はてなキーワード: 気づきとは
最初に、この文章を書けている時点で、今のところまだ先にいってないと思う。死というのはいざ向き合うとあまりに恐ろしくて通常の精神では選択したりできない。
自死した者たちはショックや高揚感で頭が一杯になるからそれを克服できてる。愚痴を装って助けを求めたりは一切しない。
準備している間も感情が薄れるからもたもたしていると直前に怖くなってしまう。ここらへんは安楽死と複数回出てきてるからもうわかってるかもしれないが。
そして私もこれとよく似た状況にある。無能であることが、他人に憐れまれることが、有能でないとそこ(社会や職場)にいてはいけないという思いを強くさせる。
この感情の正体は不安であり、無能が原因で集団からリジェクトされるのではないかという恐怖心でもある。こう考えるに至った経緯は幼少期の体験かもしれないし、親の態度かもしれないし、読んだ物語や友達の態度かもしれない。
私については何となくこれだと言えるのは小学校の頃いじめられていたときに、マンガの貸し借りというギブアンドテイクのような形で少数の仲間を無理に獲得したことだ。こちらから差し出すものがなければ、集団にはいられないという刷り込みが発生したのかもしれない。また中学時代、父親は能力主義的なところがあり、自分が指示したことに能力を発揮できなければそもそも相手をしないような人であった。単に不器用な人だったのかもしれないが、無視されるのが成人まで長く続いた。これもおそらく原因の一つなんだろうなと思う。
そして今30代、もう上記の性格を治すことは不可能だと気づきつつある。もしこの性格でも有能であればなにも問題はなかったと思う。単に傲慢なくそやろうとして生きていたと思う。
しかし私は無能だった。有能を望む無能がどうなるかというのは増田にあるとおりだ。自分の心の中でギャップが発生して多分に死にたくなる。これが反対であればよかった。無能を望む有能であれば朴訥とした気持ちの良い人間になれたかもしれない。
本当は天秤の、そこに居ていい権利の片側に乗せるべき、能力といったおもりなど必要ないのは心の奥底ではわかっている。無能ならば開き直り誰かをヨイショしたり踏石になったりゴマをすって生きればいいのだ。
でもそれができない。私の心の中の屈辱心がそれを許さない。前述のいじめの話には続きがあり、一度だけそのいじめ集団が私に仲直りをしてくるような素振りを見せた。しかしそれは非常に屈辱的な行為とともに行われ、私はそれに対して何の疑問持たず受け入れた。その後それが教師によってなされた一時的なたわむれだったことが判明し、私はまた集団から省かれるようになった。その時初めて自分が惨めだったことを理解した。一度屈服するといかにしてもそこを抜け出せないというのが私の頭の中から取れない。
ぐちゃぐちゃ書いたがねじ曲がった人生はその後もねじ曲がった人生しか歩めない。元増田も「生きてて辛いことばっかだったな」とあるからそうなるまでになにかあったのかもしれない。
死が救いに慣れば幸いである
服のセンスがないと言われて30年経った。
興味がない訳ではない。ファッション雑誌もたくさん読んだしブランド知識もそれなりにある。
高い服から100円の服、ユニクロからしまむら、ハイブランド、ゴスロリからコンサバまで片っ端から着た。
腰ぐらいまで髪がある時もあればベリーショートと呼ばれるぐらいの時もあった。金髪の時も茶髪の時もあった。
別段特異な服を着ている自覚はない。黒、グレー、茶、白とかもう大抵誰でも似合うような服を選ぶ。
マネキンを上から下まで買った事もある。全身無地のことだって多い。標準的なMかSサイズの服。身長も標準。
それでもどうしても「服が変」「ダサい」と言われ続けて過ごしている。
もちろんファッション誌の服をそのまま着ても人間合う合わないがあるんだから正解じゃないのはわかっている。
でもこれだけ色々通ったんだからどこかに自分の似合う服装があるんじゃないのか。
でも、ない。ないというか、わからない。私は何を着れば一体一般的な人間になれるんだろう。
顔が云々、体系が云々、ではなく「コーディネートが悪い」「服の選択が悪い」と言われ続けている。ここまで来るとあからさまな欠点が見当たらないだけで顔や体系の問題なんだろうなと考えてはいるが。
誰かに見立ててもらおうにも、何を着せても「似合わないね……」と苦笑いされて終わる。
繁華街に出ればみんなオシャレな服を着て過ごしているように思える。
自分はそれなりに努力というか、理論的に考えて服を選んだり着たりするけど、世の中の全員がそれをできるとは思えない。それほど語っている人を見ないので人生に必須スキルではないと思う。(あったほうがいいのには違いないが)
というか理論的に考えた上で「ダサい」と言われる私がいる訳だからますます世の中の人間が普通に服を着れているのがわからない。
どうしてみんな、自分に似合う服を着れるんだろう。どんなに考えても努力してもダサいって言われ続ける。つらい。一生一人前の人間になれない。
もう好きな服を着たいだなんて思いは微塵もない。普通に、「変」って言われずに生きていたい。笑い者になりたくない。恥ずかしくて外に出られない。どうしてなんだろう。
皆色々ありがとう。ちょこちょこ返してるけど返信しきれないので聞かれてる事まとめて答えておきます。
>パーソナルカラー診断した?
しました。それ自体はものすごく有益な情報しかなくて誰もにおすすめしたい。
ただ結局似合うとされる色を揃えて身に着けても「組み合わせが微妙」「違う」って言われるのでもうわからんわい!と増田を書きなぐってしまった訳です。
>姿勢が悪いのでは?
自分もそうじゃないかと思って半年前ぐらいに矯正に通って治しました。
治した事はとても良かったんだけど今まで「比較的ヨシ!」とされていた服の印象が変わってしまい1から自分に似合う服の形を探す羽目になった訳です。で、混乱しています。
>周りが悪いのでは?
その可能性もありますけど、実際集合写真とかで見ると自分だけ浮いてる・・・って思う事が多いんですよね。結局自分で良し悪しを判断できないから人の意見を鵜呑みにするしかない部分もあります。
>お店の人に聞いたら?
よく聞きます。お店の人と話すの好きだし化粧品とかにおいては1から10まで揃えて貰った事もあります。でも服で同じことすると、家に帰ってから「いやこれ変な服」ってなる事多いですね。(化粧品も稀にある)
あと何故か結婚式とかでヘアセットしてもらう時もやたら一人だけ奇抜で難解な頭にされてる事が多いですね。何も言ってないのに。周りは普通なのに。謎です。
>ゴスロリは着ないだろ
中学生とかの頃の話なんですけど周囲の友人が全員コテコテのゴスロリ女だったんですよね。
私は基本的に接する相手に合わせて服を選ぶので、周りがいい!というブランドを無心で身に着けてただけなんです。今もそうです。でもいい!と言われるブランドから購入しても致命的にセンスがないらしいです。
まあ全身グッチでもダサい(と言われる)人いますからね。その思考自体がダサいって事になるんだろうなと思います。
>好きな服着れば?好きな服がないのがよくないのでは?そもそも思い込みでは?
これは私が大学生ぐらいの頃の事ですが、ファッション雑誌のトップに虎が力強く大口を開けているセーターが載っていたんです。私はいたく気に入って3枚色違いで買いました。
なんとなくお気づきかと思いますがこの服を着ている私を見た人間は口を揃えて「関西のババア」と爆笑した訳です。
なんてひどいことを!雑誌のトップに載ってたんだぞ!と私は反論した訳ですが100%笑われるので悲しいというより「本当にこれは駄目なんだ」と認めざるを得ませんでした。基本的にこんなのばかりです。
それでも若いうちは個性的なぐらいがいいじゃん、なんて思えましたがさすがに年を取ると年相応で身の丈にあった服を着るべきだと考えるようになります。
でも未だに自分がいいと思う服は虎が強いセーターとか馬がつよいワンピースのままです。
虎が強いヤツ、着なよ!とそれでも言われるかもしれません。でもいくら好きな服でも「関西のババア」と言われたり「隣歩きたくない」と言われるような服を一人でも着る勇気はないですね。
そもそも似合わない人間が無理やり着るのも服に失礼かなと思うんですよね。だから結論的には好きな服を着たいなんて気持ちは微塵もないです。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
最近思ったんだけれども、私って一作品に対して冷めるスピードが早い気がする。はてブでホッテントリに入った漫画だけ読んでいる人を基準にするなら、私は恐らくその倍くらいのスピードで冷めやすい。
読んだものの数が多い上に、それらの感想を文章化するために多少の分析が必要だから、パターンやカテゴリに気づきやすいんだろうね。それに気づいたとき「これぞこの漫画の醍醐味」と思うか、「作家の持ち札が全部見えたな」と思うか。私の場合、よほどハマった作品じゃない限り後者になりやすい。時代劇的な面白さを求めてない作品で、パターン化が見えるとウンザリしてしまう。
例えば『王様ランキング』とか、感想もツイッターとかで毎話たくさん書いてたんだけれども、最近は明らかに文量が減ってしまった。キャラクターたちが無言で喜怒哀楽を表現するだけのコマを頻繁に挟むんだよ、あの作品。それを「コマ稼ぎして展開を遅らせてる」って思ったとき、ああ私この作品に冷めてきてるんだなって実感した。
あと厳密にはWEBコミックじゃないけれども『チェンソーマン』とかも。初期は作家の持ち味いい感じに出てるなあと思っていたけれども、最近はちょっと限界が見えてきたなっていうか『ファイアパンチ』の頃の悪癖が出てきた感じ。行き当たりばったりで、こけおどし的な展開の乱用。私の場合『ファイアパンチ』の頃の蓄積もあるから、より慣れるのが早かったってのもある。
同誌の作品だと現在ぼく勉は先生ルートやってるけれども、他のヒロインでやってた展開をまたやってて、ツケがもろに出てるじゃんと思った。特に新規サブキャラの舞台装置っぷりと、後だしジャンケン的ファクター。これまでの話に出てきたキャラクターの関係性の蓄積を無視してる。まあマルチルート展開前から、繊細なところはすごく繊細だけれども雑なところは割かし雑な作品ではあった。強引な引き伸ばし企画のせいで、それが顕著に感じただけで。
ただ、まあこれらの理由は「なぜ冷めたかをあえて言語化するなら」以上の意味を持たないんだけれどね。個人の感想なんて所詮そんなもん。私が挙げた理由だって読者次第では気にならないか、むしろ好意的に読み取ることも可能だろうし。或いは私が気づいていない、評価していない部分から魅力を感じとったり。そういう可能性を広げ、間接的に分かち合えるという点で、SNSで漫画の感想が飛び交う現代は摩擦のリスクを加味しても意義はあると改めて思う。
昔からものすごく気にしすぎる性格で、気になると他のことに手をつけられなくて自分で自分の首を絞める典型的な人生を送ってきた。
大人になってそれなりの時間が経過した時、その考えるくせが仇になって会社を辞めざるおえないほど体が動かなくなってしまったのが事の始まり。
元々ホテルの接客についていたんだけど、年齢とともに上げられるハードルを楽々と飛び越えられないことに気づき、それをどうにかする為にあらゆる手段を講じてみたけど何ひとつとして解決しなかった。
結局後から、ホテル経営者側のアホさ加減が露呈してそのしわ寄せ&人柱として自分が生贄になってたって感じなんだけど、心の芯がぼっきりと折れるあの感覚は一生忘れられないと思う。
そんでちょっと転職活動して今は事務職なんだけど、与えられた仕事とプラスアルファをこなせばあっという間に定時で上がれることと、人付き合いの面倒くささに辟易として、一人でいる時は思考を止めて無心で食事していた。夜中のピザとカップラーメンは本当に美味しかった。
気づけばあっという間に20kgも体重が増えて今現時点である。
さすがに健康診断で医者から「お腹…大丈夫?」とマジトーンで言われた時に目が覚めた。
何であれ考えてる時は寝食を忘れて解決させようとしてたので程々の体型だったはずが、胸より腹が出てるしなんか普段から体調不良になりまくるしで、太るっていい事がない。
今は絶賛ダイエット中、炭水化物ほぼ抜きとジムで筋トレ。でも心がまた怠けそうなので喝を入れるために増田に垂れ流してみた。私は勝つ。絶対にだ。そして推しを推していることを堂々と言える体型になってみせる!
大学で働いている。土日も働いていて、気が狂いそう。
しかしいざ休みを取ってしまったら、この日常がおかしなことに気づいてしまう。狂っていることに気が付かないように仕事をしている。
周りを見ても、誰も彼も手が足りていない。
コロナの在宅勤務のせいで、論文を書いた人が増えたらしく、今の時期に査読が大量に回ってくる。狭い業界でみんな手一杯であるので、断れない。しかも、教授職についているくせに不十分な論文を書いてくる奴がいる。何年この業界におるんや、学生かと思ったわ、なんで君らが若手の仕事時間を増やすんや。土日の貴重な3時間が潰れる。
11月は研究に費やせる人が多いらしいので、オンラインの打ち合わせが激増。コロナのせいで研究資金の採用通知が遅れたせいもあって、遅れを取り戻そうとして11月にぶっ込まれる。後期授業の準備も遅れているのに、なぜ今。
コロナのせいで授業のオンライン化が必要になった。実習や実験の授業も新しく作り替える必要がある。共同で担当している上司(教授)が「君に任せるよ」と言って自分は全く動こうとしないので、資料やら何やら、全てこちらで作る羽目になった。大人しく「この授業は私の専門分野じゃないので、手伝ってください」と言って欲しい。言ってくれたら1ヶ月前から取り掛かれたのに、なぜ放置した。
先週も、学生が実験器具やら試料やらを放置して帰宅した。19時半になって気づき、呼び寄せるのも難しいので、注意に留めてこちらで処理をした。平日の30分が潰れた。お願いやから、自分のケツぐらい自分で拭いてくれ。割と厳しく教育しているうちの学部(専攻)でもこうなるのだから、他学部や偏差値低い大学はもっと辛かろう。
iDeCoやらNISAやら横文字多いよな。情弱は資産運用でも損をしてしまう世の中。
かくいう自分もそんなに知識ないけど、増田のポストみて改めて自分の環境見直した。よい気づきになったと思う。
まずiDeCoなんだが、自分は企業型DCなので加入できずマッチング制度使ってるので上限が27500円。
これに対して会社が給与の3%ちょい負担してくれてるため、自分として追加拠出は6000円位しか追加できないようだ。
んでもこれはやっておこう。あと運用はカチカチ国内信託なので見直ししようと思う。
ついでNISA、これはさすがに利用している。株式累積投資なんだが利幅もちょっとあるし天引き積立みたいな感じなので
残るは、自分の余剰資金で運用してる国内株、と米国株。細々と投資してる。種は200万くらい。
国内株で月次売買でコンスタントに+5-10万、配当金で20万/年くらい。米国株は先日始めたが3ヶ月やってみて+25万。
こうみるとわるくない。年収に100万乗っかる感じだが、再投資してるので儲かってる気がしない。
投資よりも博打に近いので、もうちょっとポートフォリオ作って運用しようと思う。
住宅ローンもまだあるし、もうすぐ子供にカネかかるようになるし、世の中のお得制度は活用しないとなー。
善逸の抱きつき癖を女好きという扱いで括ってしまうことが前から腑に落ちなかったんですよね。
善逸の生い立ちは作中明確に描かれてませんが捨子として荒んだ幼少期を過ごしたことが伺えます。
それ故か愛着障害と思しき言動が顕著なキャラクターです。異様なまでの自信のなさもそれで説明できます。これによって善逸の意識の中では母性への欲求と異性への関心が混合されてしまっており、幼児退行的反応として女性に抱きついてしまうとは考えられないでしょうか。
ねずこは、擦り寄って甘えることだけが異性とのコミュニケーションだった善逸を変えた存在です。女性を庇護の対象として認識できただけでも善逸にとっては大きな進歩だったはず。
そういった大きな気づきを与えてくれたという点で禰豆子は善逸の中で特別な存在になっていったんじゃないのかなというのが自分の感想ですね。
また禰豆子は人間に戻ってからも鬼であった頃の記憶を失ってはいないので、善逸が如何様な人間か、自分のことをどう思っているのかは理解しています。
自我を完全に取り戻した禰豆子が、その後善逸の歪な部分を指摘して、それでますます善逸は成長していったのだろうと、希望的観測ですが私はそんな風に想像するようにしています。
無粋ですが無惨との戦いで炭治郎がああなった以上、竈門兄妹は誰かの扶養の下に入るしかこれから生きていく術はないので、禰豆子は近いうちに誰かしらと結婚しなければならないプレッシャーを既に背負っています。
禰豆子の意思を尊重したとして結局善逸が相手になることがベターな選択となってしまう気がしてなりません。
禰豆子を守り、人間に戻し、もとの暮らしに戻ることが第一の目的であった炭治郎が、
鬼殺隊の通念に染まりきってしまい、無惨討伐という大義のために破滅的な行動に出たことが、個人的には残念でした。いくら痣の影響で限られた命だといえお粗末すぎませんか?
無惨を倒したことは多大な功績だとしても竈門兄妹が困窮する未来が見て取れるあの展開は釈然としないものがあります。
クライマックスで無惨と対峙しているときの炭治郎の脳内に禰豆子のことはなく、炭治郎の魅力であった「家族思いの長男」というキャラクターは崩壊してしまいました。
ねずこはせっかく人間に戻れたのに、対峙した兄は無惨の血を浴びて鬼化しかかっていた。こんな虚しいことないでしょう。
鬼滅の刃は終盤に向かうにつれ炭治郎が鬼討伐に取り憑かれ正気で無くなっていき、炭治郎が元来振りまいていた慈悲を善逸や伊之助、義勇といったサブキャラが補っていた様な気がします。人気投票で炭治郎の順位が下がったのもこういった背景があるのではないでしょうか。
差別を無くそうと努力する人もいるけど、差別が無くなることはない。
なぜなら差別や格差は人類が己の存在価値を擬似的に作り上げるための機能だからだ。
人類は単純な「生きる意味」=「食ったり食われたり食物連鎖の中で生きること」から離れてしまったために自分たちで「生きる意味」をでっち上げないといけなくなった。
差別や格差はでっち上げた擬似的な食物連鎖なのだ。底辺には底辺の役割、頂点には頂点の役割を持たせ、人類それぞれに生きる意味を与えるための機能だ。
人類それぞれに生きる意味を与えている差別や格差=社会をどうして人類が自ら破棄することができよう。
そして、人類が必死に作り守っているその「生きる意味」は地球にとっては無用の長物だ。
そもそも、人類は地球上の食物連鎖から離れた時点で少なくとも地球上では存在意義など皆無、要らない物になったのだ。
なのに無理やり社会などという虚像を作り上げ、自分たちは必要な存在なのだと言い聞かせて続けている。
その虚像は王政であったり、民主主義であったり、幾度となく姿を変えてきたが、全て虚像でありママごとに過ぎない。
今人類が一斉に取り組んでいるママごとは資本主義という名で呼ばれている。
そのママごとは生産性を上げなければ競争には勝てず、存在意義を他者に奪われるというかなり過激な遊びだ。
ただそこで生産する物自体は存在意義の無い人類に対しての物がほとんどのため、存在意義は無い。
なのに生産し続けないと存在意義が奪われるのでその競争に必死にしがみつかないといけないという冷静に考えると頭がおかしくなりそうな状況だ。
今はまだ格差により少子化が進んでいる程度の認識が普通だが、本当は違う。
人類が資本主義というとんでもないストレスに晒されたことで無意識に存在意義を考え始めた結果、自分たちに存在意義など無いことに気づき、この無駄なママごとに終止符を打つために人類の生産をやめ始めたのだ。
私は字書きの同人女です。字書き歴1年にも満たない、弱小字書きの戯言だと思って聞いてください。お気持ち増田以下の文章です。
字書きをはじめたきっかけはぶっちゃけいうと、コロナです。コロナで自宅にいる時間が増えたことで「何か家で出来ることないかな~」と思いながらpixivで小説を読んでいた時のことでした。
(うわー、Aさんの作品めちゃくちゃいいな…自分もこんな作品作ってみたいな)と思うと同時に、(Bさんのこの話のキャラの反応、私ならこう書くのに…)という気持ちにもなりました。だったら、自分の理想の話を自分で書けばいいのでは?と、思い立ち見様見真似で1万字程度の作品を書きました(上にある作品の焼き直し、とかではなく全くオリジナルの別のテーマの話です)。
もちろん小説なんて書いたことないので、地の文が書けなくて悩んだり展開やオチなどは完全に手探りで書いた作品です。はっきり言って下手くそで拙いものでした。しかし、人生で生まれてはじめて書いた作品、愛着がわかないわけがありません。「自信はないけど、とりあえず私にもできた!」とめちゃくちゃ喜んだ記憶があります。
そして勇気出してPixivに投稿しました。閲覧が1から2になった瞬間、めちゃくちゃ嬉しかったです。この世界の誰かがよんでくれたのだと。そしていいねが1着いた瞬間はもう、今までに無いくらい嬉しかったです。
その後、書き方のコツみたいなものを段々つかみ、投稿のペースも上がってきました。書いても書いても書きたいネタが尽きません。執筆中はクスリでもキメてんのかってくらいテンション高いし、多幸感も半端ないです。こんなに楽しいことあるなんて知らなかった、なんでみんな教えてくれなかったの? と真面目に思っていました。小説書くのが最高すぎてずっとステイホームでもいいのに位に思ってました。
そしてふとあることに気づきます。同カプの方を見るとTwitterをやってる人が多いのです。私もやってみっか!と軽い気持ちで登録しました(リア垢と以前ヲタ垢を持っていたので初めてな訳ではありません)
これが悪夢の始まりですよね。私は数字の魔物に囚われました。現ジャンルは斜陽なので、すでにグループが出来上がってました。新規の私が来ても見向きもされません。まぁ、これはしょうがないです。
細々とツイッターにSSを上げたりしますが、ほとんどふぁぼはつきません。悲しいです。やっぱり頑張って書いたものだから読んでほしいじゃないですか。ここで自分の感情が変化したことに気づきます。今までは、書けるだけで幸せだったのに、Twitterを始めたことで評価が自分基準ではなく他人に受渡してしまったんですね。
数字とってる大手に嫉妬しました。好きだったはずの作品も素直に読めなくなりました。その後、やって来た新規の作品も解釈違いで読めません。自カプでワンドロが始まりました。ますます数字が見えて死ぬほど嫉妬しました。この時点ではまだ「Twitterは垢消ししてpixiv壁打ちに戻ろう」そう思っていたんです。
そして私が現在抱えてる一番のしこりの原因となった事件が起こります。
Yさんの参入です。
端的に言うと、Yさんは神字書きでした。
私と同じく、小説を書くのは初心者だと言っていました。にもかかわらずハイペースで執筆してた上、毎回萌えに溢れていて面白く、小説としての表現力も多彩でした。はじめは「やべぇ…解釈一致だ…最高だァ…」と読んでいた私も、次第に複雑な気持ちになっていました。ほぼ同時期に参入したのに、こんなに実力の差があり、私の好きをこんなに鮮やかに表現できるなんてずるい、と。
しかし、Yさんは何にもずるくありません。生まれ持ったアイディア力だったり、今までの経験だったり、読んだ作品によって培われた文章力によってYさんが生み出した作品を正々堂々提出しているのは知っています。
かなわない、と思いました。打ちのめされました。自分がどうしようもなくちっぽけな人間に見えました。同時に、私を脅かす存在になりました。
ごく一部の例外を除いて、同人なんて所詮趣味です。それなのにこの世の終わりのような気持ちになりました。
Yさんは神字書きなので、Yさんの存在に気付いた界隈もYさんをチヤホヤしだします。あっという間に人気者になりました。他人のつぶやきで「Yさんの新作うれし~」というのも何回も見ました。ワードミュートしててもすり抜けてくるので辛かったです。私は相手にされないのに…と卑屈になりました。
いやいや!嫉妬してる場合か!私も神字書きになればいいんだ!だったら作品で殴るしかねえ!と思い、私も作品を投稿し続けました。本も出しました。
感想も貰ったし、フォロワーも増えました。他人の評価が気にならいわけではありませんが、割と数字についてはどうでもよくなりました。
なんと驚くことに、なんとYさんも本を買ってくださいました。でもYさんへのなんとも筆舌しがたいどす黒い感情は消えません。
同カプはほぼ全員ミュートしてます。作品も読んでいません。これ以上第二のYさん的存在を自分の中でつくりたくないからです。
なんでこんなに自分は嫉妬深いのか。今思えば昔から頑張る基準が他人だったからなのかもしれません。
私は幼稚園児の頃から、たいそう負けず嫌いでした。かけっこに負けてよく泣きました。ピアノが幼馴染より下手なのが悔しくて悔しくて、死ぬほど練習してピアノ伴奏の座を勝ち取ったりしてました。その後、音楽畑に進んだのですが、私は勝手に全員ライバルと思い込んでいました。全員蹴落とすぞくらいの気負いでいまいた。実際、練習して練習して椅子を勝ち取っていました。つまり、自分が一番でないと気が済まなかったんですね。それを同人にも適用してしまっているのだと思います。
これからこの考え方を変えられるのか、正直分かりません。多分難しいと思います。嫉妬するのは苦しいです。かなりエネルギーを使うし、疲れます。創作のエネルギーも消耗してしまいます。
自分がYさんに嫉妬しない方法はただ一つでした。自分が作品を作ることです。小説の執筆中は自分と推しカプだけに向き合っているので、Yさんのことは考えずに済みます。今は原稿が終わって何も書いていない時期なので、蓋をしていたYさんへの感情が溢れてきて泣きたいほど苦しくなっています。なので、この文章を書きました。
この苦しい気持ちを否定したくありません。私はいつも悔しさや苦しさを力に何かに打ち込んでいました。小説を書くのは今でも楽しいです。この負のパワーをバネにもっと最高な作品を書きたいです。
『ファン活動としての二次創作を許容しなければならない空気感と文化を破壊したい」(該当ブログ削除済み)を読んだうえで、同じく二次創作否定派からお気持ち表明したくて参上。
いうて、私自体は商業どころか同人作家でもなく、駄文を書くことはあるけど基本は消費者でしかないことご理解を。
あと該当ブログくんが炎上した後速やかに消えてしまったので、少し彼が本当に商業漫画家だったのか、web炎上させるの大好きマンくんではなかったのか怪しい空気になってしまったので悲しみ。
それでも、性善説を信じ、彼が本物だったと仮定して少し話させてほしい。まず二次創作擁護()派のみなさんに一言いいたい。
「本当に議論しないといけない部分」を無視して、主張の粗いところを責め立てて、論破()して「私たちの主張の勝ち、黙れ」って問題を放置したまま勝利宣言するのいい加減やめてくれません?
私、基本はアイドルマスターくんとかいうコンテンツでオタクやってるんすけど、そっちでも炎上案件があったときによくみられるし、多数派の意見をもっている人間がやりがちな行動なんだなぁとしみじみ。
根本的問題が何一つ解決されていない、臭い物に蓋をする戦法でしかありません。そのくせ、勝ったという実績だけ手に入れたと対外アピールする最低演出ですよ。
あと「国語力を鍛えろ」も今回は追加で。
ふとTwitterみてたら今回の話だと「こんなこと言う前に『読者を金づるだと思ってるから逃げられたくない!』『編集部から煙たがられて仕事回されなくなったらヤダ』って思ってるところを認めなさーい」みたいなツイートが流れてきて
……言ってたよね? 筆者、その部分認めてたよね? あれ、俺は同じ文章読んでそう読みとったけど、俺が深読みオタクくんしちゃった?? と脳内バグりました。
本文で言及していた「大前提」(そもこれが前提なのか審議)を書いてないからダメっていって意見そのものを否定するの卑怯にもほどがある。本文読んで読み取れなかったなら国語力なさすぎなので議論に参加しないでほしいし、
「わかって」やっていたならあんまりにも卑怯だよね。炎上案件なんて、いちいち全文目を通す人しかいないわけではない。そういう、見てない人に対して「あの主張はダメだよ!」っていうレッテルを貼って相手の意見反対派に第三者を誘導するの、まじで性格悪い。
では、該当部分について引用して、僕が深読みオタクか、先方が国語よわよわマンだったのか判断お願いしたいと思います。
「今、日本で創作を行っている個人クリエイターは、二次創作活動を認めることを強制されている。
それが、すごく嫌だ。
「何様だ」って思うだろう。「読者がいなきゃクリエイターは食っていけないんだぞ」って言われるだろう。「好きなことを表現して共有することの何がいけないの?」って感じるだろう。
その通りだ。私は、何様でもなくて、ただちょっと絵が描けて、漫画が描けるだけの人間で、とても弱い。
読者のみんなが、漫画を買ってくれなきゃ、あっという間に死んでしまう、本当に弱い存在だ。』
『でも、結局私は商業作家で、最終的にはお金のために作品を描かなきゃいけないから、読者のみんなに、どうしても媚びなきゃいけない。』
作家が読者に依存していることをここで言及している。「金づる」という言葉は使っていないけど、お金とファンが結びついているので、僕はそういうニュアンスだと理解しました。
その選択肢を、消したくない。
読者に嫌われるということは、選択肢を自分から消していくということだ。
編集者さんや出版社さんから「面倒な人物」と少しでも思われることは、自分の未来を潰すことだ。』
未来=作家人生=仕事 をつぶしたくない つまり、面倒な人物だと思われたくない。単純明快。
あと、「編集部にいえ」とか「ファンにいえ」みたいなことで怒っていた人たちはまじで何?
編集部に言ったら、自分の首を絞めることになる。ファンにいったら、ファンに離れられてしまうかもしれない。これらが実行した際に本当にそうなるかまでは確かではないが、
少なくとも筆者にとっては死活問題なんだと考えた。そう書いてあるのにいったい何を読んだら「これで反論してやったぜ」みたいな顔できるのかわからん。
実際問題、「二次創作を許容すると宣言する作者」と「二次創作を全面的に否定する作者」のどちらが心証がいいかなんて明らかだろう。許容派の作者さんのその旨のツイートがバズってたし、
みんなわかってるんだろ? そして、二次創作を許容する人が言うように二次創作が作品を盛り上げるうえで貢献する部分があるのだって事実でしょ? なら、企業として編集社はあやかりたいと思わない?
二次創作が許されている、つまり二次創作によって知名度があがる可能性がある作品と、二次創作を許されない作品。どちらも同程度に面白かった作品の場合、どちらを選びたい? 前者だよね。
その二次創作を許されなくても人気が出るくらい面白い作品を作れるなら、そういった意味も込めての「超大御所」という文章内での言葉だろう。それなら変わる、でもそこまで人気作家ではないと言っているんだから
もし、そういった反論が書きたいなら「編集部に言うことも、ファンにいうことも売り上げや今後の仕事の契約上、1mmも不利にならないこと」を論理的に証明してから言えよ。
その証明が通れば、彼の増田でのアプローチはおかしいと言えるだろう。
ここで一回区切るが、お気づきだろうか?
これらの反対意見、「増田に書くな」というご意見であり、本題である二次創作についてはなんも言及していないのだ。
これで「反対しました」とか「こういう雑な文章書かれると、本当の否定派も言いづらくなっちゃうよね~~」とか言ってくるのだ。
タチ悪いよねほんと、悪い癖にこんなガバガバ反証なんだからもっとやになっちゃう。
筆者は「二次創作を許容しろという空気感や文化が嫌い」と言いつつも、自身も「二次創作」をしたいと思う気持ちはあるという話をしている。
彼が本当に嫌っているのは何か。それは最後『むしろ「好き」を表現する手段として和気藹々と二次創作を行っている人達の方がはるかに『厄介』です。
自分達を善き人だと思い込んでいる人達に向けてこのメッセージを書いています』という言葉で語られる部分から考えていくことができる。
『だって、作品って私のもので、キャラクターもストーリーも、本当に、精魂を込めて、精神と魂を削って描いて放出しているものなんですよね。
それを好き勝手されると、嫌な気持ちになることがどうしてもある。
作品を1匹のぬいぐるみだとするなら、二次創作ってのは、そのぬいぐるみを分解して、紐解いて、目をくりぬいて、
とも書かれています。わかってきましたね?
そう、この人は「二次創作」そのものではなく、「二次創作と謳いながら作品を自分好みに魔改造する行為」に辟易としているのです。
そして、そんなクソみたいな行為を「肯定」するしかないことを嫌だって言っているんです。
だから、私たちが今回の炎上で本当に考えないといけないのは「二次創作って何をもって二次創作っていうんだろう」ということなのです。
僕は最初、二次創作否定派と言いましたが、一つ訂正します。僕は本当はそこらへんのオタクよりもよっぽど二次創作が大好きです。
でも、世間一般で「二次創作」として流れてくるほとんどのものが僕にとって二次創作とはいえない粗末なものばかりで、問題提起したくて
「二次創作否定」という強い言葉をつかわせてもらっているだけです。
ですので、彼の意見に賛同するものとして、君たちの「二次創作」が間違っているということをこれから話させていただきます。
このことについて、まず私たちのもっている違和感を感覚的に理解してもらいたいのでいくつかキャッチーな言葉を考えて来ました。
いくつかあげますが、これらが伝わりやすさを重視し、正確さは少し度外視しているのでこのコピーに関する反対はご遠慮ください。
①同人ゴロは「売れるものを売れるように描く」やつら、お前らは「好きなものを好きなように描く」やつら
②if設定で二次創作するとき、要素を変えすぎれば対照性が失われるから同一作品とは呼べなくない?
③それ創作じゃなくて、好きなキャラを好きなように動かして楽しんでいるだけのお人形遊び、いやもはやオナニーですよねそれ
④自分で1から設定を練る力も考えた設定で継続してかいていく力もないから、既存の設定に乗っかって、
愛とかいって自己アレンジくわえて原作無視してるだけなのに「創作」者気分味わうのは気分よさそうですね^^
⑤考察ではなく、願望によって展開されるものは二次創作ではなく妄想じゃない?
⑥そこにあるキャラを読み取るのが解釈なのであって、自分の妄想を押し付ける行為のどこに解釈の意味があるの?
⑦原作ではありえないシチュエーションと原作にありそうなシチュエーションを考えるのが二次創作であって、
原作ではありえないキャラの動きをさせるのは二次創作ではないのでは?
⑧ありえない事象、シチュエーションについて「俺の宇宙では音が鳴るんだよ」と名だたる人が言及したことをあげて反論する人がいるけど、あれは一時創作、
お前は二次創作、おわかり?
⑨キャラクターから話を考えるのではなく、エモい展開にキャラを無理やり当てはめて描くんだからそりゃあバズりますよ。
打線組んだことないからセオリーわからないけど、9つあるからなんか打線っぽくなったや。
まあ、伝えやすさ=過激さ重視なのであんまりいうと自分の足元掬われかねない言葉たちではあるんだけど、
一貫して言いたいことは「愛さえあれば何しても許されるわけないだろ」といったことだと思っていただければ。
「このキャラ好き、あのキャラも好き、その二人のカップリングが好きだし、公式でも絡みあったし、このキャラはあのキャラのことキチレベルで好きって設定にしよ!」
とか、「こういった恋愛関係が私性癖だから、私の好きな二人にそういった恋愛させよ」とか、もしくは「このキャラ好きだからエッチ絵描きます!」とか、
そうやってあなた達が描いたキャラは、あなたが好きだっていったキャラがとりうる行動なんですか? 本来のキャラなら取らないだろうなって思うなら、
それはそのキャラじゃないですよね。一次のキャラデザをパクり、性格を少し真似ただけの、貴方のオリジナルキャラクターじゃないですか?
オリジナルだから二次じゃないし、でもオリジナルというには既存のキャラといろんな要素が一致するので、二次創作じゃなくて「パクリ」てすね。
そのくせ、パクった張本人は「二次創作だ」とか「私、この作品大好きなんです!」とかのたまっているんだから一次創作者で切れる人がでてきても全然おかしくないですよ。
そりゃあ、自分の好みのキャラデザ、設定を自分の好きなように動かせるなら大好きにでもなりますよ。
二次創作を擁護する人達はいったい、どうしてこういった「妄想」や「パクリ」を擁護するのか教えていただきたいです。
彼らは善意で作品の雰囲気を壊す無邪気な子供みたいな邪悪さをもっているように思えます。
その、作品の雰囲気を壊すことが今の二次創作の大部分を占めているわけです。それで活発になるのは本当に原作にとって益なんですか?
作者にとって不本意な盛り上がり方になっている可能性は考えられませんか?
それとも、たとえどんな道であろうと、原作にたどり着いてもらえればそこで適宜消費者個人個人に修正してもらえばいいとかいう考えですか?
そして、何より、この妄想、パクリというものは二次創作といって差し支えのないものなのか、本当に「愛」ゆえの行動と言えるのか、この部分を中心に議論していければよいなと思っています。
まあ、こうして否定しましたが、表現の自由とか考えれば「あなた方が妄想すること」自体は否定するつもりはないんですよ。
ただ、それを自分一人で楽しむだけならともかく、他人に見せて自分の承認欲求にあてたり、金稼いだりするのが気にくわないし
何より、それを「受け入れている」消費者が一番許せないって思っているのが私です。結局、問題は同人ゴロと同じなんですよ。
彼らが存在するのは彼らを受容し、需要をもつ消費者がいるからです。誰も彼らの本を買わなければ、金稼ぎをしている彼らは描かなくなりますよね。
結局、こういう質の悪い「二次創作」、妄想でしかない「二次創作」がTwitterに出回り、同人イベントであふれかえるのもそんな
他人を誑かすためだけに作られた作品をまんまと求める馬鹿な消費者がいるからなんですよ。
ですから、私、二次創作否定派ですが作者側には今一度、在り方を見直してほしいとは思いつつも「変えろ」という気はありません。
変わっていただければ私があなたの消費者になるだけです。あなたの気持ちが変わらないなら変えようと思いもしませんでしょう。
あくまで、私はそれを消費する消費者に「それを二次創作だっていって受け入れていいのか」と問いたい。そして、二次創作と呼べない粗末なものなら触らない。
別に妄想を書きたいだけの人なら、他人に見られなくても描き続けますし、承認欲求で描いてる人は、質のいいものを描こうと努力してくれるはずです。
そう、変わらないものは変わらないし、変わるものは質が良くなります。少なくとも「悪くなる」ことはないのです。
あなたも、キャラクターが好きで二次創作を追うだけなら魔改造されたキャラ設定を「良い」っていう必要がないのわかるでしょ? もはや、魔改造されたほうを好むなら
昨今の世の中を見ていてとても生きづらいです。これまでもネットで色々な価値観を見てきましたし、それが苦しくてもついハマっちゃうほど好きでした。しかし今回のCOVID-19関連の騒動は完全に疲れました。このまま真正面から向き合い続けるとまた生きるのを諦めちゃいそうなので、悪い言い方をすれば現実から逃げます。
もともとスポーツ芸能には興味なくて、政治経済ニュースを見て問題意識を持って考えるのが好きでした。好きというか、つい考える方を選んでしまう感じですね。まあ右寄りですけど、というか右である。ただ、大統領選とかモリカケサクラみたいに利害や目指している方向が違う人たちがぶつかる様は見ていても、そういう考えも多いのねくらいに捉えていましたが、COVID-19関連に関しては基本的に目指している方向はみんな平穏な日々で同じはずなのに、対極する意見がぶつかり合い、分断を生むのが見ていてつらいです。私としては対局する意見の気持ちはとても分かりますが、これに関してはお互いの正義が押し付け合いや同調圧力を生みすぎているように見えます。twitterやニュースのコメントで歩み寄るようなものもあれば、片一方が絶対的に正しいような論調で正義を押し付けているようなものを発端に、同じ方向を目指す人たちでぶつかり合うのを見ていると、世の中はなんで平和にならないんだろうと、自分の力でどうしようもないことなのにどうにかしたくなってしまいます。それで苦しいんだなと気づきました。何よりこの分断と混乱が最前線で身を削っている方達により負担になっていると考えると、誰も救われていない世の中だなと思っちゃいます。
無理なのは分かっているけどみんなが平和になれない世界だったら今は生きていたくないです。この世から病気や、痛ましい事故事件がなくなって、寿命だけになればいいのに。
視野を広げて色々な価値観を見聞きするのが大事だと思って、それが楽しくて生きてきましたが、広げすぎたというか、受け入れる能力がない状態で広げて対応しきれなくなってます。本来なら受け入れる努力をするべきなのでしょうけど、並行してやっていたら本当に死んじゃいそうなので、一旦落ち着いてみます。いつまでとは確証できませんがCOVID-19騒動が終了するまでですかね。これはSARS-CoV-2ウイルス根絶とか、ワクチンとかのブレイクスルーではなく、人々の心からCOVID-19特有の問題概念がなくなることを指します。環境問題とか未来永劫続くテーマですれ違いが起きるならまだしも、いつか終わる(!=根絶)テーマでわざわざ苦しい思いをすると分かっていて尊敬する人たちとすれ違いたくないです。誤解のないように言っておくとここにおられる皆さんのことは皆尊敬しています。だからこそすれ違いを一つ減らしたいのです。しかも向いてる方向は同じだし。
それではまた、その日が来るまで。愛するこの国の元でまた語りあえる日がくると信じています。
とにかくさ、広告だろうと何だろうと、巨乳にイチャモン付けたりする時点で終わってると思うのよね。
情報の受け手、表現に対するオーディエンスの内心を、「お前ら嫌らしい目で見てるだろう」と邪推し、なおかつその責を表現側に押し付けるの、無茶苦茶だよ。
私の年齢はおそらく元増田より10歳ほど下だが、同じように性的な体験をまったくしたことがなく、そのことをコンプレックスに思っていた。
友人同士で話しているときに、他の人が自身の性的な体験についての話で盛り上がっていると疎外感を感じた。
私は子供の頃から人一倍性的な事柄に対する関心が高く、性的な事柄に関しては誰にも負けない知識をもっていると自負していた。
しかし友人たちは不完全な知識であっても、それが自分の実体験に基づいている。
対して私の知識はほとんどが妄想・ネット・本・映像から得たものである。
おまけに私はややBDSM的なものが好きで、さらには性的指向が女性(特に年上の女性)に向いているので、私が好んで見る性的な創作物はほとんどが「きれいなお姉さんが虐げられる」という類のものであった。
そのため性的経験がないことと「きれいな女性が虐げられる」創作物を見ることが好きであることに1人悶々と悩んでいた。
一時期はレズビアンのコミュニティに入って交際相手を見つけようかと思っていたこともあるのだが、田舎に住んでいるためそのようなコミュニティが近所になかった。おまけに他人に自分の性的指向について知られるということがとても怖かった。
また、先ほど性的指向が女性に向いていると書いたが、男性に対して恋愛感情がわかないということはなく、これまで何人か好きになった男性はいた。
つまり、私は完全に女性のことしか好きにならないというわけではないのである。そして、そういった自分の性的指向はレズビアンのコミュニティではあまり歓迎されないのではないかという不安があった。あくまでこれは私自身の思い込みであり、事実とは異なると思う。
よって、レズビアンの人と出会って性的な体験をする手段が私にはレズビアン風俗しかない!と思い、レズビアン風俗の予約をとった。
私の好きな「きれいな年上のお姉さん」と思われるキャストの方を指名した。BDSM系のオプションについては生身の人間に苦痛を与えることがどうにも憚られたので付けなかった。金欠だったということもある。
実際にそのキャストの方は本当にきれいな年上のお姉さんだった。プレイ内容についても大変満足であった。やはりプロである。
1回性的な体験をしたことによって、性的な体験をしたことがないというコンプレックスは解消された。
勿論この体験も「きれいなお姉さんが虐げられる」映像が好きであることと同様に他人にひけらかすことができるものではない。
それでもいいのだ。自分にとって大切なものは心の中にしまっておけばいい。そう思うことができるようになった。
しかし、私はどうにも「きれいな年上のお姉さん」ともう1度性的なことをしたいという気持ちにはなれなかった。
私にとって「きれいな年上のお姉さん」は、役所の受付で二言三言言葉を交わしたり、ちらっとすれ違ったり、(こういった眼差しは不快に思う人もいるだろう)、創作物などの映像・画像の中で見て1人で勝手に興奮したりするものであって、ともに人生を過ごす存在ではないのではないかということに気づいた。
また、初めて生身のレズビアンの方に出会って女性に対して性的な関心を抱く自分を肯定してもらえたことで、女性が女性に対して性的な関心を抱いていもいいという当たり前のことに気づき、自分の性的指向について悩むことがなくなった。女性が女性に対して性的な関心を抱くことは何も私だけの特別なことではないのである。
余談ではあるが、レズビアン風俗に行った後しばらくして友人の男性と付き合うことになった。本格的なお付き合いはこれが初めてである。
「女性のことが好きだから男性のことは好きになってはいけない」といった思い込みが解消されたことも、初めて他の人と付き合うことができた一因であろう。
まとめると、私にとって「きれいなお姉さん」が好きな自分、つまり性的な事柄が好きな自分との距離の保ち方を学んだということがレズビアン風俗に行った1番の成果であった。
前提
・二次創作とは不法行為である。あくまで二次創作は著作権法の性質により見逃されている。あくまでグレーゾーンである
真である。あくまで二次創作とは不法行為でしかない。だからどうあがいたって100%正しいとは言い切れないのである。
ならば二次創作は100%悪なのか?と聞かれればそれはまた違うのだ。
例えば二次創作が嫌いだとか、そういうのはいい。好き嫌いを制限するものはないのだから。
だけど全面的に禁止というのも、また法的には根拠に乏しいものになる。
著作権法では独自性というものが重要視される。これは盗作などを防ぐためだ。
なら、二次創作には独自性がまったくないのか? これもまた違う。
あくまで、二次創作に全く独自性がないのだとしたら、我々は海賊版をせっせとつくっていることになる。
我々が書いたものは海賊版などではない。全く同一のものではないのだから。
たとえば、ポケットモンスターで最初の相棒がピカチュウじゃなくてイーブイだったサトシを考えたことはないか?
自分が作中に登場して友情を築いたり激しいバトルを繰り広げるドラゴンボールを想像したことはないか?
クラナドで、もしも主人公と付き合わなければ悲惨な未来が待っているヒロインを認められたか?
すべてはifのお話から始まるし、そこに独自性がないとは言い切れないのである。
二次創作を一切みとめないとなると表現の自由もまた侵害されることになる。
また、その弊害として創作自体が萎縮しかねない。今でさえ訴えれば必ず勝てるのだ。それを赤の他人、非関係者から投げつけられれば作品の発表を行う前にまず弁護士への相談がいるだろう。それでは創作を行うための行為がリスキーなものになってしまう。
二次創作のすべてを認めるというのなら海賊版が横行する可能性はあるし、何より何らかの不利益があったとき原作者を守りきれない。
それによって筆を折る原作者がやまほど増えてしまう。利益もないのに創作を行うことはできるが、利益がなければ創作をし続けることはかなり難しい。
もうお気づきだろう。どちらかに100%の舵を切ることができる問題ではないのだ。
だからその塩梅を決めることができるのは原作者だけにしよう、という運用になる。
これは確かに完全ではない。完全ではないが最悪ではないのだ。
これより規制を厳しくするのはとても難しい。法的なしくみの問題もあるし、二次創作を許容も拒絶もできるようなしくみは結局親告罪として運用するほうが何かと都合がいいのだから。
二次創作はどうあがいたって白よりの灰色か、黒よりの灰色を歩くことしかできない。どこまでもグレーだし、それはつまりどちらかに振り切ってしまえば最終的に創作は萎縮してしまう。
嫌いなのはいい。好きなのもいい。でもそれを理由に規制や緩和を推し進めるのは、灰色の道にそぐわない。
もう少し冷静になろう。グレーなのだから調整が難しいのは前提だ。
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