はてなキーワード: ライナスの毛布とは
母がスヌーピー 好きなんだけど4コマの日本語訳付きの文庫本シリーズ全巻持ってて私も全部読んだ。多分40冊くらいあったかな。
初期の方の絵柄のやつは無かったから連載全てを網羅してたわけではないと思うけど。
スヌーピー のアニメもあって母が買ったビデオテープを子供の頃何回も見たよ。
10年くらい前に六本木ヒルズでやってたスヌーピー の原画展に行ったけどめちゃくちゃ混んでた。全員が漫画を一通り読んでるとは思わないけどファンはたくさんいる。
どこから来たムーブメントなのかなぁ、母が若い頃にアメリカ文化ってことで多少流行ってたのかな?
登場人物は子供と動物のみで、大人は存在するけど描かれることはない。
何も良いところはないけど心優しいチャーリー・ブラウン、
チャーリー・ブラウンの友人のライナスは「ライナスの毛布」で有名、
ライナスの姉でよくチャーリー・ブラウンをからかって遊んでいる意地悪なルーシー、
等々他にも沢山いる登場人物達が子供のくせに落ち着いたトーンの会話とユーモアでクスリと笑わせてくれるんだ。
チャーリー・ブラウンはやることなすこと上手くいかないけどのび太みたいに一々大騒ぎしない。
「僕っていつもこうなんだ…」みたいな感じ。
諦念というか受容というかそんな感じ。
チャーリー・ブラウンの飼い犬のスヌーピー は犬なのに二足歩行だけど声を出して喋るわけではない。
でも思考はめちゃくちゃしていて哲学的だし、弁護士、作家、パイロット等にもよくなりきっている。
バイタリティと妄想力に溢れるスヌーピー とそれに振り回されるチャーリー・ブラウン、という構図がよく繰り広げられている。
「あのおかしな犬をなんとかしなさいよ!チャーリー・ブラウン!!」とかよくルーシーに叫ばれている。
そんなスヌーピー のキャッチコピーは「 The World's Most Famous Beagle(世界で1番有名なビーグル犬)」
この増田の話、「自慢したい相手がいない」というところに集約されていて、私は地方暮らしを楽しめない人間ですという吐露を東京ageで合理化してるだけなので皆さんもう解散するよろし。
東京圏(日常的に、山手線の駅まで概ね1時間で到達できる駅くらいの立地まで。概ね国道16号の内側)で生まれ育った人か、そうでないかで反応は大きく異なるのではないかと思う。大阪は住まったことがないのでわからないが概ね環状線内ということになるのだろうか。生まれてこの方自動車などが家にあったことがないというひとならそれがデフォルトだから自動車を生活の基盤に吸えるという発想自体がそもそも無かろう。自動車があって当たり前というところで生まれ育った人ならばそれがデフォルトになるし、非都市部では車がないと著しく不便な生活を強いられることを知っている。以降、めんどくさいので車の不要な大都市圏を「東京」と一緒くたに呼ぶことにする。東京では「駅まで徒歩何分、そこから何分」の世界が非東京では「自宅から車で何分」という世界だ。別の国だ。だからこの増田は東京という別の世界の別の国の別の国民の話である。
人口6千人ほどの関東近辺に生まれ育った私は高円寺あたりのアパートに数年住んだがあそこは無理だった。狭い。部屋も道路も土地も果ては人の心までも狭い。もっとも部屋が狭かったのは私が貧しかったからであるが。「老人と運転免許」の問題ともつながるが、行きたいところに安価に短い時間で好きなときに行けるというのは極めて価値のある「自由」である。東京ではそれは主に公共交通でなされる。自家用車に依存しているところは東京ではない。では駅からバスで十数分みたいなところはというと、そこはやはり東京都内にあっても東京ではない。ところでlibertyとfreedomの違いはあんまりないと言うが、ここで言う自由はたぶんlibertyのほうがしっくり来る自由である。
非東京では公共交通がないか極めて貧弱である。ハイハイから二足歩行に移行してようやく人らしくなるように、徒歩と自転車のみから卒業し自動車という二足歩行で生活することが自立した人間の証明となる。車がないと人間ではないから自由がない。この増田は車持ってないし買うつもりもないという。人権を手に入れてないのだからそれは辛かろう。
東京最高っていう意見には郊外志向の私も賛同せざるを得ない。ADSLの草分けである東京めたりっくもFTTHも、東京からだった。非東京に便利なものが来るのは常にあとだ。それがインフラともなればなおさらだ。
といっても、私は根が田舎者なので土が見えない世界で暮らすのはつらい。将来的には郊外に移っていくことだろう。といっても、東京からちょっと行けば色んな所に行けると言っているように、私は「ちょっと行けば東京」という場所を選ぶだけの話だろう。電気、都市ガス、上下水道、光ファイバー、au携帯の電波(ドコモの電波は日本である限りどこでも入る。彼らのプライドである。)、あとTBSラジオがあればそれ以上は過剰な贅沢というものだ。5Gの電波は・・・初めて聞いた頃はまた新技術かと思ったが知ってみればうわーこれ劣化PHSじゃんかと思ったから多分死にそうになる頃まではいらないだろう。この増田は人気(ひとけ)のないのがつらいという。人が作った色んなものがないのが寂しいという。私には東京は人気(ひとけ)が過剰である。自然の作ったものが少ないのが寂しい。育ちによって培われた志向の違いとはこういうものである。
根源的にはライナスの毛布問題である。慣れ親しんだボロ毛布、捨てられると思ってたけど実は捨てられなかったというだけの話。多くの人間はそんなもんなのだがこの増田は東京にあるいろいろなものがそれであったということである。
小さい頃からピンクの大きなタオルケットが好きだった。くたくたに柔らかくて、天日干しするとお日様の匂いがするやつ。滑るようになめらかでやわらかくて、すっぽりと身体を覆える。眠る時以外も暇があれば引きずってた。まあ多くの人にこういう思い出はあると思う。タオルケットじゃなくてぬいぐるみでもなんでも。
けど、大人になってもタオルケットを使っている人は少ないかもしれない。タオルケットがあるとよく眠れる。さすがにサイズが違うし擦り切れるから、2〜3年に一度は買い替えてるけど。幼児の時は好きなキャラクターの描いてある同じタオルケットじゃないと泣きわめいたし、洗濯したら手触りがごわごわになるから数日不機嫌だった。
タオルケットが無くても普通に眠れるが、眠りの質がもう全然違う。精神的に不安定だった受験や就活の頃も、お気に入りのタオルケットに包まれれば五分もせずに寝られた。
今のタオルケットは白い花の描かれたピンク色。重要なのは手触りなのに、なんでか毎回ピンクを選んでしまう。好きな色は寒色系なので、部屋の中でタオルケットだけインテリアから浮いている。
とある愛着障害のコラムを見かけて調べてくととあるサイトにたどり着いた。
https://attachment-kou.jp/愛着障害を克服する方法/#i-3
サイト内の診断だと、不安型愛着スタイルになったけれど、ああいう大ざっぱな質問だと、フツーに誰でも当てはまる。
でも、そんな都合の良い人間に誰がなってくれるんだ?
自分のママンは自分より強い不安型だから、経緯説明してもっかいママンやって?って言ったら否定されたと感じると思う。じゃぁほかのひとに「代わりに完璧なママンやってくれ」って、そんな酷な話をするわけにもいかず。かといって、「さぁ!代わりの完璧なママンをやってくれる新しいひとを探そう!」ともならず。
条件つきじゃない愛とは?条件つきじゃない愛とかめっちゃ欲しい。でも、自分は条件つきじゃない愛、相手にあげられるかな?無理だよね。
僕はタオルケットが大好きだったな。赤ちゃんの頃、病気で入院していたので、僕と一緒にベッドに入れられてた私物のそれに依存していた模様。当時は親の付き添い必須ではなく、実際僕の見舞いは祖母達が交替で数時間来てくれただけだったから(でも毎日来て貰えただけ僕は恵まれていた方だ)、一人きりで過ごす時間が多く寂しかったのだろう。
退院後も、僕がお気に入りのタオルケットにくるまれて端しっ子噛んでいた時は主に一人で寂しい時だった。
ところで以前、ネサフしていたらライナスの毛布を人工的に作る方法を紹介するサイトに漂着した。赤ちゃんを母乳依存にしない為に、早期に断乳させて代わりにライナスの毛布(安心毛布)に依存するようにするという話だった。
ライナスの毛布、だからといって実際毛布に依存させると洗うのが大変なので、小さなハンカチを同じの数枚用意して、それをローテーションさせていくのだという。
うまいこと考えるなあと感心すると同時に悲しい気持ちになった。それがどうしても必要な場合なら実に名案なんだが、特に必要でもないのにわざわざやるのはどうなんだろう。
んー、いや増田だから別にいいけど、気持ち悪いとまで言われると気分は悪いなあ。いやいいんだけど。
おれは姉貴がそうだったから普通に受け入れてたし自分でも長く持ってた(小学校入るまで程度だけど保管はしてる)。
だから今の奥さんと付き合ってほどない頃に、お守りの中身がライナスの毛布だって教えてくれたし、いやそれはまさに類友ってことなのかな。
あと「(子供の頃も含めて)当人の多くは恥ずかしいことだと思ってるから話さないだけ」という前提もなあ…
そんな発想自体ががなかったわ
そりゃ大人になってもそれが無きゃ眠れないとかなら恥ずかしいだろうけど
そもそもそんなもんの存在忘れてる人も多そうだし
私も持ってたらしいけど全く覚えてない(母親曰く自然に卒業したらしい)
お前のママの話はどうでも良いわけで。
お前が気持ち悪いと思うんならそれでいいが、「ライナスの毛布 大人」あたりでぐぐってみ?普通に手放せない大人いるから。そういう人はそれはそれで悩んでたりもしてるし。
そもそもライナスの毛布を持たない(特定のものに執着する事がない)子供も多いんで…
誰もが持ってて当たり前という前提で語られても困る
http://anond.hatelabo.jp/20161219120209
当人の多くは恥ずかしいことだと思ってるから話さないだけ。そもそもライナスの毛布は、ずっと母親に抱かれてた乳幼児が母親から自立して歩き始める時に一時的に不安の仮託先として設定する”持ってると安心なもの”。大抵の人は”卒業”するのも確かだが、親に理解がないと無理矢理取り上げられてトラウマになるし、自分の子供にも同じこと繰り返す。そういう人は文字通りの”乳離れ”に失敗してる(強制されてる)から、別の物に依存してる可能性が高い。
こいつは弟や姉とも理解を共有してるそうだから、そういうのに寛容な親だったんだろうし、だから奥さんも話せたんだろう。
自分の”ライナスの毛布”のこと(子供の頃の話にしても)を話してくれない場合、配偶者や恋人にそこまでの信用をされてない可能性あるぞ。
「それが大多数の女性(キリッ」とか知ったような口聞かれてもな。
おれの奥さんはタオル、おれの姉貴もタオル、弟は毛布、おれはぬいぐるみ。
みんなライナスの毛布を持ってたよ。
おれも弟も今はずっと持ってないと不安てわけじゃあるまいし、しまってあるが捨てる予定はない。親が大切にとっておいてくれた。
姉貴もぼろぼろになっては母親が集めてタオル地の袋を作ってくれて、それが擦り切れたらそれらの端切れを集めてまた新しく袋を作ってってのを繰り返して初代から何代目だかまでのを全部含んだ袋を安眠の伴に枕元に今も置いてる。結婚して家出るまでそうしてたし、やめてはいないはず。もし旦那に勝手に捨てられるとか、やめることになったりしてたら絶対におれに話している。
奥さんはぼろぼろに擦り切れたのを手作りの袋に入れてお守りにして持ち歩いてる。
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。
汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。
面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。
自分の精いつぱいの物を。
然し、必ず、こはれるものを。
然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。
それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。
私が、私自身に裁かれさへしなければ。
たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分は前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である
しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする
前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ
それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。
クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。
これらの指摘は、全く正しいと思われた
"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う
私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない
しかし、自分は自分の表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ著「善悪の彼岸」
自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か
あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分が決断し、自分が選んだ」に過ぎない
決めたのは自分自身に他ならない
然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。
そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。
自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。
誰がそれを許したのですか。
許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」
「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観
主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか
荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。
この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。
強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。
対象a
人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。
他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。
経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。
単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。
満たされない欲動の向かうところ
詳しくはこれを参照して欲しい
求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分の意志によってすべてが好転する
「世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる
絶対的な依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である
母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)
成人した後は、形を変えて残る
人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない
「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」
幼児の頃の万能な世界や、絶対的な幸福、真理や真実と表現されるもの探し求める
絶対的な愛情は存在しないし、絶対的な幸福は存在しないし、絶対的な絶望も存在しない
しかし、人はそれを求める
逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間の尊厳を冒涜するエロ漫画を否定する事)は
主観としては作品そのものの力によって屈服させられたように感じられる
自分を駆り立てものはいつだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である
欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理を破壊する作品」に惹かれる
それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる
それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか
※1:投影
投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快な感情や性格を他者が持っているかのように知覚することである。
たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者に投影して逆に他者が自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である。
現実界
フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)
などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
象徴界
ラカンは言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。
これは自己と他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。
大文字の他者も言語活動の一部であることから、象徴界に属するものとして考えられている。
想像界
その正確な描写となると大変な労力を要するような対象と世界を指しており、
かつわれわれが頭で思っているものを言う。