はてなキーワード: こちとは
おれも大学に入って最初に出きた友だちで、大学出てからおれもあちこち転勤したり彼女の結婚式は一応出たりってのがあってから、彼女の旦那の転勤で同じ街に来たとき二人で飲みに行ってなんとなく流れでしたのが一番気持ちよかったなあ。
トラバもブコメもこいつのことボロカスに見下げ果ててるけど、結構同じようなことしてる奴は多いと思ってる。
友達でもないのに
「(前の会社)なんで辞めたんですか?」
とか普通に聞く人とかかなりいるけどマジでこの元増田と同レベだからね。
彼氏がいるだなんて一言も言ってない、そもそも顔と名前が一致する程度の関係性なのに「○○さん土日なにやってんすか?彼氏さんと過ごすんですか?」とか聞くとかも。
よっぽど本人が阿呆で思慮がないとかでない限りは、
「仮にこの質問で地雷踏んだとか相手の傷をえぐったとしてもこちらが他意がないポーズとってる限りは大怪我しない。周りの支持も得られる。リスクは取れる、GO 」という大変に意地汚い育ちの悪い賢しらな戦略に基づいて踏み込んできてるわけで罪が重すぎる。
第七十三条 何人も、他人の権利を譲り受けて、訴訟、調停、和解その他の手段によつて、その権利の実行をすることを業とすることができない。
https://anond.hatelabo.jp/20240618114421
恋愛主体じゃない作品でも女キャラは軒並主人公に思いを寄せて他の男に目もくれない
低身長低スペック男性に嫁入りして文句一つ言わず無償で奉仕する無欲で従順な女以外の存在を認めず
男を金やスペックで選ぶ女、風俗やパパ活など性的サービスで金を取る女の末路は悲惨と主張する
実際はホスト代を風俗で稼いでた神崎さん、野村沙知代、高嶋ちさ子、キムタクやB'z稲葉や羽生名人の嫁など弱者男性に目もくれず強者男性を追いかけ、不満があったらすぐギャオオオン騒いであちこち言いふらすタイプの女だけが幸せになってる
安い金で男に股を開いたり男に尽くす女に対して男は「こいつに金をかけなくても何やっても言いなりになる」と増長するだけなのでそうなる
実際、共同親権なんかは夫や子供の世話に家事にパートに義両親の家事に都合よく酷使され逃げようとする妻に足枷を嵌める需要から発生した
1年ぶりくらいにみこち見たけど、なんか騒ぎ方がわざとらしいと言うか、取ってつけて無理して奇声を上げているように聞こえて「大丈夫?精神すり減りきって人間の心をなくして喜怒哀楽失ってない?」ってちょっと心配になった。大手はサポート体制もしっかりしてるからなんだかんだ大丈夫だろうけどさ。
自分の狭い観測範囲内だと登録者1~5万人の女性中小企業Vの少なくとも10人くらいが、体調不良で長期休養か引退、Twitch等のサブチャンネルでのメンヘラ化、前向きな理由(本当か?)で個人V化してたりして、あの業界本当難しいんだなぁって思うよ。
下戸田交番に寄ったが、相変わらずのクズの不在ぶりで、いつ行っても誰も座っていないし、所長もいない。場所によって多くの者が単に動画を電磁的に流しているだけで、街や
社会自体が存在していないような感じで、地域一帯が犯罪者の思惑に支配されているような感じがする。蕨警察署はドンキホーテの先にあるが、いつ行っても、パトカーの無線車のおっさんの
偽計で、蕨警察署を発見したことはない。無線車が2台停車しており、仕方なさそうにあぶり出されてきたものが、停車している。こいつを嵌めて犯罪現場に完全誘導すればいいと思うのだが
やり方は分からない。蕨消防署と書いているが、明かりも何もついてなく、延岡消防署とは相当に違う。六辻交番から浦和警察署に電話すると、29歳の、おぺちのような者が出る。
説明は意味が分からないの繰り返し。非番の日は何をしているのかという質問に、家族サービスをしていると言うが、そんなことをこちらが目撃する手段はないだろうというと、そうですね、などと
言い、何も話が進展しない。最後の言葉は、 私の29年の人生で・・・ ちーぎゅちーぎゅ、ちぎゅあああああああああ、という感じ。3時30分に六辻交番から戸田橋の方向に傘を差しつつ
向かうと確かにドンキホーテがあるし、そこの先に、蕨警察署もあったが、何の変哲もなく特に中身は見なかった。六辻交番で、さいたまに妖怪が多いだろう、電磁場で動いてるんじゃないかという話
をしていると、交番前を若者が都合が悪そうに走行しているし、自動車運転者も不審な顔の者が多い。4時に大雨が降って来たので、戸田市川岸1-4-20の前の工場で雨宿りをするが
その時間帯はその一帯に犯罪者が住んでいるような電磁的動画ではなかった。犯罪者が住んでいるのはとうに分かっているが、電磁的動画で、平和な街に見せているので、吐き気がした。
実際には犯罪者が住んでいる場所を、運営と基地局が電磁的動画で平和にみせているだけなので、もうばれているので、その辺は信用せずにスルーをする。4時25分過ぎに荒川緑道に
思いつくまま。
・家事の分担を守らない、というか好きな家事を好きな時にしかしない。
・そのために支出しなければならない、こちらが建て替えたお金(例、夕食用の買い物代など)を精算しない
・保険の受取相手が子供だけ(こちらは同様の保険でちゃんと受取相手にしている)。
・子どもの学校の保護者欄にこちらの名前・連絡先などを書かない。
・子供関係だけでなく重要な書類なのに見せないで提出しようとする/した。
・周囲の人に自分が同情を買うような話を作る。
・家計決済用の口座の残高を確認せず、連絡もせずに予算オーバーな支払いをする(ギリギリ気づいて事なきを得る)。
・自分の収入支出の詳細は非開示、こちらの支出はクレジットカードの履歴まで封書をあけて確認(これを受けてWebのみにしたら切れる)。
・理由を説明せずに唐突に不機嫌になり、プチ家出を繰り返す・離婚だと言う。
・そういう時はたいてい一人で酒を飲んだ後(翌日空いた酒瓶や缶を発見する)。
・長期出張中の定時連絡をしてもでない。返事がない。
しがらみがいろいろあってどこでも尋ね辛い質問なのでこちらでさせてもらいます。
ハンドルネームに「○○くん」とか「○○ちゃん」などと自身に名付けるのはどういう意味があるんですか?
さかなクンなどの有名人はわからなくもないですが、そこらへんにいる方よりもつまらないことを書くひとがそんな愛称のように○○ちゃん○○くんなどとつけてるのは負の感情より困惑を感じます。
何を考えているのでしょうか?
私の戦い方が非常にまずいと思うのですが、別のある記事で過去、旧Twitter上でも対立したことのあるホロコースト否定論者と、若干やり合ったことがあるのです。多少なりともホロコースト否定論の知識を得た頃からその記事は非常に不適切というか、質があまり良くないと思い始めて、少しずつだけど編集を加えつつ、1年ほどかな?ちょくちょく見てたら、その否定論者によって、一気に大量の編集がなされているのを発見したのです。もちろん否定論の方向で。
「これはあかん!」
と思って、その時かなり焦ったのか、私の方でその項目ごとバッサリ削除するという極めて悪手なやり方をしてしまったのです。
以前からその項目は不要だと思っていたのもありましたし、その項目は対立する否定論者との余計な議論を招くだけだ、と思っていたからでもあります。多分ですけど、その項目を最初に設けた人はホロコースト否定論を単純に舐めてたんだと思います。そう考えていた矢先に、その問題項目に、大量の細かい論点を追加されてしまったのです。それらは全て、否定論者の細かな否定論の主張でした。
そこで、私の方は、一旦その項目を全削除した上で、主要な論点に絞って、簡潔に否定論とその反論という具合に整理したらどうか?と考えて、一旦項目ごと全削除という手段に打って出てしまったのです。それには内心で「困ったな」と思ったことがあったからでもあります。それは「出典」の問題です。
Wikipediaでは独自説を歓迎しません。あくまでも、出典ありきの姿勢をとっていて、信頼できる情報源からの出典に基づいた記述が要求されます。私自身は、ホロコースト否定論の細かい論点にかなり多く反論できるのですが、その「出典」の問題で困ったのです。それら否定論の細かい論点に対する反論を構築するための出典がないわけでもないのですが、「ないわけでもない」程度の話であり、実際出典に基づいた反論をしようとしても出典自体が存在しない場合も多く、それで考え込んでしまったのでした。
それならその論敵の出典は?と言えば、論敵は出典を明示していました。それらの多くはすでに紹介した歴史修正主義研究会の翻訳記事でした。大学教授(文教大学教育学部の加藤一郎(故人))の作ったサイトの記事だからと、信頼性もあるだろ、という態度だったかと思います。こちらにはそんなものはあるわけありません。少なくとも、日本人の学者で細かいホロコースト否定論の具体論について事細かに反論している人などいません。欧米にはいますが、細かな論点に対応する反論を探すのは、なかなか困難です(ない場合も多い)。
そうこうして、考えあぐねているうちに私はとっとと論敵に通報されたり、あるいは編集合戦だと認定されて保護されてしまったりしたのです。ノートでも議論を呼びかけましたが、私が強硬すぎたせいだと今では思ってはいますが、論敵がこちらの示した方針を考慮する考えは全く示してもらえませんでした。
つまりは、その時のWikipedia上のホロコースト否定派との直接対決は、無様にも敗北してしまったのです。もちろん諦めているわけではないのですが、今のところその問題の記事を私は編集する気はありません。それ以来、もっとたくさんの知見を得て、反論はかなり可能にはなってはいるのですが、そんな反論を書き加えたりしたら、訳わからないほどの情報量になってしまうし、それは私の望むことでもないからです。
結局、Wikipediaの難点は、個人にとっては、私から見ると「共同作業」で編集しなければならない、という点につきます。もちろんそれは、私が上手いやり方を見つけられないからだと思います。だからこそ、誰か他の人にやって欲しいのですけど…どーも、他には関心を持ってくれる人はほぼ皆無のようで。とにかく、Wikipediaは私には向いてないという他ありません。いまだに、書式すら覚えられないし、ガイドラインやルールの細かいことについても全然無知だし、マナー的な作法のような部分も全然わかってないし。
ですので、ここ一年くらいは、Wikipediaは放置してきたのです。結局、自分の書くブログ記事やnoteなどを充実させていく方が簡単だろうと。Wikipediaの記述をまんま信じる人が悪いのであって、私に責任があるわけでもないし。…でもやっぱり気になるんですね 笑。それで、ホロコースト関連のいくつかの記事をコソコソ編集しているのですが、そこでも記事項目の内容を消して、書き換えると修正主義的な人に怒られています。だって、私が書き加えた記述が、それ以前の修正主義者と思しき人が書いた内容と矛盾するから削除するしかないんです。それに私の後で差し戻しなど、編集したいんんらどうぞ、お好きにやってもらって構わないし。ただし、以前とは少し違って、今は私は出典を極力明示することを心がけてますので、私自身の記述は消しにくくなってはいます。相手が出典を明示しないんなら容赦なく「要出典」にしています(以前に負けたその相手とは異なると思います) 笑
ともかく、繰り返しますけど、他の誰かにやって欲しい。今のところ私しかできないと思ったから、Wikipediaでのホロコースト否定論駆逐w行動を行っただけで、Wikipediaは私には向いてません。
実際、詳しく調べたら、はてなーくらいのリテラシーがあれば、ホロコースト否定論がクソみたいな嘘と間違いだらけだなんて、ホロコースト否定論のような陰謀論を信じたがる人でもない限り、すぐわかると思うのですけどね。はてなーのリテラシーって平均的には高いと、はてなのサービスを常用してる人はそれくらいには自負していいと思います。私は例外ですけどね 笑
元増田よ。英語の国名はあくまで「英語読み」に過ぎないのであって、日本語読みが現地語に寄せてるものまで英語でジャッジしようとするのはどうよ。
ウクライナ語ではУкраїнаと綴って「ウクライーナ」と読むので日本語読みは現地語に忠実です。何でもかんでも英語読みを基準にすんのやめろ。っていうか英語ならユークレインだろ。
スイスには4つの公用語があるけど、そのうちフランス語ではSuisseと呼ぶので日本語の「スイス」はむしろ現地語に近いぞ(4つの公用語のうち1つに基づく呼び方を採用しているのは中立的ではないのでは? という異論はあってよい。ちなみにスイスでは4言語で国名を併記するけど、切手とかで4言語を併記するスペースがないときにはラテン語の「ヘルウェティア」を使う。日本もヘルベチアって呼ぶべきなのかもだけど今更無理だよね……)。
ドイツ語だとDeutschlandと綴って「ドイチュラント」と読むので、「日本語読みは英語読みよりマシ」とドイツ人にも好評だったぞ(n=1)。
ロシア語のМоскваを綴りに忠実にカナ表記すると「モスクワ」になるんやで。まあ発音は「マスクヴァー」だけど(アクセントのない母音оはаのように読まれるから)。
いや、メヒコはスペイン語読みでメキシコが英語読みだからね!?
ついでにブコメにも。
モスカウってなんだったんや…
ドイツ語のMoskauでは。
北京(ペキン)はそのうちに、Beijing呼びになるかも。
東アジアの固有名詞については相互主義が取られている。韓国では日本語の固有名詞を日本語に即して発音するので我々も韓国の固有名詞は韓国語読みを取り入れているが、中国では日本語の漢字を中国語読みするので、日本でも中国の漢字は日本語で読んでいる。だから金大中は「キム・デジュン」だけど習近平は「しゅう・きんぺい」なのよ(中国語なら「シー・ジンピン」になる)。
ギリシャ→エリニキ
フィンランドではフィンランド語とスウェーデン語の2つが同格の公用語で(『ムーミン』を書いたのはスウェーデン語系フィンランド人の作家)、フィンランド語での呼称がSuomiでスウェーデン語の呼称がFinland。なので「フィンランドは現地語ではスオミ」と「フィンランドは現地語でもフィンランド」は両方正しい。
ギリシャの正式国名はΕλληνική Δημοκρατίαで、これは「エリニキ・ジモクラティア」と読むけども、「エリニキ」は「ギリシャ」という意味ではなくて「ギリシャの」という形容詞なんだよね(後ろにある「ジモクラティア=共和国」を修飾して「ギリシャ人の共和国」という意味)。なので「エリニキ」を単独で国名として使うことはできない。単独で使うときは「エラザ(Ελλάδα)」。
国名が形容詞になってる例としては、他にもチェコがある。正式名称はČeská republika「チェスカー・レプブリカ」で「チェコ人の共和国」。要するに、もともとギリシャやチェコという国があったわけではなくて、近代以降に民族主義が芽生えてギリシャ人やチェコ人が住んでるところを1つの国にしたという順序なのでこういう国名になっているのね。
同じ反ロシア仲間のウクライナではフルジヤ(Грузія)、ポーランドではグルジヤ(Gruzja)、リトアニア&ラトヴィアでもグルジヤ(Gruzija)なのに、日本語でわざわざ変える必要あったの? ってなるよね。ウクライナがフルジヤって呼んでるんだから日本でもグルジアのままでよくね?
(キリル文字のГはもともとガ行を表すんだけど、ウクライナ語とベラルーシ語ではハ行を表している。スラヴ語圏の真ん中に「gの音がhの音に変わったエリア」(チェコ・スロヴァキア・上ソルブ・ウクライナ・ベラルーシ・ルシン)があって、そのエリアでは本来ガ行だった音がハ行で読まれるんだよね。たとえばスロヴァキアにある世界遺産のスピシュ城はSpišský hrad「スピシュスキー・フラト」って綴るけど、後ろのhradは語源的にはgrad、つまりベオグラードとかスターリングラードとかと同じ。だからロシア語の「グルジヤ」をウクライナ語やベラルーシ語では「フルジヤ」って読むんやね)
ミュンヒェン、ワルシャワは英語読みよりも日本語の方が原音に近い事例。「アテネ」は結構面白い事例で、まず古典ギリシャ語ではἈθῆναι「アテーナイ」。ギリシャ語は長い歴史を経て発音が変わって、Ηの文字は古典語では「エー」を表す文字だけど近代語では「イ」に変わった。さらに、θの文字も、古典語だとタ行で表されることになってるけど、近代語では英語のthに近い音というか、要するにサ行で表すのが相応しい音になっている(Θεσσαλονίκη「セサロニキ」がキリスト教関係文献では「テッサロニケー」と表記されてるのは古典語読みだからなんだよね)。で、現在ギリシャで使われてるジモティキの語形はΑθήνα「アシナ」……あれ? 「アテネ」の最後の「ネ」ってどっから来たん? 現代ギリシャ語ではαιと綴って「アイ」ではなく「エ」と読むので、古典語(あるいはカサレヴサの)Ἀθῆναιを古典語と近代語のちゃんぽんで読むと「アテネ」になるのかな? それとも西欧人の読みをそのまんま取り入れたん?
(近代ギリシャ語には2つの正書法がある。1つ目が、現在広く使われている「ジモティキ/民衆語(Δημοτική)」で、もう1つが「カサレヴサ/純正語(Καθαρεύουσα)」。近代ギリシャ語の標準語を作り出すときに、古典ギリシャ語を参考にして古文っぽさを残して作られたのがカサレヴサで、20世紀前半までは公用語として用いられていたんだけど、話し言葉からかけ離れすぎててわかりづらいわ! ということで、より言文一致(当社比)したジモティキが作られて、現代のギリシャではこちらが「現代ギリシャ語」として流通している。まあ、明治時代の日本語と現代日本語の違いを想像してもらえれば)。
そもそもカタカナで表記できない発音があるのにそれを使って記載するのが間違っている。外国語教育がそもそも問題だろうけど日本語読みで役に立つ場面なんかほぼないよね。全部現地語で表記、現地読みすべきだと思うんだけどなぁ。
「საქართველოは、Україна侵攻後のРоссияに対する経済制裁には参加していません」っていうニュースを流すことが日本人のためになるとはまったく思えない。多少厳密さを欠いたとしても、「グルジアは、ウクライナ侵攻後のロシアに対する経済制裁には参加していません」って書いたほうが日本人の外国理解に資するんだから、日本語の媒体では基本的に日本語の文字を使って表記すべき(だいたい、英語圏の連中だってニュースで日本の固有名詞を漢字や仮名で表記せずにラテン・アルファベットで書いてるんだから、当然、我々も日本語のニュースでは英語圏の固有名詞をラテン・アルファベットではなく日本の文字で書いてよい。真に公平な世界というのはそういうものじゃないだろうか)。
BBCラジオを聴いていると非英語圏の人名をわざわざ英語読みしていてそのまま現地語読みすればいいのに…と思うことがよくある。
これはしゃーないと思う。我々にはカナという便利な文字があるから、Richardをリチャードとリシャールとリヒャルトに訳し分けることができるけど、英語母語話者はラテン文字しか知らないんだから、そりゃ英語読みしかできないよ。我々だって、たとえば「『マイケル』と綴って『まいこー』と読んでクダサーイ」って言われても困るっしょ? 「いや、『マイケル』って書かれたら『まいける』としか読めんだろ」って思うっしょ? Michaelをミヒャエルと読めと言われた英語母語話者の気持ちもそれと同じだと思う。だいたい、我々もDonald Trump「ダナー・トランプ」を「ドナルド・トランプ」と書いて恥じないわけで……
えー、我々だってMcDonald’sを「まくだーのーず」じゃなくて「まくどなるど」って発音してるんだから、英語母語話者がIKEAを「いけあ」じゃなくて「あいけあ」って発音しててもよくない? 悪いのは 「英語では『あいけあ』と読むんだから日本人の『いけあ』っていう発音は変!」みたいなデタラメな理屈を振りかざす英語かぶれの名誉白人どもであって、英語母語話者が身近なものを英語ふうに発音すること自体は何も悪くないよ。彼らが身につけた綴りの規則からはそう読む方が自然なんだから。
英語中心主義が悪いのであって英語自体が悪いわけじゃない、という精神でいきましょう。へぇ、ヨーロッパの隅っこにある島々で話されてるローカル言語には変わった発音の規則があるんだなぁ、面白いなぁ、程度の受け止め方をするのが一番適切な付き合い方だと思う。あのへん、デンマーク語とかアイルランド語みたいに発音と綴りの関係が複雑な言語が多いからね……
ドナウ川の語源はラテン語のDanubius「ダヌビウス」だから英語Danube「ダニューブ」の方がドイツ語Donau「ドナウ」よりも語源に忠実だよ! あんまり英語を馬鹿にするのはどうかと思うぞマジで。
ちなみに、チェコ語・スロヴァキア語・ポーランド語・上ソルブ語でドナウはDunaj「ドゥナイ」っていうんだけど(ウクライナ語でもДунай「ドゥナイ」だね)、スロヴェニア語のDunaj「ドゥナイ」はウィーンって意味なの面白いよね(ドナウはDonava「ドナヴァ」)。
ほぼ現地語読みを尊重してるのに「ドナウ川」だけ語源で語るのはブレでは。現地語読み>>慣習読み≒英語読み≒語源くらいのウエイトでよいような。
まるで英語が変わった呼び方をしているかのように書かれていたから、いやいや英語読みは語源に沿った呼び方であって変な呼び方というわけではないのよ、と書いたのであって、英語読みが現地語よりも尊重に値するとは書いてないっす。ところでドナウ川は国際河川なわけだけど、「現地語」ってどの言語のことだと思う?
ジョージア州はジョージ2世にちなんでつけられ両方現地言語読みだからOKと思えば、グルジアも由来の聖ゲオルギオスの現地読み風に読めば良いのでは。
いや、現地語の名称サカルトヴェロは「カルトヴェリ人の国」という意味であって聖ゲオルギオス何も関係ないんよ……素直にサカルトベロと書くべきだよねぇ、やっぱし。
それを言ったらそもそもはカナク人の土地をフランスが植民地化したんだからカナク語でKanaky「カナキ」って呼ぶべきじゃない? 英語もフランス語もどっちも侵略者の言語でしょ。
新カレドニア、いいと思う。アルバニア語のKaledonia e Re「カレドニア・エ・レ」とかトルコ語のYeni Kaledonya「イェニ・カレドンヤ」ももろに「新カレドニア」だし。ただ、そうすると、カナダのノヴァスコシア州は「新スコシア州」にするのかとか(ちなみにアルバニア語ではSkocia e Re「スコツィア・エ・レ」、トルコ語ではYeni İskoçya「イェニ・イスコチヤ」)、プリンスエドワードアイランド州は「エドワード王子島州」にするのかとか(アルバニア語Ishulli i Princit Eduard「イシュリ・イ・プリンツィト・エドゥアルド」、トルコ語Prens Edward Adası「プレンス・エドワルド・アダス」。なお中国語だと愛德華王子島省)、ニューファンドランド・ラブラドール州どうするんですかとか(トルコ語だとNewfoundland ve Labrador「ニューファンドランド・ヴェ・ラブラドール」って日和ってるけどアルバニア語はToka e Re dhe Labradori「トカ・エ・レ・ヅェ・ラブラドリ」で「新しい土地とラブラドール」になってて強い。日本語化するなら「新疆・ラブラドール州」とか「新開地・ラブラドール州」は……駄目?)、色々と楽しいことになるので……
いいよねウェールズ語Seland Newydd「セランド・ネウィズ」とかエストニア語Uus-Meremaa「ウース=メレマー」とかソルブ語Nowoseelandska「ノウォセーランツカ」とかバスク語Zeelanda Berria「セーランダ・ベリア」とかハンガリー語Új-Zéland「ウーイ=ゼーランド」とかマダガスカル語Zelandy Vaovao「ゼレンディ・ヴァウヴァウ」とかラトヴィア語Jaunzēlande「ヤウンゼーランデ」とかとか……ところでニュージーランドは本来マオリ人の土地で英語は侵略者の言語なんだからマオリ語Aotearoa「アオテアロア」に統一で良くない?
節子それフランス語読みちゃう、単に自分らの言葉で「低地の国」って呼んでるだけや(英語でthe Nederlandsっていうふうに定冠詞+複数形になるのは、もともと「低地」っていう普通名詞だから。the United Statesと同じやね)。イタリア語Paesi Bassi「パエシ・バッシ」もカタルーニャ語Països Baixos「パイズス・バシュス」もスペイン語Países Bajos「パイセス・バホス」も全然フランス語Pays-Bas「ペイ=バ」とは違うじゃん?
ちな、ウェールズ語だとYr Iseldiroedd「イール・イセルディロイズ」、ギリシャ語だとΚάτω Χώρες「カト・ホレス」、クロアチア語・スロヴェニア語だとNizozemska「ニゾゼムスカ」、チェコ語だとNizozemsko「ニゾゼムスコ」な。どれも「低地の国」って意味。
なお、沖縄語の「ウランダ」は「西洋」という意味だったりする。沖縄語をしゃべるオランダ人の動画おもしろいから観て(「ウランダ出身だけど、国の方のウランダね」って断ってるの草)>https://www.youtube.com/watch?v=SB1x8iqqSto。
増田にしつもーん
・コートジボワールの象牙海岸表記をやめたような変更したほうがいいなと思う国名ある?例えば中央アフリカをサントラフリケーヌにするみたいな
クロアチアは別にクロアチアでよくね? ただ世界史の教科書とかで「クロアティア」って書いてるのは無駄に煩雑だから高校生のためにもやめてあげた方がいいと思う。現地語がCroatiaならそこにこだわるのもわかるけど、それ現地語でもなんでもないじゃん、ってなるので。現地語を尊重してフルヴァツカと書くか、大人しく慣用に従ってクロアチアと書いておけばいいんじゃ。
変えたほうがいい国名はまさに「ジョージア」だわw 既に日本語で定着した複数の固有名詞(アメリカの州、コーヒー)とバッティングしてややこしいことこの上ないので、「グルジア」に戻すか、先方がどうしてもロシア語読みは嫌というなら現地語を尊重して「サカルトベロ」にすべき。
今日も昼間は暑かったですね。もう9月も半ばなのに最高気温35度の猛暑日ですって。
私は夕方までごろごろしていました。だって今日は9月15日、祝日じゃないですか。「敬老の日」じゃなかったっけ?←
とまぁ、毎日が日曜日の私ですが。夕食にうなぎを頂きました。働かざるもの云々とはいうけどな←。
と、そんな平和な日常もとりあえず19時前で終わり。夕食後自室に戻ったあとの18時52分、スマホが突然ビービーなる。何事だ?
私にとって何が魅力的か冷静に検討してみたが、要は「バズってる」とか、昔風に言うと「祭になっている」賑わいそのものが誘引力であって、今後漫画として発展することなくワンパターンになることが予想されたので、前回の話で切った。
元々2話まで読んだ後、次の話で見限るかどうか決めるつもりだった。結果、カレーに見立てるというネタが無理のありすぎる漫画的嘘で(それで空腹が紛れるわけがないし、本当に空腹な状態ではこういうジョークは受け入れられない)致命的に醒めてしまった。
つけくわえると健康診断の後にチェーン店のカレーをかきこむという展開も魅力的でなかった。私にはカレーチェーンにいく習慣がないからである。
前回の時点でよくわからないと思った表現が爆盛り焼きそばを2つ一度に食べるというもので、これは美味しさを増す工夫でなく単純に量を増殖させるという話であり、しかもそもそも爆盛り焼きそばが多すぎて食べられる気がしない私には魅力のないものだった。
そもそも高血糖スパイクや「至る」とかいう状態自体があまりピンとこない。確かに私も満腹になると眠くなるが、私はその欲望が悪いことだと思ったことがない。食べてすぐ寝るなんて割とよくあるが、それで太ったこともない。それと高血糖スパイクが同じものか違うものかも判然としない。
日ペンの漫画家も指摘していたが「至る」は明らかにサ道の「ととのう」を念頭に置いた表現であるものの、「ととのう」がサウナの使い方を提案・レクチャーしたものであるのに対し「至る」には特に解説はない。「ととのう」と違って、まったく体験してみたいと思わない。好きなものを食べて眠る幸せはドカ食いでなくても得られる。
サ道は同じことをやってみたいと思わせる作品だったがもちづきさんは同じことをやりたくなるわけではなく、悪くいうと可哀想な人をひたすら嘲笑うタイプの漫画だ。読者を危険にいざなわないので分別があるということもできるが、ドカ食いする若い女の子を嗤う構造自体褒められたものではない。勿論この手の「困ってるかわいそかわいい女子を眺めて楽しむ」話は鉄板であちこちでやってるので今さらではあるが、醜悪さの脱臭が十分でないと個人的には感じる。
見た目にドギツイ高カロリーファンタジー手料理を楽しむ作品ではなく食欲に追われて限界メシに追いやられているさまを見せられ面白いと思いこませられてしまうというのは様々な意味で貧しい。誤った栄養に誘い込まれるところであった。冷静に踏みとどまらなければならない。
2021年1月、はてなブックマークで以下の記事が多少話題になった。
日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策 - 佐藤由美子の音楽療法日記
佐藤氏が気にかけていたのは、あくまでも日本語版Wikipediaの日本の歴史認識問題についてのみだったようだが、私は当時から、いわゆるホロコーストに関しても、歴史修正主義者のWikipedia上での活発な活動を知っていた。奴らは、ちょこちょこちょこちょこ、関連記事を編集していたのを目撃していた(実際にはネットで知り合った人から教えてもらったw)。その時から、私の奴らとの孤独な戦いが始まった。本当に孤独で、誰か他におらんのか?と思うほどである。
そんな戦いをしているのは私(と他に何人かはいるかもしれんがよく知らない)くらいかもしれないが、とにかく日本語版でのホロコースト否定派に属するであろう歴史修正主義者はWikipediaで暗躍し続けている。
例えば、ニュルンベルク裁判の記事では、「被告に対する暴行や弁護団への不法行為」という項目で、ヴェルナー・マーザーというドイツ人歴史学者による著書『ニュルンベルク裁判 ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』だけを使って、ニュルンベルク裁判で被告らが暴行・拷問を受けるなど不当な行為が行われたと書かれている。少し調べると、ヴェルナー・マーザーは歴史修正主義者と見做されており、ドイツ語版のWikipediaにあるヴェルナー・マーザーの解説には次のように書かれている。
しかし1977年以降、マーザーは歴史修正主義者に分類されるようになった。特に『ニュルンベルク:勝者の法廷』(1977年)、『言葉の破れ』(1994年)、『ヒトラーとスターリンに関する改竄、虚構、そして真実』(2004年)といった著作のせいである。ヒトラーと国家社会主義に関する彼の全体的なテーゼは、ナチスの研究によって否定された[4]。
残念ながら、マーザーの著述を批判するほどの知見は私にはないので、Wikipediaの記述を修正することは今の所無理だが、同ドイツ語版ページには上の引用の直前にこうも書かれている。
メーザーの文書館での作業、資料や二次文献の知識、同時代の証人や専門家との接触、調査方法は、初期の著作では歴史学的基準を満たしていたため、ナチスの歴史に関するこれまで知られていなかった詳細を文書で発見したことは、研究衝動として認められた。例えば、マーティン・ニッセンは、事実をつなぎ合わせることに関しては、メーザーが多くの専門的な歴史家よりもはるかに優れていると見ていた。
しかし、多くの専門家たちは、彼のこうした事実の扱いを批判した:例えば、カール・ディートリッヒ・ブラッハー、ロバート・G・L・ウェイト、ジークフリート・シュヴァルツは、ナチス時代に関する著書の中で、彼が他の著作からバラバラの詳細を集め、歪曲したやり方でそれらをつなぎ合わせ、本質的な事実とそうでない事実の区別をつけなかったと非難した。
ドイツの歴史研究界隈で物議を醸す歴史家だったことは確かなようではあるが、マーザー自身はホロコーストを否定していないようではあるが、ニュルンベルク裁判で被告に拷問をしていたと記述していた点は、どうも日本人の歴史修正主義者にはかなりのお気に入りのようではある。
そして、「被告に対する暴行や弁護団への不法行為」より下の項目を読んでいくと、もはや修正主義者の独演会になっている。例えば「不起訴になったカティンの森事件」という項目があるが、カティンの森事件は修正主義者・ホロコースト否定派の大のお気に入りで、何故かといえば、ソ連のゴルバチョフ書記長時代に実施された情報公開政策「グラスノスチ」により、カティンの森事件がソ連の犯行であることが、ソ連自身によって文書証拠付きで示され、ソ連がそれまでナチスドイツの仕業だ!と言っていた、そのソ連の主張が嘘であることが確定したからである。
ホロコーストに関しては、ユダヤ人絶滅のほとんどが、ソ連地域や第二次大戦で結果的に終戦まてにソ連が占領した地域で起きたとされていることから、否定派はホロコーストはソ連の捏造だ!と主張してきたので、カティンの森事件がソ連による嘘だと確定したことには大喜びなのだ。つまり、修正主義者たちは「ほらみろ!ソ連は嘘つきだと判明したじゃないか!ホロコーストだってソ連の嘘に違いない」と言いたいのである。
だからこそ、ニュルンベルク裁判の内容にはほとんど関係のない、カティンの森事件についてまで記述されているとしか考えようがない、だいいち記事中に書かれている通り、ニュルンベルク裁判では審議の対象にすらなっていないのだから、ほとんど書くべき内容はないはずである。事実、英語版ウィキペディアのニュルンベルク裁判の記事では、たった一文「西側の検事たちは、審理全体に疑念を投げかけることを恐れてカティンの罪を公に否定することはなかったものの、懐疑的であった[160]」と書いてあるだけで、日本語版のように項目にすらなっていない。
続く項目は、カティンの森事件以上にホロコースト否定派が大好きな「発見されなかったヒトラーのユダヤ人絶滅命令や計画書」だ。ホロコースト否定派はヒトラーのユダヤ人絶滅の命令書は存在しない!というテーゼを抱えて絶対に離さない。個人的には、もしホロコーストが連合国やユダヤ人による捏造なら、それこそヒトラーの命令書が捏造されていないことは、極めて不自然(ペラ一枚捏造するくらい造作もないだろw実際、文書資料として残されているT4作戦のヒトラーの命令書(承認書)は簡素なものだった)だと思うのだけど、ホロコースト否定派はそんなコマケェ話は気にも留めない。命令書が存在していないのだから、ナチスドイツのユダヤ人絶滅など作り話に違いない!、という鬼の首なのである。
しかし、そこには書いてないが(何故それを書かないのかわからないが)、歴史家のほとんどは「ヒトラーによる命令は口頭でなされたのであろう」と考えている。詳しくはここでは書かないが、それなりに間接的な証拠がいくつか存在するからだ。ヒトラー自身が強烈な反ユダヤ主義者だったことを否定する研究者は存在しない。それは修正主義者ですら認めている(アホなネット否定派の中には認めない人もいるが)。ナチ党自身が反ユダヤ主義者の集まりであった。「ユダヤ人を殺す」とする趣旨の記述を持つ当時のドイツ文書は腐るほどあるのである。例えば、リトアニアでユダヤ人を殺しまくっていた親衛隊将校によるイェーガー報告書という文書を読んでみるといい。そこには「ユダヤ人を全員殺したかった」とさえ書いてある(全員はその地域の労働力の保存の意味で殺せなかったから不満を言っているのである)。それら諸々の記録などを調べていたら、ヒトラーの命令がなかったことは非常に考え難いのだ。
ともかく、日本語Wikipediaのニュルンベルク裁判に関する以降の記述項目もほぼ全て、ホロコースト否定派・修正主義者による記述だと断定していいだろう。ニュルンベルク裁判についての解説として、まともなのは記事の前半くらいなのだ。それが、履歴を多少確認する限り、かなり以前から放置されてきたようなのだ。日本人はニュルンベルク裁判などほとんど関心がないからだろうか?
私自身は、このニュルンベルク裁判を大幅に書き換えるほどの知見はまだ持ってない(細かいことなら可能ではあるが…)し、他のホロコースト関連記事で多少活動している程度である。それらの他の記事でも、実際のところホロコースト否定派と思しき奴らの記述は散見されるし、しかも奴らの記述をあまりにも大幅に書き換えたり、あるいは削除したりすると「削除しないでください!」と履歴欄でクレームをくらうことは頻繁だし、最悪な時は編集合戦と認められて、保護状態にされてしまったことすらある。Wikipediaは厄介で、敵対する相手とも共同編集せざるを得ないため、とんでもなく面倒なのである。しかも、ホロコースト否定に対抗する場合、「要出典」とならないように、可能な限り出典を明示するべきなのだけれど、日本語圏では壊滅的にホロコースト文献を得るのは至難の業なのである。どうにかこうにか、若干の日本語文献と、ネット上の文献を駆使してはいるが、とにかく図書館に行っても、適切な文献を見つけることは困難なのである。稀に洋書を見つけることはあるけれど、そもそもすらすらとは読めない…。
ところが、否定派の連中ときたら、平然とその出典部分を修正主義者のサイトから持ってくるのである。有名なのは、歴史修正主義研究会で、こちらには大量の欧米の修正主義者による論文の日本語訳が公開されていて便利なのだ。そして、もう少し知恵の働く修正主義者はこの歴史修正主義研究会のサイトを経由して、欧米の修正主義者サイトにある資料を典拠としたりする。あるいは酷い人になると、どこの誰が作ったのかもよくわからない怪しげな歴史修正主義者のサイトにある記述を出典とする人もいて、Wikipediaのガイドラインなんざガン無視していることすらある。
多分、語圏の広い英語版だと、修正主義者よりはるかにそれに反対する人たちが多いからなのだと思うけど、英語版のホロコースト関連記事ではほぼそんなことにはなってない。英語版で修正主義者の記述を見つけることはほぼ全くないと言っていい。しかし、日本では以上の有様なのだ。私はここ増田で何度も「日本にもホロコースト否定派は多い」と言ってきたと思うのだけれど、それを問題に思う人も少ないのかもしれない。実際、ホロコースト否定の日本のネット上での存在を知って、ホロコースト否定論への反論がほぼ日本語では存在していないことを知ったから、数年前から、主に海外の記事を翻訳してnoteを通じて公開してきた。
勝手に翻訳公開するのは著作権がどうのと言われたこともあるが、人力でAI翻訳しているだけとでも思って欲しい。私の翻訳がしばしばハルシネーションを起こしているのは私が生身のAIである証拠だ(笑)
誰か手伝って欲しいという気持ちは正直なところだし、ここ数年、大量のネット上の海外記事を翻訳し続けてきたし、それら記事に辿り着く人もそこそこ増えてはいるようだし、最近はもういいかなとも思い始めてはいる。結局、多数の賛同を得られないのであれば、それはそれでしょうがないかなという気もしている。ネット上の否定派たちは、私からみる限り、どこからでも湧いてくるように増殖する、ように見える。正直、キリがない。一応趣味でもあるから、完全に辞めることはないとは思うけど、ともかく、どうしてこんなにデマに弱い人が多いのか、よくわからない。
「オマエモナー」と言われるかもしれないが。
自転車通勤をしていて、工事中のため片側交互一車線になっている道を毎朝通っている。
先週まではあちら側とこちら側に誘導の高齢男性がひとりずつ立っていて、車や自転車を交互に通していたのだが
「?」と思ってよく見てみると、重機の陰の目立たない所に痩せた小さな高齢の女性が立っていた。ヘルメットがやけに大きい。
見た目ではかなりの高齢で、伸び放題の白髪がボサボサ、とても失礼な言い方になってしまうがショッピングバッグレディー的にも見える。
彼女が立っていたのは相方の誘導の人が見えない場所で、それでは全然役に立たない。
幹線道路ではないが、交通量はそこそこあり、事故が起きる可能性は充分ある。
しかしその現場ではその女性にお願いしなければならないほど人がいないのだろう。
派遣会社に任せていたら、想定と違う人が来ちゃった感がありありである。
それでもそこに人がいなければ工事が出来ない。切迫感はいかばかりか。
真夏に比べれば涼しいが、あの小柄な女性が、日影のない路上で一日中外に立っているのを考えるといたたまれない。
もしかしたら見た目に反してまだ若いのかもしれないし、身なりに気を遣わない性分なのかもしれないし、単に仕事をサボりたい人なのかもしれない。
もしかしたら高齢であまり健康ではないのに経済的理由で働かなければならないのかもしれない。
もしくは働く事に誇りとこだわりを持っている方なのかもしれない。
なぜならそいつらは約20年後には死んでいなくなり、そいつらの価値観・思想は文字通り消え去るから。
生き残った我々若い世代の価値観の社会になるのが100%確定している。
無論我々も、自分より若い世代に同じように思われているはずなので、こちらも若い奴らには何も言わない、というか無関心で生きる。
その上、お一人様が増えていること考えると
するとそこに注力するほうが良くて
さらに、その市場が拡大した結果、男を巻き込むことを考える必要が出てくる
例えばキャラクタービジネスなんかは最近堅調だけど(バク伸びではないが)
案外男もハマるようなものが売れてるんだよね
Z世代はメンズも美容を意識するらしく、こちらも巻き込まれている
こういう流れはおそらくZ世代が市場の中心になってくる10年後くらいに更に強くでてくると思うんだけど
どうしたもんか
あくまで炎上へのリスクヘッジ的な目的では雇うべきでは無いって話ね
他の理由でなら別に何も言う事は無い(って言うけどこれ絶対聞かないアホや人文系のアホ出るよね)
そいつらよりAIに聞いた方がよっぽどマシやぞAIの専門家雇うべき
https://togetter.com/li/2385037
こちらで人文系の専門家を雇ってれば炎上は防げたみたいな事が言われてる
この手の発言は社会学なり人文系なりで今までネットで何度も言われていたが
なぜならば人文系や社会学の人達は今まで何度も何度も問題をスルーしてきた前科があるからだ
そんな前科者を雇ってしまったとして問題を確実に指摘して貰えるという保証があるだろうか?
例えば草津町の冤罪事件…はてなでならもう言わなくても分かるかもしれんが
草津町長に誹謗中傷をしてしまった人達やそれをロクに謝れない人達
そしてそのロクでもない人達をきちんと批判出来なかった人達が人文系や社会学の中には沢山いる
上のリンクやブコメにも過去のやらかしを全く忘れたかのように人文系が頼れるかのように言うクソボケお仲間が沢山いる
その人が権力のある社会学者だからとロクに批判する事が出来ないという事を言ってた人もいた
人文系や社会学の人達はちょっとした事で口を噤むケースが普通にあるという事だ
もし企業で問題のある動画を製作してしまったとしてその動画の関係者の中に重要な人がいたとしたら…
問題点を相談するために雇った筈の専門家達はロクに指摘できない可能性が高いという事だ
もしくはちょっとした個人的な思想が関係して言わない可能性だってある
Xで問題のある同業者に軽くエアコメ皮肉を言う事も出来ない奴らが仕事でならきちんと指摘出来るなんて事ある筈も無かろう
ここでマトモな専門家を雇えばいいなんて言う奴が出るかもしれないが
問題のある動画か自分で判断出来ない企業がどうやってマトモな人文系・社会学の専門家か判断出来るって言うんだよ
chatGPTなどに企業の内部情報を聞く訳にはいかないなんて意見もあるが
誰と誰がかっていうと、私たち現役の保護者と地域の高齢男性たちだ
地域の子どもはどんどん減って、今年の一年生なんて4人しかいない
登下校が1人になることも珍しくない
できれば市の計画通り早急に統合してスクールバスを走らせてほしい
それしかない
小学校がなくなると衰退すると彼らは言うが、すでに衰退してるからこんなことになっているのだ
ただ、タチが悪いことに、彼らには数と時間と人脈がある
自治会長や地元市議に圧をかけて、地域全体が反対しているかのように偽装したり、市長のところに乗り込んで行ったり、議論の場でないところでロビー活動を繰り返す
議論の場では若い世代に理解を示すようなことを言いながら、次の日には地域の総意として反対意見を表明する
まともな議論で物事を決めてきたことがないから、そんな手段しかとれないのだ
こちらはみんな仕事をしているし、とてもじゃないが太刀打ちできない
私たちは統合を切望しているのに、その意見は無かったことにされてしまう
そうしてズルズルと統合が遅れてきた
10年後生きてるかどうかもあやしい人たちが、なぜこれからの世代の足を引っ張るのか
本当に迷惑だ
○ご飯
朝:サンドイッチ。昼:黄身のでカレーチャーハン白菜と大根と白身のスープ。夜:ニンジン、大根、椎茸、餃子の鍋。たまごおじや。ネギポン酢。間食:なし。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすみー。
○ポケットモンスター緑(NPC交換の旅)
シルフカンパニー、ナツメ、サカキ、チャンピオンロード、四天王、ライバルと一気に殿堂入りまでプレイしてNPC交換の旅はクリア。
サイコキネシス、れいとうパンチ、あくまのキッス、のぢかかり。
メインロムとの通信交換を駆使することで合法なシーンブレイク的にハナダシティ到着直後に入手した。
エスパーと氷という非常に通りの良い組み合わせだったので、技が揃ってからは大活躍。
ただ技が揃うまではおうふくビンタぐらいしか攻撃技がなく、概ねあくまのキッスの睡眠要因だった。
れいとうパンチを自前で覚えるのもありがたく、ワタル戦はもちろん、飛行と毒というダレガチなセキチク付近のトレーナー相手に活躍してくれて大好きになった。
ただ泣き声のSEがめちゃくちゃ長いので他メンが育ってからはエースとしてピンポイント起用が多かった。
というのも、まず今回セキチク、グレンの後にヤマブキを攻略したのでメインウェポンの、じしんのわざマシン入手が大きく遅れた。
その上で、致命的なことにショップで道具の整理をしていて間違えてじしんのわざマシンを売り払ってしまった。
とはいえ、赤緑ではヨクアタールつのドリルと影分身があればなんとかなるので、それなりには活躍できた。
NPC交換故の経験値稼ぎのしやすさでレベルが基本的に推奨レベルより上だったのでPPが多い、つのでつくも良いワザだった。
そこまでもメガトンパンチの基礎火力でゴリ押せたし、のしかかりもあるしで、タイプとか関係なくワザで活躍してた。
とはいえ、ニドクインらしさといえばらしさなのでまあこれもよし。
秘伝要員ながら、タイプ一致そらをとぶときりさくで普通に戦えて驚いた。
特に赤緑の急所仕様で使うきりさくは爽快で、岩に手も足も出ない点を除けば、かなり出番があった。
きりさくを覚えるまでも、つつくと、いあいぎりでタイプ一致補正自体は活用できたのも良し。
10まんボルト強いっすわ。PP15、命中100、威力95、電気の通りの良さと、全然バリヤードとしてでなく10まんボルトとしての活躍だった。
でんじはでマヒを打てるのも程よく、電気タイプみたいに使ってしまった。
サイコキネシスが一点ものわざマシンで、まさこに使ったための苦肉の策だったが結果おーらい。
残念ながら活躍はさせられなかった。
ノーマル単タイプはわざマシンの補強が大切なんだけど、具体的に何を覚えさせるかピンとこず適当な構成にしてしまった。(なみのり、テリーと被ってるし)
クッション役しかできなかったが、それでもレベルが50になってるのは経験値が多いNPC交換らしさかな。
・まとめ
NPC交換の旅と題して、ゲーム内でNPCと交換できるポケモン達だけで旅をしてみた。
普段使わないバリヤードやルージュラで旅をできたのは楽しかったし、何より経験値がたくさんもらえるからサクサク遊べるのも良かった。
通常プレイでは気にしない、バッチの他人からもらったポケモンに関するレベルキャップを意識してプレイするのも楽しく、こういう遊び方もあるんだなあと感心しつつ面白いと思った。
マジで?
マジかあ…… 僕、遊ぶのかなあ? 遊ぼう!
ユグマグ石の限界超越を進めて250にした。
これでマグナ石の限界超越はリヴァマグ石以外の5属性は250。
残りのリヴァマグ石も220で、砂もあるので少しづつ進めていこう。
コロンブスのアメリカ大陸500周年を記念した映画は1992年当時、すくなくとも2本公開されている。
1本は、元増田が書いてるリドリー・スコット監督の『1492 コロンブス』。(原題 “1492: Conquest of Paradise)”)
もう1本はジョン・グレン監督の『コロンブス』(原題 “Christopher Columbus: The Discovery”)。
ジョン・グレン監督というのは馴染みのない名前かもしれないが、1980年代から90年代の007シリーズを手掛けている人。
自分は見たのは前者(以下『1492』と略記)だけだが、後者(以下『コロンブス』)についてもいろいろ悪い意味で話題になってたよなあと思い出したので、wikipediaの英語版その他を手がかりに書いていく。正確性は必ずしも保証しない。
元増田は『1492』を“盛大にコケた”と評してたが、もっと目も当てられないコケ方というか、製作時点からトラブル続きだったのは後者の方。興行成績も『1492』のほうがよほどマシだったはず。
『コロンブス』は米・英・スペイン合作の、アメリカ大陸到達500周年記念大作として、スーパーマン・シリーズでも有名なサルキンド親子のプロデュースで動き出した企画だった。
実はリドスコ、こっちの監督としてオファーされていたのだが蹴ったあげく、ライバル作品である『1942』を監督を受けてしまう。
こっちのプロデューサーは当時は若手のフランス人で、脚本はその人の奥さんが書いてるのだが、たしか脚本に惚れ込んだとかいう話だった記憶が、うっすらあるような、ないような。
これが訴訟沙汰になってリドスコは訴えられてしまい『コロンブス』サイドによればリドスコ側が脚本のアイデアを盗んだとかなんとか。
脚本は似てないってことで損害賠償は認められなかったようだが、リドスコ版の原題が“Conquest of Paradise”となっていてコロンブスのコの字もないのは、そういう大人の事情が働いていたようだ。
『コロンブス』は大作にふさわしく、原案と脚本にマリオ・プーゾ(あのゴッド・ファーザーの)、キャストにはマーロン・ブランドも名を連ね、リドスコに蹴られた監督のオファーをまず受けたのは、イタリア出身のギリシャ人監督ジョージ・P・コスマトス。
っていわれても知らねえよってのが普通の反応だが、『カサンドラ・クロス』『ランボー怒りの脱出』『コブラ』等々の作品は知ってる人もそこそこいるか。
ところがこの人も、「創作上の相違」を理由に降板した上、製作サイドに訴訟を起こしており、あとを続くようにティモシー・ダルトン(4代目ジェームズ・ボンド)やイザベラ・ロッセリーニ(あのロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘)も降板。
マーロン・ブランド(異端審問官役だったらしい)はクレジットの削除を要求したらしい。
詳細は不明だが、勝手に推測するに、“とにかく500周年に合せてデッカイ映画を!”が先走って、いろいろグチャグチャだったことがうかがえる。
映画自体は観てないから内容は知らないが、あらすじをみる限り、こちらはあくまで“アメリカ大陸到達まで”を描く娯楽大作だったようだ。
『1492』の方も見るには見たのだが記憶は曖昧だ。元増田同様、長くてつまんなかったというのは良く覚えてるけど。
ネットでいくつか感想や評のようなものを見かけたが、わりと人によって違う印象で、これはつまり、ダラダラ長い割に焦点の定まらない映画だったということかも。
ネットの情報を参考にしつつ自分の記憶とあわせて再構成してみると、
みたいな感じか。
で、当時たしか“なんだかコロさんがどういう人なのかも、監督がなにを言いたいのかよく分からん”と思った記憶がある。
山師なのか夢見がちなロマンチストなのか。結局は儲けたくて航海やってんのか。
いやまあ色んな面を持ってるのが人間だよねーで納得できる感じでもなかったと思う。
で、最後になんか取ってつけたように“人生にはロマンが必要だよね”みたいなこと言い出して、いや、これそういう映画だったっけ?みたいな。
コロンブスがきたせいで南米大変なことになっちゃったねー、それまで楽園みたいだったのに、ってのはかろうじて伝わったが。
もしかしたら当時、コロンブス像の転換というのが行われている最中で、それを反映していろいろ多面的な捉え方をしようとした脚本だったのかもしれないが、それが作品には投影されてなかったのだろう。多分。
まあ配信もされないってことは、もう歴史の闇に葬り去られていく映画なんだろうけど、あの年にコロンブス映画が失敗したことで、その後のエンタメのテーマとしてはとりあげにくくなったのかなぁ?という気はするな。
結論 コロンブスは鬼門なので安意にエンタメで扱わないほうが良い。
え?違う?