もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。
汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。
面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。
自分の精いつぱいの物を。
然し、必ず、こはれるものを。
然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。
それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。
私が、私自身に裁かれさへしなければ。
たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分は前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である
しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする
前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ
それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。
クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。
これらの指摘は、全く正しいと思われた
"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う
私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない
しかし、自分は自分の表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ著「善悪の彼岸」
自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か
あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分が決断し、自分が選んだ」に過ぎない
決めたのは自分自身に他ならない
然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。
そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。
自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。
誰がそれを許したのですか。
許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」
「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観
主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか
荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。
この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。
強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。
対象a
人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。
他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。
経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。
単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。
満たされない欲動の向かうところ
詳しくはこれを参照して欲しい
求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分の意志によってすべてが好転する
「世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる
絶対的な依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である
母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)
成人した後は、形を変えて残る
人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない
「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」
幼児の頃の万能な世界や、絶対的な幸福、真理や真実と表現されるもの探し求める
絶対的な愛情は存在しないし、絶対的な幸福は存在しないし、絶対的な絶望も存在しない
しかし、人はそれを求める
逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間の尊厳を冒涜するエロ漫画を否定する事)は
主観としては作品そのものの力によって屈服させられたように感じられる
自分を駆り立てものはいつだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である
欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理を破壊する作品」に惹かれる
それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる
それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか
※1:投影
投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快な感情や性格を他者が持っているかのように知覚することである。
たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者に投影して逆に他者が自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である。
現実界
フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)
などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
象徴界
ラカンは言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。
これは自己と他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。
大文字の他者も言語活動の一部であることから、象徴界に属するものとして考えられている。
想像界
その正確な描写となると大変な労力を要するような対象と世界を指しており、
かつわれわれが頭で思っているものを言う。
教科書に、「テレビは悪だ!」と主張した文章があったり、メディア批判すごかったんだよね。
テレビが普及してみんな思考が停止するとか言う内容だったと思う。
あれって、今なら「インターネットは悪だ!」にすり替わるんだろうな。
主軸は同じ構造で、表面の首だけすげ替えて非難だけしてればいいって構造だ。
ようやくわかったよ
その計算式に意味があるのかどうか謎だけど(そもそも距離の公理を満たしているかどうかもわからん)…。
データ構造変えたらいいんじゃね?ベクトル(厳密にはベクトルではないが)ごとに、あり得る全ての要素の数に対応するバイナリのビットベクトルを持っておいて、
距離計算時はbaseとtargetのビットベクトル同士の&をとって1が立ってるところだけ差分の自乗を計算し、一方だけに1が立ってるところは自分自身の自乗を計算する。
個人的には
音楽 → Fullでもセーフ
アニメや映画 → 本編全部はアウトだけどOPだけとか面白いところだけ抜粋動画はOK
セーフと言ってもこれはYoutubeとニコニコ動画に限る話で、中華サイトとかFC2に上がってるような奴は
ニコニコとかだと明らかに黙認されてるような1分半のテレビバージョンの音楽動画でもなんか罪悪感覚えちゃう感じ。
あと動画じゃないけどテレビとか映画のキャプチャ画面は大体全部セーフ。
そんな感じの感覚なんだけど、この辺の意識がしっかりしている人達にとっては私くらいでも「犯罪者死ね!」って思われているもんだろうか。
TorrentやらWeb割れ宣言しようものなら炎上しても文句言えないけどYoutubeなら許されちゃう風潮ってるよね。
http://anond.hatelabo.jp/20150123232043
★ここで大胆な仮説を書いてみる。
「日本のリタイア年齢の後倒しの背景として、孫が出来る年齢の後倒し、ないし孫無し老人の急増」が関係しているのでは?
「孫が出来る年齢の後倒し」って、長ったらしいので、一言で「晩婚化」ならぬ「晩爺化」と称することにしよう。
★「老人としての通過儀礼」として、「仕事のリタイア」に匹敵する、いやそれ以上のイベントが「孫が出来る」ことである。
孫を抱くことで、「ああ自分も老人の仲間入りした」と実感することになる。
★いくら「リタイアを後倒しして、永久青年を気取ろうと」したところで、生物学的な「祖父母になった」という事実は変えられない。
リタイアを拒否して永久青年を気取ってた人が、孫が出来てしまったことで、『自分は老人であるという現実を受け入れて』リタイアする
★ところが、最近の子供(といっても、60歳代シニアの子供だから、まあ30歳代)はなかなか結婚しないし、
結婚してもなかなか孫を作ってくれない。
その結果、少し前なら60歳になったら過半数の老人が「孫持ち」だったのが、最近では65歳、70歳・・・と「晩爺化」が進行している
その結果、以前なら還暦と同時に孫持ちになり、「これで人生一丁上がり」とリタイアに踏み切っていたのが、
65歳・70歳と晩爺化することで、どんどん「人生の上がりの見極め時期」が後倒しされてくる。結果、リタイア年齢も後倒しされる。
★ちなみにお隣の韓国も、日本以上に高齢者就業率は高いらしい。
韓国が「年金制度が不備だから、高齢者就業率が高い」のかどうか、わからない。
ただ、韓国は日本以上に晩婚少子化の国なので、ひょっとして「晩爺化」で「老人になることを認めたくない高齢者」が増えているから、韓国就業率は高いのか?
節子それ、自尊心じゃなく自負心や
彼女は常に明るくにこにこしているような人で、女子特有の妙な派閥にもとらわれず誰とでも愛想よく接する人だった。スポーツも勉強も出来て、それでいて嫌味がない。就職し自分の周りの友人はなんとなく彼女と疎遠になっていたようだが、私はオタク趣味という共通点もあり、向こうから連絡が来る形で年に1、2回会う程度の関係が続いていた。
A子は、私とはとっくに付き合いのなくなったような同級生らを集めて毎年「ごはん会」をしているらしく、その度に皆に誘いの連絡が来ていたものの、自分の周りの友人が断固として行きたがらなかったのでなんとなくそれに合わせ毎回断っていた。はじめは恐らく同席するであろう同級生(限定的に言えば元ギャルグループ)に会いたくないのではと思っていたが、たまたま二人きりで会った時友人のひとりが「A子と会いたくない」と漏らした。
私には、A子のどこが友人らと合わないのか全く分からなかった。いつも屈託のない笑顔で誰とでも接する彼女に好かれる理由はあっても嫌われる理由は無いと思っていた。
しばらくして、彼女から自分の結婚式にウェルカムボードを描いて欲しいと依頼された。仕事で絵を描く事はあってもお祝いとして送るものだったので料金を取るつもりはなかったが、祝儀を少し減らしてもいいだろうかと思っていたら彼女から「祝儀は◯万円以上貰わないと元が取れない」と何度も言われ、仕方なくその金額を包んだ。
それから数年して、例の「ごはん会」に担任が来るという話を聞き、参加してみることにした。当時彼女は臨月で、大きなお腹をすっぽり包んだ可愛らしいワンピースで現れたのを覚えている。しかし私の期待とは裏腹に、そこに高校時の思い出を語り合うような友人はおらず、そもそも女性がA子と自分以外いなかった。同じ高校出らしい十数人の男性が彼女を取り囲むようにしてお酒を飲んでいたのだ。
彼らは全員未婚で、働かず実家で暮らす者、漫画の話を延々とする者、一度も女性と付き合ったことがない者…が酔いに任せて溜め込んだストレスとコンプレックスを吐露していた。それに学生の時から変わらない屈託のない笑顔で応じるA子。驚いたのはあんなに誘われたにもかかわらず、A子は目の前に座る私には一瞥もくれない。それどころか私に話しかけようとする男性に割って入って会話を中断し、結果私はうつむいて食事を取ることに専念させられた。
結局「ごはん会」の件が妙に後を引き、引っ越しにをきっかけになんとなく疎遠になるよう仕向けた。その後携帯やメルアドも変わったが、それでも毎年実家に届くA子からの年賀状に添えられた「連絡先教えてー!」という言葉に妙な気味悪さは禁じ得なかった。
朝仕事のメールをひとつひとつ流し見ていたら、送信者の欄にA子の名前を見つけた。しかし私は彼女に社名はもちろん転職したことも言ってない。企業サイトにも自分の本名は公開されていなかった。どうやって見つけたんだろう、いや、どうしてここまでして探されてるんだろう。
タイトル:ねえ私だよ!私、私ー!!
まだ本文は読んでいない。
たまに自尊心の塊みたいな奴がいるけどめんどくさすぎ。
何気ない日常会話の中で自慢ばっかりして、背景も話さず成功体験だけを語って、褒め称えよと言わんばかりの態度で周囲の人を巻き込んで子供みたいにはしゃいで嫌だなぁ。
成人済みでこの手のかまってちゃんってどうしようもない。
成績や経済力、人脈等(もちろんこれで人の良し悪しが決まるわけではないが)のある自分を自慢して、抽象的で精神的な地頭の良さとか正しい倫理観みたいな判別しにくい部分で誰か続き頼んだ
★よく「年金はこのままだと破綻する!!」と恐怖感をあおる報道がなされる。
或いは、金融機関とか保険会社が、「だから養老保険に入りましょう」とセールストークする。
でも、年金が「見込より2~3割程度少なくなる」ことはあるかもしれないが、
「年金が見込みより半額以上減る」ことは現状考えづらい。
「半額以上減る、破綻する」と不安煽って商売する金融機関・雑誌テレビは猛省すべしだと思う。
彼らのせいで、日本人の経済行動が過剰貯蓄になり、さらに不安先行心理になって、出生率まで影響しちゃう。
★これは私見だが、日本の年金財政は、実は雑誌が煽るほどには悪くないんじゃないか、と思う。
出生率の予想は外し、利回りの予想も大外れなので年金財政が悪化方向であるのは事実だが、
一方で、「70歳近くまで、年金を受け取る側じゃなく、年金を払う側」に回る人も多い。
★実は、65歳以上高齢者の「就業率」国際比較データを見ると、日本は突出して高齢者就業率が高い。
社会学者は、その理由を「日本の年金水準が低いから(現役時代所得代替率が低い)」の一言で説明している。
実際「年金水準が低いから、仕方なく働かざるを得ない」の理由な人も多いだろうが、
それだけでこの高就労率を説明できるだろうか?
「経済的には働く必要もない」のに「リタイアするのが怖い、リタイアすると生きがいが無くなる、自分の居場所として職場が欲しい」
という「精神的理由でリタイアしない人」も、日本では結構多いんじゃないかと思う。
★成人になるのに、社会によっては「通過儀礼」を行うケースがある。
昔の日本の元服式、今の成人式、未開部落ではバンジージャンプ、韓国では徴兵制。
今の日本では成人式は通過儀礼になってない。だから「精神的に大人になれない、なりたくない20歳以上」が増えてる。
★60~70歳男性にとって、「退職」とは一種の「老人としての通過儀礼」。
しかし、「自分は老人だと認めたくない、精神的永久青年」が増えているため、
「老人としての通過儀礼であるリタイア」を極力後倒ししようとする日本人男性が多い、それが「60歳代後半の異常な就業率」の正体では?
★ちなみに、日本の平均リタイア年齢が69歳程度なのに対し、フランスは60歳を切っているらしい。
かの国では、「老人になることを受け入れる」精神風土があるのではないか?
22か国では「働く必要があると考える年齢」より、「リタイアしたいと思う年齢」を下回ったらしい。
世界的には、大多数の人は「もっと早くリタイアしたいのに、経済的にやむなく働かざるを得ない」
唯一日本のみが「働く必要があると考える年齢(60歳)より、もっと長くまで働きたい(62歳)」と回答したらしい。日本人のリタイア拒否症状は重症。
★また、『職位では特に管理職が、より長く働きたいと考える結果』だったらしい。
この調査結果は、すなわち、日本人のリタイア後倒し現象が、経済的理由に起因するものではないことを裏付けている。
管理職なら、経済的には『働く必要がない』のに、あえて働いている。
恐らく、管理職の『まだまだ若いモンには、ウチの会社は任しておけねぇ』という訳判らない『責任感』が、
★これ是非とも、「年収・資産」と「いつまで働きたいか?」のクロス統計を見てみたい。
例のおじさんがいないと閑散とするな笑
http://www.sankei.com/affairs/news/150123/afr1501230001-n1.html
これの警察官叩きブコメに、大学で不法行為法を今習っている身としてめちゃくちゃ違和感を感じている。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sankei.com/affairs/news/150123/afr1501230001-n1.html
県にも請求できるとしてもそれは請求先が競合しているだけでどれを選んでも個人の自由ではないか。
犯人が無資力でなくてちゃんと払えるのであれば、むしろ税金を使わなくてすんで社会的にも望ましい。
←主張が事実であれば、なぜ時計が壊れ怪我が残っているのに損害賠償請求してはいけないのか。
一般人が同じようなことをされて損害賠償請求することは当然であると思うが、警察官はそれを受忍すべき義務があるとでも言うのであろうか。
最近の中学受験国語では「重松清」「あさのあつこ」辺りの小説が多く出題される傾向にあり、
★「中学受験によく出る作家」カテゴリにうまいこと入りこめれば、作家稼業はラクだな。
毎年コンスタントに10万冊は売れる
「12歳前後の多感な年代を主人公にした作品が多く、受験生世代に近い」
「親の離婚など複雑な家庭を描くことが多く、心理状況を出題ネタにしやすいから」とのこと
「大人を主人公にした作品を書きたい!」と内心思っている場合でも、それをグッと抑えて、
「主人公が12歳で、両親離婚などの複雑な家庭を描く」方が、将来の印税収入が期待できるかも。
社会人は小説読まない・読む必要ないが、受験生は小説読む必要がある。だからコンスタントな売上が確保される。
★義務教育って、コンスタントに小説売上を約束する社会モデルだからなあ。
仮にシェア10分の1の国語教科書会社に小説が採用されたら、年間児童数をかけ算して、年間10万部分の著作権収入が入る計算になる。
小説作家収入の数%程度は義務教育とか公立図書館に支えられているのでは?
★特に、「詩」とか「短歌」の世界なんかは、義務教育国語教科書依存度が相当高いと思う。
社会人は詩なんか読まない・買わないが、何故か国語教科書には詩が掲載される。
谷川俊太郎とか、収入の半分以上は義務教育国語教科書掲載料なんじゃないかと思う。
趣味や読んだ本を書くだけの凡々なブログがここまで来るのは長い道のりだった。まず最初に「開設3日で1万アクセス」みたいな奇跡は起こらないことを知った。次にどんな頑張ってエントリ書いても、めったに読んでもらえないことを知った。たまに「1か月で5万アクセス行ったけど質問ある?」みたいのも見かけるけど、それは才能とかテクニックがある人間なんだと知った。
結局、地道に検索意識してやってくのが、やっただけ結果もついてくるし無駄な期待をしなくていい。
ただ、ブログを正直諦めつけようかと思い始めていて、その一番の理由は「有名ブログでさえも巡回が必要」ということに尽きる。
最初、「面白そうですね」とコメント付きのブックマークがついたのが単純にうれしくて、相手のブログを訪問して最新記事を熟読、長めのブックマークコメントを入れた。そのあとも「面白そう」「こんな本があるんですね」とブックマークがついて、こちらからも再訪して、というやり取りが何度か続いた。
でもあるとき、自分の中では思い入れのあることを書いて、それから5分も立たないうちに「そういう考えもあるのですね」とどうとでも取れるコメントが書かれて、なんか批判的なコメントを書かれるよりむっとした。
そして気がついた。そうかこれ、巡回されてただけだったのか。
機械的にコメントされるぐらいならコメントなんてしてほしくない。自分も、そんなやつが書くブログにコメントしたいとも思わない。
こっちからコメントしなくなり、「そういう考えもあるのですね」「メモ。食べてみたいです」「そんなものがあるのですね」「面白そうです」としばらく続いて、あとは音沙汰なくなった。せいせいしてる。
それからしばらくして、ほかのブログから「おいしそう^-^買ってみようかな」「そんな本があるんだ^-^今度読んでみようかな」「あ、買ったけど読んでないや」「ほしい^-^でもお金ないや」みたいなコメントが付くようになって、はじめこそ相手のブログを訪問してたけど、他のブログにもうちと同じ「面白そう^-^買おうかな」とコメントされてるのを見て再訪をやめた。こっちはすぐさまコメントがつかなくなったので、その現金さに笑う。
たまに他の人たちのブログで「楽しそうですね」「ほしいけどお金ないや^-^」のアイコンとコメントが並んでるのを見ると、気づかなかった過去の自分を見せつけられたようで、恥ずかしくなる。そのブログが面白そうな内容でもそこで見るのをやめてしまう。
返報性の法則は知ってるし、互助会みたいなもんだと思うからその行為自体は別にいいと思う。身内ブクマになると不味いけど。馴れ合いというと言葉が悪いけど、コミュニケーションの一環といえばむしろ推奨される行為だ。
自分の場合は「自分のところにブックマークをつけてくれる見込み客」として、名前じゃなくて数で数えられたように感じたのが気持ち悪いだけ。
あいてがこっちの記事を読まないように、自分もあいての記事も読まずに「いいね!」「うーむ」「なるほど」とコメントすればいいと思うんだけど、そこまで大人になれない。
そんなことより自分がショックを受けたのは、それをやってるブログがfeedlyや読書登録の数からしてどっちも結構読者を抱えているということ。
その規模のブログになっても巡回しないとやってけないという事実は、ようやく1万アクセスを超えたうちのブログにとっては正直目の前の山の高さに絶望するしかない。
ブログをはじめて知ったことのもう一つは、打算抜きのブックマークなんてそうそう付かないってことだ。ブロガー同士でブックマークをつけるときは十中八九、「つけたんだからそっちもつけろよ」という意思表示なんだと思う。意味のないスターをばらまくだけの連中よりはひと手間かかってるんだろうけど、通知に喜んだ分落ち込む。
読まれないお前のブログの内容が悪いって?それもあるんだと思うけど、ブロガーでブックマークつけてくる連中はだいたい読もうともしないから、そんな連中気にしたってしょうがない。
書いたら条件反射的にブックマークがついて、本人は特に巡回なんかしてないちきりんのようなブログを書きたい。ただ、あれは一線を越えて有名人枠に入ったからという気もする。
心が折れそうだから、誰か、「巡回してないのに人気のそこそこの規模ブログ」があったら教えてください。
2歳児は9歳と付き合えばいいのか・・・
「何故あなたは、メタボを放っているんですか?」的アンケートを中年男性に取ってると思う。
★そういうアンケートで、多数の回答を集めるのは
「メタボを解消したいが、スポーツ施設が近くにない」的選択肢。
・・・だが、本当にそのアンケート結果は正しいか?「本音の回答」か?
★「メタボを解消したいが、運動の時間がない」「メタボを解消したいが、スポーツ施設が近くにない」は、
いわば「優等生的」回答。
一方「メタボ解消なんてメンドクサイ」とか「特定検診なんてかったるい」的な回答が「本音な回答」。
★「そもそも、メタボなママで何が悪い?俺は一生暴飲暴食で楽しく生きるぞ~」
というウラヤマシイ、いや自堕落な本音回答も本当は多いと思う。
しかし、「役所からやってきたアンケート」となると、回答者は無意識のうちに「優等生的回答」を選びがちになる。
果たして、無意識のうちに「お利口さん」になった回答を「正」として、各種行政を遂行するのは正しいだろうか?
結局、市民のホンネとずれた政策をしてしまい、課題解決から遠ざかってしまわないか?
★これが「綾小路きみまろ総研」みたいなホンネトークが許される雰囲気の機関によるアンケートなら、回答者も本音を語る。
だから、政府は素性を隠して、綾小路きみまろ総研(?)に調査委託した方がうまくいく。
政策目標を実現したいなら、まず「市民のホンネを聞き出せるようなアンケート」を行うのが入口である。
★実際、「国民健康栄養調査」で申告された「毎日の食事での塩分摂取量」より