はてなキーワード: 五体不満足とは
おそらく散文になると思うけどなんとなく残しておこうと思う。雨だし、帰り道1時間ほど歩きながら暇なので一発書きする。
母は器用であったが、欲のない人だった。おそらく高卒(大学に行ったと言う話を聞いた事がないのでそうなのだと思う)で働き出し、その後父と紹介婚(これも謎、お見合いではないらしい)し、私と私の兄を育て、今は犬二頭と父とで隠居生活のようなものをしている。ど田舎の山の中に小屋つきの別荘を買えるほどの生活レベルだ。
両親は昔に比べるとさらに仲が良く、昔家庭崩壊していたことがまるでなかったことのように思う。家庭崩壊は、両親の問題ではなく、私たち兄弟が荒れていたためだ。
今の私はと言うと、妻を貰い、もうすぐ30になるが子どもはなく、忙しくも充実した日々を過ごしている。
子どもを持つ年齢/環境になって、考えるのは私の両親の話で、その中でも父のことは話を聞く機会が多かったのか、たまに学生時代の話を聞かされたのを覚えている。さらに言うと、「おそらくこう言う人生だったのではないか」と言うのが、私にも想像がつくものであるため、父の人生を不思議に思うことはなかった。
一方で母のことについて考えてみると、いかんせん分からないことが多く、母は一体何者なんだろうか。
断片的な情報からの推測であるが、高卒で就職し、のちに父と出会い、25歳ほどで遅めの結婚し、その後車の免許を取り名古屋での生活に備え(出身は京都)、私の兄を身ごもり、私が幼いころにはパッチワークをしていて、家のものがそれ風のカバーやシートでいっぱいで、家に帰るとよくミシンを動かしていたと思う。私が5歳の頃には既にあったパッチワークのカバーは隠居先の別荘にて今も使われている。
のち、小学校高学年くらいにはアルバイト(お好み焼き屋)を始め、のち天丼屋に代わり、私が中学くらいにはなぜか漢検二級くらいを取り、高校生になる頃には介護の仕事を始め、ヘルパーの資格を取ったりしていた。
この時の私は、母がアルバイトを始めたこと、検定や資格を取っていることに何も感じなかったが、今改めて考えると不思議なことに思う。
彼女の何がそれをさせたのだろう。当時の父の月収を知っているが、家庭的には裕福で金銭的にも余裕はあったはずで、今の私が同等くらい稼ぐのはかなり厳しい思うくらいだ。
学歴からのコンプレックスか、手に職をつけるためだろうか、はたまたただ単に暇だったからなのだろうか。母が飲食のバイトを始め1〜2年ほどで辞めたのは、何か嫌な事があったのだろうか。その経験から資格などに目を向けたのだろうか。
本を買う時はほとんど古本で、資格の本もほとんど古本でもで揃えていた。元々、おそらく本を読む人ではないため、家にある本はオレンジページやよく分からない流行った本(五体不満足など)しかなかった。歴史書や辞典など、自宅にあった本は殆ど父のものだった。母は幼い頃に両親の離婚(私から見たら祖母と祖父)を経験していることから、家族への執着が強くなっているようにも推測できるし、70年前の離婚は今と印象が違うだろう。子どもの頃は決して裕福ではなかったらしいし、その経験からなのかほとんど贅沢をしない人だった。日曜に父と映画を2本借り、父と共に途中で寝るような人だった。
私の母はおそらく打たれ強く、色んな物事に欲がなく、家族が全てのように振る舞い、難しいことはよく分からないが口癖で、残り物を晩御飯として食べ、たまに恋愛ドラマをみてそのままソファで寝て、父の背広にアイロンをかけ、私や兄が勉強をするとよく褒めてくれた。私は今書きながら泣いてしまった。料理が得意で私はご飯をたくさん食べた。たまに父のことをお父さんではなく、◯◯ちゃん(トシノリならトシちゃんなど)と呼んでいた事もあった。髪の毛を乾かすのはドライヤーでなく扇風機だった。私や兄の些細なことでも、さも大層なことのように人に自慢した。
私は私の母のことを理解出来ない。私は矮小で利己主義で打算的な人間で、友達も少なく、自分の話をするのが苦手で、人と喋る時は嘘の自分が自分の代わりに喋っているようにしないと他人と喋れない、嘘つきの惨めなマザコン人間だ。さらに言うと私は父も好きだからマザコンとファザコンを併発しているとも言える。
と、ここまで両親を賛美した上で、私の妻と言う存在に触れると、私は自らの過去に存在する母と父を尊敬しているだけで、今は妻が世界で一番大切なので、全ての物事の中で妻を優先しており、両親と妻の命が天秤に掛かれば迷わず妻を取るくらいだ。
ベッキーのタイキックと、そもそも笑ってはいけないの罰ゲームがどうこうというのは趣旨がずれるので、今回はエディ・マーフィーの件のみについて。
生放送で見てた時は正直笑った。アメリカンポリスという設定でエディ・マーフィーというボケは、ビバリーヒルズコップを知っている世代にとっては見事なツボだった。
そしてその後の報道を見て改めて考えた。果たして浜ちゃんが顔を黒くせず、かつらやひげ、服装だけで登場してたら同じくらい面白かっただろうか。そこに面白さの違いがあるとしたら「顔を黒く塗っている」ことが面白さなのであって、各種報道を踏まえて考えるなら黒塗りで黒人を演出するということはよくないことだったのだろう。
もう少し考えを巡らせた時に、今回の報道で「これは差別だ」と発言して取り上げられている人が1人なのがちょっと気になった。数が少ないから気にするなと言うわけではないし、話題になったということはそれだけの人がこの意見を支持したんだとは思うが、とはいえ一部の声が世の中のすべての声、みたいに拡大解釈されてないだろうか。
以前に海外モデルが着物を着たときに文化の盗用だ、と海外では炎上したけど、当の日本人は全然気にしてないどころかむしろ好印象、みたいな雰囲気だったと記憶している。ミンストレルショーは問題だとして、黒塗りした時点で差別だ、と切り捨てていいのだろうか。むしろこういう事件が起きたからこそ、お互いの文化の違いをすり合わせていくいい機会にならないものだろうか。
そして最後に、こうやって差別の名の下に言葉や表現を抑制していくことこそが差別につながってやしないだろうかいう危惧もある。五体不満足の乙武さんが「自分の手足がないことを笑ってくれる世の中がいい」みたいな趣旨のことを言っていたけど(うろ覚えなのでソースがあったら教えてくれ)、相手の肌の色も背の高さも体型も何もかも口に出せて、それはただ単に人それぞれ違うだけでまったく気にしないで言い合えることこそが理想論かもしれないけれど本当に差別がない世の中なんじゃないだろうか。言葉や表現をどんどん刈っていくこの流れこそが差別を助長している側面はないかなとちょっと気になっている。
http://www.sankei.com/entertainments/news/161127/ent1611270010-n2.html
について。
「これだけ身体的にハンディキャップあってバッシングされるのもすごいですね」というのはその通りで、このバッシングは、障害者という弱者に対するイジメ、というよりははるかに、強者に対するやっかみに近いと思います。乙武さんがそこまでの存在になったことに関しては、本当にスゴイな、と思います。
記事には出てきませんが番組では、乙武さんが実は話したかった話題、として相模原事件、パラリンピックの他に、24時間テレビのバリバラも挙げていました。かなり面白い話になったはずです。他にも今年は乙武さんに語ってもらうべき話題が多かったと思うので、非常に残念に思います。
まあ、まだ怒っている方もおられると思うので申し訳ありませんが、個人的には人の家庭の不倫とかどうでも良いのですみません。
あと、これは前から言いたかったことで、ついでに書いてしまいますが、『五体不満足』は今、是非とも読むべき、読み直すべき本だと思います。
というのも、私がこれを初めて読んだのは、Twitterで「手も足も出ない。あ、初めからなかった」みたいな障害自虐ネタを連発しているのを知った後で、その頃にはすでに乙武さんは成功者であり強者側でした。
そうなってから読んでみると、スゴイな、とか、面白いな、とは思いましたが、感動する、とかましてや、号泣する、というような感じはありませんでした。というか、どちらかと言えば、一言でいうとあの本は「自慢」ですよね。My Way的な。
もちろん、それだけではないのはわかりますし、あえてそのような面を強調している意図も理解しているつもりです。それでもさすがに号泣はしない。
そう考えると、本が出始めの頃に感動して号泣していた人がいたとすれば、それはおそらく、障害者を弱者としてみなして、いわば感動ポルノを自分で勝手に作っていたのではないか。そんな疑念があるのです。
そういう観点で、『五体不満足』を今、もう一度読んでみて欲しいと思います。初めて読む人もそうですが、昔読んだ人には特に、以前との感想の違いを感じて欲しいと思います。
不幸に心が縛られることは最大の不幸だよ。
不幸ってのは本当に怖くてね、自分は不幸だと思っている人ばっかり捕まえて不幸にしてしまうんだ。
なぜかっていうと、自分は不幸だと思っていると、幸せへの入口を見逃してしまうんだよ。入口の見逃し方は様々。幸せになったことがないから幸せになるのが怖くて、幸せへの入口が見えていても不幸への道を選んでしまう人がいる。幸せへの入口が見える場合はまだマシで、どこが幸せへの入口なのかもわからない人も多い。幸せへの入口が見えていても、それは本当に幸せ?って疑って試してその挙句に幸せへの入口を壊してしまう人もいる。
じゃあ不幸な人は一生幸せになれないのか?っていうと、そんなことはない。ちゃんと幸せになれる道がある。それは、今すぐ幸せになること。
自分の中の気持ちに素直になろう。美味しいものを食べたら幸せだと思い、人と楽しく会話したら幸せだと思い、面白い物語を読んだら幸せだと思い、よく寝たら幸せだと思い、様々なことで幸せだと思うこと。
このときのポイントは、他の人と比べたら幸せだとは思わないこと。時々、自分は不幸だと思っていたけど五体不満足な人と比べたら幸せだと思う、なんて言っている人がいるけど、それは間違い。じゃあ美しい体に生まれた人と比べたらあなたは不幸ですか?五体不満足な人はあなたと比べたら不幸なんですか?ってことになる。どちらも違うでしょう?
不幸が不幸な人を好きなのと同じように、幸せは幸せな人が好きだから、そうやって幸せでいると何が幸せかもわかるし、幸せへの入口も見えるようになって、そこに飛び込む勇気もできて、どんどん幸せになれるよ。
学生 「聖域です。」
面接官「え、聖域?」
学生 「はい。聖域です。敵が直接攻撃できなくなり、周囲をぐるぐる回りはじめます。」
面接官「・・・で、その五体不満足は当社において働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?」
学生 「はい。敵が襲って来ても気にせずセックスができます。」
面接官「いや、当社には襲ってくるような輩はいません。それに会社で性行為をしないでください。」
学生 「満足度100%のときにセックスすると満足度の上限が5%上昇するんですよ。」
面接官「ふざけないでください。それに満足度105%って何ですか。だいたい・・・」
学生 「初期値の1.05倍です。デフォルトより5%、ストレス死しにくくなります。ストレス死というのは・・・」
面接官「聞いてません。帰って下さい。」
学生 「あれあれ?怒らせていいんですか?使いますよ。五体不満足。」
面接官「いいですよ。使って下さい。五体不満足とやらを。それで満足したら帰って下さい。」
学生 「ほんほんほんほん。」