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2023-06-10

チョムスキーによるポストモダン評(1995年

 提唱された「脱構築」については (この当論でも話題になりましたが)、コメントのしようがありません。なぜなら、そのほとんどは、わたしには、ちんぷんかんぷんみえからです。しかしもし、これもまた深遠さを認識する能力わたしに欠如していることを示す表れのひとつに過ぎないのだとしたら、次の指針ははっきりします: その結果をわたしにも理解できるふつう言葉表現し直してください。そして、それがなぜ他の人々が以前から長らくやってきてし続けていることと異なっているのか、より良いのかを示してください。三音節用語や、支離滅裂文章や、誇張したレトリックなんかは(少なくともわたしにとっては)大部分無意味なのですから。そうしたら、わたしの欠陥も治ることでしょう──もっとも、それが治るものならば。

 世の中には、わたし理解していないことも、たくさんあります──たとえば、ニュートリノには質量があるか否かという最新の議論だとか、フェルマーの最終定理最近 (おそらく) 正しいと証明された方法だとか。しかし、この五十年間のゲームからわたしは二つのことを学びました: (1)その分野で仕事をしている友人に訊いて、わたし理解できるレベル説明してもらうことができる。そして彼らも、それほどの困難もなくそれができる。(2)もし自分に興味があるなら、もっと学習を進めて、理解できるようになることができる。さて、デリダラカン、リオタール、クリステヴァら──フーコーでさえ。彼のことは知っているし好きで、他の人々とはちょっと違ったけれど──は、わたしにも理解できないことを書きますしかし、(1)も(2) もできなかったのです。自分理解しているという誰ひとりとしてわたし説明することができず、分からなかったところを克服して勉強を続ける糸口もつかめませんでした。

 とにかくデリダを取り上げましょう、大御所のひとりです。わたしは、少なくとも彼の『グラマトロジー』を理解できるはずだと考えました、そして、読んでみました。少しは分かりました。たとえば、わたし自身よく知っていて何年も前にそれについて書いたことのある古典的文献の批判分析なんかは。哀れな誤読に基づいた、酷い学識だと判りました。そして彼の議論は、以前と変わらず、わたし子どもだった頃から慣れ親しんできたような水準にも及ばないままでした。そうですね、わたしが何かを見落としているのかも知れません: あり得ることです、しかし疑いは残ります。既に書いたように。繰り返しになりますが、証拠抜きのコメント申し訳ありません。でも問われたので、応えているのです。

 この手のカルト(わたしにはそう見えます)の人々のなかには、会ったことのある人もいます: たとえばフーコー (数時間議論もして、出版されています。多くの時間は楽しく対話しました。現実の諸問題について、きちんと理解可能言葉で──彼はフランス語で、わたし英語で)、ラカン(彼には何度か会って、おどけて完全に自覚的ペテン師だと思いました。カルト以前の初期の仕事意味のあるもので、それについては出版したものの中で論じたことがあります)、クリステヴァ(彼女が熱烈な毛沢東主義者だった頃に、少しだけ会ったことがありました)、などです。会ったことのない人もたくさんいます。なぜなら、そういったサークルからとても疎遠なところにいますから。選ぶとしたら、まったく異なる、幅広いところを好みますから──そういったところで、講演に行ったり、インタビューを受けたり、活動に参加したり、毎週のように十通以上長文の手紙を書いたりしていますわたしは、好奇心から、彼らの著作を手に取りました。しかし既に述べた理由から、それほど深入りしませんでした: 大仰に虚勢をはりながら、検証してみれば、大部分は単に無知なだけだと判りました。わたしのよく知っている(なかには、わたしが論じたこともある)文献を異様な誤読して、議論はいつも初歩的な自己反省の欠落したひどいもので、主張の多くは(複雑な饒舌で装飾されていても)当り前か間違っているもので、かなりの部分はまったくちんぷんかんぷんものでした。他の分野で自分理解できなかったところでするように続けると、上に挙げた(1)と(2)に係わるような問題にぶつかります。ですからデリダわたしの言う人々のひとりで、これが深入りしない理由です。

 フーコーの具体的な例のいくつかは (たとえば、18世紀刑罰手法など) は興味深く思います、そして、その正確さを調査するだけの価値がありますしかし、その「理論」というのは、他の多くの人々が何か深遠なものが絡むと装ったりせずシンプル表現したことを、異様に複雑にして膨張させたものしかありません。

 そして事実、どれも分かりきったことばかりです。こういった自明なことが興味深いのは、透けて見えるその原理ではなく、人々にとって重要な具体的な事例でそれ自体がどのように機能するかを示すことです: 介入や攻撃搾取テロ、「自由市場」の詐称、など。こういったことはフーコー著作にはみられません。わたし理解できる文章を書き「理論家」として知識人界に属していないような人々の著作には、たくさんあるのですが。

 そのシンプルで慣れ親しんだ考えから 複雑で思わせぶりなレトリックを剥ぎ取ったら「理論的構築物」という程のものは何もないということです。

 【https://rootless.org/chomsky/postmodern_cults】より

 ついでにチョムスキーによるジジェクラカン

たとえば科学であるとか、何であれまじめにやっている分野でなじみがあるような理論なんてのはジジェク仕事のどこを探したってありはしないのです。こころみに、ジジェクのすべての仕事のなかから結論の引き出せるような原則や、12の子どもに5分で説明できるレベルを超えるような経験的に例証可能命題を見つけ出してごらんなさい。あるいは、けばけばしい言い回しを言い換えることができるかどうか。私にはできません。だから、そういうはったりには興味がないし、ジジェクはそういうはったりの顕著な例だと思います。で、ジャック・ラカンについてですが、彼とはじっさいに知己があったんですよ。彼のことは好きでしたし、ときおり会いもしていました。ただ、率直に言って、彼はまったくのペテン師だったと思いますね。ラカンがしていたことと言えば、テレビカメラの前でポーズを決めることだけ、ですよ。パリ知識人の多くがやっているようにね。それで、なぜこういうはったりが影響力を持つのか。私にはその理由がまったく分かりません。そこには影響力を持ってしかるべき要素はぜんぜんないわけですし。それで、色んな人がそういう「理論」の重要性について私に説明するのですが、やっぱり理解できませんね。まあ、そういう次第なので、ほんとうは理論なんてないのにあるふりをする空疎なはったりには興味はないわけです。

 【http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/2544/】より

2010-07-21

http://anond.hatelabo.jp/20100721220741

それは記号学とか論理学の方だな。

「体系」を見る学問ソシュール以後しばらくは(もっと古くはグリム兄弟とか)こっちがメインだった。

でも、最近クリステヴァとかチョムスキーとか

「産出」の方が言語学メインになって来てるイメージ

言語によって語られる限界を規定するってのは、数学なんかも絡んでくるかな。ゲーデルウィトゲンシュタインみたいな。

言語学を語る」ってのは案外難しいことなんですよね。

 
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