はてなキーワード: 代表曲とは
BAND-MAIDが米国を中心に海外で非常に人気が高いということは聞いたことがあるだろう。
だが、実際にMVを見てみると少し違和感を感じるはずだ。メンバーの多くは期待していたほどメイド風でもないし、楽曲はさほどポップでもKawaiiでもない。かといってギャップで驚かせるほどの音の凶悪さもない。普通にJ-POPの影響も感じられるクールなハードロックである。あまりハードでない曲も多い。
ましてや2023年2月にリリースされた「Memorable」はシンプルなバラードで米国のシンガーソングライターが歌ってそうな曲調だ。
しかしYouTubeでは、この曲を聴いて屈強な米国の男たちが涙を流している。いったいどういうことか。
BAND-MAIDは10年の歴史の中で様々な文脈がつきすぎて初見のリスナーにはわかりづらくなっている。本稿ではそのあたりを読み解いていきたいと思う。
BAND-MAIDの面白さは、計算された部分からどうしてもはみ出してしまうほころびにある。計算高くプロデュースされたバンドのように思われがちだが、じつは誤算の歴史であり、その誤算を受け入れ逆に強みにしてきたバンドなのだ。
そもそもBAND-MAIDの始まりは小鳩ミクプロジェクトだった。秋葉原の有名メイド喫茶出身でアイドル活動もやっていた小鳩ミクがアイドルグループ解散をきっかけに、違う方向性の音楽をやりたいと今の事務所に売り込みに来た。それならば過去の経験を活かしてメイド+バンドのコンセプトで行こうとすぐに決まった。
二人目のメンバーはニコニコ動画で見つけてスカウトした。そこから人脈をたどりメンバーを増やしてバンドとなった。つまりメイド文化の経験があるのはじつのところ小鳩ひとりなのだ。
そして最初のほころびはすぐに来る。
演奏力のしっかりしたメンバーを集めてしまったがゆえに、出音が本格的なロックとなってしまい、そうなるとアイドル出身の小鳩の声と合わないのだ。
こういう場合、普通に考えたら楽曲をポップな方向に軌道修正するはずだが小鳩の決断は違った。このロックテイストの曲に似合うメインボーカルを入れることにしたのだ。
ツインボーカルとは言うものの小鳩はコーラス中心になる。自分がメインのプロジェクトだったはずが脇役にまわる。当時は楽器も弾けなかったのでバンド内での居場所もあやしくなりかねない。
メインボーカルを入れた5人体制で制作されたファーストアルバム「MAID IN JAPAN」は、今思うと一番コンセプトにぶれがない作品となった。
全員が可愛いメイド服を着たビジュアル。最近の曲に通じる片鱗はあるものの、今よりもポップで聴きやすい青春パンク風やロック調J-POPの楽曲が多いアルバムだ。
ただそのコンセプトもすぐにぶれていく。小鳩以外のメンバーはやはりメイド服があまり好きではなかった。
またしても誤算である。さほどこだわりのないギターのKANAMI以外はいかにもなメイド服を着るのをやめた。
そしてまたこの時期は楽曲の方向性もJ-POP風だったり、ポップロックだったり、よりハードで過激なロックに振ってみたり、迷走していた。
事務所的にはそろそろ潮時かと解散させることも考えていたらしい。
そんな頃に意図せず大ブレイクしたのが初期の代表曲「スリル」だ。
これまで以上にヘヴィなサウンドにクールでわかりやすいボーカルラインが乗ったハードロックである。ファーストシングルのカップリング曲という位置づけだったが、このMVが翌年海外のWebラジオで紹介されて一気に火が付いた。
そしてこの曲がその後の方向性を決定づけた。
BAND-MAIDの特徴のひとつはそのライブ本数の多さである。ツアーに出ると毎日か一日おきでほとんど休みなくライブをおこなっている。「スリル」がブレイクした翌年の2016年は国内19箇所ツアー、8カ国のワールドツアー、その他国内外の単発のイベントに参加している。
Wikipediaにあるライブ日程はツアーのみで単発のイベントは書かれていないが、それでも今どきのバンドとしては異常な数である。こうしてライブを重ねることでライブバンドとしての実力を着実につけていった。
そしてまた、メンバーの創作能力も向上し、この頃から小鳩ミク作詞KANAMI作曲の作品が増えていく。
ここへきてBAND-MAIDは外部の作家の力を借りず自分たちだけで勝負する本物のバンドになっていった。
楽曲を聴いているだけではわかりづらいBAND-MAIDの特徴がもうひとつある。小鳩がメイド喫茶やアイドル文化からバンドに持ち込んだのは可愛らしい服装だけではなかった。
それがショーアップされたステージである。曲間のMCはエンターテイナー小鳩の本領発揮だ。
萌え萌えきゅん的なある意味痛いコールアンドレスポンスやトークは、最初は苦笑いの観客でさえ巻き込んでファンにしてしまう。メイド服を拒否したメンバーもこのあたりは寛容で観客との距離の近さを楽しんでいるようだ。
こういった通常のロックバンドにはない、とことん楽しませるファンサービスが海外ツアーでファンの心をわしづかみにした。
https://youtu.be/iqhgc963Ga0?t=368
テレビ出演や雑誌のインタビューなども無口なミュージシャン気質のメンバーに代わり、小鳩が担当しバンドのスポークスマンとしてサービス精神いっぱいにしゃべっている。
観客を惹き付けるタレントであるとともにマネージャーやプロデューサーのような立ち回りもこなす。そんな彼女のことをある海外リアクターはスイスアーミーナイフのようだと表現した。
しかし、そんな各地で大盛況のライブツアーも世界的な疫病で突然打ち切られる。予定していた初の武道館公演も中止になった。
前述のようにBAND-MAIDのライブは単なる演奏会ではない。ショーアップされたファンとの交流イベントとしての意味を持つ。
ある海外ファンは「BAND-MAIDは曲をリリースするのではない、体験をリリースするのだ」と言っていた。
そんなバンドにとってライブができないことは大きな打撃となった。
まさにこれからというタイミングで、バンドは2年以上立ち止まることを強いられた。
そしてついに2022年、待望のライブツアーが再開されることになった。
8月に国内ツアー、10月に全米ツアー。だが世界中からライブイベントが消えた後である。ライブを楽しむ文化自体が失われたかもしれないし、当時ファンだった人たちがバンドに興味を持たなくなっているおそれもあった。
しかし、ふたを開けてみれば見事にソールドアウトだった。ツアーバスで各地の会場に訪れると、そこには2年前と変わらない熱量のファンがバンドを待っていた。
この忘れがたい経験をもとにツアー中にメロディを書き、日本に戻るとすぐ、ファンに向けた感謝の気持ちをつづった歌詞を乗せ曲として完成させた。
それが「Memorable」だ。
歌詞に込めた思いと、決して平坦ではない道をメイド服姿の小鳩ミクが歩くMVの意味を世界中のBAND-MAIDファンは完全に理解して心を打たれるのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=hTWKbfoikeg
拳銃をたくさん集めてさ
負けるにしても 負けたふりするにしても
自信だけは過剰なあのつまんない女
ごめん それは禁句だった
もしもし 落ち込んでる?
明かりがなければ
危険なんてなくなって
下らないものほど
真似されて広がって
お客様の到着だぞ はやく持て成してくれよ
得意なことさえ上手くできない自分を
恵まれてるとすら思う
死ぬまでずっと変わらない
光がなければ
お客様が来たぞ はやく持て成してくれよ
下らないものほど
真似されて広がって
さあほら 持て成して
なんでこんな薬を使い出したのか忘れてたけど
そうか 笑いたかったんだ
これを見つけるのには本当に苦労してね
本当にほんとうにもう大変で
いやどうでもいいかそんなこと 気にしないで
明かりがなければ
危険なんてなくなって
お客様の到着だぞ はやく持て成してくれよ
下らないものほど
真似されて広がって
ほらはやく 持て成してくれよ
拒絶 拒否
排除 断絶
異議
不許可
***
ロックの代表曲として有名なイメージとは裏腹に、矛盾するものを並べて劣等感を自嘲する、
めちゃくちゃにネクラで嫌味で自己愛の強い歌っぽいので、そんな感じで訳してみた。
洋楽によくある「クソくらえだぜ、ってんだ」系の訳がこんなにも似合わない歌だとは。
ちなみに「teen spirit」は女性用デオドラントの商品名で、
カートコバーンの当時の彼女と女友達の間で、teen spiritってどんな名前だよって流れから「カートはteen spiritの匂いがする」とからかわれたんだけど、それを知らずにすげーかっこいい言葉だなと勘違いしてつけたタイトルらしい。
Q.
米米クラブについて教えてください。
A.
米米クラブ(きびきびくらぶ)は、1980年代から1990年代にかけて活躍した、日本の音楽グループです。リーダーのカールスモーキー石井を中心に、ヒカシュー、BUCK-TICKなどのメンバーが参加したこともある、多彩なメンバー構成が特徴的です。
米米クラブは、派手な衣装やパフォーマンス、ユーモアのある歌詞など、独特な世界観を持った音楽グループとして、多くのファンから支持されました。彼らの音楽は、ポップスやロック、レゲエ、ファンク、ブルースなど、多様な音楽ジャンルを取り入れたもので、彼らの代表曲には、「浜辺の歌」「Romanticが止まらない」「恋のダンスサイト」「Good Bye My Love」などがあります。
また、米米クラブは、音楽活動だけでなく、テレビ番組やCMなどのタレント活動も行っており、グループとしての人気を確立しました。1990年代後半にはメンバーの脱退や解散を経験し、その後もカールスモーキー石井を中心に、様々な活動を行っています。
Q.
カールスモーキー石井と石井竜也は関係がありますか?
A.
カールスモーキー石井と石井竜也は、別々の人物であり、直接的な関係はありません。両名の共通点は、日本の音楽シーンで活躍しているということです。
カールスモーキー石井は、米米クラブのリーダーであり、ボーカル、ギター、作詞・作曲を担当していました。一方、石井竜也は、人間椅子のボーカル兼ギタリスト、シンガーソングライター、俳優、作曲家として活躍しています。
ただし、両名はともに1980年代から音楽活動を開始し、日本のロックシーンを代表するアーティストの一人として認知されています。また、カールスモーキー石井が「浜辺の歌」や「恋のダンスサイト」などの代表曲を作詞・作曲し、石井竜也が「ダイナマイト」「TATTOO」などのヒット曲を手掛けたこともあるため、両名の楽曲が時折混同されることがあります。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
世間一般的には無名寄りだけど、ジャンルの中では比較的有名で売れていた方。
地方では有名な番組のOPなんかに起用されてたりもしていたので、「バンドは知らないけど曲は知ってる」人は多いかもしれない。
作曲は両方やってて、所謂代表曲やライブで人気がある曲は兄の方が作っていた。
ある時、その兄が急に脱退した。
辞める前後で色々ぶっちゃけていたんだけど、経緯としてはこんな感じだったらしい。
・弟がリーダーでボーカルで目立ちたがり、自分は弟を全力で目立たせる為の裏方担当だと自負していた。
・同時にバンドを引き締める為の嫌われ役だったが、クビになる数年前からバンド内で疎まれていた。
・ある日弟に「このままじゃやっていけない」と言われ、以来バンドの活動にあまり口を挟まない様にした。
・するとメンバーからは「(兄さんは)やる気が無くなった」と映ったらしく、今までやっていた仕事を他メンバーに振られる様になった。
・ついにバンドは自分をハブって知らない仕事をする様になり、弟らに呼び出されクビを宣告された。
・ファンには申し訳ないけど、残ったメンバーを恨んでいるし今後はもう音楽をやる気も起きない。
という、結構エグいというかキツイというか、悲しい顛末だった。
バンドからは音楽性の違いみたいな発表がされたが、やはり顛末が顛末だったので
(その頃には仕事が多忙でライブには行けなくなっていたから、雰囲気がどうだったかまでは分からない)
後年、そのバンドが一夜限りの復活をするというニュースはあったんだけど
ライブでは弟以外はサポートメンバー、他のメンバーとは「連絡が取れない」状態だと聞いて、色々悲しくなってしまった。
私事だけど私自身は兄とも妹とも仲が良いし、もし万が一仲違いして絶縁状態って事になったら、親は凄く悲しむと思う。
あの好きだったバンドの兄弟は恐らくそんな風になっちゃったんだな……って思うと切なくなる。
昨日久々にそのバンドの曲を聞いて、色々思い出したので書いてみる。
良いバンドだと思っていただけに、色々残念だったな……
https://togetter.com/li/1997468
土屋「ユーチューブな、Youtube。それでなんてバンド?」
塙「ビートルズっていうんですけど」
塙「ビートルっていうのは、羽の生えたかさかさ動く茶色い虫のことで」
塙「それで、4人組のバンドで」
塙「ジャン・レノ」
土屋「ジョン・レノンな。それじゃフランスの俳優になっちゃうから。」
塙「ポール牧」
土屋「ポール・マッカトニーな。牧だと指パッチンになっちゃうから。」
土屋「フォードはいらない。ハリソン・フォードと混ざっちゃってるよ」
塙「りんご娘」
土屋「なんで青森のロコドルなんだよ、王林ちゃんとは何回も仕事してんだろ」
土屋「だからなんで青森のモノマネ芸人なんだよ。青森から離れろ」
塙「ああ違った。りんごすった」
塙「あとオノ・ヨーコ」
塙「それで代表曲なんですけど、まずは『ヘルプ!』、なんでも鑑定団のテーマです」
塙「レット・イット・ゴー」
土屋「レット・イット・ビー」
塙「あ!そう言えばそうだ!なんか見たことある曲名だな―と思って」
土屋「知らないでやってたのかよ、すごいなお前」
塙「いやー、なんか変な歌歌うからどうしたのかと思って」
二人「どうもありがとうございました」
1.チャゲアンドシャブの大ヒット曲「YAH YAH YAH」
織田裕二主演の大ヒットドラマ『振り返ればヤスがいる』の主題歌として起用され
「YAH YAH YAH」は1993年発売の31枚目のシングルと遅咲きのアーティストだった
2.ビートルズの「A Hard Day's Night」の邦題「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」
なお、あまりに不評だったため、現在では「ハード・デイズ・ナイト」と改題されている。
映画はめちゃくちゃチキって長編未経験監督に低予算でモノクロで作らせたが無事大ヒットした。
邦題を付けたのは当時ユナイト映画の広報を担当していた水野晴郎氏。
のちに映画評論家、シベリア超特急の監督となる人物であり、日本アカデミー賞の発案者でもある。
3.アメリカ出身のパンクバンドThe Offspringの代表曲の一つ「ALL I WANT」
これまでインディーズで活動(アルバム1400万枚売る)してきた彼らの記念すべきファーストシングル。
日本ではFLASH黄金時代に「ドラサイト(後にオラサイト)」にて発表された
「DoRaeMooooooooooooN!!!!」の大ヒットで一躍ネットの一部での知名度を得る。
超高音って言うから見てみたらただの高音じゃん
一人五役歌い上げて音楽番組で優勝したレジェンドボカロ曲 達拉崩吧 https://www.youtube.com/watch?v=XHedu3KcPP0
代表曲 大魚 https://www.youtube.com/watch?v=-aMdBA00Ijc
ゲームソングで英語歌唱のRubia https://www.youtube.com/watch?v=_kTZrIdilRY
【リン単体】
・右肩の蝶
・Q
・ロキ
・ロストワンの号哭
・炉心融解
→代表曲って感じなので既に知ってる、もう勧められてるかもしれないけど一応!
・天樂
・いろは唄
いろは唄は発売わずか3ヶ月でこんなリンが出たのか!?となる原曲PVのイラストが妖艶なイケリン。
・アンデッドエネミー
→おこちゃま戦争や劣等上等のギガさんが関わってるのもあってか、ギュンギュン疾走するような曲。
PVはオリジナルキャラのみ…と思いきや……イケリンなのは確か。
自分はライブ見れなかったんだけど、現地組や配信組からモニターに映ってたのがイケリンと評判だったので、公式のまとめ動画や円盤でそのイケリンの姿が見れるのかも?
→可愛い系かと思ったらギターが効いためちゃくちゃかっこいい曲だった……巻き舌にも注目。
・タイトル
ひたすらまっすぐにリンのパワーをぶつけてくる曲で、最近のおすすめ。
【鏡音】
・下剋上(完)
・劣等上等
→劣等上等は有名すぎるけど、ぜひ下剋上を聞いたことなければこちらを聞いてから改めて聞いてみてほしい!
あんまり言われないけど、劣等上等がちゃんと鏡音のイメージソングだってわかる。
(・ごみばこ)
→レンの曲の続きなので鏡音扱いで。
まず曲のストーリー的にイケリンだけど、歌詞の言い回し?も随所でかっこいい。
伏せるけど「あたしも○○○○○○のかな」は特に好き!
・好敵手愛憎歌
・バッドパートナー
(かっこいい曲とは少し違うけど好敵手愛憎歌の雲丹さんが作ったリン曲「ここに愛があるのに」はリンのグロウルがとても良いので勧めさせてくれ)
→最近PC移植のDIVAに再録されて少しだけ話題になった曲。
原曲とDIVAで音源が違っていて、原曲はギター強めで調教がかなり凝っていて良い意味で別人級。
DIVAは三味線?強めで調教はシンプルだけど聴きやすいので、どっちが好みかは人によるし一長一短かな?
・ジャバヲッキー・ジャバヲッカ
曲が進むにつれてどんどんにぎやかになって盛り上がってくる。
→東京テディベアやロストワンの号哭のNeruさんの曲。
この曲は2人の高音が綺麗…というか、Neruさんの曲はかっこいい鏡音が溢れているので他の曲も是非。
・I WANNA TRUST YOU
2人とも声音が低くて、なかなか他の曲では聞けない声が聞ける。
【カバー】
→どちらもおればななさんが調教されてる/参加されてる鏡音カバー。
元々サビの盛り上がりが凄い曲なのに、さらに鏡音のパワーが上乗せされてる王道神調教。
(リン)
・夜咄ディセイブ
(鏡音)
基本的に全編力強い歌声なのに、サビになるともっと盛り上がる。
【番外】
かっこいい曲からは少し違ったり、他であまり勧められないかもしれないからここで是非勧めたい曲
・South North Story
→悪ノ娘/召使で有名な悪ノPと、トークロイドやネタ曲が有名なゆにめもPのコラボで、2人の似てるようで違うリンの曲。まさに可愛い感じとかっこいい感じ、2人の声の違いに注目。
→上記のゆにめもPの曲で、鏡音の公式コンセプトの「パワフル&チャーミング」そのものな曲。鏡音appendの公式デモソングにもなっていて、原曲を知ってるとクスリとできる小ネタあり!ミクもいるよ。
・師匠なフタリ
→リモコン、いいねってYEAH!などの有名鏡音P、ワンオポ(じーざすP)さんが鏡音10周年の時に書いた曲だけど、あまり他でピックアップされなさそうなので。
そもそもじーざすPの鏡音は2人のわちゃわちゃ間が楽しい曲からピコピコかっこいい曲が揃ってる。
わちゃわちゃしてる時のリンの印象も、よく担当するグライダーさんのイラストもあってか女の子ではあるけど中性的で、どこかゆるい感じもあって良い。
(・soundless voice) ・proof of life
それぞれ悪ノP、囚人P、ひとしずくPが投稿した、リンレン一対で切ない物語曲。
たぶん鏡音に物語曲が多いのにこの3つ、特にボカロ小説の始祖、悪ノ娘の影響は大きいと思うので、知っていて損はないはず。
・垂直落下
→全体的にそっと囁くようなピアノ曲…かと思ったら一気に鏡音のパワーが襲ってくる……!
曲自体はかなりしっとりしているけど、確実にパワフルな歌声が活かされてる曲。
→鏡音の没設定のようなもの、お互いが鏡に映った存在である「鏡設定」のイメージな曲。ツインボーカルであることが活かされた、まさに初期の名曲。
・私の時間
3DSのproject miraiに収録されたボーカルチェンジで、ミクの原曲に対してリン、レンそれぞれのカバーがある。注目ポイントは歌詞が変わっていることで、ところどころ3人に付けられた個性が出ていておすすめ。
ちなみに昔の二次創作でボカロが自分のPを「マスター」と呼んでいるのはこの曲が影響しているとの説が。
・Welcome to the Mirror Sound's Kingdom
→三大悲劇の1人、ひとしずくPが作った、言ってしまえば「鏡音がこちらを沼に引き摺り込んでくる曲」。
ひとしずくPの曲はよく美男美女が得意な鈴ノ助さんがイラスト担当することもあって、結構大人っぽいリンがいたりする。
・ナゾカケ
→レンの曲のアンサーソング。
曲はゆったりめだけど、この曲のリンの「意志の強さ」的なかっこよさがあるかな…と思ったけど、やっぱり曲の印象としては離れるなと思ったのでここに。
・怪盗ピーター&ジェニィ
レンを振り回すわがまま女の子的な性格だけど、小説版では「弱さ」が出ていたからか、原曲の方はより「強い」という感じがして良い。
→YouTubeでプロサカの曲を中心に、クリプトン6人の神調教カバーを量産している外国人Pさんで、まずハズレがない。
プロセカのオリキャラ歌唱に抵抗があったり、プロセカのボカロの出番、バチャシンver.未収録、調教の拙作さにがっかりした人達への一筋の救い。
パワフルでリアルな調教に定評があって、特に評価の高いMEIKOと同じパワフルシンガーの鏡音も思う存分力強い歌唱を発揮してる。
6人→シネマ、RAD DOGS、限りなく灰色へ(リンメインめ)
だけど、正直どれもすごいから気になったの全部聞いてほしい。
深田恭子の「最後の果実」と同じ小森田実(現:コモリタミノル)からの提供曲。
「あなたと眠る夢を見続けてたい」は出てくるが「あたし」は出てこない。
1stカップリング I'm feeling blue 「あたし」「あなた」
ナキ・ムシ [4:42] あたしあなた
二時頃 [4:50] あたしあなた
少し背の高いあなたの耳に寄せたオデコ 甘い匂いに誘われたあたしは カブトムシ
ゆっくりゆっくり~ 時間をかけてまた違う幸せなキスをするのがあなたであるように
anond:20220517213328を見て自分もやりたくなったので今更ですがやらせてください。
キリがないので1アーティスト1曲縛りで。
順位付けしようとしたけど結局好きなアーティスト順にしか並べてないことに気づいて発売順に並べることにしました。
以上、50曲。選曲とコメントで合計6時間ぐらいかかった気がする。でも楽しかった。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。