はてなキーワード: 偶像とは
惰性で読み始めた東京タラレバ娘もはやいことに第6巻が発売された。
この漫画を読んだアラサー女は共感するのか反面教師にするのかよくわからないがあーいるいるいるわこんなやつと思いながら読んだよ私は。
とりあえず赤ちゃんできたかもしれないと相談に来る女の大半が避妊してないからね。みんな何考えてるのか知らんが。
あと不倫女は自分のプライド保つのに必死だから「仕事も恋愛もソツなくこなす私」という偶像にたいへんな労力をかけるもんだ。
かたや男なんかは結婚の可能性がない女にかける熱量なんてアルコールランプの底に僅かに溜まるアルコールくらいしかないからね。
読んだ人間がどう思うかという点ではマミちゃんの言動ってかなり面白くて、あれ女だから言ってることが宇宙人みたいな感想になってるけど男ならマミちゃんと同じ考えの奴腐るほどいるからね。異性交遊が仕事の潤滑油になってると思ってるやつ。そんなのただの言い訳で遊んでなくてもいい作品が書ける人は書けるんです!!自分が思っているだけでお前の仕事なんてうんちょこちょこピーだから。遊びの経験がある人間が深みを増すって考え方いい加減やめろ!!
あとマミちゃんみたいなタイプは27、8歳あたりで急に落ち着いて結婚しちゃったりするけどそれは自分の仕事で社会に何かしらの影響を与えたいという思い込みが無理ゲーなことに気づいちゃったからだからまぁあんまり友達にはしないほうがイイぞ☆〜(ゝ。∂)
アラサー女の友情なんていうのは幸せの量を推し量る天秤の様なものなので結婚なんだ仕事かんだと盛り上がって楽しんでるところあるけどアラフォーになって仕事で成功したって結婚できない女に対する偏見は現代もあるある大辞典だからね。しかし結婚して専業主婦してるとあそこの奥さんはろくに働きもせずノンストップばかりみて妄想を膨らましてるんだと陰で言われてまったく女というのはいつの時代も生きづらいと思いますね。
今でこそ同じような境遇の人間が増えたが、当時はまだ少なく、ほとんど理解されていなかったのだ。当然今でも差別は色濃く残る。
自分と障害者とではもちろん境遇が違う。だから理解できるとも思わないが、マイノリティに対する世間の反応というのはいやというほど浴びながら育ってきた。
ぼくがマイノリティであることは見た目ではすぐにはわからない。
だからうまく紛れることはできたし、必要がなければ明かさなかった。
ただ、その分同じ境遇に向けた反応に対して同調圧力を求められることは何度もあったし、そのせいでノリが悪いスカした人間だと思われたこともある。
学生の、まだ多感な頃の話だ。
仲の良い、信用できると信じていた人間数人に自分の素性を明かしたことがある。
その時涙を流しながら同情する人間がいた。
「かわいそうに。辛かったでしょ。どんな目に遭ってきたの?」
ぼくの肩に手を載せてとても悲しそうにそう言ってきた。
それからも素性が知れる度に、一定数の人間は「かわいそう」という言葉を使った。
意図的に知らせた時もあるが、意図に反して知れてしまうこともあった。
それでぼくは「かわいそう」という言葉が嫌いになった。
当然つらい思いも沢山してきた。人よりも苦労は多い自信もある。
人を羨んでも変わることはできないし、人を妬んでも自分が幸せになれるわけでもない。
ましてや、人の不幸を見て噛みしめる自分の幸せなんてクソ食らえだと思っていた。
中にはそれが善意だと信じて、周囲の人間に配慮するように話して回る人間もいた。
その多くはぼくに対して「かわいそう」という言葉を使った人間だ。
その度に、ぼくはそいつの素敵な人生ストーリーのために消費されたようが気がして気分が悪くなった。
可哀想な人間を涙を流して同情する素敵な自分にあこがれているのだろう。
可哀想な人間に配慮を求める素晴らしい人格者である自分にあこがれているのだろう。
そのためにぼくは消費されていくのだ。
お前らのやすっぽい涙のために、ぼくの人生が軽々と消費される虚しさを思い知らされたのだ。
アイアムサムを見たことがあるだろうか。
ぼくは不本意ながら上映当時に劇場で見ることになった。
不思議とどうしてそんなものを見ることになったのかわからないが、恐らくは当時付き合っていた相手に誘われて、下調べもなくのこのこと付いて行ってしまったのだろう。
もしそれが障害者の映画だと知っていたら、絶対に見ることはなかった。
障害者に向けられる周囲の視線は今まで散々に味わってきた苦痛であるし、ハンディを持った人間のサクセスストーリーなんてリアリティのへったくれも感じなかったからだ。
それを可愛らしい子役と安っぽい感動で塗り固めた、実にアメリカらしい、まさにその国のスーパーで売っているような食あたりしそうな彩りのケーキのような映画にしか見えなかったのだ。
映画の評価はそれに反して上がっていく一方だった。その様子を、マイノリティは健常者のために消費されていくのがこの世の中なのだと冷めた目で見ていたことを記憶している。
ただがむしゃらに生きてきたし、むしろ生き方にも随分と慣れてきたように思っていた。
そんな時に、レンタルビデオ店でふとアイアムサムのDVDが目に止まった。
世界はこれほどまでにグローバル化が進んでいるのに、未だに歴代名作コーナーに陳列されていることが疑問に思えたのだ。
これでもう一度見てつまらなければ世間が腐っていた証拠だし自分が正しかったことが証明される。
もし何かが変わって見えたら、自分の変化や成長を感じられるかもしれない。
当時の自分がどれだけうがった目で世の中を見ていたかを思い知らされることになったのだ。
何より、子供を持ち、それを守ることに対する思いに何度も涙が流れた。
今もし自分の子供が、世間の良識という暴力に奪われたとしたら何を思うのか。
その中で、ハンディキャップを背負いながらも幾多の困難を乗り越えていく姿にひたすら胸を打たれてしまった。
例えどんな境遇であっても諦めずに一生懸命に生きる姿に胸を打たれる。
意外なことに、劇中でサムに対して可哀想だと接する人間はいなかった。
皆はむしろ冷たく辺り、障害者が生きていくことの難しさばかりが描かれていたのだ。
そして彼自身も、障害者らしく擁護で固められているのではなく、一人の人間として生き、悩む姿しっかりと描かれていた。
ぼくは当時、その描写を見ることが辛かったのかもしれない。
まだ社会的弱者だった頃の、世の中に対するヘイトがくすぶっていたのだろう。
その時は自分が全うに生きていると信じていた。でも、知らず知らずの間にカルマは溜まっていたのだ。
育児放棄、女性の社会進出、ニートやそれに付随する精神疾患の問題、職業差別、貧困。
あれから16年の時が過ぎていることに驚いたが、それ以上にいま見ても全く色あせないほどに全ての問題がリアルだった。
むしろ16年経って尚、それら問題は深刻さを増しているといっていいだろう。
その中で、たまたま障害者が主人公だったというだけの映画がアイアムサムなのだ。
あの映画の主要登場人物のうち誰に焦点を当てても、どの問題も同様に浮き彫りになったことだろう。
アイアムサムを感動ポルノとして消費した人間も沢山いただろう。
それはそれで良いではないか。
それによって潜在する問題を認知することにつながったのだから。
もしそれが感動ポルノとしてだけ消費されてしまったのなら、障害者たちは真実の姿を表現する努力をすればいいのだ。
それ以上に世の中はポルノで溢れかえっている。
アイドルと呼ばれる偶像が最たるものだし、それこそマスコミや視聴者にえげつなく消費されているではないか。
それを自分たちだけ守ってほしいというのはまさに擁護の観点であるし、視聴者側も自らの足を使わずして真実を求めようと言うのが間違っているのだ。
感動ポルノがどうした。
楽しみたい人間がいるから市場が生まれ、必要がなくなれば消えていくだけのもの。
ただそれだけのことなのだ。
そもそもが感動ポルノを好きとか嫌いとかいっている場合ではないのだ。
この狂った世の中で道を誤らずに生きていくには、結局は自らの目や耳、手足を駆使して進んでいくしかないのだ。
それを生まれながらに持っていなければ別の手段で解決すればいい。
女性蔑視(ミソジニー)のことを色々と調べていたが、とある偶然からブラム・ダイクストラ(著)『倒錯の偶像』という本に行き着いた。
氏の主張を乱暴にまとめると「女性が(男性と同じように)俗的な欲望を持っている存在に過ぎないことを認めない」
という女性に対する極端な神聖視こそが、その反動としての極端な蔑視の背景にあるという。
ダイクストラの主張には非常に説得力があるし、現代にも続く女性差別の精神構造も基本的にもそのまま当てはめることができると思う。
ただ、同時にその性的立場を交換した考え方、すなわちミサンドリーも似たようなものではないのか、と感じた。
ミサンドリーとは、「男性が(女性と同じように)俗的な欲望を持っている存在であることを認めない」立場というわけだ。
ミサンドリーがそうした立場であるなら、なるほど、多くの女性が男性に「甲斐性」とか「器の大きさ」を期待していることも不思議なことではない。
つまり、男性が女性との関係で損害を被ることを当然視したり、(主に性的な)欲望をコントロールできないことが糾弾されるのも、
女性に対する搾取や暴力性が云々といったことよりも、単純な話、「男が俗的欲望を持つ」こと自体を拒否・否認しているからなのだ。
ちなみに、自分はフェミニズムを勉強する上で、実はフェミニズムが男性蔑視を*否定*する思想的立場であることも学んだが、それは自然なことだと思う。
極論かもしれないが、フェミニズムは男女の対等的関係を志向する以上、男性の欲望を拒否・否認する考え方を受け入れるわけがない。
(自分は最初フェミニズムは男性蔑視の思想なのだと勘違いしていた)
結論としては、ミサンドリーはミソジニーと背中合わせ、共犯関係にあり、どちらか一方だけを社会から消失させることは不可能なのだと思う。
男性の女性に対する期待(あるいは抑圧)を弱めたり、消し去ろうとするならば、必然的に女性の男性に対する期待をも弱めたり、消し去る必要がある。
ただ、誤解して欲しくないのは、日本の女性が男性に「器の大きさ」を求めるのは、それだけ女性が男性に期待(抑圧)されていることと密接な関係があり、
それ故、女性に対する抑圧が未だ強い日本社会においては、男性が女性との関係で一定の不利な立場に立たされるのは致し方ない部分もあるのだろう。
結構前の投稿だけど知らない間に、予想以上のブコメ・トラバがついていて驚いた。
フィクション全般を否定しているように誤解されたのは俺の書き方が悪かったので反省。
まあどっちかというと、そういう作品をマンセーしてるやつが気持ち悪いってことなんだけど。
さざえさん等と誤解を招かないように、萌え系かつ日常系のアニメって前提で話をすると
気持ち悪いと感じた要因の一つが、視聴者層が異常に現実を恐れていそうで怖いという点。
一部の奴の声が目立つだけかもしれないが、シリアスな展開が出てきただけで過剰に脚本を否定したり、
男キャラの登場や、存在を匂わすセリフを全否定したり、自分の見る幻想が破壊されることを異常に恐れている感じがする。
アイドルやタレントに恋人がいることを嫌がる層も、幻想の破壊を過剰に恐れていて、破壊された時御門違いの怒り方をするという点で似てる。
それこそフィクションや偶像なのだから、都合の良さも悪さもまあフィクションだしな、と受容して楽しむ方法を見つければいいのにと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20160630105103
ファンの応援によってアイドルは高みを目指していくし、応援のおかげで輝いていく
アイドルはファンなくして存在しないし、ファンはアイドルなくして存在しない
お互いがお互いに支え合ってる対等の関係だから、わたしはアイドルが大好き
アイドルの○○ちゃん(中の人)は、○○ちゃんがこういうアイドルでありたいと思って作り出した幻影
(もしかしたら周りのスタッフ等もそのプロデュースに関わっているかもしれない。Perfumeなんかはそういうことを言ってるよね)
その作品(アイドル性)を好きになって、ファンになりたいってなる
○○ちゃんはプライベートで暗くて、街中で見かけると対応が悪くて……
って、それはアイドルの○○ちゃんではなくて、ただの○○ちゃんなんだから、それでいいと思ってる
アイドルの冠のつかないときの○○ちゃんに、わたしは興味がない
○○ちゃんの熱愛報道が流れて……
○○ちゃんがプロデュースしているアイドル像に誠実であるかってのがポイントだと思う
ファンはそれぞれだから、すべてのファンに誠実であるなんてすごく難しいし
アイドルはアイドル像に誠実であることが、ファンに誠実であることにつながるんだと思う
ファンサはアイドルがくれるもので、○○ちゃんに求めてはならない
他のファンがアイドルからファンサをもらってると、よかった!と思う
わたしはその構図がそこに凝縮されていて、よかったなー!となる
一人のアイドルを応援していると、他のアイドルもこうやってがんばってるんだろうなって思う
だからわたしは他のアイドルをsageることなんてできなくなる
みんながんばってる
以前のブコメで高みってなんなのか、と言われていて考えたけど、
知名度をあげて動員を増やし有名になることかもしれないし、
CDをたくさん売ることかもしれないし、
ただただかわいくあることかもしれない
いるといいな
アイドルが好きだー
ちびまるこちゃんに出てくるともぞう心の俳句みたいで良さがある。
続いた躁状態にようやく終わりが見えてきた。やっと人並みにつかれたというか、ちゃんと体内時計が働いて眠いというか…。
かなり気合いを入れて書いたネットの未来の話 / “これから起こる『ライター業の衰退』と『ブロガーの台頭』について|三沢文也
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/tm2501/n/ncbe3f050708b
話が分かる人にだけに読んでもらいたいからブログではなく、有料限定にしたのに、はてブで重箱の隅をつつくようなことで盛り上がっていて「そんなんだから、はてな村は腐海に沈んだんでしょ」と言いたくなってる
ある人が「はてな村は日本的組織の、はてなは日本的競争の縮図でしょ?」みたいに言ってたけど、つくづくそう思う。
ちょい悪オヤジにはなりたくないけど、それと同じぐらいには頭ごなしに若者をバカにするkanoseのような老害にもなりたくない僕は本当に「あーあ」って感じな気持ち
僕がしんどいのって、08〜12年に罪山罰太郎・ハックル・デマこい・青二才以外の人を台頭させないようにへし折ってきたはてな村の文化が招いた後継者不足のせいであって…彼らで潰した数年を取り戻して追い越さないといかんからしんどいわけさ
いや、オレが1年半もネットで罵倒され続けてもブログを続けられるほどのキチガイじゃなかったら、はてな村はとっくに血が息絶えてますよ。
はてな村どころか、けいろーくんもしっきーくんもヒトデ祭りも出てなかったと思うよ?あいつらじゃ、1年半罵倒され続けたら折れるし。
偶像だから十字架にかけられてもなお、生きている必要があったのです。
ひどい話です
今思えば、野蛮な時代ですよ。
インターネットで生きていくのに、耐久力が求められた時代が昔はあって、それをオレが1年半…はてなの運営側が「これはやり過ぎだから、介入しよう」と思うところまで踏ん張らなかったら、Togetterとか2ちゃんの同類であり続けたわけですよ…いや本当に
頭のいい人、技術のある人、貴重な体験をしている人などは入ってきましたよ。でも、そういう人が安心して書ける環境に僕は大なり小なり貢献しているわけですよ…。
ビックマウスな言い分だと言われそうだけど、そこは割と自信がある。
青二才が数字で追い越されようが、もっと賢いやつが出ようがなお「大物」だと言われ続けるのは、常にルールに介入し続けるからだ。
ルールが変わるまで徹底的にやる。不利に変えられたら変えられたでそれを文章力とか、非モテなりのやり方で食いついて新しいスタイルで介入する。オレ以外にできるか?
野蛮な時代を生き残ったどっかが狂ってるんですよ。
今の若い子にはきっとできなかったであろうことだけど、僕はそれがない代わりに知性とか友達とか学歴とか、僕には足りなかったものをちゃんと手に入れてからネットに来た若者の方が羨ましいわけですよ。
負ける気はしないけど、幸せそうだもん
よく、日本には坂本龍馬とスティーブ・ジョブスが足りないと言う人がいるけど、ああいう動乱の時代の人は、大なり大なり狂ってる。
それとも狂った人に自分が合わせられるとでも?
狂人は居場所は見つけられても、仲間とパートナーは見つけられないし、誰かと調和したら多分自分が壊れるか、無邪気に握りつぶす。力があるうちに狂ってることを正当化デキるだけの「暴力」をしなきゃ、生きていくこともできない。孤独でも地位があれば生きていける。地位のない孤独はただ消えるから
頭に血が上って、病んだポエムを書いた。
忘れてともわかって欲しいとも言わないけど、…わかったふりはされたくないので、わかんないなら素直に「こいつわけわかんねー」と言ってくれたほうがまだいいです。
僕はキレると、断片的なメタファーか、自分の目に見えたことでしか言葉を紡がないので
あー今日が3ヶ月に1回ぐらいあるかないかの「ブログ書くのが嫌で嫌で仕方ない」日だ…。書く内容がわかってるのに筆が進まない。
触れたり喋ったり交流して心が癒される。アイドルにそんなリラクゼーションの役割があることはわかるんです。
ただ、彼女(彼)らとは付き合うことはできないし、応援してもお金をつぎ込んでもその関係は変わらない。
アイドルファンは、彼女(彼)らを性的対象とは見なさず、自分の心を潤してくれるキャラクターとして応援しているのか?
それとも巷で言われるように、疑似恋愛という体験を買っているのか?
どちらもあると思うのですが、最近起こった痛ましい事件の容疑者は後者のファンですよね。
アイドルの方々はそれを止めてください、と注意喚起していらっしゃいます。
母性本能をくすぐる男を応援したい(あるいは可愛い子を育てたい)という感情の発露というか。
対する後者は男性層の方が多く、ボディタッチしたりSNSで繋がりたい=関係を持ちたい欲求があるわけで。
ただ男性も前者の楽しみ方ができないわけではないと思っています。
アニメなど二次元キャラクターには、そういう役割を求めて接してるわけですから。
それが会える、触れられる現実の女性となると疑似恋愛に傾いてしまうのが男、なのかもしれません。
(もちろん極端な話で、性別関係なく疑似恋愛を楽しまれる方はいる)
一昔前のテレビでしか見られないアイドルというものは、遠い遠い存在で。
だからこそ偶像としての楽しみ方ができていたのかもしれません。
女性が思っている以上に、男性というのはオスであり、性的欲求に抗えないものです。
だから「会える」「触れられる」アイドルというのは恋愛対象なわけで。
熾烈なアイドル産業が産んだ弊害が出ているのかもしれませんね。
私のTLには未だに批判の意見が流れてくる秋元康の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」
今更のような気もするが、未だに私の中でモヤモヤが消えないのでここに吐き出させてもらう。
その前に、簡素だが私のことを書く。
・アラサーの女
以上だ。
モヤモヤというのは「アインシュタインよりディアナ・アグロン」についての批判の意見が多すぎるということ。
批判したい気持ちはわかるし、批判の内容はごもっともなのだが、それに対して「この歌詞はかわいくていいじゃないか」という意見をあまり見かけない。というか、そう言えないこの現状。
(あ、ディアナ・アグロンは怒っていいと思うんですよ。なんかバカの代名詞みたいにされちゃって可哀想)
なぜだろうか。
アイドルに求めるものに近いというか…ただ愛でるだけの偶像を求めているのかな、と思う。これは男性依りの思考だと思う。
ただ可愛いを追求する女の子。そんな女の子を支えたい。なんというか…推したい。という感情に近い。むろん頭のいい子は推せない、と言うつもりはないが、正直私はバカな子のほうが愛しい。
(二次元アイドルを好きな理由はここにある。現実の女の子をあまりそういう目で見ているというのは公言しがたい)
女性的な願望…いや、個人的な願望としては、見てくれのいい女の中身はからっぽであってほしいという願望か。これは偶像云々ではなく、純粋に見た目で勝てないような相手に、せめて中身で勝ちたいから中身がなければいい、と願う卑しい感情である。
実際、見た目だけで得をして生きている(ように見える)女はいやというほど見てきた。(私が得をしたこともある)
これは土台となった現状が悪いと言われればそれまでだが、そんな現状で生きてきた私がそういう思考で生きていたからといって誰が私を責められるだろうか。
ようは、見た目がいいんだからバカであってほしいのだ。そこしか勝てないから。
後者の私の卑しい感情は置いておくにして、ただ可愛い<だけの>子を推したいと思うのはよろしくないことなのだろうか。
更に言えば、そんな子になりたかった。
アイドルは正直めちゃくちゃ努力してああなっている。でもその努力をおくびにも出さずにちょっとぬけた可愛いだけの偶像を演じてくれている。
だから私はその偶像を享受し、自分がなりたかったから可愛いだけの子をその偶像に見出して自己投影して愛でる。
うわぁ…めっちゃ気持ち悪い。皆様の声が聴こえる。でもそうなんだから仕方ない。
話がそれました。
ようは、この曲は「一部の層がアイドルに求めること」を的確に表しているように思うのだ。
少なくとも、私の推したい(なりたかった)女の子の理想像そのものだ。
内面はもっともっと考えていようが賢かろうがどうでもいい、表面はこうであってほしいもの、そのもの。
理想のアイドル像って実際の女からみたらそんなに非難したいもの?
あなた達がこうならなきゃいいじゃない。
私はこうなりたかったしこういう女の子が(推し的な意味で)大好きだ。
今の私の心境は、とってもかわいいカバンを見つけて大喜びしているのに「機能的じゃない」「ポッケないじゃん」「使えない」とめちゃくちゃdisられた気分なんだ。
リアルタイムでは見ていないが、2004年ごろにDVD借りてハマり、2008年ごろにまたハマり、今頃になってアニソン三昧のgroovin!から見直し始まった程度のオタクだが、久しぶりにアニメを見直して(まだ途中だが)感想を書かずにいられなかったのでここに書く。
序盤十数話を見返すと、相当丁寧かつカットの使いまわしで上手くクオリティ維持をしていたんだろうと分かる。
登校風景の木々のカット、飴を渡すカット、今見ると使いまわしだが初見ではあんまり気にならなかった。
そしてなぜこれだけはやったのか、今なら分かる気がする。
突っ込みどころが相応にあり、かつ絵柄が安定して可愛く、知世というオタク視点(一部)があり、そしてオタクにとって『身近にいそうでいないが、いてほしい願望』の具現化だったんだろう。
最初はまあ女児向け漫画原作のアニメからすると仕方がない。なぜ不思議なことがあるとすべてクロウカードのせいになるのか。いや、まあそうしないと話が進まないが、短絡すぎるだろう!と今だとツッコんでしまう。
絵柄に関してはオタクにとっては多分言わずもがな。俺の不徳で申し訳ないことに、制作時の事情はよく知らないという点はあるのだが、NHK援助とはいえあのクオリティで70話+劇場2作は驚嘆に値する。よくこれだけ作ったもんだ。さすがマッドハウス(とその下請け)というべきなのだろうか。
知世の存在と存在意義についても、原作漫画よりもパパラッチ的なほうに触れたのが幸か不幸か、良くも悪くもオタク目線(かわいい女の子にかわいい服を着せて頑張っているところを楽しむ)なせいで見ていて面白い。倫理は放り投げた上での意見だが。
最後は、まあ今のピザデブな俺からすると、ものすごく偶像化された『多分(特にそれまでの)フィクション上実在してほしい妹・妹分の理想像』をうまく脚本・アニメ化したことだと思う。
多分ほとんど誰も異論は唱えないと思うけど、木之本桜は理想的すぎる小4であることは間違いない。一部で大好きな性的なことは置いておいて、小4で家族がスーパーマンだらけの中で主人公もスーパーマンであり、加えて謎の使命を背負って2年間を戦い抜く。小学生ならではの破綻した論理を振りかざしながらも、時には周りとかみ合わずいろいろ空回り的に頑張っているといえども、『こんな素直で頑張り屋の小学生』というのがすでに理想化されすぎた小学生である。
まあ、フィクションなのだからしょうがないとはいえ、ご都合だったりいろいろ流れが不自然なのはもう仕方がないだろう。
しかし、間違いなく当時の俺、そして今の俺にとっては、さくらは天使である、しかし小狼がいる以上恋愛がらみはしょうがない、といったん実在性を信じながらもあきらめざるを得ないほどに、不完全なりに完成された物語であったんだろうと思った。
ツバサ・クロニクル…?何のことかな…
http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
に対する
kato_19 確かにすごい考察ではあるが・・・楽しめなくて可哀想としか。辻褄や現実にこだわる理由がわからない。私の感想『『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか?』http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
匿名でここまで書くのはすごい!でもおりあそ氏同様、脚本の物語性に非常にこだわる点が自分とは大きく違う所。現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像に魅力を感じるんだよなぁ。 https://t.co/C43GeQjkcD https://t.co/9DE4lPVVaB— kato19@アニメとスピーカーと‥‥。 (@id_kato_19) 2016年3月19日
について。
まず、彼に限らずアニメラブライブのファンが多少筋の通った批判を目の当たりにすると苦し紛れに発することが多い「楽しめなくて可哀想」という感想について。
この表現にこそ、とにもかくにも「ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』という感情状態から生じた「ラブライバーでない奴は可哀想」という論理が見え隠れする。
一応、何事も楽しめたらそれは素晴らしいことだ、というのにも一理はある。
しかし、見方や立場を変えてアニメ前の作品内容や原案公野櫻子先生による内容を特に愛するファンから見た場合は逆に、アニメと同等以上に可能性に溢れているそれらの媒体をおまけ以下と扱って注目せずにアニメや声優のみに注目し楽しむ現在の大半のラブライバーこそ、楽しめなくて可哀想に映るともいえる。
本来であればもっと楽しかったもの、もっと楽しくなれるものに期待できず楽しめない状態でありながら、あんな物語性もキャラクターも薄く浅いアニメを萌えるとか尊いとかいって満足して楽しんでいることこそ可哀想だ。
と、子供の喧嘩のような言い合いになるので、楽しめなくて可哀想理論は微妙だ。
次に、「辻褄や現実にこだわる理由がわからない」「脚本の物語性に非常にこだわる点」について。
これもアニメラブライブなど、拙い脚本を持ち味とする作品のファンが内容を批判された場合に反論でよく用いる意見だが、この意見が出てくる時点で大体の場合勘違いが存在しているように思う。わざとの可能性もあるが。
アニメや劇場版のラブライブ、少しずれるが艦これなどに至るまで、脚本内容を批判している人達の大半は恐らく完全な辻褄や現実性、脚本の物語性に非常にこだわっているというわけではない。“最低限”の辻褄や現実性が脚本や演出に伴っていないからこそ批判しているのであって、辻褄や現実性絶対主義者だから批判しているのではないことを盲目的に賛美することしか念頭にないファン達は再認識してもらいたい。
もしくは、彼らにとってそれらの作品の「萌え」や「勢い」といったものが上級表現の「尊い」どころか脚本の物語性や辻褄・現実性の拙さと乏しさから来る違和感と物足りなさを補えるほどには全く至っていなかったのだ、ともいえる。
実際、辻褄やリアルさよりも萌えや勢いで全てを吹き飛ばして満足感をもたらしてくれる尊い作品を自分も欲しているが、アニメラブライブはそれには程遠いと思う。
そしてそのような細かい辻褄の拙さやおかしさを吹き飛ばせる萌えや尊さといったものが存在しているものこそ、アニメ以前の雑誌や漫画におけるラブライブ!だと自分は思うのであるが…。
京極尚彦氏や花田十輝氏、ラブライバー達にとってはそんなものより海外ドラマにのっぺりとした無個性の二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い、物語性など要らないって思ってしまうらしい。そのような部分を見ていると、彼らが一体作品の何を好きなのか分からなくなってくる。(そこでラブライバーはラブライバーである自分のファンでしかないという説が起こる)
ラブライブ!はアニメ以降よりも1stシングルPVのキャラクターデザインの方がシンプルながら個性と卓越性があった。当時は黎明期だし全てが未熟だっただろうという雑な先入観から考えて初期の絵や内容を馬鹿にしている者はファンにも多いが、もう一度しっかり見直してみた方が良い。実際初期の雑誌の絵は拙いもっさりした感じの絵もあって、主にそれを持ち出して「初期のキャラデザはこんなに酷かった」なんてネタにされているのをよく見る。しかし、雑誌やスクフェスなどの公式絵はアニメ化以降でも当たり外れがあるのでそのあたりを踏まえて考え直してみる機会を設けてもいいだろうと思う。
次に「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」とそれに呼応する内容が述べられているブログの記事内容について。
『ラブライブ!』って本当に美しいですね!特に劇場版のラストライブ・・・極限まで高められた美しさに圧倒されました。『萌え』の上級表現である『尊い』って言葉がこれほど似合う作品ってあるでしょうか?
ここまで心に響く理由・・・それは『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事が出来たから。現実に囚われない理想のアイドル像を実現できたからだと思います。
(アニメの)ラブライブ!って何が美しいのだろう。ラストライブの何が美しかったのだろう…。個人の主観だから仕方がないが、同様に自分の主観だと1stシングルのPVの方がまだ美しかったように思うためによく分からない。
劇場版のライブは1期や2期と比べても心に響くものがなかった。楽曲の質が突き抜けてこないのはネタ切れもあって仕方ない所もあるだろうが、無理矢理終わらせようという勢いと都合に溢れていたからだろうか。
「『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事ができた」「現実に囚われない理想のアイドル像を実現できた」
この意味がよく分からないが、後の記述から推測すると、芸能界というビジネス的なしがらみのある世界から分離され、物語やキャラクター性といった辻褄や論理から脚本やライブ演出に特化され解き放たれたことで自由になった作品だと言いたいように感じた。
しかし、それと併せて考えて見てもラブライブ!という作品が「現実に根ざした物語を超えて」(いる)というのは、先述したような内容の辻褄や物語性の乏しさという都合の悪さを隠すために言い換えてみただけの取って付けたような表現に感じてしまう。
2013年、そこへ発表されたのが『ラブライブ!』という作品でした。架空のアイドルをつくるメディアミックス・プロジェクトを出自とする本作にとって、現実のアイドルという縛りは初めから希薄なものだったのです。
2013年からラブライブ!という作品が始まっており、その時点でメディアミックス・プロジェクトから分離され独立していることが前提であるかのような書き方に嫌悪感を覚える。
現実から解き放たれたラブライブ!という作品
当時、多くの人がアイドルアニメといえばアイマスのようなものをイメージするなか、京極監督はおそらく気づいていたんだと思います。『アイドルアニメはもっと自由になれる』という事に。
『ラブライブ!』のTV放送一回目。多くの視聴者の度肝を抜いた突然のミュージカル演出。これによって本作がダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品である事を宣言しました。
この方に限らずアニメラブライブ!や京極氏を絶賛する人達はこのように言うのだが、そもそも元からラブライブ!は「スクールアイドル」作品で、キャラクターが外のしがらみから独立して作詞作曲・演奏ライブなどを自由に行う描写がある作品も、ブログでも言及されている『けいおん!』などのように以前から存在しているし、その点においてラブライブがそんなに画期的だったとは自分にはあまり思えない。
また、ダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品であることを宣言しても、作品の脚本内容の致命的な拙さやキャラクター配慮の不備の免罪符にはならないし、海外ドラマからパクって間に合わせただけで許されるわけでもない。
そもそも、元々の設定が存在し、それがある程度当時のファンに支持された上で存在していたメディアミックス作品なのだから、どうせ別のどこかから適当に引用する程度にしか監督や脚本家に作品のキャラクターや物語性への真摯さと思い入れが足りていないのであれば、元の作品から丸々引用する方が良かったはずである。それならコピペでも文句を言われないどころか、原案原作を生かしていて素晴らしいと絶賛されていた可能性の方が高いくらいである。
実際、アニメのラブライブ!で古参新参問わず最も評価が高いシーンの一つである1期8話は1stシングルPVの内容をほぼコピペするようにリメイクした内容だった。
それを、わざわざ無関係の別作品から引用して作品やキャラクターの軸までねじ曲げてしまったのは悪意の盗作という見方がされても仕方がないし、別作品へのオマージュやリスペクトとして捉えてあげるとしても肝心のラブライブ!という作品内容への思い入れと配慮の無さが強く感じられてしまい、その意図と効果は肯定的に受け入れにくい。
その特異にも見える現実離れした演出は回を重ねるごとに深まり視聴者を戸惑わせます。しかし秀逸なストーリー構成は私たちの心を掴み、いつしか違和感を感じなくなっていきました・・・ここに、現実のアイドルという枷が外れた『ラブライブ!』という作品がひとつの完成を見たのだと思います。
分かりやすく「特異にも見える現実離れした演出」があったのは主に1期&2期1話・最終話だったと思う。それ以外は態々特異というほど現実離れした演出があったと自分はあまり思わなかった。そのため、時折挟まれる無駄に寒いコメディータッチな演出や描写に違和感と嫌悪感が生じた。
腐ってもキャラクターアニメであるのにキャラクター描写が雑すぎて、キャラクターの魅力が淡白で薄くなっていて消えてしまっている。とても演出や勢いがどうとかでは補えるものではなかった。その内容については先述の批判考察記事やそこで引用される元の批判記事で書かれているので省略。
また、自分でストーリーの物語性や現実性と辻褄にこだわってアニメラブライブ!を見ることを批判的に捉えておきながら、その作品のストーリー構成を秀逸と考えた根拠も少々謎である。
百歩譲ってその論理からストーリーにこだわらず演出やライブ(ダンス)シーンがいい、ストーリーはおまけだからというなら意味も分かるし、それに特化した自由なアイドルアニメ作品を評価する論理としても、その人の中でそう思えたなら仕方ないかと多少納得できるのだが、そこで、無理なおべっかを使うような賛美を繰り出す所にラブライバーらしい空虚で盲目的な部分を垣間見てしまう。そのような評価の仕方を見ているとやはり彼らの感覚と論理の間には齟齬が生じているように思う。
結局の所、ラブライバーはキャラクター描写の拙さや、脚本や物語性を批判されたら「ライブシーンが見所だから」「ライブ演出が~」と言い、その演出もさほど大したことがないと指摘されてしまうと「キャラクターが魅力的で~」「初期から紡がれてきた声優ライブとアニメとの融合によるコンテンツの包括的に捉えた中でのみんなで叶える物語(の物語性)が~」というような形のことを言って相反した発言を繰り出すために説得力がない。
そしてコンテンツの初期からの積み重ねやみんなで叶える物語という既に剥がれ落ちた空虚な幻想の影を掲げて信奉する割には、アニメ以前の作品像やキャラクター像には最低限の興味や配慮を払うことすら稀な人が殆どである。
そのような点を見ていると、彼らは結局作品の中身には興味がなく外部のパッケージだけを愛しているように思える。「よく分からないけど初期から歴史があって人気が出たからみんなで叶えた物語だ尊い」、「よく分からないけど結構可愛い声優がアニメキャラとシンクロしたダンスを踊るために頑張ってるから尊い」というような状態なのではないか。別に作品を楽しむためには必ず重厚で説得力のある感覚や根拠を必要とはしないが、そのあまりに粗雑な状態の感覚や根拠を掲げることが必ずいつでもどこでも許されるわけではないということは少しだけでも覚えていてもらいたいように思う。
一方で、そこで素直に「アニメラブライブはクソでもラブライバーとしてアニメやライブを楽しんでいる俺は最高だ、だからラブライブは最高だ」と言ってくれるのであれば、それはそれで確かに素敵だと思うし、納得できる。それを聞くことで作品内容自体の素晴らしさは相変わらず伝わってこないが、彼らが作品を最高だと思っている気持ちは本物なのだろうと思えるからだ。しかし先述のように取って付けたすぐに剥がれ落ちるような根拠ばかり持ち出して内容評価を繰り返すようだと、何かに洗脳されたり、駆り立てられたりして仕方なく作品を賛美している状態に見えて、彼らが作品を好きと思っている気持ちすら実は偽物なのではないかという疑念が生じてくる。
実体がなく抽象化したからこそ表現できるものがある。劇中の『飛べるよ』というセリフは、まさにこの作品自体に向けられた言葉のように思えてなりません。
現実のアイドルという縛りから飛び立った時、アニメーションはここまでの表現ができるという事を教えてくれました。アニメーションの可能性がさらに一歩広がった事を実感できたのです。
自分は劇場版の『飛べるよ』という台詞を聞いて、苦笑いを浮かべた。最近(2016年3月現在)話題の違法・脱法薬物使用によるトリップを「飛べる」と表現することがあるが、それになぞらえて、「ラブライブ!を見てば『飛べるよ』」「作品内容もキャラクターも全部積み重ねてきた歴史をアニメ化してから根こそぎ捨ててきたから中身は空っぽだけど、裏には歴史があると思い込みながら「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味に捉えられ、作品批評者にネタを提供しているなと感じた。
「アニメラブライブ!という作品は、包括的なストーリー性やライブ演出が魅力だから作中のキャラクター描写とかアニメ自体のストーリー性は雑でもいい、描写の足り無さは効果的な省略だからおかしくても逆にそれがいい(効果的な省略が得意なはずの監督なのに無価値な蛇足なシーンやキャラが多いのは何故?)」というような無理矢理な盲目擁護調の論理はこのブログの筆者や、某K氏やG氏S氏V氏などラブライブ!賛美系評論者の多くに共通しているように思う。京極尚彦氏や花田十輝氏の信者に共通しているのかもしれない。
【新規著作権法】著作物の複製権及びその代理権は万人に帰属する。著作物の原版権及び出版権及びその偶像の常習権は、著作物の制作に直接関係した個人または組織に帰属し、その配分は当事者間の取極による。著作権は、これを総称する。その出版権なき者は、著作物を複製して以てこれを他者に販売しまたは伝播させてはならない。これ以外の権利の都合の如何に拘らず、複製権は、これを侵してはならない。複製権の代理権は、営利の為にこれを行使してはならない。出版権の代理権は、複製権の代理権を包摂し、別に定める基準により正当なる対価を支払った万人に帰属する(複製権の代理権を行使することができない場合、見方を変えて出版権の代理権を行使する為のものであって、必ずしも当該行為の性質を決定づけるものではない)。出版権は、著作物の制作に直接関係した諸氏の死後50年を経て失効する。偶像の常習権は、前記に加えて偶像を発案した個人にも帰属し、その著作物の制作に直接関係しまたは偶像を発案した諸氏の死後70年を経て失効する。関係者の死後に失効する権利は、もしその所以となる死が故意の他殺による場合、その失効を20年延期する。権利が失効してのち延期された場合、それ以前の行使はこれを正当とし、別に定める基準によって正当な対価を支払った者にこれを認める。【新規著作権法施行規則】この法律の施行前に旧法によって与えられて、承認または否認される権利は、これを侵さず、旧法以て適応する。立法権は、この法律に違反する遡及的内容の国際的な条文を認めてはならないし、この法律の施行前に締約された者は、これを廃止しなければならない。
‹Copyright Innovative Act› The Right of Replication of Protected Materials and the Right of Delegation of Replication of Protected Materials belong to every intellectual being. The Right of Manifestation, the Right of Publication and the Right of Exploitation of Icons of Protected Materials belong to those who involved directly in the manifestation of their Material, and the distribution of the rights is subject to the responsible parties' agreement. Copyright is the hypernym of those aforementioned Rights. No one shall replicate Protected Materials and merchandise them, or propagate them, to the third parties, without the Right of Publication. No one shall disrespect the Right of Replication, disregard of any other Rights. No one shall invoke the Right of Delegation of Replication for profit. The Right of Delegation of Publication implies the Right of Delegation of Replication, and belongs to every intellectual being who has paid a fair loyalty according to the standards that must be expressed besides this act. The Right of Publication expires 50 years later of the deaths of all individuals involved directly in the manifestation of the Protected Material. The Right of Exploitation of Icons belongs to each individual planned the icon in addition to each individual directly involved in the manifestation of the Protected Material, and expires 70 years later of the deaths of them all. The expiration of rights shall be suspended for 20 years if and only if the cause of the triggering death was homicide. Every instance of the invoked right before the expiration shall be righteous and granted if and only if a fair loyalty was paid according to the standards that must be expressed besides this act.
‹Copyright Innovative Act's Rules of Implementation› All rights that were materialized and should be ruled by the acts to be displaced by this act shall stay effective as prior to the implementation of this act. The legislative body shall not ratify any international declaration of responsibilities that contradicts this act and affects the rights retrospectively, and shall obsolete it after the ratification or implementation if any.
彼は私にとって本当に王子様だった。たったの半年間、それでも王子様だった。彼女がいたことは、彼と出会った時には知っていた。名前も顔も、どういう女性なのかも。全て踏まえても、好きだった。担当なんかじゃなかったから、彼を擁護するつもりはない。手のひらを裏返すこともない。
彼は悪いことをしたわけじゃない。SNS上で退所報告から交際宣言ともとれる発言をしただけだ。それなのに、なぜ。何も知らない語りたがりの評論家気取りジャニヲタに影で言われたい放題にならなければいけないのだ。いろんな人の指から発される言葉を借りると、どうやら彼は「所詮一般人」らしい。なら、なんであなたたちは一般人の交際宣言につっかかるんだ。ジャニーズ事務所とかいうレッテルが貼られた「半一般人」を王子と崇めるお前らは、なんでレッテルが剥がれた「一般人」のツイートを気にするんだ。どうでもいいなら、見なければいい。話さなければいい。彼のことなんか忘れればいい。なのに、なんでわざわざ掘り返す。たくさんいるフォロワーに共感して大量リツイートをしてほしいからか?ブロックすればいいのに。「ブロックしたwwww」って言ってるくせに、時間が経てばまた話のネタにする。あなたたちは何がやりたいんだ。そういうツイートが流れてくるのが腹立たしかったから、私は何人もの人をブロックした。それでも流れてくる。あの件で騒いでるジャニヲタは、彼がみんなの王子(笑)とやらをやっていたときに彼のことをじっくり見たことがあるの?ないでしょ?だから、「能無し」って言えるんだよね?ちゃんと見てた人は知ってるはずだから。簡潔に言えば、「人として許せないラインを越えたわけじゃない」んだと思う。だから、私は許せてしまう。痛いだの盲目だの好きなように言ってくれ。なんでも受け止める覚悟だけは持っているから。
今回のことで、去年の夏で止まったまま永遠に動かなくなった彼の偶像は、知らない人の指先から発された言葉で壊されてしまった。形が残っている間に、もう目を閉じようと思う。
日本という国は「恥」の文化です。そういう文化がはぐくんだ「空気」が強い同調圧力を生んでいます。本音が言えない文化とも言えるでしょう。
『嫌われる勇気』という本がありますが、『本音で生きる』では、それをホリエモンが簡単に読み解いてくれたように感じました。
ウツの人にとって『嫌われる勇気』は、自分が責められているようで読むと症状が悪化しそうです。
しかし、この『本音で生きる』は、責められているように感じず、もっと自由に、本音で生きようよ、と勇気をもらえます。
補足するなら、
(1)今に生きること、過去や未来ではなく、現在に関心を持つこと。
(2)!ここ!に生きること、今、目の前に存在しているものだけを問題とし、 目の前に存在しないものは取り扱わないこと。
(4)不必要なことは考えないこと。むしろ、直接味わったり、見たりすること。
(5)他人を操作したり裁いたりせず、また言い訳したり自己を正当化したりせず、 自分の気持ちを率直に表現すること。
(6)楽しいことと同様、不愉快なことや苦痛に対しても身をゆだね、 それを経験すること。
(7)「.・・・すべきだ」 「・・・であるべきだ」という、自分以外の人から 発せられる命令を受け入れないこと。偶像礼拝をしてはならないこと。
(8)自分の行動、感情、思考については自分が全責任を負うこと。
(9)あるがままの自分を良しとし、それに徹すること。
それと認知の歪みをチェックすることで、ウツやウツ予防になると思います。
(1) 全か無か思考
(3)心のフィルター
(5)結論への飛躍
心の読みすぎ(読心術)
先読みの誤り
(7)感情的決め付け
(8)すべき思考
(9)レッテル貼り
以上に気を付けていると良いと思います。
日本という国は「恥」の文化です。そういう文化がはぐくんだ「空気」が強い同調圧力を生んでいます。本音が言えない文化とも言えるでしょう。
『嫌われる勇気』という本がありますが、『本音で生きる』では、それをホリエモンが簡単に読み解いてくれたように感じました。
ウツの人にとって『嫌われる勇気』は、自分が責められているようで読むと症状が悪化しそうです。
しかし、この『本音で生きる』は、責められているように感じず、もっと自由に、本音で生きようよ、と勇気をもらえます。
補足するなら、
(1)今に生きること、過去や未来ではなく、現在に関心を持つこと。
(2)!ここ!に生きること、今、目の前に存在しているものだけを問題とし、 目の前に存在しないものは取り扱わないこと。
(4)不必要なことは考えないこと。むしろ、直接味わったり、見たりすること。
(5)他人を操作したり裁いたりせず、また言い訳したり自己を正当化したりせず、 自分の気持ちを率直に表現すること。
(6)楽しいことと同様、不愉快なことや苦痛に対しても身をゆだね、 それを経験すること。
(7)「.・・・すべきだ」 「・・・であるべきだ」という、自分以外の人から 発せられる命令を受け入れないこと。偶像礼拝をしてはならないこと。
(8)自分の行動、感情、思考については自分が全責任を負うこと。
(9)あるがままの自分を良しとし、それに徹すること。
それと認知の歪みをチェックすることで、ウツやウツ予防になると思います。
(1) 全か無か思考
(3)心のフィルター
(5)結論への飛躍
心の読みすぎ(読心術)
先読みの誤り
(7)感情的決め付け
(8)すべき思考
(9)レッテル貼り
以上に気を付けていると良いと思います。
まあもちろん地球人類はエスパーではないので恋愛禁止といっても交際禁止、セックス禁止という意味であって内心を規制できるはずもないんですが。
ただ片思いと言っても、その相手がそのアイドルにとって普通に会える現実の人間だったら処女性を求める系のファンはやっぱり耐えられないと思います。二次元キャラに片思いとかはむしろ大歓迎なんじゃないですかね、セックスに繋がらないから。
で、パッションが魅力的だっていうのも当然の話で、アイドル業は特に「あの子のあの頑張りや情熱が好きなんだ!」と熱く語るようなファンに支えられているようなものなので、「好きだー!っていうパッション」はむしろみんな大好きでしょう。でもその相手が生身の恋愛可能な相手だと嫌だっていう。
アイドルの語源は皆さん知っての通り「偶像」なわけですが、現代日本のアイドルにはことさら多重的な偶像性が求められていると思っています。単にファンがそうだと思っているアイドルの姿が本人の実像と異なるというだけでなく、アイドル自身が夢や情熱や恋心を向ける先もまた偶像的というか、抽象的なものであってほしい。生々しい現実の異性愛ではあってほしくない、みたいな。
そういう性的消費を内面に隠し持ったものが、昭和から続いてきたアイドル観。
でも最近のアイドルは風向きが変わってきている。もちろんそうした性的消費に迎合する一面もありつつ、別のもう少し高尚っぽい要素が加わっている。アイドルグループというのは思想やコンセプトを表現する器であって、一種の劇団のようなもの。箱推しと呼ばれる人は、その劇団のファンと言ってもいい。そこで繰り広げられるリアルタイムの成長ストーリーに心動かされ、アイドル各々の価値観に共感し、応援し続けたいと思わせる、物語消費の要素が少なからず入っている。その要素に魅入られた人が感じるのは、性的消費というよりも、親心のような慈愛の情。もちろんそれと性欲を共存させられる人もいるが、出来ない人もいる。出来ない人にとって半性風俗ビジネスとしての昭和的アイドルは依然として嫌悪の対象であったりするが、うっすらそういう価値観を持っていても、性的要素を「カワイイ」「カッコイイ」という魔法のコトバで飲み込む人の方が多いだろう。女(男)ならそれを追求するのは普通なことだし、本人が望まぬ下卑た性的アピールではなく、本人たちの望んだ演出なんだと信じることで消化できるのだ。けれど、やはりリベラルで慎重な人権意識を持つ人ほど、その辺に漂う商業アイドルの危うさを払拭できない。そういう人たちの懸念も過去にしたのが、「スクールアイドル」という自発的でインディーなアイドル活動の概念を提案したラブライブという作品だった。似たような形態に地下アイドルがあるのだが、やはり現実を見ると思春期少女の心の闇につけこみ異様なファンに祭り上げられているような不健全さが見え隠れする。その点アニメ世界は非常に健全で美しい心のあり方が描かれており、実演するキャストもいい大人なので懸念の払拭の一助となっている。
総論としては、昭和的なアイドル観は、本来的な「アイドル」に回帰しつつある。すなわち、プロデュースし売り込む為に作られた――北朝鮮がやっているような――アイドルではなく、「クラスのアイドル」「ネットの人気者」のような、周りから自然と崇拝されるようにして発生し、何にも縛られず表現をして、そして美しく去っていくことが望まれている。誰も傷つくことなく、誰もが幸せになれる表現者としての繊細な美意識がアイドルに求められだしている。自らの青春を犠牲にして(恋愛を禁止され)、偶像としてキャラを演じることを求められ(「アイドルはトイレ行かない」はその極致)、人気や商売に翻弄され、頭を丸めたり謝罪会見をするようなアイドルを誰も見たくないのだ。
もしこれをバンドで例えるなら、メジャーレーベル信仰からインディー文化へ移行している、となる。ネット時代だからこそ、そういう自由な形態がアリになってきているのだろう。
結構好きな作品ばかり抜けてたので、参考になるか分からんが俺の感想かいとく。
神風動画制作なのでCGのアニメートのくせに熱量がありすぎる点もすごいんだけど、これに関してはAC部の参加が熱い。AC部が混入していることで完全に世界がAC部になっている。AC部の映像が出てくるだけで笑える。
巨大ロボ×ハードSFがたまらん。重厚感のある世界設定もそうだけど、ものの挙動に一つ一つ設計があると感じられる。そうやって緻密にかつ大胆に作り込まれた動きってのはそれだけでロボアニメの素晴らしさの可能性を十分に示している。長編化してほしい作品第1位。
自分はこれが最高作品だと思う。なかむらたかしの造形センスはほんとに素晴らしい。特にダンサーの造形がGOOD。絵本のような背景も見ていて幸せになれる。音楽もジャジーでダークな感じが合ってる。なにより作画面でのクオリティが随一で、同トレスで言ってたけどなかむらたかしが原画の大半をやって、スタジオコロリドのなかむらたかしチームが動画をやっているんだと(同チームの「寫眞館」という短編映画もおすすめ)。やっぱりジブリと一緒で、動画チームが洗練されていると質が高いアニメーションが生まれるんだよね。お姉ちゃんのブブリーナがトラブルを起こして妹のブブがウルトラパワーで解決するという定型感もよい。NHKで定期的に新作が放送されるべきだ。OPとEDもまだアニメが子供に向けてちゃんとつくられていた時代の美術を彷彿とさせる良さがある。
随所にエヴァQを思い出させるキレのよい画面があって、カラーCG部の力強さを見せられる。全体としては見本市〆のファンサービス感がある。
ここらへんは俺も分からなかったけど、同トレスみたら、どれも元ネタを丁寧にふんだんに取り込んでる作品だったから、グリッドマンを知っている、内山まもる版ウルトラマンをしっている、各種ロボ特撮のディティールに精通している、のであれば激燃え作品であることは間違いないようだった。
NHKで特集の再放送があったんでまとめて見たら、けっこう面白いのを見逃してたよな気がしたんで書いとく。
http://animatorexpo.com/titlelist/
ちなみに1/31で一度だいたいの公開が一度止まるらしい。赤字プロジェクトのままらしいし、ちょっともったいないので感想を書いてみた。
エヴァ資料ちょいだし系とモヨコ(のマンガ紹介)は外した。正直わかんなくて項目を立てなかったのは「電光超人グリッドマン」「月影のトキオ」「偶像戦域」「ブブとブブリーナ」「ザ・ウルトラマン」「世界の国からこんにちは」「カセットガール」。エロい人解説よろ。
アニヲタってほど詳しくない、作画ヲタでもないので、なんか間違いがあったらツッコミ歓迎。
http://animatorexpo.com/thedragondentist/
冒頭の湯浴みシーンの水の質感がちょっと懐かしい。キャラの動き方も世代的には旧エヴァよりちょっと前、ナディアとか好きだった世代には嬉しい感じ。サントラの中に「雲龍」ってのが入ってるのは、出てきた軍艦は雲龍型ってこと?ミリヲタの人に聞きたいわ。あと和物ガジェットを少しずつ重ねていくことで和物ファンタジーにうまく繋げてるのがいいかな。
NHKで紹介されてた吉崎響×井関修一の監督×作監コンビだったのでこれも見た。前半は単にエロでしょと思ったんだけど女体が非エロなものとしてゲシュタルト崩壊していくのがいい。そのくせ幾何学模様もエロを連想させやすい形を維持しているのは、わかりやすく狙ってるんだろね。そこに至るまでを含めて見ると、どぎついコンセプトとは別にキャラの描線も美しいのが感じられてくる。早い段階で女の身体が襲ってくるモチーフが出てきたことで、序盤のエロが単なるエロではなくなった。その辺の流れの作りこみがうまい。
後半エヴァ風スーツで一人称シューターする感じとか、デザインそのものが新しいわけじゃないけどマイナーアップデート感があるね。最近の映像作品全般でもわりと出てきてる手法だけどね。
幾何学模様もエロというのは、その後に同じコンビで出た「GIRL」も同じ。あの舟を見下ろしてるのはコレだよねってのが分かりやすい。百合をクリオネみたいに生やすのはなんでだろって思ってたんだけど、終盤に対応するシーンがあったかな。
再編集で出た「ME!ME!ME! CHRONIC」はさほどでもなかった。だから「ME!ME!ME!」と「GIRL」さえ見ればいい。
女主人公の西部劇短編なんだけど画面に古いフィルム映画風のヨゴシを含めたカメラワークが特徴。隻腕ガンマンのアクションを網羅してるのも(・∀・)イイ!!
鉛筆書き風のは「かぐや姫の物語」があったけど、それで「南くんの恋人」をやるとスマホが意外と面白い表現手段になるんだなと思った。感情に応じた描線のゆがみもよいけど、最後の表情の微妙な変遷がかなりよかった。
見本市にはMusicClip的なつくりのものが結構あるけど、その中でも都市の描写がいい。おしゃれアニメって言葉は濫用され過ぎてるきらいがあるけど、こういう「都市に在りそうな物体」配慮の行き届いたのをオシャレって言ってほしいかな。
トップ推し。大型のなんかについての鈍重さの表現が、エヴァ周辺のあれこれだけでなくて、ここ数年の怪獣映画が気をつけつつあることとも呼応してるよね。『パシフィック・リム』とかね。
声優にハイテンションで喋ってもらう。こーゆーの好き。風刺モノっていうのは要点をわかってるほど基本付き合うのがタルいので、タルくない速度でやるならこのくらい早回しで作る必要がある、ということを確認させてくれる。これから見る人に言っておくと、英語字幕つきで見たほうが会話のリズムがわかっていい。
ここまで完全に言い忘れてたけど、「見本市」作品の男役はみんな山寺宏一、女性系の役はみんな林原めぐみ。この二人の声優が全作品で演じ分けてる。そういう契約なんだろうか、確認してないけど。作品は好き好きだろうけどこのことがわかるとヲタ的に楽しみ方が広がって、いいよな。
今石監督作品。「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」とか「キルラキル」とかにあったうち一部の部分をさらにどストレートな方向に圧縮したようなやつ。煮詰め方は凄いけど、推せるかっていうとわからないな。
わかりそうでわからない。中毒になる人はなるんでは。それはそれとして細かい演出が結構凄いんじゃないか。だって「イカ娘」と「日常」と「九井諒子短編集」が全部入りな上でエヴァ系の知財を使えたら、まあこうなるよなって。今更めぐ姉でそういう企画できるってのはつくづく良いプロジェクトだよこれは。おかわりいただけるだろうか。「そうそう、艦これの雪風二次創作を消費してる時の俺らってこういうの見たかったよね」みたいな。おかわりいただけるだろうか。
ミステリと時間SFとをショートショートでやったってところ。筋がさほど捻られているわけではないけど、男の指の滑らせ方の演出が殺人と性欲(と愛情?)の狭間を漂っている。オチが文字通りの文脈依存なまま終わるのもショートショートとして(・∀・)イイネ!!
安野モヨコのデザインしたキャラで四季を表すコマ撮りアニメを実演してる。コマ撮り用の素材のチョイスもいい。
すしお絵でこういうのやるの、かわいいに決まってんじゃん(ももクロZのもそうだったよ)、というのがファーストインプレッションだけど、まあ密度が高い。押し合いへし合い口撃戦のところとか良くね?良くね?
さかき漣「顔のない独裁者」って小説が元らしい。エヴァやジブリってよりは大友アニメや押井アニメの大きな流れで見た方がいいのかな。政治を扱ってることそのものよりは政治と性的不能とを安易に直結してしまうところに「いまどきこれはないでしょー」な筋悪さを感じる。原作をみてないからアニメスタッフにどこまで責任があるのかわかんないけどね。でもねこういうの好きだよなみたいな共感もあるよね。
クレジットを見ると監督が平松禎史さんってことで。彼の関わってる寄生獣アニメ化は全体的に良かったし、こういう方向でももう少し長いのをやってくれるのかなという期待を持った。
俺屍をやってた当時の俺の頭ン中は終始こんな感じだったな。スキスキダイスキ。ただ他の人にとっても良いかどうかはわからん。
盛々のグロ要素に対する薄暗い欲望と、あと昨今の劇場版アメコミ映画で金払って数時間座らされて「なんだこれっぽっちかよ」、みたいな気分にさせられがちなイライラの、どっちも手短に上手に昇華してくれてありがとう。
中盤くらいからカウボーイビバップ直撃世代が泣く展開になってるんだよ。わかってくれるか。老害ですまんな。マジで。
校舎内で上條淳士絵の美少年が空想のフィギュアスケートで踊りそのまま成長して表舞台に、というだけでもう楽しいでしょ〜。
ただ幾つかフィギュア素人なりに疑問に思うところもあったかな。男子シングルの練習をしている主人公が妄想にしてもいきなりペアの技を繰り出せるのかとか、ジャンプ後の着地がイマイチそれっぽく見えない瞬間があるとか、そういうトコね。ただ今後フィギュアスケートのアニメとかが出てきた時にこの短編はなにかと作例として見直されるんじゃないかな。
感心の方向としては「坂道のアポロン」の運指にちょっと近いものがあるね。
作品それ自体の好みを抜きにしてネタのゴリ押しで大爆笑させてもらえたのはこれが一番だった。B級映画を見慣れてる人ほど笑いとして刺さるんじゃないかな。「エヴァのTVシリーズは前半でしょ」と言いたがるタイプのアニメファンにもどうぞ。
冗談はさておき、他の作品も広い意味ではエヴァその他のIPを使ってるのに一番半端な知財の使い方で、やらなくてよかったことなんじゃないのこれっていうのが残念。最後の数十秒の良さも音響のおかげというところがあるし、これの目指すエモさは本当はエヴァじゃなくてよかったんじゃないの。
これ自体がそこまで悪いってわけじゃないんだけど、パロディを取り混ぜた知財の使い方でとりわけ上手だったのは「おばけちゃん」だったから、比べてしまうね。
どうしようもない好色のロボの話ではあるので最初は見かけた時不愉快だった。だけど見直すと、作画の良さが際立ってることは間違いない。それだけ取り出して褒められるかどうかというのが、こういう好色バカを扱う作品の難しさだね。
この作品に限った話じゃないけど、そーゆーポリコレ関係(ジェンダー論とか差別とかどうこうってやつね)がクリアできてないのは「見本市」にはむしろ多くて、さすがにこの貧相さで大丈夫かなと思わなくもない(映画もそうじゃん、とか言ってる人はごく最近の映画を見てない不勉強な人間なので無視するよ)。もっともね、そーゆーポリコレのズサンな点が気になりだして作画や造形が評価できなくなるのはよくある落とし穴なんだけどね。ハマるよね。
ジェンダー論ガン無視していい作品作ろうと思ってる作り手と、ジェンダー論だけやっておけばそれだけでいい作品語りができると思い込んでる語り手と、どっちも怠惰さで言やどっちもどっちだけど、四分六で後者の方がやや罪が重いかな。映像の良さをしっかり語れる作り手と語り手がジェンダー論にも手を抜かないくらいがちょうどいいね。
結論としては「POWER PLANT No.33」「おばけちゃん」「イブセキヨルニ」が推し。次いで「ME!ME!ME!」「I can Friday by day!」「ENDLESS NIGHT」「ヒストリー機関」あたりが良かった。異論は認める。
都会が人口過密で、特に満員電車が異常な日本社会では、痴漢被害がとても多いのです。
しかし、痴漢被害はトラウマ体験であり、現場でも言い出せないのはもちろんのこと、時間が経ってもなかなか、他人に公然と話せることではありません。また日本では、男だけ、女だけ、といったかたちで交友関係が構成する傾向が強く、性別を超えたコミュニケーションが断絶しがちです。言い換えれば、日本社会には性別のセクショナリズムがあります。そのため、痴漢被害に遭ったことのある人は多いのに、そうした事実が話題にのぼるのは概ね、女同士の会話ばかりです。
そして、人口比率で男と女が概ね半々であるのは当然として、日本は、社会的に表立っているのが男中心であるいわゆる男社会です。そうすると、痴漢被害の体験がある女の数は社会の半数にまでは満たないうえに、男の方が外に出てくる日本社会ですから、あまり認識されていません。
わいせつ被害に遭ったことが知られたら「女としての値打ちが下がる」とさえ思われているところすらあります。公然とは言うな語るなという話になりますし、また被害者自身も「話したら損だ」と思うこともあります。
痴漢というのも、触るだけではありません。触らせるというのもありますし、道端で露出するというのもあります。そうした被害のトラウマがありながら、トラウマであるだけに他人に打ち明けられる機会もなく心の内に抑圧していなければなりません。
性被害体験の精神的外傷が癒やされないから、「女性蔑視だ」という批判行動の衝動に表れるのだということもあるわけです。そしてさらには、あれもこれも「男根のメタファーだ」という人すら出てきかねないわけです。その人はもしかすると過去に、露出狂に、膨張したモノを見せられたことがあるのかもしれません。
こうした社会状況を、批判者の単なる個人的な特異性だとしてバカにしているだけではいけないと、思います。想像力や配慮、コミュニケーション力があれば、侮蔑する人格批判は、到底言えないはずです。
今の日本社会では、男女間の現実の交際の代わりとなるものが商品化されています。それは、「アダルトビデオ」などは言うまでもなく以前からありますが、「アイドル」やアニメやゲームの類でも、現実の交友の代わりとして消費されている時代になっているわけです。
例えば「アイドル」というのも、商売として展開されています。男性向けも女性向けもあるわけで、例えば「ジャニーズ系」だろうが「AKB」だろうがあるわけです。この手の商売は、顧客の熱中、より本質的に言えば「依存」、それを利用しているわけですから、成功すれば売上規模は大きいです。とりわけ数十年にわたって底無しの経済後退にある日本では、こうした商売を批判することも、タブーとなってきています。
「アイドル」というのは元来は神々しい偶像であったはずですが、とりわけ男性向け市場では、グラビアモデルの類までもが「アイドル」と呼ばれていて、アイドルのインフレ化が悲惨なくらいです。
もちろん、これらの多くは、「アダルトビデオ」などとは異なり、非わいせつの範囲で行われています。しかし本質的には「性の商品化」です。たとえ性欲処理用でなかったとしても。
そしてこうした一種の「性の商品化」は、実在の人物、いわゆる「三次元」に留まらなくなりました。具体例を挙げなくてもいいと思いますが、男性向けであれ女性向けであれ、アニメやゲーム等の「二次元」でも、「性の商品化」は進んでいます。
近年のアニメについて、以前に押井守氏も「オタクの消費財になっている」と言って批判していますが、そうして「こころのスキマを埋める依存性商品」になっているわけです。それにその方が売上が出るわけで、この経済退潮の日本で、少しでも収益性があればまるでビジネスの「救世主」として扱われるわけですから。
このような動向がありますから、「アニメ=依存性商品」という、一般論としてはあてはまらない、事実と異なる偏見ももたれています。それ自体が誤解であったとしても、その誤解が起こる背景に目を向けるべきです。
アニメタイアップで観光客を呼び込んで「地域活性化」「街興し」とかいうことが増えて、もうけっこう経ちます。そのタイアップ作品の中にも、「性の商品化」の範疇にある作品もあるかもしれません。
しかしそうでなかったとしても、その作品に依存性があるからこそ、わざわざ遠くの人を呼べる、そういうことがあるわけです。「聖地巡礼」とかいう表現は明らかに異常ですが、本当にそれくらいの認識でやっている人達すらいるわけですから……。(そしてたかがその程度の動機で来るレベルにとどまってしまったら、リピーターになってくれないので、一過性の経済効果しか出ないわけですが。)
タイアップ例のなかでは、「ユーフォニアム」だとか、その元ネタとでもいうべき「けいおん!」だとかは、それほど「男性専用」という作品ではありません。いわば、性的なセクショナリズムは、低い方です。
それでもその作品を嫌がる人がいるのは、たとえ作品自体がニュートラルであったとしても、その熱狂的な(依存している)ファンこそが当地に来てカネを落としていくという現実があること、そしてまた前述のように偏見をもたれているということから、作品自体に対しての批判にすり替わっているからなのでしょう。
そして、熱狂的な(依存性の)男達を嫌がる女が少なくない背景には、過去に性被害の体験があることから恐怖を覚えるというのも原因としてあるわけです。