はてなキーワード: ミケランジェロ・アントニオーニとは
『[翻訳] ドヌーヴ「女性を口説く権利」 全訳』を掲載された方が、"la liberté d'importuner"を「ウザがられる自由」とお訳しになったのはなかなかの技だと思うのですが、惜しいことに、この全訳はかなりの数の誤訳を含み、その結果、多くの箇所で、原文の文意を正しく伝えていません。
以下、大急ぎで、主だった誤訳箇所を列挙し、元記事(http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)の正確な読み取りに基づく改訳を提案しておきます。「✖」で誤訳箇所を示します。「⇒」でその部分について、正確であろう訳文の例をを示します。ご検討ください。
⇒また、女性に対する慇懃な振る舞いを女性を傷つける男性優位の態度と見なすのは間違いです。
✖正しく意識されるようになった。
⇒意識されるようになったのは正統なことだ。
✖いわゆる普遍の名の下で、
⇒誰にとっても善いのはこういうことだと勝手に決めて、
✖実際、報道メディアやソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力の加害者と同じ俎上で糾弾することだった。
⇒事実、#metooを通して、報道メディアやソーシャルネット上に密告と公の場での告発のキャンペーンが発生した。犠牲になったのは、性暴力の加害者たちとまったく同じ俎上に乗せられ、抗弁の余地も弁明の余地も与えられない人びとだった。
✖「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝のモラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性を保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。
⇒「豚野郎」どもを屠殺場へ送り込もうとするこの熱病は、女性が自律的になるのをいささかも助けない。それどころか、実際にこの熱病から利益を得るのは、性の自由の敵たち、宗教的過激主義者たち、最悪の反動家たち、そして、実体論的な善概念とそれにともなうヴィクトリア朝風のモラルの名において女性を一種「別扱いの」存在と、大人の顔をしていながら子供のように庇護されることを求める存在と見なす人びとなのである。
✖ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性差別」で
⇒ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性蔑視」で
✖「やりりたいこととやりたくないことに」
⇒「してもいいと思うことと、するのはいやだと思うことに」
⇒人の気分を害する自由
✖彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、それが犯罪だからといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。
⇒彼女は彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意することができる。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、痴漢行為が犯罪と見なされるからといって、一生涯続くトラウマを植え付けられたとは感じないでいることもできる。
✖評判だおれだったとさえ考えてもいい。
⇒さらには、大した出来事ではなかったと考えることさえできる。
✖女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。
⇒私たちは女性として、権力の濫用を告発することを超えて男性たちとセクシャリティへの憎しみとして表れるフェミニズムに強い違和感を覚える。
⇒ウザがられる自由が男たちの側にあってこそ意味を持つと私たちは考える。
✖そして私たちは、このウザがられる自由にどう応えていくかを知らなければならない。性的な獲物の役割に閉じこもる以外のやり方でだ。
⇒そして私たちは、このウザがられる自由に対して、獲物の役割に閉じこもる以外のやり方で対応する能力を持っていなくてはいけない。
✖子供を持つことを選んだ人々のために、
✖娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分の人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。
⇒自分の娘たちが、〔性について〕気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生をのびのびと生きるのに十分なだけの知識を得て意識的になるように育てることこそ適切だと考えている。
✖たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性は尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。
⇒女性の身体に関与するアクシデントは、必ずしもその女性の尊厳を傷つけるわけではなく、ときにきわめて辛いものであっても、そのアクシデントを理由に当該女性を終身犠牲者のように考えるのは必ずしも適切なことではない。
以上。
淀川長治がキネマ旬報年間ベスト10で最高点をつけた洋画のリスト
1950年 自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)
1958年 白夜(ルキノ・ヴィスコンティ)
1961年 素晴らしい風船旅行(アルベール・ラモリス)
1965年 81/2(フェデリコ・フェリーニ)
1967年 欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ)
1968年 2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)
1974年 フェリーニのアマルコルド(フェデリコ・フェリーニ)
1975年 ザッツ・エンターテインメント(ジャック・ヘイリー・Jr)
1976年 トリュフォーの思春期(フランソワ・トリュフォー)
1978年 家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ)
1980年 ルードウィヒ/神々の黄昏(ルキノ・ヴィスコンティ)
1987年 グッドモーニング・バビロン!(タヴィアーニ兄弟)
1988年 ザ・デッド(ジョン・ヒューストン)
1989年 生きるべきか死ぬべきか(エルンスト・ルビッチ)
1990年 フィールド・オブ・ドリームス(フィル・アルデン・ロビンソン)
1991年 シェルタリング・スカイ(ベルナルド・ベルトルッチ)
1994年 オリーブの林をぬけて(アッバス・キアロスタミ)