はてなキーワード: 領域とは
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アーーーーー! パパ キモチヨカッタァ... (;´д`) 次は ツギハ パパ が キモチよく なる番だね♪ (`・ω・´)b
元ネタのBLEACH「卍解」からしてその傾向はあるが、卍解が刀という自分の分身と向き合い、理解を深めるというプロセスを経るのに対して、領域展開は自分自身の本性・本懐・本能のような心の世界(生得領域)を解放することで究極の切り札を使うことができる
以下の所感になるってことは、増田の頭の作りが実務的で、感性の領域に適性がないからだな
画集と実物にどれだけの隔たりがあるか理解できない、画集なんて目録に毛が生えた程度の情報量しかないのに「十分」だと思ってる
感性の高い子供が親ガチャでこのタイプの人に当たると、理解されず小さな蕾のまま腐り落ちるので可哀想なんだよな
東京の凄さってハコモノやイベントだけじゃなく、その辺の街の作りとその辺にいる人、社会そのものでもある
勘違いしないで欲しいが、「女」という性そのものが悪いという話はしていない。
現状の「女の文化」(つまりそれはジェンダーバイアス社会が生み出したものでもある)に問題があるという話をしている。
だから、「女」という性でも、「女の同調圧力がきらい」という個人には全然問題はないし、そういう人は同じような批判を女の側からしているのをよく見る。
しかし、そういう「女」は、残念ながらびっくりするほど女の中で発言権がない。SNSでいうなら、まったくRT等はされない。(どうやってそれを見つけるか? エコーチェンバーに籠らず、個別の問題についてキーワードをまんべんなく検索してみるという地道な見識の広げ方をしていればいくらでも見つかる。)
つまりここが問題なのだ。現状の「女」というコミュニティがもつ同調圧力、そこで無批判に培われるある言論の傾向、そういうところに明らかに問題がある。
「女」の自称リベラルが差別を広げる問題の原因は主に以下のようなところにある。
これらは、「女」という性とイコールではないが、傾向として明らかに現状の「女」文化の影響があるといえる問題点である。
結果として、「女」の関心に比重がおかれるようになった現状の「リベラル」運動は、歴史を忘れた差別的な主張が平気で通る有様になっている。
これらは一例でしかないが、このように、人類が歴史上培ってきた「弱者の保護」を全部ひっくり返してゼロベースで書き直すような暴論を平気でやるのが昨今のSNSを中心に広がる「リベラル」運動の問題である。
一方で、男社会だった「オールド左翼」にももちろん問題はある。(学生運動の中で「女はサポート」として炊き出しや繕い仕事をする役目を与えられていた例など。)しかしこれはまあ、世代交代とともに消えつつあるものでもある。
繰り返すが、現状の「リベラル」の問題が「女」の参画によって出てきたものであるということは、「女を排除すれば良い」ということをもちろん意味しない。
ジェンダーバイアスをなくすということは、「女の文化」というものとも戦わなければいけないということである。
「女性誌」を見よ。ファッション、コスメ、芸能、恋愛、占い。そんな話題でページが占められている。
「少女漫画」を見よ。主人公は美少女でなければならず、また美男子と恋愛をしなければならない。少女がただ仕事や部活に精を出すだけの漫画は、少年漫画と違って存在を許されていない。
SNSを見よ。「女の話題」は芸能人やら子育てやら「推し活」やら。ただ学問や仕事の興味をつぶやくだけの女は、いても「女コミュニティ」からは存在を無視される。
「女」が「女」(ジェンダーバイアス社会で、無知な側という地位に落ち着いて生きた「女」)であること自体を否定し戦わない限り、本当のジェンダー平等なんてある得るはずがないのは、合理的に考えれば明らかである。
「有害な女らしさ」とでも言おうか。
「価値観のアップデート」とは、これまで人類がひとつひとつ改善してきた差別問題もすべてなかったことにして、ガラガラポンで「弱者ランキング」を一から書き直すことなのか?
そんなわけはない。女性だけが不当に貶められてもいけないのと同様に、今まで弱者であったものを突然弱者でないと見なすような暴論もあってはならない。
現状のリベラルの問題をより一般的にいうならば、大衆化、ファッション化(歴史の忘却)、無知化(非学術的な感情論の横行)が急速に進んでいることにある。これは(無知な側という地位の)「女」文化を、それ自体進歩させずにいきなり「リベラル」の優先順位の上位に上げてしまったことからくる問題に他ならない。
性差別は、他の差別問題と排他的に選ばなければ解決できない問題ではない。「今は女性問題が話題だから」で他の差別問題を軽視するような「リベラル」などあってはならないし、こんな状況を野放しにしていては、いずれ全体的な問題意識は、性差別含め悪化する方向にしかいかないだろう。
願わくば、「リベラル意識の普及」が「社会全体の知性の底上げ」という意味になって、「バカに合わせる」方向には行かないで欲しいものである。
予言しておくが、こんな言葉は「リベラル」には届かないだろう。
彼らは痛いと思ったら無視するし、どこか隙が見つけられたと思ったらそこをせめて言葉尻を取り誤摩化すだけだろう。
「女の問題を口実に「部落差別」や「地方差別」「子供の人権無視」を肯定するな」と言っているだけなのに、彼らは自分のそういう傾向には一切反省をしようという考えをもたないだろう。
かつてこれ
https://anond.hatelabo.jp/20231107155841
”感情では熊絶滅してくれたらいいのにと思う派だけど、集落襲撃と違って、人の娯楽(山菜採り渓流釣)のために熊駆除するのは違うと考える。私はソロ登山やるから切実だけど、運が無かったと思う事にする。”
このブコメが傲岸すぎて泣いちゃった。
”投稿者がいみじくも書いた、山菜採りと釣り。その延長線上で、熊の親子は駆除される。釣り合いますかね? まぁ、山菜と魚を絶滅させれば問題解決だが。”
は単にマジでなんもわかっとらんのやな思うだけやからええけど山登りしとる人が自然と人間との関わりとしての正解のように書いてまってるように思えてまったのがごめんやけどなんやひっかかってまった。
いや違うな、ワイは娯楽で死ぬ覚悟はできとるけどこのまとめの人らは娯楽でやっといてそれができてへんのやね、いう文意やろか思てムッときてまったんやな。
”田舎生まれの人は分かると思うけど、こういうとこ通らないと生活できない地域も普通にあるし、山菜取って食うのも文化だし、そう簡単に「人間の領域」と「熊の領域」の切り分けはできないよね。”
もしかしてワイが非表示にしてるコメの中にヒグマなど皆殺しにすべし、いうような過激なことを書いとる人がいて、その人に向けて書いとるブコメならごめんやで。
でもそうやないとしての話やが、このブクマカさんがどこに住んどってどんな暮らしをしとるかはわからんけどこの書き方からしてきっと山からそれなりに離れた都市部の人やと思う。違たらほんますまんやで。
そうでなければ襲撃されることが稀である「集落」と人間が分け入ってはいけないクマの領域「山間部」が離れていて「生活」と「娯楽」が切り離されている前提で話さないやろうと感じるからな。
きっとブクマカさんがソロ登山をするときには何かしらの交通機関もしかしたら自転車やらかもしれんけどそれらを使って山へ行って、そこからさあ登るぞってことを月に数回とかするのやろか、と想像するのやけど(違ったらごめんやで。)、そういう感じやと普段の生活に山やクマの息遣いというのは入ってこないんやろから仕方ないんやけどヒグマに遭遇するような暮らしをしとる北海道民の多くは「家のすぐ裏・ちょっと歩いたとろにヒグマがいる山や森がある」って感じの人が多いと思うねんな、いうかワイがそうなんやけど。
そんなのよっぽど田舎か山間の方の話でしょ?wて思うかもしれんが、田舎どころか政令指定都市である札幌市においては南区・西区・中央区・清田区は本当に山がちな地域が多くそのすぐ裾野までびっしりの住宅街が連続しとるいう感じやって都会においてすら北海道ではほんまにヒグマの問題は身近でありかつそこに代々暮らしとる人間にとっては「山菜取り」は文化以前に普通に生活なんよね。
これらの区を繋ぐ道は件の林道よりはそれは都会的ではあるけどや、鹿も通れば狐も通りヒグマも横切る山の中の道でこれを遊びで通る以外の人の方が多いことは市内、どころか北海道民ならだいたい当たり前にわかっていることやと思んやね、生活ですよほんまに。それ以外のなにもんでもなく。釣りはようしらんからごめんやで。やらんからな。
ワイはヒグマ怖いから絶対山に入らんけどワイの前の世代、その前の世代はあたりまえに春になれば山菜取りが生活の一部である人が大勢おり、それを知らん人が自分の知っている自分と山との距離感を当てはめて娯楽といってのけるのはなんとも…やし、そういう地域の住人がのべつまくなし被害に先んじて山林にいるヒグマらの駆除を望んでいるかといえば全然違うんよね、やからヒグマにおびえながら被害に遭わないよう気を付けて暮らしているわけですわ。
例に出しとる行為と同列のものとしてご本人さんが出しとるから「娯楽」と書いてええと思うけど、そうやって度々のソロ登山をたしなむ人が「生まれたときから毎日家の真裏にヒグマのいる山がある」立場の人のなにを判断できるのだろう、後者の人は前者の人より命を落とすかもしれないことへの覚悟がキマってない、いうふうにとれる物言いはほんまにになんやちょっと…傲慢やない?と居住民としては感じてしまったわ。
去年はエサ不足(竹の花が咲く周期とも関係あるとも言われてるけどどうなんやろな?)でヒグマは例年以上に札幌市内のあちこちに出没しとって、もちろんそれ以前も普通に出没しとって周辺に住んでいる人間はみなそれを警戒して暮らしとるよ。
山の近くの小学校に通う子はたまにランドセルに鈴つけとる子もおる位や。
https://www.city.sapporo.jp/kurashi/animal/choju/kuma/syutsubotsu/
この地図
https://www.google.com/maps/@43.1620553,141.1140322,9z/data=!4m2!6m1!1s1IdKI30huZBf56kXAdzwugZ-JcN5Y35QH?authuser=0&entry=ttu
をずいっと拡大してもらうと、いかに市街地と山が隣接していてその境目が曖昧であるかということがわかってもらえる思う。
一歩下ればすぐ車通りのある車線の多い大通りいう民家の前の道に親子のクマが出没して防犯カメラの映像に捉えられニュースになり、「遊びで山に入」らなくても本当にヒグマとの遭遇は日常的なものだという恐れやら覚悟を新たにしたとこなんよ。
山間部やない東区の住宅街にも出没し住民がケガを負ったこともあるしあれも決してその年だけの特殊な状況ともこれからは言えんと感じるわ。
本州の方も良く知っとるやろう藻岩山や朝日山大倉山、定山渓の周辺なんぞまさにクマのメッカのようなとこやしおなじみ白い恋人パークからほんのちょい南に上った山裾の住宅街にもヒグマはたくさん出よるねん。
ほんでそれは多くの住民のすぐ「家の裏」なのであり、生活の場の中いうか一部に内包されとんねん。
札幌市では来年度から山の際の市街地に箱わなを設置するとのことやが
https://www.fnn.jp/articles/-/686749
山から出てしまったヒグマに対する措置やろないうとこやし実際どれだけのヒグマが箱罠にかかるものかというところで、前述のような住環境において住民の命を守るためには決して積極的ではない対応やとワイは思うわ。
札幌は田舎やんかw言われてしまえばそれも間違いないんやけど田舎に限らずヒグマの脅威というものは常に隣にあるもんで、命を失う覚悟もなく甘々の環境で暮らして遊びほうけとるもんでもなく「運が無かったことにする」では済まない毎日があるいうこと少しだけもしここへ住んどったらどうやろワイ・・・て想像して考えてみてほしいんやで。
その上で誰も積極的にはヒグマなどみな死んで滅んでしまえばええねんとも思ってないいうことは特に書いておきたいのや。
そう強く感じとる人間がようけおったとして内心はブクマカさんも書いてるような気持ちと同じやとしても、結果として出力されとらんとこはワイらも同じやねん、たとえブクマカさんより遥かに遭遇する確率が高い日常を送ってたとしてもや。
前述の増田の通りワイはヒグマが怖すぎて泣きそうやからまだ引っ越し資金をためとるで。
そして今これを書いてから泣きながら家に帰るところや。
ときめきメモリアルに触発されたSLG志向のゲームが理想をけん引したが、当時の多くのメーカーには追従する技術力がなかったため、膨大な選択肢による内部パラメータの操作やフラグ管理でゲーム性を表現しようとした。
同時にノベル作品としてのクオリティも向上していった結果、ゲーム性かストーリー性かどっちかに集中してくれという声が強まっていった。
ゲーム性捨ててルート分岐でルート毎のクオリティを上げようぜ、という方向に流れたのが泣きゲーのはしりであり、その狭まったジャンルの中で競争力を求めた結果が感情に直接訴求するシナリオや表現だったりする。
まあ外連味を嫌う人がいても仕方がない。
その後の時代ではルート分岐すら廃れた。ゲーム性の排除はより先鋭化され、一筆書きでなぞれるノベルが発達した。
そしてその領域で活躍できるライターは次々に泥舟を捨てて文筆業に転換し、この路線は破綻を迎えた。
一方フラグ管理ゲームはその後も細々と続くが、コンプリートのタイパの悪いとか、SNSの発達でゲームの進捗がユーザー間でズレると初動の動きが悪いとかいろんな理由が積み重なって先細りが進んだ。
現在でもノベル的なゲームは数多く制作されているが、ソーシャルゲーム(オンライン運営型ゲーム)の勃興により、見かけ上は選択肢があるもルート分岐どころか直後の差異すらない、形式だけ模倣された作品も多く見る。
いまさらジャック・ターバンとか持ち出している奴はトンデモといっていいやね
https://www.theguardian.com/commentisfree/2024/apr/26/cass-review-gender-identity-services-report
ヒラリー・キャスの報告書(これまでに実施された中で最も広範かつ徹底的なエビデンスに基づくレビュー)が一段落した今、彼女の調査結果が、私や他の多くの人々が提起してきた重大な懸念を裏付けるものであることは明らかだ。その中心は、若者が思春期ブロッカーを処方されたり、医学的な移行経路を進んだりすることの有効性を主張する裏付けとなる、エビデンスが欠如していることであった。私や他の多くの臨床医は、早期の医学的介入が長期的に有害な結果をもたらすリスクを懸念していた。
「ジェンダー肯定」、つまり、子どもが間違った性別であることを即座に認めるという方針は、影響力のある活動家グループと一部の性同一性発達サービス(Gids)の上級スタッフによってもたらされた不適切な臨床的姿勢であり、その結果、臨床領域が歪められた。研究によれば、医学的介入がない場合、大半の子どもはやめる、つまり考えを変える。
女性オタクのその、カタギに迷惑を掛けまいと鍵をかけて閉じこもる仕草、よくねーと思ってる。
迷惑だと認識してる時点で、好きを貫く活動が日陰でやるような後ろ暗いもの、だと言うメッセージになってるやん。一般層が見えない引きこもりの内情を理解することは永遠にない。
むしろ線引きのギリギリのラインに挑戦し、できる限り自分たちの活動は明るいものだと示してくべきだ。そうして表現の自由の領域を広げていく。男性オタクの開けっぴろげなスタイルは女からは嫉妬されてうとまれてるけど、言うなればこれは公開ロビー活動なんだよ。
原作はとびとびで読んでる。
萬斎版も見てます。
以下、過剰な表現の感想はしないようにするため、多少感想は回りくどくなる。
もともと今回の映画は期待してなかった。
実際問題として映画の出来は70点届かないくらいかなと。68とか69とか。
シネフィルぶった感じで★5の評価をつけるとするなら★3.6、もしかしたらもっと低くつける人もいるかもしれない。
かといって酷いわけではなく「GWに家族で見に行く」のは超おすすめだし、なんか見るもんないしコナンも見たしなぁーって人がふらっと入っても楽しめると思う。
丁寧で難しくもないし、子供向けでもない。でも子供も多分いい経験になるだろうし、大人もシニア世代も懐かしいなとか、美術的にも彩色豊かなので萬斎版と違った新しさは感じられるだろう。
原作厨過激派はネトフリのアニメだって受け入れられないんだろうし映画は見るなと言いたいが、原作ライト層なら楽しめると思う。
しかし原作ではまだ描かれてない部分であるし、原作者もがっつり監修している(監督は原作者指名である)。原作で二人の出会いが描かれるときは違うものとなるらしいが、それはエンタメ的、商売的な観点ということのようだ。
設定は変わっている。でも好感度は高かったのはなぜか。
「世界観」と「主要キャラの関係性」が大きく変わらなかったことだ。
陰陽師という作品は晴明と博雅のシャーロックとワトソンコンビで成立する作品だ。
だから時代が変わってもこの二人がいれば夢枕獏の陰陽師だと認識できる。映画にはちゃんと居た。
ただ今回、原作よりも若い頃の二人という設定なので安倍晴明のキャラが少し違うように思う。青く泥臭く、また甘い。
しかしそこに染谷将太が「どうも原作から来た博雅です〜」って感じでやってくる。
まだ博雅を知らない晴明はツンケンしているのだが、映画が進むに連れ博雅を知ることで「原作の博雅を知った晴明です」って顔になってきて、ああこいつ成長したらちゃんと原作の晴明になると感じられるのが楽しいのだ。
展開も原作でありそうなものだ。まあこのへんが夢枕獏の呪術ワールドでもあり幻想映画にしてしまう部分でもあるので多少分かりにくくなるのだが…大体呪術廻戦の領域展開だと思えばいい。
しかし映画とは作品としての出来を1歩引いた目線で見て総合評価するものではないと常日頃思っている。
この映画はバディ誕生物であり、昨今の話題作だと「ゲゲゲの謎」や「ヴァチカンのエクソシスト」と同じ楽しみ方をしていいものだと思う。
ゲ謎やヴァチクソ(ええんかこの略称)は大傑作というよりは色んな前提を知っている人がキャラの二人を見るのを楽しむ感じで、カルト映画のような人気を博している。
違う点は先に書いたように「子供を含めて家族と見れる」という点だ。どんな因習のある村に住んでいようが陰陽師0は見れる。なんか久しぶりにそういう映画をコナン以外で見た。懐かしさ…。
自分よりできる人に対しての2つの感情って、真逆の結果をもたらすよな
不出来な人、周りにすごい人がたくさんいる状況って
人によっては尊敬できる人がたくさんいるキラキラした環境なんだよね
そう考えると面白くない?
結局内側が重要なんだと
___
尊敬も2種類あって
そもそもソコを目指していないパターン、「俺にはとてもできない」ってやつ、これは良いよね、これに該当する嫉妬ってあんまないと思う
もう一つはソコを目指してるパターンで、「俺もああなりたい」ってやつ、これは嫉妬と表裏一体、大抵は嫉妬と尊敬が混在する
精神衛生上いいのは、やっぱ前者だと思う
って考えると、自分の目指すルートというのをまず絞ったほうが良いのかもな
より狭いほど良い、何も目指さないというわけではなく、要所要所で振り返ってpivotはするんだけど
最初から「金!・モテ!・権力!」って全部目指すと、あるのは嫉妬だらけだ
2023年秋まで外資系IT企業に勤めていた。本国のレイオフの影響を日本法人も受けて無職に。社内異動も提示されたが、辞めるなら6ヶ月分の給与とボーナスをもらえるとのことで家族に了解も得ず、勢いでサインしてしまった。まあしばらくのキャリアブレイクの後に、のんびり転職活動すればいいかと思った。しかし、思いのほか苦戦して4月まで引きずってしまったので、恥さらしだがここに記しておく。
知り合いや取引先に「いや〜外資系あるあるなんですよw」「御社にいいポジションあれば入れてもらえませんかw」などと軽い気持ちで打診していた。面接の設定はトントン拍子に進むし、代表者と即話せることが多いのだが、シニアなわりにCxOやVPでもなく、中途半端に前職年収が高い(1800万)のがネックで、「うちにはオーバースペックですねえw」「会社のフェーズやカルチャー的にフィットしないと思いますよw」などと体よく断られることが多かった。まあそんなこともあるか、すぐに他が見つかるだろうし、などと考えていたが今思うととんでもない思い上がりである。要は40代後半の文系で専門スキルなし(狭い業務領域のドメイン知識と多少のピープルマネジメント経験がある程度)の高コストおっさんであり、何度も断られるのには理由があったといえる。
年が明けてハロワに行き、国民年金に切り替え、社保の継続加入手続き、iDeCoの変更などをしていくうちに、焦りが出てきた。何度面接しても結果が出ないのである。3月末時点で書類落ち(転職エージェントや転職サイトでボタン一つで気軽に応募)は100件を超え、転職エージェントとの面談は20件になった。企業とのカジュアル面談は20社、落とされた面接は30社に上っていた。準備時間を含めてそれぞれにそれなりに時間とコスト(本を買ったりウェブを読んだり)をかけているので、本命と思っているところから失礼なフィードバックがあったときは心が折れかけた。特に許せないのが某(意識高い系)ニュースプラットフォーム運営企業。ポジションを探して10回も面接をしたあげく、途中で社内の組織変更があったという不明瞭な理由で募集ポジションが消滅して見送り。それでも何とか心を保てていたのは、少し蓄えがあったのと、酒と麻雀とスパ巡りを暇にかまけて再開したおかげかもしれない。…まじでおっさんの趣味じゃないか。
結局、先週になって前職の知人に紹介された外資系某社で拾ってもらえることになった。やっぱり外資のフラットな人間関係と高い年収の魅力には勝てないのよ。他には日系、大手〜スタートアップ含めいろいろ受けたが、本当の意味で入りたいと思えたのは某クラウド、某テレビ局、某AI関連企業の3社だけだった。都合50社と会ったとしても、社会人としてのキャリアの最終盤に「身を置いてもいい」と思えたところは1割にも満たなかった。若さが失われてリスク許容度が下がっているのと無関係ではないと思うが、その企業のサービスやプロダクトに対して「新しいものが新しく見えない」ようになっているのが最も大きな要因だと思う。40代後半ともなると成長しない企業や楽しくなさそうな企業(SaaS系スタートアップに多い)の見分けはつくようになるものだ。
というわけで、おっさんがやむにやまれず転職しようと思うと、受け入れてもらえるところに妥協してでも入るというスタンスになりがちだし、数打ちゃ当たると思ってしまうけれど、それでも結構時間がかかりますよというお話でした。
以前、ここで大事な言葉をくれた人の、ブックマークを辿っていた時に「増田がメンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい」を見つけた
どのように感じたかは私にしかわからないので、永遠に誰かにこの感情が伝わることはないが
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
ここ、ここだ
私は、こう考えている
インターネットは、あるいは我々が生きているこの世界は、宇宙は
気付けば、私の周りには誰もいなくなっていた
私という惑星を中心としたこの領域には、私しか存在していないようだった
光子の1つ1つが、膨大な時間をかけて星々の生き死にを伝えてくれる
遥か彼方には、どうやら互いを重力で引き寄せあうような星系があるらしい
私には、関係のないことだった
1980年代に入って、天文学者の観測により、数億光年彼方には約2億光年にわたって銀河がまったく観測されない空っぽの空洞が存在することが明らかになった。その後、同じような空洞が他にも幾つか発見されて、こうした銀河の存在しない超巨大空間は「超空洞」と呼ばれるようになった。さらに研究が重ねられ、銀河系の集合した超銀河団は、この超空洞を取り巻くように膜状に連なり、ちょうど石鹸を泡立てた時のように幾重にも泡が積み重なって、宇宙の大規模構造を構成していることが分かった。
「増田がメンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい 」は2022年の投稿だ
二階堂奥歯の「八本脚の蝶」に関しては、2003年が最後の投稿になっている
彼ら・彼女らの放った光が届くまで、何年も十何年も何十年もかかる
私が放った言葉も、きっと何年も十何年も何十年もかけて、誰かに届くのだろう
この孤独で残酷な宇宙の中で、ボトルシップのようなやり取りを保証する場所がインターネットという空間であると信じている
ひとりぼっち の だれか の こえ は
――「ひとりぼっち惑星」より
雁琳に足りなかったのはさえぼーのような緻密なレトリックの使い方
アカデミックな領域で非正規のままだった人間との格の違いがあるのだ。
例として、これは明らかな誤りを含むツイート
伊藤 剛
@GoITO
そして、本件に至る過程で、原告側が裁判前に雁琳氏の職場に内容証明を送り、非正規雇用で立場の弱い氏の職を(結果として)奪っているという経緯がある。これを踏まえると、たしかに雁琳氏には非はあるし、彼の主張には頷けないところもあるが、しかし原告側は「勝ちすぎ」なのではないかと思える。
そしてさえぼー氏の誤りの指摘
saebou@Cristoforou
「原告側が裁判前に雁琳氏の職場に内容証明を送り、非正規雇用で立場の弱い氏の職を(結果として)奪っている」→職場に内容証明送ってません。本人のメールボックス宛に内容証明を送ったら本人が全く気付かずスルーしていただけです。なんでこんなデマみたいなことをまだ信じて拡散しているんですか?
内容証明でない文書を職場に送っているのである。(ツイートには書かれていない)
例えばの話だが、自分のパートナーとSNS経由で不倫をしている人間がいるとして、職場宛に問題解決を求める文章を送る人間がいたらどう思うだろうか。
職場内の関係にダメージを与える意図があると捉えられて当然じゃないだろうか。
公私で分けて私の領域でのトラブルにもかかわらず、公に宛て文書を送るというのはそういうことだ。
そして彼女のツイートは雁琳とのトラブルの文脈を追っていない人間が読めば、
職場に書面を送り、職場関係にダメージを与える意図があると思われてしまうような行動なんかやってない印象になる。
草津の「民衆の敵」の話のように致命的にならないギリギリの言葉選び、これが非常に上手い。
政治家が致命的な失言と捉えられないような貴族の言葉遣い シェイクスピアをはじめとした欧州文化から取り入れたんだろう。