にしているのかは案外と知られていない。
刑法のこの条文が保護しているのは、性的な物を見たくない人の権利……ではない。
では何を保護しているか、というと。判例上は”最低限の性道徳”である。(この解釈については流石に時代錯誤を指摘する声は複数あるし、増田もおかしいと思うが前提として現時点ではそうなっている)
わいせつ図画の判例では比較的有名な(高校の公民の教科書にも載っているかもしれない)チャタレー事件で「社会の平均ではなく、あくまで最低限」という解釈が出され、、四畳半襖の下張事件で「その時代に合わせた性道徳」を基準にすることになった。
当然ながら、『私はこの創作物を見て不快になりました』を主張する権利は当然にある。
あるいは、「萌え絵は性犯罪と地続き」と主張するのは自由だ。現在の法律上、誰かの権利を侵害しているという扱いにはならない。
同様に、「日本画は戦争と地続き」だろうが「彫刻は殺人と地続き」だろうが「洋画は差別と地続き」だろうが”萌え絵、日本画、彫刻、洋画”といった抽象的なジャンルならば誰かの権利を侵害しているという扱いにはならない。
ただし当然ながら、『その主張はおかしい』と批判する自由もある。
一方で、業務(※なお、刑法における”業務”とは「社会生活上、何度も繰り返して行われる事項」のことをいう。だから自動車で人を轢き殺してしまった場合はプライベートで運転していた場合でも業務上過失致死罪になっていた。そういえば変わったんだった)
で制作している特定の作品について「この絵は性犯罪と地続き」や「このvtuberは性犯罪を誘発する」のような発言ならば、その明確な根拠が示されない限りは偽計業務妨害罪が成立し得る。(実際に起訴されて有罪判決が出るかは分からない)
さて、フェミニストが主張するような創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
似たような『市営地下鉄で不快になる広告放送を聞きたくない権利』を主張したとらわれの聴衆裁判で、『聞きたくない音によって心の静穏を害されることは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない』という裁判官の補足意見がついている。
見たくない権利も同様だ。公共の場所ではむしろ受忍すべき範囲が広くなる。
『女性』には人権はない。これは何も「女性は二等市民だからフルスペックの人権は認められない」という意味ではない。人権があるのは個々の人物であって、『女性』という抽象的な存在の集団的人権は認められないという話だ。同様に「日本人は殺人狂だ」だろうが「在日朝鮮人は人間のクズだ」だろうが「同性愛者は生産性がない」だろうが、現在のところ法律には触れない。
そもそも表現に限らず自由権の本質は『他者を不快にして我慢させる権利』なのであり、「近所にユダヤ人が住んでいて不快です幸福追求権の侵害ですbyネオナチ」や「聞きたくもない韓国音楽を聞かされて不快ですby在特会員」や「『女と寝るように男と寝る者は殺されるべき』と書いてある旧約聖書が不快ですby同性愛者」は配慮されないし、配慮されるべきではない。
将来、脳波や脳内物質から人の現在の感情を読み取る技術がさらに発達し、「黒人を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですbyKKKメンバー」を同意の上で検査した結果、脳波や脳内物質がうつと同様のパターンになっていて主張が事実であることが判明したとしても同様に配慮されないし、配慮されるべきではない。増田はそれを自明のことであると確信する。
「萌え絵やそれを含めた女性をアイキャッチャーにする広告が公共の場所にあることで現在の男性中心社会を拡大再生産する」というモデルそのものは小宮友根氏や牟田和恵氏によっていくつか提唱されている。だが、それだけだ。
現実には男性中心社会を拡大再生産するものの候補は萌え絵広告以外にも『周囲の保守的な親戚・教員・友人などからの意見』『私企業の採用活動の実態』『女性向け創作物の刷り込み』など無数にある。
その中から「広告の効果が無視できないほど大きい」こと、および「それを打ち消す手段が他に存在せず、禁止以外の手段がない」ことが証明されない限りは規制されるべきではない。
なぜならば経済的自由権は金銭で補償が可能であるが、表現や内心といった精神的自由権は規制しようという動き自体が萎縮効果を生むため、より慎重になるべきだからだ。
以上のように、今フェミニストが主張しているような創作物規制は『公共の福祉』の観点からは成立しないと考える。
全然納得できないんだけど。"最低限の性道徳"が保護法益になるなら何だって保護法益にできそうだし175は良いけどフェミニズムに基づく立法がダメな理由ってあるの?
だからこれについては多数の異論が出ているし俺も問題だと思っている。
ただ、これの合憲論を採用しても、創作物規制は「ジェンダー平等を実現するための最低限」しか認められないだろう。
"「在日朝鮮人は人間のクズだ」だろうが「同性愛者は生産性がない」だろうが、現在のところ法律には触れない"。こいつ意図的に「ヘイトスピーチ規制法」スルーしてるよな。
ヘイトスピーチ規制法など存在しないのでスルーのしようがないですね。
ブコメが言いたいのは通称「ヘイトスピーチ対策法」でしょうけれど、これはあくまで国や地方公共団体に努力義務を課しているだけです。
“フェミニストが主張するような創作物規制・広告規制” 既にコメントがあるとおり私も法規制を求めない むしろ法規制させないために「違法じゃないから何してもOK」を控えてほしい 職場水着ポスター問題のように
会社は従業員のパフォーマンスを低下させ利益に反する行為を排除できますが、公共の場所は他者危害でない行為を排除できないし、排除するべきではない。そういう話です。
「そもそも不快にされない幸福追求権」そんなものはない。ではなく、その権利を求めてるんだよ。だってその方がいいじゃん。そのための対話が必要。
「同性愛者を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですbyムスリム」「『女と寝るように男と寝る者は殺されるべき』と書いてある旧約聖書を聖典とする宗教の信者を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですby同性愛者」が両方存在したり、
2つ以上の宗教が「我々の宗教は全ての人が我々の宗教の信者になるべきと考えているため、異教徒が不快です」を言い出した場合には
2022/07/04/21:40頃追記
「萌え絵は性犯罪と地続き」だったら現在の法律上、誰かの権利を侵害しているという扱いにはならない。
同様に、「日本画は戦争と地続き」だろうが「彫刻は殺人と地続き」だろうが「洋画は差別と地続き」だろうが”萌え絵、日本画、彫刻、洋画”といった抽象的なジャンルならば誰かの権利を侵害しているという扱いにはならない。
一方で、業務(※なお、刑法における”業務”とは「社会生活上、何度も繰り返して行われる事項」のことをいう。だから自動車で人を轢き殺してしまった場合はプライベートで運転していた場合でも業務上過失致死罪になる)
で描いている特定の絵について「この絵は性犯罪と地続き」や「このvtuberは性犯罪を誘発する」のような発言ならば、その明確な根拠が示されない限りは偽計業務妨害罪が成立し得る。
もちろん、実際に訴えて勝てるかは分からない。あるいは訴えても金銭的に赤字になるようなこともあるだろう。
だが、それでも訴訟を起こし、権利のために闘うことが重要なのだ。なぜならば、それこそがまさに権利のための闘争なのであり、
『(日本国憲法)第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。』という『国民の不断の努力』であるからだ。
そしてその闘争を怠る者は、丸山眞男が言うように権利の上に眠る者は保護されないからでもある。
出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットのニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁や絵画はもちろん、画材・デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)
ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレット、パステル、水彩色鉛筆、ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペン、キャンバス、スケッチブック、模造紙、…
ペインティングナイフ(パレットナイフ)プラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。
ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンとペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ
「スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。
さまざまなパッケージでペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…
つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。
まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)
まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印(スタンダード)にデラックス。タイプ2。何が入ってるんだろ。
自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないか。わたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿作募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生は丸ペンで描いています。ケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。
そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。
欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代の参考書も並んでいた。
私の祖母は趣味で日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。
世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セールの文字。
おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近はカラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージは専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。
完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂の支店はだんだんと減っていく。
そんな未来。