各界著名人をはじめとして数多くの人が気持ち悪いくらい絶賛しており「なんぼのもんじゃい」とばかりdisる気まんまんでみにいこうとしている人もそこそこいらっしゃると思いますが鑑賞にあたりひとつだけ留意してほしいことがあります。
原作のこうの史代作品すべてで通底していることでこれまでの映像化作品はそれをないがしろにしているために失敗しているというプロでも忘れてしまうほどの大事なことです。アニメ『この世界の片隅に』はそれを謹んで継承し丁寧に描いたので名作になったのです。そこを見逃すとあなたには凡庸な作品としか映らない大事なことです。映画代を損するところでした。
それは、「日常(生活)がすべてにおいて勝る」ということです。
映画やマンガの「ドラマ」を描くにあたり、往々にして日常はないがしろにされがちですが、こうの史代作品においてこの法則は絶対です。
映画内で、終戦後とっておきのための白米を食べようとタンスから義母が出しますがほんの少しだけ出します。「このあとも生活がつづくからね」と。
明日もあさっても生きていくためにゴハンを食べることを考えるというリアリティ。この場合のリアリティは物語に使役しているそれじゃなくて「日常」を送るための必要なモノです。順番が逆なんですね。日常 > ドラマです。
だからこの法則が頻繁に映画の「ドラマ」を阻害します。防空壕でキスするシーンは後ろから義母と義父に見られます。畑で海にみえる軍艦を描いて憲兵にみつかって叱られてるシーンで家族みんなが深刻そうな顔をしてるのはこんなドジっ子嫁がスパイ扱いされたことがおかしくてしょうがないのを必死でまぎらわせようとしたからです。
マンガではドラマドラマしたところは小さなコマで処理されてるから余計にドラマの感じが弱まるところがあります。こうやって「ドラマ」を徹底的にすかしてないがしろにしていく映画なのです。
それは圧倒的にリアリティなんですね。現実の葬式などみんな笑ってるでしょ? 大事な人が死ぬことはドラマだけどみんなドラマだけじゃ生きていけないしお腹も減るしお金もなくなるので笑ったり働いたりする。これは圧倒的なリアリティです。
戦中の広島の町を再現した。大和などの軍艦を精密に描いた。それもありますが、本作のリアリティのキモはここなのですよ。
それをどうみるかがポイントです。
同郷の水島が家に訪れたとき主人公に対して「普通」を連発していたように、主人公は懸命に普通に生きようとする。NHKの朝ドラのように反戦に目覚めることもなくまわりと同調しつつも普通に日常のレールに乗って日々過ごそうとする。
その絶対的なチカラを持っていた法則をもねじ曲げようとあらゆる手段で襲いかかってくる戦争。そこと日常との戦い。絶対的に強いと思ってた日常があわや崩壊しそうになる。
それに戦争の悲惨さや凄惨さを思わざるをえない。そういう作りになっているのです。
終戦後、台風がくる。焼夷弾で屋根に穴が開いたりしてたので家族そろって大わらわで明け方に「こんなに遅うにくるなんてのんきな神風さんじゃ」と大笑いする。
そう、でも日常は強い。虫や草花は戦争なんか素知らぬ顔して生きてるし、実は大多数の人間もそうだと。
こういう「ドラマ」が弱い物語を嫌う層は存在します。この作品が大勢の目にふれらるとそういう層もみてしまうのです。そして「しょーもない」とか明後日の方向で文句をいわれるのがしんどいのでこの文章を書きました。こういうことですよねって。
ここを留意して映画を読み、そして原作を読んでください。映画では語られることのなかった「ふたつの鈴」の音色を味わうとより日常の深みが増すと思われます。
ププ そんな読み筋を押し付けられないと楽しめないような作品ならたいしたことねーなw