はてなキーワード: 息抜きとは
知り合いに親の介護で苦労してるやつがいるんだが、詳しい話はやめておくけど、簡単に言うと「自分は不幸で理不尽に虐げられている」という認識にすごくこだわるんだよな。確かに大変だとは思うんだが、「月に何日か人に任せて、息抜きに遊んできたらいいんじゃないか」とアドバイスしても、頑なに「いや、俺が何とかしないと大変なことになる」と言って聞かないどころか、細かいことにこだわって次々と自分の仕事を増やして「あれもこれもしなきゃいけない、俺は本当に大変なんだ」と言ってくる。それでなお「根を詰め過ぎたら潰れるぞ」と言い続けると、「お前は俺がどんなに苦労しているか分かってない。俺の苦労を認めないつもりか」と怒り出す始末。
彼は社会性はあるし人格に問題はないんだが、おそらく、自尊心というか自分肯定感が非常に低いのではないかと思う。介護のために、彼が誇りを持ってやっていた仕事を変えざるをえなくなったことも影響しているのだろう。その欠落を、親の介護をきっかけに「理不尽に苦しんでいる自分は、だからこそ真っ先に救われる資格がある」というアイデンティティで埋め合わせるようになってしまったように見える。彼の不幸を軽くする要素は「不幸な自分」という自己イメージを壊してしまうから、結果として、介護されている親(不幸の原因)に対しても、それを心配する周囲(「不幸な自分」というアイデンティティを取り上げようとする人)に対しても、常に攻撃的に振る舞うようになってしまった。正直、最近は彼と話をするのがつらい。
で、本題なんだが、ここ数日「弱者男性」についての議論を眺めていて「これは同じ話だな」と思った次第。もちろん、彼のプロフィールは「弱者男性」とは程遠いのだが、「不幸な自分」というアイデンティティにこだわる姿勢にとても既視感がある。これは、政治に影響を与えているという意味では社会問題なんだが、その解決策は実はカウンセリングなんじゃないか。おそらく、どれだけ福祉政策的な改善策を進めても、自分のアイデンティティの欠落を埋めるためにいつまでも「敵を見つけ続ける」ことになるんじゃないかと思う。
追記: まとめを作っている人がいるのでぶら下げておく。 anond:20210408163950
私は20代女、公務員だが休職中。復職は絶望的だろうと医師からの見解。診断はADHDと気分変調症。そして回避性パーソナリティ障害。
休職とは関係ないが持病で脳血管疾患(難病)とハウスダストアレルギーと成人アトピーがある。
両親や親戚はおらず、精神障害を持つ年の離れた兄がいる。
あまり詳しく書くと身バレが怖いが、時々辛くなって自分語りをしたくなる。
正直現状めちゃくちゃに生きずらい。薬がないとまともに生活を遅れないが、目に見える形の障害がないため健常者として生活を無理やり送ってきた。くそ長いけど私の人生を知ってください。
まず小学校中学年まではそれなりの生活を送ってきた。一軒家で両親健在。収入はそれなり。
問題は子どもへの愛がなかったことくらい。衣食住に金をかけてもらえず、幼稚園のころから同じ下着をずっと着ていたり、朝食は8枚切りの食パン半分だったり(朝食が出るだけ良いかもしれない)したが、その年頃の子どもは家庭内が世界の全てなのでそれが当たり前だった。
父親は仕事でほとんど帰らず家は母親の天下だった。帰宅すると宿題をやった後、母親のマッサージ。兄が帰ってきたら交代して、両親が買ってきた教材をやる。母親の機嫌を損ねるとヒステリックに怒られたあと無視され、ご飯を抜かれる。テストの結果が100点以外でも似たようなことになる。たまに甘えたくなり母親に近づくと「ウザいから近寄るな」と突き飛ばされる。触れ合った記憶は機嫌が良い時に耳掃除をしてくれたことくらいしかない。なので父親が帰ってきたときに必死に父親に甘えていた。母親はそれを冷ややかな目で見ていた。
両親は外聞を気にするタイプだったので、私たちは下着はボロボロでも服はそれなりに綺麗なものを着せられていた。外での母は優しかったが、そこではしゃぎすぎると帰ってから「調子に乗るな」と怒鳴られ叩かれる。いつも母親の顔色を伺っていた。
ある日の夜、私は全身麻痺を起こして倒れた。前々から半身麻痺の症状が出ていたが、両親に話してもまともに取り合ってもらえなかった。私は救急車を呼んで欲しいとお願いしたが、「救急車を呼ぶと近所で噂になる」という理由で拒否された。結局麻痺が収まらず呂律も回らなくなり、父親の車で救急病院に連れていかれた。1週間ほど入院したが、病院の生活がとても楽しかったことを覚えている。
半年後に手術をする予定ですすめていたところ、母親がくも膜下出血で倒れる。私の病気は母親からの遺伝だった。この際、母親が我が家の貯金を全額実家に横流ししていたことが発覚して両親が離婚する。私たちは両親のどちらにつくか選ばされたが、こんな状態で父親以外選べるはずもなく兄妹ともに父親について行く。手術は無事に終わった。
父親と兄と3人で暮らすことになり、平和になるかと思えば、父親も母親と似たような人間だった。特に父親はプライドが高く、少しの意見も口答えも許さなかった。まだ小学生だった私には生きるためにも父親の顔色を伺いながら生活を送るしか無かった。やはりテストの点は満点しか許されなかったし、褒める時は「俺の娘は他のバカとは違う」貶す時は「こんなの俺の前に出して恥ずかしくないのか」と常に父親が中心の声掛けをされた。そのうちテストを学校で捨ててくるようになったが気が付かれなかった。週に1回父親と家の掃除をやり、週に2回父親に連れられて買い物に出かける。父親は「年頃の娘と仲の良い父親」像に固執しており、出かけることを拒否したり、外で不満を口に出すと家に帰ってから怒鳴り散らされた。少し抵抗するような態度をとれば「俺にそんな態度とっていいとおもっているのか」と怒鳴られ、物をぶちまけられて脅された。この頃には自己主張ができなくなっていた。おまけに父親は娘を育てる知識がなく、極少ないナプキンしか買って貰えずしょっちゅう服や寝具を血まみれにしたし、ブラも買って貰えず膨らんできた胸が目立つのが嫌だった。生理用ショーツや胸パット付き下着の存在もこの頃は知らなかった。
兄は父親に反抗し帰宅が遅く、部屋に閉じこもりがちだった。父親は兄に興味がないようで成績以外で構うことがなかった。だが、お金もほとんど渡していなかったようなので兄の生活は苦しかったと思う。(進学校でバイトが禁止だった)父親からは兄の愚痴を聞かされ、兄からは父親の愚痴を聞かされた。
父親は地域の人との関わりを嫌い、学校行事にも一切顔を出さなかった。保護者ありきの授業参観や運動会はとても惨めな気持ちになって辛かった。周りに頼ることは恥ずかしいことだと教えこまれ、誰にも何も言えなかった。自己主張ができない私は友だちも少なく、地域との繋がりも希薄で家が世界の全てのようなものだった。中学生の時は部員との交流はあったが、土日に友だちと遊ぶことに父親が良い顔をせず深い仲にはならなかった。小学校高学年のころいじめにあい、学校に行きたくないと父親に打ち明けたが、「ゲームを買ってやるから行け」と言われてちゃんと行った。ゲームは年に1回誕生日にだけ買って貰えるものだったので、いじめに耐えるだけで新しいゲームができるならそれでよかった。これ以降父親になにか相談することはなくなる。
中学生になった私はADHDの特性が顕著に現れるようになった。遅刻したくないのに遅刻してしまう、授業に集中したいができない等のストレスから解離症状が出るようになり、色々な場面で意識を失うようになった。他にも色々と要因はあった(父親が洗濯を正しく行えず体操服がいつも生臭かったり)(家庭内でも意識を失うようになり起きていられなかったり)で不登校気味になっていった。その頃には父親は学校に行かないことに文句を言わなくなっていた。それだけはありがたかった。
そんな最中、父親が会社をクビになる。私が中学生の時のことだ。パワハラ、モラハラ、サボりが原因だ。父親は会社の営業本部長で実質No.2(本人談)だったが、母親と離婚してからどんどん帰宅時間が早くなっていった。職場まで車で2時間かかるのに最終的には朝は9時に家を出て、17時半には帰宅していた。あまりにも出勤時間が短いので大丈夫なのか聞いたことがあるが、営業先に口裏を合わせてもらって出張扱いにしているらしかった。とんでもないことだがさらに、「俺は他のやつらより効率よく仕事をしているから早く帰っても問題ない」と言っていた。今思うと頭がおかしいとしか思えない。そして女性社員に気持ち悪いメッセージを送り、新人の愚痴を言いふらす……典型的なとんでもパワハラクソ上司だった。そんなだったので部下から告発を受け会社を即日クビになったのだ。本人は「不当な解雇だ。裁判を起こせば俺が勝つ」と何度も言っていたが、自分に非があることはわかっていたのだろう。裁判は1度も起こさなかった。
クビになったタイミングが悪く家を立替えた直後だったため、収入が必要だった父親はコンビニ店長をやると言い出した。しかし、コンビニを経営するには連帯責任者としてもう一人人員が必要になる。父親には友人が一人もいなかったし、親戚も一人もいない。そのため、他社に内定が決まっていた成人したての兄を連帯責任者として引っ張りこんだのだ。今まで見たことがないくらい必死に拒否をする兄を力で脅して内定辞退させ、結局二人でコンビニを経営することになった。
その後研修のため2週間家を空けるとの事で、私は児童養護施設に一時的に預けられた。そこで、我が家の生活が異常だったことを知る。皆が好きなように時間を過ごし、ルールをこっそりやぶって笑いあったり、ご飯がまずいと文句を言ったりのんびり団欒を過ごしたりする。私はそこで初めて家庭の温かみを感じた(違うかもしれないが)、家庭の会話に温度を感じたのが初めてだったのだ。予定は2週間だったが、直前で兄が家出をしたため結局1ヶ月をそこで過ごした。兄は警察に保護され、父親と研修を受け、私は最終日に家に帰りたくないと大泣きした。そしてコンビニ経営がスタートする。
そこから半年ほど私は廃棄のコンビニ弁当だけで生活をした。父親と兄はローテーションでひたすら無休で働いていた。生活リズムはめちゃくちゃだった。兄は父親への反抗で風呂に入らず出勤したりしていた。4日風呂に入っていない兄は汚くて臭くて嫌だった。これでコンビニで接客してるのは今考えてもやばい。私は父親に捨てられることが怖くて、反抗はできなかった。食器を並べる時、父親の箸を少し崩して置くのが小さな抵抗だった。父親はメニエール病を発症していたがそれでも休むことはなかった。「このままじゃ破綻すると思う」と声をかけても「私への誕生日プレゼントとして休みを取ってほしい」と声をかけても「俺の仕事に口出しするな」と怒鳴られ物を投げられて終わった。いつか父親は死ぬだろうなと思った。死んだ。
中2の冬のある日。父親が死んでいた。
その頃の私は起きられている時に父親に学校に送迎してもらっていた。その日もいつも通り学校へ乗せていって貰おうと思っていたが、寝室に父親がいない。トイレにもリビングにもいない。家中探してもいない。けど、外に車はある。そうして車を覗きに行くと、眠るように死んだ父がいた。最初は普通に眠っているのかと思ったが、こんなに寒いのに白い息が出ていなかったため何かがおかしいと思った。大声で何度も父親に呼びかけるがピクリとも動かない。何度も何度も呼びかけても動かなくて混乱した私は中学校の先生に電話をかけた。
それからはあっという間で先生が来て、警察が来て、救急車も一応来て、警察の人に「恐らく煉炭を使用した一酸化炭素中毒による自殺で事件性はない」と説明を受けた。兄はコンビニに出勤していたので、事情聴取は私が受けた。警察の人に色々教えて貰って、家族葬の予約をとって父親を骨にした。
父親のために生きていたようなものなのに捨てられたんだなぁと思った。私と兄はみっともなくあがいて生きてまでどうにかしてあげたい存在ではなかったんだなって。
ちなみに母親は、父親の死を知り家に押し入って来て、殊勝な態度で「また一緒に暮らしたい」と言ってきた。どの口がと断るのだが断った途端に豹変し、ズカズカと家の奥へ踏み込んで家探しをして貴金属を持ち去っていった。
兄は対人恐怖症で私以外とまともに会話ができないので、来客や自治体等の対応は今も昔も私がしている状態だ。
なんか思い出してつらくなってきた。
・しばらく兄妹で生活する
・入れ違いで兄が入院
・安定して通学できず単位が危うくなるも担任の先生のサポートでなんとか進学
・薬でなんとか通学できるようになる
・公務員を目指す
ゴミ屋敷は支援員の方々の協力で脱却した。別に綺麗ではないけれど。
休職して半年ほど経つけれどいまだに無気力で何も出来ない。人とのコミュニケーションが怖いし、他人を信用できない。体調が良くなっても性格が、性格が良くなっても、特性が人生の邪魔をする。
目の前のことに必死すぎて友達もほとんどいないままここまで来てしまった。というか人の頼り方がわからなくて信頼関係が誰とも築けない。誰と話しても気を張ってしまう。相手を不快にさせないようにと顔色を伺ってしまうし、自分で自分を大切にできない。
兄は給料が少ないことと友達がいないことを度々気にしながらも、趣味のゲームで息抜きしながらなんだかんだ楽しそうに生きている。今はウマ娘にハマっているようだ。よく私に育成の楽しさを語ってくれる。
現状生きてれば良し、面倒なことは後回しで良くも悪くも細かいことは気にしない性格なのだ。私もそうなれたら良いのだが。
なんか今まで色々、色々あったけど社会に出たら一人の人間でしかない。親ガチャの失敗のせいにしたいけど、毒親持ちでも立派にやってる人はたくさんいて、自分を褒めてなんてあげられない。
設定が雑なので雑に書くぞ。URL貼りすぎると投稿できないから所々自分で見つけて。
Udemy終わったら本
DeepLearning
理論(というか↑で紹介してない本)
まだパパっていう実感がわかないとは思うけど、育児ってパパも「責任者」だからね。
なんとなく、会話中ちょこちょこと「手伝う」ものだという意識が見えていたので、
奥さんがそのあたりの様子に苛ついてるということはないだろうか。
「奥さんのやりやすいように」って聞こえはいいけど、いろいろ放棄しているとも取れちゃうからさ。
「見つけておきたい」ってなんだろう。それって誰のために??
「ヒステリー起こさないように息抜きする場所みつけておいて、時々そこで発散してよね」ってこと?
メンタルきつくなる前提?これから産むの不安だってのにますます不安になることを…。
なんでそんな当事者意識ないんだろう。
子育てでメンタルきつくなる可能性があるとしたら奥さんだけじゃなくない?
俺「それだと、俺は助かるかもしれないけど貴女の負担は変わらないじゃない?子供を俺に預けて、一人で過ごせる時間があってもいいんじゃない?」
やっぱり「預ける」とか言ってる…。「あなたの子供」だからそこは100歩譲って「任せる」ではないだろうか。
母乳を保存しておく、という事をなんとなく聞いたことがあったので話してみたが、衛生的に大丈夫なの?一日分貯めておけるの?と聞かれ、薄い知識しかない自分は言葉に詰まった。
「俺は育児したことがないし勉強不足だけど、もっと勉強して一緒に頑張るから」
前々からこういう会話で衝突することがあり、その度、自分が間違っている事をわからされる。
子供が産まれる前から、自分は無能な父親なのかもしれないという思いに苛まれ、自身のしょうもないプライドがいっちょ前に傷ついている。
男親って、スーパーで子ども連れてるだけであやしい扱いされたり、授乳コーナーはもちろん、
おむつ変えるスペースだって満足に出入りできなかったりするし、ほんとクソみたいなこといっぱいあるけど、
母乳が出ないって?出ないママだってたくさんいるし、気にしない気にしない。
育児って、外出先でゲロ巻き散らかされたのを平謝りしながら片付けたり、漏らしたから急遽女児用の下着を買いに行ったら
変質者扱いされてお店の人に通報されかけたりみたいな、今までだったら絶対できなかったことをしなきゃいけないケースがいっぱいあって
ほんとかなりキツイしボロッボロになるけど、気がつくと子どもっていつの間にか成長してて、後々いい思い出になるんだよね。
もしかしたら奥さんは本心からワンオペしたい人なのかもしれないけど、増田が生まれてくる子どもといい関係でいたいと思うなら、
COVID-19のクラスター発生のたびに感染者をボロッカスに貶すのがはてな村の新たなしきたりになってしばらく経つわけだが、ウンザリする。
でも「どうせ働いてねぇんだから家でじっとしてろ」ってのは想像力の乏しい馬鹿の意見だよ。
何もしないで長期間家でじっとしてることの苦しさを知らないのは幸せなことだけどね。
「家で出来る娯楽なんかいくらでもある」ってのも、自分にとっての娯楽が他人にとっても等しく娯楽だと考えてる馬鹿の意見だよ。
だから、「外に出て人と会うこと」を叩くんじゃなくて「外に出て人と会うなら感染対策しろ」って言わなきゃダメだよ。
ワクチンが広く提供された後もワクチンの効きが悪い変異株が出てくるかも知れない。
COVID-19とその変異株とは今後ずっと付き合っていかなきゃならんのに「家に閉じこもってろ」ってのは想像力なさ過ぎだろ。
「安全になるまで」なんて、どういう状態が「安全」といえるんだ?
検査数絞ってどこに感染者がいるのか把握することを放棄してる現状でどうやって安全と認定するの?無理だよね。
一度COVID-19が蔓延した以上、どんなに理想的に撲滅できるとしても少なくとも数十年単位で付き合っていかなきゃならないんだよ。
「家にこもって耐え忍ぼう」っていう発想そのものが場当たり的な対応しか考えてない事の証左だよ。
いい加減現実見よう。
COVID-19は消えて無くなったりしないんだ。
今でもそうなのか分からないけど…私が就活していた時代、一番求められていたものだった。
リーダーシップを発揮して経験を教えてください、と言われて私は頭を抱えた。
皆無…。
そう、皆無だった。
そもそも、目立つことが大嫌いだ。
自分はそういうつもりがなくてもいつの間にかそういうポジションに…というタイプでもなかった。
しかし就活で「そういうタイプだったんです」と言って、採用されるわけがない時代だった。
仕方がないので、無から有とは言わないが、1を100にしてエピソードを語った。
運よく採用された職場で働き始めて、全くタイプが違うところに採用されてしまったなと感じた。
当たり前だ。リーダーシップなんて発揮したことがない。時代が求めていない人材だから。
しかしそういう職場で採用されたため、強制的にリーダーをしなくてはいけなくなった。
恐ろしい体験だった。
また、「私そういうタイプじゃないんで…」とは仕事じゃ言えないって本当なんだなということも知った。
私が担当したのは、やったことがないしそういうタイプじゃないと思う仕事ばかりだったので、
腐るほどチャンスがあった、ともいえる。
チャンスがやってくるたびに、ああそんなタイプじゃないしどうやったらいいんだよ…と悩んだ。
よっこらしょと必死に持ち上げ、なんとかこなし、また次…とやってきたら、
必要なピンチもといチャンスがやってきて、しぬほど悩み、そこから何かを学ぶ、の繰り返しは
辛いだけだったが、この状態を一言で言えば、着実な成長だった。
想像と全然違った。着実な成長ポスター展があったとしたら、そこに私のような人間は描かれない。
自分の思いとは全然違うところで、着実に成長している私は、一体何なんだろう。
少し息抜きをしたいのかもしれない。
私は今まで大きな思い違いをしていた。
田舎より、中途半端な都会より、そんなものより文教地区のタワマンが立ち並ぶ街(かといって若者の商業施設が立ち並ぶわけではない街)の方が何倍も、人に対してフラットなものの見方をしているということに気づいた。
いわゆるそこは環境の良い比較的お金持ちの街だった。本当にそこのママたちはフラットだった。
例えば子どもが保育園に行く家も、普通の幼稚園に行く家も、お受験をする家も、インターに行く家も、ほとんどが同じ割合でいたので、あらゆる家が“普通“だった。
0歳から保育園に行くと言っても誰も「可哀想」なんて言わない、幼稚園受験をすると言っても「そんな小さいときから…」なんて言わない、インターにいっていても「じゃあ英語しゃべってw」なんて言わない。
誰かの家に遊びに行く時も「うちはあそこのタワマンだよ、来てね」「うちはその横だよ」「いいなー、うちは賃貸だよー(笑)」そんな感じで誰も「うわ、タワマン?金持ち〜っ」なんて言わない。
旦那さんが医者でも弁護士でも社長も普通のサラリーマンでもどれも全く珍しくない。
お昼ご飯に、コンビニ弁当を食べていようか、2000円のステーキ弁当を持ってこようが誰も気にしない。「わー!お肉美味しそう!それどこの?」「あ、それコンビニの新商品!?セブン?明日それにする!」というような感じだ。
この街に引っ越す前、私は別の地に一軒家で住んでいた。文教地区でもなければ、近くに受験幼稚園もない、昔ながらの土地に最近子育てが世代が多く入るようになったような地域だ。
その時に散々言われた。
家の前を通った顔も知らない人たちに「うわっでかい家!金持ちはいいな!」「はぁ…金持ちが」
子どもを学区外の学校に通わせると「金持ちいいな」「ボンボンw」「うちは普通の家だから、そんなお金ないし」「あそこはお金持ちだから」
そんな事を散々言われた。
引っ越しをして本当に心が穏やかになれた。もう周りから差別されない、どんな家庭環境でもそれを“普通”と受け入れて貰える。それがこんなに尊いこととは。
子育ての話がぼかさなくても出来る、子どもの誕生日プレゼントに何をあげたいか相談出来る、息抜きにホテルランチに行こうと話が出来る、高いから無理!と笑いながら断れる、幼児から習い事をしていても「教室楽しい?いいね!」と子どもに話しかけてもらえる。
匿名で自分のログを世の中に浮遊させ、そして拾って頂けるのは楽しかったです。
長く続けるとバカなので何処かで絶対にボロが出る。なのに書きたくなってしまった。
再投稿です。きちんと上がらなかったように見えたので、消してしまって、もうええかと思ってしまったのだけど、
見たかったというコメントを見て、少し修正して上げることにしました。こんな駄文にありがとう。
https://anond.hatelabo.jp/20210130001953
https://anond.hatelabo.jp/20210131035752
これらの続きです。
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前回のエントリでずっと4GBのメモリとともに作業していたと書いたが4GB以下が正しい。
最初の現場は128MBだった。あと、盾を鉾と書いていた。この誤字脱字と誤用の多さで私のプログラマとしての質の低さもなんとなく察して頂けるだろう。
◯結婚した話◯
何故か結婚の話が書かれていないという書き込みが幾つかあったので結婚の話から。
30歳を越えてから趣味が充実していた事もあって周囲には煩く言われるものの、結婚を考える事はあまりなかったし、結婚の分岐に入ることが必ずしも幸福につながる選択肢とは限らないと考えていた。
この考えは今も変わらないが私は運良く幸福につながるほうへ入ったようだ。すまんな。
何せ30歳を越えてからは同じ趣味のおっさんの友人たちと焼き鳥屋であーだこーだいいながら企画を練り、イベントを立てたりするのが楽しくて仕方がなかった。
20代があまりにも労働をしすぎた。22歳から28歳までの6年間、年俸制なので一円も残業代が出ないのに月300時間勤務を2年半はやったと思う。最初のうちはISDN接続のテレホタイムでのネトゲが自分のゴールデンタイムであり、息抜きの時間だった。
時代が今なら渋谷凛か風野灯織に貢いでいたことだろう。長い労働時間は人生の搾取だ。
嫁は異業種の人で、友人のボカロPのファンだった。彼のライブに通ううちに顔なじみになり、少しだけ会話をするようになった。
ある時行ったライブが月曜夜の開催ということもあって若い人が多く、ライブハウスの中でスーツを着た客が私と嫁しか居なかったので思い切って「今日はスーツ、我々だけですね」と話しかけ、そこから色々な話をしたのを覚えている。いやらしい。
ボカロPのライブでの出会い、つまり私が結婚出来たのは初音ミクさんのおかげだ。
30歳になったあたりからようやくIT業界に過残業を何とかしようという機運がやってきた事、そして定時で上がる精神的な胆力がついた事で音楽を作る時間的精神的な余裕が出来、人との交流が生まれ、ライブに行く機会が出来たから私のような人間でも結婚出来たのかもしれない。しらんけど。
国勢調査によると35歳を過ぎてから結婚した男性は約3%らしい。私は一生分の運をこれで使った。(正しくは6.8%だと何処かの教授が言っていたが)
自分が居た現場の雑感だと、同じシステム開発現場でも大手SI や 大手SI子会社のほうが結婚している人が多かったように思う。多重派遣はやはり収入面で結婚に対してネガティブな意見を聞くことも少なくは無かった。
若い頃は親にも親戚にも「そろそろ結婚も考えないといけないだろうから派遣社員辞めないとね」と言われたことを思い出した。SESの増田は一度は言われたことがあるだろう。
世間一般的には技術職というイメージよりも派遣社員というメージが強く、収入面も相まって世の中の反応厳しい。
普通の一般派遣と請負の派遣の人が混在している現場が多いと思うが、前者は1人でも派遣が出来、上位会社の現場のリーダーが直接指示をすることが出来るので最近はその方が多いように思う。
ところが、一般の派遣会社として登録するには資本金が多くないとダメで、派遣法が改正されたあたりで資本金が少ない会社は請負の道を選ぶしかない。
そうすると複数人で現場に行き、自社のリーダーに仕事の指示をされる形になる。ただ、コレは守られていない現場が多い。
さらに、大手や大手子会社と取引を直接行うのにも資本金の大きさ・設立してから何年等の条件があったりもする。
資本が少ない会社は資本金の多い「別な会社を迂回して」契約する。そこに多重派遣ができる仕組みの1つがある。上位請負の営業が◯◯社経由しろという場合、利権・癒着の場合もあるのだろう。
新人の時、パワハラの教育担当に私が毎日何度も怒鳴られているのが流石にプロジェクト内で目に余るようになったらしく、私はドキュメント整理という新たな仕事を貰う事になる。
炎上プロジェクトの為、全く作られて無かったクラス図をソース等からRational Roseで自動生成し、体裁を整えて他の設計書も含め印刷をした。同じものを2部作るのだが、何故か同一性保持という理由で一部はコピーで制作。分厚いバインダーに綴じた。
印刷とコピーで休憩もせず毎日終電の生活をしていた時、PMに「広島の二番バッターみたいだなおまえ」と言われたのを覚えている。コツコツやるけど面白みがない人間だと言われたのだ。
要領の悪い私に休憩のタイミングなんて解らなかった。ましてやパワハラマンに使えないと毎日散々どやされ続けた後なので尚更である。
その経験から私は同じプロジェクトに居る若手に「そろそろ1回休んだら?」「いつまで働いているの?増田がそろそろ帰れって言ったって言ってもいいよ」となるべく声をかけるようにしていた。モテそう(モテなかった)
この時、たまたま席が空いているという理由で隣に座っていた方が、のちに難易度が高い事で有名な銀行統合の現場の某SIのトップになっていた。プロジェクトの雰囲気は良くなかったが、いつもにこやかで私のような末端にも優しかったのを覚えている。出来る人は余裕がある。
印刷業務が終わった後、入社してからずっとテストだけをやらされていた1年上の先輩のアベさんと、とうとうプログラムの修行に出してもらえる事になった。
新規開発のプロジェクトである。プログラムも一杯書けてラッキーなのではと思っていたのだが、自社の人間はアベさんと私だけで、あとは上位会社のPMと、更なる下請けで構成されていた。
現場のリーダーも下請けの人で、この人が私とアベさんの教育係という事になった。
自社の営業が初日に来て「この子達よろしくね」とリーダーに伝えた所、「任せてください!」と良い返事をしていたが、自社営業が居なくなった翌日から面白いくらい態度が一変することになる。
何を聞いても露骨な悪態をつき教えてくれず、技術的な質問も一切受け付けない。
流石にアベさんと自社の営業に伝えたのだが、翌日朝私のところにやってきて「チクったな」「自社の人間でも無いお前らに教える余裕はない」と言われてしまうだけで特に事態の改善はされなかった。パワハラ上司の次はこれだ。駅のホームドアは大事なので全駅に付けて欲しい。
救われたのはインターネットが使える現場だった事だ。とはいえ、なんせソースレビューも私とアベさんで互に行うので、技術的な進歩がまるで無い。
ある時、私が書いたプログラムがメモリを使いすぎてフリーズするようになり、問題になってしまった。他にも技術的に問題のあるプログラムを書いてしまった事が続いたのと、リーダーに対してハッキリとモノを言うことも災いし、PMの判断で半年でプロジェクトを出ることになってしまった。
もっとうまく立ち回る事も出来たように思う。しかし、若造は人生の経験値が足りなかった。
多重派遣の大きな問題として、現場ガチャにより環境が大きく変わるというのがあるだろう。2~3年も我慢すれば大抵の場合次の現場に行けるのかもしれないが、短い人生の2~3年は少ない数字ではない。
請負ではなく一般派遣扱いで来る技術者の中には新人なのに1人で派遣されてくる人も多い。そんなのは新人教育とは言えないと思うのだが、どこの会社の募集要項にも新人教育はバッチリと書いてある。
その「新人教育」とやらの実態というのは大抵の場合、外部で行われる初心者研修と、自社の営業が「この子よろしくね」と現場に伝える程度の事でしかない。
社会人としての新生活での不安、技術的な不安、誰が教えてくれるのかも解らない不安、定時になっても誰も帰らない・帰って良いとも言われない、作ったものの品質の不安、数多くの不安を抱えて過ごさなければならない。ちゃんと相談出来る人も現場に居ないのである。
技術的な所は勿論、精神的なケアも必要な時期だと思うのだが、このような体験を20代前半でしないといけないのはどうも無駄な苦労をしているようにしか私には思えない。
ただ、新人が伸びる為に必要なのは「経験者によるソースレビューによる指摘」が必要不可欠だと私は思う。レビューを先輩・上司が行い、新人が書いたコードの信頼性の担保が出来ないと、余計なバグを生み、可読性・メンテナンス性も落ちるだろう。
なによりバグを出してリーダー・PM・顧客に「こいつ大丈夫か?」と思われるストレスの大きさと自信喪失感は長く忘れられない。
余談だが、最初の教育担当のパワハラ先輩とはその後別な現場で一緒になった。しかも彼は会社の倒産後、上位請の会社に転職していたので私に仕事を振る立場として現れたのだ。全く知らなかったので顔を見た時は「ヤバい現場に来た」と焦ったのだが、「あの時は俺の頭がどうかしていた。申し訳ない」とまず謝られてしまった。驚くほど柔和な性格になっていて棘が全て抜け落ちていた。その後一緒のプロジェクトの間はたまに昼飯を一緒に行くまでになった。
約1年一緒に働いたが一度もドヤられる事は無かった。許せるか許せないかは別として、パワハラをするほうにも何かしらの事情や背景があるのだなと一つ学んだ。
社会人1年目の忘年会はゲイのショーパブの観劇だった。そこでアベさんはダウンタウン浜田の高校(全寮制男子校)の同級生というママに唇を「むちゅーーー!!」と音が聞こえるような熱烈な口づけをされ、人生のファーストキスを奪われていた。私は隣でただ震えるしかなかった。
知人もなく上京してきた為、他の社員と交流する帰社日をそこそこ楽しみにしていた私は怒りのあまり社内報に若気の至りで”ボロクソ”に書いた所、社長の目にとまり、翌年から忘年会の幹事を任されることになってしまった。なにせショーパブの観劇は社長の要望だったのだ。
そして、普通の居酒屋で特に弾まない会話をして終了をする忘年会を2年繰り返した。
自社の忘年会を面倒に思うベテラン社員は多く、各現場に電話で来てくださいねと念を押して来て貰ったのに参加者が全然楽しそうではないのだ。
普段それぞれが別の現場に居る人なのでそれほど同僚感も無く、特に仲も良い訳でもないので会話が弾まないためだ。良かれと思って2時間半飲み放題にしたが、本当に盛り上がらない。
「なるほど、これで会話をしなくて良いイベント(且つ社長の趣味)がブッキングされたのか・・・」と理解した。
その経験があり、”自社”に缶ビール等の各種アルコール・ノンアルコール飲料とテイクアウトの料理を用意し、16時開始、17時から随時帰りたい人は帰る。という方式に変えた所、立食(椅子も勿論ある)で仲の良い人の所に居て彼らとだけ話すことも出来るし、色々な人と交流することも可能になった。時間が短いために会話のネタに困ら無い事も功を奏し、思った以上に盛り上がる事が出来た。
子供が出来た今ようやく思うに至ったが、子育て世代も延長保育やパートナーにお願いすることもなく早めに帰れて良かったはず。殆どは17時から続々と退社していたが、以前は無かった有志の二次会組もいくつかあったようだ。参加者にも総務部長にも「毎年これで良いね」と言われ、ほっとしたのを覚えている。
何が正解かは解らないが、業務時間内で終わる自社での短い時間の立ち飲み(椅子席あり)は好評だったので、幹事をやらされがちなSES増田は参考になれば良いなと思う。
基盤まわりの仕事をしていた時、あまりにもプロジェクトでメモリの初期化漏れが頻発して問題となり、プロジェクトのお偉いさんが捻り出したアイデアが「”物理”メモリ全部を定期的に端から終端まで0で埋める」というものだった。
そしてそれをどう実現するか?という会議に呼ばれたのだ。
指を使い「物理メモリを”端から””端まで”全部、プログラムが動かない時間に定期的に一回ゼロで埋めればいいじゃない?」との説明があった。
これは良いアイデアだとご満悦の上役と、違和感を覚えない他のベテランの参加者達。
「まず、仮にこれが実現出来たとして、サーバーが立ち上がった時点でOSやミドルがメモリを利用していますが、どうしますか?OSもミドルも当然落ちます。」
「メモリですが、皆さんが普段変数宣言やmallocで受け取っているメモリの番地ですが、全て仮想メモリのアドレスなのはご存知ですか?」
「我々のような庶民は直接物理メモリアドレスに仕組み上アクセス出来ません」
「物理メモリにアクセスするにはカーネルのプログラミングが必要になります」
「メモリにはユーザープログラミングで触れる事が出来る層と、カーネル層という仕切り、さらに仮想メモリ・物理メモリという仕切りがある為に、堅牢性を保持している云々」
ここまで伝えても皆ピンときていない。文章にすればまだ解るが所為オタクの早口の説明なので当然、私の話術にも大いに問題はある。
もしかして自分が間違っているのか?このままだと私がこの対応をやらされる羽目になる。
私は交渉事でうまく立ち回れる技を持っては居なかった。なので、最後の手段に出た。
「だからこんな方法は絶っっ対 実現できないんですよ!!!」と突然のブチギレ。いや、出来るのかもしれんけど。
一同ポカーン。突然のメガンテを使った私に皆パルプンテ状態になり、
「増田がココまで言うのなら出来ないんだろう」という事になった。
正直、高い技術も必要ない汎用的なシステムの開発現場のなんてこんなものだ。AWSもGitHubも触ったことのない私があえていおう。
最初のエントリーに業務時間内に勉強させろと書いたが、目的が無ければおそらく時間があっても、「私は完全に仕事をしています」という顔をしながらviで青空文庫やアマチュアの小説を読んでいた時間の方が長かったのではないかと思う。
はじめに。
自カプは長寿ジャンルのマイナーカプだ。ジャンルだけなら時たまオンリーが開かれるぐらいの規模だが、自カプはPixivに三桁には程遠い二桁しか作品がない。そのうちの半分は私が書いた話だ。
ブクマは天井でも三十に届かず、一桁がデフォ。ブクマしてくれる人はいつも同じ顔ぶれで、コンスタントに活動している字書きは私ともう1人だけ。絵描きも似たようなものだ。
神字書きことAさんは普段は別ジャンルをメインに活動している。自カプを書く頻度は半年〜年に一作程度だが、作品を上げると天井に近いブクマがつく。
Aさんが最初に自カプを書いてくれたときは、純粋に自カプの作品が増えていることが嬉しかった。他の人が書いた話は滅多に読めないので、一行一行を噛み締めるように読んだ。
Aさんの文章は作中の情景が鮮やかに浮かんだ。読んだ後の余韻は翌朝になっても醒めなかった。とにかく言葉の運びのひとつひとつが美しく、私は何度もAさんの作品を読み返した。
Aさんの作品は簡単に二桁ブクマがついた。いつも私にブクマをくれる人とは違う人たちの名前が並んでいた。Aさんの作品は自カプは好きだが読む専の別カプの書き手にRTされて絶賛されていた。普段、私の書いたものには何の反応もくれない人が、Aさんの作品のことはあれこれと褒めていた。
なんだか釈然としない気持ちだったが、Aさんはそれからしばらく自カプを書かなかったので、私はAさんのことは別ジャンルの神が一瞬の気まぐれを起こしたのだろうと思っていた。
だが、Aさんは間を開けて二作目を投稿した。私は怖々と二作目を読み、うちひしがれた。相変わらず私には絶対に書けない発想の話だったし文章も相変わらず美しかった。自カプ二人のやりとりは原作に出てきてもおかしくない自然さだったし、サブキャラも魅力的に描かれていて、他キャラファンが読んでも楽しめそうな話だった。投稿後、数日して、やはり誰かがTwitterで話題に上げて「理想の〇〇だった。皆読んで欲しい」と言った。二作目にも二桁ブクマがついた。一作目はその頃にはカプタグの天井になっていた。
Aさんの書く話は短い。一作目は5000字程度だったし、二作目も3000字を少し超えるぐらいだった。しかし、私が書いた1万字よりAさんの書いた3000字の方がずっとずっと求められていたし、私の全作品を合わせたブクマ数とAさんの二、三作が等価だった。
AさんのTwitterは当然ながらメインにしている別ジャンルの話ばかりで、自カプの話は滅多にしなかった。新規の燃料があった時もそうだ。多分燃料があったことにも気づいていないんだろう。
Aさんはメインで活動している別ジャンルでも人気があり、作品を上げれば、引用RTやリプライで、必ず何かしらのレスポンスを貰っていたし、相互らしきフォロワーと楽しそうにやりとりをしていた。
Aさんは絵や漫画も描けた。小説を書いていると息抜きに絵が描きたくなるタイプの両刀らしい。私はAさんが自カプを描かないように祈っていたが、気まぐれにAさんが「自カプの話」と上げた漫画は界隈の誰かの目に留まり、RTからそこそこのいいねと「自カプいいよね」という反応を引き出していた。私以外のもう1人の字書きは「あの方、絵も描けるの!?」と心酔していた。
Aさんの画力は低くはなかったが神レベルではなかった。それでも、小説と同じく着眼点が独創的だったし、モノローグや台詞の言葉選び、コマ割りのセンスが良かった。どことなく違和感があるパースがあやしい背景の小物ひとつにも、Aさんの自カプ解釈が詰まっていた。
自カプはマイナーだから、ブクマが少なくても、反応がなくても仕方がないと思ってきたけれど、単に私が下手だから見向きもされなかっただけなのだとAさんを見ていると気付かされた。書くのがどんどん苦しくなった。私がどんなに時間をかけても、Aさんの片手間の自カプ愛に敵わないのが嫌だった。そう思いながら私はAさんの書(描)いた自カプを繰り返し読んだ。何を食べたらこんな自カプが書けるのだろうと考えながら読んだ。何もわからなかったが。
Aさんが好きだと言った作品は機会があればチェックした。本も読んだし映画も見た。別ジャンルのAさんの本も通販で買った。私はAさんのメインジャンルをよく知らないが、キャラクターの紹介が丁寧で、原作がわからなくても最後まで読みきれてしまった。
ある日、Aさんのメインジャンルと自ジャンルのイベントが同日同会場で開催された。私は自ジャンルでサークル参加していた。
一般で来ていたAさんはメインジャンルの買い物が終わったらしく、昼過ぎに「〇〇(自ジャンルオンリー)にも行ってこよ」と呟いたが、私のサークルに人が来ることはなかった。
イベント終了後、逆カプサークルが「既刊全部買ってくれた人がいたから話しかけちゃった〜」と嬉しそうにTwitterで呟いていた。なんの根拠もないが、もしかしたらAさんかもしれないと思った。Aさんかどうか確証もないのに、私の自カプ本より逆カプ本の方を手にとった、少なくとも私の本には興味がなかったAさんのことを恨んだ。
Aさんに対する私の感情が完全に逆恨みなことは自分でもよく分かっている。Aさんは純粋に自カプが好きだから、メインジャンルの合間に時間をとって何度も作品を上げているのだろうし、ただ淡々と神作品を上げる閲覧者からすればありがたい書き手だ。
それでも、私が毎日自カプについて考えていても生み出せない話を、Aさんがさらっと思いついて書き上げ、さもカプの代表作のようにブクマを取るのが許せないでいる私は、Aさんの神作品を押し流すように自カプタグを増やす。ブクマは一桁しかつかなくても。
別に2020年に発売されたゲームというわけではない。というか、大抵はSteamセールで買った奴。
Endless Spaceが良かったことを覚えていたので買った。
買ったのは良いのだが、1と違って2はいまいちハマれていない。理由は良くわかっていないのだが、一応インストールは続けているので暇を見て遊び直すつもりだ。
鉄道網を中心とした交通会社運営シミュレーションゲーム。
A列車を知っている人間に対して言うが、TpF2で複雑怪奇なダイヤを組むことは出来ない。それどころかダイヤを組むことすら実質的には出来ない。というのも、このゲームは1850年頃から現代までを網羅する都合上、ゲームスピードが結構早く、隣町に辿り着くまでに数ヶ月かかるみたいな事が起こる。なので、ダイヤに拘るならA列車に拘るしかない。
C: SのDLC。確かボイロ実況を見ながら買った。
このDLCの要素は、まだやってない。
確かゆっくり実況を見ながら買った。いや、お薬ボイロ実況だっただろうか? どっちでもいいか。
Project Hospitalは2018年に出た病院経営ゲームだ。同年に出たTwo Point HospitalがTheme Hospitalの精神を継いでコミカルな方面に振っているのに対して、Project Hospitalの方はリアル方面に振っている。ただし、狂犬病は治る。あと、米国の保険システムをベースにしているので、日本とはちょっと違っていて、もちろんゲーム的な味付けはあるのだろうけど、契約した保険会社が客を送ってくるし、基本的には保険会社によって客単価――患者単価が変わってくる。あと最初に契約するのは保険無し。つまり……君達に500$とか請求するけど、破産しないよね? ということだ。
さて、Project Hospitalが何かというと、患者が死ぬ前に全ての処置を行えるように専門処置室を設置し、医師と技師、看護師を配置し、患者の命を繋ぎ止めていって大金をせしめるゲームだ。
まず、動線が悪かったら患者は死ぬ。必要な診察室がなくて何の病気かわからなくても患者は死ぬ。キャパオーバーしていて充分早く診察が行えなくても患者は死ぬ。そして、それら全てをクリアしてどの病気かわかったとしても、治療が間に合わなかったら患者は死ぬ。
ゲームの最初はそんなにシビアじゃない。総合診療科は基本的には軽い病気しか扱わないからだ。しかし、新たな診療科を開業していくに連れて難易度は上がっていく。
俺は最初の病院で、総合診療科の次にうっかり内科を開業させてしまった。数多の患者が肺に水を溜めて死に、病院の経営は悪化し、新たな施設投資は夢物語となり、そして、数多の患者が肺に水を溜めて死んだ。
俺はその病院を放棄し、別の病院を開業することにした。今度は整形外科から作ると誓ってな。
航空事故が血によって航空機の安全を確保してきたように、このゲームもまた、架空世界の患者の命を犠牲にすることで、より良い医療体制を追求する事ができる。
そして思うのだ。あぁ、ゲームで良かった、と。
理由はよく判らんが何故か買った。多分セールかなにかだったんだろう。Steamは魔境だ。セールと言うだけで特に遊ぶわけでもないジャンルのゲームがライブラリに増えている。怖い!
長寿シリーズの高評価リメイクだけあって俺が何かを言う必要も無いほどに良い。
一つだけ気にくわなかったのは龍が如く7のおま国だったが、無事解除される事になったので特に言うことはない。
と終わろうとしたが一つだけあったわ。どこでも真島のせいで真島さんのストーリーでの立ち位置が意味不明になってない?
C: SのDLC。確かボイロ実況を見ながら買ったが、その実況でこのDLCが使われているわけではなかった。
このDLCの要素は、まだやってない。
Wargameシリーズや、更に遡るとRUSEを開発していたEugen SystemsのWW2 RTS。
Wargameのように一定の制限の元にデッキを作り、デッキを使って戦うゲームだ。
さて、そのデッキを組むのがちょっと面倒だ。まず、Steel Division 2では東部戦線が舞台になるのだが、その中の師団(一部旅団じゃね? って気がするのもある)から1つ選んで、デッキを組むことになる。各師団は戦車師団であったり歩兵師団であったりして、それに応じて戦車が強かったり、歩兵が強かったり、砲兵が強かったり、航空戦力が強かったりする。あと、資源の増え方が師団によって異なる。だが、それを師団名とちょろっとある説明でわかるというのは難しくない? とは思うし、何よりどのユニットが良いのかわからん。俺はV号戦車がIV号戦車より強いのは知っていても、T-34-85こそが当時の万能戦車であることは知っていても、ナントカ歩兵がホゲホゲ歩兵より強いのかは知らないのだ。結局、俺はYoutubeを参考にお手軽デッキを組み、それから歩兵を減らして偵察を増やした。
ちなみに、パン偵(Aufklärungspanzer V――アウフクラルングスパンツァー フュンフ)は個人的に結構良いユニットなのではないかと思っている。
さて、デッキを組んだのでスカーミッシュに繰り出すわけだが、CPUが結構手強い。
俺みたいな弱者は戦車師団を元にした戦車デッキじゃないと勝つことが出来ないくらいには強い(どの難易度のCPUを選んだかは忘れた。Easyだった可能性はあるが、Normal的なのだった気もする)。
いや、ほんと歩兵師団でどう上手く立ち回るんだろうと思いながら別ゲーに逃避している。
Netflixでミート・イーターを見ていたらやりたくなって買った。
俺には合わなかった。
代わりに高い肉を買ってきた焼いた。
美味かったが、大自然の風味はしなかった。
大航海時代っぽい奴。面白そうと思って買ったみたは良いが、そこそこ近くでも移動するのに30分掛かり、さらに別の港までは逆風で60分ほど掛かったのでプレイ継続を断念した。
好きな奴は好きだし、ハマる奴はハマるゲームではある。
まだやってない。
たしかPS4で買ったのだが、PS4は弟に譲ったので買い直した。
スパロボはスパロボだが、ヤマト2199が出て来るという点で異色か。
版権の問題で難しいとは思うのだが、αやZシリーズをPC移植してくれないかな。
3D版Factorioと表現したくなるような奴だが、Factorioと違って原住生物の襲撃がないのがちょっと物足りない。
しかし、工場を立体的に構築するという点についてはFactorioとは違った面白さがある。
これは前からセイギャラ実況動画で知っていたのだが、ETS2以外にのんびりするゲームが欲しいなと思った時にセールで買った。
石灰を撒き、肥料を撒き、耕して種を植えてから肥料を撒き、除草剤を撒き、もう一回除草剤を撒き、そして収穫する。これらを全て違う農機を駆使して行う農機シミュレーター。
かつては農業シミュレーターと呼んでいたのだが、サクナヒメが出てからは農機シミュレーターの方が合ってるなと思って俺の中での呼び方を変えた。
ボーッとゲームをしたいときにするゲームの1つ(もう1つはETS2)。
一応ハンコンにも対応しているのだが、あまり合わない気がする。
クッキングする系ゲームだが、プロパン爆破ゲームと勘違いされている気がしなくもない。
まぁ、ケーキやクッキーを作れるようなDLCを買ったのは良いのだが、現実でやらんタイプの料理をコイツでしてもなんか面白くないなと思って結局本体だけやってる。
教授の動画のようにMODを増やしていくことで経済面が充実していくので楽しいのだが、今はE:Dに回帰してしまった。
この表現が正しいかどうかはわからないが、これはカイロソフトの『ゲーム開発途上国』の系譜にあるゲーム開発会社運営ゲームであると言って良いと思う。
似たようなゲームとして『Mad Games Tycoon』や『Game Dev Tycoon』がある。『Software Inc.』なども類似性があると言えるかもしれない。
City Game Studioは、複数のスタジオを運営できたりと、この系譜の現時点での完成形と言っても良いと思っていたのだが、『Mad Games Tycoon 2』が出ていたのでその判断は差し止めて置く。
ただMad~Tycoonのグラフィックは結構人を選ぶタイプなんだよなとは思う。
地下鉄駅のネットワークを営業するシミュレーションゲーム。
どうもロンドンのチューブをベースとしているらしく、東京の雪崩を相手にする必要は無い(そっちは多分STATIONflowがそんなのなのでは?)。
俺は捻くれているので、実況とは違って音楽系U-Tuberになることにしたのだが、あまりクオリティが高いとは言えない音ゲーが挟まるのがストレスポイントになって終了した。
ピラミッドとZUNTATAのスマホゲームをやっているので買った。
こいつは古き良きRTSに近くて、ただマップが球体であり、宇宙があり、そして、他の球体がある。
俺は古のConquest: Frontier Warsがゲームの原体験なのでこの手のゲームは好きなのだが、Steel Division 2の話で気付いたように、俺は弱い。
俺は弱いのだが、Planetary Annihilation: TITANSはそんな俺でも爽快感に満ちる事が出来る。なぁに、途中の趨勢が悪かったから何だというのだ? スーパーレーザーで惑星ごと破壊してしまえばこっちの勝ちだし、惑星を破壊すると言うことはそれがなんであれ、最高に気持ちいいのだ。
超細かくて楽しいことは楽しいのだが、このゲームをやっているとその時々の自動車産業史を調べたくなってしまって中々進まない。
例えば、このゲームの序盤はピックアップトラックを作って各国軍に売り込むのが初期資金を作り上げる手として有効なのだが、この時に自動車用エンジンの設計もすることになる。この設計をするときに、史実のこの年代だとどの程度のエンジンが開発されていたのかを参考にしたくなる。そしてそのたびに手が止まる。
そもそもピックアップトラックは1900年に存在しねーよとかは、まぁその通りだが(歴史上初めてのピックアップトラックは1913年に作られたし、メーカーの純正モデルになったのは1923年らしい)。
買ってインストールし直して起動していない。
Cyberpunk 2077が話題になっていたので買った。
なんか動画を見てゲームを買うことが多い年だったな、と思ったが、ゲームを知る経路がジャンル別のPV集から実況動画に変わっただけな気もする。
そして実況動画で受けた印象とは違うプレイフィールに気付くのだ。あぁ、実況動画って繰り返し作業はカットしているな、と(実際、俺も試しにYoutubeでの再生数2桁の実況動画を作ったが、1時間録画して使ったのは10分とかそう言う感じだった。序盤でそうなので、ゲームが進んで作業が増えてくると使用率は推して知るべしとなる)。
まぁ、でも2020年のメインは、PCクライアント版が投入されたピラミッドのアリスギアだったんだよな。フリック回避が暴発することはあれど、大画面とXBoxコントローラーでするシューティングゲームは息抜きには丁度良かった。丁度良すぎて数時間調査に費やしたことがあったが、あれも多分息抜きだったのだと思う。
そして俺はピラミッドの思惑通りにブキヤ沼にハマり、今はFAガールが2箱、メガミが4箱、創彩少女庭園が1箱、ギガンテックアームズが1箱積まれている。多分、少ない方だと思う。
その人の話をしよう。
私は『逃げの就職』を選んでしまったタイプの人間であり、たいして興味もなく近くて就職率がいいというだけで高校選びをした。
やりたいこともないのなら、いち早く稼げるようになりたかった。
お金があれば、何かしらやれると思った。
そうして3年過ごし学生時代も終わろうか、というところでできたのが上記の恋人だ。
恥ずかしながらそういった経験ゼロ、画面と喋ることが日常だった人種なので、正しいかどうかも普通なのかもわからない。
それでもそれなりに上手く付き合っていけていると思っている。
少し話が飛ぶが、私は、学校での勉強の成果というものが人生の幸福に必要だと思っていない。
自分のまわりにそういう大人がいなかった(言い方が悪いが、多分みんな頭があんまりよくなかった)影響なのかもしれないし、自分も大して優秀な人間な訳ではないからかもしれない。
やりたいこともなく、金銭面にも余裕があるとは言い難い環境だったので大学に行く気もなかった。
(この考えは、まだ後からやり直すことだってできると周囲に言われてきていたのは影響していると思う。)
看護について勉強していると聞いた時、よくそんな風に頑張れるなと思ったのは覚えている。
だから、辛そうなのを見ていると『そこまでして頑張らなくていいんだよ』と、時々口を滑らせそうになる。
本人なりに向き合いたい理由だとかどうしたいだとか、日頃から気持ちは聞いている。
だから、頑張ってなんて言いたくない。
頑張っているのを見ているから。
でも、そうするとかける言葉が見つけられない。
頑張ってるのも辛そうなのも知ってる。
今後の為に学んでいるのだ。
自分のように、『ポイントを通過する為の勉強』ではないのだと、そう思うと余計に、どう言葉をかけていいのかわからなくなる。
もし気兼ねなく会える距離にいるのなら、こんな悩みはなかったのかもしれない。
飛んでいって、背中をさすって、落ち着くまでそばにいたかもしれない。
今日は温かいものを出してあげようとか、差し入れに息抜き用のお菓子を準備しようとか、そういうことができたかもしれない。
そんなたらればを並べてしまう程度には、今、自分に何ができるのかわからない。
安い気休めの言葉をかけたいわけじゃない。
でも、本心からの言葉はかえって邪魔になってしまうのではないか。
ここ数日、今まで以上に頭の中をぐるぐると巡ってしまっている。
1) について。
Hanakoはインスタグラムを雑誌、ウェブと並ぶ第3の独自メディアとして編集、運用しています。ストーリーズ以外の投稿については、それだけで情報が完結しているマイクロコンテンツとして作成をしています。雑誌の発売日には告知をしますが、それ以外で何かの宣伝(続きは誌面でチェック!みたいな)を投稿することは基本的にありません。
2) について。
全世界で同じデザインと機能が使えるインスタグラムの中で、「Hanakoらしさ」を感じてもらうために、雑誌のアートディレクターがデザイン監修を行っています。特にこのあと紹介するリール動画や「インスタマグ」といった投稿スタイルは、雑誌の誌面デザインを活用した、Hanakoでしか作ることのできないコンテンツです。
3) について。
アップデートのたびにさまざまな機能が実装されるインスタグラム。Hanakoではそうした機能をまずは使ってみて、Hanakoとしてどういった発信ができるか常にトライしています。そうした中で、当初限られた範囲で開放された「GUIDES:まとめ」機能のテストパブリッシャーにも選ばれました。そのGUIDESにLIVE配信を組み合わせた、インスタグラム上で完結するショッピングプログラムにも現在挑戦中です。
いま注目してほしいHanako独自のインスタコンテンツはこれ!
Hanako公式アカウントでは専任ディレクターのもと、フィード投稿、ストーリーズ投稿に加えてインスタ独自のコンテンツを制作、発信しています。中でも注目していただきたいコンテンツを紹介します。
誌面デザインデータを活用した、まさに「動く誌面」というべきムービーコンテンツをリール動画に(とストーリーズにも)投稿しています。
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Weekly Hanako Insta Mag(Hanakoインスタマグ)
こちらも誌面デザインを活用。「10秒で見てわかる、見て学ぶ!」をコンセプトに、投稿文面を読まずともデザインされた画像をスワイプすることでわかりやすく情報を伝えるマガジンスタイルのコンテンツです。毎週木曜に投稿しています。web
インスタマグ
スイーツ、旅、グルメなどのHanakoらしいテーマのハッシュタグを毎月考案・発表し、企画共通ハッシュタグ「#Hanakogram」とセットで付けてもらい、投稿を募集する企画です。毎月1テーマで募集していて、集まった投稿の中からHanako編集長が「Hanako賞」を選定、公式アカウント内で発表しています。
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「GUIDES:まとめ」投稿
「GUIDES:まとめ」の詳細についてはインスタグラム公式リリース(をご確認いただきたいのですが、Hanakoは中でも「スポットまとめ」に注目しています。「スポットまとめ」は投稿に一覧マップが付くので、Hanakoが得意とするエリアお出かけ情報を活用したデジタルパンフレット的なコンテンツに挑戦してます。
ハナコカレッジオンライン(LIVE配信&IGTVアーカイブ)
働く女性に学びの場を提供するプログラム「ハナコカレッジ」。元々はリアルイベントプログラムとして企画していたものの、コロナ禍でベースをオンラインに移行し、インスタグラムのLIVE配信機能を使って、様々なワークショップやトークイベントをお届けしています。LIVEはそのままIGTVにアーカイブされるほか、ポイントのみを抽出した5~10分程度の編集動画を制作してIGTVで公開することも。
インスタライブ
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いかがでしたでしょうか?フォロワー数は約11万人と雑誌媒体の中で決して多い方ではありませんが、インスタグラムだからこそできる独自コンテンツに挑戦してきたHanako。その中で、今後は「いいね数」だけではなく、「保存数」も重視したコンテンツ作りを心掛けていきたいと思っています。毎日忙しく働く中で息抜きにふと見たインスタグラムの画面でHanakoと出会い、癒されたり、ためになったり、学びのきっかけが生まれたり、心豊かな生活の一助になるようなコンテンツ発信を今後も取り組んでいきますので、どうぞご期待ください。(フォローがまだの方はぜひフォローもお願いします!)