はてなキーワード: ソーシャルとは
アマゾン・グーグル・フェイスブック・アップルが巨大になりすぎて健全な競争を阻害しているので分割すべきだ、という記事が一部で話題になっていそうなので訳してみました。
かなり長文です。
原文は http://www.esquire.com/news-politics/a15895746/bust-big-tech-silicon-valley/
図表中の文章などは訳していません。
あまり目新しいことを言っているようには感じませんでしたが、(長いおかげで)論点がまとまっているのは良いところかもしれません。
誤訳等の指摘あればお願いします。
あと、増田を使うのははじめてなのでその他変なところがあればごめんなさい。
(文字数制限に引っかかったみたいなので途中で切ります。続きは https://anond.hatelabo.jp/20180214160914とhttps://anond.hatelabo.jp/20180214161344)
4つの会社が人類史上かつてないほど我々の日常生活を支配してしまっている。アマゾン、アップル、フェイスブック、グーグルのことだ。私たちがみんな素敵なスマートフォンやクリック一発のサービスに夢中になっている一方で、この4つのモンスターは縛られることなく経済を独占し、ギルドの時代以降ありえなかったほどのスケールで富を溜め込んでいる。この状況に対して論理的にどんな結論がありうるだろう?巨大テクノロジー企業を分割するべきだ。
スコット・ギャロウェイ 2018.02.08
私は巨大テクノロジー企業にはとてもお世話になってきた。1992年に私が共同設立したコンサルタントファームであるプロフェットがしてきたのは、グーグルが変えてしまった後の新たな環境で顧客の会社が生き抜くための手助けだ。1997年に共同設立した高所得者向けeコマース企業であるレッドエンベロープも、アマゾンがeコマースに対するマーケットの関心に火をつけていなかったとしたら、成功をおさめることはなかっただろう。もっと近い例でいうと、2010年に設立したL2は、モバイルとソーシャルの波の中から、つまり企業が新しいプラットフォームの中での自分たちのパフォーマンスをベンチマークする方法を必要としている時代に生まれたものだ。
もちろん巨大テクノロジー企業は、別のレベルでも私に利益をもたらしてくれた。投資ポートフォリオの中のアマゾンとアップルの株の価格上昇は、リーマンショックでメチャクチャになった後の私の家計に経済的安定を取戻してくれた。最後に、アマゾンは私が教えているNYUのスターン・スクール・オブ・ビジネスのブランド戦略・デジタルマーケティングコースの生徒たちの今や最大のリクルーターでもある。こうした会社は素晴らしいパートナー、クライアント、投資先、そしてリクルーターでもある。20年にわたるこうした会社に関する経験と研究のすえに私がたどり着いたのは、奇妙な結論だ。今や巨大テクノロジー企業を分割するときだ、ということだ。
過去10年で、アマゾン・アップル・フェイスブック・グーグル――私は「四大企業」と呼んでいるが――は、歴史上他のどの商業体も成し得なかったほどの経済的価値と影響力を集積してしまった。この4つの企業を合わせると、2.8兆ドル(フランスのGDPに等しい)の時価総額、なんとS&P500トップ50の24%におよび、2001年のナスダックで取引された全株価に等しい金額にもなってしまう。
この金額はどれほど莫大なのだろうか?アマゾンを例にとってみると、5910億ドルの時価総額はウォルマート・コストコ・T.J.マックス・ターゲット・ロス・ベストバイ・アルタ・コールズ・ノードストリーム・メイシーズ・ベッドバスアンドビヨンド・サックス/ロードアンドテイラー・ディラーズ・JCペニー・そしてシアーズを足したよりもまだ高い
フェイスブックとグーグル(今はアルファベットになっている)は合わせて1.3兆ドルだ。世界の5大広告会社(WPP、オムニコム、パブリシス、IPG、電通)に、5大メディア企業(ディズニー、タイムワーナー、21センチュリーフォックス、CBS、バイアコム)、更に5大コミュニケーション企業(AT&T、ベライゾン、コムキャスト、チャーター、ディッシュ)を加えてもグーグルとフェイスブックを合わせた90%の価値しか無い。
アップルはどうか?時価総額9000億ドルのアップルは、世界でもっとも企業価値の高い企業だ。さらに驚くべきことに、アップルは32%の利益率を誇るが、これはエレクトロニクス企業というよりエルメス(35%)やフェラーリ(29%)といったラグジュアリーブランドに近い。2016年にアップルは460億ドルの利益を出したが、これはJPモルガン・ジョンソンアンドジョンソン・ウェルズファーゴを含む全アメリカ企業より大きい数字だ。もっと言うと、アップルの利益はコカコーラやフェイスブックの総収入より大きい。この四半期にはアマゾンが創業以来生み出した利益の2倍に達する数字を叩き出すだろう。
四大企業の富と影響力には驚かされる。どうしてこんな状況が生まれたのだろう。
“The Four(四大企業)”で私が描いたとおり、グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップルのような、独占と大衆への影響力を持つ企業を作るための唯一の方法は、人間のコアな器官に訴えかけることでプラットフォームを本能的に受容させてしまうことだ。
私たちの脳は極めて複雑な問を投げかける程度には洗練されているが、そういった問に答えられるほど優れてはいない。ホモサピエンスがほら穴から出てきて以降、そのギャップを埋めるために我々が頼ってきたのは祈りだった。視線を天に向け、問を投げかけ、より知性のある存在からの反応を待つ。「子供は大丈夫でしょうか?」「私たちを攻撃する可能性があるのは誰でしょう?」
西欧諸国が豊かになるにつれ、体系的な宗教が我々の生活において占める役割は小さくなっていった。しかし問と答えの間の空白は残され、そこにチャンスが生まれた。伝統的な宗教から離れる人が増えてくると、我々は下らないことから深遠な問題まですぐになんでも答えてくれる全能の預言者としてグーグルを見るようになった。グーグルは現代の神なのだ。グーグルは脳にアピールし、バックグラウンドや教育レベルに関わらず誰にでも知識を提供する。スマートフォンを持っているかインターネットに接続出来るだけで、祈りは全て聞き届けられる。「子供は大丈夫でしょうか?」「クループ症候群の症状と治療法は…」「私たちを攻撃する可能性があるのは誰でしょうか?」「核兵器開発のプログラムを今でも行っている国…」。
自分がグーグルに告白したことのある恐怖、希望、欲望を全部振り返って、自分自身に尋ねてみよう。自分がグーグル以上に秘密を託した相手が他にいるだろうか。グーグル以上に私について知っている人間が他にいるだろうか?
フェイスブックは心にアピールする。愛されているという感覚は幸福への鍵だ。ルーマニアの孤児院で身体・精神の成長が阻害されている子供を研究したところ、発達の遅れは当初原因として想定されたような栄養失調のためではなく、他人の愛情の不足によるものだとわかった。しかし私たちの種の特徴は、愛されることを必要とするのと同じくらい、他人を愛することも必要とすることだ。発達心理学者のスーザン・ピンカーは百才を超える人の人数がイタリア本島の6倍・北アメリカの10倍にも上るイタリアのサルディニア島を研究した。ピンカーは、遺伝・ライフスタイル的な要因の中でも、人と人との間の近しい関係や対面での交流を重んじるサルディニアの習慣が長寿の鍵であることを発見した。遺伝よりもライフスタイル、特に社会的繋がりの強さが長寿の決定的な要因であるとする他の研究もある
フェイスブックが21億の月間アクティブユーザーに提供しているのは、他人を愛したいという欲望に火をつけるためのツールだ。高校の同級生をもう一度見つけるのは素晴らしい。引っ越してしまった友達と連絡を取り続けられることを知るのも良いことだ。赤ちゃんの写真に「いいね」をつけたり、友達の心からの投稿に短いコメントをつけて、私たちの大事な友情や家族の絆を固くするのには数分あれば良いのだ。
眼にとっての風景、耳にとっての音にあたるのが、本能にとっての「まだ足りない」という感覚、飢餓感だ。胃袋が素晴らしい食事の後でもさらに砂糖や炭水化物を求めるように、私たちの心は更なるモノを欲望する。本来この本能は自己保存のために機能していたものだ。つまり、食べる量が足りないことが飢餓と確実な死を意味するのに対して、食べ過ぎはそもそも珍しく、腹が膨れたり二日酔いになるだけだ。しかし今あなたが自分のクローゼットや戸棚を空けてみると、たぶん必要の10から100倍ものモノを持っていることがわかるだろう。私たちは理屈ではこれが馬鹿馬鹿しいことをわかっているが、社会や高次脳機能は我々のどこまでも欲望するという本能に追いついていないのだ。
アマゾンは消費する我々の巨大な消化管だ。アマゾンは栄養を蓄え、それをプライム・メンバーになっているアメリカの64%の家庭の心臓や血管に供給する。アマゾンが採用したのはビジネスの歴史の中で最高の戦略だ――「少なく与えて多く受け取る」――そしてその戦略を歴史上のどんな会社より効果的・効率的に実行している。
生存本能についで二番目に強力な本能は繁殖だ。性をもつ動物である私たちは、自分がいかに洗練されて賢く、クリエーティブであるかアピールしたいと思う。私たちは力を示したい。性も贅沢も理屈では説明できないが、アップルは、広告をヴォーグに載せ、スーパーモデルをプロダクトのローンチに呼び、店舗を自分たちのブランドのガラス張りの神殿にすることが、人の魅力的になりたいという欲望にアピールし、そして自分たちの利益率を向上させることに極めて早くから気づいていた。
デルのコンピューターは性能は良いかもしれないが、マックブックエアと違って、イノベーション階級のメンバー証にはなってくれない。同様に、アイフォンは単なる電話やスマートフォンではないのだ。顧客がiPhoneXに1000ドル払うのは、顔認証の大ファンだからではない。彼らは自分たちがいい生活を送り、芸術を理解し、自由に使える収入があるというメッセージを送っているのだ。それは他人へのサインだ。もし君が僕とつがいになってくれたら、君の子供はアンドロイドを持っているやつとつがいになるより生存確率が高まるよ、ということなのだ。実際、iPhoneユーザーはアンドロイドユーザーより平均40%収入が高い。iOSプラットフォームの上にいる人間とつがいになるのは、良い生活への近道なのだ。脳、心、消化管、生殖器。この4つの器官にアピールすることで、4大企業は自分たちのサービスや製品、OSを私たちの精神深くまで潜り込ませてしまった。彼らのおかげで、我々はより賢く、目利きのできる消費者になることができた。そして消費者にとって良いことは社会にとっても良い、はず、だろうか?
答えはイエスでもありノーでもある。四大企業は我々の生活にあまりにも大きな影響を持っているので、もし彼らのうちどれか一つでも無くなってしまったら、ほとんどの人は心底動揺するだろう。iPhoneを持てなくなり、検索にYahooかBingを使わざるをえず、フェイスブックに投稿した何年分もの思い出を失ってしまったときのことを想像してみるといい。アマゾンアプリからワンクリックで明日までになんでも注文することが出来なくってしまったらどうしよう。
一方で、自分たちの生活の相当な部分を一握りのシリコンバレーのエグゼクティブに預けてしまったせいで、我々はすでにこうした会社の負の部分についても語りはじめている。四大企業の独占が進むにつれ、懸念や、ときには怒りのささやきさえも聞こえはじめている。長年の欺瞞のあとで、我々はついに政府か、あるいは誰かがブレーキを踏むべきだという提案について考え始めたのだ。
こうした議論のすべてが説得力を持っているわけではないが、巨大テクノロジー企業を分割するべき真の理由であると私が信じる議論に行く前に、もう一度確認してみる価値はある。
巨大テクノロジー企業は、最初のギャングスターであるマイクロソフトの罪から学習した。このかつての巨人は当時自分たちの力を過信して、監督官庁や社会の中での自分たちのイメージをやわらげるためにPRキャンペーンやロビイストといった手段に頼る必要はないと考えているように見えた。対照的に、四大企業は若さと理想主義のイメージを売り込み、また世界を救うことの出来るテクノロジーの可能性を布教して回っている。
その気持ちは真剣なものだが、ほとんどが抜け目のない動機から来ているものでもある。単純な利益以上の何かにアピールすることで、四大企業は従業員の間で高まっている、いわゆる「理想追求型」企業への欲求を満足させることができている。四大企業の「ガレージ発明家」神話は、マンハッタン計画・アポロ計画の昔に遡るアメリカのサイエンスとエンジニアリングに対する敬意を上手く利用している。何よりも、これらの会社の漠然とした、それでいて理想主義的な宣言――”Think different”, “Don’t be evil”――が、最高の幻想を与えてくれる。政治的な進歩主義者は一般的に善意だが立場の弱い人々と見られがちで、ますます強力になりつづける企業にとって最高の隠れ蓑となってくれるイメージだ。
フェイスブックのシェリル・サンドバーグが女性たちに「一歩踏み出そう(“lean in”)」といったのは本心からだが、彼女は女性へのエンパワーメントに関する自分のメッセージが持つアイロニーについても触れざるをえなかった。彼女の会社はもともとハーバードの学部生の魅力をランク付けするためのサイトから生まれ、ましてや比較的多数の女性従業員を擁する産業――メディア・コミュニケーション産業――の数万の雇用を今も破壊しているのだから。
こうしたPRの努力は効果的だが、一方で彼ら企業にとって大転落を準備するものでもある。完璧な紳士に見えた人間が実はオピオイド中毒で、自分の母親に対しても酷い態度を取っていたことを知るのは大きな失望だ。紳士があなたと付き合ってくれるのが単なる金(クリック数)目当てだということを知るのはなお酷い。
初期にいくつかのインターネット企業を創業した人間としての私の経験では、四大企業ではたらく人々が他の成功している企業で働く人々と比べて特に邪悪だということはない。彼らは少しだけ教育程度が高く、少しだけ賢く、極めて幸運だが、彼らの親の世代と同様に、ほとんどの人はなんとか生計をたてようとしているだけだ。多くの人は人助けだって喜んでするだろう。ただ社会を良くすることとテスラの車の二択を迫られれば、ほとんどはテスラを選ぶだろう、というだけだ。そしてパロアルドのテスラ販売店の業績は好調、極めて好調なのだ。だからといって彼らが悪人だということになるだろうか?もちろんそんなことはない。ある資本主義社会における一営利企業の従業員にすぎない、というただそれだけだ。
我々の政府はGDPのおよそ21%にあたる年間予算で活動している。つまりこれが公園を開き、軍隊の装備を整えるためのお金だ。では巨大テクノロジー企業は公平な負担を支払っているのだろうか。ほとんどの人はノーというだろう。2007年から2015年の間にアマゾンは利益のうち13%しか税を払っていない。アップルは17%、グーグルは16%、そしてフェイスブックは4%しか払っていない。これに対して、S&P500平均では27%の税金を払っている。
そう、つまり四大企業は税金逃れをしているということだ、つまりあなたたちと同様に。ただやり方が上手いだけだ。例えばアップルは利益をアイルランドのような地域に移すという会計上のトリックを使っており、結果として世界で最も利益を挙げている企業が最低の税負担しかしないという事態が生じているというわけだ。2017年9月時点で、アップルは海外に2500億ドルを保有しているが、これはほとんど課税されない、そもそも最初から海外に持ち出されるべきではなかった財産だ。別の言い方をすれば、ディズニーとネットフリックスを買えるだけの資産をアメリカの一企業が海外に持っているということだ。
アップルだけではない。GEも巨額の税金逃れに手を染めている。しかし我々がそのことに腹を立てることがないのは、そもそも我々がGEを愛していないからだ。この責任は我々に、そして我々の民主的に選ばれた政府にある。我々は税法をシンプルにする必要がある――複雑なルールはそれを利用することのできる能力に恵まれた人々に有利に働きがちだ――し、それを実施できる人間を選挙で選ぶべきだ。
四大企業による雇用の破壊もすさまじく、恐ろしくなるほどだ。フェイスブックとグーグルの収入は2017年に290億ドル増えそうだが、この新しいビジネスを行うために彼らは20000人の新しい、高収入の雇用を生み出すだろう。
だがコインの裏側はそれほど輝かしいものではない。広告業はデジタルであれアナログであれ低成長の(ますます成長が鈍っている)ビジネスであり、このセクターがほとんどゼロサムであることを意味している。グーグルはマーケットを成長させることで新しい収入を得ているわけではない。他の会社のドルを奪っているだけだ。もし我々が五大メディアサービス(WPP、オムニコム、パブリシス、IPG、電通)をグーグルやフェイスブックの代わりに使えば、290億ドルの収入を得るためには219000人の旧来型の広告プロフェッショナルが必要になっていただろう。つまり、年間199000人のクリエイティヴ・ディレクター、コピーライター、代理店幹部が「家族との時間を増やす」ことを選択していることを意味する――ヤンキー・スタジアムほぼ4つ分が解雇通知を握りしめた黒スーツの人間で一杯になってしまっているということだ。
これまでのビジネスのサクセスストーリー例では、今注目の的になっている企業たちよりも多くの従業員を雇用している。P&Gは2017年の株価の急上昇を受けて時価総額2330億ドルとなったが、95000人の人間を雇用している。言い換えれば従業員一人あたり240万ドルだ。インテルはニューエコノミー企業でその資本があればより効率化を図れそうなところ、時価総額2090億ドルで102000人を雇用、一人あたり210万ドルだ。これに対してフェイスブックは14年前に創業された企業だが、5420億ドルの時価総額を誇り、一方で従業員は23000人しかいない。これは一人あたり2340万ドルということで、P&Gとインテルの10倍だ。
たしかに、これまでも雇用の破壊はあった。しかしこれほど上手くやる企業が出てきたことはない。ウーバーは新しい(低い)680億ドルという基準を設定したが、これがカバーする従業員は12000人しかいない。従業員一人あたりでいえば570万ドルだ。実際の道路と実際のドライバーを必要とするはずのライドシェア企業が、墓の中のヘンリー・フォードを激怒させかねないようなフーディーニばりのトリックを駆使して中間階級のサヤ抜きをしようとはなかなか想像できまい。
しかしウーバーは新しい区別を設けて、二種類の労働力を作り出すことでこれを成し遂げてしまった。「ドライバー・パートナー」、わかりやすく言えば請負業者ということだ。彼らを従業員名簿から締め出すことは、ウーバーの投資家と12000人のホワイトカラー従業員が680億ドルを「パートナー」たちと公平に分配しなくてよいということを意味する。これに加えて、ウーバーは200万人のドライバー労働者に健康保険も雇用保険も有給休暇も与えなくてよいのだ。
巨大テクノロジー企業の雇用破壊は、こうした企業に対して公平な税負担をさせるべきだという主張の強い論拠になる。政府はそれを職業訓練や社会福祉にあてることでその被害を抑えることができるからだ。しかし、雇用の破壊を政府による介入の促進剤とだけ考えないようには気をつけるべきだ。職の置き換えと生産性の向上――農民から工場労働者へ、工場労働者からサービス労働者へ、サービス労働者から技術労働者へ――はアメリカのイノベーション・ストーリーの一部だ。我々の 成功フリークたちに戦わせつづけることも大事なのだ。
核心に近づいてきた。外国の敵に自分の会社を、自国の民主的な選挙プロセスを傷つけるための武器として使わせることは問題、とても深刻な問題だ。2016年の選挙中、フェイスブック上のロシアのトロールページは金を払っておよそ3万件の政治広告を打った。でっち上げのコンテンツを見たユーザーは1億2600万人におよんだ。事態はこれでは止まらなかった。GRU――ロシアの軍事・諜報機関――は最近では混乱の種を蒔くためにより超党派的な方法を採用している。選挙の後も、GRUはフェイスブック、グーグル、ツィッターを利用して人種差別由来の暴力を扇動した。こういったことを防止するために、プラットフォーム事業者たちはほとんどあるいはまったく投資を行わなかった。GRUはフェイスブックの広告をルーブルで支払った。文字通りにも、象徴的にも赤旗だったというわけだ。
あなたがビーチかプールつきのカントリークラブを経営している場合、短期的にはライフガードをおかないことが利益につながる。主にアルゴリズムに依存しているフェイスブックがそうであるように、そういったビジネスモデルにはリスクがあるが、かなりの金額を節約できるからだ。巨大テクノロジー企業が社会的な利益のために、必要なリソースを自発的に投資するだろうと期待するのは、エクソンが地球温暖化の問題に対してリーダーシップを発揮することを期待するようなものだ。そんなことは起きるはずがないのだ。
しかし、単なる規制ではなくトラストの分割が必要だというアイデアを私が思いついたのは11月に、上院情報委員会のチェアマンであるリチャード・バーがフェイスブック・グーグル・ツイッターの相談役に泣きついたときだった。「国民国家に我々の未来を台無しにさせないでくれ。君たちが防衛の最前線なのだ」。まさにこの瞬間、選挙で選ばれた我々の代表が自国の防衛を、今買おうとしていた靴についてしつこく宣伝したり、友達の誕生日を思い出させることをビジネスモデルにしている会社に委ねようとした瞬間こそ、歴史における転換点だったのだ。
はっきり言っておこう。我々の防衛の最前線はこれまでずっと陸軍・海軍・空軍・海兵隊だったし、これからもそうあるべきだ。「ザック」軍団なんかじゃない。(https://anond.hatelabo.jp/20180214160914に続く)
いつか、多くのみんなが直面するかもしれないことについて、先輩として書き記す。
ある日突然、それはやって来る。
承認した瞬間に何が起きるか。
これまであなたが投稿してきた全ての記事を、彼女が読み始める。
よく知った人、自分の身内が過去数年間に何をしてきたのかを知る機会なぞ人生にそうそうない。
思い返して欲しい。
仕事や人生にまつわる、青臭い悩みや宣言、愚痴がなかったかを。
娘をネタにした、大人から見ると微笑ましいエピソードとコメントのやりとりを。
これらを遡って娘だけに見えないように、表示範囲を制限することは非常に困難である。
だが、父としては張っておきたい見栄というものもあるのだ。
娘にFacebookアプリの利用を許可した時、友達とのコミュニケーションに使うのだろうな、と思っていた。
娘のアカウントを探す気もなかったし、いわんや繋がるつもりもなかった。
数年に渡る積み重ねを全部点検してからでないと、承認できない。
そして、友達になる前にアカウント単位での閲覧制限をする機能は現時点では存在しない。
つまり、制限をかけるためにはその前に全ての記事を読める状態で承認が必要なのだ。
あるいは、もう諦めて全てを見せてしまうか。
今、一年前までの投稿を確認し終えたが、これ以上遡ってチェックする気力がなくなりつつある。
だんだん瑣末なことに思えてきたのだ。
どうしてもみられて困るものは一件もなかった。
恥ずかしかったりカッコ悪かったり、ちょっと嫌われてもしょうがない。
ただ、遡るのを諦めたもっと昔の出来事で、本人がプライバシーを侵害されたと感じることがあるかもしれない。
娘から責められることもあるかもしれない。
父親のくせにくだらないことしてるなー、と思われることもあるかもしれない。
この数日、あれこれ考えた先輩としてお伝えしておく。
匿名実名問わず、子供から見ればほぼ確実に、それが親であることは特定できるということを。
ひょっとすると今はまだ、この世に生を受けていない人ですら含まれるということを。
……いや、まだ承認してないんですけどね。
ポリコレリベラルソーシャルジャスティスウォリアーのヤバいのってまさにこういうところなんだよな。
はぁそうですか。
あなたがたは自慰行為でしか性欲が発散できない場合トラウマが生まれたり外に出られなくなったり仕事でトラブルを抱えることになるんですね? そうでなければ加害をやめろと言う女性の主張につりあいませんよね。
あなたの性欲が望むほどには満たされないのは女性のせいではなくあなた自身の問題です。危害を加えられたくないという主張に「そんな言い方じゃ言うこと聴いてやんないぞ!」とは何様ですか? 文明人ではないんですか? 人権って知ってますか? 人を苦しめてまで自分が快楽を得たいのですか?
そんな野蛮な存在を豚と呼ぶなんて豚に失礼です。
恥を知れ、外道。
賢さ清潔さ上品さ道徳常識配慮、そのセーフとアウトの基準を無意識で「自分はこれくらい節度を持つことなら我慢できる」的な都合のいいところに線引きした上で他人にもその基準に合格することを要求してきて、いやお前にはそれがちょうどよくてもこっちには無理だが、って言うとブチキレて人間として認めない宣言してくる。
やっぱり「あなたは議論の余地なく人ですよ~、人は誰もが人だし、人だから決して損なわれない人権があるんですよ~」みたいな褒めをニコニコしながら言ってきて、それを聞いちゃうと「人だからちゃんと振る舞いなさいね」という要求をしてきて、それにノーを言うと「お前みたいなやつは人ではない!」っていう手法。
『[翻訳] ドヌーヴ「女性を口説く権利」 全訳』を掲載された方が、"la liberté d'importuner"を「ウザがられる自由」とお訳しになったのはなかなかの技だと思うのですが、惜しいことに、この全訳はかなりの数の誤訳を含み、その結果、多くの箇所で、原文の文意を正しく伝えていません。
以下、大急ぎで、主だった誤訳箇所を列挙し、元記事(http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)の正確な読み取りに基づく改訳を提案しておきます。「✖」で誤訳箇所を示します。「⇒」でその部分について、正確であろう訳文の例をを示します。ご検討ください。
⇒また、女性に対する慇懃な振る舞いを女性を傷つける男性優位の態度と見なすのは間違いです。
✖正しく意識されるようになった。
⇒意識されるようになったのは正統なことだ。
✖いわゆる普遍の名の下で、
⇒誰にとっても善いのはこういうことだと勝手に決めて、
✖実際、報道メディアやソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力の加害者と同じ俎上で糾弾することだった。
⇒事実、#metooを通して、報道メディアやソーシャルネット上に密告と公の場での告発のキャンペーンが発生した。犠牲になったのは、性暴力の加害者たちとまったく同じ俎上に乗せられ、抗弁の余地も弁明の余地も与えられない人びとだった。
✖「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝のモラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性を保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。
⇒「豚野郎」どもを屠殺場へ送り込もうとするこの熱病は、女性が自律的になるのをいささかも助けない。それどころか、実際にこの熱病から利益を得るのは、性の自由の敵たち、宗教的過激主義者たち、最悪の反動家たち、そして、実体論的な善概念とそれにともなうヴィクトリア朝風のモラルの名において女性を一種「別扱いの」存在と、大人の顔をしていながら子供のように庇護されることを求める存在と見なす人びとなのである。
✖ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性差別」で
⇒ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性蔑視」で
✖「やりりたいこととやりたくないことに」
⇒「してもいいと思うことと、するのはいやだと思うことに」
⇒人の気分を害する自由
✖彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、それが犯罪だからといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。
⇒彼女は彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意することができる。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、痴漢行為が犯罪と見なされるからといって、一生涯続くトラウマを植え付けられたとは感じないでいることもできる。
✖評判だおれだったとさえ考えてもいい。
⇒さらには、大した出来事ではなかったと考えることさえできる。
✖女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。
⇒私たちは女性として、権力の濫用を告発することを超えて男性たちとセクシャリティへの憎しみとして表れるフェミニズムに強い違和感を覚える。
⇒ウザがられる自由が男たちの側にあってこそ意味を持つと私たちは考える。
✖そして私たちは、このウザがられる自由にどう応えていくかを知らなければならない。性的な獲物の役割に閉じこもる以外のやり方でだ。
⇒そして私たちは、このウザがられる自由に対して、獲物の役割に閉じこもる以外のやり方で対応する能力を持っていなくてはいけない。
✖子供を持つことを選んだ人々のために、
✖娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分の人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。
⇒自分の娘たちが、〔性について〕気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生をのびのびと生きるのに十分なだけの知識を得て意識的になるように育てることこそ適切だと考えている。
✖たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性は尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。
⇒女性の身体に関与するアクシデントは、必ずしもその女性の尊厳を傷つけるわけではなく、ときにきわめて辛いものであっても、そのアクシデントを理由に当該女性を終身犠牲者のように考えるのは必ずしも適切なことではない。
以上。
そうでないなら、他人をどうにかしよう、どうにかできると考えるのは傲慢ではない?
時代により比率は変われど、世の中には一定割合のそういう人が常にいるものだ。
それをどうにかしようとするのは複雑すぎる困難な問題だし、一個人の手に負える問題ではない。
だから政治がアプローチしようとしている分野。そこに、個人が「常識」やら「モラル」やら「病気」やらを説いて、
説得、恫喝、暴力などで人を動かそうとしたところで、それは人権を脅かしかねないゾーンに足を突っ込むことになる。
だから個人レベルの戦略としては、他人を変えようとするより、自分が変わる・自分の環境を変えることが良策だろう。
身内だったら、無理にでも叱ったり躾けたりして家族全員の価値観をある程度統一することも許されるかもしれないが、前時代的な考え方だ。
価値観の多様化した現代においては、一緒に暮らす家族といえどまったく異なる価値観や問題を抱えている。成人ともなれば尚更だ。
そもそも科学的には自由意志が存在しないのが濃厚で、自己の責任というものも存在しえない。
科学的には存在しないものを、社会的に秩序立てるために存在する、自覚しろと言っている状況がある。
不幸なことに人類は脳がたいへん発達しており、はっきりした自意識は持っている。
ただし、自意識を持っているからといって、神経系の全権を自意識が有しておりコントロールできる訳ではない。
むしろ、1%たりとも自分で意図的に脳を動かせる人などいない。腸を意識して動かせる人がいないように、それは勝手に動く。
その脳は、感覚器を通した周囲の環境からのインプットを、肉体的に好悪を選好しつつ電気的に保存しておくものでしかない。
それに基づいて、その人の言動のようなアウトプットが成される。
それを私たちは、自分の意思で決めたのだと感じているに過ぎない。
それでどうして、自己の責任などと言って、一個体にその言動の責任を負わせることができるだろうか。
その意味で、この宇宙には自由意思をもつものなど存在しないだろう(宇宙を創った神のようなメタ存在を除いて)。
諸器官が作り出すハーモニーが自由意志の幻覚を見せているだけで。
脳をハッキングすれば、その人の好みも価値観も発言もコントロールできることは想像に難くないだろう。
そしてそれには、高度な神経科学の技術は必要なく、大昔から、脳のインプット源をコントロールする、
いわばソーシャルハックのような形で世に溢れている。
というか、教育からビジネスまで、人類の営みのすべてがそのソーシャルハックに終始していると言えるほどだ。
その人が社会に出ることを忌避する思考の持ち主に育った原因には、遺伝的(先天的)なものもあるかもしれないし、
育ちによる(後天的)なものもあるかもしれない。現代では特に、後者の影響も大きいだろう。
人間の脳は成長の過程で、外部からさまざまな情報を学習して、そこで個人個人で異なった価値観を形成する。
普段似たような価値観をもつ人たちと社会生活を送りがちな人間は、そのバラエティの深さについて思い至りにくいし、それゆえ寛容を欠きがちだ。
率直にいうと、あなたがもしその30になっても働かない人として生まれ、その人生を0歳から現在までトレースしてみたとき、
彼と同じようにならない自信が持てるだろうか?持てる人は存在しないだろう。
彼のような状況、心境、価値観に至るには、他人とは共有できないさまざまな巡り合わせの累積があったに違いないからだ。
働かずとも生きているということは、養ってくれる存在がいて、愛されているということだろう。
愛されるに足るだけの存在でい続けているんだろう。
扶養者が親であれば、当人への理解も深かったり、あるいは親としての責任も感じてかもしれないが、
家事を手伝ったり、面倒事を代行したり教えたり、体を労ったり話相手となったり、あるいは存在だけで癒やしとなったり。
会社社会の価値基準でみるとそれらは釣り合わぬ価値かもしれないが、その価値基準がすべてではない。
あるいは相続した蓄えで生活しているのかもしれないが、それはそれで認められた権利だ。
ここは社会主義国家ではないから、働けるけど働かないことが直ちに罪になるわけではない。
それぞれの境遇にあったそれぞれの生き方を模索することが許される現代国家の、労働が急速に自動化されていく未来において、
労働に心身と時間を費やしてきた人の目線だと、働いてこなかった人を見下しがちで怠惰な人間だと思うかもしれないが、
人間は無限に怠惰ではいられない。労働市場でただちに評価される形ではないかもしれないが、
オンラインゲームをしながら、最適解を導き出すために高度な関数やAPIを駆使して計算・発表する技術を身に着けていたり、
あるいはチートやクラッキングについてのディープな知識をつけているかもしれない。
そこまで高度でなくとも、ゲームを続けていたならゲームについて人並み外れた審美眼が養われており、
テスターだとかブログのような形で何かの機会に活かされる可能性がある。
他にも、Webコミュニティ(wikiやギルドなど)のメンテといった、有志に頼る、大変だけどお金にならない部分をニートが支えている例は多いのではないだろうか。
ニートとはいえ、労働市場に出るのは嫌でも、人の役に立ちたい、褒められたいという欲求は人並みにあるものだ。
なので人知れず、市場経済にではなく人間社会に対して良いインパクトを与えている可能性を考慮してほしい。
きっと2ちゃんで良識的で穏健な発言をして荒れるのを防ぎ、初心者に優しくしているのもニートおじさんなのだ。
彼らは、働いて疲れて擦り切れて攻撃的になっている社会人のみなさんの棘を受け止めてくれているはずだ。
ニート歴数年とかの駆け出しニートは逆に精神不安定で拙い言動で迷惑をかけることが多いのかもしれないが、
基本的にニートは肉体も精神も拘束されることがないので、金はないが心の余裕があるものだ。
その余裕で人を包んであげたいと思うのは自然なことで、ネットでもらう匿名の温かい言葉のニートによる率は高いと思う。
忙しい人は、そもそも無関心になりがちで、応じるにしても一言二言で短絡的に答えがちだから。
そんなわけで、増田のみなさんには、働かざる人に対して一概に人格否定したり、どうにかしようと攻撃したりしない人になってほしい。
働かざる人を許容できるようになっていかないと、わりと深刻に国の未来は暗いと思う。
ミニマルな環境に適応し、モノやココロの断捨離に自ずと卓越していくニートの知恵袋が、
収縮していく社会で穏やかに生きるためにはきっと役に立つはずだから。
時にはフレンドリーに、いろいろ話を聞いてみてほしい。
よく話せば、誰しも決して無知蒙昧な人間のクズではなく、世界の見方が世間とは違うだけの、いい意味で「普通の人間」だと気づくはずだ。
去年2017年、個人的に一番衝撃を受けたのは"VR Chat”という、VR空間内で3Dモデルアバターになり、他の人と交流ができるソーシャルVRアプリケーションです。これは本当に素晴らしく、じぶんの身体というものに対する考え方が変わるくらいの体験ができます。間違いなく2018年の台風の目になるような気がしています。
VRChatで体験することができる興味深い身体現象の一つとして、「身体同一性キャリブレーション」とでも言うべき行動/感覚があります(ちなみにこの言葉自体は今テキトーに作ったのでググって頂いても1件もヒットしません)。VRChatにログインすると、ユーザは突然何の説明もなく天空の城っぽいところに放り出されます。スポーン地点の近くには大きな鏡があって、自然と鏡の前にユーザが惹かれていくようなUX設計になっているのですが、ここでユーザは鏡に映った3Dモデルが自分であると認識します。この時の感覚が非常に面白いです。「明らかに自分と違うものが鏡に映っているんだけれども、自分の身体の動きとあまりにも連動しているので、なるほどこれが自分なんだななるほどなるほど」という、違和感を解消する一連のプロセスがあるのです。腕を色々振ってみたり頭をまわしてみたりしながら、自分の神経感覚を3Dのアバターと同期させるような感覚です。ケータイを落とした時に「痛!」と感じる & 言ってしまうような感じに近いです。自分ではないものなんだけれどもなんか自分の身体のような気がしてくる感じです。
そしてこの作業、VRChatの感覚に慣れてレベルアップしてくると、ただの自己位置推定的な物理的キャリブレーションという機能だけではなく、社会的な見え方に関する自分の認識の調整機能もあるということがわかってきます。VRChatでは宇宙人から初音ミクまで、古今東西老若男女問わずあらゆるキャラクターになれるのですが、おもしろいことに、自分のアバターの設定を変えた後に(=自分のすがたかたちを変えた後に)、鏡の前に猛烈に行きたくなるという生理現象が発生します。これはなぜ発生するのか考えていたのですが、「今、自分は相手からどういう風に見えているのだろう」というイメージがないと人間は不安になってしまうからなのだと思います。社会的な動物ということですね。なので、VRChat内は鏡だらけです、色んなところに鏡が置いてあります。
また、「3dモデルを人として尊重する」ということも学べます。VRchatにきて初めて「向こう側に実際の人がいる3dモデル」と対峙するという経験をするわけです。ただのオンラインゲームのように、人がリモコンで操っている3Dモデルではありません。VRChat内で出会うアバターたちはみんな先ほど言ったようなキャリブレーションを終えて、神経がある種入り込んでいるアバターたちなわけです。3Dモデルの右手は実際の人間の右手なわけです。生まれて初めて3Dモデルに対して礼儀正しく振る舞いました。また、人として尊重する精神があるからこそ、VRチャット内で目を合わせる、手をふる、握手をする、頭を撫でる等に意味が生まれるわけです。
また、使っているうちに3Dモデルアバター社会にも慣れて、イケているアバターとイケていないアバターという感覚がついてきます。面白いのは3dモデル単体がイケているアバターが必ずしもVR Chat内でイケているわけではないところです。Unityちゃんなんかは見た目もよいですし、ダイナミックボーンの設定等も手が込んでいるように見えますが、あまりに数が多いのであんまりイケている感じがしないです。身体はある種のユニークネスがないとやはりダメなんだと思います。
自身の見栄えが制約なく自由に制御できる世の中になったら、現実世界でのファッションもおそらくこんな感じになるんじゃねえかなという感じがあります。一つ面白いなと思ったのは、身体が発光するキャラクターが割と目につくということです。UnityのモデルではEmissionの設定一つで簡単に光らせることができるということなのかもしれないですが、ある種の欲求が現れているように見えます。将来的に現実世界でも、医学や服飾技術が発達したら人は身体や服を光らせ始めるのではないでしょうか。まあ現に最近のバイオハッカーたちの流行りは手にLEDを埋め込んで光らせることらしいので、もう始まっているとも言えるかもしれませんが・・・
ご参考: The Latest Trend Among Biohackers Is Implanting LED Lights Beneath Your Skin
https://gizmodo.com/the-latest-trend-among-biohackers-is-implanting-led-lig-1741697381
(余談ですが、既製の3Dモデルだと現実世界の自分のボーンの位置と3Dモデルのボーンの位置は完全に一体化しないので、そこまで含めたオーダーメイドの3Dモデル製作をするというのも面白そうだなと思いました。そういう意味でもゾゾスーツはVR社会においても重宝されるかもしれません。)
VRChatの衝撃についてうだうだと色々書いてしまいましたが、やっぱり何より熱気が凄いです。これこそがインターネットだという感じがあります。ぜひ体験してみてください。
「琥珀さんルートや桜ルートが好きで、かつFGOのシナリオがそれと同様に面白い」という人です。
当方PLUS-DISCからなので元増田氏の言う古参寄りではあると思うのですが、琥珀さんと桜の物語が好きで、当時回りに全く理解されなかった事もとてもよくわかります。また「ガチャ」やカジュアルなソーシャル的消費要素には否定的であり、その部分がゲームの主軸ではない(特にマルチプレイや対人などバトル要素)事で続けているプレイヤーでもあります。
以下、FGOや各作品のネタバレにある程度触れている部分があります。
数々のインタビューを見ると、奈須きのこ氏はHFがユーザーの多数に受け入れられなかった事を失敗だと思っている節があります(劇場版パンフでも話を変えようという話題があったはず) それがCCCでの桜の復権を目指したテーマ性と描かれ方(別の悪を提示したのは賛否あると思いますが)であり、FGOでのマシュ・キリエライトに繋がる要素の一つでもあるように思うのです。また、彼女はFate無印でのセイバーと対になるプロットのあった没サーヴァントであり、DEEN版のアニメ化で設定が固まったなど、Fateと共に歩んできた裏のキャラクターでもあります。
そこから見た場合、FGOのマシュの立ち位置は、ある種HFのリベンジとも言えるものです。彼女は魔術の名家によって実験体となるべく作られたデザインベビーであり、教えられた目的のために生きる事が全てとして成長しました。そして、オムニバス的な物語が進む中、やがてゆっくりと人間性を獲得し、物語終盤では「人の生きる意味」を自問し、迷い、答えを出す所まで到達します(その真骨頂は奈須きのこ氏が直接書き下ろした第一部6章~終章です)
彼女と対になるのは主人公ではなく、物語のナビゲーターであるロマニ・アーキマンです。彼もマシュ同様特異な生まれで人生の選択権を持たなかったものの、「既にその問題を克服した」人物であり(結果として他の問題を抱え込みましたが)、その意味でマシュを導く鏡のような先達であり、テーマ性におけるナビゲーターでもあります。
これらは明らかに"ロボット"である衛宮士郎や、間桐桜の喪失と救済の物語など、HF(及び重ね合わせとしてのhollow)のリバイバル、リベンジと言えるデザインですが、そこに新しい要素が入り込みます。それが「主人公(プレイヤー)」です。主人公はマスターという価値は担保されているものの、(空の境界の黒桐幹也やEXTRAの岸波白野にも全くキャラクター性で敵わないほど)個性の弱い傍観者です。善性の象徴としてマシュとの絆を育み心の支えにはなっても、プレイヤーの選択肢が彼らの生き方を変化させる事も無く(ストーリー分岐が無いので)、傍観者であり第三者、という位置付けのまま物語は進みます。
そして物語の最後…第一部の結末では、hollowにおけるスパイラル・ラダーとブロードブリッジの再演の中、主人公を残し彼らは生きる意味の答えを獲得して死亡します。ですが、物語はそこで終わりません。彼らの人生、生きる意味の獲得をずっと見てきた主人公(プレイヤー)が、彼らに"続き"を託されるのです。彼らから貰った「命の答え」を声高に叫ぶ選択肢と共に。それはHFと重ね合わされながら別の物語として成った結末…「遊んでいるあなた」にその先を託す、「あなたは、彼らの人生を肯定して良いのだ」という、かつてHFを支持しながらも「評判」にかき消された、私たちへの救済のようにも感じられました。
完成した物語を俯瞰して答えを出すという行為は、hollowのアンリマユのような「主人公」の形でもあり、バゼット・フラガ・マクレミッツが前に進んだ源泉でもあります。かつて主人公とプレイヤーを重ね合わせる事ができず、数多のプレイヤーが登場人物を「理解できなかった」とされたまま完結していた作品は、形を変えたその先で別の答えを模索したのだ、と、そう思いました。
…また、CCCでも結末において「キャラクターの人生を肯定する」選択ができる構造にもなっており、FGOはその表現をさらに詰めた形である、とも考えています。
ここからは余談です。
奈須きのこ氏らはいわゆるソーシャルゲームについて、一般的な対戦や収集を軸としたバトルゲームではなく、リアルタイム性を重視した連載型ゲームとして語っている部分が多く見られます。かつてのWEB連載版空の境界、さらに戻ると氏がノートに小説を書いていた原体験に繋がるのでは、とも思いますが、2016年の年末のツイッターが盛り上がっていたのは完全にその手法の先にあるものであり、インタビューなどで何度も言及されている「漫画雑誌のような」「今追いかけている人にフォーカスした」展開方法の、その最終回の見せ方に他ならない作りでした。それは「見せ方も物語体験に入る」という考え方、「Fate」においてUBWとHFが段階的にプレイする方式になっていた考え方の先でもあるのでしょう。
このリアルタイム的演出手法は過去のエイプリルフールでも定期的に模索されていた効果の高い方法であると同時に、追いついていない・時間の合わない層を強く失望させる作りでもあります。そこに複数ライターによる(プレイヤーの受け取り方も含めた)シナリオの当たりハズレ、新たな更新を待つ期間、そしてこの作品の見せ方に本当に必要だったのか今では疑問とも思える(3分縛りの話を見るに何も考えずに入れてそうな)ガチャ要素も含めると、一概に物語を取り巻く環境全てを肯定しにくい作品とも言えます。
とはいえ、この連載型ノベルRPGとも言えるシステムが非常に希少であるのは確かで、バトルゲーム主体のソーシャルゲーム文化の中で個々のユーザーがそれをどう受け取るかが、このゲームの価値付けになっていくのだと思っています。
4章でプライミッツ・マーダーの話が出てきた時はまさかと思いましたが、本当に出てくるとは…
先日ホッテントリに上がっていた単著持ち増田のエントリを読んで、そういえば自分も増田が原因で本を書いたんだったと思い出した。
数年前、初めて増田に文章を投稿したら2000ブクマ付いた。「文才がある」「物書きとして食っていける」とか言われたので、24万字の文章を書いてKindleで出版した。ぜんぜん売れなかった。人の言うことを安易に信じてはいけないと思った。
そのあとまたホームレスになったので(2年ぶり3回目)しばらく福島で除染作業員として働いた。除染と言うと何か特別なことをしているように聞こえるけど、実はただの土木工事である。肉体労働は久しぶりだったけど、小難しいことを考えず黙々と目の前の作業に打ち込んでいると、頭の中の不純物が取り除かれていく感じがした。
そうだ、僕は物書きになりたいなんて思っていたわけじゃない。そんなものは誰かから押し付けられた「物語」でしかない。いままでも「元ホームレス→成功者になる」みたいなステレオタイプな物語を押し付けられたことは何度もあったけど、いつも心の中で蹴り飛ばしてきた。なぜ今回に限って勘違いしてしまったのか。
福島では相馬市の松川浦という観光地にある旅館に住んでいた。国からの補助があるので宿泊費はかからなかった。旅館だけあって飯がめちゃくちゃうまかった。直前までわりと本気で食うや食わずの生活をしていて、就業前の健康診断で「就労可能です」のハンコの横に「貧血症――経過観察お願いします」とか書かれるレベルだったけど、1か月で元の体重に戻れた。
そしてこういう現場に集まる人間というのは基本的にろくでなしばかりである。入ったばかりの給料を数日で飲み代やパチスロに使ってしまい、すぐに前払い制度を利用するはめになるような、そんな人間ばかりだ。同じろくでなしとして、とても居心地がよかった。やはり自分はこちら側の人間だと思った。
そんなわけでしばらくここに居着こうと思ったけど、東北の夏は意外と暑かった。僕はそれまで日本の東側に来たことがなく、東北の夏なんて京都盆地の夏に比べたら余裕だろとか思ってたけど、ぜんぜん余裕ではなかった。しかも仕事中は半袖作業服禁止で、手袋は三重、さらに安全長靴にヘルメット、高性能防塵マスクというフル装備で、炎天下の中、延々と作業するのだ。このままでは干物になってしまうと思い、涼を求めて北海道へ行くことにした。
割のいい仕事をしたおかげで金はそこそこあったので、JRの青春18きっぷを使って道内をしばらく旅した。
旅の途中、いろんな人に出会った。日本一周中のライダーやチャリダー、本州でこういう人に出会う機会は少ないけど、北海道ではさほど珍しくない。彼らには独自の文化があるようだった。こういった旅人向けに格安で宿を提供するライダーハウスの存在も教えてもらった。ライダー専用のところもあれば、旅人なら誰でもウェルカムみたいなところもあるようだ。
美瑛にある「蜂の宿」というライダーハウスはめちゃくちゃ居心地がよくて、しばらく沈没してしまった。同じように沈没中の旅人が多く、宿を出るときは少しバツが悪くて、朝早い時間、夜逃げのように出発した。稚内の飲み屋では一人旅の女性客に「函館に住んでるから着いたら連絡してね」と電話番号を渡された。でもいざ函館に着いて連絡しようとしたらだんだん死にたくなってきたので忘れてたことにして函館を後にした。小樽のライダーハウスではなぜかオーナーに気に入られて「上の階の空き部屋に住んでいいよ」と言われたけど、結局置き手紙だけ残して去ってしまった。
そんないつも通りのあれこれがありつつ、最終的に札幌でクソボロいマンスリーマンションを借りて住み始めた。
石狩平野はドカ雪が多い地域で、昨日まで普通だった街の景色が、朝起きたら突然、一面の銀世界になっていることも珍しくない。人の背丈より高く積み上げられた道路脇の雪。凍った路面をすいすいと歩いていく人たち。数センチの積雪で大騒ぎになるような地域に住んでいた僕には、すべてが新鮮だった。海外を旅したときも自分がいかに世間知らずかを思い知らされたけど、同じ日本でも住む土地が違えばこんなに空気も文化も違うのかと思う。
そうだ、僕はあまりにも世界を知らなさすぎる。ホームレス経験があるからなんだというのだ。「なんでも知ってるゲンさん」みたいなステレオタイプなキャラクターはどこにも存在しないということがわかっただけじゃないか。インドや東南アジアを旅したからなんだというのだ。日本の近所をちょろっと見てまわっただけじゃないか。アメリカにもアフリカにもヨーロッパにも行ったことがない。政治も経済も科学も宗教も、本当に何も知らない。
もっと世界を知りたいと思う。いままで自分ひとりで知識や経験を積み重ねてきたけど、もう限界だと思った。独学には「体系的に学べない」という決定的な限界がある。だから大学へ行こうと思った。もっと世界を知るために、僕には高等教育が必要なのだ。
しかし僕は中卒なので大学へ行こうにも受験資格がない。まずは高認(旧大検)を受ける必要があった。とりあえず過去問にざっと目を通してみると、文系科目は特に対策しなくても合格点を取れそうだったけど、理系科目は壊滅的だった。数学なんて問題文の意味さえわからない。やべえよ。
コールセンターでWindowsのテクニカルサポートの仕事をしつつ、参考書と格闘する日々が始まった。途中で何度も心が折れそうになったけど、数学が扱うのは実体のある数(かず)ではなく、数(すう)という概念なのだということがわかってから、唐突に理解できるようになった。数を感覚的に扱えるようになり、数式の手ざわりがわかるようになった。
勉強時間の半分くらいを数学に費やしたおかげもあってか、本番の試験では90点を取れた。分数の足し算すらあやしかった状態からここまで持ってこれたのだから、まずまずの結果だろう。国語は無勉強で満点取れたので、読解力は普通にあるようだ。他人の評価は主観が混じるので話半分に聞くけど、こういう機械的な評価は信用できる。英語も無勉強で満点取れるかと思ったけど、2問ほど間違えた。どちらも穴埋め問題だ。自分でも文法力が足りてないことは自覚していたけど、やはりその通りだったようだ。他の教科もなんとか70点以上をマークし、無事、高認に一発合格した。
これで大学受験の資格は得た。学力はまだぜんぜん足りてないけど、土台部分は構築できたはずだ。これからさらに何年かかけてこの上に知識を積み重ねていくとして、次に考えるべきは資金の問題だろう。無給で4年間大学に通うなら最低でも800万、できれば1000万は貯金しておきたいところだ。しかしこの額はさすがに札幌の労働単価では厳しい。やはり稼げるところに行くべきだと思い、住んでいた部屋を引き払ってまたホームレスになり(2年ぶり4回目)今度は東京へ向かった。
ちなみに僕には家族も友達もいないので、こういうときバックパックに入りきらない荷物はウェブ管理可能なトランクルームに預けるようにしている。ダンボール1個分の荷物を月数百円で預かってくれて、いつでもウェブから出庫できるので、こういう生活スタイルにはとても便利な存在だ。
いままであちこちを転々としてきたけど、東京に来るのは初めてだった。西成で暮らしていたときに山谷の話は聞いたことがあったので、まずはドヤで当面の寝床を確保する。西成みたいに1泊1000円前後で泊まれればしばらくそこで暮らそうかと思ってたけど、2000円前後が相場のようだったのでドヤ街からは早々に引き上げ、少し北上して南千住駅近くにあるシェアハウスの一室を借りて住み始めた。
次は仕事だ。自分の持つスキルの中で最も金になるのは、やはりプログラミングだろう。上京する前にリハビリとして最新技術はひととおりさらっておいたし、その経緯を文章にまとめてQiitaに投稿しておいた。なぜかその記事は「文学作品」という評価を受けたけど。技術記事なのに……なんでや……。しかし職探しのときにその記事をポートフォリオとして使ったらめちゃくちゃウケがよかった。東京はエンジニアが不足しているとは聞いていたけど、これほどとは。仕事も多ければ単価も高い。いままで自分が住んだことのある都市と比べると、京都・札幌の倍以上、大阪の1.5倍以上の単価だと思う。
そんな感じで生まれて初めて金に困らなくなった(!)ので、まずは渋谷に引っ越した。JR渋谷駅のホームまで徒歩5分のマンションなので、主なオフィス街は自宅から30分以内で行けるし、渋谷にある会社ならもちろん徒歩圏内だ。ジュンク堂(東急)まで徒歩10分くらいで行けるのもすばらしい。近くに庶民派スーパーがないことだけが難点だけど、西友のネットスーパーに助けられている。いつも配送ありがとうございます。
次にPCを買い換える。生活スタイルの問題もあってここ数年はずっとノートPCを使ってきたけど、東京には腰を据えて何年か住む予定なので、ハイエンドデスクトップPCを買うことにした。WindowsとLinuxどちらも使いたかったので、これまで通りデュアルブートにしようかと思ったけど、切り替えが面倒なのでWindows上の仮想マシンとしてLinuxを動かすことにした。開発は基本的にその中ですべて完結させるので、仮想マシンの中でさらに仮想マシンを動かす場面も出てくる。こういう使い方だとそれなりにスペックが必要だろうと思い、CPUはi7-7700K、メモリは64G積んだ。どうせハイスペックにするならいっそVR Readyにしようと思い、グラボは1080Tiにした。そんな感じでいろいろぶっこんでいったら最終的にPC本体だけで40万かかった。さらにDELLの34インチ曲面モニタ、東プレの変荷重キーボード、HTC Viveとデラックスオーディオストラップ、等々、もろもろ合わせて最終的に総額60万以上かかった。半年かけて海外を貧乏旅行したときの旅費を軽く超えててさすがに草生えた。
2017年末になってもVR市場は未だ揺籃期の様相を呈している。キラーコンテンツとなりそうなゲームはちらほら出始めているものの、起動直後の「おお! VRすごい!」からその後が続かないものが多い。
そんな中で僕がハマったのはQuiVrという弓ゲーだった。ゲーム中で何度も繰り返す矢を放つ感触がとにかく素晴らしく、現時点で250時間プレイしている。まだアーリーアクセスだけど、毎週コンスタントにアップデートが続けられていて、次々と新しい要素が追加されていくのも飽きない理由だと思う。でもその分バグが多く、プレイしていてだんだん腹が立ってきたので、Discordに乗り込んでバグ報告しまくっていたら、いつまにかベータテストに参加するようになっていて、いまではランキング上位プレイヤーのひとりになっている。
Rec Roomもおすすめしておきたい。ユーザーコミュニティがとても活発なソーシャル系VRゲームで、RedditやDiscordを覗くと、運営とユーザーが一丸となって、いいゲームにしていこう、いい場にしていこうと努力している様子がうかがえる。そのおかげか、マナーの悪いプレイヤーが非常に少ない。ハラスメント行為等はほぼ皆無と言ってよく、Fワードを使っている人さえあまり見かけないほどだ。ゲーム自体も、チーム戦のペイントボールやレーザータグ、協力プレイのアクションRPG風ゲーム等、無料とは思えないほどのクオリティの高さなので、VR機器を持っている人はぜひやってみて欲しい。
そしてそのRec Roomよりさらにコミュニティが活発なのがVRChatだ。もはや活発という次元を超えてカオスと言っていい。半年前に初めてログインしたときは10~20人くらいのユーザーがHub(ログイン直後のワールド)で適当にダベっていて、他のワールドにはまったく人がいない、みたいな閑散とした状況だったのだけど、今月初旬に同時ログイン数が1000人を超え、Discordオンラインメンバー数は2000人を超えた。現在は同時ログイン数3000人を超し、Discordオンラインメンバー数は4000人を超すような状況だ。どうも有名なYoutuberや、Twitchの有名生主といったインフルエンサーが最近こぞってVRChatを取り上げているようで、この爆発的なコミュニティ拡大はまだ収まる気配がない。デスクトップモードがあるので参加するだけならVR機器が不要だというのも大きいか。
Rec Roomとは違いVRChatはコミュニケーション主体のソーシャル系VRゲームだ。ミニゲームは前者に比べて見劣りするものの、ユーザーカスタムのアバターやワールドが自作・公開可能で、これが海外のオタクたちの創作意欲を刺激したのか、黎明期のニコ動を彷彿させる盛り上がりを見せている。こういった事情によるためか、もしくは別の何かが彼らをひきつけたのか、実際のところはわからないが、VRChatのユーザーはほとんどが日本のアニメフリーク・漫画フリークだ。ユーザーカスタムのアバターはそれらに影響を受けたものが多く、美少女キャラやロボットやモンスターが目の前を行き交う様は、まるで攻殻機動隊の電脳空間のようだ。とはいえ現状では4chan的な文脈そのままの著作権ガン無視状態なので、前述の爆発的なコミュニティ拡大にともなって近いうちに問題になることが予想される。なんとかソフトランディングして欲しい。
しかしこの未来感すさまじい仮想現実の世界にいると、なぜか昔のインターネットを思い出す。特にテレホーダイ時代の2ちゃんねるのことを。夜の11時を過ぎると一気に人が集まり、どこの誰とも知らない人たちと一晩中バカ騒ぎをして、朝になるとネット全体が静まり返っていた、あの懐かしきオールドインターネット。VRChatをやっているとあの頃の記憶が蘇ってくる。ドイツ人にドイツ語を教えてもらったり、サウジアラビア人にアラビア語を教えてもらったり、台湾人に3Dマーカーペンで中国語を書いてもらって「おおー、漢字の意味なんとなくわかるー!」とか感動したり。そんな多種多様な国籍・人種の人たちとアニメについて語り合ったり、アニソンをみんなで大合唱したり。MMDナイトクラブというワールドでMMDモデルのダンスが見られるのだけど、ステージ上で踊る初音ミクを囲んで、みんなで一晩中踊り明かしたりもした。マジでなんなんだこのカオスな空間は。しかしこれだ。これがインターネットなのだ。夜明け前の静けさと、どこか熱に浮かされたような興奮。それらが齟齬なく同居する、この奇妙な感覚。久しく忘れていたこの感覚を、強烈に思い出す。
でもいちばん印象深かったのはラノベの朗読会だ。ある日、いつものように適当に外国人たちとダベっていると「いまからショーが始まるから来ない?」と誘われた。開かれた転送ゲートをくぐってみると、その先は100人以上収容できる劇場のワールドで、さまざまなアバターの人たちが観客席に座っていた。舞台上の主催者とおぼしき人は「みなさんお好きな席にご着席ください。いまから『転生したらスライムだった件』の朗読を行います」とか言っている。え、どういうこと? と思う間もなくショーが始まる。やたら渋い声で、VRならではの身振り手振りも混じえて、感情表現豊かに読み上げられていく、まだアニメ化すらされていない日本のラノベ(正確にはウェブ連載版の英訳版)。ああ本当に世界は広いんだと思った。自分の知らないことなんて星の数ほどあって、そのすべてを知ることは絶対にできないんだと、少し胸が苦しくなった。
と、最近はVRの世界にどっぷりだったのだけど、遊んでばかりいたわけではなく勉強もしていた。特に英語だ。いままでリーディング、リスニングについてはそれなりにできていたのだけど、文法力がないのでライティング、スピーキングに関しては壊滅的だった。しかしVRを始めてから英語圏のコミュニティで英文を書いたり、VRゲーム内で英語を話したりする場面が増えてきたので、文法を基礎からじっくりとやり直した。二十代の頃に文法をみっちりやったときは死にそうになるくらいしんどかったけど、今回はそうでもなかった。やはり目的があると吸収力が段違いだ。そのおかげか、ライティングに関しては文法間違いがかなり減ったように思われる。スピーキングはいまでもだいぶあやしいけど。客観的かつ機械的な判断が欲しいので、来月久しぶりにTOEICを受ける予定だ。10年前に受けたときのスコアは680だったけど、今回の目標は800に設定している。2年後くらいには900を目指したい。ここまで英語力を上げておけば、大学受験の際にかなりのアドバンテージになるはずである。
あとはやはり数学だ。英語の勉強が一段落したら、数Iの復習から始めて、数IIへ進む。僕が受験しようとしているのは文系(経済学部)なので必要ないかもしれないけど、余裕があれば数IIIに関してもどんなものかくらいは頭に入れておきたい。前回の勉強のときに、数学は小さな理解と小さな納得を積み重ねていくしかないということが身にしみてわかったので、この科目に関してはじっくり腰を据え、時間をかけて少しずつ勉強していくつもりだ。
国語に関しては受験前に赤本で少し対策すればいけそうなので、あまり心配はしていない。その他の科目は最悪捨ててもいいけど、時間があれば知識を少しずつ補填していこうと思う。
こんなやり方で本当に大学に行けるのかはわからない。すべてが手探りだ。たとえ行けたとしてもその先のことはわからない。この歳で「大学を目指している」なんて言うと、先のキャリアを見据えてのことなんだろうと勘違いされることが多いけど、僕の場合、本当に何も考えていない。大学で政治や経済を学んで自分が何をしたいのかなんてまったくわからないし、それが金になるとも思えない。卒業したあと食い扶持が稼げなくて野垂れ死ぬかもしれない。その可能性は決して低くない。以前と比べれば多少はマシになったように思えても、やっぱり基本的に僕はバカなんだと思う。
でも同時に、それでいいとも思う。行動に理由なんていらないのだ、と。行動の理由なんて事前にいくら用意したところで、たいていの場合、それは建前やこじつけでしかなく、本当のところは後になってからしかわからない。ミネルバのフクロウなのだ。後になってからしかわからないなら、後になってから知ればいい。いまは行動するだけでいい。そう思う。
先日、久しぶりにKindleのストアページを見てみたら、あの24万字の本へのレビューが1件増えていた。
やっぱり僕はこれでいい。こうして増田で誰に宛てるでもなく近況報告をしたり、Steamに長文レビューを投稿したり。誰が読んでいるかもわからなくて、でもたまに反応があったりして、それが少しくすぐったくて。
特別なことなんて何も起きなくていい。夢も希望もなくていい。
人生に物語は要らない。
広告業界の片隅にいる増田です。友人・知人がたくさん電通にいるのですが、彼らが普段水を得た魚のようにやっているFacebookで、今回の岸勇希氏セクハラ事件に関する言及がゼロ、他人のシェアへのいいねなどの反応もゼロです。12/17の日曜日に記事は掲載されたわけですけど、恐らくその直後に緘口令が敷かれたんだと思います。残念な会社ですね。
ところで、最近の広告業界というのは「ソーシャルグッド」という言葉が流行っていました。英語だけど分かりやすいですよね。「社会的に良いこと」です。なぜ流行ってたかと言うと「ソーシャルグッド」なものが広告業界の賞をここ数年取りまくっていたということがあります。まさに今回の事件の加害者である岸氏もアクアソーシャルフェスというトヨタの広告で、 グッドデザイン賞などを取っています。これの概要が「ソーシャルグッド」をよく表していると思いますので引用します。
「企業の広告費を変えたら、社会が変わる。広告費の使い方をデザイン。」 AQUA SOCIAL FES!!は、TOYOTAのコンパクトハイブリッドAQUAのキャンペーン。水をきれいにする全国50の様々な活動に参加できるプラットフォームである。本キャンペーンの新規性は、「広告費で社会貢献活動を実現」した点。これまで企業予算からしか行われなかった社会貢献活動を、明確に販促のためとして広告費を利用することで行ったフレームは、広告が社会を変える新しい取り組みである。週末毎に各地で開催をくりかえし、今年はすでに約100回開催。年末までに全134回を開催、来年以降も中長期的に続けていく。
引用してみて思いましたが、素晴らしいですね。ディレクターは残念な人だったわけですが。
この言葉が流行り始めた時、大体2013年くらいですが、正直に言って引いたことを覚えています。電通の根本的な働き方や姿勢が全くソーシャルグッドでないのに、ソーシャルグッドな広告を作り、賞を取って、外にはこれからはソーシャルグッドですよ〜って言っていく。まったく説得力がないと私は感じたのですが、企業的には受けてたようで、順調に広がってきました。そんな様子を見て「隗より始めよ」という言葉を業界の人は知らないんだろうなって思いましたよ、本当に。
「ソーシャルグッド」の理念はとてもいいのですが、制作物の目的に据えるよりも、まず自分が属している企業や自分自身の身近なところから変えていくべきです。それをしなかったので、本当に気味が悪かった。片方では「ソーシャルグッド」を唱えるのに、法令違反、パワハラ、セクハラは相変わらず横行し、社内で自殺者が出る。それがここ数年でした。今回の件で少しでも変わってくれたら、片隅の私にとっても僥倖ですが、どういう成り行きを見せるか、正直不安です。
厳密に言うと「ソーシャルゲーム」とはSNS上でプレイできるゲームのことなんだけど、
それ以外のブラゲもSNSの衰退に伴って「いろんなSNSとアカウント連携できる」程度になってしまっている。
なのでもう「ソシャゲ」という表現はどう頑張っても実態に即さないし、
その呼称を使ってる人たちもガラケー時代からの習慣で使ってるだけ(「写メ」と同じ)。
あるゲームで勝つために億単位の金を使って株主になった知人がいるけど、課金することで上位に行けるようなpay to winの要素がある時点で「自分の限り有る時間を消費してゲームの開発会社に所属し情報を得る」というのは許されることだと思う。
なので邪悪であると思うのは勝手だけどインサイダー取引のように法律上罰則が存在していないソーシャルな戦いの場での社員が情報を有利に利用する、または利用することは懲罰を与えるほどの悪ではないと法律は定義されているじゃないかな。
なのだが、ワクチンどうこうと関係なく村中氏に関するモヤ感が拭えない
たとえば受賞インタビューで
”A daughter of the governor of Tokyo, a director of NHK, the public broadcast station in Japan, and a close friend of the victims’ organization, was keen on finding out where I lived and who my family members were. My family and I received threatening messages.”
都知事の娘のNHKディレクターから脅迫を受けたと言っているのだが、小池都知事には娘はいない
過去の都知事だと猪瀬氏の娘はNHKに勤めているという噂はある
https://plaza.rakuten.co.jp/yasushinori/diary/201312200001/
ただ猪瀬氏が知事だったのは2012年末から2014年3月まで、相当前の話だ
また池田医師が法的な脅しをかけているように書いているが、「捏造」については村中氏ら自身が「マウス実験が科学的に稚拙だという評価を言っているだけだ」と事実上「捏造」との主張を撤回している
http://d.hatena.ne.jp/shimizulaw/20170215/1487150271
英語だと読まれないと思っているのか、日本語の壁を利用していいかげんなことを言っているのではないか
村中氏については過去にも疑問が出ていたが、安易に乗っかるととんでもないところに連れて行かれそうな危うさがある
https://anond.hatelabo.jp/20160622195905
https://anond.hatelabo.jp/20160624124427
なんとなくだが、某O女史に似たソーシャルクライマーの匂いが拭えない
杞憂ならよいのだが