はてなキーワード: 田畑とは
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ヴェルサスから10年、やっとの思いでプレイできたFINAL FANTASY XV(FF15)に裏切られたような思いを感じた年末から年が明けて、なんとか自分を納得させられるようになってきた。
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オープンワールドで仲間と過ごすのはとても楽しかった。いつまでも遊んでいたい、この時間がずっと続いてほしいと思った。事実それで3章までずっと進められなかったし、6章をいつまでも越えられなかった。
これから自分がゲームをプレイできなくなるから、もうクリアしよう、と思って、やっと年末年始に猫の手を借りてクリアした。
敬愛する父親は死んでいた。笑って送り出してくれたあの日にもう死ぬ覚悟を決めていたなんて、そうまでして自分を守ってくれたこと、そうまでしなければ守れないような無力な自分に憤った。
仲間にいきなり怒鳴られて意味がわからなかった。仲間が突然失明して、それについて聞けることのないまま時が過ぎた。敵の策略で、仲間を電車から突き落としてしまった。次に再会したとき、唐突に二フルハイム出身であることを明かされた。
ずっと会いたくて仕方なかった婚約者と触れ合えた時間は本当に短かった。守ってやれなかった不甲斐なさに歯噛みした。
それでも故国を歩むために進んできた。光の当たる世界を目指した。その結果自分の命を差し出せと言われた。失い続けて、最後に自分の命すら奪われなくてはならない。でもそうしたら愛した人のところにいける。信頼した仲間をすべて残して。
仲間に別れを告げて未来を託した。先祖の残した負の遺産を倒した。六神と歴代の王の力を借りて、代償に自らの命を差し出して。
プレイヤーがノクトの気持ちに寄り添うためにわざと情報を排したのだと聞いた。
ノクトはしかしプレイヤーの思いの通りには動かない。つらい運命を受け入れてしまった彼を私は受け入れられなかった。どうせなら、もういっそのことすべて自分にはどうにもならない運命だということにして欲しかった。
あと少し、あと少し何かが違っていたら。あと一歩のところでノクトの手をすり抜けていくハッピーエンドの可能性を呪った。
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多分、これはFINAL FANTASYすらもドラゴンクエスト化しかねない思考なんだと思う。
なんだかんだと理由はつけるが、結局のところ私はFFに「安心感」を求めていた。素晴らしい技術力で美しい世界を、一歩先のゲームの未来を描きだし、そしてその終わりには誰もが認める大団円があるのだと。
そこを裏切られて腹が立った。掘り下げられないキャラクターたちにもどかしさを感じた。全ての情報は神視点であるプレイヤーには開示されるものだと。
でも、その手法を守り続けていたらFFのストーリーはガラパゴス化する。何があっても結局はハッピーエンドだとたかをくくられてしまったら、あとはもう進化を許されないブランドになる。
FFがいままで築き上げてきた信頼、とかいうものを語ろうとする時点でFF病になるだろうか。
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なんだろう、FF病って。
ガラパゴスだろうか、FF病だからキャラクターのハッピーエンドを求めようとするのは。
プレイヤーは神の視点だからキャラクターすべてのバックグラウンドまで知りたいと思うのは奢りだろうか。
仲間とは皆腹を割ってすべて話せるほどの信頼感を得ていると思うのは傲慢だろうか。
そういう、プレイヤーの「甘え」に対して田畑ディレクターの出した答えがFF15だったというなら、正しく私は思い上がっていた心をこらしめられたのだと思う。
思うけれど。
どんなにピンチでもそれをひっくり返して強引なまでにハッピーエンドに持っていって評価されるFateシリーズ、プレイヤーに情報を開示することを許さずひたすら世界に翻弄され、最後にはそれ故に世界の破滅すら導くニーア、そもそもが仲間とずっと旅を続けていたいというワガママからはじまるFF10、魅力的なキャラクターたちのかっこいいエピソードからちょっと間抜けなエピソードまで楽しめるFF9、なんていう先達をあげて、FF15をなじりたくなってしまう私は、やっぱり己の描いたFFに固執しているんだろうな。
最近聞いた? そうでしょうね。
何を隠そう、私はこの村の出身である。予め断っておくが、今ニュースになっている人々とは面識はない。久々に聞いた故郷の名前があんなニュースで、うげえとなった気持ちを吐き出そうとしているだけだ。野次馬的な気持ちで内部事情を知りたい人には、残念ながら伝えられることはない。
美麻村は、長野県北安曇郡の山間にある、人口千人程度の小さな村であった。2006年に隣接する大町市に吸収合併されたため、現在は地区として残っているのみである。
私は、子供時代をこの村で過ごした。年齢を言うとそれだけで簡単に絞り込めてしまうので、それはやめておこう。少なくとも、絞り込めてしまう程度には小さな村だ。
私は子供の頃、自分の住む村があまり好きではなかった。寒いし、不便だし。のんのんびよりのひかげの気持ちも分かる。彼女がことある毎に都会を自慢するのも、故郷に対する屈折した思いがあるからだろう。実際には都会にだって苦労はあるけれど、とにかく田舎にいたくなくて飛び出してきた以上、彼女はそれは表に出さないのだ。
アニメキャラに重ねたオタクの自分語りはキモいのでやめたほうがいいと思います。はい。
ニュースでも報道されているが、美麻村は過去、戦後すぐくらいまで麻の生産地であった。もちろん、麻薬としてではなく、繊維産業として、である。GHQによって禁止されたと聞き及んでいる。そこらへんの歴史は、美麻地区新行に麻の館という資料館があるので、訪ねてみれば詳しく知れると思う。
麻が自生しているのではないか、と思っている方もいるかも知れない。それに関しては、可能性は低いと思われる。私は子供の頃、しばしば山の中に山菜を取りに行ったが、あの特徴的な葉を持つ植物を目にしたことはない。
トリカブトやウルシなど、危険な植物については注意を受けたので、それがなかったということは大人も見た者はいないのだろう。自生できるほど麻に適した環境ではないようだ。
なお、同じように繊維産業のために栽培されていた桑の木は今でも残っていると思う。
美麻に何があるかというと、特に何もない。山と、山に張り付くような田畑があって、谷沿いに家があって、それで終わりだ。交通の便は良くなく、店も少なく、冬はそれなりに深い根雪が積もる。暮らしやすいとはお世辞にも言い難い。
美麻が限界集落と言われているのを知って私は寂しかったが、責める権利はないだろう。私自身、地元を飛び出してきた身だ。
年々人は減っていく。若い世代は特に。これは、全国的にそうなのだから何も美麻に限ったことではないのだが。
私は今東京で消耗しているのだけれど、最近たまに帰りたくなる。子供の頃よりは、あの土地が好きになっている。
もっとも、定住しろと言われても、ちょっと遠慮したいけど、たまに訪れるにはいい所だ。
こんだけネガティブなことを書いておいてなんだけど、興味をもった人がいたら、訪れてみて欲しい。麻は(多分もう)ないけれど、美味しい蕎麦屋さんならある。
この話に落ちはない。こんなところで、終わりとしよう。
「腐女子こそ夢小説を書くべき論」が話題になって「よくぞ言ってくれた」と喜んでいる人と記事自体に怒っている人がいた。
記事自体に怒っている人、とりわけ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」を読んで欲しい層として想定された(と思われる)「腐女子」以外の人について考えてみた。
腐女子以外で、この記事に対して怒っている人たちに、自分たちを「自己投影勢」と自称している人たちがいる。
夢小説を愛好する方の中で、主にガチ恋勢などと言われる人たちのことだ。
彼女らは、夢小説に出て来る名前変換が可能な「主人公」に自分だと思いながら、夢小説を読む。
私は怒っているので、キツイ言い回しになっているかもしれない。
この記事を書いている私は、彼女ら「自己投影勢」の「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に対する反応に怒っている。
私が怒っている対象は「自己投影勢の肩身が狭くなるから、こういった記事を書いて腐女子が書く夢小説を増やしてほしくない」と言っている人たちだ。
自己投影勢全般に怒っているわけでもないし、嗜好について私の理解が及ばないと思っていても馬鹿にもしていないし、気持ち悪いとも思っていない。
彼女らに私の嗜好を貶され、排除しようとされない限りは、はっきり言って、彼女らがどう思っているかは興味がない。
嗜好を名指しして「布教をするな」と言われたのでなければ、この記事を書くことはなかった。
上記の自己投影勢の説明ではあまりにいい加減なので、ある程度、前提条件を絞りたいと思う。そのために私の自己投影と名前変換に対する考えを記述する。
私と同じ考えだと自信のある方は飛ばしていいと思う。
目印として本題に入る部分に矢印をいっぱい付けておくのでそこまでスクロールして欲しい。
私のスタンスとしては、他人が書いた小説の主人公を自分だと思いこむことは特殊な技能であると思っている。
これは、キャラの恋人が自分だと妄想することとは別の話であることを留意してもらいたい。
誰かの恋人になった自分を空想すること自体は、誰もが抱くことのある欲求のひとつであると私は思う。空想し、それを作品にアウトプットすることもまた、ありふれた行動であると思う。
しかし、小説という作品媒体になったものを読むとき、登場人物が「自分だ」とはっきり信じることのできる人は多くないだろう。
映画や本を読むときに、話者となる登場人物に感情移入してストーリーを疑似体験する。これは基本的なエンターテイメントだと思う。
感情移入する登場人物は主人公に限らない。幼少の頃に見ていた映画を大人になって見ると、幼少の頃に思い入れた登場人物とは別の人物の気持ちになって泣いてしまった、ということはよく耳にする話だ。
さて。このとき観客あるいは読者は、登場人物は登場人物であって、自分とは別の個体であることを認識している。境遇を自分に重ねることはあっても、自分ではないと分かっているはずだ。
腕にひどい怪我をした人物を見て、自分の腕が痛い気がして顔をしかめる。怪我一つない自分の腕を押さえる。これが共感だ。多かれ少なかれ、誰しもが持っている感覚だといえる。
「共感」は人間の社会生活を円滑にする上で欠かせないものだ。一説では、サイコパスは共感的な感覚を先天的に欠いているのだという。共感が出来ないからと言ってその人がサイコパスであるとは限らないことに気をつけたい。
この共感が強すぎることで、映画やテレビを見るのが苦痛だという話が、しばらく前に話題になったと思うので、「共感」というものがピンとこない方はそっちを覗いてみるのがいいかもしれない。
話は戻って、名前変換によって、いくら登場人物が自分の名前を冠しているからといって、主人公が自分だと思い込む、ということは「共感」ではなく「同一化」に当たるのではないだろうか。
サイコパスの話を持ち出してしまったが、専門用語としての話ではないのでその点はご理解いただきたい。
自己投影と称している人の中で完全な「同一化」ができる人はそう多くないのではないだろうか。多くの人が、夢小説の中で恋愛をしているのは小説の中の「わたし」であって、今この世界にいる「わたし」でないものだと折り合いをつける。
2は、1よりちょっとだけ現実の私と切り離されている。 なんというか、原作世界や二次創作の世界をパラレルワールドだと認識しているのはこの層が多いんじゃないかなあ。 その世界の「私」となって、キャラと接するのがこれに当たる。
「同一化」と書いたものをこの方のいう1とするならば、2は「折り合いをつけている」人たちのことだろう。3の話はここではしない。
この折り合いが付けられた状態は、映画を見て登場人物に共感して涙することと差がないように私は思う。
夢小説は、コンピュータとインターネット回線の普及によってもたらされたジャンルであると思う。
それまでは小説といえば紙の書籍が主体で、印刷物として市販されている小説の主人公たちの名前は変えることができなかった。
それが、コンピュータの普及によってテキストの一部を自分の名前に変えることができるようになった。これを女性向けとして利用した人が現れる。これが夢小説のはじまりだと思う。
夢小説の出現よりもひと足早く、ゲームでも主人公の名前を自分の名前に変えることができることが「普通」になっていった。その片手で、インターネット上に公開された名前変換可能なテキスト群が夢小説と呼ばれることになった。
一見違うもののように見えるが、双方デジタル化によって生まれたユーザビリティの結果であり、本質的には同じものであると思う。
そこで、ゲームをしているユーザーは自分の名前のついた主人公を「自分だ」と思い込むことができるだろうか?
これは、できる人もいる、が正解だと思う。自分の選択によって動きを変える主人公が、自分であると思う人もいれば、画面の中で動く人型のイラストを、自分が操っている操り人形だと思う人もいるだろう。
後者については、海外に多い「プレイヤーの視点が画面になるタイプのゲーム」のユーザー間では減少する可能性がある。ゲーム内のアバターをアバターだと認識することは、ゲームのプレイヤーが自身のアバターを俯瞰する形になる、多くの日本産のゲームに特有の感覚かもしれない。長くなりそうなので、ゲームでの視点の話はこの程度にしたい。
余談の最後に、私が思うゲームと夢小説の違いをまとめて、話を「自己投影」についてに戻していこう。
ゲームには操作性の問題がある。主人公の行動を自分で操る事ができる。この点が、ただ与えられたテキストを読むだけの「夢小説」とは大きく異なる点だろう。
夢小説の中に出てくる登場人物の行動を、読者は変えることができない。
夢小説の中に出てくる登場人物のセリフを、読者は変えることが出来ない。
繰り返しになるが、自分の意思とは違う行動を取り、違うセリフを喋る主人公に「共感」するのではなく、「自分だ」と思い込む、「同一化」する事ができるということを、私は特殊な技能であると思う。
私の一歩先を行っているのかもしれない、とも思う。
「同担拒否」を自称する方たちに対して、いくつかの疑問がある。
まず、私が思うのは彼女らは何を読んでいるのだろう?ということだ。
人が書いた小説を読めば、必ず違和感が生じるだろう。お母さんが枕元で、主人公の名前を子供の名前に置き換えて読んでくれることとはわけが違う。クラスメイトに貴方が主人公の小説を書いてもらい、プレゼントしてもらうのとも違う。
ただ、スクリプトを使って文字列を自分の名前に置き換えているだけだ。
好きな食べ物も、癖も、言い回しも、得意な教科もすべて変換するわけにはいかない。そんなに違う「わたし」とどのようにして「同一化」するのだろうか。
自分と恋人の話を綴った物語を公開して、自分と同じように彼を恋人だと思いこんでいる人が読んで、自分の体験が他人のものにされることが不愉快ではないのだろうか?
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本題にうつる前に周りくどく鬱陶しい話をしたのは、前提条件をはっきりさせておきたから、と断っておく。
本題はその「自己投影勢」がなぜ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に怒っているか?
なぜ、私が「自己投影勢」が怒っていることに対して怒っているか?
という話だ。
私がTwitterで観測した限り、怒っている理由には大きく分けて2つあったように思う。私が見かけた2つの理由について話をしたい。
怒っている理由その1
だそうだ。
これは見当違いな怒りであると私は思う。「腐女子こそ夢小説を書くべき論」の中で、たしかに
など書かれている部分はある。
しかし、これは、この記事を書かれた方の意見ではないのだ。少なくとも私にはそう読める。
私が読むところによると、これは、世間から「夢小説」に対して向けられている一般的な感想だ。
偏見としてあげられる言葉を持ち出すことすら許さないならば、許さない人が偏見を持っている人にやめてくださいと訴えるべきだ。怒りを持っていく場所が違う。
誰が発言するかによって怒りが違うならば、それは貴方の心にある差別が原因だろう。胸に手を当てて心当たりを探ることをおすすめする。
そういうのもあるけどそれだけじゃないよ!
としているが、自己投影的な考え方を否定しているわけではない。むしろ、全体を通して自己投影は誰もが持ち得るものだと書いているように私には読める。
そもそも、「それだけじゃないよ!」は嫌っている人に嫌いなものをそのまま食わせる馬鹿はいないので「夢小説はあなたが嫌いだと思っているものよりもずっと多様なものですよ」と話しかける言葉だ。自己投影を貶めることは書いていない。
行間から書いていない言葉を読み取るのはやめたほうがいいと、老婆心ながら言わせていただこう。
そのうち行間から呪詛を感じ取ってこの記事のせいで呪われたなんていい出しそうだ。
怒っている理由その2
というものだ。
はっきり言おう。私にはこの感覚がまったく理解できなかった。そして、これを理解したことによって怒っている。
夢小説のはじまりは、自己投影にある、と言っている人がいた。これは当初のことがわからないので、間違っているかあっているかは問題にしない。
私がこれに対していうことがあるとすれば「だから何?」だ。
だから? 幼稚園児が遊び場の権利を「すべり台はわたしが先に使っていたのでわたしのものです」と主張するくらいにどうでもいい。
余談としてゲームと夢小説の部分で触れたが、主人公の名前を変えるという考え方自体は珍しくない。それを二次創作に使うことは、誰にでも思いつく可能性があったことだと私は思う。
夢小説が流行り始めた当初、このスクリプトを自分で書くことのできる人は少なく、多くの人が他人からこれを借りた。
その借りた先の人が「夢小説」あるいは「ドリーム小説」と読んでいたのなら、これは自己投影云々についていた名前ではなく、名前変換というシステム自体につけられた名前であると私は思う。
異論はもちろんあると思うが、自己投影がたしかに原初であったとしても「だから何?」と私は返すだろう。
夢小説のルーツでの幼稚なマウント以外に、私は「追い出される」という感覚が理解できなかった。なぜなら、10年以上も前から、自己投影勢もあったし、オリキャラ勢もあった。共存していたのだ。
古の超大手夢小説検索サイト「ワンドリサァチ」さんのキャッシュからも、当時から細かく別れていた傾向のチェックボックスを見るとわかるのではないかと思う。
ちなみにワンドリサァチさんがページ消失したのはかなり昔のことだ。ワンドリサァチさんの消失は夢小説界隈を、まるで神に言語を乱され方方に散ったバベルの塔の逸話のように、引き裂いた。
夢小説史はさておき。なぜ突然、オリキャラ勢が押し寄せてきて……なんていいはじめたのか。
たしかに数年前から「夢主はオリキャラです」と発言しやすくなったことは感じているが、これはオリキャラ夢主で夢小説を書く人たちが、仲間を募り、自身の創作を楽しんだ結果であると思う。彼らは自分たちで、自分たちの楽しむ場を作った。これに嫉妬しているとしたら、理解に苦しむところだけれど、同担拒否です!この小説は私じゃないので読めません!なんて言って、他人を牽制しまくっている人がいるのなら、仲間が増えないのは当然だろうと思ったのでこの点は言及するのはやめておこうと思う。
私にとっては、自分の好みではない作品が増えたところで、自分の好きなものの絶対数が変化しなければ、どうでもいいことだったのだが、彼女らにとってはそうではなかったらしい。
問題になった「腐女子こそ夢小説を書くべき論」では、腐女子にBLを主題として扱った夢小説を書くことを勧めている。
このことに対してアレルギーを起こしたように反応している人たちがいた。
そもそも、オリキャラ夢主と自分の推しが恋愛しているという情報自体が気に入らないのだそうだ。
腐女子が参入することによって、腐向けでもあり夢小説でもあるものや、彼女らにとって不快なものが増えることによって、住処を追われるのだそうだ。
先述の通り、昔からオリキャラを主人公とする夢小説は存在していた。
夢小説を愛好する人の中には「腐向け」を嫌う人は多い。しかし、夢小説の中には「腐向け」の夢小説、BLDと呼ばれるものもある。BLの夢小説は彼女らが何を思うことにも関係なく、すでに存在する。
はっきりいいたい。「何様のつもりだ」
インターネット上は公共の場所だ。不愉快なものを見ることもあるだろう。しかしながら、貴方にとって不愉快なものは、誰かにとっての大切なものだ。それを見て貴方が気分を悪くするだけならいい。
気分が悪くなるから、遠慮しろ、肩身を狭くしていろ、というのは傲慢がすぎるのではないか。
腐女子も好きなジャンルで、自分が好きなカップリングとは受け攻めが逆のカップリングが増えてしまうこともあるだろう。逆CPは見るだけでイヤだという人も多いだろう。しかし、だからといって自分の気に入らないCPをの悪口を言ったり、そのCPが増えてほしいという人に、私の地雷だから布教活動をしないで下さい、と訴えることを考えて欲しい。
私なら人混みで鳩尾に肘を入れるし、靴を踏む。(暴力はよろしくないと思うがそれくらい腹立たしい)
貴方が自身の当然の権利と思って言っているそれは、これと同じことだ。恥を知るがいい。
マナーやら何やらで加工して訴えようと、本質は変化しない。貴方は自分が不愉快だからと、他人の活動を制限しようとしているのだ。いかなる理由をつけようと「布教活動するな」と訴える行為が正当化されないことを覚えておくべきだ。
腐女子の人が「自分の好きなものではないので書かない」ということとは、わけが違う。
自分の好きでないものに増えてほしくない、という権利は貴方にはない。
そして、自分の好きなものが数で負けるなら、その分は貴方がかけばいい。貴方が布教して増やせばいい。貴方の夢小説を読んで楽しいと思った人が、同じような小説を書くように努力すればいい。
蝗に怯えて耕作を怠るな。実りのない田畑では人も増えない。
心優しい私は、対処法をあなたに教えてあげようと思う。心して聞くがいい。
Web ブラウザ上の文字列を検索して非表示にするNGワード導入しろ。それくらい自分で調べろ。
最後に、そんな発言をしている人が存在するのか疑問に思う人もいるだろう。それでもツイートを引用することは控えたことの意思は汲んでいただけたらと思う。
「増田君すごーい☆」とおだてておけば何でも言うことを聞いてくれる馬鹿な男を一人捕まえなさい。
馬鹿な男性の自尊心を満たすべく、女性は持ち前の上共感力で「増田君すごーい☆」と言いなさい。
それに呼応するように、馬鹿な男性は田畑を耕し、ビルを建て、政治を動かす。
男性の自尊心が疲れているとき、女性は持ち前の共感力で「増田君がんばれ☆」と言いなさい。
馬鹿な男性の自尊心と、女性の共感力は、それゆえに前線と銃後にお互いの役割を定めた。
社会を作り、子を育んできた。
誰だって愛するあいつのためにでっかいビルを建ててやりたいのだ。
だからお願いです。
雨で急流にもまれて流されていく側溝のカエルを助ける方法について、同じこと小学生の頃に考えて同じように夏休みの自由研究にした。
試した材料は、シュロ、藁の束、細く裂いたスポンジなどを使って実験した。
ショボかったけど機械工作で定期的にゆっくり陸地に上がるようなものも作った。
カエルの自発的な運動に頼るべきで、その際にはどのようにするのがいいのか仮説も立てて今後の研究の余地を示した。
正確な生存率は導きだせなかったけど、カエルがいることで田畑の生態環境にどのような変化があるのかを調べた。
その時の教師に言われたことを今でも覚えてる。
「こんなの研究でもなんでもない。遊んでただけじゃない。夏休み何してたの?」ってね。
その年の自由研究の優秀作品は、女の子が描いた水彩画の「絵日記」だった。
親だって周りの親族だって「あいつはカエルが好きなんだな」程度の認識しかなかった。
カエルが流されるのを可哀そうだといっても、感受性が豊なのね程度だった。
大学生の頃に生態学の研究で同じようなことをやったら田んぼのおっさんに叱られた。
不審者なんだとさ。
世の中そんなもんですわ。
追記
みなさんが生きていく上できっと袖振り合わすこともないであろう「側溝の中の人」について紹介しておくよ!
例えば「全国小動物保護側溝研究会」とか知ってもらえればうれしく思います。
こういう側溝に落ちる動物なんかを研究しているところは結構あるので、ぜひ覗いてください。
ちなみに僕は「全国小動物保護側溝研究会」の中の人ではないので悪しからず。
さて、特定される可能性もあるからかなり端を折ったけど、小学校の研究について少し補足しておくよ。
身バレするかもだけど、そうなったら余生をひっそりと側溝で暮らします。
カエルに注目していたけれど、側溝で流されるのはカエルだけではないことが分かった。
流されてきたものを挙げれば、昆虫などが一番多く、次いでモグラなどの小動物が多かった。
側溝の15cmの水深で溺死する人もいるくらいなわけで、雨水を流す側溝はなめたらダメだ。
そして意外にカエルは途中でどうにかしてた。
落ちた動物での死亡率で言えば、モグラなどの小型哺乳類はほぼ100%に近い値で死に至っている。
カエルやヘビの類は結構自力で何とかするから案外側溝に落ちた場合の死亡率は低いというのはわかった。
(あの時、実験のために側溝に落としたヘビさん、ごめんなさい)
したがって、カエルだけを救済するような道具では生態系のレベルでみたら「ほぼ役に立たない」というのが結論だった。
小学生の頃に示した研究の余地は「モグラなどの小動物はカエルだけに着目した道具では助からない。
生態系という広い目で見た場合には側溝の構造そのものを変える必要がある(くぼみを作って水が滞留する場所を作るなど)」といった感じ。
先生は、この「ほぼ役に立たない」という結果と「側溝の構造そのものを変える必要」という提示に対して「こんなの研究じゃない」と判断したんだと思う。
思うに、結果は必ず成功したものに限った話じゃなくて失敗だって研究結果なんじゃないのかと。
こういう失敗があるからこそ、同じようにカエルを救ってやろうとした人間が、僕のような失敗例から学んで側溝がブラッシュアップされていくんじゃないのかと。
「ナマモノ」とは、実在の人物(3次元)を題材にした二次創作物の総称です。
簡単に言うと、タレントや俳優、アイドル、お笑い芸人などを登場人物として使ったフィクション(虚偽)です。
そして、この「ナマモノ」の取扱は慎重に行わなければならない、とされています。
①題材とされている本人、及び関係者の目に触れられるような環境に置かない
②そういった嗜好を持たないファン、また一般の方の交流とは区別する
などがあります。
それは、題材とされた本人やそれを取り巻く環境にいる人の感情を尊重し、また、肖像権を守るためです。著名人と言えどもひとりの人間です。自分の人格や行動に脚色やフィクションが加えられたものを見て、どういう感情を抱くかは人それぞれです。もちろん「何とも思わない」方もいるかもしれませんが、不快に思う方もいるかもしれません。いわばこれは、グレーゾーンです。そんなグレーゾーンなことなら、わざわざ公にしてやる必要は全くないのです。
さて、本題に入らせていただきますが、先日このようなナマモノ界隈のルールに対し、真っ向から異論を唱える性差別反対派、表現規制反対派の方々を幾度かお見かけしました。
その方々の主張することには、
「本人から嫌悪感を持たれるかもしれないという危惧自体が性差別で不快、よってナマモノルールなど不要」
「表現の自由が保障されている日本で、ナマモノルールを遵守することは表現の自由の侵害にあたり、出版妨害と同等」
だそうです。
日本では表現と言論の自由が保障されているので、今から私が伝える主張も保障されます。もちろん表現規制反対派の方はこの但し書きをすんなり受け入れられますよね?
論 点 が お か し い 。
じゃあ表現の自由掲げてあんたらのフィクション妄想小説書かれても文句言わないのか。あんたらの子供や親や親戚や恋人や配偶者や親友や上司や部下も題材にされて、他人の公衆オナニーのオカズにされてるの見かけてもなんとも思わないのか。例えそれがあんたらの性的嗜好とは著しくかけ離れていても?これは感情論じゃない、人権問題の提起だ。
それとも著名人には有名税があるから、その対象にされることは当たり前でしょうがないって言うのか?それこそ今度は職業差別じゃないのか?
そんなの強姦致傷で逮捕された某俳優が好意持ってたセクシー女優に関して「あの女が一発やらしときゃ」って言い放った某女形コメンテーターと同じだろ。
表現する場所を区別することが表現規制?渋谷のスクランブル交差点のド真ん中で「性差別反対!」ってセックスしてるカップルを見かけてもそれが言えるのか。
島が違う。論点が違う。こっちにはこっちの意義を持ったルールがあるんだ。自分たちの信念と主張を通すために、よく内情を知りもしない界隈にズケズケと入り込んでくるな。
ナマモノ界隈では常に「最悪の事態」を想定してルールが定められています。こっちにはこっちの複雑な事情があってそういうルールがあるんです。明文化されたものだけがルールじゃないことは、もう皆さん大人ですからわかりますよね。
アニメの二次創作や、表現規制反対派の方々が守ろうとしている表現の対象と違い、こちらの表現の対象は、いち個人として生きています。感情を持っています。だからこそ、表現の自由や性差別問題以前に、「人権」と「公序良俗を守ろうとする人としての良心」が最優先になってくるのです。本人が気分を害する、あるいは法に基づき対処するという「最悪の事態」を未然に防ぐためにある程度の規制線を張っているのです。
しかしそれは「公共の福祉に害を及ぼさない限り」です。自由だからといって、公共の場で何を表現してもいいとは限らないのです。レストランで「うんち」と発言した小学生が叱られるのと同じ道理です。
ナマモノ界隈において、「このジャンルも規制されて閉鎖的になってしまってる!新しい表現者がかわいそうだ!私たちが開拓させてあげなければ!」という正義心は本当にいらないです。ましてやそこに差別問題や違憲問題を絡ませるなどもってのほかです。お門違いも甚だしいです。
表現規制反対派の皆さん、性差別反対派の皆さん。お願いですからナマモノ同人界隈に関しては放っておいてください。何事にも例外はあるものです。私たちは私たちで意義があり独自のルールを守っています。今の状態で安定しつつある田畑に、勝手に肥やしを与えないでください。お願いします。
てかさ、何で皆そんな冷静でいられるの?
しかも自分で決めた納期でしょ!?てか10年もあったんだから、完成してから発表しろよ!
ファンもファンで、なんで「スタッフの皆さん、体調に気をつけてください。私たちは待ってます。」
みたいな感じなんだ。もっと怒れよ!それとも私みたいに本心では怒ってるけどTwitterだと他のファンが怖いから自重してるの?
スクエニさんだって仕事でやってるんだからさ、納期守るのは基本でしょうよ!
趣味で作って配信してくれるんだったら、あらそうええどうぞ待ちますよってなもんだけど、
こちとら何ヶ月も前から、限定版も予約しているわけ。カウントダウンして待ってたわけ。
てっか、そもそも10年前、一番最初に発表された時から待ってたわけ。FFファン歴19年だけど、半分以上FF15待ってるのよ。
途中、「えっ…、開発…まだ続けてるよね?」って時期とか、「ヒロイン変わっちゃってるやん!ステラじゃなくなってるやん!」いう時代もFFへの愛ゆえ耐えた。
そして、もしかしたらこの10年で一番変わってしまったのは私自身かもしれない…。とかセンチメンタルになったりもした。
ともかく、9月30日、もう有給とるって職場で宣言してたし、その日に向けて心身ともにコンディションを整えていたのだわさ。
長時間プレイしても疲れない最適な家具の配置。徹夜対策として、短期間で疲れがとれるように快適な寝具の準備。
新しいテレビの購入。キングスグレイブを定期的に鑑賞してモチベーションの維持。当然のごとく体調管理。
そして発売までに決して事故に遭うことなどないよう、細心の注意を払いながらの生活。それらの私の努力はどうなる!?
若い子だったら他にも楽しみがあるから2ヶ月くらいの延期だったらなんてことないのかも知れないけど、
あと1ヶ月半で絶対退院できますって言われてて、「ごめん、やっぱり3ヶ月半ね」とか言われたら
もうさ、極上クオリティとかはいい。たぶんグラフィックの精度とかの話でしょ。
モンスターとかハリボテでもいいから、プロトタイプ的なのでいいから、とりあえずやらせてくれ。
完全版は後でいいから...冨樫先生みたいにさ、ジャンプには下書き載せる感じでいいからさ、
2ヶ月あったら、本来の9月末ならプレイできたのに、亡くなったりしてプレイできなくなる人もでてくるよ。
それを言ったら、10年の間に既に何人かお亡くなりになってるだろうけど…。
もし私が2ヶ月延期したせいでFF15できなくなったら、ラグナロクになっちゃうよ。
そして、「絶望を贈ろうか」とか言って真っ先にスクエニ本社のあの窓落ちてきそうなビルにアルテマだよ?
そしたら多分その話がFF16になるかもね…?
そういえば噂では、プレステNeoだかVRだかのタイミングに合わせて云々…とか言ってるけど、
もしそうだったらマジで怒るからね。それこそなんでソニーさんと予め打ち合わせしてなかったの!?ってなるからね。
そもそも、田畑Dが発表する前に、延期情報がネットに流れてたよね。なんで?
このご時世、どこかに延期情報伝えたら、全体への流出は必至だよね?
悪い情報を相手から直接聞くんじゃなくて、別ルートから聞くって、古今東西最悪のパターンじゃないの。
悪い情報ほど、相手に直接すぐ伝えるってビジネスの基本だよね。
こっちはさ、よそから情報が流れてきても、「きっとデマだ」って心を強く持ってたのよ。
だからさ、田畑Dの動画みたときにはリアルガチで泣いたよ…。えっ…、ほんとだったんだ…って。
2年ぶりくらいに涙流したよ。あれ、私の乾燥しきって砂漠のような心でも涙って流れるんだ…ってちょっと感動しちゃったよ。
それとさ、何で火曜日なの?ファンのこと考えてないの?火曜はうん、休むよ。水も場合によってはいけるかも。
でも、火水木金て連休は絶対無理じゃん。ならもういっそ、年末に出して欲しかった。紅白と笑ってはいけないに挑戦状叩き付けて欲しかった。
なんでそんな微妙な日なんだ。なんかあるのか。なんなんだ。電通の陰謀なのか?
世の中のことはだいたい電通が操ってるってお姉ちゃんも言ってたからな…。
Twitter界隈とかではオフ会とかやって盛り上がってるけど、もっと、9の時のコカコーラとのコラボとか
ポーションとか、実生活に食い込んで来るイベントやって欲しい。アメックスとか、微妙なコラボじゃなくてさ〜。
キングスグレイブだけじゃなくてさ。
金なら有るんだよ。金なら。今ならコカコーラを買い占めできる。
まあ結局ね、長々と書かせてもらったんですが、
なにがいいたいのかっていいますとね、
ポケモンGOはモンスターボールを使ってポケモンを手に入れるゲームだ。しかし、ボールからポケモンがランダムに逃げ出すので、ボールがあってもポケモンを必ずゲットできるわけではない。
「魔法石があってもモンスターを必ずゲットできるわけではない」「聖晶石があってもサーヴァントを必ずゲットできるわけではない」というゲームと比べるとよく分かるように、石がボールに置き換わっただけにすぎない。ポケモンGOもよくあるガチャゲーの一種だ。
ネットメディアの記事やTwitter、FacebookなどのSNSではこれがあまり認知されていないように思う。その理由をいくつか考えてみたので、過不足や間違いがあればツッコんでほしい。
原作ゲーム(赤・緑・金・銀など)のモンスターボールもポケモンをゲットできるかはランダムだ。(ポケモンがボールの中に入った瞬間にスタートボタンを押し続けるとかいう類の裏技があったよね)
ポケモンGOはこのモンスターボールのランダム性をガチャとして利用している。原作ゲーム版の仕様をただ再現しているだけに見えるので、これがガチャだと気づけない。
影響力のあるネットメディアのライターの多くは、都心や駅などのポケストップが多くある場所にいる。(東京で消耗して高知に移住した例外もいるが……)
そのような場所では周りが田畑しかない田舎の住宅地と異なり、課金せずともモンスターボールが大量に手に入る。
つまり、ネットメディアのライターにとっては課金の必要性が低い。普段課金を意識することがないのでガチャを連想することができない。
ポケモンGOは過去に類を見ないほどの盛り上がりを見せている。今はポケモンGOについてテキトーな記事を書けばPVが稼げる時期なので、わざわざネガティブな意見(田舎住みの人のTwitter投稿など)を紹介してPVを下げるような真似はしない。
加えて、ネガティブな意見を堂々とネット上に書くとかなり冷ややかな目を向けられる。(「ポケモンGO利用者を心の底から侮蔑する」と発言した人のように)
http://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima
ゲームの企画書というサイトで、ジャンプの伝説の編集長だった鳥嶋は
http://www.4gamer.net/games/075/G007535/20160422129/
FFの開発者も、ここ最近のFFが微妙であることは認めつつ、昔のFFはよかったみたいなことをほざいているわけだ
それ何時代の話?って感じ
しいていうならば、FF3くらいまでは対ドラクエに対して見せ方の工夫というスタイルで対抗していた部分があるから
サイドビューの戦闘画面とか魔法のエフェクトとか、飛空艇だのジョブシステムだのと
ドラクエにたいするいろいろな工夫はしていたとは思う。
でもそれは見せ方の話で肝心のゲームは至極ありきたりな、敵たおしてレベル上げてお金貯めて武器買ってボス倒すってやつだ。
FF2の熟練度なんていうせっかくのユニークなのシステムもやめたしね。
とにかくFFのゲームシステムってそこまで斬新で最先端ってわけではなかったわけよ。
でもそれが良かったわけで、だからこそ大衆に受けたわけでしょ?
FFが生き残って、ロマサガがマニア受けどまりでシリーズが終わったのも
そもそもRPGって見せ方のジャンルだよねって思わなくもないし、それでもいいのかなって思ってたよ。
ゴリゴリにマニアうけするFFってのもそれはそれでおかしいとは思うしね。
とにかくいいたいのは、FFはグラフィックはこだわるけど骨格のゲームデザインはかなり保守的なゲームだったという話。
任天堂やその信者にやたら64時代に馬鹿にされてたのもそのあたりだったよね。
噂だけど、SFCのマリオRPGでインタラクティブを重んじる任天堂スタッフと反りが合わなかったという話を聞いたことがある
それからしばらくして。スクウェアがPS参入して任天堂との確執は決定的なものになるわけだ。
N64とPS時代の話といえば任天堂対スクウェアのインタラクティブVSムービー(ゼルダ対FF)という感じだったよね。
武蔵伝などやった当時のオタクたちは、スクウェアってアクションゲーム作るの下手だよねと評していた。
でも、当時のスクウェアはそれでいいとおもってるくらいの堂々としたものだった。
おそらくそれで売れてたからだろうね。勝てば官軍売れれば官軍ってことなんでしょうね。
それが時代が過ぎてなにやらFFは馬鹿にされるジャンルになった
しかも馬鹿にする人は任天堂派の人たちだけじゃなくなったわけよ
馬鹿にする根拠はまぁあのヘンテコなホストな髪型とかそういうのも含めてなんだろうけど
なんつーか今のFFを腐すために過去のFFがやたら持ち上げられてるんだよね。
だからもう一度言う
それ何時代にあった話なの?ってね
過去の美化された記憶じゃないんでしょうかね。少なくともFFがゲームデザインで先端だったことはないよ
今も糞だが、昔も糞だ!
これは・・・
スクウェアの映画=Final Fantasy:The Spirits Within と必ず比較するし、大成功したFF7アドベントチルドレンには触れない。
また、なぜかアニメやCG作品の方に注視して本編の話題には触れない傾向にある。
日本でだけ、劇場でやるがCGのクオリティを見てびっくりした担当者が劇場で上映すること進めただけで、メインは配信である。
ディレクターである田畑氏によると、FFから離れていった人を作品本編に引き寄せる一種の入り口として捉えているようだ。
つまり、ぶっちゃけいうとあれは「宣伝」である(110分のCG映像作品が宣伝というのもまたすごい話だが)
そのため、FF15の本編が始まる前に、ネット配信される予定である。
しかも既に配信開始されている。
本編に興味がないのだ。
まぁ、そういう気持ちはわからないでもないしそこに関しては強く言う気持ちはない。
主人公達のキャラデザに関しても癖の強いものであるのは確かだし、その点に関して文句を言っている人を批判したいわけではない。
しかし、安易にネタをネタとして消化しすぎなのは少々気になる。
主人公達の服装が気に入らなくて、これだからゲーム作ってる人はなんて意見を見たりしたが、あの服のデザインを造っているのはRoenという本物のファッションブランドである。
だからといってダサいのは変わりないというのも正しい意見だとは思うがぶっちゃけ、この辺の情報みんな知らずに言ってるしわりと適当である。
昨日の発表イベントではFlorence+the MachineというUKのアーティストがStand By MeのカバーをFF15に提供すること、ロードオブザリングのボロミア役で有名なショーン・ビーンが主人公の父である王役で出演すること(声優)
ブレイキングバッドのピンクマン役のアーロン・ポールが声優で出演することが発表されていた。
ディレクターが野村から田畑に変更されていることを知っている人はどれだけいるだろうか。
体験版のアンケートで日本だけが突出して、「キャラ」・「難易度」・「何をしていいかわからない」に不満が集まっているのを知っている人はどれだけいるだろうか。
田畑がディレクターになってからこれらの情報を曲解されるのを防ぐために、幾度もネット配信で慎重に言葉を重ねていたのを知っている人はどれだけいるだろうか。
そして、そのせいでアメリカ人から前フリが長いといわれているのを知っているだろうか。
台湾の会社と協力していたり、TaipeiGameShowの存在を知っている人はどれだけいるだろうか。
PAXというアメリカのゲームショウの存在を知っている人はどれだけいるだろうか。
PS4のゲームの価格がどんどん上がっているのを知っている人はどれだけいるだろうか。
FF13の専門用語多すぎ問題を踏まえて、わかりやすい言葉で物語を進めることに注力しているらしい。
どうも、はてな民は任天堂の記事が取り上げられることが多いせいで、自然に任天堂の情報ばかり目に入り、ゲームの情報はネタ的なゲハの話題が挙がりやすい傾向にある。
自覚していないのだが、コミュニティに依存するあまり無意識に任天堂信者になってしまっている傾向にある気がする。
まぁ、おれもゲハ民なんだけどね。
主人公の親父はクリスタルを使って魔法障壁をはって国を守っている。
主人公とお供の3人組で(護衛役・参謀・高校の友達)で敵国から逃げながら国の奪還を目指す。
主人公は王族で特殊な能力を持っていて武器を召喚して使うことが出来る。
釣りができる。
ガス欠すると押して運ぶ→レッカーで金を払えば移動できるらしい。
基本車で移動。
チョコボもある。船もある。
ちなみに車は改造すると空をとべるようになる。
→他にも色々アルらしいけどまだよくわからん。
最初ノムティスがディレクターだったけど、途中から田畑という人に変わった。
→部の仕組みが硬直化していたので上下関係をぶっ壊して競争させたらしい。
田畑ディレクターに変わってから、実は自ら何度も生放送をやって情報公開をしている。
されたね。
私は、脱原発派だから、残念ではあるけれども、現実の政治情勢を考えると止めようはなかったのだろう。
やれやれ。
動かした以上、何事もないことを祈る。
逆に言えば、こんど深刻な事故を起こしたら、さすがに原発の命運は尽きるだろうな。
原発に関する議論は、賛成派・反対派のどちらの視点からも、ほぼ出尽くしたと言えるだろう。
だから、特に付け加えるつもりはないけれども、現実問題として、今後、日本で多数の原発を稼働させるのはもう無理なんじゃないか。
川内の次は、どこなんだろう?そういう議論さえあまり聞かないところを見ると、再稼働への作業があまり進んでいないのだろう。
原発推進派からは、何かと批判の多い再生可能エネルギーの利用だけれども、将来的には大きな伸びが期待できるであろう。
再生可能エネルギーは分散的なエネルギー源なので、いままでの発想を転換する必要がある。
特に太陽光発電を活用して、住宅やオフィスビルでエネルギーの自給自足ができるようになっていくだろう。
徐々に、原発のような集中エネルギーに頼らなくてもすむようになっていく。
再生可能エネルギーへの定番の批判は、「お天気まかせで、当てにならない」というものだが、この状況も大きく変化する可能性が高い。
というのは、電気自動車の大量普及が数年後に迫っているからだ。
電気自動車が普及し始めると、大容量のリチウムイオン電池が安くなる。
こうして、再生可能エネルギーの不安定性は問題ではなくなっていくだろう。
タダ同然で、太陽光パネルが手に入るようになれば、人々はなんとか使いこなそうとあれこれ工夫する。
大量の蓄電池を用意しても、十分、元が取れるようになる。
再生可能エネルギーの普及は、全く新しいパラダイムシフトなので、なかなか理解されにくい。
ただ、近い将来、確実に起こるだろう。
元増田です。多少情報が増えたので、面倒臭いので逃げていた漏電遮断器の話を多少書いてみます。長いので読んでも特にためにはなりません
今回の事件で一部報道とかで『電気柵の電源部分に漏電遮断器を設置しておけば防げた事件だった』という言い方をする人がいるが、これはある意味では正しいが間違ってもいるし、今回の事件にとっては本質的な要素ではない。
電技解釈第4節「特殊施設」の第224条で[電気さくの施設]についての規定があり、
『田畑、牧場、その他これに類する場所のうち、人が容易に立ち入る場所に電気さくを施設する場合にあっては、電気さく用電源装置に電気を供給する電路には、電気用品安全法の摘要を受ける漏電遮断器(定格感度電流が15mA以下、動作時間が0.1秒以下の電流動作形の物に限る。)を施設すること』
下の方に書いてます。
http://anond.hatelabo.jp/20150724092101がよくまとまっているのでそれへの返事です。読んでも電気の知識のない人には意味不明です。
そもそも電流差で作動する漏電遮断機はこの例のように漏電させてナンボな用途には不適切じゃなかろうか。
2次端子A→(A)→電柵
2次端子B→(B)→アース
トランス2次端子A→漏電遮断器(の左側の端子)→(A)→電柵
トランス2次端子B→漏電遮断器(の右側の端子)→(B)→アース
という回路を作った場合、アースに繋いだ瞬間に漏電遮断器が落ちる可能性があるせいです。
例の、送電の勉強したときに出て来る静電容量の関係です。ちゃんと計算してはいませんが、それなりの長さで電線引っ張っていった場合、電線と地面の間をコンデンサが延々と繋いでる例の図っぽいものが再現されることになり、いきなり漏電判定される可能性があります、というかどっかの現場で似たようなことがあって原因に気付くまで大変でした(遠い目)。
保護回路いれるのなら、トランス2次側端子Aと電柵の間に電流制限する何か、
例えば mA で反応する高感度遮断機なりポリスイッチっぽい素子のような物を挟むのが正解なはず。
(それぞれ一般に売っているかは知らない)
これは現実的ではないでしょう。先述の静電容量による誤作動問題をクリアできていたとしても、別の問題、というかより本質的な問題があります。
つまり、電気さくは、人間が常時監視せずとも、ほったらかしでも動物を寄せ付けないのが最大のメリットです。高感度・高速型漏電遮断器を設置した場合、動物(や飛んできたゴミやら植物やら人間やら)が触る度に手動で再始動させてやる必要があります。
今回のような違法施工を行った設置主がそんな不便な装置に満足すると思いますか?
つまり、「漏電遮断器を設置していれば」というのは、「ちゃんとした電気柵用の電源装置を使っていれば」とか「専門の業者に施工を依頼していれば」とか「あんな高電圧を流してなければ」とか「あじさいぐらい鹿に食われてもええやん」と言ってるのと大差ないです。
ポリスイッチも、動作特性的に感電から人間を保護できるほど反応の速度の速い物があるかは疑問です。
「毎回の放電の度に、それこそ高速型漏電遮断器が動作した場合よりもさらに高速で電源を遮断している」
的な回路になっています。電流値を監視して一定値より大きかったら遮断しようとか何とか、そういうややこしい判断は挟まず、毎回毎回止める方が確実でしょう。
何にせよ2次側は2次側で閉じた系になるはずだから、1次側上流に漏電遮断機が入っていても反応し
ないんじゃなかろうか、ってのには同意。
この点はその通りです。と言いたいところですが、単巻トランス(一部ブコメで出ていたスライダックも単巻です)とか1次側2次側が非絶縁のトランスだと、縁切りできてないので、先ほど書いた「アースに接続した瞬間に静電容量のせいで漏電遮断器がトリップする」もあるんじゃないかと思います。まあよっぽど敏感でない限り作動しないとは思いますが、一応。
というわけで「漏電遮断器と電気さくの話はあまり関係ない」というのが結論になります。
電気解釈に書いてるとおりの場所に漏電遮断器を設置した場合の目的とは、
「電気さく用電源装置が故障して、装置から漏電していた場合の事故を防ぐ」
ということになると思われます(ここはちょっと自信なし。識者の解説希望)。
市販品の電気さく用電源装置は(ごくごく短時間動作の繰り返しとはいえ)、数千ボルトの高電圧を発生させています。こういう装置については、漏電遮断器を設置すべしと定めるのは、たしかに理に適っています。
電技解釈で漏電遮断器について書いてるのは第40条[地絡遮断装置等の施設]なんですが、これだけでは電気さく用電源装置が該当するかしないか分かりにくいので、第224条に明記しておくという方針は理解できます。
以上が本題です。以下は余談です。やる気がなくなったら書くの止めるし対象読者特に決めずに書き始めるので尻切れトンボになってたらお前ら察しろ
遮断器の一種です。漏電(electric leakage)が起きたときに、回路を遮断する機器(circuit breaker)です。一般的な略号はELB。
現場で「漏電ブレーカー」という言い方もしますが、大変紛らわしいことに「漏電警報付きブレーカー」というものも世界には存在しており、それもよく「漏電ブレーカー」と呼んでる人がいます。間違えると困る場面ではちゃんと確認しましょう(電気屋以外そんな場面に遭遇しねえよ)。
基本的に電源というのは端子が二つ(以上)ついており、一方の端子から送り出した電気がもう一方の端子から戻ってくる、という形で電気が流れます。
※嘘です。送り出し端子と戻り端子に同時に触ると普通は感電してとても危ないです。
で、送り出した電気が、そのまま戻ってこないで、どこか違う場所に流れるのが「漏電」です。
「どこか違う場所」と書きましたが、漏電の場合には実際流れる場所はほぼ決まっており、アース、つまり「地面」へと流れ出すのがほとんどです。
これを「地絡」と言います。
慣用的に「漏電」と呼んでるものは「地絡」、つまり本来の電気が通る道(電路)の途中で電気の一部が漏れて、地面に流れ出してしまうことです。
送り出しの電路と戻りの電路に同時に触った事による感電事故ももちろんたくさんあるのですが、今回の事故、そして日常的にもよく発生するのは、こっちの漏電による感電事故の方です。
さて、先ほど書いたとおり、電源というのは端子が2つ(以上)ついてて、送り出しと戻りとがあって、両方を繋ぐことで初めて電気が流れます。
ですので、電気が流れ出さない状態であれば、たとえば裸電線に素手で触っても電気は流れず、感電もしません。
「地面には無限に電気が流れ込むから漏電(地絡)が起きる」と考えている人がいるかも知れませんが、そういうものでもありません。
たとえば、バッテリーを用意して、一方の極だけを地面に繋いでやって、もう一方の極は何も繋がない状態にしても、電流はほぼ流れません。
じゃあどうして地絡が起きるのかというと、電源の一方の極が、実際には地面に繋がっているからです。
さて普通の交流電源は、極の一つが接地、つまり地面に接続した状態で供給されています。家庭で普通に使うコンセントに供給される電源も同じです。
電源プラグをコンセントに差し込むときに、左右の向きを気にする人はあまりいないと思いますが、実際には左右で電気的な意味は大きく違っていて、普通は一方が接地側極、もう一方は電圧側極と呼ばれる物になっています(左右どっちがどっちかは本当は規定があるんですが、間違って繋がれてることが割とあるのでここでは書きません。調べるとすぐに分かりますし)。
接地側極に素手で触っても、普通は感電しません。一方、電圧側極に素手で触ると…感電しないことも実はたまにはあるのですが、普通は感電します。
電源の電圧側極→電線→コンセントの電圧側極→人体→(家とか床とか何か地面まで繋がっているもの)→地面→電源の接地線→電源の接地側極
という経路で電気が流れます。途中の家とか床とかの絶縁が完璧であれば、たぶん感電しないで済みます。
逆に地面の上に直接立ってる状態だと激しくびりびりします。この事故を防ぐのが漏電遮断器の役目です。
電源の電圧側極→電線→ELB(慣習的には左側端子)→電線→コンセントの電圧側極→何かの電気器具→コンセントの接地側極→電線→ELB(の右側端子)→電線→電源の接地側極
という経路で電気が流れています。ELBを通って流れた電気は、ELBを通って電源に戻っています。このとき、ELBは何もしません。
ここで地絡事故が起きると(話を簡単にするために地面の上に立っていたとします)、
電源の電圧側極→電線→ELB(慣習的には左側端子)→電線→コンセントの電圧側極→人体→地面→電源の接地線→電源の接地側極
という経路で流れます。先ほどと違って、ELBの右側端子を通らずに電気が流れていますね。そうするとELBは
「あ、左側端子を通っている電気と右側端子を通っている電気の量が違う! これは漏電だ、ヤバい!」
と判断して電源を遮断します(これをトリップするとか飛ぶとか言います)。
当然、停電するので、懐中電灯を用意して漏電遮断器の設置してある分電盤まで出掛けて
「あ、やっぱりトリップしてる」
と言いながら手作業で復旧動作しないといけません(で、漏電原因が取り除けてなくてすぐにまたトリップする、というのもよくある話です)。
ざっくり言うと、普通の電気柵は「地絡事故を起こしてその時の電気ショックで動物を追い払う装置」です。
ですので、漏電遮断器を直接繋いだ場合に起きることとは普通は「電気は流れっぱなしで漏電遮断器は作動せず、保護の役を果たさない」か「動物が触ると毎回毎回停電して手動で復旧しないといけない」のいずれかになります。
※電気さくには稀に「裸電線aと裸電線bに同時に触れると感電事故が起きてその時の電気ショック以下同文」というものもあるらしいですが、とりあえず今回の話には関係しない、と思われます。
上の方に書いた
トランス2次端子A→漏電遮断器(の左側の端子)→(A)→電柵
トランス2次端子B→漏電遮断器(の右側の端子)→(B)→アース
と接続したとします。電柵に触ると、トランス2次端子Aから出た電気はアースを通ってトランス2次端子Bに戻ります。当然、漏電遮断器は「左側端子を通っている電気と右側端子を通っている電気の量が同じだ。これは漏電ではない」となります。役に立ちませんね。
さて、こう書きましたが、この漏電遮断器が実際には動作する可能性も少しはあります。なぜかというとアースに繋がれているのはトランスの2次側端子Bだけではなく、さらに上流の電源についても言えることです。この場合、
(略)→電柵→動物→地面→(略)トランス2次端子Bの経路以外に、
(略)→電柵→動物→地面→地面→大元の電源の接地線→大元の電源の接地側極、
という経路でも電気が流れる可能性があるためです。実際にどういう条件だとどうなるかは面倒で計算していませんが、そっちの別ルートで十分な量の電気が流れた場合、漏電遮断器はトリップして手動復旧する必要があります。
で、さっきまで書いたのは「電気さくに漏電遮断器を直接繋いだ場合」の話です。
次はツッコミ記事の時にも少し書いた「1次側の漏電遮断器」の話です。
といっても実際に起きることは9割方「動作しない場合」と同じです。
米寿を迎えた祖父母を見舞った帰り道、スローガンをたたえた幟が個人雑貨店の出入り口に立てかけられていて、思わず呻いてしまった。
つくし野、という高度経済成長期に作られたニュータウンならどこにでも見かける名前に合わせるかのように、
確かにまたつくし野に戻ろうとしているのが肌に感じられたから。
近くに出来たマンション群の甲斐あってリフレッシュに成功した駅前と変わって、
かつての田畑を宅地に造成した住宅街はそこに住む住人とともに歳を静かに重ねていくように見えた。
もっともその風景の半分は家庭菜園という趣味が景色の一端を担っていて、
静か過ぎる平坦な休農地の隣で騒がしくしていた。
休日の今日は色々な人が出入りしていたけど、それに合わせるかのように田畑もいろいろなモノが植えられている。
年の瀬にしか来ない弁財天でお参り。楼門を支える白く塗ったコンクリを品がないと思うのはいつものこと。
裏手に回って祖父母の名前を確認して安心を覚えるのもいつものこと。
橋に来た。よく伸びる冬の日差しが川面に落とした自分の影を辿ると、
ふと子供の背丈しさない欄干を乗り越えたい誘惑に駆られる。思わずよろけた側を、ごめんなさいと風に乗った自転車が通り過ぎていった。
長い。長すぎる。早く行きたい。ちょうど側を追い抜いていったランナーについていって十秒で息が切れた。
そしてたどり着くは辺境、もといちょっと田舎目な二郎店……時間が悪いのか開いてない。
2キロ先のスタバで時間を潰して戻ると、日も暮れて良い時間になっていたがやはり開いていなかった。
悪い予感がしてスマホで検索すると二郎botにお休みするの店長の声。結局二軒隣の吉野家で散財した。
駅までの帰り道、住宅街にありつつ、いい感じのスイーツのお店を見つけて入る。
嬉しいことがあるたびによくクッキーとケーキを持ち帰ったことをつかの間思い出した。
後々、原宿で偶然入った同じ名前のお店が姉妹店であることを知って、
そっちにある方が失礼ながら違和感が絶えなかったのを思い出す。
残念ながら原宿店は閉じてしまったけど成瀬の方は無事妹と同い歳を迎えたはず。
このお店はどうだろう。
軽く10キロ以上歩いた後のくたびれた気持ちをコートで軽くガードして、
カウンター横のコーナーを物色しながら、半目でチョコレートコーナーを視界からガードする。
二郎の口直しにまた買いに来よう。
GoogleMapは人を知らない。
初めての道が幹線道路を外れてついでに街灯も外れてるのだけど、どうなの。
夜道モードがあれば、良いのにと思う。
いや、このタイトル書きたかっただけで中身は特にないエントリだけど。
空き家が1件あってもすぐには治安悪化とか起きないが、田畑の中でそれやられると、病害虫の温床になってぐぬぬ。
近くを耕してる爺さま婆さまのやる気スイッチがどんどんオフになる負のドミノ開始。
あと棚田や段々畑な。車じゃ絶対に上がれないような急斜面を開墾して農地にしたご先祖様、あんたら大馬鹿だ。山林潰して保水力ゼロの土地をせっせと増やしてたんだぞ。
昭和の昔話によく登場する、隙あらば境界線を自分の有利に直そうとする強欲ジジイがいまこそ必要。
○湯山勇君 この前にお尋ねしておつたときの御答弁について、なお疑義がございますのでお尋ね申上げたいと思います。それは例の狩獵法の「ノイヌ」、「ノネコ」ですね、これはどういうふうになつているか、もう一度御説明頂きたいと思います。
○政府委員(楠本正康君) この「ノイヌ」「ノネコ」いずれも野犬その他の犬を意味いたしておりませんし、又猫とも全然別なもので、種類の違うことを意味しております。従つて狩猟法は犬及び猫には適用がないものと考えなければなりません。
○湯山勇君 ところがこれは林野庁長官から各府県知事に出ております通牒によりますとそういうふうにはなつていないのです。これは愛知県知事からの問合せに対して昭和二十五年十二月二十八日林野第一万六千九百九十九号を以て回答したのには、そういうふうにはなつていない。でこの「第一条のノイヌとは山野に常棲する犬をいう市街地村落に棲息する所謂野良犬はこの範疇には入らないものと解せられたい」と、こういうふうになつておりまして、結局この畜犬が山に入つたもの、種類としては同じものを指しているわけです。林野庁のほうの見解としては……。そうすると種類が違うというのじやなくて、ただその棲息の場所が違つただけであるのです。そうなりますと薬殺の場合に非常に問題になつて来るのじやないか、こういうふうに考えるのですが。
○政府委員(楠本正康君) 私この「ノイヌ」の見解を、動物園の古賀園長に実は尋ねたわけであります。古賀園長はこれは全然もう種類が違うものである。そしてすでに日本には現在はこの「ノイヌ」というものは残念ながらいなくなつたということを伺つておりますが、なお併し只今御指摘のような林野庁の見解等については、更にその点を質してみたい考えでございますが、なお実際に薬殺するというような場合に、山野の、人里離れた山野等において薬殺することはこれは考えられませんので、実際に人畜に傷害を与える犬を、つまり薬殺する意味であります。殊に現に狂犬が出て、真に緊急上止むを得ない場合に限つておりますので、さような観点からいたしましても山野に適用されることはあるまいと、かように考えておる次第であります。
○湯山勇君 今の見解は動物園長のお話だつたということですけれども、これは園長も恐らく若干勘違いしておられると思います。と思しますのは、学名じやなくて和名ですね、日本の名前というのは、いろいろな文献見たのですけれども、やはり「ノイヌ」という名前はありません。「山の犬」となつているのはあります。「山犬」若しくは「山の犬」、まあですから「ノイヌ」というのは、やはり林野庁の言う見解に立つたほうが、この法の適用上から言つても間違いないと思います。そうでなければ今部長の言われた処置もできなくなると思いますので……。
なお都市の中には、都市の真ん中に山がある、例えば私の郷里の松山なんかは市の真中に山があります。そうしてその山の中に相当多数の畜犬の野性化したものがいるのです。そうしていわゆる野良犬がそれに入り込むということもたくさんございまして、このことは、やはり林野庁との間にはつきりした見解統一をなさるのと、そうして今のように山に入ることはないというけれども、事実そういうこともあるということも併せて一つ事施上においては御検討頂きたいと思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0790/01904190790030c.html
○湯山委員 この問題は、ここで議論するにはあまりにもばからしい問題ですし、これでは話になりませんから、あとでもう少しはっきりするようにしたいと思います。
今度資料に直接入ります。たとえば狩猟鳥獣で、これも私はいいかげんな解釈をしておられるように思うのですが、狩猟鳥獣にノイヌ、ノネコというのがあるのです。これは何でしょうか。ノイヌ、ノネコという種名を持つ動物が日本にございますか。まずそれから伺います。
○若江説明員 ノイヌ、ノネコは、元来は家畜でございましたものが野性化いたしまして山野に自生いたしまして、野山におるというのを、のら犬、のらネコ等と区分いたしまして、この場合ノイヌ、ノネコと称しまして狩猟烏獣に入れておるわけでございますが、アメリカあるいはカナダ等におきましてはこれらをファーラル・ドッグあるいはファーラルーキャットというように区分いたしまして、やはり狩猟鳥獣にいたしておるというような例もあるわけでございます。それにならいまして野山に自生しておりますノイヌ、ノネコを狩猟鳥獣に入れておるわけでございます。ただしこれは動物学上の分類では区分がないわけでございます。
○若江説明員 たしか昭和二十二年に狩猟鳥獣に加えたというふうに考えております。
○湯山委員 昭和二十二年というのはちょうど占領下であって、そういうことがよくわからないで向こうの法律をそのまま訳したのではございませんか。
○若江説明員 先ほど申し上げましたように諸外国の例等に徴しまして加えたというふうに考えております。
○湯山委員 東京にノイヌがおりますか、あるいはノネコがおりますか。
○若江説明員 東京都下にはおりません。
○湯山委員 もう一ぺんお聞きします。東京都下にいるのかいないのかはっきりわからないのですか。どうなんですか。
○若江説明員 のら犬、のらネコはおりますけれども、ここでいうノイヌ、ノネコはいないと思います。
○湯山委員 それではどこにおったのでしょうか。それが狩猟されたという報告がございますか。いただいた資料にはそういうノイヌ、ノネコが狩猟されたというのは一つもないのですが。
○若江説明員 お手元に差し上げました資料の中には明記しておらなかったかもしれませんけれども、狩猟統計には狩猟された頭数があるわけでございますので、必要でございましたら、後刻年次別の頭数を御提出申し上げたいと思います。
○若江説明員 ここに持ち合わせておりませんけれども、あるようでございます。
○若江説明員 ノネコにつきまして資料を手持ちいたしておりませんが、あとで調べまして、お答え申し上げたいと思います。
○湯山委員 ノイヌ、ノネコ以外の犬、ネコを狩猟すれば違反になるわけですね。これはどうですか。
○若江説明員 狩猟鳥獣として指定されておりますノイヌ、ノネコを狩猟期間外に狩猟いたしますと違反でございます。
なお先ほど資料の手持ちがないので御答弁申し上げかねましたが、三十五年度の有害鳥獣の駆除の中には、ノイヌ、ノネコがそれぞれ八頭ずつ上がっております。
○湯山委員 狩猟期間以外、それからノイヌ、ノネコ以外の犬、ネコを狩猟すれば違反になるというけれども、狩猟されたものでノイヌ、ノネコと普通の犬、ネコの区別がつきますか。つまり店先につってあるそれを見てその区別がつきますか。
○若江説明員 判別は生息状況によって識別するのが最も判然とするのでございますが、これが店先に並べられたときに、どれがのらネコで、どれがノネコかということは、判別が非常に困難であろうかと思いますが、医学的に胃袋その他を検査して、食性の種類等で判別しなければならぬのではないかというように考えます。
○湯山委員 これは私、妙な問答をしようというつもりじゃないのです。こんな名前を残しておくことは不合理だ。これは今おっしゃったように判別困難だ。解剖して内蔵を見ればわかるだろうといってもわかるものではありません。そういう答弁じゃ何のために質問しておるかわからないので、そういうことをお尋ねしておるのじゃないのです。こういうわけのわからない、種類の名前でもないようなものはこの中からのけなければならぬでしょう。そうしてその野生化したものは人畜に害を加える場合があります。これはさっきおっしゃったように、ちゃんとはっきり野犬狩りとか、野猫狩りというのがあるかどうか知りませんけれども、そういう方法でやらないとできるものじゃないのです。あなた方のいうノイヌだって本来これは人になつく性格を持っていますから、野生化した犬だって、連れてきて飼えばけっこう役に立ちます。そうして非常に利口です。だからその区別をつけようたってつきません。私の家はちょうど松山の城山の下にありましたから、よく知っておりますが、あなた方の言うノイヌの子をとってきて飼うと、とてもいい犬が育ちます。そういうことですから、おそらくこれはアメリカあたりのほんとうの野生の犬というものとそれとをごっちゃにしておると思いますので、そういう判定もできないし、ことにそれによって処罰を受けるというときに、こういういいかげんなものを並べておくというのはよくないことだ。これは考えなければならない。そうでないと困るのじゃないでしょうか。
○若江説明員 仰せのようにノイヌ、ノネコとのら犬、のらネコとの識別は非常に困難でございますが、野生いたしておりますノイヌ、ノネコがいるということも事実でございます。この際これを狩猟鳥獣からはずしますと、ノイヌ、ノネコ等の狩猟に事かりまして、山野にこれを狩りに行くということになりますと、狩猟秩序を乱すということにもなりかねませんので、その点は先生の仰せのように、識別を十分行なうように考えて参りたいと思いますが、大へん困難な点はありますけれども、従前とも入れておりますし、ここでこれをはずすという特段の理由もありませんので、従前通り入れて参りたいと考えております。
○湯山委員 はずす理由がないという理由がわからないからお尋ねしておるのです。はずさなかったら今のように困るじゃありませんか。
○若江説明員 特にこの二種類を加えておりますために大きな障害があったという事例もないわけでございますし、今後ともそういうことのないように私の方でも運営して参りたいと考えるわけであります。
○湯山委員 障害は、こういうふうにお尋ねしてもはっきりお答えができない、また狂犬病の問題とも関連して参ります。そのほか関連するところ大きいのです。ネズミにはちゃんとノネズミという種類があるのです。ところが国の法律でノイヌ、ノネコというのがちゃんとあれば、これはずいぶん迷わしますよ。だからあって益なきものはやはり害があると見ていいわけなんですが、どうですか、これをのける意思はありませんか。
○若江説明員 先ほど来申し上げておりますように、これを直ちに除外するという考えはございません。
○湯山委員 それじゃ、めんどうになりますが、もう少しお尋ねしてよろしゅうございますか。
この犬、ネコの野生化したものですね、これは一体どの程度野生化したものをいうのですか、飼っている親が山に入って、山で生まれたその子はもうノイヌですか。それがたとい町へ出てきても、あるいはどこをどう通っていても、ノイヌというのですか。
○若江説明員 野生のノイヌから生まれましたいわゆる子犬でございますが、これは獲物を山野で得て、山野で自生していくという状態におきましては当然ノイヌと解しております。
○若江説明員 その行動範囲の中でたんぼ等へ出て参りましても、ノイヌであるということには変わりはないというふうに考えます。
○若江説明員 家の中に獲物を探しに来るという場合もあるいはあろうかと思いますが、それはたとえばイノシシが獲物がないために里山に来るというのと同じような現象であろうと思いますので、同然でございます。
○湯山委員 だから間違いを起こすのです。イノシシというのはイノシシという種類です。動物園の中にいようが、山の中にいようが、家の中にいようが、イノシシというのは動物の一つの極数の名前です。ところがあなたは、ノイヌというのは固定した種類の名前でなく、生息の状態であると言う。だから家にいたらどうなるか、田の中にいたらどうなるか、山にいたらどうなるかをお尋ねした。そうしたら今度はどこへ行ったってノイヌはノイヌだ――今度は種類になったのです。それならノイヌとはどういう種類ですか。またもとへ返りますが、どうなんですか。
○若江説明員 もともと山野におりまして、生まれた子供がたまたまたんぼに来た、家の付近まで来たというのは、行動半径の中で行動したのであって、本来終始山野で生活している限りにおいてはノイヌであるというふうに申し上げた次第であります。
○湯山委員 違うでしょう。今おっしゃったのは家の中に入ってきてもノイヌはノイヌ、だとおっしゃったのですよ。さっき私が申し上げたのはそれなんであって、あなたのいう意味のノイヌの子を飼えば、とても利口でいい犬ができます。それでもノイヌですか。生まれたのは山で生まれたのです。飼い方だっていろいろありますから、主た飼い方で聞かなければならぬことになるわけです。
○若江説明員 狩猟家がノイヌをとりまして自分の家で飼養するということになりますと、それは飼養鳥獣でありますので、自己の支配下で飼養されているノイヌであるというふうに解釈されます。
○湯山委員 そうすると、はっきり言ってノイヌというのはどこにどうあってもそれは撃っていいわけですね。
○若江説明員 先ほど来申し上げておりますいわゆるノイヌを免許者が期間中に撃つということは当然よろしいわけであります。
○若江説明員 欄、柵、囲障あるいは人家等で狩猟するということは禁止されておりますので、撃つわけには参りません。
○湯山委員 私はそういうことを尋ねているの、じゃないのです。つまり狩猟の対象になるかということを尋ねておるわけで、今大へんな間違いを犯しておるというのは、その生息の状態だと言われたのが、今部長の御答弁ではだんだん一つの品種になってきておるのです。よろしゅうございますか、品種でないものがだんだん今の御答弁でも、どこにいてもノイヌはノイヌだ、今のように別な規定を考慮に入れればどこで撃ったっていいんだ、こういうことまで変わってくれば、もうそれは、はっきり一つの品種になっているのです。大へんな間違いですから。
○若江説明員 最初に申し上げましたように、ノイヌという区分が動物学上にはないけれども、それが生息の状態からしましてノイヌと判定せられる犬がおる、それを狩猟鳥獣の中に入れておる、そのノイヌがたまたま山野から田畑の付近まで現われてもそれはまだノイヌであろう、こういうふうに申し上げた次第であります。
○湯山委員 あろうじゃなくてこうこうだということが明確でなければ、間違ったら狩猟法違反に問われるわけです。罰金をとられるわけです。だからそういう不明確なものは明確にする責任があります。ところが明確にしようたってノイヌ、ノネコに関する限りは明確にしようがありません。私は前に古賀園長にもこれは聞いたことがあるのです。そんなことはわからぬとはっきり言っておられる。よろしゅうございますか、ほかの動物学者に尋ねてみましても、それはわからない、こう言うのが常識です。もしあなた方がこの法律の中にある言葉だからあるいは規則にある言葉だからというので統一解釈をおつくりになっても、ほかでは通用しません。その証拠には、狩猟されたもので、はたしてノイヌであったかどうかという区別はつかないのですよ。ことに今おっしゃった内臓を抜いて皮と目だけにしてつっておけば、絶対区別がつく人はないでしょう。どうなんです、区別がつかないでしょう。
○若江説明員 内臓を抜きまして皮だけぶら下げたというふうな仮定の問題では、ほとんど識別が至難であろうとは思います。
○湯山委員 そして同じようにノウサギというのは種類の名前です。だがわかります。見ても区別がつくのです。そういうノウサギというのは区別のつく種類でいいのです。ノイヌというのは区別がつかない。ましてノネコに至っては全くわからない。それをなお個室されるところにこの法律がまだ脱皮していない。私が申し上げたのはそこなんです。白痴、瘋癲という、わけのわからない言葉がそのまま残っている。そしてノイヌ、ノネコというようなものが、まだどうもあるようなことになっている。そういうところに不徹底さがあるから、それで抜本的に考えなければならぬのじゃないか。今のようなお考えだとほんとうの鳥獣保護はできませんよ。取り締まる人にもわからないのだから。白痴、瘋癲なんて、読んでも法律もわからない。そしてまだかたかな書きでしょう。これはどうですかね、こういうことにこだわって、そういうお考えでほんとうに鳥獣保護をやっていこう、狩猟の適正化をやっていこうなんて、できますか。そういうお考えがなお残っておって、はたしてできるかどうかです。できないでしょう。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0408/04303120408017c.html