「田畑」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 田畑とは

2018-12-06

〇ンチ

アンチアンチテーゼの略

インチヤードポンド法の長さの単位

ウンチ…そうだね。うんちだね。💩

エンチ…遠く離れた土地や地点

オンチ…音に対して感覚が鈍い人

カンチ東京ラブストーリーセックスをねだられる人

キンチ…風景のよい土地

クンチ…九州北部における秋祭りに対する呼称

ケンチ…田畑の面積と収量の調査

コンチ…Master of EpicのE鯖に存在する現在WLのキャラクター

サンチ…ある物品を産出する土地

シンチ…シンチグラフィの略

スンチ…わずかな土地

センチ…基礎となる単位10^-2乗を表す単位

ソンチ…現存機関施設制度などを、そのまま残しておくこと




つかれた

2018-11-08

田畑さん

FF病で持ち上げてたはてな民がどういう反応するんだろうか楽しみ

トカゲの尻尾切りだとか日本社会の闇とか言って得意の日本死ねネタとして政治的消費するのかな

2018-10-06

anond:20181006165740

田畑なんてあっても邪魔なんだから売れるんならさっさと売りたいわ

住宅じゃなくて相続税対策かいうウリ文句地主に売り込んでくる大東ダイワアパート経営だろそれ

まわりで騙された人いっぱいいるわ

スーパーへ向かう途中にある桜の木が倒れた。

先日の台風の影響とみられる。

老木だったわけではない。

少し前まで周りには田畑しかなく直に吹き付ける風雨によく耐えていた。

今回はいつもより風の力が強かったのだろう。

しかし私にはそれに加えて

新しく建った住宅群によって風が整えられ一直線に桜へ向かい倒されたように見えた。


相続お金が欲しかったのであろうが

先祖代々の土地を売り払った地主の子どもが憎い

開発を許した役場が憎い

2018-10-04

https://anond.hatelabo.jp/20181003195459

ベーシック・インカム論争で思ったことを忘れる前に書いとく。

 

ベーシック・インカムっていう発想は、田舎もんの私からすると、とても都会的な発想に見えた。なんでかというと、田舎には「天の恵み」というベーシック・インカムがあるのだが、最近盛り上がった議論の中では、それについては触れられていないようだったから。

 

田畑で働くのはもちろん「労働」だが、田舎には労働しなくても手に入れられる食べ物は色々ある。庭先に柿の木を1本植えておけば、何も世話をしなくたって秋になれば柿が食べられる。いろいろ食べたいなら色々植えておけば良い。スーパーに行くより簡単に、色々な食料を調達できるようにする工夫は、田舎には色々ある。

もうちょっとボリュームのある所で、例えば稲作の場合田植えと収穫は重労働だが、それ以外の数カ月間の世話というのは、手を抜こうと思えばかなり手を抜くことが出来る。もちろん手を抜いた分、収穫は減ることにはなるだろうが、ゼロになることは稀だ。この「手を抜けるだけ抜いて、それでもなお得られる収穫」というのが、農家にとってのベーシック・インカムみたいなもんである。 実際、高齢者がやっている農地というのは、しばしば入院なんかで放置状態になってしまうことがあるのだが(!)、それでも時期がくればちゃん農作物は実をつけるのだよね。偉いもんだ。売り物にはならないけどね。

 

まり農家にとっては、十分に広大な農地と水源があれば、食料というベーシックインカム保証されているも同然なのである。そのために、長い時間をかけて農地や水源の整備を行ってきた、というのが、田舎歴史のものだと言っても良い。

 

で、これが近代日本でどのように崩壊していったかというと、決定的だったのは人口増加の問題だ。急激な人口増加により、深刻な農地不足が起きた。戦前戦後すぐのころは10人ぐらい兄弟がいる家も珍しくなかったわけだが、そういう家庭では親の農地を10等分したって、大人1人が食っていくことはできない。長男けが田畑を受け継いで、残りの兄弟はどっかへ行かなくてはならないのだ。それで、南米の方に移民して農業をやるとかいう話が政策として行われた時代もあったし、あるいは、農業をやるための農地が持てないので、やむをえず上京し、工業製品を作って輸出して外貨を稼いでなんとかする、という流れが出来たわけだね。

まり現在都心部生活している人達というのは、元を辿れば十分な農地を持てないために、都心部に出て仕事を探さざるを得なかった人たちが多かったということ。「天の恵みというベーシックインカム」を諦めざるをえない人たちだったのだ。だから、「田舎には天の恵みと言うベーシックインカムがあるよ!」なんて話をしたって、都心部の人には意味がない。東京の天の恵みなんて、日向ぼっこするぐらいしか役に立たないもんね。だから、都会は都会なりの方法で何らかのベーシックインカムを実現したいという心情はわかる。

 

===============================

 

「食料は十分にあるのに、分配の仕方がわるい。だからベーシック・インカム改善」という話では、重大な問題を1つ見落としているようだ。「食料が十分にある」という前提は、一部の人達が頑張って労働するからこそ、実現出来ている。「十分な食料」は農家労働だけによるのではなくて、肥料だったり農薬だったり農耕機械だったり、かなり色々な産業労働の結果として実現できているわけだ。

この人達が「ベーシック・インカムお金で貰えるから労働を減らしても良いよね?」なんて言い出したら、「労働を減らす=食料生産を減らす」だから、「食料は十分にある」という前提は、たちまち崩れるじゃないか。それで食料供給が減って相場が高騰したら、都市部の人たちはすぐに、もっとベーシックインカムを増やせ、なんていう話になるに違いない。農産物相場の変動がどれぐらい恐ろしいもんかってことを、知らない都会人が多すぎる。

「食料は十分にある」という前提を崩さないためには、食料生産に携わる人達制度としてのベーシック・インカムが実現しても否応なく、従来どおりの労働を、なかば強制的に続けて、都市部に食料を供給し続けなくてはならない。食料生産を請け負っているのは田舎から、そういう人達立場というものが見えていない議論だと言う点で、やっぱり制度としてのベーシック・インカムは都会の人達の発想だよなぁ。

 

そういう訳で、制度としてのベーシック・インカムの話は、全自動農業が実現・普及して、それで都市部の人の食料までまかなえるような時代になってからにした方が良いと思います。。何でも金で解決すると思ったら大間違いだぞ。

2018-09-07

anond:20180907155105

田畑に適した土地最初に決めたおかげで良いものを収穫できた側面もあるが

2018-07-18

本当の田舎を知らない人たちに、田舎と言わないラインを教える

・徒歩30分以内にコンビニがある場所田舎とは言わない

・50m間隔で街灯がある場所田舎とは言わない

・車で5分走れば国道に出る場所田舎とは言わない、とも限らない

・「イオンしか娯楽施設がない」ではない、「イオンがある程度に開けている」だ

ちょっと畑があるくらいで田舎とか言うヤツは田舎素人

・本当の田舎には田畑もまばらにしかない(手入れされておらず荒野化した畑がある場合はある)

覚えておくといい。

2018-07-11

anond:20180711123432

元増田の「新住民が~」という話は完全に偏見だけど、ああいう悪い土地引き継いでるのはだいたい分家の人たちでないかな。

あと最近だと若い子供休耕田田畑埋め立てて自分の家建てたりってことも多い

2018-05-14

anond:20180514135805

たぶん、あぜ道のことじゃないんだろうけど、田畑沿いの道路で落ちる事故は滅茶苦茶たくさんありますね。特に凍結初日の朝通勤するとみんな落ちてます

anond:20180514095621

なんだろう

田畑を突っ切る県道みたいなイメージであぜ道って言ったんだけど語弊がありそう

しろ本当のあぜ道は揺れに揺れて到底眠れない

2018-05-03

anond:20180502113901

逆に言う

男尊女卑だった戦前こそ正しいと信じてる男は

徴兵されるのは当然と素直に受け入れる覚悟あんの?

-

戦前は平然と男尊女卑が横行してたのは憲法の条文とか関係ねえ

純粋社会全体が筋肉労働中心のド体育会系だっただけだ

国民の多数は農民兵隊鉱山労働者か工員

仕事の大部分は田畑を耕すか、石炭を掘るか、背嚢歩兵銃を背負ってひたすら行軍とかそんなの

そら女には務まらんわな

男ってだけで尊敬されたのは、単に(平均的に)筋力が上だったからってだけ

もっと言ってしまえば、男でも筋肉労働苦手のインドア派のオタクみたいなのはほとんど相手にされなかった

大多数の労働上記のようなもんだからホワイトカラー高学歴者なんか人口のごくわず

現代以上にオタク差別対象だよ

-

男女平等に不満を垂れる奴は、男女平等筋肉労働しないで済む文明の利器を手放してから文句を言ってみろよ、その覚悟あんの?

(ちな俺、小学生から体育はオール2男)

2018-03-28

海で密猟逮捕って、腐った既得権益すぎるよね

田畑と違って開墾して育てたわけでもなく、

なにもしないで得られる海の恵みなのに「俺のだ!密猟すんな!」って悪だと思う。

既得権益すぎる。

ウニ密猟ってお前らが養殖して、餌あげてるなら気持ちはわかるが、

勝手に産まれて育ったウニ自分のものだと言い張るのはやめろ。

2017-12-21

anond:20161213085212

あーそれはあるよ。

私この間用事があって娘達(幼稚園児と3歳児)連れて小学校まで歩いてったんだよね。三時頃で丁度下校時刻にかぶってたんだけど、女子の9割が挨拶しない。

こっちからこんにちはって言うと、こちらにガンくれて集団でヒソりながら通りすぎて行く。うちの娘達が女子達に挨拶したら、「おっ、偉ぇなこの子だって。そんで私の事は睨みつけながら通りすぎて行く。

逆に男子の半数位は礼儀正しく挨拶していく。たぶん野球サッカー水泳でもやってるんだろうなって感じのよく日に焼けた男子達が特にキハキしている。

私が子供の頃は、男子の中には通りすがり女性に「キモいんだよババァ死ねよ」とか「おいこっち向けよゴリラメス!この行き遅れ!」などと罵声を浴びせて石投げるような奴らがいたけど、そういうのは見かけなかった。

女子達が通行人無礼な態度取ってても放置かむしろそれ推奨って、犯罪防止っていってもなんか悲しくなるね。うちの娘達もそうさせなきゃいけないのだろうかって思って暗い気分になった。

【追記1】

私が今住んでるのは故郷とはべつの所なんで単純に比較はできないんだけど、治安の良し悪しについては、十数年前に引っ越して来た頃はこちらの方が格段に治安が悪かったんだけど、ここ十年くらいで急速に良くなりつつあった。

が、十年前に置かれた痴漢パトロールがこの春に経費節減のためとかいって廃止されて、かわりに防犯カメラがあちこちに設置されたんだけど、そのせいかなんか今年は自治体のお知らせメール痴漢出没の注意喚起が多かったような気がするんだけど、去年と比較はしてないので気のせいかもしれない。

故郷はド田舎だった。今は知らないけど私が子供だった時分は大人子供達の行動にあまり興味なかったのかもしれない。登下校の時間帯は通勤自動車が往来するくらいで人目があまりなく、子供達はやりたい放題だった。

上級生が轢死したイタチの死骸を登校旗に引っ掛けて下級生を追い回す、知的障害者の子ランドセル泥団子をぶつけまくってどろどろにして泣かせる、等々、誰も見てないからってとんでもない悪行三昧だったのだ。

でも農繁期田畑に人がいるときはそんな事しないんだから治安問題というよりは誰か見てる人がいるかどうかという問題だと思う。

【追記2】

似た文体の人がいるけど同じ人?って訊かれたけどそれは私ではないよ。その質問に「違う人ですねー」っていうトラバも私じゃないよ。

【追記3】

いや私は上記の悪行の数々を男は普通にやるとは思ってないよ。ただ子供に歪な価値観だけ刷り込んで放置するとこれだけの事をやらかすのだということで。女子も多少はやらかしものだけど、やはり大人想像の斜め上の事をやってのけるのはおもに男子だったが。

でも今現在男子達の様子を見れば教育次第で男子はこうも変わるというのがよくわかる。

2017-12-13

anond:20171213105952

1.感情論

2.公衆衛生

3.文化

の三つが問題としてごっちゃになっているから、これはきちんと分けよう。そして基本的には日本の話だ。

1.感情論であるが、罪の意識もあるかとは思う。

ちなみに全ての動物無用苦痛を与えることが罪に問われている。

ので、トサツされる牛だろうが、保健所殺処分される犬猫だろうが、田畑を荒らすイノシシだろうが人食いの熊だろうが、極力苦痛を与えない方法で殺さなければ罪に問われる。個人の所有物でも野良でも変更はない。

なので、猫に無用苦痛を与えればそれは罪だ。

2.公衆衛生は、なぜ殺してよいかに答えをだす。

不衛生だと伝染病流行からだ。

から人畜病気媒介する可能性のあるネズミハエ、蚊は駆除されるし、口蹄疫鳥インフル感染発覚で広範囲の同種動物殺処分される。そして適正に処理される。

野良犬危険であり、野良猫も糞害がひどければ保健所処分してくれる。

3.文化重要で、日本には肉食文化存在する。

からその為に必要家畜飼育している。

また、犬猫飼育する文化存在する。クジライルカも食べるし、サメも食う。

他国では犬を食う文化も、オットセイを食う文化ネズミを食う文化もある。虫も七面鳥も食う。現代ではなじみが薄い(=文化としてすたれた)が、日本でもテッポウムシやハチノコ、イナゴなどの昆虫食が実際に戦後まで普通にあった。食糧事情改善ととも薄まったのだけど。

生き物は苦しんで死んだほうがうまいという文化もある。

それぞれの地区でそれぞれの文化に基づいてルールが定められ、それに反したら罪に問われる。

日本場合はすべて明文化しているので、それの中から今回の『猫を殺したか有罪』の理由を探せばいい。

ちなみに、猫が他人のものだった場合器物損壊で、作家安部譲二金玉をひっかいた猫を思わず蹴り飛ばして服役した過去自伝で語っている。獣姦違法である

犬猫に嫌がる服を着せるのは良くてピアスをさせるのはダメというのは非常に曖昧であるのだけど、結局1から3の理由を勘案してルール適用されるので、元増田の聞きたいことの回答としてはそういうもんだからしかならないかな。

ちなみに、物理的に法律の及ぶ範囲というのは当然あるので、その猫を殺した人もそれでOKな国でやったのであれば罪には問えないよ。

量刑も定められているので、死刑を叫ぶのもまた滑稽ではある。

2017-12-10

きょうの風景

もう、今日も終わるね

今日見た景色日記に残しておこう

車を走らせ街を抜けると、雨が降ってきた

雨は激しくなりワイパーが素早く動く

橋の上に差し掛かる

ふと、視界を横へ向けると田畑住宅地の向こうに見えるはずの山が雲か霧か分からもので隠れていた

よくみるとその白い部分とクリアな部分がグラデーションのように変化している

何気ない景色

雨の日もいいもんだ

2017-11-21

anond:20171121231829

それ以前はそもそも女性選択肢なんてなかったし、親や親類なんかに勝手結婚相手決められて文句も言わせず結婚させられて子供を5人も6人も産ませられてた。

ん?ええと、昭和初期以前の、しか農村の話でいいのかな?

それなら大丈夫

男も田畑インフラの維持にめっちゃこき使われてたから。

しか戦争日清、日露、第二次大戦)でめっちゃ死んでるし

 

男も女も選択肢ないのよ、生きるのに大変なあの時代だと。

商家の出で余裕があったとかでもなければ選択肢の幅なんてないない

 

農家次男三男・次女三女とか調べてみれば笑えるほど悲惨だしね

2017-11-17

寂れた街

JR北海道が自社の経営努力だけでは道内鉄道網を維持できないというニュースを読んで思った。

「かつての賑わいが失われた」などといった、寂れた街に対して使われる言葉果たして本当に正しいのだろうかと。

日本人口が減少し始めたのは8年前からだそうだ。

ということは、8年前の日本はどの時代日本よりも人口が多かったということになる。

しかし、まもなく廃線を迎えようとしている北海道の街や、日本全国の過疎地と呼ばれる寂れた街が

8年前に賑わっていたとは到底思えない。

「かつての賑わい」とはきっと高度経済成長期のことを指すのではないかと思うが、

その時と現在の違いは、ネットスマホはないものの、

人口ピラミッドが山型で、働けば働くほど幸せになれるという希望があったのかもしれない。

その時代背景を考慮しても、現在地方都市シャッター商店街に人がごった返すほどの賑わいがあったとは、

23区に隣接する街に住み続けている自分にはどうしてもイメージできない。

60年代80年代自分の知らない自分の街の写真には、

田畑が広がる風景から、段々と宅地化が進み、巨大な団地までもが建設されていく様子が写し出されていて、

それらからは確かに賑わいを感じた。

寂れた街はその逆のことが起きたはずであるが、変化の加速度はこれに及ばないと思う。

なぜなら、街の大きな変化を経て形成されたベットタウンの構成メンバーは、日本全国から集まってきた人であり、

ある特定の数市町村の全人口50%以上が集団移住したなどといったことはありえないからだ。

日本全国の小さい街から、少しずつ、少しずつ人が減り、その街と共に老いた人々が、

自身の体力の衰えと過ぎ去った時間に対する切ない感情を乗せて、少し大げさに「かつての賑わいが失われた」

などと言っているだけであって、実際のその街は、昔と比較して、実はそれ程変化していないのではないかと思ってしまう。

炭鉱の街」などのような特殊目的を持った街を除いて。

廃線」と言われると、街が衰退しきった証のように感じてしまうが、

計画鉄道網を築いていただけのことであって、本来の街の姿に戻ろうとしているだけのことなのかもしれない。

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-05-19

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

2017-03-06

本業辞めなくても並行してできる副業を始めたあるいは

そのための準備を始めたぐらいで自動的本業辞めた扱いする人マジで何なんだ。

というか、「準備を始めた」段階で

「夢を追うために会社辞めた大馬鹿者」と認定するのって

もうブロガーは全員アフィで食っていくために会社辞めて専念すると言ってるようなものじゃん。

ちょっとおふざけで小説新人賞応募してみようかなって言って

メモ帳に数行ちょろっと書いただけで

小説家になるために既に会社辞めてしまった異常者」とか言ってくるのも辞めてよ。

もはやそれ副業の準備どころではない、9割型冗談の話だと言うのに。

兼業農家」の人を、田畑以外で働いてるのを見かけたからという理由

勝手田畑を捨てた認定するとかいうのも非常に許しがたい。

なんでそんなに否定したがるのか本気でわからない。

農家なんて最近兼業がだいぶ割合多いなんてことは高校教科書に書いてあるレベルだし

作家だってプロデビューした後でも兼業でやってる人だって結構いるってのに

ちょっとやそっとのことで本業を捨てたと言い出すのはおかしいんじゃないか

2017-02-15

http://anond.hatelabo.jp/20170215204809

うちの地元農業高校は、偏差値40ギリくらいの教育困難校と言っていいところだったが、服装自由地元農家と一緒に田畑畜産したりボランティア活動してたりして超いい子ばっかだったよ。

逆に地元商業高校は同じくらいの偏差値で校内で殺傷事件が起こるくらいに荒れてた。

何をもって教育困難校と呼ぶのか???

2017-02-14

愛知県警岡崎署は14日、動画投稿サイトユーチューブ」に1500メートル

全力疾走した直後に牛丼を食べる動画投稿した男性宅に押し掛けたとして、

ストーカー規制法違反の疑いで、千葉県市川市自称派遣社員田畑華子容疑者逮捕した。

田畑容疑者は「動画を見て恋愛感情を持った」と容疑を認めているという。共同通信が報じた。

https://jp.sputniknews.com/life/201702143338220/


日本平和

ミミミド~の話

小学3年生の時に転居した土地は、以前住んでいたところよりもかなり田舎だった。

以前は田畑は少々あるが小さな商店住宅がひしめき合っている町。バス10分置きには来るくらい。ほぼ標準語で通学は私服だった。

転居先は、田畑が広がり校内の過半数農家の子バスは2時間に1本程度で、かなり訛りがあり通学着は指定ジャージだ。

転校して一番のカルチャーショックだったのが、その訛りと文章の読み方である

話し言葉にも訛りはあったが、音読の訛り方はそれと全く違っていた。

教科書音読をすると、皆一様にいかにも妙なイントネーションで読み上げるのだ。

そのイントネーションとは、文章の頭からずっと同じ音程で読み、句読点の前の一文字だけガクッと音程が下がりながら語尾を伸ばすというもの

音符に直すと「ミミミミミド~、ミミミド~、ミミド~、ミミミミミミミド~」という風に。

例文で表すと

こんにちはわたしタナカイチロウです、トウキョウから、デンシャで やってきました。」

「ミミミミド~ミミミド~ミミミミミミミミド~ミミミミミミド~ミミミミド~ミミミミミミド~」

このようになる。

決して冗談ではない。

両親に連れられて行ったスーパーマーケットでも店内放送は同じようにミミミドのイントネーションで流れており、大人も同じであることに改めて驚いた。

話が前後するが、私は転入先の小学校いじめに遭っていた。

転校初日学校指定ジャージの購入が間に合わなかったため、以前の学校と同じように私服で登校したことが発端だった。

前述したようにこの学校ではジャージが通学着で、男子は青、女子臙脂色指定ジャージを着用している。

その上指定されてもいないのにほぼ全員がプーマの白いスニーカーを履いていた。

またこのジャージは通学着に限らず普段着としても着用しており、私服を着るのは冠婚葬祭だけという者が多い。

話し言葉服装も違う異端はいじめの格好の的になった。

必死話し言葉を合わせて、ミミミド~読みも会得し馴染もうとしたが、状況は好転することはなかった。

日々の陰湿いじめに耐えるのにもう飽き飽きし、これ以上媚びても仕方がないと、5年生になった時にミミミド~読みを止めることに決めた。

そして国語時間音読指名を受け、私は意気揚々標準語教科書を読み上げた。

周りが、先生までもが私に注目し、読み終えたあとの静寂に誇らしい気持ちになった。

その後いじめが酷くエスカレートしたのは言うまでもない。

2017-02-13

売春する女子大生

大学学費は高騰し、仕送りは減少している。

女子大生を取り巻く環境は年々悪化しつつあるが、この問題には優れた解決策が存在する。

そう、売春である

女子大生」というブランドだけで、そこそこの顔でも手軽に高時給を得られるのだから売春する女子大生が増えるのも無理のないことだ。

「お父さんが学費を払ってくれないから、代わりに『パパ』に学費を払ってもらいます」(女子大生X)

「まだ処女は残ってるから大丈夫です。はい、この処女は愛しのカレに高値で売るつもりです」(女子大生Y)」

かつては大学に通うために両親が田畑を売っていたが、今では女子大生は自らの身体を売っている。

これは進歩なのだろうか?

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん