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2024-10-21

追記あり日本絵師界隈が、反AI因習村と化した理由についての一考察

10/22追記

深夜のダラダラした文章に、思った以上の反響があり、恐縮です。キャンセルカルチャー運動辟易していましたので、考察と言いつつ、n=1の、偏見まみれのくさすような内容になっており、申し訳ございません。

コメントを通して、西洋史観や海外勢の動きなど己の勉強不足を感じ、大変参考になりました。ほか、新たに以下の視点を得ました。

絵師界隈にもプレイヤーはきちんと多数存在していて、それはいわゆる多くの「二次創作をメインに活動する者」なのではないか
にもかかわらず、「二次創作をメインに活動する者」は、自身を「プレイヤー」ではなく「クリエイター」だと勘違いしているから、絵師界隈の創作の循環は停滞し、変なことになってしまっているのでは?

現行法合法とされている無断学習(?)をダメとし、無断の二次創作をヨシとする矛盾性など)


声優はどうなの? について

彼らの職業は、対脚本家演者という関係からみて、クリエイターではなくプレイヤーよりかなという偏見があったため、言及していません。

そもそも、声は、創作というより身体的特徴なので、人権の一つとして適切に保護されることには、なんら議論余地はないのでは。

■ 「絵師」だけじゃなくて、「猟師」とかもあるやん? について

自他ともに達人と認める域に達した方が、「ワシは猟師じゃ」と自称するのは、偉そうだけど実際に偉いし、じゅうぶん身の丈にあっているのでいいんじゃないでしょうか。

追記終わり


本編


最近日本の「絵師」と呼ばれる者達の界隈で、生成AIに対する反発が拡がっている。

それは年々過激さを増し、最早、「お気持ち」や「感情的な反発」ただそれのみで、法的にも倫理的にも問題のないコンテンツを焼き払うまでにいたった。

因習村呼ばわりも、宜なるかな・・・・・・。

もちろん、全ての絵師がそうだとは思わないし、思いたくはない。

このような状況下では肯定的意見など出せようもないだろう。魔女狩りの憂き目にあってしまう。


さて、リーガルマインド(法的思考能力)は、法学部法律科目をみっちり学んでやっと習得できるようなものなので、これを持たない相手議論をふっかけても、いつの間にか例えになっていない例え話にすり替わるのがオチだ。

から、反AIを説得したり、論破したりするつもりは、私にはない。

ただ、不思議な点があったので、分析しようと思った。


生成AIに過剰に反発をしているのは、「絵師」やそれをとりまく「アニメコンテンツ」(以下、「絵師界隈」という。)に限られている。

他の分野でも生成AI進化・深化はめざましいが、変な炎上なども起こらず、粛々と最新ツールとして活用されている。

実際、私がメインで活動している音楽分野(以下、「音楽界隈」という。)でも、生成AIは、比較自然に受け入れられている。

同じクリエーターなのに、なぜ、こうもスタンスが異なるのか?


私は、三つの理由があると考えた。


-「創作の循環」の認識の違い

音楽界隈にいると、少数の作曲家(以下、「クリエイター」という。)、多数の演奏家(以下、「プレイヤー」という。)、無数の聴衆(以下、「リスナー」という。)が互いにインスパイアし合う「「創作の循環」、古から続く巨大なうねりを、あらゆる局面で感じる。

生成AI学習云々の問題は、この循環の一要素として、肯定的に受け入れられている。

しかし、絵師界隈には、循環の要となるプレイヤーがほぼ存在しないため、「「創作の循環」を知覚しづらい。

全ての創作は己の独力によるものだと勘違いしてしまう。


-「才能と作品」の認識の違い

西洋芸術は、音楽絵画の分野を問わず、才能は神から与えられたもので、作品は神に捧げるもの、という共通認識のもと、発展してきた。

信仰が薄れてきた現代においても、なお、フェアユース思想として残っている。

対して、日本には、そのような一神教概念はないものの、少なくとも音楽界隈にあっては、神に奉納する神楽なる存在がある。

更に、音楽理論そのものが、西洋ルーツとするので、「与えられた「捧げる」意識を醸成する機会が多い。

一方で、日本絵師界隈は、ガラパゴス状態進化しているため、「自分ゼロから努力して勝ち取ったもの」「作品自己表現」という認知になりやすいのではないか


-クリエイターレベルの違い

今、音楽本業として、いわゆる音楽でメシをくっているクリエイターは、厳しく長い音楽不況を乗り越えた存在であるので、生成AIときには脅かされない実力がある。

そうでないクリエイターは、純粋趣味として作品を作って発表して楽しんでいるので、生成AIも、面白いツールが出たな、としか捉えない。

一方、イラスト本業として、それでメシをくっている絵師界隈は、クリエイターの淘汰が進んでおらず、生成AIとき簡単に脅かされてしまう。

リアル生活がかかっているのなら、反発も過激になってしまうだろう。

参入障壁の低さと、00年代から需要の急速な拡大が、本来実力に見合わない人間プロとさせてしまったのかもしれない。

さながら、チューリップ・バブルだ。


以下、それぞれ、補足。


創作の循環」の認識の違い

音楽界隈においては知覚しやすい「創作の循環」

音楽界隈では、古くからクリエイタープレイヤーリスナーが繋がり、互いに影響を与え合う「巨大な循環」が存在している。

例えば、クラシックプレイヤー過去の偉大なクリエイター作品演奏し続けたり、ジャズヒップホップにおいて、サンプリングリミックスを通じて新しい音楽を生み出すのは、既存作品表現再利用する文化根付いているかである

表現の蓄積に敬意を払いながら、新しい創造を探求する」というプロセスを自然に受け入れられる土壌が存在している。

これは、DTM世界も同じで、音源サンプルが膨大に共有され、再利用されている現状からすると、AIによる生成もただ新しい音源手法を追加しただけという感覚が強い。

技術的な進化日常的に行われており、特定の著名なプレイヤー演奏サンプリングして音源化することも一般的である

これにより、生成AIも単なる新しいツールとして、既存の「循環」の中に自然に組み込まれている。

また、音楽界隈において、多くの場合クリエイタープレイヤーを兼ねており、リスナーもまた、プレイヤーを兼ねている。

ただ純粋聴くだけの音楽愛好家は存在するのだろうか?

音楽愛好家ならば、誰だって、一度は何かしらの楽器を触って、誰かの作った曲を演奏しようとした経験があるのではないか

クリエイタープレイヤーリスナーは、多くのケースで同じ立場で、創作の循環に積極的に関与している。

AIがその中に入ることは、「革命」ではなく、単なる「進化」だ。

私自身、音楽を通じてこの循環を何度も経験してきたため、AIを恐れることなく、むしろ新しい創作可能性として受け入れている。

音楽分野では、クリエイタープレイヤーリスナーが互いに影響を与え合い、生成AIもその延長線上にあるのだ。


絵師界隈においては知覚しづらい「創作の循環」

一方で、音楽界隈における「プレイヤー」に相当する役割が、絵師界隈には存在しないか、または極めて少ない。

クリエイターリスナー立場を結びつけ、要として機能する「プレイヤー」という存在希薄であるために、絵師界隈では「創作の循環」を感じる機会が乏しい。

その結果、生成AIは「自分領域侵害する存在」として映ることが多い。

絵師界隈において、絵師は、自分作品について、「自分ゼロから作り上げたものであり、完全な自己表現の成果」として捉える傾向が強く、他人作品に手を加えたり、既存表現再利用することに対しては、現行法問題がなくとも、極めて強い抵抗を感じやすい。



「才能と作品」の認識の違い:

西洋における芸術史とフェアユース

絵画音楽を問わず西洋における芸術歴史を振り返ると、才能は「神から与えられたもの」として見られており、芸術家はその才能を用いて作品を神に捧げるものだった。

パトロンは、神のために芸術家を支援して、芸術家は神のために技術研鑽を重ねた。

結果として、優れた作品がたくさん残り、ありがたくも現代にまで継承されてきた。

芸術史への脱線は避けたいので、軽く触れるにとどめるが、少なくとも、西洋芸術特に歴史的な音楽絵画の中では、才能は「神からの贈り物」として見られてきたため、それを使って作品を作ることは神聖な使命の一部であった。

元来、芸術作品やそれを生み出す才能は、個人の所有物ではなく、社会や神に捧げるものとされてきた。

この背景が、西洋フェアユース概念が広く受け入れられている一因のように思う。

才能や作品は神のものとして共有されるものというコンテクストのもと、生成AIによる「学習」や「再利用」も一部では容認されやすいのだろう。

任天堂とパルワールド訴訟問題における、日本欧米の反応の顕著な違いに、この当たりの感覚の違いが明確に出ているように感じる。

この点、日本絵師界隈にとって、才能は「自分努力によって勝ち取ったもの」であり、作品は完全に自分の所有物という感覚が強いのでは。

創作の循環」という巨大なうねりに触れる機会もないもんね。

その態度を傲慢とみるか、当然の権利とみるかはさておき、だからこそ、生成AI個人努力創造性を「奪うもの」として見られやすく、反発が生まれやすいと考えられる。



まとめ::生成AI技術未来資本主義への影響

このまま日本絵師界隈の生成AIに対する過剰な反発、炎上騒動が続くと、日本では、生成AIアンタッチャブルとなり、なんらの議論進歩も遂げなくなるだろう。

最終的に、生成AI技術は、外国の「GAFA」などの巨大企業によって独占され、資本主義論理に飲み込まれ可能性が高いと感じる。

外国大企業規約契約に巧妙に生成AI技術云々を盛り込み、最終的には技術データを独占し、クリエイターがそれに従わざるを得なくなる未来

絵師界隈の過激活動により、日本企業にとって生成AI技術のものアンタッチャブルとなったので、日本企業呆然と、日本人の優れた才能が外国資本に奪われていくのを眺めるしかできない。

そういう世界に誰がした?

もちろん、これは資本主義の一環であり、技術進化の中で繰り返されてきた「ひとつの循環」として受け入れるしかないのかもしれない。

私自身はそのような未来諦観し、これもまた創作における流れの一部だと考えている。

技術は常に進化し、その中でクリエイティブ表現方法もまた変わっていくものだ。

しかし、絵師界隈は、そういう未来をどう考えているのだろうか?

AIをただ拒否するのではなく、技術と共にクリエイティブ可能性を探求する道もあるのではないかと思うが、彼らはその選択肢考慮しているのだろうか? 

AIは決してクリエイター創造性を奪うものではなく、創作の循環、巨大なうねりの一部として受け入れられるべき可能性を秘めている。

これからクリエイティブ世界で、AIと共に新しい表現の形を探求していきたいので、絵師界隈には邪魔しないでいただきたい。

クリエイターは、絵師だけではない。



余談:呼称問題

「生成AIを使っているヤツを、絵師を呼ぶな」問題にも触れておきたい。

私としては、生成AIを用いて絵を出力する者は、「プロンプト・エンジニア」がより正確な呼称だと考える。

望む絵を出力することは、絵師界隈の人が想像しているような、そう簡単技術ではない。

命令文の模索や、好みのモデル階層マージ云々、どれをとっても、相当な知識必要だ。

現に、クラウドワークスでは既に、「生成AIイラストを出力してほしい」旨の依頼がわんさかある。

もちろん、これらはローカルGoogle Colaboratory等に環境を構築している者に限って、の話である

「Novel AI」や「Dall-E 3」、「Grok-2」など、企業最適化して、提供している出力サービスを使っている者は、今のところ「消費者」かな。

企業最適化したサービスを使ってキャッキャしているだけの人は、ごく普通の・・・・・・一般消費者、それ以上でも以下でもないのでは。

消費者イラスト生成AI恩恵にあずかれるようになっただけ。


そんなことより、絵師界隈の人たちは、自分自分のことを「絵師」って呼んで、恥ずかしくないの?

絵師」という言葉は、2000年代の2チャンネルの「同人板」で、敬称として、使われ始めたと記憶している。

「表紙を絵師に書いてもらって~」とか、「好みの絵師が~」とか。

敬称なので、自分自分のことを「絵師」と名乗る者は、当時はいなかった。

絵師になりたいです!!!」なんて、とんでもない。

一体全体いつから自分自分のことを「師」」と自称するような、恥ずかしい使われ方をされるようになったんだろう?

ニコニコ動画が出てきて、ネットが低年齢化して、「動画師」や「MIX師」という、変な亜種が登場したあたりからだろうか。



2024-04-14

anond:20240413195843

何がいいって利害が対立している親がそれぞれ親権を持っているのがいい

確信的に虐待を続けるケースでも共同親権なら防げる可能性が増える

唯一の権力である政府が全て差配するよりも、自由市場に任せる方がマシっていう発想に通じるように思う

共産党けが反対したのも宜なるかな

2024-03-25

人格否定社会において利益を得ることができるから消えないという仮説

Twitterとか見てても、結局相手人格否定、強い言葉が流れてきて、減ることがまったくない。

良くないことですよ、ってことは丹念に言われているだろうに、なにかの論陣を張るにあたって、得てして人格否定皮肉を混じらせようと出てくることが多い。

どれだけ賢い人でも、党派性がどこにあっても、結局人格否定が行われることが多く、それが何らかの論を肯定させるにあたって有益とはならない、ということが前提である一般には言われているはずなのに、止むことがない。

だとすれば、やはり対象人格否定することは何らかを論じるにあたって有益からなのだろうか。

対象論理ではなく人格を蔑んだり否定したりすることによって、周囲の肯定を得ることができたり、味方を増やすことができたりするから、こうした人格否定はやはり有益で、減らすことができないのだろうか。

だとすれば、いちいち人格否定はよくない、ということ自体利益背反で、無駄なことだと言えるように思う。

ただ、得てして何らかの論での賛否を争うにあたって、Twitterなんかではその論が稚拙になりがちな相手の側を、お互いに人格否定し合う、といったような論の賛否とはかけ離れたイメージ戦略的ものに落ち込み、結局のところ論理的というより政治的な争いになっていくように思う。

勝手な印象として、論をお互いにすり合わせ適切な落とし所を見つけることが大事なように思うのだが、得てしてそんな理想論よりは、適切に相手を貶めて政治的勝利を目指すほうがやはり目的達成のため合理的判断されることも宜なるかなと思うので、やはり人格否定有効手段として減少することは期待すべきではないのだろうな、と思う。

2024-03-11

anond:20221115222051

からフェミがよく繰り出すホモソーシャル批判というのも

本音のかなりの部分が単に「自分の夢をぶち壊された」のに対する私怨なワケ

腐とかぶってるのも宜なるかな

2024-02-25

なんで日本インタネット人達はこんなに日本語通じないし倫理観皆無だし土人すぎて何故なのか

と思っていた

ふと、昔の知り合い達の本棚を思い出した

・大量の漫画ラノベ自己啓発本だけの同世代

・十冊にも満たない本しかもってない先輩

自分仕事の専門書しか本棚にない先輩

漫画同人誌しかない友人

美術の本しか無い藝大女

漫画雑誌しか家にない女

まあ平均的な日本人はちょっと驚くくらい本を読んでないんだからそりゃ精神が未熟なままなのも宜なるかな

2023-08-15

anond:20230813112226

事前に描かれていてOPに使われるということは、それなりにストーリーキーとなるポイントだったりするわけで

「衝撃の展開だ!」「まさかこんなことになるなんて!」

という感想宜なるかな

2023-06-16

[] そのろっぴゃくきゅうじゅうご

ユリウーッス

 

本日ブルームの日、アフリカの子もの日、日本では和菓子の日ケーブルテレビの日スペースインベーダーの日、麦とろの日、無重力の日となっております

南アフリカ共和国では青年の日となっており、青年の日もアフリカの子もの日もソウェト蜂起に因んで作られた記念日となっております

アフリカ若者達が自分達の使わされてる言語に対して不満を抱いて始まった騒動で最終的に死者を百人以上、負傷者を千人以上出す大惨事となりました。

そしてそんな言語教育の為に立ち上がった多くの学生達を忘れない為に、アフリカの子ども達について考える為に、アフリカの子もの日や青年の日というのを作られたのだそうな。

とはいえ、数の応酬暴力で返すのは微妙ですね。

こういう惨劇が発生しやすくなりますから

暴力最後最後自分けが責任持てる範囲になったところですね。

一般常識では否定しておいた方が安全物事が進みます暴力フェーズは別ベクトルに行っちゃうので。

とはいえ護身ちゃん大事ですからね。

やっぱり大量の人間対大量の人間一触即発になるのも宜なるかなって感じです。

それでも最後最後まで言葉でやりとりすることは念頭に置いておきましょう。

そのやりとりを第三者が見ていたりしまから

 

ということで本日は【適度なコミュニケーションいか】でいきたいと思います

適度なコミュニケーションいか!適度なコミュニケーションヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

2023-03-28

anond:20230328002951

おひたし醤油かけようとしたら「味ついてるから!」とか言われた経験があったら確認するのも宜なるかなやろ

こんなもん一方の話だけ聞いてジャッジできるもんやないで

2023-02-25

anond:20230225083203

つーか妻子ありで女にだけおごるの感覚わからん。気前いいおじさんやりたいなら男にも奢ればいいのにそうしないのはなぜ?ワンチャン狙いと勘繰られるのも宜なるかな

2022-07-17

片田珠美統一教会に関するデマにご注意ください

Twitterやはてぶ、5chに至るまでこのデマに踊らされてる人達があまりにも多いので啓発しておこうと思い筆をとらしていただきました。

どんな事かというとNHK番組山上徹也をややセンセーショナル見解を述べた片田珠美氏が炎上しております。その炎上付随して片田珠美統一教会関係がある!とさら炎上してますが、明らかなデマなのでこの記事で啓発致します。

デマ拡散

自分が見た中ではこの二つのアカウントデマ拡散源になってる模様

アカウント名:@auelbuch

https://twitter.com/auelbuch/status/1548001850934566912

アカウント名: @TomoMachi

https://twitter.com/TomoMachi/status/1548025337392508933(ツイ消し済み)

片田珠美統一教会関係あるのか?

@TomoMachiのアカウントですと既にツイ消ししているのでわかりませんが@auelbuchでは片山珠美が世界日報に登場しているので統一教会関係がある!といった論拠にしているみたいでそのソースになっている記事引用してみます

"著書『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』で、精神科医片田珠美さんは「打たれ弱い子ども若者たちますます増加している」とし、「彼らの多くは、現実自分を受け入れられないでいる。『こうありたい』という自己愛的なイメージ上の自分と、現実自分との間のギャップが大きすぎる」と。暴発の原因を探るヒントになりそうだ。"

▼全文はこち

世界日報

https://sub.worldtimes.co.jp/column/updraft/67393.html

えーっと読めばわかると思いますがただ単に引用されてるだけです。インタビューもされてなければ記事執筆もされてませんし、ましてやコメントも出してません、ただ著書の一文が引用されただけです。これで許諾や何かの報酬が発生しているかさえ怪しい引用統一教会関係があると言うとは無理があり、片田珠美統一教会関係があるというのはデマです。仮にこの引用関係ある!と鼻息荒い人はいるかもしれませんが、世界日報週刊文春大手テレビ局報道引用して記事にしてることが少なくないのでここでアウト判定してしまうと日本マスメディア関係全て統一教会汚染されていることに…。この記事ソースにして片田珠美統一教会関係があるとするのはデマなので気をつけましょう。

最後

この安倍晋三暗殺事件関係各所に真偽不明情報が入り乱れており、デマ事実を膨らませている記事右往左往されている方々が非常に目立ちます

この記事拡散者の人達ソース確認すればすぐデマだとわかる雑魚だったのよかったですが、すぐに確認できない本当か嘘か確認するのが困難なニュース記事であったり、怪しい情報に飛びつくのはやめませんか?一旦落ち着いてニュースから離れてみてある程度情報が整理されるのを待ってから諸々確認する事をオススメします。

はてなーの皆さんはこの前安倍晋三暗殺事件陰謀論の巣になってると言った三浦瑠麗に激しくお怒りでしたが、こんな怪しさ満点のソースに振り回されているようでは陰謀論の巣になってると言われるのも宜なるかなとは、皆さんデマには気をつけて、ソース確認できるものちゃん確認しましょう。

2021-09-28

「子ガチャハズレSSR」としての高IQ発達障害者

最近「親ガチャ」という言葉お茶の間にも紹介されるようになった。

現代社会の閉塞感、生得的要因に重きを置く風潮を表す概念として、インターネット界隈では頻繁に使われてきた言葉だ。

その一方で、インターネット上では「お前の親からしたら子ガチャ爆死だよ」などという煽り散見される。

子は親を選べないが、親も子を選べないという点では「ガチャ利用者なのだ

もっとも、親サイドは出生前診断等によって「ある程度は」子を選べる。

それに比べると、子供の「生まれることに対する選択権のなさ」は本当にひどい。

反出生主義が流行るのも宜なるかな、といったところである


から書くのは、「子ガチャから排出された側の人間、つまり自分の話である

自分は、自閉症スペクトラムAS)の診断を受けた、いわゆる発達障害者だ。

そんな自分のことを子ガチャという観点評価したとき、一番しっくり来る分類は、ずばり「ハズレSSR」。

攻略wikiリセララキングに「ガッカリレア」「SRの方が使える」「リセマラ続行」などと書かれるタイプだ。

ここでは、なぜ自分のことを「ハズレSSR」と思うのかについて、「SSR要素」と「ハズレ要素」に分けて書いていきたい。

なお、今から書くのは一人の発達障害者個人的体験および主観的意見である

タイトルでクソデカ主語を使ってしまっているので説得力はないかもしれないが、ご承知おき願いたい。


さて、まずはSSR要素である

自分は多分、世の中の平均より頭がいい。

昔受けたWAIS-3(いわゆる知能検査)では、総合IQ的なものが130近くあった。

東大生の平均IQが120という説があるので、少なくとも数値の上では自分は「知能指数が高い≒頭がいい」のだ。

事実学校勉強で苦労した記憶ほとんどないし、高校ほとんど通っていない状態でも1年予備校勉強したら国内トップレベル私大に受かった。

発達障害者は「ある特定分野において驚くほどの才能を発揮することがある」と言われている。

自分場合、それが「学校勉強」だったのかもしれない。

そういった得意分野においてだけは一般水準を遥かに超えたパフォーマンスを発揮できる自信があるので、あえてSSRを名乗ってみた。

もっとも、後述の理由で、そんな機会はなかなか巡ってこないのだが。


次はハズレ要素についてだが、これは主に「基礎ステータス」と、それによる「価値産出力」に関するものだ。

前者に関してだが、これは自分発達障害特性および二次障害としての抑うつ傾向・認知の歪みに起因するステータスの低さで、

コミュニケーション障害がある(空気が読みづらいなど)ので友だちが少ない

・常に世界に対して気を張っているので異常に疲れやす

生活リズムを整えるのが下手なので生活能力に欠ける(朝ちゃんと起きる、家事をする等)

自己肯定感が著しく低いのでしなくてもいい苦労をしがち

などなど、残念ステータスが無数にある。

後者については、「自分が今どれくらい社会に貢献している(価値を生み出している)か」という観点から評価である

現在自分は、30すぎで非正規職、手取り10万円ちょっと市民税課税世帯、もちろん実家ぐらしのいわゆる「子供部屋おじさん/おばさん」だ。

結婚の予定も意志もなく(そもそも相手がいない)、子供を持とうとも思わない(そもそも持てない)。

おまけに、自分大学で2留しているので学費が通常の1.5倍かかっており、その他諸々も合わせたトータルの子育てコストについては恐ろしくて聞けていない。

少なくとも、投資収益観点で言ったらひと目見ただけでヤバい赤字になっているのは間違いない。

こんな感じで、自分は現状、社会にとってお荷物しかない。

社会の役に立っているか」という観点で言うなら、平均の遥か下だろう。


このような特徴を持つ自分(これは一定数の高IQ発達障害者に当てはまることだと思う)をゲーム的に評価するなら、

「一芸に特化した性能だが、その他の能力が残念すぎるために特化した部分を実戦で活かしづらい。

だが、弱点を補い、運用を工夫することで、限定的な場面では他と一線を画す活躍ができるポテンシャルを秘めている。

もっとも、より汎用性の高いキャラ(低レア含む)が数多く存在する中で、わざわざこのキャラを選ぶ理由は多くない。

『愛があれば使える』のは確かだが、お世辞にも万人向けとは言えず、SSRとしては『ハズレ』と言わざるを得ない」

みたいな表現になると思っている。要するに扱いづらいピーキーキャラだ。

そして、現代日本社会では、そういったキャラの居場所は少ない。

都市部ならまだマシなのかもしれないが、自分が住んでいるような地方部では絶望的だ。

いくら長所があっても、「弱点を補い、運用を工夫」しなければ使えない人間は、きっと「ハズレ」だ。


思うままに書いているうちにムチャクチャ長文になってしまった。

認知がグッニャグニャに歪んでいるせいでこんな考えを抱いてしまったのだとは思うが、今の自分にとってはこれが実感だ。

はー、生きるのつらい。

2021-07-22

誰かを許容できる・許容できないの基準はブレブレでいいんだよ

オリンピックに携わる著名人過去やらかしが次々と明らかになる中で

「あの人には自然と怒りが湧いたのにあの人は擁護したくなってしまう、自分はなんてダブルスタンダード人間なんだ」と苦しんでいる人がいると思う

ぶっちゃけそこは個人レベルならダブスタでいいんだよ

だって誰かを許容できる・許容できないは「その人への好感度」と「その人への嫌悪感」のバランスで変化するんだもの

そもそも個人感覚に大きく依存しているんだから同じ基準で判定すると心が苦しいのは当然だ

 

もちろん「ダブスタ"でもいい"」というだけであって

誰であろうとダメものダメと言える人の方が立派なのは変わらないし

仮に賛同からスターを稼いで気持ちよくなるためにブコメで誰かをボロクソに叩いていたのなら

その分自分ダブスタぶりを今突きつけられて苦しむのはまあ宜なるかなって感じだけど

個人の内心で感じる分には基準がブレブレなのはしろ当然だよ

 

「あの人の粗相は許容できるけど、あの人に同じことされたらイラッとする」なんてこと

普段人間関係でもよくあることでしょ?

相手によって許容可能基準にブレがあるのは自然なことだよ

 

もちろん一般個人レベルの話じゃなくて

責任ある人が恣意的基準で動いたり組織特定人物を庇ったりするのはマズいよ

でもパンピーが「ラーメンズの人を批判する気が起きない」なんて苦しむのは責任感が強すぎだよ

単にあなたの中で好感度嫌悪感を上回ってるだけだ

 

重ねて言うけど

これまでに小山田圭吾のぶみを表立って叩いていたのなら「小林賢太郎はいいのか?」と突っ込まれたり

自己矛盾引き起こしたりするのはそりゃ仕方ないよ

でも自分の中の基準がブレブレなのもまた仕方ないことだよ

折り合いをつけて生きていけたらいいね

 

このエントリは大っぴらにダブスタを推進するものではありません。個人レベルの心の機微の話です。念のため。

2020-12-13

実家の裏山が切り崩されてソーラーパネルが設置されることになった

その一報を父から聞いて胸中に去来したのは、幼き日の思い出ではなく、むしろ長じてから度々意識した故郷の衰退のイメージだった。

元より地場産業として誇れるものが取り立ててあったわけではない地元は、緩やかだが確実な経済的衰退と人口減少の影響を受け、公共施設老朽化や各種インフラ経年劣化という形で自治体としてのほうれい線を隠す術を失っていった。

それでも、いや、それゆえに明確な転換点などなく、ただゆっくりとした老化から鈍感なふりをし続けた首長自治体、そして何より住民が半ば共犯のように地元の腐敗と死滅とを看過していった。

からこそ、いまさら太陽光発電などで延命を図ろうとする醜さにほとほと嫌気が差した、その実感があった。

それでも友人の結婚式に出席するために数年ぶりに帰省してみると、どうも聞いていた状況と乖離があったために改めて確認を取ったところ、どうやらこの度設置が決まったのはソーラーパネルではなく、例の宇宙太陽光発電の受電設備ということらしかった。

年齢を重ねたが故に知識と語彙の更新をやめた父をいまさら責める気も起きず、数か月前にニュースサイトで多少話題になっていたトピックに思いを馳せることで2次会の無聊を慰めていた。

令和4n-21年に決定された第n次エネルギー基本計画では、ついに原子力発電の占める発電電力量の占める割合が0%になった。

平成震災とそれに連なる事故以降窮地に立たされていた原子力産業はついに時勢に降参し、明るい未来エネルギーから歴史教科書上の記述となることを選んだ、という建前を本気にしている奴は少々イデオロギーに傾倒しすぎているきらいがある。

現実は、国内ソーラーパネルメーカーの開発した、そこまで安価とは言えないまでもそこそこ効率改善の図られた新型パネル推したい産業界が、細々と開発を続けていた国産ロケットペイロードの使い途を探していた経産文科省に仮託した、おままごとのような科学技術国威発揚煽りを受けた全廃、と言ったところだ。

どこまで行っても消極的な退場に、却って日本という国を感じざるを得ず、左派メディアのこじんまりとした勝利宣言にわざわざ難癖を付ける余力もなかったと見え、平成後期から令和初頭に掛けてあれほど紙面を賑わした役者とは思えぬほど粛々としたレームダック期を享受していた。

実際、人々とメディアの関心は、中国による、気前の良い提供と、経済協力を人質に取った押し付け中間の様な形で供与された受精遺伝子改変技術をどれだけ受け入れるかという議論にあった。

(科学技術という側面において現代日本中国に対して如何にサブジェクト・トゥしているか、という話だ。宇宙太陽光発電所はさながらパクス・シニカに立ち向かうドン・キホーテのようだ、と明に暗に揶揄された。)

米原子力協定の次回更新がないことは誰の目に見ても明らかであり、山のように余っているMOX燃料の行き先はIAEAも知らないようだった。

そんなことだから中間貯蔵施設という名目の、事実上最終処分場たる六ヶ所にすべてを押し付け政府行政と大多数の国民NIMBY精神遺憾なく発揮することで各々の精神の安寧を獲得していった。

とにかく、ことの主犯たる国産宇宙太陽光発電所は「ひかり」という、加齢臭むせ返る横文字候補からはなんとか逃げ果せた通称を拝命し、20GWもの大電力を供給し始め、東京万博会場の灯りが一斉に点った日をもってひとまずのプロジェクト成功と見る向きもあった。

(日本による宇宙開発の数少ない世界成功に肖って「はやぶさ」なんてネーミングを推す動きもあったが、流石にこの国にも一抹ながら恥の概念は残っていたらしい。また、「まりし」などという旧動燃残留思念、いや怨念が具現化したかのような案も提出されていたもと聞くが、真偽の程は定かではない。)

実際、こんな大規模プロジェクトを実行する能力エネルギーをこの国がいまだに持っていたことに驚いた。

ただ、ひかりから降り注ぐ高密度マイクロ波分散して受電する設備、すなわち受電所の立地が不足していると言う問題は依然として解決の目を見ていなかった。

安全よりも安心を求める国民性に変わりはなく(「焼き鳥デモ」の映像を見たときは流石に乾いた笑いしか出なかった)、電源交付金雀の涙と来れば宜なるかな積極的に手を挙げるごく少数の自治体は奇異の目で見られた。

とはいえ、大流量の循環水系のために沿岸部であることが求められる汽力発電でもなく、大規模な河川と高低差が求められる水力発電でもなく、只広い土地さえあれば良いというだけの必要十分条件は今まで大規模電源立地となることなど考えもしなかった自治体の目には福音として映ったらしく、それらの首長は新たな時代権益ホルダーとなることを選んでいった。

反対に、新規基準適合審査の遅々とした進展と繰り返される住民訴訟、そして最終的な結論としての廃炉の影響をもろに受けた原子力立地の反応はさっぱりであり、政治の影響をもろに受ける歳入に頭を悩ませられるエネルギー立地はもう懲り懲りと言った風情で、役人の誘いをアイリスアウトの向こう側に押しやっていた。

結局、ひかり設計容量のすべてを受電するに必要な30GW分の受電所を運開当初から用意することを諦め、漸次募集という名の先送りを決定した政府は経産文科省を矢面に立たせることを選び、自らは飄々としていたというのだから大したものだ。

結局、運開から5年が経過した段階でもひかりの擁する200k㎡に及ぶパネル3分の1は折り畳まれたままであり、白衣十人黒衣五人などと不必要比喩披露した大臣メディアの総バッシングを浴びる権利を恣にしていた。

そうした、古式ゆかしい伝統的な時勢の中で、2次立地募集に手を挙げた自治体の内の1つが、我が郷里だったのである

「親父が色々動き回ってたみたいなんだけど、さ。正直言うと、あんま関わりたくないなってのがあって」

私の友人であり本日の助演男優、またの名を新郎が、半分ほど空けたアサヒビールのジョッキをテーブルに慎重に据えながら、疲労を隠さぬ赤ら顔で言う。

彼の父親町議を務めており、「太郎」というシンプルすぎる名前出馬を見越して付けた名前だと言っていた。

(国政選挙に出るわけでもないのにな、とは彼の自嘲だ。)

その親父さんはどうやらこの度の誘致に際し懸命に旗を振っていたという。

しかし、僅かばかりとは言え受け取る交付金と、"多少の"造成による環境破壊と、電源立地になるという誇り(この価値観だけは共有が出来なさそうだ)と、それら3つをとりまく可愛らしい権力闘争の予感に、父親の説得と説教とに玉虫色の回答を重ねることでのらりくらりと回答の明言を避けてきたのだという。

彼のこの手の身のこなしは素直に凄いと思うし、そうした人付き合いに嫌気が差していた、というのは私の上京に係る動機の半分を占める。

「でもお前、今更そんなこと訊いてくるだなんて、本当にここの人間じゃなくなっちまったんだな」

この地でこの話題が取り沙汰され始めたのは軽く2年以上は前だという。

誘致か否かで侃侃諤諤の論争があり、どこに建てるかでまた侃々諤々の論争があり、さら用地買収に係るあれやこれやのトラブルがあり、それでも最終決定がなされたのがひと月前というのだから、どれほど地元の世情に疎くなっているかを実感させられる。

あるいは、上京して好き放題やっている(ように見える)私に対する軽蔑嫉妬の念が多少なりとも混じっていたのかも知れない。

なるほど、確かに私には家庭もなく、親族との濃密な付き合いもなく、仕事周りの土地付き合いもなく、自由気ままにやっていると言われても反論する材料がないことに気づく。

であるなら、こんな日くらい友人の愚痴と誹りを受ける義務も果たすべきだろう。

そう思って、コークハイを傍らに、言葉少なに彼の言葉に相槌を打つことに決める。

まったく、本当に大変な役回りだと思う。

返す返す、自分には出来る気がしない。

翌朝、久々に実家の自室で目を覚ますと(物置と化していなかったことに驚いた、こうした面に関する母の義理堅さには感謝しても仕切れない)、やはり気になっていた裏山に足を伸ばした。

アルコールが多少残ってはいたが、丁度良い運動だと体に言い聞かせて路を辿っていく。

子供の時から変わらない、というのはフィクションの中にだけ許される情景で、長らく人の手が入っていないことを伺わせる荒れ様には流石に心のどこかが痛んだ。

…いや、いや。

地元を出て戻らぬお前に心を痛める権利などあるのか?

よそ者同然と化したお前が捨て犬に見せるような仏心を発揮して碌なことになるのか?

もはや何も言う権利などないことに遅ればせながら気付き、せめて在りし日の遊び場の記憶が損なわれぬよう、路の途中で踵を返した。

もう2度と見れぬであろう山の景色を視界から追いやり、そういえば客先から急ぎの問い合わせを受けていたな、などと頭からも追いやり、足早に帰路に就いた。

帰路。

実家への帰路か、東京への帰路か、自問せずとも回答は明白だった。

思い出深き裏山は、もはや私の裏庭ではない。

2020-10-28

anond:20201028160631

開き直って「そんなクソでクズで終わってる無能の俺らでも使えるようにするのがマネジメントだろ」とか開き直るボケとか数年前までいっぱいいたからなネット

首吊って大好きななろう小説異世界にでも生まれ変わってレムちゃんおっぱい吸って下の世話してもらってこいアホって言いたいわ

なろう小説とか流行るのも宜なるかな

2020-10-10

anond:20201010225410

「そのマナーの良さは男オタク特性というよりはオタク特性である」「物販で暴れていたのはジャニオタだが、それは“オタク”とは別種の人達を多く含んでいるので“オタク”のように統制が取れないのも宜なるかな」てことですな。

2019-09-21

anond:20190920133618

EDがすげー下手な歌で1話で見るのやめてしまった。

後で聞いたら海外版ではED差し替えになっているのも宜なるかな

2018-10-27

萌え絵についてオタクが見ていない不都合な真実

ここで語る萌え絵は00年ごろに完成したエロゲ表現様式としての絵柄を指す。なぜならそれが初めて萌え絵と呼ばれた絵柄であったという歴史があるからだ。

現代感覚萌え絵範疇を広げた挙句その源流を少女漫画やらミュシャやらに求め出すアホはすっこんでろ。

さて、現在萌え絵と呼ばれている絵柄は幅広いが、元々萌え絵とは00年頃に絵柄が完成したエロゲ絵のみを指していた。

萌え絵少女無垢性を表現したものという言説もあるが、そんな綺麗事萌え絵一般アニメ絵マンガ絵に多大な影響を与えて却って薄まってしまった現代からこそ言える戯言であり、元は少女が脱いで媚態晒すシチュエーションとセットであったことを忘れてはならない。

しかしながら完成した萌え絵エロとセットであった期間は非常に短い。多分10年もない期間のことだろう。具体的には、Windows98の発売によりPC向けのエロゲーで表現できる絵が豊かになった98年頃からCLANNADが発売した04年までだ。

萌え絵の完成というのは当時のオタク界にとってはエポックメイキングであった。

ここで当時の萌え絵の特徴について整理したい。

まず、よく挙がるのが非常に大きな目の表現である。これが萌え絵の大きな特徴であることは間違いない。ただ、ここだけを以って萌え絵の源流は少女漫画だと語る人も多いがそれは間違いだ。萌え絵少女漫画には大きな隔たりがある。それを作っているもう一つのキーワードが立体感である

萌え絵には大きな目の他にもう一つ、丸っこく柔らかい影をつけて体の立体を表現しているという特徴がある。その表現は平面的な水彩塗りを主とする少女漫画には存在しないものだ。そしてその表現は、女性の裸体を質感をもって表現するという必要性と、当時のCG塗りに使われていたPhotoshopエアブラシというツールの二つが合わさって発明された。

体感を持つ体に大きな目が合わさって初めて萌え絵となったのだ。

この萌え絵という表現様式は控えめに言っても非常に優れていた。可愛いエロいを初めて両立させた絵柄だったからだ。

それまでのエロ絵と言ったら劇画調のものが主だった。一方で可愛い絵と言ったら少女漫画吾妻ひでおあたりで、これらにエロティシズムを感じるのは当時のオタク定義ロリコンと呼ばれたオタクの中でもさらに一握りの人々だけだった。つまり、このころはまだ可愛いエロいは両立していなかったのだ。

それを両立させた萌え絵エロゲーというジャンルから現れたのは必然であった。

そして萌え絵エロとセットになっていた時代を終わらせたのは、エロゲー界に流行った泣きゲーというジャンル物語だ。

泣きゲーというジャンルエロゲーは、KeyLeafといったエロゲメーカーが得意とするものだった。いわゆる葉鍵系である。これらのメーカーが出すエロゲーはエロゲーでありながらエロはおまけ的であり、その価値は泣かせる物語にあった。

この泣かせる物語は正直エロとは相性が悪かった。だが、萌え絵にはそれらの物語ともマッチする懐の深さがあった。萌え絵エロのみに価値があるわけではなかったのである

これらの物語萌え絵マッチは、元はエロゲーの絵柄として発生した萌え絵からエロを剥がすことに成功した。

そしてそれから萌え絵エロゲーを表現する絵柄であったというコンテキストから解放され、アニメ絵マンガ絵に多大な影響を与えていくのである。その過程萌え絵自身もどんどん進化していき、今となってはエロティシズムとは無縁の絵柄に到達したものもある。

一方で、エロゲーの絵柄としての萌え絵も残り続けた。可愛いエロいを両立させ続けている絵柄だ。

さて、ここで萌え絵性的ものだと言って批判する人々が連想している萌え絵とはなんなのか考えてみよう。

今のオタク萌え絵と言って連想するのはエロコンテキストから引き剥がされた現代萌え絵だ。

だが、萌え絵性的だと殊更に槍玉にあげる人々が連想しているのはエロコンテキストにべったり沿った、いわゆる原義通りの萌え絵だろう。それらは主流派ではなくなったが今でもまだ存在している。

これでは両者の話が噛み合わないのは当然である

さら萌え絵性的だと批判する人々がなぜ萌え絵特別視するのか考えると、そこには萌え絵が実現した可愛いエロの両立が非常にショッキングものであることが大きな要素になっているだろう。

萌え絵以前はエロといえば劇画であり大人世界のものであった。一方で可愛いといえば少女漫画であり、子供特に女の子のためのものであった。しか萌え絵可愛い世界エロを持ち込んだのだ。

これが子供を守る親の視点から見て、ショッキングでないはずがない。

から私自身は萌え絵が好きなオタクであるが、個人的には萌え絵批判する非オタクの大人批判宜なるかなと思っている。

そして、萌え絵といえばエロゲー用の絵柄であったという歴史に目をつぶり、萌え絵エロくないと言い張って萌え絵批判批判するオタクには幾らかの憤りを感じる。

重要なところを復習する。

まず、初めて萌え絵と呼ばれた絵柄はエロゲー用に完成された可愛いエロを両立する絵柄であること。

それは一般的に見て非常にショッキングな絵であり、それを受け継いだエロ萌え絵が今も存在していること。

これらを今のオタクは忘れてしまったのだろうか?少なくとも今のアラフォー以上で20年くらい前からオタクをやっていたような人は覚えているべき歴史ではないのか?

これらの歴史をまるでなかったかのように扱い、萌え絵エロいという人を一方的非難するのは非常に不誠実ではないだろうか?

萌え絵と呼ばれている絵柄は非常に豊饒で、エロとは無関係のものが主流だ。それは確かな事実である

一方で萌え絵エロゲからまり、今もそれを引き継いだエロ萌え絵存在するのも事実である

普通に考えて、萌え絵性的ものだと批判する人々が連想しているのは後者だ。前者に引きずられて後者連想している場合もあるか。

だが、それが考えられずに、あるいはわざと無視して萌え絵批判批判を返すのは非常に不実だと言わざるを得ない。

萌え絵の元の定義を今一度思い返してほしい。

ブコメレス

id:cloq 萌え絵の源流はエロゲ絵であり、萌え絵性的描写とは関係ないと言い張るオタクは嘘つきだって話だよ。

 
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