はてなキーワード: 「日常」とは
「この世界の片隅に」まだ見ていないが評判はとても良い。今は100キロメートル離れた街でしか上映していないので、最近忙しいこともあってまだ見に行けていないが、2週間後には近くの映画館で上映開始するので、そのときには絶対に見に行こうと思っている。
「この世界の片隅に」は、評判を聞いたり、予告を見た限りでは出来には期待して良さそうだ。自分はこの世界の片隅にの原作ファンなので、あの素晴らしい原作を最高の映画に仕上げてくれた片渕監督には感謝している。
片渕監督の手腕を見込んで、勝手なお願いなのだが、片渕監督には是非「ヨコハマ買い出し紀行」を映画化してほしい。
「ヨコハマ買い出し紀行」は、地球温暖化で海面が上昇して、人類が緩やかに滅んでゆく世界で喫茶店を経営する不老不死のロボット「アルファ」の日常を描いた漫画作品だ。
人類が滅ぶ寸前という過激な環境の中で「日常」に焦点を当てているのは「この世界の片隅に」との類似性を感じざるを得ない。
現代とは違った少し懐かしさを感じさせるゆったりとした雰囲気も「この世界の片隅に」と非常に良く似ている。(実際に自分は「この世界の片隅に」を読んでいて「この作品ヨコハマ買い出し紀行っぽいな」、と思った。読む順番が逆なら逆のことを思っただろう)。
さらに「ヨコハマ買い出し紀行」は、海面が何メートル上昇したらどこが沈むか、といったようなことを綿密に計算して、それを正確に作中で描いていることでも知られている。関東付近の実在する景色もたくさん出てくる。この舞台へのこだわりっぷりは映画「この世界の片隅に」に通じるものがあるのではないだろうか。「ヨコハマ買い出し紀行」のような舞台の描写にこだわった漫画を片渕監督にアニメ化していただけたら、間違いなく素晴らしい作品に仕上がるだろう。
実は「ヨコハマ買い出し紀行」は2回OVAでアニメ化されていて、どちらも出来は良いのだけど、尺が短いのが非常に惜しい。「ヨコハマ買い出し紀行」のミソは、年を取らないロボットとどんどん成長していく人間や変化していく世界との対比だと思う。映画もOVAとさほど変わらない短い尺ではあるが、あの濃密な「この世界の片隅に」の原作を2時間の映画にまとめ上げた片渕監督なら、映画という短い尺でも「ヨコハマ買い出し紀行」のミソである人間の成長や変わりゆく世界を余すこと無く描けるだろうと確信している。
クラウドファンディングをやるなら投資するし、5年でも10年でも待つので、是非考えていただけないだろうか。
各界著名人をはじめとして数多くの人が気持ち悪いくらい絶賛しており「なんぼのもんじゃい」とばかりdisる気まんまんでみにいこうとしている人もそこそこいらっしゃると思いますが鑑賞にあたりひとつだけ留意してほしいことがあります。
原作のこうの史代作品すべてで通底していることでこれまでの映像化作品はそれをないがしろにしているために失敗しているというプロでも忘れてしまうほどの大事なことです。アニメ『この世界の片隅に』はそれを謹んで継承し丁寧に描いたので名作になったのです。そこを見逃すとあなたには凡庸な作品としか映らない大事なことです。映画代を損するところでした。
それは、「日常(生活)がすべてにおいて勝る」ということです。
映画やマンガの「ドラマ」を描くにあたり、往々にして日常はないがしろにされがちですが、こうの史代作品においてこの法則は絶対です。
映画内で、終戦後とっておきのための白米を食べようとタンスから義母が出しますがほんの少しだけ出します。「このあとも生活がつづくからね」と。
明日もあさっても生きていくためにゴハンを食べることを考えるというリアリティ。この場合のリアリティは物語に使役しているそれじゃなくて「日常」を送るための必要なモノです。順番が逆なんですね。日常 > ドラマです。
だからこの法則が頻繁に映画の「ドラマ」を阻害します。防空壕でキスするシーンは後ろから義母と義父に見られます。畑で海にみえる軍艦を描いて憲兵にみつかって叱られてるシーンで家族みんなが深刻そうな顔をしてるのはこんなドジっ子嫁がスパイ扱いされたことがおかしくてしょうがないのを必死でまぎらわせようとしたからです。
マンガではドラマドラマしたところは小さなコマで処理されてるから余計にドラマの感じが弱まるところがあります。こうやって「ドラマ」を徹底的にすかしてないがしろにしていく映画なのです。
それは圧倒的にリアリティなんですね。現実の葬式などみんな笑ってるでしょ? 大事な人が死ぬことはドラマだけどみんなドラマだけじゃ生きていけないしお腹も減るしお金もなくなるので笑ったり働いたりする。これは圧倒的なリアリティです。
戦中の広島の町を再現した。大和などの軍艦を精密に描いた。それもありますが、本作のリアリティのキモはここなのですよ。
それをどうみるかがポイントです。
同郷の水島が家に訪れたとき主人公に対して「普通」を連発していたように、主人公は懸命に普通に生きようとする。NHKの朝ドラのように反戦に目覚めることもなくまわりと同調しつつも普通に日常のレールに乗って日々過ごそうとする。
その絶対的なチカラを持っていた法則をもねじ曲げようとあらゆる手段で襲いかかってくる戦争。そこと日常との戦い。絶対的に強いと思ってた日常があわや崩壊しそうになる。
それに戦争の悲惨さや凄惨さを思わざるをえない。そういう作りになっているのです。
終戦後、台風がくる。焼夷弾で屋根に穴が開いたりしてたので家族そろって大わらわで明け方に「こんなに遅うにくるなんてのんきな神風さんじゃ」と大笑いする。
そう、でも日常は強い。虫や草花は戦争なんか素知らぬ顔して生きてるし、実は大多数の人間もそうだと。
こういう「ドラマ」が弱い物語を嫌う層は存在します。この作品が大勢の目にふれらるとそういう層もみてしまうのです。そして「しょーもない」とか明後日の方向で文句をいわれるのがしんどいのでこの文章を書きました。こういうことですよねって。
ここを留意して映画を読み、そして原作を読んでください。映画では語られることのなかった「ふたつの鈴」の音色を味わうとより日常の深みが増すと思われます。
1-1 序
情報空間でこれだけ匿名で思想が交換されているのに、その淘汰の中で哲学が生み出されるのは不自然ではないだろう。物理的空間に拘束されていた先人が、その環境に必要だと感じられた概念を生み出してきたように、物理的空間と情報空間に境界はない今の「日常」に、最適な概念の創出を理想に掲げた思想が生まれてしかるべきだからだ。逆に言えば、物理的空間に拘束されていた人々が生み出し且つ淘汰されてきた思想は、そのような外的環境における状況に最適なのであれば、現在の「日常」に当てはめるのには限界があるのだ。従って、物理世界と情報空間が統合化されつつある環境で存続する知性にとって最適な思想を、過去にとらわれることなく自ら模索するというのは現存の知性にとって急務であるとも言える。
1-1-1 情報空間と物理空間が融合化された社会における知性を対象とした思想の深耕、展開における前提条件
物理空間と情報空間の融合が前提の社会における思想を深耕、展開させるうえで増田をその場とする主要な理由は、その匿名性にある。つまり情報空間と物理空間が融合しつつある社会においては、ある思想を発した、または提起した特定の人間を神格化するというのは適切でないとの思想からだ。思想は往々にして人間に額面以上の価値を付加してしまう。そしてそれが多くの対立を生み出すのが常だ。だが、物理空間と情報空間が融合するという、従来では考えられることのなかった社会体系を人が享受しつつある今、この新たな社会体系においては人が思想を所有し、過去と同じような対立状況を生み出してしまうことは望ましいことではない。そしてこの発想自身、増田哲学における根本である。つまり、それぞれが匿名で考え方を晒し、取捨選択の中で淘汰されて生まれる思想を特定のひとが「所有」するという状態は生まれるべきではない。つまり 増田哲学において、その思想は物理空間、情報空間に関わらず「無所属」であるべきである。
更に言えば、生成される思想は、「静的」なものでなく「動的」なものである必要がある。たしかに思想の交換の中からは「不変のモノ」も生まれ得る。しかし、「更新」を前提にすることこそが、情報空間における相互依存が前提である知性社会においての哲学のしかるべき姿なのだ。
「更新」も前提にするべきものである。時代とともに、新たな情報が交換される中で新たな知がそこに統合される必要があるからだ。それこそが情報空間で生まれた「哲学」の所以である。
「拡散」、「改変」、「複製」、「転載」も自由だ。様々な、改変、解釈が行われていっても最終的に優れたものだけが淘汰されて残り、それが改めて集約されることで思想自体の「更新」へと繋がるからだ。
でありその均衡状態を念頭に、いずれそれを達成するために準拠しうる行動指標を示しうる思想を目指す。その本質的な部分は
恒久的視野からみた「大いなる良」を達成するうえでの「相互補完」
ということになる。「相互補完」とは各知性の「個」を尊重しつつも同時に「他」の存在なしには持続的存続はあり得ないということを理解し、「他」を「自」と実質的な「等価」として常時意識する状態を指す。そして、「大いなる良」とは、「相互補完」の意識が浸透した「個」が相互に、そして「全体」と連結することで、存在しうるあらゆる知性がそれぞれにとって最適な存続環境を作り出すうえでの均衡状態を持続的に維持することを実現する思想であり行動様式を指す。
増田哲学における「あらゆる知性」とは、物理的制約に縛られている存在、すなわち「限定知性」(以下、前述の制約に存在する知性について言及する場合のみ限定知性と呼ぶ)に加え、物理的制約から解放された知性の存在をも内包する。現段階においては、物理的制約から開放された知性が存在するという確固たる立証は存在していない。ただし、そのような存在が悠久の過去における一時期、もしくは未来永劫存在し得ず、且つ時間軸、空間軸並びに次元を超えて介入し得ないと断言することも否定する。また、これらの知性は「大いなる良」というあらゆる知性の理念達成の名の下に、間接または直接的に物理的制約に縛られ知性と交わる可能性も否定しない。これらを踏まえ、増田哲学において、思想を深耕、展開させる際は、これら全ての知性の良を意識したうえで展開していく。むろん「全て」などという概念は無謀であるということを認識しつつも、それを理想とするということをここに付記する。
http://anond.hatelabo.jp/20160805213252
ネット社会が普通になったし、そろそろそれにあった思想とかがうまれても普通じゃね?ネットが無い時代にうまれた哲学っていうのは、ネットと現実がひとつになるなんてことを考えていたわけじゃないから、いまの時代とフィットするわけがないよ。だからネットと現実がひとつになった時代に生まれた俺たちがゼロから考えるべきなんだよ。これまでのことはとりあえず意識しないで。
増田なんだから、これは俺たちみんなのモノっていうことで。あと、みんなで考えるから、過去、現在、未来と常に変わらない考え方も出るとは思うけど、基本、バージョンアップされるのが前提だよね。ちなみに、基本的ポリシーは、「ここで生まれる思想はそれに関わる皆に所属するということ」、「常に更新されるべきということ」、「コピペ、改変、新解釈、拡散、すべて自由」。あとは、増田の住民がそれが正しいかどうかを判断するよ。
増田哲学をとりいれることで、人間も、宇宙人も、A.I.も、クジラ、シャチ、イルカなど独自の言語体系を持つ高等生命も全てがハッピーになればいいよね。お互い愛し合って。出来れば永遠に。
あと、ふつう、みんながハッピーにっていうといま生きているものが重要だけど、138億年以上もある宇宙の一時期、またはこれから未来永劫、時間とか空間から解放された存在が絶対に存在しなかった、または、存在することは絶対ムリとは言い切れないよね。あと、時間や空間から開放されるっていうことは、何らかの形で現存する世界に介入をすることも。分かってる。これはかなりぶっ飛んでるよ。でも、これまで生きてきた数十億という先人たちが伝承してきた存在、つまり神とか菩薩、精霊とか、グレートスピリットなどなどとかいう概念も単なる「迷信」とかで片づけずに、いろいろ考えていくよ。
今回はふんわりジャンプ
サイトのコンセプトの通り、感想を述べられる趣旨のモノではないので、気になったのだけ挙げてサラっと感想書く。恐らく、今後もふんわりジャンプを利用はするけれど感想は書かないと思う。ベクトルが違うのだから優劣を語るものではないのだけれども、現実の日常の中にある要素だけではエンターテイメントとしてはどうしても弱くなるなあ。
この人、私の知らない間に顔芸とかも挑戦するようになったんだな。
内容としては、良くも悪くも別段いうことないです。
というか個人的な事情なのだが、子育て系のエッセイ漫画はサムネイルだけで食傷気味なんだよ……。
まるで騒ぐのをやめたら受け手が読むのをやめると思っているんじゃないかってくらい、ネタの入れ具合が過剰だ。
4コマなんだから起承転結を意識したり、緩急をもう少しつけてくれたほうが、ネタの一つ一つも切れ味が増すだろうに勿体ない。
主役のネコサラリーマンが可愛くないビジュアルなのは、ネタのシュールさが増している感じがして、むしろよい(作者の画力的に、可愛いものが描けるかといえば微妙だとも思うが)。
ただ、当初の設定に依存しすぎたネタだから、少年ジャンプ+の「猫田びより」みたく横軸というかモブキャラでしっかり脇を固めないと、そう遠くないうちにネタ切れしそうな予感がする。
うむ、「日常」を謳歌している描写が丁寧で、登場人物の説明や人格も嫌味なく織り交ぜていて、読後感がよろしい。
というか数多ある日常系の漫画は、その実「日常感」を描くことがおざなりなものが多いので、こういう本来やるべきことをしっかり描いているのはすごく好印象。
アレなタイトルとビジュアルに反して、やってることが同サイトのおもち日和とカブってる気がする……。
メインキャラが全員目が隠れている造形は正解かもしれないな。
現実でもそうだけれども目で大分印象変わるから、あえて描かない事で他の部分で魅せようという選択肢としてアリだと思う。
まあ、話はもう毒にも薬にもならない感じで特にいうことはないけれども。
私もプー太郎経験あるけれども、このテの一番のポイントは「深刻さ」がないことなんだよね。
「働かない」ことでひもじい思いをするから働くのであって、「働かない」ということそのものに是非はないから。
漫画とかでよくあるニートの描写は、鬱屈とした部分だけ抽出して、それをデフォルメしすぎ。
そういう目線で見たとき、ニートをここまで緩く、危機感なく描いているというのは、むしろ現実的だとすら思う。
このまま出船番号ネタで引っ張るかと思いきや、最新話だと同級生の話とかも絡めてくるんだな。
誰しも色んなジャンルで経験ありそうだけれども、関心の度合いってものがあるから知識の押し売りはやめたほうがいい。
「へ~」くらいしか返しようがないし、かえってそのジャンルや語ってる人がヒかれる可能性がある。
話としては「あるある」なんだけれども、どうせ天丼ネタをやるならあともう1~2回くらいは繰り返して欲しかったかな。
最終的に主人公が当事者になってしまうというオチを持ってきたら、予定調和的ではあるけれども、話としては綺麗になる。
あと、アレだな、コミックウォーカーとかで読める「かふん昔ばなし」がネタ選びとか、それをどう面白く表現するかっていうことに気を使っているから、それとどうしても比較してしまう。
日常系アニメ(例:Aチャン、きんモザ)は基本的に解離モデルだ。
「日常」の性格と「ギャグ」の性格が解離しており、それを統合するメタレベルが希薄だ、そんな印象を受ける。
他方、ゆゆ式は「ギャク」の性格を包括するメタレベルとしての「日常」の性格があると思える。
ピンク髪の子がわけのわからんギャグを言って「今の、恥ずい……」と言ったり、どこか超然としたopなど、メタレベルの知覚への誘いに満ち満ちている。
(そうでない面もあるという指摘もあるだろう。その指摘は受け入れる。ただ「漠然と眺めて二分出来るよね」という話だ。)
そんなわけで、構造的にゆゆ式は他の日常系アニメと違う。そこら辺が、コアなアニメ層から受けた理由だろう。
そして、この「オブジェクト—メタ構造」は村上春樹の反復だと思う。
村上春樹の小説については、「オブジェクトレベルでは日常の些事に汲々としながら、メタレベルではそれらを超然と眺めていて云々」という批判(?)がなされてきた。
これはゆゆ式の構造に近いと思う。「オブジェクトレベルでは日常の些事に汲々としながら、メタレベルではそれらを超然と眺めていて云々」ゆゆ式の子たちではないか。
これはエビデンスゼロだが、ゆゆ式が好きな人たちは村上春樹に全然興味を示さない(好きではない)のも面白いことだと思う。
そんなわけで僕はゆゆ式が嫌いです。
NHKで特集の再放送があったんでまとめて見たら、けっこう面白いのを見逃してたよな気がしたんで書いとく。
http://animatorexpo.com/titlelist/
ちなみに1/31で一度だいたいの公開が一度止まるらしい。赤字プロジェクトのままらしいし、ちょっともったいないので感想を書いてみた。
エヴァ資料ちょいだし系とモヨコ(のマンガ紹介)は外した。正直わかんなくて項目を立てなかったのは「電光超人グリッドマン」「月影のトキオ」「偶像戦域」「ブブとブブリーナ」「ザ・ウルトラマン」「世界の国からこんにちは」「カセットガール」。エロい人解説よろ。
アニヲタってほど詳しくない、作画ヲタでもないので、なんか間違いがあったらツッコミ歓迎。
http://animatorexpo.com/thedragondentist/
冒頭の湯浴みシーンの水の質感がちょっと懐かしい。キャラの動き方も世代的には旧エヴァよりちょっと前、ナディアとか好きだった世代には嬉しい感じ。サントラの中に「雲龍」ってのが入ってるのは、出てきた軍艦は雲龍型ってこと?ミリヲタの人に聞きたいわ。あと和物ガジェットを少しずつ重ねていくことで和物ファンタジーにうまく繋げてるのがいいかな。
NHKで紹介されてた吉崎響×井関修一の監督×作監コンビだったのでこれも見た。前半は単にエロでしょと思ったんだけど女体が非エロなものとしてゲシュタルト崩壊していくのがいい。そのくせ幾何学模様もエロを連想させやすい形を維持しているのは、わかりやすく狙ってるんだろね。そこに至るまでを含めて見ると、どぎついコンセプトとは別にキャラの描線も美しいのが感じられてくる。早い段階で女の身体が襲ってくるモチーフが出てきたことで、序盤のエロが単なるエロではなくなった。その辺の流れの作りこみがうまい。
後半エヴァ風スーツで一人称シューターする感じとか、デザインそのものが新しいわけじゃないけどマイナーアップデート感があるね。最近の映像作品全般でもわりと出てきてる手法だけどね。
幾何学模様もエロというのは、その後に同じコンビで出た「GIRL」も同じ。あの舟を見下ろしてるのはコレだよねってのが分かりやすい。百合をクリオネみたいに生やすのはなんでだろって思ってたんだけど、終盤に対応するシーンがあったかな。
再編集で出た「ME!ME!ME! CHRONIC」はさほどでもなかった。だから「ME!ME!ME!」と「GIRL」さえ見ればいい。
女主人公の西部劇短編なんだけど画面に古いフィルム映画風のヨゴシを含めたカメラワークが特徴。隻腕ガンマンのアクションを網羅してるのも(・∀・)イイ!!
鉛筆書き風のは「かぐや姫の物語」があったけど、それで「南くんの恋人」をやるとスマホが意外と面白い表現手段になるんだなと思った。感情に応じた描線のゆがみもよいけど、最後の表情の微妙な変遷がかなりよかった。
見本市にはMusicClip的なつくりのものが結構あるけど、その中でも都市の描写がいい。おしゃれアニメって言葉は濫用され過ぎてるきらいがあるけど、こういう「都市に在りそうな物体」配慮の行き届いたのをオシャレって言ってほしいかな。
トップ推し。大型のなんかについての鈍重さの表現が、エヴァ周辺のあれこれだけでなくて、ここ数年の怪獣映画が気をつけつつあることとも呼応してるよね。『パシフィック・リム』とかね。
声優にハイテンションで喋ってもらう。こーゆーの好き。風刺モノっていうのは要点をわかってるほど基本付き合うのがタルいので、タルくない速度でやるならこのくらい早回しで作る必要がある、ということを確認させてくれる。これから見る人に言っておくと、英語字幕つきで見たほうが会話のリズムがわかっていい。
ここまで完全に言い忘れてたけど、「見本市」作品の男役はみんな山寺宏一、女性系の役はみんな林原めぐみ。この二人の声優が全作品で演じ分けてる。そういう契約なんだろうか、確認してないけど。作品は好き好きだろうけどこのことがわかるとヲタ的に楽しみ方が広がって、いいよな。
今石監督作品。「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」とか「キルラキル」とかにあったうち一部の部分をさらにどストレートな方向に圧縮したようなやつ。煮詰め方は凄いけど、推せるかっていうとわからないな。
わかりそうでわからない。中毒になる人はなるんでは。それはそれとして細かい演出が結構凄いんじゃないか。だって「イカ娘」と「日常」と「九井諒子短編集」が全部入りな上でエヴァ系の知財を使えたら、まあこうなるよなって。今更めぐ姉でそういう企画できるってのはつくづく良いプロジェクトだよこれは。おかわりいただけるだろうか。「そうそう、艦これの雪風二次創作を消費してる時の俺らってこういうの見たかったよね」みたいな。おかわりいただけるだろうか。
ミステリと時間SFとをショートショートでやったってところ。筋がさほど捻られているわけではないけど、男の指の滑らせ方の演出が殺人と性欲(と愛情?)の狭間を漂っている。オチが文字通りの文脈依存なまま終わるのもショートショートとして(・∀・)イイネ!!
安野モヨコのデザインしたキャラで四季を表すコマ撮りアニメを実演してる。コマ撮り用の素材のチョイスもいい。
すしお絵でこういうのやるの、かわいいに決まってんじゃん(ももクロZのもそうだったよ)、というのがファーストインプレッションだけど、まあ密度が高い。押し合いへし合い口撃戦のところとか良くね?良くね?
さかき漣「顔のない独裁者」って小説が元らしい。エヴァやジブリってよりは大友アニメや押井アニメの大きな流れで見た方がいいのかな。政治を扱ってることそのものよりは政治と性的不能とを安易に直結してしまうところに「いまどきこれはないでしょー」な筋悪さを感じる。原作をみてないからアニメスタッフにどこまで責任があるのかわかんないけどね。でもねこういうの好きだよなみたいな共感もあるよね。
クレジットを見ると監督が平松禎史さんってことで。彼の関わってる寄生獣アニメ化は全体的に良かったし、こういう方向でももう少し長いのをやってくれるのかなという期待を持った。
俺屍をやってた当時の俺の頭ン中は終始こんな感じだったな。スキスキダイスキ。ただ他の人にとっても良いかどうかはわからん。
盛々のグロ要素に対する薄暗い欲望と、あと昨今の劇場版アメコミ映画で金払って数時間座らされて「なんだこれっぽっちかよ」、みたいな気分にさせられがちなイライラの、どっちも手短に上手に昇華してくれてありがとう。
中盤くらいからカウボーイビバップ直撃世代が泣く展開になってるんだよ。わかってくれるか。老害ですまんな。マジで。
校舎内で上條淳士絵の美少年が空想のフィギュアスケートで踊りそのまま成長して表舞台に、というだけでもう楽しいでしょ〜。
ただ幾つかフィギュア素人なりに疑問に思うところもあったかな。男子シングルの練習をしている主人公が妄想にしてもいきなりペアの技を繰り出せるのかとか、ジャンプ後の着地がイマイチそれっぽく見えない瞬間があるとか、そういうトコね。ただ今後フィギュアスケートのアニメとかが出てきた時にこの短編はなにかと作例として見直されるんじゃないかな。
感心の方向としては「坂道のアポロン」の運指にちょっと近いものがあるね。
作品それ自体の好みを抜きにしてネタのゴリ押しで大爆笑させてもらえたのはこれが一番だった。B級映画を見慣れてる人ほど笑いとして刺さるんじゃないかな。「エヴァのTVシリーズは前半でしょ」と言いたがるタイプのアニメファンにもどうぞ。
冗談はさておき、他の作品も広い意味ではエヴァその他のIPを使ってるのに一番半端な知財の使い方で、やらなくてよかったことなんじゃないのこれっていうのが残念。最後の数十秒の良さも音響のおかげというところがあるし、これの目指すエモさは本当はエヴァじゃなくてよかったんじゃないの。
これ自体がそこまで悪いってわけじゃないんだけど、パロディを取り混ぜた知財の使い方でとりわけ上手だったのは「おばけちゃん」だったから、比べてしまうね。
どうしようもない好色のロボの話ではあるので最初は見かけた時不愉快だった。だけど見直すと、作画の良さが際立ってることは間違いない。それだけ取り出して褒められるかどうかというのが、こういう好色バカを扱う作品の難しさだね。
この作品に限った話じゃないけど、そーゆーポリコレ関係(ジェンダー論とか差別とかどうこうってやつね)がクリアできてないのは「見本市」にはむしろ多くて、さすがにこの貧相さで大丈夫かなと思わなくもない(映画もそうじゃん、とか言ってる人はごく最近の映画を見てない不勉強な人間なので無視するよ)。もっともね、そーゆーポリコレのズサンな点が気になりだして作画や造形が評価できなくなるのはよくある落とし穴なんだけどね。ハマるよね。
ジェンダー論ガン無視していい作品作ろうと思ってる作り手と、ジェンダー論だけやっておけばそれだけでいい作品語りができると思い込んでる語り手と、どっちも怠惰さで言やどっちもどっちだけど、四分六で後者の方がやや罪が重いかな。映像の良さをしっかり語れる作り手と語り手がジェンダー論にも手を抜かないくらいがちょうどいいね。
結論としては「POWER PLANT No.33」「おばけちゃん」「イブセキヨルニ」が推し。次いで「ME!ME!ME!」「I can Friday by day!」「ENDLESS NIGHT」「ヒストリー機関」あたりが良かった。異論は認める。
某アニメがEテレで再放送されるってんで話題ですが、まあ他にもこれいけるんじゃね?ってのはありますよね。
まああの局昔からいろいろアニメ放映してるんで、そもそもNHK向きってのが何なんだよって話ではありますけど。
んでまあ子供が見てもよさそう、健全そう、っていう作品をいくつかピックアップしてみました。(健全ってなんだ)
これはもう有名すぎるほど有名な競技かるた漫画ですね。NHK的にはCCさくらで有名な浅香守生監督作品でもあります。
いわゆる「スポ根」ものであり、老若男女に自信を持って薦められる傑作です。
マンガのアニメ化としては文句なしといえる出来で、素晴らしいです。
ていうかなんで日テレはこれを全日帯で再放送しないんですかね。金田一の枠にちはやふる放送してくださいよって前から思ってます。
これまた有名すぎるほど有名な少女漫画。そしてこの作品、ものすごいピュアというか、めちゃくちゃ「健全なお付き合い」してる恋愛漫画です。
最近は子供が見れる時間帯での少女漫画アニメが減りましたね。少女向けアニメ自体は元気なんですけどね。基本的に玩具販促モノがメインです。
たぶん商売にならないんでしょうね。そういうときにNHKには頑張ってほしいものです。
他にも「神様はじめました」「暁のヨナ」などの花とゆめ作品とか、少女漫画のアニメ化も最近深夜が多くて、なんだかもったいないなあと思うところ。
一言で表しづらいなんとも難しい作品なんですけど、まあ「心温まる」系の作品といっていいんでしょうかね。
映画の「たまこラブストーリー」はわかりやすいお話なんですけど、こちらはちょっと面白さを説明しづらいですね。
こういう独特の雰囲気を楽しむ感じの作品ってどうにも魅力を伝えづらいところがあるんですが、NHKにも「おじゃる丸」「カスミン」のような独特な雰囲気を持った作品というのがあって、
京アニ作品だったら「日常」よりもこっちの方がNHK向きかなあと思ったりはします。
NHKというか学校の教材として使っても良いレベルの作品です。ただ、重たい話なので、中高生以上向きですかね。
航空自衛隊小松基地を舞台に、航空救難団小松救難隊の活躍を描いた作品で、航空自衛隊が制作協力をしています。
最近某アニメやらなんやらでいろいろと言われがちな題材ではあるんですが、綿密な取材によるリアリティを追求した描写は本当に素晴らしいの一言。
自衛隊アピールするんならこっちをもっと推した方がいいんじゃないかとも思うんですが、まあそれは置いておきまして。
「月姫」「神様のメモ帳」などで悪評が目立つ桜美かつし監督作品なんですが、これを見ているか見ていないかで評価はかなり変わってくるのではないかと思っています。
魔法少女もののようであり、ジュブナイルのようであり、SFのようであり、ガールミーツボーイな作品です。
視聴者の予想を裏切る展開が予測されがちになってしまった「魔法少女モノ」の中で、少女の成長をメインに最後まで真っ直ぐ綺麗に突っ切った作品です。
子供向けというか、子供に見てほしいって思えるような作品ですね。SF的な要素が少々小難しいですが感覚でなんとなく見れるようになっていますし。
ただまあ、大人が子供に見せたいって思うものほど、子供は見たがらないんですよね。
コミュニケーションが苦手な主人公・真田ユキが宇宙人のハルに釣りに誘われたのをきっかけに成長していく作品です。ボーイミーツボーイですね。
主人公のユキ君の成長の描写がとても良いです。釣りに楽しみを見出し、少しずつ仲間を見つけていく過程がとても丁寧。
夏休みとかに放送されたらとてもいいなあ、と思う次第であります。
P.A.WORKSが手掛ける、青春オリジナルものの第3作。少年少女の青春を描いた気持ちの良い群像劇。
「true tears」「花咲くいろは」と比べると爽やかさでは頭ひとつ抜けてます。合唱が題材というのもNHK向きなところ。
京都を舞台に、下鴨家という狸の一家とそれを取り巻く人間やら天狗やらを描いた森見登美彦原作アニメ。
なんとなくスタジオジブリを思い浮かべる人もいるかもしれませんけど、まあ当たらずも遠からずって感じではあります。
「家族もの」なのでアニメオタクというよりファミリー向けの作品なんですよね。
すごい面白いんですけど、深夜アニメビジネスには向かないよなあって作品こそNHKが取り上げるべきものなんじゃないのかとも思うところであります。
これまたニッチなところのチョイスではあるんですが、面白いんですよ。
「女性の社会進出」という観点から見ても面白いんじゃないかと。NHKって朝ドラとかでそういうの好きですしね。
この作品、けっこう時代考証がしっかりしておりまして、大正時代の描写が非常に丁寧です、NHK的にそれ重要。
NHK向きとかそういうんじゃなくて、普通にいずれ放送しそうっていう話。Eテレとかは無理としてもBSとかでね。
とらドラ!とかもあり得そうな感じです。現在セーラームーンとかベルばらとか放送してるんでいつかは深夜アニメもそうなるんだろうなという希望的観測。
始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。
馬鹿じゃねえの。
この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。
ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版を外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって身勝手な書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。
おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。
「元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義の告発者」だからな。
世間の感情と同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。
フザけんな。
非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。
元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。
俺が最も中川淳一郎の書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。
一応、元少年Aの言葉を引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。
(引用)
『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)
で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。
(引用)
あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分が悲劇の主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである。
「誰もが他人の人権を蹂躙することはできないから」 「殺された人に近しい人が悲しむから」
酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。
ハッキリ言って、頭にきた。
何も分かってないのはお前の方だろう?
人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。
確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪な殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。
だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。
どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。
それを、お前は踏みにじった。
「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分の意見」で踏みにじったんだ。
「人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。
でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?
他人が自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。
まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。
ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。
だけど、中川淳一郎。お前は違う。
お前は、婚約者を亡くしているんだろう?
正直、俺には信じられない。婚約者を鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手な書評を書くだなんて。
一応、読んでない人のために書く。
中川淳一郎の書評には、その昔、当時の婚約者が自殺で亡くなった件について書かれている。
そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。
これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者が自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。
ただ、その本が自殺した婚約者の本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。
中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。
これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。
自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれたときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。
もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。
そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。
当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎も引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。
(引用)
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」
この文章で注目すべき点は、二つ。
一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。
二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所から、あくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。
以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。
イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者の心の問題は半分くらい解決しているらしい。
おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的の書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。
というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。
そんなものが本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者は精神的に追い詰められていたのだろう。
普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。
「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医に相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。
『完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまったからだ。
その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。
一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。
そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。
そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。
それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。
何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。
中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場の人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。
婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。
以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。
「他人の言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。
それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者を自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?
にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。
自分の婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。
元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。
確かこんな風に勝手に決めつけてたな。
(引用)
「自殺する自由はある」 「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」 「命の大切さを伝えたい」
こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。
きちんと紹介文を読めば、この発言が的外れであることが第三者にも明らかだろう。
『完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。
婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。
そういう態度にこそ自分の婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?
元少年Aは外道だと、いまだに悲劇の主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。
だけど、ハッキリ言うぞ。
元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。
『完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?
「酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?
自分が婚約者の自殺の予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?
「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人に自殺された、可哀想な自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想な自分」を演出している元少年Aと何が違う?
「悲劇の主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。
他人の言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。
ハッキリ言っておく。
中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君。
お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。
『絶歌』という本人の言葉を封殺して、元少年Aの人格を否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。
かつて、どこかの誰かの婚約者を自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。
かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。
元少年Aのことをお前らは「殺人犯」だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。
正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。
本当にこの書籍の出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。
これが、俺の精一杯だ。
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。
汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。
面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。
自分の精いつぱいの物を。
然し、必ず、こはれるものを。
然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。
それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。
私が、私自身に裁かれさへしなければ。
たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分は前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である
しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする
前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ
それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。
クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。
これらの指摘は、全く正しいと思われた
"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う
私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない
しかし、自分は自分の表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ著「善悪の彼岸」
自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か
あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分が決断し、自分が選んだ」に過ぎない
決めたのは自分自身に他ならない
然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。
そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。
自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。
誰がそれを許したのですか。
許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」
「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観
主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか
荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。
この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。
強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。
対象a
人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。
他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。
経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。
単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。
満たされない欲動の向かうところ
詳しくはこれを参照して欲しい
求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分の意志によってすべてが好転する
「世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる
絶対的な依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である
母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)
成人した後は、形を変えて残る
人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない
「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」
幼児の頃の万能な世界や、絶対的な幸福、真理や真実と表現されるもの探し求める
絶対的な愛情は存在しないし、絶対的な幸福は存在しないし、絶対的な絶望も存在しない
しかし、人はそれを求める
逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間の尊厳を冒涜するエロ漫画を否定する事)は
主観としては作品そのものの力によって屈服させられたように感じられる
自分を駆り立てものはいつだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である
欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理を破壊する作品」に惹かれる
それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる
それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか
※1:投影
投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快な感情や性格を他者が持っているかのように知覚することである。
たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者に投影して逆に他者が自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である。
現実界
フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)
などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
象徴界
ラカンは言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。
これは自己と他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。
大文字の他者も言語活動の一部であることから、象徴界に属するものとして考えられている。
想像界
その正確な描写となると大変な労力を要するような対象と世界を指しており、
かつわれわれが頭で思っているものを言う。
新しい時代が来た。その謳い文句に何度心踊らされたことか。そもそも時代とはなんなんだろうか。新しいとはどのような感覚なのだろうか。日常を退屈に生きる僕たちには「新しい時代」という言葉にあまり慣れ親しみがないのではなかろうか。昨日と今日、今日と明日。なにが変わって行くのだろうか。この加速度的に進んでいくしかない日常をどう変えてくれるのだろうか。流動的でかつ加速度的に進んでいくしかない日常、それでもなお日常だ。その「日常」から抜け出ていくことはできないのだろうか。僕たちはまだ新しい日常をなにも経験していない。仕事に追われ勉強に追われ何かに追われながら生きている。「新しい時代」は日常なのか。そうでなかったら僕たちは悲しい。新しい時代なんていらない。僕たちは新しい時代よりも新しい日常を生きたい。
つまり、ドコモユーザーじゃなくても、誰でも月額400円でdアニメが見られるようになった
さっそく加入してみたところ、PCサイトは極めてシンプルなのに対し、スマホ用アプリは、情報量が多かった
このサービスは基本的にスマホアプリでの視聴者をターゲットにしているのだろう
Nexus7(2012)で、dアニメストアのアプリをダウンロードして「涼宮ハルヒの憂鬱」を見てみたが、快適に視聴出来た
「氷菓」「日常」「らき☆すた」など角川系が強いのと、「スラムダンク」とかノイタミナ作品とかいろいろある
バンタイチャンネル見放題よりも月額料金が安く、ラインナップも豊富、とりあえず作品一欄に目を通すことをオススメする
http://anond.hatelabo.jp/20140325193023
面白い釣り記事でした。追記された部分もブクマカーへの釣り針がたくさん。
でも、記事の拡散が済んだあとの追記だから、気付かれていないようです。
そこで、ここに引用して、もう一度ブクマカーを召喚してみましょう。
あとせっかくなので、ブックマーカーやブロガーへの僕の雑感も書きます。
(増田からのidコールは届かないみたいだし、うまく召喚できるかなー?)
もう目も当てられないつまらなさだ。
03/27 ブコメに返信
raf00
上手いことを言いたい欲だけでできているブコメは見てて気まずい。
meme-o
マーク・雑感バーグ
raf00と同じ。
cider_kondo
自分は店長のコンビニ話はそんなに面白いと思ってなかった。雑感や感想の方が面白かった。
こういう人がやっぱりいる。cider_kondoはあまり本を読まないだろ?
高名なプロが書いた小説でも、実体験ベースの文章って、それと分かることが多いよ。
ドヤ顔で浅いこと言ってんじゃねえぞ。
feita
”もちろん誰が何を書いてもいいんだよ”/なるほど、じゃあ「個人ブログに変な制約を求めるな」
コメント後乗せでお馴染みのfeita。
一番本質的なことだけを言えるように訓練したほうがいい。
B、上から目線での幼稚な主張
ブーメランは、文章単位でのツッコミを入れやすいので、良い釣り餌です。
上から目線で主張が幼稚、は特に「はてな」でのツッコミ獲得に向いた釣り餌です。
また、ファン・アンチが多いヒトへの未熟な認識を披露するのも、良い釣り餌。
ミクロに(個人的に)問題解決したいなら、
マクロに(抜本的に)問題解決したいなら、
アルゴリズムを批判し改善案を提出すれば良い。又はフィルタを自作して公開すれば良い。
言い換えると。
他人をすぐには変えらないから。でも自分とアルゴリズムはすぐに変えられる。
…というのが大人の考え方で、その逆をいくと釣り餌になります。
←文章力あるとの評価が高く、ファンが多かったヒト(後述)
②「id:raf00は上手いこと言いたい欲だけ」という断定。
←ポジコメ率が高いことや穏やかな語尾からも、上手いこと言いたい派でないことが明らか。
←後乗せイメージない。その日でもスラッシュあるコメは20%未満。
更に元増田へのブコメは、後乗せでなく引用部と順序入替の明確化が目的のスラッシュでは?
あと、神経質というより対人距離について繊細、と言う方が適切。大喜利職人は概して繊細。
④「id:cider_kondoは本読まないだろ?」という煽り。
⑤id:meme-oさんへの、「raf00と同じ」という断定。
←meme-oさんはコメ率が低く、タグのみの無言ブクマや引用のみが多いウォッチャー。
raf00さんと全く違う。
そして素直に言う分の言葉のアクをとるために、語尾で柔らかくしているバランス派。
一方のmeme-oさんは一拍置いたコメントするヒト。タグの顔文字「#|ω・)……」が象徴。
コメントも、「まぁ」「~かな」「…」が多い。皮肉コメを付けるのはよっぽどのとき。
⑤id:jt_noSkeさんへの、「あの駄洒落ブコメの奴はつまらなくて邪魔だな」という八つ当たり
←ノスケさんが喋った事件を参照。http://jtnoske.hateblo.jp/entry/2013/11/23/230829
『ノスケ師匠のブクマはダジャレ抜きにしてもそのチョイスそれ自体で非常に価値が高いって』
長文であること・身の回りの話もすること、くらいしか共通点ないです。
まずコンビニ店長さんは、オタク趣味ネタと教養人への憧憬が「はてなウケ」の源泉。
加えて、仕事や嫁への誠実さを表すエピソードや表現が人柄評価につながり、「一般ウケ」もある。(勿論はてなウケも上昇)
それらをバランス良く配合しながら複眼的な思考を順序よく見せる文体が、
このコンビニ店長に最も近いのはズイショさん。id:zuiji_zuisho
嫁エピソードによる人柄評価と、一文が長くなるかわりに両論を見せることでバランスを重視する、ってところは近似。
けど、ウケのメインウェポンは「比喩」と「反転」と「反復」。それで明確に笑いを狙ってるというのも大きな違い。
面白全開爆発。痔の話の記事。 http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/03/13/000000
リズム重視の文体実験の記事。 http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/09/07/214055
id:Rlee1984は、日常話にも棒グラフなどの図を入れ込もうとするところと、ネタの一切ないつまらない話が多いところがコンビニ店長と違う。
つまり、ウケの比率で言えば「ズイショーコンビニ店長ーコウモリ」の順。
あと、グラフ以外でも造語や専門用語による抽象概念を振り回すことが多いから、「日常」区分からは最も遠い。
日常話にもグラフを捻じ込む記事。http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/03/12/021134
専門用語をイジって振り回す記事。http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/02/22/224720
ごめんなさい、分かりません。(ブコメで誰かが説明してくれるのを期待)
なお、増田で「得体が知れない・感情がない」的な言及されることのあるid:topisyuさんは、
(これ前も言ったし浸透してきたと思うんだけど、まだまだ普及させたい!)
ブログでは真顔でジョーク言うヒトで、真顔でブチ切れするヒト。
でもリアルだと感情の動きも明確。エピソード記事を見るとハッキリ分かります。
・トピシュさんブチ切れ、の話。『こっちは完全にスイッチが入ってしまいました。』
http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/08/23/190331
・トピシュさんの感謝と謝罪、の話。『いつもありがとうございます。見えてないことも多くてごめんなさい。』
http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/09/03/132807
・トピシュさんの涙、あれがデネブアルタイルベガ。『惚気た上で、その動画を見て二人で涙したりもします』
http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/10/31/014134
ヒトに対して、「このヒトどんなヒトかなー?」って判断するのは難しくて楽しい。
だから、ホテントリに上がった記事だけで他人を決めつけて無闇にdisるんじゃなくて、
学校で学んだこと。
いじめられている奴がいじめの首謀者に反撃すると、周囲から激しく非難される。これは秩序を乱す行為だから。
いじめがある空間では、それが普通の事となる。それを変えようとすることは平和への挑戦とされ、反撃はテロリズムと同列に扱われる。
いじめをする奴の暴力はなぜ見過ごされるのか。それが制御された暴力だから。いじめ>いじめられという絶対服従の関係で一方的にふるわれる暴力だから、「秩序だっている」。それは平和とも言い換えられる。
いじめられている側がそれに反撃を試みると、暴力のベクトルが乱される。矢印が逆になるだけだが、いじめる側が圧倒的に人数が多い。覆される矢印の数も多い。だから乱れが大きいと判断される。そもそも暴力やいじめが間違っているという判断はなぜか下されない。繰り返し行われる事には適応してしまっているから。
言えるのは、どんな残酷な行為でも、それが定期的に行われると生活の一部として慣れてしまう。だから人に被害が出るような事はそれ自体が「日常」にならないようにしなければいけない。
問い合わせ内容は実にピンキリだが、私たちが担当するのは「利用規約違反サイト」、つまりスパムブログだ。一週間に削除するブログが仮に100あったとして、そのうち大体95個がアフィリエイト目的のブログとなっている。地域活性化のために提供している無料サービスなのに、地域とは一切関係のないアフィリエイトブログが雨後の筍のようにひっきりなしだ。頭が痛い。
たとえば、句読点代わりに改行が二つ加えられ、行間スカスカで繰り出されるポエム。最後に改行が三つ四つ加えられ、唐突に現れる「プラセンタ」というリンク。リンク先はもちろん、誰が運営しているかすら不明な日本語ドメインサイトだ。
あるいは、同じく地域と何一つ関連性がない恋愛日記。薄っぺらい恋愛記事中に何の脈絡もなく突然現れる「青汁」へのリンク。リンク先サイトにはやはり、誰が運営しているか不明な「○○研究会」という、きわめて架空臭い運営者名。
どんな輩が迷惑行為をしているのか、丁寧にリンクを調べて突き止めようとしたことがある。行き着いた先は、アフィリエイト業界の第一人者的扱いを受けている人間だったりした。唖然だ。
利用規約違反の迷惑行為をしている自覚があるからか、ほとんどのアフィリエイターはブログが削除されても文句を言ってこない。ただ、堂々と文句を言ってくる重症患者も稀にいる。発見が遅れたせいで、ポエムが既に10日ほど投稿されているようなケースだ。
曰く、「あれほど投稿してたのに、どう責任を取るんですか?」「しかるべき対応を取らせていただきます」等。迷惑行為に手を染めている自覚がまるでない。アフィリエイター脳ここに極まれりである。
馬鹿馬鹿しいので、地域活性化ブログの趣旨と利用規約を添えた定型文を送り返すだけにしている。ただ、たちが悪い人間には「社会人として真っ当な場で一度も働いた経験がないのか」「生まれてこのかたあらゆる意味で教育を受けたことがないのか」という内容の言葉を、オブラートにくるんで馬鹿を自覚させる。
登録メールアドレスやログイン時の回線から他に迷惑ブログを作ってないかも確認し、リンク先アフィリエイトサイトもリストに放り込み、以後はお立ち寄りできないようにして対応している。それでも、後から後から現れる。
一度も社会に出ずにニートからアフィリエイターに横滑りしたような人間は、何の疑問も持たずに迷惑行為に手を染めてるんじゃないだろうか。「アフィリエイトサイトを作ったら、まずは無料ブログでリンク付け!」という迷惑行為を一体誰が広めたんだ。ニートだか無職からの一発逆転サイトへリンクを付けてたキミ。迷惑行為が前提の時点で、すでに逆転は叶わないんだよ。逆転したかったら、胸を張れる方法で死力を尽くせ。
最近ではもう、新規ブログや新規記事のタイトルに含まれる語句を見ただけで、駆除すべきアフィリエイターブログだと大体わかる。「日常」「あれこれ」「ニキビ跡」「若返り」「むだ毛」「しわ取り」「青汁」「プラセンタ」等々。
彼ら彼女らの心中で、このような迷惑行為がどうやって正当化されてるのかを伺い知ることはできない。ただ一つ言えるのは、この類の人間が身内にいたなら、吐き気をもよおすほど嫌だろうなということだけだ。
先日、息子が私のパソコンでYoutubeを見ていた。私の閲覧履歴から、鉄拳の"振り子"の動画を見つけ、クリックした。私は数か月ぶりかにその動画を見て涙が溢れていたが、息子の眼差しがディスプレイから逸らされることはなかった。息子に気付かれないように涙を拭った。私が涙を流したのは、数か月前にこの"振り子"の動画を初めて見た時以来だった。
その次の日、娘が交通事故に遭った。家に居た妻とケータイで話しながら横断歩道を歩いていた際に、車に接触されたらしい。電話の向こうで何が起こったのか解らない妻は、電話で娘の名前を叫び続けた。現場で事故を目の当たりにされた方が娘のケータイを拾い、妻に状況を報告してくれたのだが、加害者は動揺して娘を自分の車で病院まで連れて行こうとしたらしい。妻は混乱しながらも私に電話をし、娘が交通事故に遭ったこと、足を怪我したこと、加害者が連れ去ったことを伝えてきた。断片的な情報しか受け取っていない私は、まだ記憶に新しい楽天社員による事件を思い起こした。
私は仕事を投げ出し、急いで帰宅した。家に妻は居なかった。後で聞いた話によると、現場の近所の方が救急車を呼んでくれて、加害者に連れ去られることなく救急車に収容されたものの、救急隊員に保護者の同伴を求められ、更には収容先の病院がなく、救急車はなかなか出発しなかった。その間に妻が現場に到着し、家で待機していた私に電話をくれた。電話から聞こえる声は、妻ではなく娘だった。少し話をして電話を切った。娘のはっきりとした口調を耳にして安心したのも束の間、その後の妻からのメッセージに「開放骨折」という言葉が入っていた。妻はそれが意味するところを全く知らなかったようだが、私はそれがどういう状態なのかをある程度理解し、娘は元通りには歩けなくなるかもしれないと覚悟した。
収容先の病院で妻と二人、担当医に娘の状況を説明される。いくつかの幸運が重なり、私が勝手に想像していた最悪のシナリオは否定された。しかし、最悪死に至るような合併症などのリスクはゼロではなく、まずは緊急手術をする事に同意を求められた。選択肢はない。ひとりの人間としてはまだ幼すぎる娘だが、事故からここに至るまで涙を見せることはなく、救急車の中で妻に会い、最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。2時間に及ぶ手術も無事に乗り越えた。ここまで本当によく頑張ったと思う。術後、ベッドに眠る娘を見て、私はようやく人心地付いた。気が弛み、涙した。私が2日連続で涙を流すことなんて、何年ぶりだろうか。
話は少し前に戻って収容先の病院に車で向かう途中、一台の救急車に追い抜かれた。病院の救急医療センターには断続的に患者が訪れてくる。あるいは救急車で運び込まれてくる。事件なのか事故なのかパトカーと警察官も来る。うちの家族に起きた災難と同じようなことが日常的に起こっていることを痛感した。手術が終わるのを待つ間に、警察署からは加害者が直接お詫びしたいと待っているという連絡があったが、会ってもこちらには何のメリットもないどころか自分の中で悪い感情が大きくなることが容易に想像できたため、面会を拒否した。この連絡で加害者には直接我々に会って謝罪する意志があり、まともな人間であることがわかったが、我々から見ればまともな人間などではなく、過失で娘を殺しかけたヒトゴロシのなり損ないに過ぎない。罵倒しようが殴り倒そうが娘の傷が癒えるわけではないし、やりどころのない気持ちを加害者に向けても何も解決しない。その一方、謝罪する機会を加害者に与えることすら拒否したいと考えていることも事実だった。
帰宅途中に警察署から再び電話があった。今回の事故が報道されるかもしれないという。記事になるかどうかは報道機関次第とのことだが、我々に記事掲載を拒否する権利がないなら何故わざわざ連絡をよこすのかと気分が悪くなった。この程度の事故なら日本中で嫌というほど起こっているだろうに。違和感を覚えながらも匿名を希望していることを強く伝えてもらうようお願いした。
事故の翌日、私は仕事に行き、妻は自分のスケジュールを調整して面会時間中はずっと娘の傍に居た。私も仕事を早めに切り上げて娘の元に向かった。点滴による薬投与のせいか発熱のせいかは判らないが、娘はずっと調子が悪そうに寝ていた。人間とは強欲なもので、事故を知った時には生きてさえくれればと神に祈り、娘の声を聞いた時には障害さえ残らなければそれで良いと思い、担当医に完治の見通しについて説明された時には傷跡が残ってしまうことを呪い、完治には十分な時間が必要と告げられた時には今後の予定が全て崩れてしまうことを嘆いた。ずっと我慢していた娘が、事故後に初めて泣いた。妻も私も泣いた。3日連続で涙を流すのはおそらく幼少の時以来になるのではないか。
帰宅後、今回の事故が新聞に載っていることを知った。加害者が報道されるに値するだけの人物だったのだ。なるほど違和感を覚えたあの電話は、こうなることを予期しての予防線だったのか。とある新聞では「重症」と記され、その言葉で妻はことの重大さをもう一度噛みしめてしまい涙し、別の新聞のWeb記事では「骨折」と記され、その言葉の与える印象の軽さに私は怒りを覚えた。娘は今後何か月にも渡り貴重な時間を不自由に過ごさなければならないのだろう。もし元通りに歩いたり走ったりできるようになっても、その傷跡が完全に消えることはないだろう。事故の瞬間を電話で聞いていた妻は、確実に寿命が縮まるほどの精神的なダメージを負ってしまっただろう。それ以外にも、私と妻が病院に通うだけの労力と、通院のための時間を使ってするはずだった経済的な活動、通院のために発生する周囲の人たちへの負担は、誰も補償してくれはしない。
あれから娘は順調に回復し、熱は下がり、点滴も外れ、食欲も出てきた。まだ入院中の娘の笑顔を見て、安心してしまっている自分がいる。過去に事故の加害者や被害者になったこともあり、車を何度もぶつけたことのある私は、自分がいつか今回の加害者と同等の立場に立たされる可能性、自動車を運転することのリスクを見つめ直した。また、被害者という立場に立たされ、被害者にしかわからないこと、「被害」とはどういうものなのかを身をもって体験した。その一方、家族の大切さを嫌というほど再認識させられ、また周囲の人たちからの温かい支援を得られることが嬉しかった。本当に貴重な体験だった。だがそれを学ぶにはあまりに高い代償であり、娘が元気に走れるようになるまでは、まだまだ多くの時間が掛かり、その間にも様々なことがあるだろう。
様々な葛藤を整理し、記し、公開することで区切りをつけたかった。
以上、今日までの出来事と、今現在感じていることを記録しておく。「娘が入院している」という「非常」が、「日常」になりつつあることに恐怖しながら。
先日、息子が私のパソコンでYoutubeを見ていた。私の閲覧履歴から、鉄拳の"振り子"の動画を見つけ、クリックした。私は数か月ぶりかにその動画を見て涙が溢れていたが、息子の眼差しがディスプレイから逸らされることはなかった。息子に気付かれないように涙を拭った。私が涙を流したのは、数か月前にこの"振り子"の動画を初めて見た時以来だった。
その次の日、娘が交通事故に遭った。家に居た妻とケータイで話しながら横断歩道を歩いていた際に、車に接触されたらしい。電話の向こうで何が起こったのか解らない妻は、電話で娘の名前を叫び続けた。現場で事故を目の当たりにされた方が娘のケータイを拾い、妻に状況を報告してくれたのだが、加害者は動揺して娘を自分の車で病院まで連れて行こうとしたらしい。妻は混乱しながらも私に電話をし、娘が交通事故に遭ったこと、足を怪我したこと、加害者が連れ去ったことを伝えてきた。断片的な情報しか受け取っていない私は、まだ記憶に新しい楽天社員による事件を思い起こした。
私は仕事を投げ出し、急いで帰宅した。家に妻は居なかった。後で聞いた話によると、現場の近所の方が救急車を呼んでくれて、加害者に連れ去られることなく救急車に収容されたものの、救急隊員に保護者の同伴を求められ、更には収容先の病院がなく、救急車はなかなか出発しなかった。その間に妻が現場に到着し、家で待機していた私に電話をくれた。電話から聞こえる声は、妻ではなく娘だった。少し話をして電話を切った。娘のはっきりとした口調を耳にして安心したのも束の間、その後の妻からのメッセージに「開放骨折」という言葉が入っていた。妻はそれが意味するところを全く知らなかったようだが、私はそれがどういう状態なのかをある程度理解し、娘は元通りには歩けなくなるかもしれないと覚悟した。
収容先の病院で妻と二人、担当医に娘の状況を説明される。いくつかの幸運が重なり、私が勝手に想像していた最悪のシナリオは否定された。しかし、最悪死に至るような合併症などのリスクはゼロではなく、まずは緊急手術をする事に同意を求められた。選択肢はない。ひとりの人間としてはまだ幼すぎる娘だが、事故からここに至るまで涙を見せることはなく、救急車の中で妻に会い、最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。2時間に及ぶ手術も無事に乗り越えた。ここまで本当によく頑張ったと思う。術後、ベッドに眠る娘を見て、私はようやく人心地付いた。気が弛み、涙した。私が2日連続で涙を流すことなんて、何年ぶりだろうか。
話は少し前に戻って収容先の病院に車で向かう途中、一台の救急車に追い抜かれた。病院の救急医療センターには断続的に患者が訪れてくる。あるいは救急車で運び込まれてくる。事件なのか事故なのかパトカーと警察官も来る。うちの家族に起きた災難と同じようなことが日常的に起こっていることを痛感した。手術が終わるのを待つ間に、警察署からは加害者が直接お詫びしたいと待っているという連絡があったが、会ってもこちらには何のメリットもないどころか自分の中で悪い感情が大きくなることが容易に想像できたため、面会を拒否した。この連絡で加害者には直接我々に会って謝罪する意志があり、まともな人間であることがわかったが、我々から見ればまともな人間などではなく、過失で娘を殺しかけたヒトゴロシのなり損ないに過ぎない。罵倒しようが殴り倒そうが娘の傷が癒えるわけではないし、やりどころのない気持ちを加害者に向けても何も解決しない。その一方、謝罪する機会を加害者に与えることすら拒否したいと考えていることも事実だった。
帰宅途中に警察署から再び電話があった。今回の事故が報道されるかもしれないという。記事になるかどうかは報道機関次第とのことだが、我々に記事掲載を拒否する権利がないなら何故わざわざ連絡をよこすのかと気分が悪くなった。この程度の事故なら日本中で嫌というほど起こっているだろうに。違和感を覚えながらも匿名を希望していることを強く伝えてもらうようお願いした。
事故の翌日、私は仕事に行き、妻は自分のスケジュールを調整して面会時間中はずっと娘の傍に居た。私も仕事を早めに切り上げて娘の元に向かった。点滴による薬投与のせいか発熱のせいかは判らないが、娘はずっと調子が悪そうに寝ていた。人間とは強欲なもので、事故を知った時には生きてさえくれればと神に祈り、娘の声を聞いた時には障害さえ残らなければそれで良いと思い、担当医に完治の見通しについて説明された時には傷跡が残ってしまうことを呪い、完治には十分な時間が必要と告げられた時には今後の予定が全て崩れてしまうことを嘆いた。ずっと我慢していた娘が、事故後に初めて泣いた。妻も私も泣いた。3日連続で涙を流すのはおそらく幼少の時以来になるのではないか。
帰宅後、今回の事故が新聞に載っていることを知った。加害者が報道されるに値するだけの人物だったのだ。なるほど違和感を覚えたあの電話は、こうなることを予期しての予防線だったのか。とある新聞では「重症」と記され、その言葉で妻はことの重大さをもう一度噛みしめてしまい涙し、別の新聞のWeb記事では「骨折」と記され、その言葉の与える印象の軽さに私は怒りを覚えた。娘は今後何か月にも渡り貴重な時間を不自由に過ごさなければならないのだろう。もし元通りに歩いたり走ったりできるようになっても、その傷跡が完全に消えることはないだろう。事故の瞬間を電話で聞いていた妻は、確実に寿命が縮まるほどの精神的なダメージを負ってしまっただろう。それ以外にも、私と妻が病院に通うだけの労力と、通院のための時間を使ってするはずだった経済的な活動、通院のために発生する周囲の人たちへの負担は、誰も補償してくれはしない。
あれから娘は順調に回復し、熱は下がり、点滴も外れ、食欲も出てきた。まだ入院中の娘の笑顔を見て、安心してしまっている自分がいる。過去に事故の加害者や被害者になったこともあり、車を何度もぶつけたことのある私は、自分がいつか今回の加害者と同等の立場に立たされる可能性、自動車を運転することのリスクを見つめ直した。また、被害者という立場に立たされ、被害者にしかわからないこと、「被害」とはどういうものなのかを身をもって体験した。その一方、家族の大切さを嫌というほど再認識させられ、また周囲の人たちからの温かい支援を得られることが嬉しかった。本当に貴重な体験だった。だがそれを学ぶにはあまりに高い代償であり、娘が元気に走れるようになるまでは、まだまだ多くの時間が掛かり、その間にも様々なことがあるだろう。
様々な葛藤を整理し、記し、公開することで区切りをつけたかった。
以上、今日までの出来事と、今現在感じていることを記録しておく。「娘が入院している」という「非常」が、「日常」になりつつあることに恐怖しながら。
先日、息子が私のパソコンでYoutubeを見ていた。私の閲覧履歴から、鉄拳の"振り子"の動画を見つけ、クリックした。私は数か月ぶりかにその動画を見て涙が溢れていたが、息子の眼差しがディスプレイから逸らされることはなかった。息子に気付かれないように涙を拭った。私が涙を流したのは、数か月前にこの"振り子"の動画を初めて見た時以来だった。
その次の日、娘が交通事故に遭った。家に居た妻とケータイで話しながら横断歩道を歩いていた際に、車に接触されたらしい。電話の向こうで何が起こったのか解らない妻は、電話で娘の名前を叫び続けた。現場で事故を目の当たりにされた方が娘のケータイを拾い、妻に状況を報告してくれたのだが、加害者は動揺して娘を自分の車で病院まで連れて行こうとしたらしい。妻は混乱しながらも私に電話をし、娘が交通事故に遭ったこと、足を怪我したこと、加害者が連れ去ったことを伝えてきた。断片的な情報しか受け取っていない私は、まだ記憶に新しい楽天社員による事件を思い起こした。
私は仕事を投げ出し、急いで帰宅した。家に妻は居なかった。後で聞いた話によると、現場の近所の方が救急車を呼んでくれて、加害者に連れ去られることなく救急車に収容されたものの、救急隊員に保護者の同伴を求められ、更には収容先の病院がなく、救急車はなかなか出発しなかった。その間に妻が現場に到着し、家で待機していた私に電話をくれた。電話から聞こえる声は、妻ではなく娘だった。少し話をして電話を切った。娘のはっきりとした口調を耳にして安心したのも束の間、その後の妻からのメッセージに「開放骨折」という言葉が入っていた。妻はそれが意味するところを全く知らなかったようだが、私はそれがどういう状態なのかをある程度理解し、娘は元通りには歩けなくなるかもしれないと覚悟した。
収容先の病院で妻と二人、担当医に娘の状況を説明される。いくつかの幸運が重なり、私が勝手に想像していた最悪のシナリオは否定された。しかし、最悪死に至るような合併症などのリスクはゼロではなく、まずは緊急手術をする事に同意を求められた。選択肢はない。ひとりの人間としてはまだ幼すぎる娘だが、事故からここに至るまで涙を見せることはなく、救急車の中で妻に会い、最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。2時間に及ぶ手術も無事に乗り越えた。ここまで本当によく頑張ったと思う。術後、ベッドに眠る娘を見て、私はようやく人心地付いた。気が弛み、涙した。私が2日連続で涙を流すことなんて、何年ぶりだろうか。
話は少し前に戻って収容先の病院に車で向かう途中、一台の救急車に追い抜かれた。病院の救急医療センターには断続的に患者が訪れてくる。あるいは救急車で運び込まれてくる。事件なのか事故なのかパトカーと警察官も来る。うちの家族に起きた災難と同じようなことが日常的に起こっていることを痛感した。手術が終わるのを待つ間に、警察署からは加害者が直接お詫びしたいと待っているという連絡があったが、会ってもこちらには何のメリットもないどころか自分の中で悪い感情が大きくなることが容易に想像できたため、面会を拒否した。この連絡で加害者には直接我々に会って謝罪する意志があり、まともな人間であることがわかったが、我々から見ればまともな人間などではなく、過失で娘を殺しかけたヒトゴロシのなり損ないに過ぎない。罵倒しようが殴り倒そうが娘の傷が癒えるわけではないし、やりどころのない気持ちを加害者に向けても何も解決しない。その一方、謝罪する機会を加害者に与えることすら拒否したいと考えていることも事実だった。
帰宅途中に警察署から再び電話があった。今回の事故が報道されるかもしれないという。記事になるかどうかは報道機関次第とのことだが、我々に記事掲載を拒否する権利がないなら何故わざわざ連絡をよこすのかと気分が悪くなった。この程度の事故なら日本中で嫌というほど起こっているだろうに。違和感を覚えながらも匿名を希望していることを強く伝えてもらうようお願いした。
事故の翌日、私は仕事に行き、妻は自分のスケジュールを調整して面会時間中はずっと娘の傍に居た。私も仕事を早めに切り上げて娘の元に向かった。点滴による薬投与のせいか発熱のせいかは判らないが、娘はずっと調子が悪そうに寝ていた。人間とは強欲なもので、事故を知った時には生きてさえくれればと神に祈り、娘の声を聞いた時には障害さえ残らなければそれで良いと思い、担当医に完治の見通しについて説明された時には傷跡が残ってしまうことを呪い、完治には十分な時間が必要と告げられた時には今後の予定が全て崩れてしまうことを嘆いた。ずっと我慢していた娘が、事故後に初めて泣いた。妻も私も泣いた。3日連続で涙を流すのはおそらく幼少の時以来になるのではないか。
帰宅後、今回の事故が新聞に載っていることを知った。加害者が報道されるに値するだけの人物だったのだ。なるほど違和感を覚えたあの電話は、こうなることを予期しての予防線だったのか。とある新聞では「重症」と記され、その言葉で妻はことの重大さをもう一度噛みしめてしまい涙し、別の新聞のWeb記事では「骨折」と記され、その言葉の与える印象の軽さに私は怒りを覚えた。娘は今後何か月にも渡り貴重な時間を不自由に過ごさなければならないのだろう。もし元通りに歩いたり走ったりできるようになっても、その傷跡が完全に消えることはないだろう。事故の瞬間を電話で聞いていた妻は、確実に寿命が縮まるほどの精神的なダメージを負ってしまっただろう。それ以外にも、私と妻が病院に通うだけの労力と、通院のための時間を使ってするはずだった経済的な活動、通院のために発生する周囲の人たちへの負担は、誰も補償してくれはしない。
あれから娘は順調に回復し、熱は下がり、点滴も外れ、食欲も出てきた。まだ入院中の娘の笑顔を見て、安心してしまっている自分がいる。過去に事故の加害者や被害者になったこともあり、車を何度もぶつけたことのある私は、自分がいつか今回の加害者と同等の立場に立たされる可能性、自動車を運転することのリスクを見つめ直した。また、被害者という立場に立たされ、被害者にしかわからないこと、「被害」とはどういうものなのかを身をもって体験した。その一方、家族の大切さを嫌というほど再認識させられ、また周囲の人たちからの温かい支援を得られることが嬉しかった。本当に貴重な体験だった。だがそれを学ぶにはあまりに高い代償であり、娘が元気に走れるようになるまでは、まだまだ多くの時間が掛かり、その間にも様々なことがあるだろう。
様々な葛藤を整理し、記し、公開することで区切りをつけたかった。
以上、今日までの出来事と、今現在感じていることを記録しておく。「娘が入院している」という「非常」が、「日常」になりつつあることに恐怖しながら。