女性蔑視(ミソジニー)のことを色々と調べていたが、とある偶然からブラム・ダイクストラ(著)『倒錯の偶像』という本に行き着いた。
氏の主張を乱暴にまとめると「女性が(男性と同じように)俗的な欲望を持っている存在に過ぎないことを認めない」
という女性に対する極端な神聖視こそが、その反動としての極端な蔑視の背景にあるという。
ダイクストラの主張には非常に説得力があるし、現代にも続く女性差別の精神構造も基本的にもそのまま当てはめることができると思う。
ただ、同時にその性的立場を交換した考え方、すなわちミサンドリーも似たようなものではないのか、と感じた。
ミサンドリーとは、「男性が(女性と同じように)俗的な欲望を持っている存在であることを認めない」立場というわけだ。
ミサンドリーがそうした立場であるなら、なるほど、多くの女性が男性に「甲斐性」とか「器の大きさ」を期待していることも不思議なことではない。
つまり、男性が女性との関係で損害を被ることを当然視したり、(主に性的な)欲望をコントロールできないことが糾弾されるのも、
女性に対する搾取や暴力性が云々といったことよりも、単純な話、「男が俗的欲望を持つ」こと自体を拒否・否認しているからなのだ。
ちなみに、自分はフェミニズムを勉強する上で、実はフェミニズムが男性蔑視を*否定*する思想的立場であることも学んだが、それは自然なことだと思う。
極論かもしれないが、フェミニズムは男女の対等的関係を志向する以上、男性の欲望を拒否・否認する考え方を受け入れるわけがない。
(自分は最初フェミニズムは男性蔑視の思想なのだと勘違いしていた)
結論としては、ミサンドリーはミソジニーと背中合わせ、共犯関係にあり、どちらか一方だけを社会から消失させることは不可能なのだと思う。
男性の女性に対する期待(あるいは抑圧)を弱めたり、消し去ろうとするならば、必然的に女性の男性に対する期待をも弱めたり、消し去る必要がある。
ただ、誤解して欲しくないのは、日本の女性が男性に「器の大きさ」を求めるのは、それだけ女性が男性に期待(抑圧)されていることと密接な関係があり、
それ故、女性に対する抑圧が未だ強い日本社会においては、男性が女性との関係で一定の不利な立場に立たされるのは致し方ない部分もあるのだろう。
貴方は男と女が互いに「抑圧(期待)」し合っていてどちらもギルティーだと認めてるのに、なぜ最後に男性側の不利を「致し方なし」と肯定すんの?意味わかんないんだけど。