はてなキーワード: 勇気とは
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
人と上手く関われないという、この苦しみ。いえ、苦しみという言葉ですら軽すぎる。言うならば、人生を根こそぎ侵食する泥沼のようなものでしょうか。何のために、そして誰のために私はここにいるのか。職場に足を踏み入れるたび、そう問いかけてしまう自分がいます。
人が集まり、日常の会話が交わされる。おはよう、どうですか、最近は。私はその一言一言が怖いのです。その中に足を踏み入れた途端、私はどうしようもなく「余計なもの」になってしまうのです。そもそも私は、彼らの輪の中に入る資格など持っていない。私が何を話せば、彼らは私を受け入れてくれるのだろうか。いや、そんなものは最初から存在しないのです。彼らの軽やかな会話に、私の重苦しい言葉はただ沈むだけです。
ランチタイムには、さらに別の地獄が待っています。無理にでも皆と行くべきなのか、でもそこには自分の居場所などない。けれども一人で食べていると、まるで世界から取り残されたような孤独が襲ってくる。ひっそりと弁当を広げ、周囲の話し声を遠くに感じるこの時間の空虚さ。誰にも話しかけられず、誰にも見向きもされない自分の存在が、どんどんと霞んでいくようです。私には、何も語れるものがない。何も、話すべきことがない。
たまに勇気を出して、何かを話してみようとするときもあります。けれども、それがどうしてもうまくいかない。言葉が詰まり、伝えたいことが形をなさない。心の中には確かに言いたいことがあるのに、それが声となって外に出ると、途端に崩れ去る。周りの人々の無関心な表情に、私は己の無力を見せつけられるのです。どうして私はこうも不器用で、こうも無価値な存在なのだろうか。
職場の中で、ただそこにいるだけの自分。それはまるで透明人間のようであり、あるいは、誰からも忘れられた遠い記憶の欠片のようでもあります。自分が存在しているという実感さえ、次第に失われていくような気がします。このまま何も変わらないのならば、私はいっそ、どこか遠くの誰も知らない場所へと消えてしまいたい。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1510584
ちょっと2店舗くらいバイトで働いたことあるから、考えてみる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1510584
ブコメで色んな人が書いてる通り、近年の日本サブウェイの店舗数はかなり減っていた。
・ミスが多発する仕組み
・新規のお客さんが入りずらい
順番に語ってみようと思います。
奇抜な新商品を試すことが良くあった。
良く分からないロングソーセージとか、酸味が強すぎるサルサソースとかね。
私が働いてた場所は企業が多かったから、新商品を試しては曇った顔で退店するOLを何度も見たよ。
https://www.subway.co.jp/press/year2013/news1412/
フラットブレッドとは生地を薄く伸ばした「ちょっと厚いトルティーヤのようなパン」なんだけど、これがメチャクチャ人気だった。
でも、2022年に終了しちゃった。
原材料費の高騰が原因と言っていたけど、おそらく経営上の問題だろうね。
どんなに経験を積んだ人でも、お客さんのオーダーに従って、その場で野菜やらソースをカスタムしなきゃいけない。
お客さんの声が小さかったり、マスクをしてて声が聞き取りズラかったりすると、もうそこで入れる野菜を間違えたりする。
キャベツを間違えることは、ほぼないけど「ピーマン、オリーブ、たまねぎ」は人それぞれバラバラのオーダーだから、正確に入れるのが本当に難しい。
このように、サブウェイのカスタムサンドイッチって、ミスが発生しやすい仕組みなのよね。
これはサブウェイの売りでもあるけど、どんなに優秀な従業員がいても、ミスを減らすのは厳しいと思う。
混んでいる店だと、スピードも要求されるから、余計にミスが発生する。
サブウェイの仕組みって、時間と気持ちに余裕の無い日本人にはミスマッチなのよね。
特に会社員のお客さんが多い店舗だと「野菜は全部入れて大丈夫ですか?おすすめのソースはこれですが、いかがですか?」などなど。
サブウェイなら当たり前のやり取りだけど、このやり取りを嫌がるお客さんが本当に多い。
ちょっと野菜を間違えると必要以上にキレて暴れるBBAとか、何も聞かないで「いつものメニュー」を作らないと、キレ散らかす常連のゴミサラリーマンとかいる。
サブウェイって高校生も働けるから、新人の子がゴミ客に対応して、メンタル折られちゃうことが良くある。
全店舗サブウェイに通い慣れてる人は、店員とのやりとりを「省けるものなら省きたい」と思っているかもしれない。
米国なら店員とお客さんが雑談する文化あるから、成立するんだろうけど日本人は店員とのやり取りを「うざい」と思ってる人は多いと思う。
サブウェイって「買い方が分からないから行かない」って人が多いのよね。
新しく常連になってくれたお客様も「買うまで勇気がいった」とか言うのは珍しくない。
「店員とのやりとり」を見て「なんか難しそう」と思ってしまうみたい。
私も最初、サブウェイデビューする時はそうだったから、気持ちは良く分かる。
この「買い方が難しそう」な問題って、サブウェイにとっては「売り」なわけだから難しい問題だよね。
内部の別の視点だけど、忙しいお店で、店員がイキった大学生だったりすると、上手くオーダーできないお客さんにキレならが接客してる子いるのよ。
サブウェイは大した時給出してないし、学生が多い店舗だと、お客さんのことを考えない「良くも悪くも大学生ノリ」な空気になる。
大学生じゃなくてもフリーターがのさばって、雑接客かましてるパターンもある。
そういったオペレーションの仕組みや教育なんかの問題が、全国の店舗で積み重なって、サブウェイの不人気が形成されたんだと私は思ってる。
・ミスが多発する仕組み
・新規のお客さんが入りずらい
以上が実際に2店舗でバイトしてて、今でもサブウェイに通いつめる私が考えた、サブウェイが衰退した理由。
サブウェイは、ハマる人はハマるし、野菜だけの注文もできるからダイエット目的で使うOLさんも多い。
ワタミが完全子会社化するようだけど、どう変わるのか見物だね。
そのまま仕組みを引き継ぐなら、同じような失敗をしそう。
どうなるかね?
闘病の末に父親が死んだ。
よく周りからは「お父さんは幸せだった」「あなたはよく頑張った」と言われる。
動きやすいのは自分だった。長子だったのもあるが、自分の性格もあったとは思う。
仕事を休み、何度も父の元へと向かった。新幹線で、高速バスで、時には車で。
父は末期癌だった。
そして、さして仲良くもなかった自分が看取った。看取ってしまった。
自分にとって父とは、何だったのだろうか。
父が死ぬまでに、何度も心が折れた。
「勝手に死ね」とも「死なないでくれ」とも言えぬ自分の身勝手さに、気持ち悪さが付き纏った。自分には父を恨むにも愛すにも、圧倒的に情報が足りなかった。
記憶に残るのは、怒られたこと、趣味を語る穏やかで弾んだ声、モルヒネで死相が出ている痩せ細った体、そして最期の何か言いたそうにもごもごと動く口。
葬儀の日に泣き崩れた自分が何に泣いたのか、未だに分からない。
心が折れて何度か顔を見せられなかったことの後悔、最後に立ち会ってしまったことの重さ、知らぬことが多い父への疑問。
答えが出ず、吐き出せぬ気持ちが、肚の中にずっとぐるぐると渦巻いている。
知らなかったことの方が多かった。
金はそれなりに遺してくれたが、スマホの中には何もなかった。
遺したものに友人が居た形跡はあったのに、スマホの中には居なかった。
酷く寂しく、そして虚しい。
自分が知らなかった時間を知る人が、居たのか居なかったのかさえもう分からない。
消したのか、元からなかったのか。
ないとすれば、父とは何だったのか。
病院でも何処でも、何時でも聞ける機会はあった。
心の内を曝け出す勇気は、端から持っていない。だから電子の海に流す。
頑張って過ごすことに、少し疲れてしまったように思う。
そして起きて酷く安心する。
覚めたことではなく、その内容に。
ギャルっていっても、まぁ今どきの清楚系とか地雷系とかじゃなくて、完全に昔ながらのガングロ系。
真っ黒に日焼けしてて、目の下には涙袋をこれでもかと強調するメイクをしてる。
だからうちに帰ってきてから、怒りと悲しみのあまり、リビングで大泣きしだした。
その泣き方が凄まじくて、涙でアイラインが滲んで顔がぐちゃぐちゃになりながらも、なおかつ涙袋だけは頑張って強調されているという、なんとも言えないカオスな状態。
その時、私の頭にふと浮かんだのがベヘリットだった。
あの不気味な形をした、泣いているか笑っているか分からないような顔のアイテム。
姉が泣いている顔が完全にそれだった。
なんだか神秘的ですらあって、思わず見入ってしまった。ギャルが感情をむき出しにして泣き叫ぶ姿っていうのも、ある種の儀式に見えてしまうぐらいだった。
「もう絶対男なんて信じない!もう恋愛しない!」なんて叫びながら、部屋中にクッションを投げつけ、ティッシュの箱が吹っ飛んで、リビングがちょっとした戦場になっていた。
見ているこっちとしては、どうしてもその光景がベヘリットに見えて仕方がなかった。
いや、たぶん姉が真剣に泣いているのは分かってるんだけど、涙袋が強調されすぎていて、涙がそこから滲んでくる度にどんどんベヘリット感が増していく。
こういったことも初めての事じゃない。
毎回、全力で恋愛して、そして派手に振られる。これまで付き合った男たちはみんな何らかの問題を抱えていて、姉はその度に今度こそ本物の愛!と信じて突っ込んでいくんだけど、結局裏切られて大泣きするのがいつものパターン。
そんな姉を見ていると、「またベヘリット発動か…」って、私の中でいつの間にかそんなセリフが浮かぶようになってしまった。
姉にとっての恋愛は、常に危険な賭けであり、心のどこかでそれを楽しんでいるようにも見える。
彼女が次の男に夢中になっている姿を見るたびに、「またあのベヘリット顔を見る日が来るのかな」と思ってしまうのが、なんとも複雑な気持ちだ。
翌朝、姉はケロッとした顔で起きてきた。そして鏡の前でまた涙袋をしっかりと描き直して、派手なギャルメイクを完成させた。その姿を見て、私はなんだか笑ってしまった。まるで何事もなかったかのように、また「恋愛の戦場」に出ていく準備をしているようだった。
「もう大丈夫?」と私が聞くと、姉は振り返ってニヤリと笑った。
「当たり前じゃん!泣いたのは昨日だけ。今日からは新しい人生のスタートだし!」と、自信満々に言い放った。
この強さこそが姉の魅力なんだろう。私には真似できないけれど、何度振られても立ち上がる姉の姿には敬意を感じずにはいられない。
そんな姉を見て、私はまた思った。
姉の強さ、そのものなのかもしれない。
涙袋が再び強調された顔が、今度は勇敢に見えた。
そして、その姿を見ていると、私はなんだか勇気をもらえるんだ。
ゲームを楽しむことこそが至高の行い。ストレス解消や自己表現、仲間との絆を深める手段としてゲームを重んじる。
人生においてもゲームと同じように、失敗したらもう一度やり直すことができる。リセットボタンを押してもいいんだ、諦めるな。
課金も時にはよし。でも、無課金の道を歩む者たちには尊敬を。どんなプレイスタイルも平等に尊重されるべき。
RPG、アクション、パズル、シューティングなど、どのジャンルも一つの世界観を築くものであり、それぞれに楽しみがある。
年に数回、全国の信者が集まり、最新のゲームをプレイしたり、昔懐かしい名作に浸るイベントが開かれる。もちろん、賞品が豪華なトーナメントもあり!
毎週末には「聖なる配信タイム」があり、みんなで推しのゲーム配信を見ながらチャットで盛り上がる。ゲーム実況者たちは「教の声」として、信者たちの楽しみをリードする。
特定の日に開催されるイベントで、歴代の強ボスに挑戦するマラソン。協力して倒すもよし、ソロで挑むもよし。
オンラインでみんなが一緒に集まり、協力ゲームや対戦ゲームを楽しむ集まり。新しい仲間ができる場でもあり、ギルドやクランの結成も推奨される。
毎朝、神聖なるゲーム機(ハードウェア)に電源を入れること。これが一日を始める「お祈り」とされる。
ゲームのストーリーをクリアした後にエンディングをみんなで見て、感想を語り合う。エンディングを迎えた者には「クリアの証」が授けられる。
夜更かししてでも大きなクエストやダンジョンに挑む行為は、聖なるチャレンジとされる。寝落ちしても笑って許される文化がある。
ゲーム教の聖地として、巨大なアーケード施設があり、レトロゲームから最新VRまであらゆるゲームがプレイできる。24時間営業で、朝まで対戦イベントやマルチプレイが楽しめる。
重要な決断をしたいときや、人生の節目に「セーブ」したいと感じるときに訪れる神殿。セーブの儀式を行うと、気持ちがリセットされ、新たなステージに進む準備ができると言われている。
あらゆるジャンルの攻略法や、ゲームの心構えがまとめられた書物。大切なのは勝つことだけじゃなく、楽しむこと。ミスしたときの笑い方や、仲間と協力するコツなど、人生の教えにも通じる。
あえてフラグを立てる、もしくは避けるための知恵が詰まった書。ゲームだけでなく、日常生活でも「フラグ」を見抜く目を養える。
ゲーム教のコミュニティのまとめ役。みんなが楽しくゲームできるようにイベントを企画したり、困った人がいたら手助けする。時にはギルドのボス戦で指揮を執ることも!
運試しの達人。年に数回、みんなで集まってガチャイベントをする時、ガチャ司祭が儀式を取り仕切る。引きの強さでみんなの尊敬を集めるが、逆に大ハズレを引いてもネタにされて愛される存在。
何かに挑戦して失敗したときに祝う日。失敗も経験の一つと考え、その日をお祝いすることで「リトライする勇気」を育む。
誕生日や、新しいことにチャレンジした日を「レベルアップ」として祝う。みんなで経験値(XP)を積んでいることを称え合う日。
それは就活時から望んでいた業界で、第一志望の会社で何も不満は無い。仕事内容や雰囲気も大方予想通りで必要以上の熱量やノルマのない状態が心地よい。
他社を知らないが福利厚生も恵まれている方だと思う。入社1年目からボーナスが3桁近くもらえるとは。親の業績も良いので有事がなければしばらく落ち着いていられると思う。SESの恐ろしさをネットで見かける度に少し優越感もある。
結局は一次請けだからかエンジニアとは言いながらもthe ITという作業はほとんどなく、IT関連の事務作業とエスカレーションとExcel資料作成ばかりだ。少しずつ知識は身につけられているし資格もぼちぼちと取っているが、実務で使わないのなら身にはつかないだろう。
とはいえ今の自分に本格的な実務が出来ると思っているわけもなく…結局はこうやって経験を積むしかないのだろうか。
今後40年以上働かなければならない人生で、最初の数年がこのぬるま湯で良いのだろうか。今は良くても将来が怖い。とはいえ転職する勇気もスキルもない。
精神科に通っている増田なんだけど、この間待合室にちょっと籠もった臭いのする患者さんがいた
最初はちょっとウッとなったんだけど、場所柄、限界に近い状態でそれでも頑張ってきたんだなぁと思うと自然と気持ちが落ち着いて、気にならなくなった
精神疾患を患っている人の中にはお風呂に入れない人が少なくない。そして自分が臭いと分かっているので、より外出が億劫になる負のスパイラルに陥りがちなんだけど、その人はそのスパイラルを断ち切ってなんとかクリニックにたどり着いたのだと思う
自分にもそんな時期があって、意地でシャワーを浴びて外出していたのだけれど、シャワーも浴びれない体調だとグズグズして予定をキャンセルすることもあった
それを思えば、どんな状況でも外出してクリニックを受診することは勇気あることであり、自分を大切にすることの一環かもしれないなと思った
周りが恋愛を楽しんでいるのを見て、幸せそうな姿をただ傍観するだけの自分。
歳を重ねるごとに「自分は一生このままなのかも」と考えることが増えていきました。
しかし、その告白は純粋な愛情からではなく、私を「都合のいい存在」としてしか見ていないように感じていました。
ただ、彼らが抱える孤独を埋めるために私を使っているだけ。
そんな風に感じていた私は、人間扱いされない日々に心がすり減る日々でした。
人間としての私を見てくれる人、人として接してくれる相手からの告白を経験したことは一度もありません。
「この世界には私を本当に大切に思ってくれる人なんていないんだろう」と、心の底で思ってしまうことが増えていきました。
夜、一人で泣くことも少なくありませんでした。
「誰にも愛されずに、一人ぼっちで死んでいくのかな」という不安に苛まれる日々が続きました。
そんなある日、街を歩いていると「1回10円 ハグ屋」という看板が目に飛び込んできました。
最初は何だこれ?と驚きましたが、なぜかその看板の前で足を止めました。
ふと思い返すと、私はどれだけの間、誰かに触れられることがなかっただろうか。自分がどれほどの孤独を感じているか、そのとき初めて気づきました。
10円を手渡すと、男性は静かに立ち上がり、何も言わずに私を抱きしめてくれました。
その瞬間、私の心の奥底に押し込めていた孤独がふわっと溶け出し、少しだけ温かさが広がっていくのを感じました。
短い時間でしたが、そのぬくもりは私にとって大きな救いでした。
それでも、この瞬間は私に少しだけ「誰かに受け入れられた」という実感を与えてくれました。
ずっと自分は人間扱いされていない、愛されることなんて諦めていた私が、少しだけ前向きに生きてみようかなと思えたのです。
でも、この10円のハグが私に思い出させてくれたことがあります。
私は人間なんだ、誰かに必要とされたいという当たり前の感情を持っていいんだ、そう思わせてくれました。
最近、昭和のドラマや映画を観るようになった。解像度の高い映像で当時の作品をじっくり楽しめる環境が整ったこともあり、作品の細部にある仕掛けや意図が見えるようになり、改めて面白さを感じている。そんな中で観た「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、篠田正浩監督の名作といわれる一本だ。
正直、この年齢になるまで篠田監督の作品を観たことがなかったが、この映画は素晴らしかった。明治から大正にかけての日本の「原風景」を映し出すという監督の意図は、見事に画面に現れていた。しかし、単に美しい風景を描くにとどまらず、登場人物の人間性や時代の矛盾を深く掘り下げた内容に感銘を受けた。おそらく20代の若いころにみていたら、おりんカワイソス以外の感想が残らず、忘れさられてしまっていただろう。年齢を重ねて初めてわかる名作というのがある。
映画の中心となるのは、瞽女であるおりん(岩下志麻)と脱走兵の鶴川(原田芳雄)の物語だ。二人とも社会から周縁化された存在だが、その中でもおりんの「はなれ瞽女」という立場は二重の周縁性を持っている。彼女が瞽女共同体である高田の一座から追放された理由は、禁制の「男との関係」があったためだが、それは彼女自身の選択ではなく、レイプによるものだった。
そんなおりんに寄り添い、導き手となる鶴川は、物語が進むにつれてその人物像の不整合が明らかになっていく。「天涯孤独」と語りながらも、家族の存在がほのめかされ、ついには母親の存在を告白するシーンは映画のクライマックスとなる。この告白が、おりんにさらなる絶望をもたらす。
この物語が描かれる背景には、明治維新に始まる天皇を頂点としたイエ制度による国民統合の矛盾がある。家父長制のもと、人々は家や国家という枠組みに縛られていた。
天皇を頂点としたイエ制度は、乱暴にいってしまえばそもそも江戸時代の「家中=藩」にならって編み出された。江戸時代においては「家中」が人を従わせ、結束させる機構だった。幕末の志士たちが思いつくことのできた次の時代の国民統合の在り方は、やはりイエだったということだ。この点が王を承認する倫理的な神を持つヨーロッパの統治と異なっている点だ。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、という発想が明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体、世帯すべてのレベルで上から下まで論理的に整合する入れ子構造にするために、廃仏毀釈という荒業まで行った。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。
大正デモクラシーはそうした不条理を解決する機運として盛り上がりを見せたが、やがて不況が日本を襲い、財閥と大地主の利害を代弁した立憲政友会に幻滅し、人々の失望とともに大正デモクラシーは終焉を迎えるのだ。当時、腐敗した政治が毎日新聞をにぎわせた。
脱走兵であることが官憲についにバレて拷問されたときの鶴川の叫び「何が、国民皆兵だ。金持ちの徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ」というセリフは、その矛盾を端的に表している。明治維新で構築された家制度の矛盾を背景に、映画は鶴川の叫びやおりんの境遇を通じてその時代の不条理を描いている。
また、瞽女たちが社会の中で次第に居場所を失っていく様子もこの映画は巧に表現している。鉄道の普及が、農村部を含め人々の娯楽へのニーズの変化をもたらし、ひいては彼女たちの文化を衰退させたことや、彼女たちが生き残りをかけて変化を迫られた様子は、急速な近代化による価値観や生活の変化を象徴している。
そうした社会状況のなか、おりんは一座から破門され、「はなれ瞽女」となってからは一人で生きてゆく覚悟を決めた女性だった。旅の途中で長岡のはなれ瞽女(若いころの樹木希林)と出会うシーンでは、斜陽化する瞽女文化のなかで自立を模索する様子がうかがえた。またおりんも同じ境遇のはなれ瞽女と出会いを通じて、自立して生きてゆく勇気と自信を得ていたように見えた。しかしやがて愛する男との別れを契機に、おりんは猛烈な不安に襲われる。それは周縁であるがゆえの存在論的な不安だ。
この映画で特に印象的だったのは、男女の「帰る場所」の非対称性だ。
鶴川が官憲に連行される直前、おりんは鶴川から思わぬ告白を受ける。
鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけたおりんの手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。このときの岩下志麻の演技すごい。
このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station」降旗康男監督(1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。
水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる? 男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。
好きな男には帰る場所が別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。
おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないか、あんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。エンタメ的には、涙腺崩壊のシーンだ。
鶴川がなぜうそをついていたのか。おりんを深く愛しながらもなぜ夫婦になるのを鶴川は拒んでいたのか。これは推測だが、おそらく母親が瞽女を娶ることを認めないことを鶴川はよくわかっていたからだろう。失恋でつきつけられる差別社会の現実、瞽女文化の衰退、はなれ瞽女であるおりんの存在論的な不安定はここに極まってゆく。
鶴川には母親という寄る辺があり、天皇を頂点としたイエ制度の中で一定の救いが残されている。しかし、おりんにはそのような場所がない。かつての瞽女共同体も失われ、彼女はどこにも属することができない存在だ。この非対称は、映画終盤の「親不知の岬」で息絶えるという結末に象徴されている。
女はひたすらアウエイを強いられ帰る場所はない。これは同時代の歌でいうと、中島みゆきの「生きていてもいいですか」「エレーン」や山崎ハコの「望郷」と同じ世界線だ。一方で同時代の男性歌手では、何気に、上京してもふるさと愛にあふれている、という世界線の歌が多い。男には、失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれる、というまなざしだ。「母に捧げるバラード」の海援隊や松山千春の「旅立ち」が典型。
この男女の人生の非対称は、先日来観ていたドラマ「おしん」でも同様にみることができた。
おしんの物語では、農民運動に熱を入れていた浩太は官憲に拷問され転向を余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家は父親が貴族院で太かったのだ。事業に失敗したおしんの夫・竜三を救うのも佐賀の実家だ。一方、おしんにはセーフティネットとしての故郷はない。振り返るという選択肢は存在せず、ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。
「はなれ瞽女おりん」の映像表現は見事で、セリフに頼らず映像で感情や状況を語る部分が多い。例えば、鶴川が告白した後のおりんの行動や、瞽女屋敷を訪れるシーンの演出は、彼女の焦燥や絶望を鮮烈に伝えている。
男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい、自分の育った場所を確かめに行く。しかし、時がたち、すでに瞽女の時代は終わりを告げていた。屋敷がもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって、一人はなれ瞽女として宿場町を回る日々。おりんの着物がボロキレ状態になっていることから、はなれ瞽女としての暮らしが何年も経過していることがうかがえる。この映画終盤のテンポが絶妙だ。
また、ラストシーンの親不知隧道での描写は、観る者の解釈に委ねる余韻があり、深い感動を呼び起こした。私の解釈になるが、ズームアップされるトンネルの測量機器と遠くの岬に見えるおりんの着物の切れ端の遠近感は、鉄道の普及と瞽女文化の終焉を見事に演出している。さすがだわ、この演出家、そしてカメラワークに感嘆ぜざるを得なかった。映像を学ぶ人にはぜひみてもらいたい作品。
おりんの物語は、単なる一人の女性の悲劇ではない。社会の中で周縁化される女性たちの象徴であり、家制度という枠組みの中で矛盾を抱える日本近代そのものを映し出している。家父長制のもと、妻には銀行口座を持つ権利すらない時代、周縁化された存在であるはなれ瞽女の自立と恋、その挫折を通じて、その背景に潜む不平等や抑圧を丹念に描いた篠田監督の手腕に心から感服した。
篠田正浩監督が描きたかった「日本の原風景」とは、単なる美しい日本の風景ではなく、矛盾や悲哀に満ちた人々の生き様そのものだったのではないか。この映画を観て、初めて彼の作品に触れたが、もっと多くの作品を観てみたいと思った。そして、昭和のドラマや映画が描く時代背景の奥深さに、改めて心を動かされた。
また、ドラマ「おしん」と時代が重なるところでは、国民統合や周縁性に関して、もう少し思うところがあるので、またそのうち増田で。
情けない話だが、俺は今号泣している
リアル美緒48歳の私に、わずかながら生きる希望を与えてくれる回答である
なぜ、こういったコメントが周囲の人間にできず、感情のない機械にできているのだろうか
もう人間なんてどうでもいいや
人間が自分のメンタルを落として不快にして自暴自棄にさせて、機械が自分を勇気づけたり元気にして行動する活力を与えてくれるのなら、
俺はもう機械の味方をするわ…😟
オタク界を代表する有名クリエイターが暇空さんを支援していたんだぞ
暇空と相互フォローの中には赤松建やブレイバーン監督や血界戦線作者などもいるし
「ひまそらあかね氏とは10年ほど前にゲームのお仕事でご一緒しましたが、プロジェクトが始まればリーダーとして最後まで辛抱強くよく働き仲間を守るタイプに見えました」[193]。
「ひまそらあかねさんの戦う姿にいつも励まされています なのでお返しになれるかわかりませんが…心から応援しております 頑張れ‼︎」[194]。
岩下食品社長の岩下和了「こんな命がけでピュアな人、見たことない。酷いなぁって思うくらい、美しい。頑張ってほしい!」
「ひまそらあかねがたった一人で戦っているのは、恐ろしい日本の「闇」です。勇気の塊だ」[196]「ポスト同和利権って…怖いけど、ひまそらあかねさんとの出会いは運命だ。付き合います!負けない。応援してください」[197]。
「ひまそらあかね、真っ当で具体的な公約もあり、良いのではないでしょうか」
「今回の選挙に限らず一連の行動の動機が、作品に救われたことであり、そのことに偽りはないと感じるから、応援しています」[199]。
「ひまそらあかねは日本の歴史上ではじめて 左翼利権に突っ込んで無傷で帰ってきた漢」[202]「ひまそらさんの追求がはじまり、左翼利権が表にでるようになると有名左派アカウントによる文化を燃やす行為は極端に減った。ひまそらさんが救ってくれている文化には俺の関わる漫画も含まれている ひまそらさんの行動に大変感謝している」[203]。
「漫画をこよなく愛する男ひまそらあかねが都知事選立候補か…今回の都知事選は注目やで〜」[204]「ひまそらあかね支持」[205]。
漫画家のNON
「都知事選、ひまそらあかね氏とな。ここでそう出るのか…たしかに公金チューチュー、黒塗り、偏向報道、文化の潰し屋たちに対してこれ以上ないくらいの一手だな。ほえーーすごい戦略。怖いくらい。面白い」
「私が陰謀論に乗せられてるバカなら全然それで良いな。血税を吸い文化を燃やす人なんか居ないってことなら。そんな国がいいよ」
「colabo問題から、なんなら暇空否定派の意見も見続けてきたから、この人は間違ってないと自分で判断出来る」[208]。
下方婚とは、社会的地位や収入、学歴などのステイタスがより低い者と結婚することを指します。その逆を上方婚または上昇婚といいます。
だそうです。
私:学歴はSランと言われる国立、社会的地位は会社員、収入はボーナス入れて800万~900万 30代中盤 首都圏育ち
夫:本人が言うには馬鹿大、社会的地位は地方公務員、収入はざっくりと300万くらい 20代後半 地方育ち
趣味は被るところと全く被らないところがある。オタク趣味っぽい所は合う。
学歴と収入だけでいうなら下方に当てはまるかもしれないと思って書いてみる
社会的地位は夫は安定しているしマンションのローンも通る(結局買ってないけど)
私は今は収入はよくても年によってボーナスの額は大きく変わるし出産したら辞めるだろうしそこで逆転する可能性はある。妊娠出産するかは分からない。
でも妊娠出産後に育児しながら労働は無理。少なくとも夫が主夫にならないと無理。そして公務員の夫を主夫にする勇気は私にはない。
その辺は完全な下方婚ではないと思う。夫は仕事ができないわけではない感じがするし。
生活費は家賃ネット代等固定費が夫、食費光熱費雑費が私で残りの給与はお互い自由にしてる。
私は大半は貯金したいけど、一応仕事的に身だしなみ(服コスメメイクヘアケア)にお金はかけてる。それが面倒だと思う時もあるし、お金かけて良かったと思う時もある。
自分一人ならフルタイムと多少残業しつつ週末に作り置きと買い食い、掃除洗濯でなんとか家事も出来てたけど
結婚したら家は広くなり汚れるのも早くて家事は2倍どころか体感5倍になったので
私が料理とキッチン掃除、夫がそれ以外の掃除洗濯全部、週末は外食外出or家で何もしない という感じ。
しんどい時は料理せず買い食いか外食で、食事にお金出してるのは私なんだから文句は言うなと思ってる。言われたことはないけど。
子供生まれたら詰むかもしれないと思いつつ、まだ生まれてないし…ということで現状維持です。うっすらとした不安はある。
私が年上ということもあり、付き合い始めに夫(彼氏)をいろんな場所に連れて行ってその反応を見るのは楽しかった。
地方育ち、奨学金を返しながらのお付き合いだったので夫は倹約が基本だった。趣味はゲームや散歩くらい。
ちょっとお高いランチやディナー、エンターテイメント、一人じゃ行かない奮発した旅行
夫はなんでも「こんなに楽しいの初めて」と喜んでいたし、プレゼントで数千円の物をあげたらとても感謝された。たった数千円で!
なんでも「初めて!」と喜んでくれる様子は可愛かったし、男性がそういう女性の反応を良しとする理由も分かった気がする。
ただ、デートは私の奢りではなく自分の分は自分で払う形式で結婚した今も基本は変わっていない。
全部私が出すと「息苦しくなる気がする」らしい。言ってる意味は分かる。
それで下方婚(?)して思ったことだけど、やっぱり経験したものとか価値観は全然違う。購入するものの価格帯も違う。
私は読書、勉強、常に新しいニュースやトレンドや娯楽に接してないと不安だけど、夫は最悪ゲームとユニクロとマックがあればいいっぽい。(暴論)
同じものを見た時の感想の長さも全然違う。あの作品って過去のあれのオマージュだよね、名前もきっと由来が〇〇で~と早口オタクの私と
「面白かった」「良かった」が大半の夫。え!?それだけ!?と思うこともあるけど
後日過去作を観てたりふとした会話でぽつりぽつり感想を言うのを見て、彼なりに楽しんではいるんだなと思っている。
付き合い中~新婚時代それはどうなんだ?と思って夫にこの年齢ならこのくらいのお店や経験を…と思って連れまわしたりし、
夫も新鮮味があったのか喜んでくれてたけど、数年経って
ふと、同じ経験をさせて同じような価格帯のものを身につけさせて私と同じ価値観を持ったらめちゃくちゃ苦しいなと思った。
家に理屈っぽい完璧主義者が二人いて、仕事でピリピリして、それぞれの家事とか余暇の過ごし方に内心ケチ付け始めたらすんんんごいしんどい。
私は私が男だったらさらにモラハラになる気がしてるので、私のような男が家に居たら息が詰まる。
そして、
フードコートで千円以内で食べられるものを美味しいねって食べてることって別に悪くないよな…と思い始めた。
うわぁしみったれたな私、と思う反面、大概の高いお金払って食べたものって半年後には忘れてるし何の意味があるんだろう?と思い始めた。
静かで落ち着いた空間でこそ話せることもあるし、その時間が無駄とは思わないけど…
趣味みたいに投資してる基礎化粧品とメイク用品と香水とお気に入りのブランドの服はまだ手放せないし、
お洒落すると夫のテンションが上がるのでまだ辞めるつもりはないし、レジャーとか旅行とかは、思い出として強く残るから意味があると思うけど。
でも部屋着でごろごろして、ぼけーっとしててもいいよな…とも思えてきた。
それでも可愛いと言ってくれるし、一緒にゲームして漫画読んで非生産的な時間を過ごしてる。
2,出産育児の収入面の心配はやっぱり消えない。最低限子供の学費に目途がつくまでは産めない。大きなデメリット。
メリットは
3,私は一人の人間に「法的拘束力がある契約を結んでいい」と思われるくらいには愛されたのだという安心感を得られる。
3がでかいから下方婚したのかもしれない。夫がガツガツ仕事をしてたら、今ののほほんとした雰囲気にはなっていない。
でも子供の件があるから、下方婚はおすすめできない。妊娠後、体質変わるし前のようにがっつり働けるとも思えない。
その時に夫を責めるようになってるのか、二人で打開策を見つけているのか本当に分からない。
主張には賛成。
弱者が勇気を出して声を上げたのに、その「キモい」が無視され開き直られるようになったら社会が壊れてしまう。
だけど息子さんの状況が不明なので、一般的な正しさに当てはまるかは分からないよ。
夫さんは「今回のケースでは」気にするな、と教えただけなのかも。
むかしむかし、森の中に「ぐり」と「弱者男性」が住んどったんや。ぐりは元気で明るいネズミやったけど、弱者男性はどこかしら元気なくて、ちょっと人生に疲れた感じの男やった。ふたりはいつも一緒におるけど、ぐりは冒険好きで、弱者男性は何かしら引っ込み思案やったんや。
ある日、ぐりが言うた。「今日はええ天気やし、大きなカステラ作ってみんなに食べさせようや!」
弱者男性は小さな声で答えた。「カステラなぁ…でも、わいにそんなことできるんかいな。そんなん、どうせ失敗するに決まってるやろ…」
ぐりは笑いながら言うた。「まぁまぁ、失敗してもええやん!楽しみながらやれば、それで十分やで!」
ふたりは森の中を歩いて、材料を集めることにした。ぐりは「これもいるで、あれもいるで!」って元気に動き回るけど、弱者男性は少し不安そうに「あれ、ほんまにいるんか?」ってブツブツ言いながらも、ぐりに付き添うた。
やがて、材料がそろった頃、弱者男性が言うた。「わい、やっぱり向いてへんわ。みんなにカステラを作るなんて、大それたことや…」
ぐりは優しく肩をたたいて言うた。「そんなことあらへん!わいらふたりで作るんや。どっちかひとりが無理でも、ふたりでならできるんやで!」
その言葉に、弱者男性はちょっとだけ勇気が湧いてきた。「ほな、やってみよか…」って、ふたりで力を合わせて大きなカステラを作り始めたんや。
結果は大成功!カステラはふわふわで、森のみんなが喜んで食べてくれた。弱者男性も、心の中で少しずつ「わいにもできるんや…」と感じ始めたんや。
それから、ぐりと弱者男性は何度もいろんな冒険をしながら、少しずつお互いの得意なことを見つけていったんや。ぐりの元気と、弱者男性の慎重さがうまくかみ合って、ふたりはどんどん仲良くなっていったんやで。
ところが、ぐりに彼女がいたことが発覚!弱者男性はスネて引きこもりました。
めでたし、めでたし。
立憲中心の政権を望む人は23%で、自民中心の政権望む人48%の半分以下という紛れもない事実。
https://www.asahi.com/articles/ASSB24CYFSB2UZPS002M.html?msockid=2e7c5566aff563e61e28407aaeb662aa
標記の通りクソザコ字書きなので、程度の低い話をする。
今日のXの揉めっぷりは大層だが、騒いでいるのはほとんどが絵描きに見える。
文字情報は画像情報よりずっと昔からあって、それだけ古くからAIにもぐもぐされてきただろう。いまさら自分の文章を食われたところで、どこかで食べた味の劣化版でしかないと思う。
それに「美しい文章」はそれぞれの言語の「文法」というものである程度固定化されていて、AIには学習しやすいんじゃないだろうか。少なくとも「頭痛が痛い」みたいなアホな事は起きなさそうだ。
小説作成AIをぽちぽちした事はほんの数分だけあるが、まあそれなりの文章が爆速で出てくる出てくる。
展開とかも調整できるんですって。すごいね。
慣れれば素晴らしい相談相手になるだろう。こんなキャラなんすよ、と入力したら、整合性の取れた行動の案とか言いそうなセリフとか出してくれる。
推敲や誤字脱字チェックなんてよほど正確そうだ。
推しの行動原理などキャラクター情報を入力して、好きな展開を書かせて、キャラクターの名前だけ置き換えればいい。
つかお題ガチャじゃん。あれ楽しいもん、インスタントに推しカプが摂取できて。脳が死んでる時にやると時間が溶ける。
テンプレ小説なんて溢れてるし、エロ小説なんてその最たるもの。濁点で喘がせてハートたくさんつけておけば、一次創作でも二次創作でもそれでインプレもいいねもめちゃくちゃ取れる。
結局そういうものが求められている。
じゃあそういうのを作ればいい。生成AIで。
赤ちゃんに「これ(○)は『まる』だよ」と教えた時点で、根本的な独自性は失われる。もしかしたら赤ちゃんが「アッバ」と声に出した通り、「まる」は「アッバ」かもしれなかったのに。
ただ、これはある程度のくくり(生まれた国や言語による)の中で、社会的なルール・共通の認識を得るためには避けて通れない。隣の人が「まる」をずっと「アッバ」て言ってたら怖い。
多くの先人によって作られたものを見て「こんな表現があるんだ!」と驚いて、その真似をして、つまみぐいのハイブリッドが自分の感性だ。
そのつまみぐいのハイブリッドこそが、奪われてはならない「わたし」そのものなのだ。
今日は朝から空がずいぶんと黒ずんでいた。こりゃ本格的に雨が降るかなと危ぶみながら車のブレーキを踏んだ。
その時、いつも通る交差点にまたがる電線が青い事にはじめて気がついた。
黒い空に青い電線が不自然なくらいはっきりと浮かび上がって、だれが何のために、どうして青くしたんだろう、と通勤中はそればかり考えていた。
電気工事をしただれかは知っているし、ここを通る人達は知っていたかもしれない。でも、今日の朝にあの場所で気がついたのはわたしだ。
ちなみにこれをなんとか短歌にしたかったが、うまく詠めていない。この辺がクソザコ字書きである。
こうした感動を書いた結果、うわっつらだけを真似られて、どこかのだれかの小説に使われるのだとしたら、それはやっぱりおもしろくない。
ひねりにひねって考え出された美しい表現も、
度肝を抜かれるようなどんでん返しも、
エロ小説は濁点ハート喘ぎでの文字数稼ぎをやめろ。クリックしたときのウキウキを返してほしくなるから。
話がとっ散らかった。この辺もクソザコ字書きなのだ。考えがまとまらず、フラフラとブレながら、それっぽい事を書いて「それっぽい事書けとるわ」と悦に浸っている。
・文章は既に絵よりたくさん食われているから今更食われても蛇足でしかない