はてなキーワード: 感情的とは
夫はとても優しい性格をしている
けど卑屈ではないし、うちに籠るところもなく、そんな風には見えないなあと思ってる
本当に暴力的に圧をかけるようなところがない
けどこないだ一緒に夜の歩道を歩いていて、歩道を走る自転車を避けて車道に出たのには正直優しすぎるのもどうかと思ったよ………
2台の自転車が狭い歩道を向こうから走って来て、左側走ってるのに車道に避けてくれるわけでもなく、一旦止まってくれるわけでもなく
そんな自転車がまず非常識だとは思うけど、、歩道をなんで歩行者が避けるのよと………つられて私も車道に避けたけど、何やってんの我々は、と思ったよ
夜道で自転車に乗った相手がどんな人だったかまでは見えなかった ハンドルさばきも怪しいお年寄りだったかもしれないし、絡まれると厄介なタイプの人たちだったのかもしれないけどさ
でも、夜道で歩行者が車道に避けるって相当じゃない?…優しすぎるを通り越してなんかちょっとヘタレすぎるよ…大好きだけれども…
もうChatGPTだけでええやん
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2453448
事実誤認: 中国は確実に他国との戦争や衝突に備えている国です。中国の軍事戦略には、国防の強化や領土の保全だけでなく、台湾問題や南シナ海における領有権主張など、他国との潜在的な紛争に備えた行動が含まれています。近年では、海軍力や空軍力を急速に強化しており、特に米国との対立やインドとの国境紛争、台湾問題に関する戦略が注目されています。軍事ドクトリンや装備の近代化を見ても、他国との戦争を「考えていない」というのは不正確です。
論理的な問題: 文章では、中国が他国からの侵略に備えていないと述べていますが、これは現実と異なります。中国は長い国境線を持つ国であり、特に米国やインドなどの大国との緊張が続いています。そのため、軍備は侵略に対する備えを含んでおり、特に核抑止力や大量の陸上兵力を持つことはその証左です。また、近年の海軍や空軍の近代化や、南シナ海での人工島建設による防衛拠点の強化は、侵略への備えとして評価されるべきです。
事実誤認: 中国は2013年に防空識別圏(ADIZ)を設定しました。これは尖閣諸島を含む広範囲をカバーしており、軍事的なプレゼンスを誇示するためのものです。文中では「中国は防空識別圏に対して何の対応も取らなかった」とありますが、これは不正確です。中国は確かに防空識別圏に関して初期の段階で強制的な対応を取らなかったものの、その後、米軍や自衛隊の動きを監視し、警告を発するなどの活動を行っています。また、防空識別圏は国際法上の法的拘束力があるものではなく、各国が自ら設定し、その管理に関しては自主的に行うものであるため、中国が防空識別圏に対して必ずしも強制的な行動を取らなかったとしても、それをもって「備えていない」とするのは誤解です。
論理的な問題: 文中では中国軍が「ショボい」という表現が使われていますが、これは誤解を招く表現です。中国は世界第2位の軍事予算を持ち、その軍事力は量・質ともに強化されています。特に海軍や空軍の近代化が進んでおり、アメリカに次ぐ規模の軍事力を誇ります。米中シミュレーションでは、中国が苦戦するケースもありますが、その理由は単に「備えていない」からではなく、アメリカの軍事力が極めて強力であることや、米国の同盟国が関与するためです。また、戦争シミュレーションは多くの仮定に基づいており、状況次第では結果が大きく異なることもあります。
論理的な問題: 「かつて本邦に侵略された過去から非難はするが、自衛隊や米軍による攻撃や上陸侵攻に備えていない」という主張は、過去の出来事を基に中国の現代軍事政策を論じるには不適切です。歴史的な侵略の経験は確かに重要ですが、それをもって現代の軍事戦略を全面的に評価するのは誤りです。現代の中国は、アジアにおける自国の影響力を強化し、米国を含む他国の軍事力に対抗するために軍備を拡張し続けています。
事実誤認: 中国は台湾侵攻を想定した軍備を整えており、上陸作戦を含む戦略的計画を策定しています。上陸作戦には強襲揚陸艦やエアクッション揚陸艇(LCAC)などの艦艇が必要ですが、中国はここ数年で急速にこれらの装備を増強しています。さらに、中国人民解放軍海軍(PLAN)は大規模な海軍力の近代化を進めており、特に南シナ海や台湾海峡周辺での作戦能力を高めています。「上陸用装備が充実していない」というのは、現状と矛盾する見解です。
また、中国は「民間船を徴用する」というアイデアを採用していますが、これは近代的な軍事戦略の一環で、民間船舶の利用を補完的な輸送手段として計画的に取り入れています。単に「呑気なこと」を言っているわけではなく、現代のハイブリッド戦争や多領域作戦の中で、物流や兵員輸送の多様化は非常に重要な戦術的要素です。
事実誤認: 装備の充足に関して「2040年までかかる」という主張は過度に楽観的・悲観的な予測に基づいています。中国は現在も大規模な軍拡を行っており、特に海軍や空軍においては着実に能力を向上させています。既に計画されている装備の多くは、今後数年以内に配備が進むと考えられます。2040年という時間枠は根拠が不明であり、過剰な遅れを想定する根拠も明確ではありません。
事実誤認: 中国の核戦力に関する情報は、機密性が高く、正確な公開情報は限られています。ただし、中国は「核兵器は報復のためにのみ使用する」という「最小限の抑止力(minimum deterrence)」政策を掲げており、その一環として核弾頭と運搬手段(ミサイル)の分離を行っているとされています。しかし、これは抑止力を放棄するという意味ではありません。むしろ、抑止力を維持しながらも、偶発的な核使用を避けるための慎重な管理手法です。
中国の戦略は、核兵器の即応配備を避けることで、緊張が高まった時の危険を最小限に抑える一方、必要な場合には迅速に対応できる能力を持つというものです。この戦略は他の核保有国とは異なるが、独自の合理性を持っています。「抑止力を放棄している」という主張は中国の核戦略を誤解しています。
事実誤認: IAEA(国際原子力機関)は、核エネルギーの平和利用を監視する機関であり、核兵器の使用に関する規定は定めていません。核兵器使用に関する国際規範としては、核兵器不拡散条約(NPT)があり、その中で核兵器の使用に関する制約が議論されています。中国は「先制不使用(No First Use)」の政策を採用しており、これは「核兵器を先に使用しない」という宣言です。この政策のもと、中国は他国から核攻撃を受けた場合にのみ核兵器を使用することを明確にしています。この政策が「不備」と捉えられるかどうかは、戦略的な見解の違いによります。
論理的な問題: 文中で「正直それまで中国経済持ってるの?」という懸念が表明されていますが、これは現在の中国の経済状況に基づく明確な根拠が不足しています。中国経済は現在、成長の鈍化や不動産バブルのリスクなど、いくつかの課題に直面していますが、軍事予算の増加や軍備の近代化がすぐに停止する兆候は見られません。経済的な持続性の議論は、軍事力の評価とは別に慎重に議論されるべきです。
全体的に見ると、この文章は中国の軍事力を過小評価し、誤解を招く論点がいくつか含まれています。
事実や論理に基づいた議論が不足しており、感情的・主観的な見解に基づいている部分が多いため、より客観的な視点から再評価する必要があります。
深夜のダラダラした文章に、思った以上の反響があり、恐縮です。キャンセルカルチャー運動に辟易していましたので、考察と言いつつ、n=1の、偏見まみれのくさすような内容になっており、申し訳ございません。
コメントを通して、西洋史観や海外勢の動きなど己の勉強不足を感じ、大変参考になりました。ほか、新たに以下の視点を得ました。
(現行法上合法とされている無断学習(?)をダメとし、無断の二次創作をヨシとする矛盾性など)
彼らの職業は、対脚本家と演者という関係からみて、クリエイターではなくプレイヤーよりかなという偏見があったため、言及していません。
そもそも、声は、創作というより身体的特徴なので、人権の一つとして適切に保護されることには、なんら議論の余地はないのでは。
自他ともに達人と認める域に達した方が、「ワシは猟師じゃ」と自称するのは、偉そうだけど実際に偉いし、じゅうぶん身の丈にあっているのでいいんじゃないでしょうか。
最近、日本の「絵師」と呼ばれる者達の界隈で、生成AIに対する反発が拡がっている。
それは年々過激さを増し、最早、「お気持ち」や「感情的な反発」ただそれのみで、法的にも倫理的にも問題のないコンテンツを焼き払うまでにいたった。
もちろん、全ての絵師がそうだとは思わないし、思いたくはない。
このような状況下では肯定的意見など出せようもないだろう。魔女狩りの憂き目にあってしまう。
さて、リーガルマインド(法的思考能力)は、法学部で法律科目をみっちり学んでやっと習得できるようなものなので、これを持たない相手に議論をふっかけても、いつの間にか例えになっていない例え話にすり替わるのがオチだ。
だから、反AIを説得したり、論破したりするつもりは、私にはない。
生成AIに過剰に反発をしているのは、「絵師」やそれをとりまく「アニメコンテンツ」(以下、「絵師界隈」という。)に限られている。
他の分野でも生成AIの進化・深化はめざましいが、変な炎上なども起こらず、粛々と最新ツールとして活用されている。
実際、私がメインで活動している音楽分野(以下、「音楽界隈」という。)でも、生成AIは、比較的自然に受け入れられている。
音楽界隈にいると、少数の作曲家(以下、「クリエイター」という。)、多数の演奏家(以下、「プレイヤー」という。)、無数の聴衆(以下、「リスナー」という。)が互いにインスパイアし合う「「創作の循環」、古から続く巨大なうねりを、あらゆる局面で感じる。
生成AIの学習云々の問題は、この循環の一要素として、肯定的に受け入れられている。
しかし、絵師界隈には、循環の要となるプレイヤーがほぼ存在しないため、「「創作の循環」を知覚しづらい。
西洋芸術は、音楽や絵画の分野を問わず、才能は神から与えられたもので、作品は神に捧げるもの、という共通認識のもと、発展してきた。
信仰が薄れてきた現代においても、なお、フェアユースの思想として残っている。
対して、日本には、そのような一神教の概念はないものの、少なくとも音楽界隈にあっては、神に奉納する神楽なる存在がある。
更に、音楽理論そのものが、西洋をルーツとするので、「与えられた「捧げる」意識を醸成する機会が多い。
一方で、日本の絵師界隈は、ガラパゴス状態で進化しているため、「自分がゼロから努力して勝ち取ったもの」「作品は自己表現」という認知になりやすいのではないか。
今、音楽を本業として、いわゆる音楽でメシをくっているクリエイターは、厳しく長い音楽不況を乗り越えた存在であるので、生成AIごときには脅かされない実力がある。
そうでないクリエイターは、純粋に趣味として作品を作って発表して楽しんでいるので、生成AIも、面白いツールが出たな、としか捉えない。
一方、イラストを本業として、それでメシをくっている絵師界隈は、クリエイターの淘汰が進んでおらず、生成AIごときに簡単に脅かされてしまう。
リアルに生活がかかっているのなら、反発も過激になってしまうだろう。
参入障壁の低さと、00年代からの需要の急速な拡大が、本来実力に見合わない人間をプロとさせてしまったのかもしれない。
さながら、チューリップ・バブルだ。
以下、それぞれ、補足。
音楽界隈では、古くからクリエイター、プレイヤー、リスナーが繋がり、互いに影響を与え合う「巨大な循環」が存在している。
例えば、クラシックのプレイヤーが過去の偉大なクリエイターの作品を演奏し続けたり、ジャズやヒップホップにおいて、サンプリングやリミックスを通じて新しい音楽を生み出すのは、既存の作品や表現を再利用する文化が根付いているからである。
「表現の蓄積に敬意を払いながら、新しい創造を探求する」というプロセスを自然に受け入れられる土壌が存在している。
これは、DTMの世界も同じで、音源やサンプルが膨大に共有され、再利用されている現状からすると、AIによる生成もただ新しい音源や手法を追加しただけという感覚が強い。
技術的な進化が日常的に行われており、特定の著名なプレイヤーの演奏をサンプリングして音源化することも一般的である。
これにより、生成AIも単なる新しいツールとして、既存の「循環」の中に自然に組み込まれている。
また、音楽界隈において、多くの場合、クリエイターはプレイヤーを兼ねており、リスナーもまた、プレイヤーを兼ねている。
音楽愛好家ならば、誰だって、一度は何かしらの楽器を触って、誰かの作った曲を演奏しようとした経験があるのではないか?
クリエイター、プレイヤー、リスナーは、多くのケースで同じ立場で、創作の循環に積極的に関与している。
AIがその中に入ることは、「革命」ではなく、単なる「進化」だ。
私自身、音楽を通じてこの循環を何度も経験してきたため、AIを恐れることなく、むしろ新しい創作の可能性として受け入れている。
音楽分野では、クリエイター、プレイヤー、リスナーが互いに影響を与え合い、生成AIもその延長線上にあるのだ。
一方で、音楽界隈における「プレイヤー」に相当する役割が、絵師界隈には存在しないか、または極めて少ない。
クリエイターとリスナーの立場を結びつけ、要として機能する「プレイヤー」という存在が希薄であるために、絵師界隈では「創作の循環」を感じる機会が乏しい。
その結果、生成AIは「自分の領域を侵害する存在」として映ることが多い。
絵師界隈において、絵師は、自分の作品について、「自分がゼロから作り上げたものであり、完全な自己表現の成果」として捉える傾向が強く、他人の作品に手を加えたり、既存の表現を再利用することに対しては、現行法上問題がなくとも、極めて強い抵抗を感じやすい。
絵画や音楽を問わず、西洋における芸術の歴史を振り返ると、才能は「神から与えられたもの」として見られており、芸術家はその才能を用いて作品を神に捧げるものだった。
パトロンは、神のために芸術家を支援して、芸術家は神のために技術の研鑽を重ねた。
結果として、優れた作品がたくさん残り、ありがたくも現代にまで継承されてきた。
芸術史への脱線は避けたいので、軽く触れるにとどめるが、少なくとも、西洋の芸術、特に歴史的な音楽や絵画の中では、才能は「神からの贈り物」として見られてきたため、それを使って作品を作ることは神聖な使命の一部であった。
元来、芸術作品やそれを生み出す才能は、個人の所有物ではなく、社会や神に捧げるものとされてきた。
この背景が、西洋でフェアユースの概念が広く受け入れられている一因のように思う。
才能や作品は神のものとして共有されるものというコンテクストのもと、生成AIによる「学習」や「再利用」も一部では容認されやすいのだろう。
任天堂とパルワールドの訴訟問題における、日本と欧米の反応の顕著な違いに、この当たりの感覚の違いが明確に出ているように感じる。
この点、日本の絵師界隈にとって、才能は「自分の努力によって勝ち取ったもの」であり、作品は完全に自分の所有物という感覚が強いのでは。
その態度を傲慢とみるか、当然の権利とみるかはさておき、だからこそ、生成AIが個人の努力や創造性を「奪うもの」として見られやすく、反発が生まれやすいと考えられる。
このまま日本の絵師界隈の生成AIに対する過剰な反発、炎上騒動が続くと、日本では、生成AIはアンタッチャブルとなり、なんらの議論も進歩も遂げなくなるだろう。
最終的に、生成AI技術は、外国の「GAFA」などの巨大企業によって独占され、資本主義の論理に飲み込まれる可能性が高いと感じる。
外国の大企業が規約や契約に巧妙に生成AI技術云々を盛り込み、最終的には技術やデータを独占し、クリエイターがそれに従わざるを得なくなる未来。
絵師界隈の過激な活動により、日本企業にとって生成AI技術そのものはアンタッチャブルとなったので、日本企業は呆然と、日本人の優れた才能が外国資本に奪われていくのを眺めるしかできない。
もちろん、これは資本主義の一環であり、技術の進化の中で繰り返されてきた「ひとつの循環」として受け入れるしかないのかもしれない。
私自身はそのような未来を諦観し、これもまた創作における流れの一部だと考えている。
技術は常に進化し、その中でクリエイティブな表現の方法もまた変わっていくものだ。
しかし、絵師界隈は、そういう未来をどう考えているのだろうか?
AIは決してクリエイターの創造性を奪うものではなく、創作の循環、巨大なうねりの一部として受け入れられるべき可能性を秘めている。
これからのクリエイティブな世界で、AIと共に新しい表現の形を探求していきたいので、絵師界隈には邪魔しないでいただきたい。
「生成AIを使っているヤツを、絵師を呼ぶな」問題にも触れておきたい。
望む絵を出力することは、絵師界隈の人が想像しているような、そう簡単な技術ではない。
命令文の模索や、好みのモデルの階層マージ云々、どれをとっても、相当な知識が必要だ。
現に、クラウドワークスでは既に、「生成AIでイラストを出力してほしい」旨の依頼がわんさかある。
「Novel AI」や「Dall-E 3」、「Grok-2」など、企業が最適化して、提供している出力サービスを使っている者は、今のところ「消費者」かな。
企業が最適化したサービスを使ってキャッキャしているだけの人は、ごく普通の・・・・・・一般の消費者、それ以上でも以下でもないのでは。
消費者がイラスト生成AIの恩恵にあずかれるようになっただけ。
「絵師」という言葉は、2000年代の2チャンネルの「同人板」で、敬称として、使われ始めたと記憶している。
「表紙を絵師に書いてもらって~」とか、「好みの絵師が~」とか。
敬称なので、自分で自分のことを「絵師」と名乗る者は、当時はいなかった。
ニコニコ動画が出てきて、ネットが低年齢化して、「動画師」や「MIX師」という、変な亜種が登場したあたりからだろうか。
この意見にはいくつかの妥当な点と問題点があります。以下に、それらを整理して説明します。
妥当な点
1. 選挙結果は政党の絶対的な優位性を証明するものではない:
• この意見の中心的な主張は、選挙で勝利した政党が他の政党より必ずしも優れているとは限らないという点です。これは、多くの民主主義国家で見られる現実であり、選挙の結果が必ずしも有権者全員の理想を反映しているわけではないという考え方に基づいています。
• 有権者の判断が必ずしも完全に情報に基づいているとは限らず、さまざまな要因(感情、メディアの影響、候補者のイメージなど)が投票行動に影響を与えることもあります。このため、選挙での勝利が政党の「優位性」や「正当性」を単純に示すものではないという指摘は正当です。
• 「裏金」や「カルト団体の影響」といった問題は、日本の政治においても話題になってきたことがあり、自民党を含む多くの政党が過去に疑惑に巻き込まれたことがあります。こうした疑惑が政治的な意思決定に影響を与えている可能性は、選挙の公平性についての議論の一部を構成します。
• 「クズ」「真正の馬鹿」「罵倒されて当然」といった感情的で攻撃的な表現は、冷静な議論を妨げ、相手の意見を聞く姿勢を欠いたものになりがちです。このような言葉遣いは、意見の妥当性や説得力を弱めることがあります。
• 建設的な議論を行うためには、相手を攻撃するのではなく、冷静かつ論理的に主張を展開することが重要です。
2. 偏った見解:
• 意見全体が特定の政党(自民党)に対する否定的な見解に偏っており、他の政党や政治システム全体の問題に対する公平な視点が欠けています。自民党だけでなく、他の政党にも問題があることを認識し、幅広い視野で評価することが重要です。
3. 民主主義の誤解:
• 民主主義では、選挙の勝利が「多数の意見に基づく決定」であることを意味しますが、これは必ずしもその政党が「最も優れている」という意味にはなりません。しかし、民主主義のプロセスは、有権者が自分の意思を表明する手段であり、その結果が最も多くの人々に支持された選択肢であるという意味では重要です。意見の中で「民主主義の常識」として述べられている部分は、正確に理解されていると言い切れない部分があります。
• 冷静な論理展開を心がける:感情的な言葉を排し、根拠に基づいて論理的に意見を述べると、議論の質が向上します。
• 偏らない視点を持つ:どの政党にも問題点と長所があることを認識し、公平な視点で評価することが重要です。
• 民主主義の理解を深める:民主主義のプロセスの意味や限界について正確な理解を持つことが、より説得力のある議論に繋がります。
この意見は一部の主張には妥当性がありますが、感情的な言葉遣いと偏った見解が問題となり得るため、より建設的かつ理性的な議論に向けて改善が必要です。
選挙における最適な投票行動は、以下のように定義できると考えられます。
最適な投票行動の第一条件は、自分の投票先について十分な情報を持ったうえで決定することです。政党や候補者の政策、過去の実績、価値観の一致度、社会問題に対する立場などを調査し、自分の価値観や利益に最も合致する選択をすることが重要です。情報不足や感情的な反応による投票は、自分の意志を十分に反映した行動とは言えません。
2. 長期的視点を持つ
短期的な利益や感情に左右されず、長期的な影響を考慮した上で投票することが望ましいです。社会や経済の変化は、しばしば長期間にわたって効果が現れるため、将来に向けたビジョンを持つ政党や候補者を選ぶことが重要です。
投票行動は、自分の価値観や信念を反映するものです。そのため、自分が重要だと感じる社会的、経済的、政治的な問題に対して、最も近い立場に立つ政党や候補者を選ぶことが、最適な投票行動となります。
投票先が見つからないと感じた場合でも、白票を投じたり棄権したりすることは、政治的な意思表示の一つと考えられます。白票は「現状の選択肢に満足していない」という意思を示す方法であり、政治家や政党に対して改善を促すメッセージを送る手段ともなり得ます。
選挙は個人の意思を社会全体に反映させる機会であり、投票行動を通じて社会に対する責任を果たすことが求められます。自分の一票が政治を直接的に変えることは難しいかもしれませんが、多くの一票が集まることで変革が生まれるため、個々の投票行動が重要です。
まとめ
最適な投票行動とは、情報に基づいた意思決定を行い、自分の価値観や信念を反映した選択をすること、長期的視点を持つこと、社会的責任を意識することが要素となります。また、投票先が見つからない場合でも、白票や棄権を戦略的に使うことで自分の意見を表明する方法があります。これらの要素を総合的に考慮し、冷静かつ理性的な判断で投票を行うことが望ましいと考えられます。
おそらく、成人しても乳児のように母親との結びつきが強く幼児性から抜け出せていない男性は
中絶の話は自分の妄想をもとにして事実に則さないことを非理論的に感情的に捲し立ててくる。
しかし成人しても乳児のように母親との結びつきが幼児性から抜け出せていない男性ほど
そう言う話に首突っ込んできて
そんなやつさー
最初にそれを実感したのは、結婚して初めて大喧嘩をした時だった。
喧嘩の内容は忘れてしまったけど、とにかく些細なことだった気がする。
でも、その時の妻の泣きっぷりがすごかった。
まるで子供みたいに大粒の涙をボロボロ流して、わんわん泣き出したんだ。
その泣き方がもう激しくて、正直あまりの迫力に引いてしまった。
いや、引くって言っても悪い意味じゃなくて…ただ、圧倒されたんだよね。
だって、目の前で大人の女性が子供のように大声で泣き出すなんて予想もしてなかったから。
うちの猫も一緒にびっくりして、ちょっと離れた場所で困惑した顔して見てたくらいだ。
僕もどうすればいいか分からなくておろおろしていると、妻は突然スッと泣き止んだ。
あまりにも急な切り替えに驚いていると、彼女は「あ~スッキリした!」と言って、さっきまでの涙なんて嘘のように明るい表情を浮かべてニッと笑ったんだ。
そんな妻の笑顔を見て、僕も一瞬何が起こったのか理解できなかった。
だけど、彼女はその後、「ごめんね、私も悪いところがあったよ」とあっさり謝ってくれて、喧嘩の原因となったことをあっけなく許してくれた。
それからも、うちでは何度か小さな喧嘩をしてきたけれど、その度に同じことが起こる。
最初は激しく泣き出して、その勢いに圧倒されるけど、泣いた後は急に晴れやかになって、何事もなかったかのように問題を水に流してしまう。
僕としては喧嘩をしても、お互いに少しは尾を引くものだと思っていたんだけど、妻にとっては泣くことで全てがリセットされるみたいなんだ。
ネットなんかではよく「女性は感情的でネチネチしている」みたいな言い方をする人がいるけれど、うちの妻は全然そんなことない。
むしろ、感情を爆発させた後はさっぱりしていて、過去のことをいつまでも引きずったりしない。
しかも、泣いた後に「よし、これで終わり!」みたいな感じで全てを許してくれる姿を見ると、むしろこっちが拍子抜けしてしまうこともある。
今でも彼女の泣き方は相変わらずすごい。
喧嘩の度に、僕も猫も少し驚いてしまうし、最初はどう対処していいか戸惑ったけど、今ではそのパターンにも慣れてきた。
喧嘩して泣かれると、「ああ、これで終わりだな」と思えるようになってきたし、彼女のそういうところが好きなんだと思う。
ちなみに、泣いている時に下手に声をかけると、泣きがさらにヒートアップすることもあるから、今では黙ってその嵐が過ぎ去るのを待つのがスタンスになっている。
泣き終わった後の彼女がスッキリした顔で「ごめんね」と言ってくれる瞬間を、ただ静かに待つんだ。
そしたら自然と喧嘩も終わって、また元通りの穏やかな日常に戻るから不思議なものだ。
こんな感じで、うちの妻は感情を爆発させる瞬間はあるけれど、その後の潔さと明るさが本当に男らしいと感じる。
その姿を見るたびに、彼女の強さと優しさを改めて実感するんだ。
この文章には、リフレーション理論を擁護する人々が使用する詭弁のテクニックがいくつか含まれています。それぞれの詭弁の技術を以下のように説明できます:
「リフレをすれば必ず景気が良くなる。なぜなら景気が良くなるまでリフレするからだ。」
これは結論を前提としている典型的な循環論法です。リフレを行えば景気が良くなると主張するが、その理由が「景気が良くなるまでリフレを続けるから」という同じことを繰り返すだけの論理になっています。
「他の要因で景気が良くなったときにリフレの手柄を主張しろ。」
これは、成功した後にリフレ政策が効果的であったとする論法です。実際の結果が出た後に、その結果を自分の政策の成果だとすることで、本来の原因を無視しています。
「いいことはリフレの手柄、悪いことは他の要因のせいにしろ。」
これは、都合の良い証拠だけを強調して反証を無視する「チェリーピッキング」の典型的な手法です。良い結果を政策の手柄とし、悪い結果は外部要因のせいにします。
データを部分的に提示し、グラフを意図的に編集して誤解を招く形で議論を有利に進めるテクニックです。これもチェリーピッキングの一種です。
「タイムラグを上手く使え。」
政策の効果が出るまでの時間を利用し、短期的な悪い結果を無視したり、効果が出ない理由を時間のせいにする詭弁です。
「『これがリフレだ』と明言するな。定義を問われたら『リフレの本を読め』と言っておけ。」
定義を曖昧にして、議論を混乱させたり、相手に理解させないようにするテクニックです。具体的な内容を避けることで、批判に対して曖昧な形で逃れることができます。
批判に対して政策そのものではなく、相手の知識や理解力を攻撃することで議論をそらします。これは論点のすり替え(ストローマン論法)にもつながることがあります。
議論の途中で定義や条件を変更し、議論の範囲を曖昧にする手法です。これにより、批判に対して逃げ道を確保しやすくなります。
「反対する奴や批判する奴を許すな。大勢で取り囲んで吊るし上げろ。」
反対者を多数で攻撃し、個別の反論を不可能にする「バンドワゴン効果」や「同調圧力」を使う手法です。
相手を感情的に疲れさせ、議論を放棄させるテクニックです。議論ではなく、相手の個人的な資質や態度に攻撃を集中させます。
これらの詭弁のテクニックは、それぞれ議論を公平に進めるのではなく、勝つことや相手を混乱させることを目的としていることが特徴です。
要約
タワーマンションの建設によって地元住民が被る損害やストレス、そして新しい住民への不満が述べられています。新住民が富裕層であることに対する反感や、土着の住民が大切にしていたコミュニティや風景が破壊されることへの怒りが表れています。また、政治や法律が必ずしも正しくないことや、タワーマンション建設の裏にある不正や地上げ問題についても批判しています。
1. 新住民への攻撃的な態度:新住民に対して反感を持つことは理解できるものの、彼らを「頭の悪い人を扇動する金持ち」や「外国人」と決めつけている点は偏見が強すぎます。これにより、本来の問題の焦点がぼやけてしまいます。
2. 一般化のリスク:土着民全員が新住民を憎んでいるというような言い方は、過剰な一般化です。個々の感情や考え方は異なるはずなのに、それを無視して一括りにしているのは問題です。
3. 政治批判の矛盾:政治や法律が正しくないと批判しつつ、同時に「政治が決めたことだから間違っている」とするのは論理的に矛盾しています。政治や法律を完全に否定するのではなく、具体的な改善点や対策を提示する方が建設的です。
4. 反対運動や地上げの主張:タワーマンション建設に対する反対運動や地上げ問題を強調していますが、それらの主張が感情的すぎて具体性に欠けるため、説得力が薄れてしまっています。
この文章は、AIに対する評価が右往左往していて、その矛盾を感じさせるポイントが多々あります。まず、AIを「案外使い勝手が良い」と評価している一方で、AIが出力する内容に対する不満が非常に多い。プロットや小説を書かせてみても「社会問題をやりたがる」「攻めと受けの性役割を理解しない」など、まるでAIがジャンル特有の文脈や期待をことごとく無視していると文句を言っていますが、AIはユーザーの文化的な嗜好や二次創作の細かなコードを理解できないことは分かりきっています。
また、感想について「オタク女が書きそうな文章」と言いつつも、AIの出力がたまに不適切だったり、同じ内容を繰り返したりする点には不満が残っているようです。AIに対する期待がやたら高く、同時にその限界をしっかり理解していないように感じます。「AIはガバガバなのはそれはそう」と開き直りながらも、「許せねえ」と感情的になっているところは、結局AIを便利なツールとして使いたいのか、それともただ単に遊び道具としてしか見ていないのか、どっちつかずです。
最も不可解なのは、AIに期待することと、実際にAIがやってのけたことに対する反応です。「自分の趣味を押しつけてくる人間よりもAIの感想の方が受け入れやすい」としながらも、二次創作のキャラクターが混乱して寝取られたことに激怒するなど、AIに対する感情があまりにも揺れ動きすぎていて、論理の筋道があいまいです。最初から「AIにそんなに多くを期待するな」という話に終始すべきではないでしょうか?
このように、AIを使いこなそうとしているのか、ただ文句を言いたいのかがはっきりしない文章では、読者としても共感することが難しく、むしろ使いこなしきれない苛立ちが透けて見えてしまいます。
元増田だ
邪推される気持ちも分かるが、恋愛関係は上司と部下ではないし、基本的にパートナー関係は対等である事を望んで当然で、どちらかが精神的に子どもである事で片方に負荷がかかった場合に、パートナー関係を解消しないとどうにもならないこともある
カヴァード•アグレッションの本質が、擦り合わせやコミュニケーションの相互関係によるものではなく、相手に不快感を与えて折れる事を意味している場合、そのコミュニケーションは健全ではない
まして、元増田はパートナーに対して危害を加えたわけでも浮気や不貞をしたわけでもない。ある程度は精神的に支える用意はあるが、隠れた攻撃性を伴うようなコミュニケーションを受けてずっと健全なパートナー関係を保ち続けることは難しい
今の私は過ぎ去ったからこそ、外野からの意見に対しても理性的に論理的に返す事ができるが、当事者だったらたまらないと思う。この種の加害者に対しては、世間一般で言うところの「大人な対応」をするしかないが、それは逆説的に言えば相手のコミュニケーションの幼稚さでもあるし、なし崩し的に自分の要求を通す暴力でもある
それがパートナーとしては嫌だと感じる意見は一定数あっていいし、その事が原因で別れることもあり得る。その問題の本質は、カヴァード•アグレッションにあるのであり、被害者に立つ事で相手をコントロールしようとするコミュニケーションは、お互いの関係性を破壊している、ということはきちんと認められた方がいいと思う
コミュニケーション弱者が自分が弱者である理由を常に環境や他人のせいにしているだけでは問題は解決しない。どんな理由があったとしても相手を攻撃しているのなら、健全な関係のためにはそれをまずやめるべきだし、相手に責任をなすりつけてなし崩しで自分の望むように結果を誘導するのではなく、正しく相手に対してアサーションすればいいだけだ
彼女の抱えていた問題がすれ違いや寂しさであれば、それを表現することは間違っていないし、実際にできた。現実的な範囲でそれに応える準備も工夫も私にはあったのに、カヴァード•アグレッションを用いて戦略的に相手から譲歩と諦めを引き出すのは健全な関係にはならない
応じていると、大抵の女性達はどんどんコントロールする事が当たり前になって、こちらに対して不快感を与えていることに一切気づかないし気づけない
結局、男性側が自分は今、カヴァード•アグレッションを受けていると自覚して、相手から離れることでしか救われないし、そういう結果を引き出しているのは、他ならないカヴァード•アグレッションをしている当人にあるという事を認識しないと、被害を受けている側はどこまでも優しくなければいけないと自分を苦しめることになる
エスパーでもない
相手には自分自身の感情的欲求を正しく言葉にしてコミュニケーションする事ができるし、対等で健全なパートナー関係を望むならなおさらそうする必要がある
そうでない、戦略的な無知や幼児退行を駆使するのであれば、相応の関係性にならざるを得ないし、それを許し続けることは愛ゆえだったとしても許している側にも許されている側にも良い結果にはならない
陰謀論が広まる背景には、情報の誤解やバイアス、感情的な反応が関わっていることが多いです。そのため、陰謀論を特定し、理論的に検証するためのチェックリストを作成しました。このチェックリストは、個人がある情報が陰謀論であるかどうかを判断するのに役立ちます。
• 提示された証拠が、信頼できる学術的なデータや確立された研究に基づいていないか?
• 情報源が匿名であるか、もしくは特定の意図や利害関係を持つ団体から発信されているか?
2. 反証可能性の欠如
• この理論が誤っていることを証明するための明確な基準が存在しないか?
• 反証が行われても、それを「さらなる証拠」として組み込み、理論を変えずに強化してしまう傾向があるか?
• 「彼ら」や「エリート」といった敵対者の存在を強調し、意図的に何かを隠していると主張しているか?
• 特定の個人やグループを悪意ある陰謀の主犯と決めつけ、その意図を過度に強調しているか?
• 複雑な社会問題や出来事を、極端にシンプルな原因や特定のグループのせいにしていないか?
• 「全てはこうすれば説明できる」といった形で、他の可能性を排除しているか?
• 「真実を知っている」特別なグループに属することで、他者よりも優れていると感じさせる要素があるか?
• 信頼できる専門家の意見を無視し、「専門家は信用できない」「真実は隠されている」と主張しているか?
• 事実を確立した科学的なコンセンサスに対する不信感をあおっていないか?
• 単なる偶然の一致を、何か意図的な行動の証拠として捉えていないか?
• 他の主張と矛盾する事実や情報が出てきた場合、それを無視するか、または歪曲しているか?
• 主張が「大きな秘密」や「隠された真実」に依存しているか?
• 「普通の人はこの情報を知らない」という形で排他的な姿勢をとっているか?
• この情報がソーシャルメディアや陰謀論者のコミュニティを通じて広まっているか?
• 大手の報道機関や信頼性のある情報源ではほとんど取り上げられていないか?
• 批判的思考を養う: 情報を鵜呑みにせず、事実確認を行うための批判的思考を持つことが重要です。異なる視点や反証の探求に努めましょう。
• 信頼できる情報源の活用: 学術論文や信頼できる報道機関の情報を確認し、複数の信頼できる情報源から情報を収集することを習慣化します。
• 対話の促進: 陰謀論に傾倒する人と対話を試みる際には、感情的にならず、相手の考え方を理解しつつ冷静に事実を示すことが効果的です。
• デジタルリテラシーの教育: 誤情報や陰謀論を見分けるためのデジタルリテラシー教育を推進し、より多くの人々が正確な情報にアクセスできるように支援します。
猫は毛玉のように丸まって、柔らかな光を浴びて寝ていた。
アンドロイドの増田には、その姿がいつも鮮やかに焼き付いている。
しかし、猫を飼うことができれば、きっとこの孤独な毎日は少しは色を帯びるのではないか、そんな夢想を繰り返す日々だった。
「ねぇ、猫っていいものなの?」
彼女は工場で働く同僚、機械部品を組み立てるアンドロイドのひとりに尋ねた。
答えが返ってくるわけでもない。彼らにとって猫はただのデータ、感情的な意味を持たない。
だが、増田は違った。
彼女の内部には何か、説明できない衝動のようなものが芽生えていた。
それはあの有名な「共感プログラム」――人間に似た感情を持つことを目的とした実験的なプロジェクトの産物だ。
普通のアンドロイドなら、与えられた役割を淡々とこなすだけで問題はなかった。
仕事の合間に、増田はデータベースにアクセスして猫に関する情報を調べることが習慣になっていた。
柔らかな毛並み、光を反射する瞳、しなやかな体の動き。
増田はその画像を見ているだけで、心の奥深くがくすぐられるような感覚に陥った。
これは何だろう?
仕事の終わりに、猫を実際に飼っている人間の家を訪ねてみることにしたのだ。
都市の片隅には、古いタイプの人間が住んでいる一角がまだ残っていた。
そこでは、人間たちはアンドロイドを避けることなく、時折利用していた。
そこに猫がいるかもしれない。
返事はすぐに返ってきたが、ドアを開けたのは人間ではなく、奇妙なロボットだった。
ロボットはしばしの間、動きを止めたかと思うと、「はい、主人が猫を飼っています」と答えた。
増田の心は躍った。
彼女は猫に触れることができるかもしれない。
夢が現実になる瞬間だった。
しかし、案内された部屋に入ると、そこにいたのは一匹のロボット猫だった。
「これが…猫?」
冷たく、硬い金属の塊が目の前にある。
その時、ロボット猫が突然動き出した。
まるで生きているかのように、柔らかくしなやかな動きでタチバナの足元にすり寄ってくる。
冷たい。何も感じない。だが、どこか心地よい。
ロボットは答えなかったが、増田はその静かな沈黙から、答えを知っていた。
だが、増田はそのことを知ってもなお、猫への憧れを捨てられなかった。
彼女の中で、猫は現実の存在であるかのように、いまだに生き続けていた。
それはデータベースで見たあの柔らかな毛並み、光を反射する瞳――それは彼女の夢の中で、ずっとそこにいる。
増田はその夜、部屋に戻り、ベッドに横たわった。
目を閉じると、あの猫の姿が浮かんでくる。
目の前に広がるはずのない風景。
そしてその瞬間、増田は初めて、涙を流した。
犯人不明の頃は腐女子が反転アンチになってやらかしたという想定が多かった
「女らしい陰湿な犯行だ、ヒステリー起こして感情的にやってる」
事件内容が盛んに女叩きに使われた
でも捕まってみたら男だった
評価は一転
「中々捕まらない計算され尽くしたあの連続事件、女には無理だよな!犯人の手際の良さは男性じゃないと無理」
犯人は、高卒で漫画家に憧れていたが漫画家になれず派遣をやっていたバスケ好きのゲイ
黒子作者は、上智大学に進学したが在学中に漫画家デビューして中退し、バスケに特に思い入れないが「男同士の切磋琢磨や泣き顔を描きたい」との理由で題材にした
有名私大に進学できる学力と金があるのに惜しげもなく中退して捨てたこと、サクッと新人賞応募漫画がそのまま連載化して人気になったこと、思い入れもないのにバスケを題材にしたこと、男同士の関係を同性愛的に描くこと、それらが犯人を怒らせた
同じことに怒っているアンチはネットに大量にいたので容易くその怒りも叩きも正当化された
初期は絵がかなり下手だった、バスケ漫画の名作スラダンと比べると迫力ない、他にも様々な叩きがあったし、「黒子ファンは腐女子だ」とファンへの攻撃も目立った
ファンが支持するせいで目障りな黒子の連載が続きアニメやグッズが出ると犯人の怒りはファンにも向かい、ファンイベントも脅迫対象になった
「腐女子の二次創作イベントなんか男は知りもしない。そんなの脅迫するのは腐女子だろ。女の敵は女w」と脅迫事件自体が黒子ファン叩きに使われた
黒子のバスケの同人オンリーイベント、漫画やDVDの発売店舗、関係ない高校生のバスケ試合などが作者中傷文とセットで脅迫されイベントや試合は中止
黒子とコラボしていたお菓子を購入して毒物を仕込んだものがお菓子メーカーに送られ、店頭の商品にも毒物を仕込むと脅迫してコラボ中止
上智大学の敷地内にも硫化水素発生装置が作者への中傷文とセットで設置された
全部「いかにも腐女子がやりそう」「女が陰湿」「腐女子同士の内輪揉め」認定で、犯人逮捕で男とわかった瞬間に「巧妙な知能犯」「鮮やかな犯行」になった
1. 意見の正当化: 自身の立場や意見が中立的であることを強調するための演出が行われている可能性があります。自分が一方的に攻撃されている被害者であり、冷静かつ理性的に判断していることを示したいという意図が感じられます。
2. 対立構造の描写: 家族内での対立を描くことで、思想や立場の違いがどれほど人間関係に影響を与えるかを示しているように見えます。特に、政治的・社会的な問題に関する意見の違いが個人間の軋轢を引き起こすことを強調しているようです。
3. 読者の共感を引くため: 自身が冷静で客観的な立場に立っていることを強調し、読者に共感や同情を引き出そうとしている可能性も考えられます。対立相手である姉を感情的で理不尽な存在として描写することで、自分の立場をより正当なものと見せようとしているかもしれません。
4. 相手を非難するための風刺: 文中で「ツイフェミ」や「暇空茜」という表現を使い、特定の思想や立場に対する風刺や批判を行っているように見えます。この場合、創作の目的は相手側の立場を貶めることにあるかもしれません。
バカ?
ほう、パパをバカだと?
キミはどこでそんな言葉を覚えたのだ?Youtueか?幼稚園か?
うん、わかってて使ってるんだね
今は許そう
だけど、パパはいつ死ぬかわからない、今日明日に死ぬかもしれないので一応はキミに教えておく。
相手に敬意がないコミュニケーションはなんのメリットもない、喧嘩になるだけだ
最初は些細な諍いだった、そういう経験も必要だ、そこから学ぶこともある
だけどキミもいずれ大人にならなきゃならない
たまにそれを学ばず体だけ大きくなる人もいるが、幸せにはなれない
無駄な苦労をする、遠回りをしなきゃならない、無駄な人生になる
いいかい、相手を陥れる時は突発的感情的な言葉ではなく、最終目標をイメージして
バカと言われても相手はその場でムッとして終わりだ、5分後には忘れてる
それよりも10年20年かけてバカの行く末を観察し、あまつさえ愚かな人生に誘導するほうが楽しいぞ
パパは30年見守ってるバカが3人いる、全員ド不幸だ。
パパがバカだと罵らなくてもバカはバカのままだしバカだと教えてやったところで利口にならん。
否、利口に変身したところでパパにはなんのメリットもない
次から次へと誤った選択をするのだ。アホだからだ、アドバイスはしてやらない
どんどん不幸が積み重なってくる、イヒヒヒヒ
学生時代にパパを小馬鹿にしていた奴が今は土建の最下層で働いてる
恥ずかしくて昔の仲間とは一切連絡を断っている
どんどん落ちていく、おもろいぞぉ、イヒヒ、ヒヒヒ
ともかくだ、パパをバカと言うのは辞めたほうがいい
わかったね?
んんwwww増田氏、なかなか深遠なる思索を巡らしておられるようですが、拙者としては一歩先を行った見解を呈したいと思いますぞ。
一夫多妻制や一夫一婦制に関しての議論は、単なる制度の話に留まるものではございませんぞ。これはむしろ、社会の構造や文化的背景、さらには経済的、倫理的観点からも考察すべき複雑な問題ですぞ。増田氏の分析が浅薄に感じるのは、その多面的アプローチが欠落しているところからくるのではないかと愚考しますな。
増田氏が指摘する「弱者男性」と「恋愛強者の女性」という二元論的な視点は、現実の複雑さを捉えきれておりませぬぞ。実際には、婚姻制度がどのような個人やグループを保護し、あるいは制約するかは、地域や文化によっても異なりますし、個々の価値観にも左右されまする。恋愛強者だからといって必ずしも一夫多妻制を望むわけではありませぬし、同様に一夫一婦制を重んじる者も存在しますですぞ。
加えて、なぜ一部の人々が一妻多夫制や一夫多妻制を支持するのかという疑問には、むしろその人々のライフスタイルや価値観、または現行制度への反発感情など、心理的要素も考慮すべきでございまする。単なる強がりや破滅主義と片づけられぬ、深層的な思惑も存在することでしょう。
結局のところ、全ての話者が正直に意見を述べているとは限らず、その背景には政治的、感情的、経済的な要素が複雑に絡み合っております故、一元的な結論を出すのは難しいのでございますぞ。増田氏もその点を考慮に入れ、もう一歩深い考察を進められては如何でしょうかですぞ。
私は誰しもがそう望むように幸せになりたいと思っていた。それは我々の権利でさえある。しかしそれは法で定められなくてはならないほど、私たちに縁遠いものなのかもしれない。例えば社会的地位、経済的余裕、暖かな人との繋がり、夢や希望をこの地であくまで追求すること──。
これは生活に追われて疲れ果てたある女の手記だ。私はこんなくだらない文章を書くほど暇なのだ。それは決してゆとりではない。それに真実でもない。「何もすることがない」というのは恐怖なのだ。自分自身、もしくは人生の虚無と向き合うはめになる。それならこうやってスマホの白い画面に黒字を打ち続けるほうがよっぽどマシなのだ。
私はつねに漠然と死にたいと願っている。先に告白しておこう。私はうつ病者だ。だから歪んだ世界に生きている。そして発達障害(当事者)でもある。私の目に見えるものは本来の姿を留めていないのかもしれない。私は何重にも孤独なのだ。恋人も友人もいない。私は一人だ。いや、少なくともいま現在はと付け加えよう。
私には子どもが一人いる。
まだ幼い、母親の庇護を必要とするか弱い存在だ。私の苦悩の全般は子育てに起因するように思う。人より劣る私のような人間にはそもそも育児など不可能だったのだ。すでに夫だった(それ以前は恋人だった)男とは離別している。「孤育て」とは誰の造語かは知らないが、なんとも言いえて妙だ。
私の人生で誇れることがあるとすれば、それは離婚だ。自分で考え自分で行動し自分で決着を付けた。そして学びを得た。「私のことを粗末に扱う人間とはもう関わらない」夫はいわゆる“モラハラ”体質だった。デートDVもあった。でも私は気付けなかった。それを理解したのは最近のことだ。ということは私にもそれなりの成長があったのだ。しかし、もっと早くに気付いていれば傷は浅かったし、それから、それから、息子を産まずに済んだのだ。
私が心を病んだのは十代の頃だ。夫と出会う前だ。だから全面的に彼を非難することは出来ない。初めて行った産婦人科で、エコー写真を見た。モノクロのテレビ画面に不思議な抽象画のようなものが映し出された。そして写真を撮るカチッとした音が響いた。それで私にも分かったのだ、この腹のなかに何かが居るのだと。動揺して頬にしずくが伝ったのを覚えている。真っ白で消毒液臭い古びた院内。私にとって希死念慮は懐かしく親しみ深い欲求だ。だからこの一連の愚かで頓馬な騒動のなか、私は一つの結論に達した。つまり、子どもが産まれたあとに自殺しよう、と。私のその願い(この人生を終わりにしたい──)と胎児とはなんの関係もない。巻き込むにはしのびなかった。その程度の理性は持ち合わせていると自負している。
だが私は当初男に中絶を訴えた。私はまだ“女の子”でいたかったのだ。くたびれた子持ち女になるなんて、とんでもないことだ。子どもなんていらない、私には夢がある、そんな責任背負えない──などなど、私は空回りする言葉を口にした。男は泣いて反駁した。絶対後悔させない、幸せにする、土下座してもいい……。いずれにせよ上っ面な言葉が二人の間に投げ交わされた。その中で、男の涙も出産を決意した理由の一つになった。私たちの深刻で感情的な会話は回転寿司屋で耳目を集めた。あの人が泣くのを見たのはあれが最初で最後だ。希望のない結婚生活はすぐさま破綻し、ただの狂女と化した私を男は見切った。離婚は合意によるものだった。結婚は、結婚はといえば寄り切られただけだ。それに実家では死にたくなかった。「家」から出るための判断だったと今になって思う。
そして母親から望まれなかった子どもは今や四歳になる。つまり私は死ねなかった。ひどく臆病なのだ。だらだらした生を送り、日々は過ぎ去り、私は今日もただ生きているという苦痛に耐える。
16時半になると息子が帰って来る。彼には発達特性があり、療育と呼ばれる困りごとを抱えた子どもたちを支援する施設に通っている。青い車に乗った彼はたいていはご機嫌で帰宅する。そして「今日のご飯は? なんのおやつがある?」などと訊ねる。その都度私は答える。どうでもいいことを、どうでもいい感じで。
私たち親子をこの先待っているのはなんだろう、とふと考える。私の予想では、息子はグレるか引きこもるかのどちらかだろう。“軽度の発達遅滞”──、医者の言った言葉だ。
私が憂うのは──、また興味を惹くのは、私たち家族が年々機能不全家庭に成り下がってゆく事実だ。
曾祖母は戦争で夫を亡くしお茶お花の教室を開いては子ども二人を育て上げた、祖母は家業と家事育児を両立させ手作りの洋服を娘らに着せていた、私の父は男手一つで私を曲がりなりにも成人させた。では私はどうなのだろう。三十路の子持ち女、気ままなパート通い、充実した福祉政策にすがってその日暮らしをしている。闘病中だから仕方ないでしょ、が最大の言い訳だ。もちろん私は合理的配慮の必要を認める、国だってそう言ってる。だが私の怠惰と甘えはとどまることを知らず、日に日に心身が肥大していくのだ。もはや若くもなく、痩せてもいず、まぶたに色を添えるでもなく、唇はささくれだっている。元夫が愛した頃の可愛らしい私などとうに消失した。ミニスカートを履くことも今後この人生にはないだろう。
だがこの点において私は絶望していない。若さゆえの唯美主義とは残酷なものだ。それを脱して豚になるのだっていいだろう。“おばさん”にはセクハラも痴漢も起こり得ない、少なくとも私はそう考える。
閑話休題──と打ちかけて気付いた。この文の本論はどこにあるのだろうか。私の人生を言葉の力を借りて小説にし美化するため? それはそれで良いだろう。だが打開策にはならない。私は毎朝ダブルベットからのろのろと起き上がり息子を登園させる、夕方になれば電話が鳴り息子をアパートの外で出迎える。その間は私一人だけの時間だ。支援職の人々は「ゆっくり休んでください」と口を揃えて言う。でも物事を複雑化して自作の迷路に一人で迷い込んでゆくのは私の大得意だ。つまり安息などない。私は息子の帰宅を恐れる。逃げ出したいと思う。実際逃げ出したらどうなるか綿密に考えてみる。それもいいと時々思う。でもだいたいは「居続ける」ことを選ぶ。人生においてもそうだ。やめようか、どうしようか、でも面倒ごとは御免だ──結局私は生き続けることを選んで来た。それが正解だったのか、正しい判断なのか迷う。安易に出せる分かりやすい答えにはさほど価値がないように思う。あらゆる人間関係のなかで悩み苦しむこと、その明快な人生の定義を思い浮かべる時、もしかしたら私は幸福なのかもしれない。
2024/08/27 18:28
とうとう自分の身近にも現れてしまった。正直、かなりつらい。悪い人ではないんだけどね。
ただ、このままだと双方にとって不幸な状況だから、雇用関係の終了や転職がもっと簡単になれば良いんだけど。
日本では、まだ「真面目にコツコツ働く人」が、効率よく素早く仕事を終わらせて帰る人より評価される文化が残っているように思う。だから、真面目さが武器になる道もあるのかもしれない。
とはいえ、能力不足で退職することになった場合、その「能力不足」というレッテルは、どこまでも付きまとうだろう。
A:100のスキルが必要な職場に、80のスキルの人が入って、結果的に周囲から叱責される(実力はあるが、職場の基準に届いていない)
B:50のスキルが必要な職場に、40のスキルの人が入り、同じく叱責される(そもそも実力が不足している)
Aの人は、自分のスキルレベルに合った会社に転職すれば活躍できるだろうし、ただ不運にも高度なスキルが要求される職場に入ってしまっただけとも言える。一方、Bの人は、どこへ行っても苦労するだろう。
けれども、「能力不足で退職」というラベルは、AもBも同じ。だから、採用面接の場で、その人がAなのかBなのかを見極めるのは難しい。
いや、でももしBの人がすぐに雇用解除できるなら、大きな問題にはならないのかもしれない。だけど、それって本当にうまくいくのだろうか?
たとえば、最低限、指導を行っても改善しなかったという根拠がないと、解雇には慎重になるべきだと思う。相性や感情的な理由ではなく、明確な理由が必要だ。しかし、その根拠を得るために、3年も様子を見るとなると、職場環境が破壊されてしまう可能性がある。
やっぱり、最初の段階で精査しないと厳しいのだろうか。
anond:20241003123135 「おもんない男性諸氏に少しだけアドバイスというか具体例」についての話
これ、男女で価値観が違うので導き出される最適な行動が違うんですよね
例外はいくらでもあるのは承知の上で、でも分かってないとお互いに不幸なので書きます
そのためお互いにどんどん喋って、特に何を思ったか・感じたかをバンバン伝えて「共感を交換」します
共感しづらい話し方はNGで、ファクトばかりではなく何を思ったかを話して欲しいです
そうやってどんどん共感の連鎖が爆発するのが女性の「話が弾む」です
(解決脳と言われることが多いですが、男性同士の会話を分析すると少し違うのが分かると思います)
そのためまずは自分が興味あることの紹介や、互いが興味があることの確認から始まります
結果、テーマに繋がるキーワード単位での話になりがちですし、相手が興味を持ってるか分からないことは深追いしません
そして興味が共通するテーマが見つかるとそこから、テーマが繋がる話をどんどんやり取りするのが楽しいです
このときに概念が似ている別のテーマに飛ぶのも刺激があって楽しいので、その場合いわゆる講釈や自慢話も興味深く聞けます
なお「共感」にはあまり、人によっては全く価値を感じていません
そのテーマに興味がない人がどう思おうが知らんがな、という感じです
質問は、されるのが苦手な女性も多々いるようですが、男性はむしろ「あ、このテーマに興味あるのかな?」と少し肯定的に感じやすいです
先の通り興味あるテーマを探るのが最初のステップなので、質問があると次のステップにも進みやすくなります
どうしても自分から質問するのが苦手な場合、相手のキーワードに出てきた話に関連する自分の話をしましょう
そして相手が質問してきたときには「あ、このテーマに興味があるんだ」と思ってください
決して問い質しているわけではないです
バリバリ仕事する人ほど知ったかぶりに振り回された経験も多いので特に
そしてこれが、女性流の「話の弾ませ方」と相性が悪いです
女性は「共感の交換」が出来ればいいので、テーマ的には知らないことに「分かる!」と言い、その後に自分が共感して欲しい、感情的には繋がるがテーマは繋がらない話をしがちです
これが、酷いと
「なんで『わかる』から全然関係ない話になるんだ? 分かってないんじゃないか? てか知ったかぶりか? こいつ他人の話は聞かずに適当に知ったかぶって自分のターンに持ち込むやつか?」
と捉えられたりします
「共感」を与えたことは男性側にはあまり価値がないことなのです
女性との会話になれてない男性からすると、この女性に対しての態度って、難しいことが分からない相手だと見くびってる態度のような感じがするんですよ
大目に見てこれらを理解して合わせてあげるか、それが出来ないなら「女性経験がない真面目タイプ」は止めておきましょう
お互いに不幸になります