はてなキーワード: 脱構築とは
横だけど。
「男をやめた」「男を降りた」←この手の表現の気持ち悪さってツイフェミちんぽ騎士団の気持ち悪さと同質のものなんだよな。
どうせおまえら以前は如何にもなホモソ世界観で弱い男子を嘲笑って蔑んで生きてきたくせに、何を今更という気分がすごい。(被害妄想)
男は感情をぐっとこらえてしかめ面をしていなければならないなんていう男らしさとかって子供の頃からまったく意識してない。男らしく、みたいなのには90年代の高校時代からすでに脱構築する発言を身近なところで行なっていた。いまさら脱男らしさなんて言ってる連中のいまさらぶりに腹が立つ。— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) March 7, 2019
元増田の言いたいこととブコメの内容や流れとがかけ離れてしまっているのでちょっと書きたくなった。
要点は以下の通り
まず「傷付いた」という考え方は、多くのブコメが書くように、ある。存在している。
ただし、他の感覚全てがそうだけれども、「傷付いた」という言葉・言語によって諸人が感覚を構築してきたという背景・歴史がある。
構築にはある程度共通の経験(少女漫画でもなんでも)があり、日本語としての「傷付いた」がこれを結びつけている。
元増田はこの「傷付いた」を一度構築し直しませんか? と言いたいのだ。
ただ、言い方が結構雑で「嘘の概念」とまで突き放してしまっているので、
ブコメでは「傷付いたことがある」「元増田の感情が欠落している」などの反応が多く、建設的な議論に発展しにくい要因になってしまっている。
では、元増田はどうするべきだったのか。
もっと、感情を「傷付いた」カテゴライズに放り込むデメリットや、そうしないことに関してのメリットを示すべきだったと私は感じている。
元増田はブコメなどへの返信でようやくその片鱗をみせているが、確かに「傷付いた」を一度考え直してみるのは良いことなのかもしれない。
ただし「ムカついた」「ビビった」もまた「傷付いた」と等しく、感覚が言語で取りまとめられているに過ぎない。絶対的な指標は、ない。
元増田もまた人生の中で、他の人が「傷付いた」ような経験をして、色々「ムカついた」り「ビビった」りしているのだろう。
その感情の処理がどう効用があるのか、「傷付いた」を常用している人に訴える射程がないと、話が噛み合わないのだ。
元増田がなぜ「傷付いた」概念に疑問を抱き、それを脱構築しようと考えたのかはわからない。
以下は私個人の感じていることだ。
誰しもが情報を色々なところで発信できるようになり「私はこんなに傷付いています!(だから配慮してね)」「私は傷つく恐れがあります!(だから配慮してね)」が必要以上に溢れている世の中になったことは確かだ。
誤解のないよう述べておくと、当然社会的に十分以上の(例えば違法な仕打ちなど)をされた人が必死の訴えでそう述べるのは重要なことだ。そして人生の中で「傷付いた」経験は各員日々生じているだろう。
もしかしたら元増田は「傷付いた」で周囲を困惑させるある少数の人々の振る舞いが気になっているのかもしれない。
じゃーこの増田&ブコメから何を考えればいいのだろうか。せっかくの秋の近く火曜日。何かちょっとでも考えたほうがいいような気が、私はしている。
元増田が雑だけど訴えている通り、確かに「傷付いた」カテゴリになんでも放りこまず、もう少し考えるってのは大事かも、と思う。
ブコメでも、自分が「傷付いた」と感じるときはどういう時だろうか、と考察している方がいる。
「傷付いた」を一度解きほぐすことは、確かに自分の生活の心理面を考える上で役立つかもしれない。
同時に「ムカつく」「ビビった」も解体してみるといいだろうし、「怒り」「安楽」など当たり前にあるような言語で示される感情の、それぞれの内実を省みることは、きっと生活上重要と思う。
「いつかの休日、野山を散策していたら大きな栗を抱えた一匹のリスを目撃した。」という事実があったとして、果たしてその話題は日の目を見ることがあるだろうか、という事を思案する。
「栗の実をほおばる栗鼠の姿を描いた絵画」は果たして公開されることが許されうるのか。「栗と栗鼠」という題を避けたとしても、コンテクストの批評性からは果たして逃れうるものなのだろうか。
リスは「栗鼠」の音読みである。栗とリスはかように関連性の高い語句であって、栗とリスの語句は決して忌避されうるものである筈がないのである。しかしながら、この「陰核」なるものを想起される
事を回避する手段が完全に奪われて久しい令和の世に於いては、この栗とリスはもはや暴力であるかのように我々日本語話者の脳細胞に直接作用せしめ、思想とは無関係に女陰のある一点
のイメージを否応なく上書き破壊し脱構築してゆく。嗚呼このおぞましき精神的DVたるや、何故に大きな栗の木の下で遊んでいるのは二匹の可愛らしい栗鼠であってはならないのか。何故に
バカにしてるとかじゃなくてマジで闘って欲しい まずは女性解放とかLGBTQでいいし俺が生きてる間じゃなくていいけど、とにかく労働と闘ってくれ
だっておかしいだろ 「気付いたら生まれてた」としか言えない状態なのに時間経過とともに勝手に「成熟した」ことにされて、お前はもういい大人だ、お前を育ててくれた社会に報いるためにも自己責任において金を稼げ!って社会が言ってくるんだぞ
「やりたいことだけやって生きようなんて甘え」みたいなのが普通に受け入れられてんのダメだろ いやこれまではそうだったのかもしれないけど、そういう規範みたいなのを壊していく 脱構築?っていうのがフェミニズムの根幹にあるらしいじゃないっすか
出番っすよ
「スカイウォーカーの夜明け」については、ほぼこの記事に同意。
【ネタバレレビュー・批評】『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は何を終わらせたのか
では、続3部作は、何をしようとしていたのか。
今回、「スカイウォーカーの物語が完結」と、さかんに宣伝しているけど。
それはフェイク。
そもそもスターウォーズは、1983年にエピソード6の「ジェダイの帰還」で完結している。
だから、新三部作(プリクエル・トリロジー)は、前日譚を描いているわけで。
今回の続三部作は、「ジェダイの帰還」で終わっていなかったことにして始まっている。
ちょっと意匠を変えて悪の帝国を復活させて、レジスタンスは、まだレジスタンスのまま。
旧三部作と新三部作は、よくも悪くもスカイウォーカー家の物語でありすぎたからね。
スターウォーズ・ユニバースを拡張・発展させるためには、それを脱構築(?)する必要があった。
続三部作が作品として成功しようが失敗しようが、メッセージは明確だよね。
三部作ずつ描くというスタイルからも抜け出して、もともとの構想にあった連続活劇 - Wikipediaになったんだ。
続三部作の行き当たりばったり具合は、結局そこを目指していたんだ!
今回、スカイウォーカーの物語は区切りがついたので、「ハンソロ」みたいな中途半端なキャラの復活は必要ない。
いっそ、フォースも忘れ去られた、さらに数百年後とか描いて欲しい。
あれだけの科学技術があるんだから、もともとの素質と厳しい修行の必要なフォースは、機械仕掛けで置き換えて。
科学に裏打ちされた風の、超大作スペースオペラ連続活劇になるのだ。
ファンは、必ず観に行くよ!
中島: ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
色即是空というとニヒリズム的な響きがあるが、ニヒリズムといえばニーチェである。
科学的知性や理性によって神を殺した我々は、もはや神によって与えられた生きる意味や価値を信じることはできない。
そうして無意味になった人生に対して、彼はニヒリズムの打倒を叫び、生の肯定を要求した。
大乗仏教の色即是空から空即是色へという流れはこれに似ているようにも思える。
もしかすると次のようなことが言えるかもしれない。
仏教とは、あらゆる物語を剥ぎ取った上で展開された思想である。
色即是空的な宗教的真理に基づき、初期仏教や上座部仏教は現世からの解脱を志向し、大乗仏教はあえてこの世界で生きようとする。
仏教は物語の喪失の彼岸にある思想であり、神の死を乗り越えて生み出された価値である。
なるほど
でも、ならお前は率先してNL注意って言ってるんだよな?といつも思う
異性愛のほうがよっぽど気持ち悪いと、もし私が言ったら理解してくれるんだろうか?
苦手な人もいますよね、と注意書きをしてくれるか?腐女子や百合豚がしているように?お前も?
町中でイチャつくな、嫉妬乙?
うるさいよ、私は本当のことを言えば、三次元の人間が異性同士でくっつこうが、同性同士でくっつこうが、特段興味はないが
異性愛は警告なしにいきなり飛び込んでくる
私は黙ってそれを見ていられる
それをたまたま、同性愛に触れてこなかった人間だけ、注意しろと喚けるなんて、なんて贅沢なんだろう?
誰が恋愛しようが構わないが、その態度にだけ腹が立つ
慣れろよ、お前も すべて許せよ、
もしくはすべて隠せ、恋愛のすべてを隠せ
異性を愛したい人間が、何故同性愛を認めないのだろうというのは疑問で仕方がない
異性を愛したいというのは、つまり異性は自分と同じ人間ではないとでも思っているのだろうか
なんでかつて身分制度があったかって、より下を見なければ耐えられないからだろうけど
同じことだろ、結婚率を維持するために、性的分業をして、同性愛差別をして、独身を見下げて、そんなに努力しないと異性と結婚ってできないか?
そんなに異性と過ごすのは苦行か
かわいそう
そうしなきゃ社会が存続しない?ふうん
人を愛する心は素晴らしい?ふうん
「異性としか添い遂げられない社会」では、「異性同士も愛し合えない」の、わからないのか
「同性とは恋愛しない」「いい年になったら結婚する」のが「普通」なんて前提で、異性と結婚する道を"選択した"なんて、どうして言える?言えないだろうが
それが一番質が悪いんだよ
「男性には本能がある」から「男性は痴漢や強姦をしてしまう」へえ
どっち?
女性よりも高等なのですべて担います、もしくは本能も抑えられない低俗な生き物なので女性にすべて委ねますのどっちかにしろよせめて
どっちも間違ってると思うよ
それじゃ何時代に生きているつもりなんだろう?
ステータスばかり追い求めて
どうしたら本当に人を愛せるのか、
考えないの?なんで?
……どうして愛を求めて、幸せになりたがるのに、愛や幸せが何なのかは考えないで生きていられるのか、不思議だよ、私は
ゴールも知らないで走り続けて、
敵も知らないで刃物を振るって、
自分が傷付かないのか?それ。
「何考えてるんだ」と怒られる人間、
総じて、何も考えていないんだよな
はあ 寝よ
最近ホットになった話題で例をあげると「ゲームとかファンタジーでおばさんキャラがいない」という話題。
もちろん指摘はその通りなのだろう。そしてそこには現代社会が抱える女性像が反映されている。社会学だとかフェミニズムだとか言われるような問題が横たわっている。
私の言いたい事は、知らぬ間に諸メディア形成されたイメージ偏り、あるいは社会において形成される「生きづらさ」などの構造をただ指摘する、それだけでは不十分だということだ。
メディアに表出されるイメージに改善点を見つける。違和感を見つける。営為としてよろしいことだ。ただ、それだけでは駄目だ。つまり「あれがおかしい、これがおかしい。ポリティカルコネクトネスに反する。」というだけでは駄目だということ。
なぜ改善すべき事態が起こっているのか? どうしたら改善できるのか? 改善すべきなのに、なぜ出来ない現状があるのか?
これらを考えなくてはならない。実現するかはともかく、考えることが大切だ。
既成概念の誤りや不十分さを指摘するのは簡単なことで小学生でもできる。脱構築は簡単なことだ。気付きさえすれば表出できる。
しかし難しいのは再構築の方で、では、よりよく改善するにはどうしたらいいのか? これはなかなか難しい。難しいからこそ考えなばらなないし、難しいからこそやる価値がある。
おばさんキャラの話だと、ブコメで事例があがっていたり、おばさんが登場するこういう話なら面白い、などの指摘があった。肝要なのはこうした思考を持つことで、ただポリティカルコネクトネスの齟齬を指摘するのでは不十分だということ。
最近のネットでは、誤りを指摘することだけで仕事した気になる中高生みたいな連中が(中高生含めて)多すぎる。その向こう側にある「なぜ?」あるいは「改善するにはどうすれば?」の再構築こそが大切なのだ。
いまどきのデザイン業界って知識も教養も基本デッサン力もなくて、
「コミュ力」で適当なことやって売れたらOKみたいなイメージある。
オリンピックのエンブレムとか、どうみても、墓標であり、落日であって、
昂揚感とか平和と繁栄とか飽くなき挑戦とか祝祭とかそんなイメージないよね。
佐野氏だけじゃなくて、
他の有名若手デザイナーの皆様の作品で立ち止まってにやにやする、みたいな
文原聡の低燃費少女とか醜悪だったし、佐藤可士和のウイダーinゼリーなんかもやっつけ感
半端なかった。
ここ20年位の悲劇は、デザインを裏打ちする哲学や大きな流れが貧困になっていることで、
愚民から100円ずつ携帯で掠め取るとか他人の作ったコンテンツを劣化再編して
アフィリエイト広告貼って楽して金儲けしたものが勝ちとか、そんな流れになっているなぁと思う。
安い仕事は下っ端にやらせてネットから切り貼りしてくていかに手をかけないかライフハックだ!
みたいな。
以前モダンだ、モジュールだ、システムだ、実存だ、ポストモダンだ、脱構築だ、ホリスティックだ、オーガニックだ、複雑系だ、
って言ってたのが
今はコミュ力だ、ネット拡散だ、みたいな安いものに劣化してる。
フーダニットが好きだ、ハウダニットが好きだ、ホワイダニットが好きだ。
クローズド・サークルが好きだ、と延々と続けてもいいが、このへんにしよう。ヒラコーすげえな。
さあ、犯人探しをしよう。
ある程度物語が進むと、大抵はワトスン役が事件のあらましを振り返る。
新しい日本というシンボルであり、世界一の場所であり、オリンピックに対する日本という国の象徴を込めようとした。
字面そのままの国威発揚であり、ランドマークでもって日本の存在感を示す、土建の極北でもあった。
まず、当時とのドルベースでの日本円は、1.56倍となっている。(78円→122円)
1300億円を1.56倍すると、2028億円となる。
これが、ザハ当初案では3000億円規模と言われていた。ドルベースでも1.5倍。
国家を上げての景気向上と、建築難易度と、見込み違いのダブルアップで2.3倍程度に膨らんだ。
さて、3000億円、規模縮小圧縮しての2520億円の目眩ましが見事なミスディレクションとなっている。
1300億円でスタジアムを一つ作るというのは、適切な金額だっただろうか?
1300億円の予算を組んだ首謀者は、誰だっただろうか?
ザハ・ハディッドは、第一級の建築家だ。脱構築主義建築家としての。
ザハが実力で現在の地位を勝ち取ったことは留意する必要がある。
つまり、コンペでのザハ案は魅力的に見えることが多いということだ。
ザハの案は、脱構築主義建築と呼ばれる枠組みの中では、一級品と言える。
さて、国威を示すために、世界一のナニカをつくろうと決めたのは、誰だろうか?
日本的な何か、機能美的な何かではなく、建築物の美しさを求めたのは、誰だったろうか?
実は、建築関係者が諦めとともに眺めているのには、3つ理由がある。
1964年の東京オリンピック時に、国立競技場こと国立霞ヶ丘陸上競技場はかなりの突貫で作られている。
当時の施工技術と環境を考えると、延命措置は結構無理があると想像できる。
また、コスパ最優先の「機能仕様を満たした競技場」とは、全く違う建築物だろうというのも想像できる。
なので、ザハ以外のどの案が選ばれたとしても、1500億円を下回ることは無かっただろう。
そして、「これ建築難易度高いと思うが」と言う地べたに近い建築家の意見が「アドバイザー」扱いされるコンペだ。
優先順位は明確であり、そうしたコンペはそれほど珍しくはない。
さて、「一番いいデザインを頼む」と言われた建築家が、ドリームデザインを選ぶのは、必然だ。
ラグビーワールドカップ向けの良いヤツを!オリンピックに恥ずかしくない良いヤツを!
そうした、「新国立競技場を決める参加者」の、誰のデメリットにもならないという、不気味な状況になっている。
本来、大学入学祝いに好きなの選んでいいぞって言って息子がベンツCクラスを指さした時には殴るのが親父の努めなハズだ。
例えば、キミが富士鷹ジュビロじゃなかった藤田和日郎のファンで、アニメ化をアレコレ言う立場になったとしよう。
様々な候補の中から、やはり「うしおととら」だと決定した所で、ではどう削るか、という話になったとしよう。
いくらなんでもアニメ化するのにメインである白面の者との戦いは削れない。
前半のクライマックスであるうしおの髪を櫛ですく盛り上がりの為には、各地の少女のエピソードは削れない。
藤田和日郎の連載作家ならではの回り道しがちな癖が絶妙なバランスで拮抗しているが故に、どのエピソードも削り難い。
で、予算が青天井で、必要なエピソードを必要なだけ盛り込む係だとしたら、削る理由がない。
でも、本来は予算配分を考えてリソースを誰かが管理すべきなのだ。
どうやってもこの尺では入らないと、誰かがハサミを入れないと、作品はまとまらないのだ。
押井守みたいに、与えられた予算と期限内で作品を上げるために容赦無く切っていく監督というはむしろ例外的なのだ。
さて、ここからは挑戦状だ。
「新国立競技場基本構想国際デザイン競技」と呼ばれるコンペは、何を目的にし、何に対して責任があるだろうか。
「新国立競技場の建築予算」に対して、予算配分を決めたのは誰で、何に対して責任があるだろうか。
文科相やコンペ審査委員長にスポットライトが当たる中、隠れているのは誰だろうか?
ザハ案が膨らんだ時点で「拒否すべきだった担当」は、どこの誰だっただろうか?
問題点を切り分けるための、簡単なヒントを挙げておこう。
それぞれ明確な責任者が居るが、キミに見つけられるだろうか?
この件とか
むろん痴漢冤罪の裏には本物の痴漢と痴漢被害者としての女性がいるのだとは思うが。
しかし電車という使用頻度の高いインフラの中で人生が簡単に終わってしまうリスクを考えると、そうのんきな事も言っていられない。
ある場面では完全に被害者だし、別の場面では他人の人生を指先一つで左右できるほどの強者でもある。
弱者としての女性には非常に心強いが、どこまで行ってもその権利拡張は終わらない。
システム的にそういうものが用意されてないから、女性がある面で強者になっても権利拡張は止まらないし、むしろこの権利拡張がフェミニズム自体に資する形で加速度的に力を増す。
一方で依然残る女性の弱者としての側面は放置され、解決されない。
弱い点がある分、より拡張が容易な既に強い部分で補填しようとするし、女性の強者としての側面への反感がフェミニズムへの反感に繋がるのは一連の議論を見れば分かる通り。
女性の弱い部分はどんどん弱くなり、強い部分はどんどん強くなる。
こうして弱者とも強者とも言えない歪さがどんどん尖鋭化されていくことになる。
男性も結局のところそうなのかもしれないが、現代の女性について弱者or強者という素朴な二元論はなんら有効性をもたない。
それはフェミニズムの掲げる「女性は一方的に抑圧される者」「男性は一方的に抑圧する者」という素朴な対立構造も同じ。
実際には双方、抑圧しつつ抑圧され、弱者でありながら強者でもある。
男性にとっても女性にとっても、まず、弱者VS強者、抑圧VS抵抗、というあまりに単純過ぎる構造を脱構築するところから始めるべきではないのか。