はてなキーワード: ソーシャルグッドとは
民間の非営利団体による社会的課題に対する(時には発見するところからの)アクションにはいろいろ細かい種類がある。管轄官庁の違いであったり。ボランティア活動とイコールではないが連続していたり。そのへんをひっくるめたズバリの一語がないので、ここではざっくり「非営利団体(の活動)」と呼んでおく。
日本で「NGO」と言うとなんか国際的に活動してるニュアンスがつくし。
非営利団体の役割は、行政による社会福祉の補完であるという。近い所で、官民パートナーシップとか新しい公共といった枠組みも近年提示されているな。
行政の補完的存在というのは勿論それはその通りなのだが、枠組みとしてはごもっともでも、補完という言葉のイメージから「安上がりな下請け」と捉えられかねない危うさについては注意喚起しておきたい。
ボランティア団体やってる人で「行政のしりぬぐいをしてやってる」みたいなことを言う人がよくいる。これは「下請け」の裏返しみたいなものだ。行政がやるべきことを自分が善意で肩代わりしてやってるという意識は活動の可能性・想像力をあらかじめ縛ってしまう。
行政に従属的でも対立的でもなく、必要な連携をとりつつ自由に動いた結果が相補的相乗的効果を生むというのが一番理想ではある。
もともとの出自として地縁による互助システムの後継的存在というのも無論誤りではないのだが、非営利団体の活動って別に「助け合い」的なことに限るものではない。それもまたイメージによる桎梏の一つではある。
自分としては、非営利団体活動とは単純に社会の中の余力的なリソースをかたちにする手段の一つであると捉えている。政治行動(投票とか)、経済活動(起業とか)に並列的な位置づけのものだ。
たとえばオープンソースのソフト開発、リナックスコミュニティみたいなのがまさにその代表例と言っていいだろう。政治の論理や商売の論理とはちょっと違うルールで、人々の持つリソースを結集させて社会に役立つ形にすること。
地域の助け合いとか「顔の見える活動」「心に寄り添う活動」とか、「非営利団体活動シーン」でよく言われるそういうものばかりが非営利団体のあるべき姿ではない。
さて、あなたは非営利団体が活きるフィールドの例として災害ボランティアを挙げている。
ある意味ではほんとうにそう。民間有志の力がうまく使われれば災ボラくらい非営利活動に「向いてる」分野はないだろう。でも実際のところ、言うほどうまくは行ってない。
めちゃくちゃもったいないことになっている。
現にあれやこれややってるじゃないか、みんなの骨折りを全否定するのかと言われればもちろんそういうことではない。リソースを活かすシステム(の不在)の話だ。神戸の震災時が本邦災ボラの黎明期だとしたらいまはせいぜいが中世の暗黒時代というところだ。
まあこのことについて具体的に詳論しだしたらキリがないので…。
非営利団体の情報公開のありかたについて、ネットの鵜の目鷹の目でやいのやいの監視するのがアホらしいのは全くその通り。
DX的なことだとかの、テクニカルなフォーマット作りの議論が必要というのも全く同意。
そういう具体的方策以前のちょっと理念的な話として、以前増田に書いた記事中で「情報公開は非営利団体活動の命綱」「コンプライアンスは足かせでなく指針とすべき」といったことを述べた。
https://anond.hatelabo.jp/20221206001603
例えば、ウクライナとロシアの「情報戦」「宣伝戦」の巧拙の格差を見よと言いたい。
ウクライナはまさに「情報公開」を命綱として支援を呼び込んで戦い続けている。
(もちろん後々色々と醜いものも明るみに出てくるだろうが)
ウクライナはお涙頂戴で各国の慈悲にすがっているのではない。率直に要求を述べているし、率直さによって一定の信用を得ている。
ものすごく不謹慎な言い方になるが、ウクライナはコンテンツを生んでいるのだ。命を引き換えに、だけど。ウクライナが公開する情報は、我々にとって価値あるものだ。そこで我々は納得して支援の金を出す。
非営利団体は監視されていやいやながらに情報小出しにするんじゃなくて、攻めの姿勢で情報出しまくってそれを「売り」にするべきだ。
社会貢献的な活動に興味はあってもそれに割く時間や労力は捻出しにくいという人は多くいる。直接参加できない人が、実際の支援の現場でどういうことが行われているのかという情報を受け取った上で、活動に対する投資の意味で寄付をする。
そういう経路を作り出すことができたら「どうやって見張るのか」なんていう問題は問題ではなくなる。
個人の直接の寄付と公の補助金とはイコールではないけど、間にワンクッション入るだけで出どころはみんなの懐なんだし話の骨子はかわらない。
■ブコメ指摘「ロシアはデマ攻勢仕掛けてるだろうが!」あ、それはほんまにその通り。例え話として、持論を述べる上で都合がいい部分だけのつまみ食いになってる。ツッコミアザス
■追記
いわゆるソーシャルグッドな活動の資金調達方法としてクラファンがある。
エモいストーリーがくっついてたりしてバズったものにだけ支援が集中するのではないか、そのせいで俗受け狙いのアピール合戦になり、活動そのものも歪んでいくのではないか。同情の集まりやすい「ウケる弱者」の取り合いやウソつき合戦になるのではないか。あるいは分断を煽ることである陣営からの集金を狙う、邪悪なハックが行われるのではないか。
そういう危惧は当然にあるし、実際そういう状況は生じている。
でも、マスの生理としてそういう(エモいものに殺到する)傾向があるからと言って、世の全員がそうなわけではない。
世間的にそこまで話題でなくても、自分の興味あるニッチな分野で、何をどうしようとしてるのか具体的によくわかる(情報公開がしっかりなされている)活動に支援したいという需要だってある。
今回の件はアンチフェミの文脈よりかはソーシャルグッド界隈の不祥事という文脈の方が強いように思えるな。
もちろんその周囲で騒いでるのはアンフェ界隈なのかもしれないけど。
ここ1~2年の間にべてぶくろの性暴力問題やSOAR鈴木悠平の性暴力問題、東京シューレ性暴力加害事件、cotreeのパワハラややりがい搾取問題と炎上が続いたでしょ。
Colaboの問題もその辺の問題の延長線上にあると俺は思うなー
要するにその手のNPOはガバナンスがガバガバだし身内にはクソみたいに甘いから何か問題が起こっても隠蔽しようとするし、平気で利用者を搾取するわけよ。
そういうのをそろそろ考え直したらどうなんだ?って。
少し前の話。昔の知人がソーシャルグッド系の団体を立ち上げていたのがSNSで流れてきた。へえとページを見ていたところ、テーマが多様性を支援し、すべての人に自己肯定感をみたいな内容だったので言葉を失った。
なぜかというと、その立上げ人物の欄にパワハラ加害者の名があったからだ。実はわずかな期間一緒に働いたことがあるのだが、観測した範囲で2名は精神病院送りにしており、素直に応援できない何かがあった。ついでに多様性とか言っておきながらやや激しめの容姿いじりなんかも日常的にしていたことも忘れない。
もう関係のない人物だから、晒そうとか懲らしめてやろうとは思わないのだが、この「自分にとって良いことを言う者のみを内側に取り込む感じ」に吐き気がした。
増田も彼らを糾弾できるほど潔白な人生を送ってきたわけではないが、なぜよりによってパワハラをしてしまう立場の人が人権やら多様性やらメンタルヘルスケアを標榜する団体を立ち上げてしまうのか。
団体のSNSや応援メッセージのリツイートを眺めているが、見事に仲間内ばかりでなにが多様性だよと思う。
多分これからも人の多様性を認めるとかソーシャルグッドを標榜して自己肯定感 を満たす人間を信じられない。そんなことを言えるのは、すでに権利を持っている側で支配する側の人間だけだよと思う。
#metoo やソーシャルグッド界隈の騒動とか、性加害をはじめとする「告発」が近年増えてるけど、それらをどう受け止めればいいのかよく分からない。
加害者当人たちも加害を認める発信をしていたり、メールのやり取りなどの証拠があったり、メディア取材による裏取りがある場合はまだしも、
それらがない、被害者の発信しか存在しない場合は、申し訳ないけどそれを鵜呑みにして憤ることはできない。
そもそも、たとえ内容が事実であっても名誉毀損になりかねない以上、「○○は最低だ!」と被害者と一緒になって表明することには抵抗がある。
「被害者の告発に疑いの目を向けることも二次加害」「加害者のことを応援するのも二次加害」なんて言われてしまうと、被害者が傷つくことが全て「二次加害」扱いされているようでとても違和感がある。別に加害者の行為を擁護しているわけでもないのに。
広告業界の片隅にいる増田です。友人・知人がたくさん電通にいるのですが、彼らが普段水を得た魚のようにやっているFacebookで、今回の岸勇希氏セクハラ事件に関する言及がゼロ、他人のシェアへのいいねなどの反応もゼロです。12/17の日曜日に記事は掲載されたわけですけど、恐らくその直後に緘口令が敷かれたんだと思います。残念な会社ですね。
ところで、最近の広告業界というのは「ソーシャルグッド」という言葉が流行っていました。英語だけど分かりやすいですよね。「社会的に良いこと」です。なぜ流行ってたかと言うと「ソーシャルグッド」なものが広告業界の賞をここ数年取りまくっていたということがあります。まさに今回の事件の加害者である岸氏もアクアソーシャルフェスというトヨタの広告で、 グッドデザイン賞などを取っています。これの概要が「ソーシャルグッド」をよく表していると思いますので引用します。
「企業の広告費を変えたら、社会が変わる。広告費の使い方をデザイン。」 AQUA SOCIAL FES!!は、TOYOTAのコンパクトハイブリッドAQUAのキャンペーン。水をきれいにする全国50の様々な活動に参加できるプラットフォームである。本キャンペーンの新規性は、「広告費で社会貢献活動を実現」した点。これまで企業予算からしか行われなかった社会貢献活動を、明確に販促のためとして広告費を利用することで行ったフレームは、広告が社会を変える新しい取り組みである。週末毎に各地で開催をくりかえし、今年はすでに約100回開催。年末までに全134回を開催、来年以降も中長期的に続けていく。
引用してみて思いましたが、素晴らしいですね。ディレクターは残念な人だったわけですが。
この言葉が流行り始めた時、大体2013年くらいですが、正直に言って引いたことを覚えています。電通の根本的な働き方や姿勢が全くソーシャルグッドでないのに、ソーシャルグッドな広告を作り、賞を取って、外にはこれからはソーシャルグッドですよ〜って言っていく。まったく説得力がないと私は感じたのですが、企業的には受けてたようで、順調に広がってきました。そんな様子を見て「隗より始めよ」という言葉を業界の人は知らないんだろうなって思いましたよ、本当に。
「ソーシャルグッド」の理念はとてもいいのですが、制作物の目的に据えるよりも、まず自分が属している企業や自分自身の身近なところから変えていくべきです。それをしなかったので、本当に気味が悪かった。片方では「ソーシャルグッド」を唱えるのに、法令違反、パワハラ、セクハラは相変わらず横行し、社内で自殺者が出る。それがここ数年でした。今回の件で少しでも変わってくれたら、片隅の私にとっても僥倖ですが、どういう成り行きを見せるか、正直不安です。