はてなキーワード: 長所とは
(IIの続きです)
共感してくださる方、自分も頑張ると言ってくださる方がいらしたこともまた救いでした。ありがとうございました。
わたし自身が願望と現実の差に疲れ果てて書き込んだ身なので、大きなことは言えません。一緒に前に進もうとすることくらいしかできませんが、わたしがここで救われたように、それが少しでも励ましになれば幸いです。
自分を肯定し、人としての自信を持っていきいきと振る舞える女性になれたとき、どこかでお会いできたらいいなと思いました。
年下を好きな方に対して、そういった扱いをされる方がいらっしゃることに驚きました。自分が年上の場合、見栄を張ってしまったり、助言を素直に受け入れづらい場面が増えるのではという印象があるため、わたし個人としては器の大きい方なのだろうと感じた次第です。年下を好きな女性、素敵だと思います。
名曲としか言いようがありません。わたしも主体性というオールをしっかり握りしめていきたい。
言い訳をせずに向き合うことも、これからの自分次第ですね。自分なりに努力をしたから、と、そのときの自分を認められるように頑張ります。
人の手を汚すことでも自分の手を汚すことでもないと思うので、搾取された以上のものをこれから積み重ねていきたいです。
書き込みをしたときの心境から言えば、二度と立ち上がれなくなるくらい叩かれたいという自暴自棄も多分に含まれていました。
結局そのあたりも、自分自身で動こうとしない傲慢さの表れだったのだと感じています。
人としての在り方自体も考えていくべきだと痛感したので、人間性の充実をはかりながら向き合うくらいで丁度いいのかもしれません。
コメントを拝読して、あこがれが度を超え親友たちを神聖化していた面もあるのでは……とはっとしました。親友だと思っていたわりに、彼女たちときちんと向き合うことも放棄していたのかもしれません。
一人ではないことに気がつけたので、いずれは同じ思いを抱えた人のことも支えられるようになれたらと思います。
- これおっさんだったらおもろいな
だったらわたしも笑い飛ばしてすむ話だったんですが、いかんせん現実なのでこうなりました。
なんの救いにならないとしても、理解することで視界が開けると世界は大きく変わりました。ありがとうございます。
- 「愛されるよりも愛したい真剣で」
こちらもまた名曲ですね。人を愛することもそうですが、自分を愛することに対する能動性も身につけていきたいところです。
そんな未来を自分で掴めるように、自分も人も愛せる人間になりたいと思います。
人間には何かしら欠点があるという当たり前のことを知っていながら、自分の問題になった途端そのことをすっかり忘れていた気がします。友人たちとは長所も短所もひっくるめての付き合いですし、恋愛だからといってそれが適用されない道理はないですね。
- 乙女ゲーやろう
10代の頃に少しプレイしていたのですが、主人公に自分を重ねてキャラクターに愛してもらう、という感覚になりきれず途方に暮れた思い出があります。
心底そう思います。ありがたいことです。
自分でさえ見えていなかった本質を言語化していただき、コメントを前に何度も頷きました。自分の人間性を自分が一番信用していなかったのだと思います。
はい。いただいたコメントを糧に前を向きます。できることから一つずつ。
すべてのコメントを挙げさせていただくことが叶わなかったにも関わらず、まとめただけでもこれだけのお言葉をいただいたのだと改めて実感しました。
自分自身のことさえ見えずに(あるいは見ようともせずに)自尊心や願望を書き散らし、傲慢さを振りまくばかり。あの書き込みは見るに堪えない内容だったことと思います。
そんな書き込みでも、さまざまなコメントをいただいたこと。そこから多くの発見が得られたこと。これからの自分を考える切欠をいただいたこと。前を向く力をいただけたこと。
マイナスの部分しかない内容でしたが、不格好でも外に向けて自分を表現したことに対する成果としては身に余るほどの幸いです。
冒頭の通り、元の書き込みも、この書き込みも、今後立ち止まったときのための戒めとして残しておきたいと思います。
一朝一夕に変わっていくことは不可能でも、今のわたしを大切にした時間の先に、これからのわたしがあるのだと知りました。
次に増田へ書き込みたいという意欲が湧いたときには、人生楽しいぞ!という話ができる素敵な人でいられるよう毎日を重ねていきます。
本当に、ありがとうございました。
春コミで買った同人誌のいくつかがハズレだった。
10冊買って10冊全部が最高だなんてことはありえないと思っている。
言っちゃ悪いがプロでもなんでもない素人の創作物だ。そういうこともある。というか、そういう事の方が多い。
それを500円、1000円、あるいはもっとの金額を出して買うことを選んだのは自分自身であることもわかっている。
それでも500円あったら安いランチが食べられるし、1000円あったらいろいろできる。
金を払っているんだから私を楽しませろ、とは言わない。同人誌は個人の嗜好の発表会である。
描き手が妄想をかたちにしたものを、買い専の私は金を払って見せてもらっている立場なのだ。
しかし一方で、せっかく金を払ってるのだからその分は楽しみたいと思っている。
今回ハズレだった本は
・表紙こそ好みの絵柄であったが本文はそうでもなかった
・どういう話なのかよくわからなかった
といった具合である。
これをどうやって金額分の元を取るかといえば「よかった探し」をする。
・本文はそうでもなかった=表紙は好みだった
・オチが気に入らない=その直前まではよかった
このように考えるけれど、ネチネチした性格の私は「とかなんとか言ってもハズレはハズレ」という思考は残っている。
その思考をねじ伏せるくらい「ここがよかった」というポイントを羅列していく。
しかし言うほどぽんぽんと出てくるわけがない。出てくるくらい良い本ならそもそもハズレとは言わない。
それでもひねり出すためにどうするかというと、感想を書くのである。
最近は本の奥付に感想用フォームのQRコードを載せているサークルがある。
当然だが「お前の新刊買ったけど表紙に比べて本文が下手!表紙詐欺!」などという内容ではない。
「会場で思わず手に取ってしまうほど素敵な表紙でした!」と書く(この感想がいい感想かどうかは別だ)。
とにかく気に食わない点以外は全部褒める。
絵が好み。線が綺麗。話が上手い。描写が丁寧。タイトル付けが巧み。カラーの色使いが素敵。
ネタがなければ装丁を褒める。PPがかわいい、特殊紙がキャラにぴったり、本文色インクが話の雰囲気にマッチしている、とか。
とにかくほめる。ほめちぎる。目についた要素を全部ほめる。
もちろん自分に嘘はつきたくないので、絵が気に食わないのに「好みの絵柄です!」とは書かない。
感想を書くために目を皿にして長所を探し、実際に文字に起こし、誤字や失礼な言い回しがないかチェックする。
そうすると自分の中で「あれ、この本ハズレじゃなくね?アタリじゃね?」と思えてくる。
時間をかけて感想を書き、送信ボタンを押す頃には、ハズレの本はハズレでなくなっている、ことがある。
最近はTwitterアカウントも奥付に載っているので、鍵付でなければ感想を送ったあとでアカウントを覗きに行く。
すると「感想をもらえた!嬉しい!」とツイートしていることがある。
それを見て「私のようなネチネチした人間が送ったとも知らないで…」とニヤニヤしている。
始めて知りました。
ちょっと長くなるかもしれないですけど、今思ってる事書かせて下さい。
夜寝て、次の日が来るのがこわい。
こわいから何か不安に思うと調べずにはいられなくて、気付くと夜中に「就活 しんどい」「就活 死にたい」「就活 つらい」って検索かけてる。
ここ3日くらいは泣き出すと止まらなくて3時間くらいずっと泣いてる。深夜の3時から6時くらいまで。
泣きたくないのに、もう寝たいのに、止まらなくて次の日には瞼が腫れちゃって。
夜涙止まらないって調べると、うつ病とか出てくるけど私はなりかけてるのかな?それとも思い違い?わかんないや。
内定もらえなかったら?
って思うとなんかもうこわくなって、駄目かもしれないって思っちゃうの。
就活駄目だったら院に行ってもいい?
就活駄目だったらどうしよう?
って聞いてみたの。
返答は、
私が欲しい言葉はそういう事じゃないんだ。それはかえってプレッシャーになるだけ。だから今日も泣いてる。
嘘でもいい、嘘でもいいから、院に行ってもいいよ、とか、とりあえずやってみて駄目だったらそれでもいい、とか、何か逃げ道みたいなのが欲しかったんだ。
就活くらいで死にたいなんて大袈裟だ、社会にでたらもっと死にたくなる事がある。
なんてコメント見かけたりするけど、あなたの尺度で私の辛さをはからないでって思う。
今本当に悩んでて、先の事なんて今眼中にないの。
こんなのも乗り越えられないなんて今後やっていけないよ、って言葉、すごく嫌い。
あなたにはこんなのかもしれないけど、わたしにはこんなにもつらい事なの。
だから欲しいのはそういう言葉じゃなくて、就活が駄目でも違う選択肢はあるんだってそういう希望みたいなもの。
ただの自己中なんだけど。
話がちょっと変わるけど、
書いてみたよ。
もうネタが無いよ。
ううん、あるにはあるんだけど、
そういうのってなんで書いちゃ駄目なんだろうね?
始発電車乗って物販並んで忍耐力鍛えたなぁとか、SNSで仲良くなった年上や年下の人と別け隔てなく会って遊んだりしたなぁとか、イベントにだっていっぱい行って充実してたなぁとか。
特技?声優さんの声の聞き分けとか結構得意。CMとか流れると反応しちゃうよね。
でも書けない。
アンソロに参加してみたりもして。
なんでそういうの書くといい目で見られないの?
これって立派な経験じゃないの?
って、思うの。
職種によっては良い、とかあるけど、じゃあ駄目な職種では何を書けばいいのよ。
何もしてこなかったからじゃん、って言われたらそれでおしまいだけど、でも今の私を作ってるのはそういう経験なんだよ。
楽しかったり、たまに苦しかったり、そういうのを経験してきたから今の自分がいる。
別に学業を疎かにした訳じゃないし、ちゃんとオールS取ったりしたよ。主席にだって2年連続でなったよ。
でもやっぱり頑張ったことは?経験したことは?そう聞かれると最初に思い付くのは世間的に言うオタクってやつ。
そういうのを堂々と言えない今の日本は嫌い。
好きなものを好きって言えないんだもん。
なんだかまた泣けてきちゃった、
たぶんきっとまた書きに来ます。
自分で幅を狭めている部分が気になったので一点。
裕福とは言えない家に生まれても、少なくとも親が定年退職するまでは、親のすねをかじり続けていくことはできるよ。
もちろん実家ぐらしで、親と良好な関係を築けるだけの努力はする。
そのライフスタイルだと自立は難しいのだから、他人と快適に暮らすだけの手伝いや、心配り、慎ましさは必要。
それでも理不尽で心身を損耗する「世の中」に出て生きるよりはだいぶマシだという実感はある。
親がもともとリベラル傾向で、「べき」論を押し付けてくるタイプじゃなければ、うまくやれる率は高いと思うから、
親が頭の堅い人だったら、なにか自分の長所を活かして、大きな貢献を一度してみせよう。見直してくれるかも。
スマホ代をMVNOに契約変更してあげて大幅に節約しつつ、スマホの使い方を教えるだとか、電気の乗り換えとか。
節約する、得をする、広く言えばQOLを上昇させてあげる。せめてもの親孝行にもなるし。
こういう生き方を選ぶなら、一生孤独でも苦痛を感じないくらいの、ある種の精神的たくましさは必要。
あまりに凄すぎたので、とにかくこのホットな感動を伝えたいという衝動に突き動かされて今これを書いている。
もう本当に凄い。
クオリティという意味でもそうだし、面白さという意味でもそうであるし、何かもうこの映画の全てを総合して凄いとしか表現しようがない。
もう色々な人に出来る限り観に行って欲しいくらいに素晴らしい映画なのだが、その中でも特にオタク達に観に行って欲しいのだ、この映画を。
何故ならこの映画は普段のディズニーアニメのメインターゲット層であるお子様達よりも、素敵なお姫様と王子様とのラブストーリーに憧れる少女達よりも、大人になってもディズニーラブなお姉様方よりも、それらのどの層よりも、何より冒険と戦いと伝説の勇者にいまだに憧れる馬鹿野郎共にこそ深々と心にぶっ刺さる熱い熱い熱い映画であるのだから。
そう、この映画は大いに感動も出来るし、ハートフルな気持ちにもなれるという普段のディズニーの看板を全く偽ることなく、果てしなく広がる海を旅する冒険と、心を奮わせる激しい戦いと、熱き血潮と筋肉と入れ墨をも同時に詰め込んだスーパーマッチョアクション巨編なのである。
しかしこのまま熱く内容についても語り尽くしたいところではあるのだが、まだ公開して一週間も経っていない今そこまでネタバレしてしまうのは気が引けてしまう。
何よりこれを書いている目的はより多くの人にモアナを見て欲しいという気持ちからであるからして、そんな未視聴の人達から初見の感動を奪ってしまうのも忍びない。
なので、大筋のネタバレを避けつつ「モアナと伝説の海」という作品の魅力をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1.ストーリーがいい
すでに巷では海のマッドマックスだのワイルドスピードだのと評判であるが、まずモアナは決してそんなインパクト重視な部分だけの映画ではないことを強く主張したい。
確かに途中から明らかにマッドマックスだし、終盤のセーリングバトルはまさしくワイルドスピードである。
そういう面がモアナのわかりやすくキャッチーな面白さであることは否定しないが、それらに劣らぬ魅力がそんな荒唐無稽な描写を単なるパロディやギャグで終わらせない骨太なストーリー展開にある。
序盤の展開を少しネタバレしてしまうことになるが、ここで軽くその一端を語らせて欲しい。
・村長である両親や周囲の期待に応え、村を継ぐという自分の将来がすでに決まってしまっている少女・モアナ。
・しかし同時に彼女は小さい頃から抱き続ける、海を越えて旅することへの憧れを捨てきれずにいた――。
ここまではディズニーでよくある抑圧されたプリンセスという構図であるが、モアナはここからが少し、いやかなりいつもと違う。
・しかし、村長の娘として過ごす内に、彼女が暮らす島には徐々に異変が現れ始める。
・島の命が涸れていく――。
・異変の原因は、今も口伝で伝わる神話の昔に起きたある伝説に原因があった。
・伝説は嘘ではない。海へ出ることを夢見るモアナの唯一の味方である祖母は、島に危機が訪れた今こそ彼女に真実を語る。
・島の先祖達の真なる歴史、そして島の中のとある場所に封印された船達。そして幼少の頃より海に選ばれし者であった自分の運命。
・島に、いやこの世界全てに危機が迫る今こそ、少女は己の運命と先祖から受け継いだ血に突き動かされて、封印された船を駆り、世界を救う旅へと出発する――!
そう、もう完全に少年漫画なのだ。ジャンプに連載されていても違和感がないほどに完全に少年漫画なのである。
何だったら船をロボットに置き換えても通じる。
飄々とした老人が語る真実。選ばれし血筋と運命。島に封印された兵器で世界を救う旅に出る少女。
まさしくロボットアニメ文法そのまんまである。そんな作品を見てみたいと思わないオタクがいるだろうか。
俺は見たい。そして実際に見た。凄い。この序盤以降も、もう本当に自分が望むままの血湧き肉躍る冒険活劇が繰り広げられるのである。
この時代にガッチリと、一分の隙も無く見事な、全く伝統的でブレることなく王道を真っ直ぐ突き進む冒険活劇が見られるのだ。
それこそが、そんなストーリーこそがモアナ最大の魅力であると、自分はまず自信を持ってオススメしたい。
そして二つ目のポイントもそのストーリーに掛かってくる部分なのであるが、「この映画は全くラブストーリーではない」というところをそれとして挙げたい。
そうは言ってもディズニーで、一応プリンセスが主人公なんだぜ? ラブストーリーじゃないなんてことあるの?、と思われるかもしれない。
自分のようにモテない独身男が一人で観に行っても全く闇を抱えることがない程に、清々しいくらいにラブストーリー要素は一切ないのである。(一応カップリング的なものはあるが、あくまでファンの受け取り方次第である)
前年度のディズニー映画「ズートピア」も恋愛関係というよりはバディものに近い関係性であったが、モアナはそれよりも更にバディもの、なんだったら師弟もののような関係性となっている。
一応に一応を重ねて今作のプリンス的立ち位置であるマウイというキャラクターは存在するし、彼と二人でモアナは旅をすることになるのだが、映画全編通して二人の間には一切恋愛を匂わせるような心の交流は存在しない。
しかしだからと言って二人の関係が薄いということは全くなく、冒険を通じてモアナという少女とマウイという英雄の間には友情のような、あるいは兄妹のような、あるいは師弟のような、固い固い絆が結ばれることになる。
そしてそこに恋愛というモチーフが一切入ってこないというのが、本当に爽やかで気持ちよく思えるのである。
恋愛的感情の一切無い男女のコンビというと「シュガーラッシュ」の例も存在するが、デフォルメの効いたキャラクター同士であるあちらよりも一人の人間としての形を色濃くデザインされた男女二人が恋には落ちないモアナはより珍しく映るだろう。
そしてそんな関係の二人だからこそ、シンプルに恋愛だけでない複雑な魂の結びつきを感じる余地も生まれ、キャラクターとしての奥行きを生み出しているようにも感じられるのだ。
独身男の心を傷つけない優しさという点だけではなく、そういう作品的な深みを生んでいる意味としても、ラブストーリーでないということはかなりオススメ出来る点であると個人的には考えている。
3.単純な悪役のいる物語ではない
これまたストーリーに掛かっているポイントであるが、個人的にもこのポイントは独立したものとして強く推したかったので語らせて欲しい。
さて、ディズニー映画と言えば必ずわかりやすいヴィラン(悪役)がいるというのが御約束である。
時には極悪非道、時にはコミカルで憎めない、そんな多種多様なヴィランがディズニー映画には登場するのだが、彼らはまた必ず物語の最後には主人公達に打倒されるものでもある。
単純な小悪党というパターンも多いが、彼らは多かれ少なかれ作品内の歪みを体現した存在でもあり、彼らが単純に倒されるだけでいいのだろうかというモヤモヤを残していったりもする。
それをして作品に奥行きと考察の余地を与えたり、現代における社会問題を反映させた構図としてみせたりするのがディズニー映画の一つの魅力ではある。
それは個人的にも長所ではあるとも思うのだが、やはり作品を見終えた後でいくらかの引っ掛かりや疑問を抱えたままになるし、それがあまり気持ちのいい感情ではないことも否定は出来ないだろう。
しかし、今回のモアナにはそれが一切存在しなかった(と、個人的には感じている)。
単純に歪みと闇を抱え、倒されるだけのヴィランというものが存在しないのである。
確かにモアナの冒険の途中には、モアナ達を狙う敵達が登場したりはする。
しかし、いずれも己の信念、というよりは生き方に基づいて立ち塞がるのであり、憎み合う敵というよりは障害物に近いものとなっている。
そしてその全てが憎めなくてどこか面白い、魅力のあるキャラクター達となっているのだ。
だからと言って、モアナという作品がそんなただ優しいだけの世界を描き、テーマ性の薄いものになっているのかというとそんなことも一切ない。
作品のテーマは最後まで一本筋の通ったものが存在しているし、それは様々なことを深く考えさせられるものである。
モアナを取り囲む世界も優しさに満ちていることは否定しないが、時にどうしようもない厳しさというのも十分に描かれている。
そして、この世界におけるこれまでのようなヴィランが体現する歪みというものは、モアナとマウイを含む全ての人物が己の心の中に持っているものとされている。
モアナとマウイは冒険を通じて自分の歪みと向き合うことでそれを打倒し、誰にも押しつけることなくそれを昇華する。
だからこそ、明確なヴィランの存在しない物語というものが存在し得るのである。
そして、そんな物語の迎える結末というものが、もう本当に、涙が出るほど清々しく、爽やかな気分にさせてくれるのだ。
何の引っ掛かりも疑問もなく、ただただ爽快感だけを残してモアナという作品は終わってくれるのである。
単純なハッピーエンドではなく、みんながこれからも考え続けていかなければならない。確かにそういう作品は大事だし、素晴らしいこともわかる。
しかし、たまにはここまで気持ちよく、優しい世界を描いた作品を讃えるのもいいではないか。
さらに加えてこの作品はプリンセスの不遇を描くに辺り、誰かしらや何かしらからの悪意が存在したりしないことも個人的には素晴らしいと思っている。
物語の序盤のモアナは抑圧された状況下にあることは確かなのだが、それは全て優しさと正当な理由があってのことなのである。
だからこそ、モアナの旅立ちのシーンが本当に胸を打つものになっている。
そしてそれはプリンセスの生い立ちや状況だけでなく、マウイという存在や行く手を阻む様々な困難の全てに単純な意地悪や悪意だけで構成されているものがない。
そういった部分も、この作品の優しさと爽やかさと気持ちの良さを支えているように思う。
作為的な悪というものが存在しない点。それもまたこの作品における重要なオススメポイントとさせていただきたい。
これについては今更自分のような者が語ることはないほど周知されていることだとは思うのだが、それでも今一度ここではモアナの魅力としてオススメさせて欲しい。
そして透き通るような美しさを持ちつつも精巧な絵画のように鮮やかな色をも見せ、生き物のようにうねる、これがアニメーションで可能なのかと驚愕しきりの海の表現。
愛くるしくも時に凜々しいキャラクター達の活き活きとした表情と動き。
そして何より激しいアクション! グリグリと動きまくる格闘戦! ド迫力な神と英雄のバトル! 躍動する筋肉! 精緻な美術設定によって作られた変態改造船舶!
もう枚挙に暇がないし言葉も足りない程に美しくて活気に満ち溢れた、そして過激かつマッチョなモアナの世界がスクリーンの向こうには広がっているのだ。
なのでこれはもう是非ともディスク化を待たずに劇場へ足を運んで、ドデカいスクリーンでこの映像美を拝んでいただきたい。
そのマッチョでマッハなアクションにはとてつもなく興奮することは間違いないし、そのあまりに美しい世界観に感動することもまた間違いがない。
特に予告編でも一部見ることが出来る夜の海を光る船団が行くシーンは本当に、本当に美しすぎて溜息が出るので絶対に劇場で見て欲しい。
そして海のマッドマックスと呼ばれる所以たるシーンも併せて是非。いや、マジでスゲーのよ。
5.挿入歌の使い方が最高
これもまあ今更自分が語るようなことではないと思うのだが、それでもあまりに感動したので書かせて貰いたい。
劇中歌の強さで天下を取ったディズニー作品と言えば「アナと雪の女王」が記憶に新しいが、個人的にはモアナのそれはアナ雪に勝るとも劣らぬ力があると感じた。
その上で、更にアナ雪よりも強いモアナの要素として劇中歌が挿入されるタイミングがとにかく最高ということが個人的には挙げられると思っている。
アナ雪で一番有名かつ作品のテーマソングともなっている「Let It Go」であるが、実は劇中での使用は一度のみなのである。
それもエルサが城から逃げ出して自身の能力で氷の城を作り上げるという、映像的には圧巻の美しいシーンではあるのだがタイミングとしてはいまいちカタルシスを感じていいのか微妙な部分で使用される楽曲であった。
対してモアナにおけるメインテーマソングである「How Far I'll Go」は、作中で数回に渡って使用される。
そして、それは主人公であるモアナが悩む時、壁にぶつかった時に、己を慰めるように、あるいは鼓舞するかのように歌い上げるのだ。
この劇中歌の流れるタイミングと、ストーリー的なカタルシスの一致がとにかく素晴らしいのである。素晴らしいシンクロ具合を見せてくれるのだ。
そしてこのテーマソングが一度ならず幾度も使用されるというのもありがたい。
作中のシーンに合わせて幾つもの曲を書き下ろすディズニーにしては珍しいしそこを欠点に感じる人もいるかもしれないが、一つの曲を大事に使ってくれる今回の方が個人的にはより好みであった。
そして何より言うまでも無いこの「How Far I'll Go」という楽曲自体の素晴らしさ。
切なくも力強いこの曲のサビの部分は、何度も使用されてこの歌を覚えていくことで作品の後半に進む程により心を震わされ、感動させられる作りになっているように思える。
更にモアナ役の吹き替え声優である屋比久知奈さんの歌声もこれまた最高で、これがあってこそと思えるものであり、この歌声と曲が合わさる相乗効果は本当に言葉にならない。
そして無論、「How Far I'll Go」以外にもモアナには素晴らしい劇中歌の数々が存在しているし、それらの使い方も言うまでもなく素晴らしい。
特に「We Know The Way」という曲はこれまた複数回使用される曲なのだが、映像と力強いメロディーとを合わせて自分の中の冒険心というものをこれでもかとかき立てられる素晴らしい曲であった。
とまあ、とにかくモアナの劇中歌は「曲自体の素晴らしさ」、「それが使用されるタイミング」、「その曲を覚える程繰り返し使用してくれる演出」と三拍子揃ってとてつもない感動を与えてくれるものとなっているのだ。
そしてそれを劇場の迫力ある音響で堪能出来る至福といったらもう、是非とも映画館に足を運んで味わって貰いたい。それ程大きなオススメポイントである。というかモアナでも極上爆音上映とかないですかね……。
さて、以上が自分のモアナという作品で素晴らしいと感じたポイントであり、オタク達にオススメするポイントである。
いかがだろうか、正直書いてる内に止まらなくなって自分でもちょっと引くほど長くなってしまったが、それくらい情熱に任せて書いてしまえる程モアナという作品は面白かったのだ。
なので、これを読んで少しでも食指を動かされた人には、本当に是非、すぐにでも劇場で観ていただきたい。
というか今すぐ観よう、今日のレイトショーで観よう、明日のレイトショーでもいい、休日は言うまでもなくモアナで予定を埋めよう。
誰に何を言われたからでも、観覧特典のような配布があるわけでも、ディズニーから金を貰ったからというわけでもない。
ただただあの優しくも熱い冒険の世界をまた味わいに行きたいからである。
そしてこれを読んでいる皆様にも、是非ともそれを味わっていただきたい。
純粋にそう願いながら、この文章をようやくここで終わらせることにしよう。
いや、やはり最後にもう一度。
…
……
………
…………
……さて。おまけで、かなりネタバレになってしまうがもう一つのオススメポイントを書き残しておきたい。
6.特殊性癖
巨女こそが女神の姿であり、自然であり、豊かな緑であり、巨女が島となり、大地となり、命を生む!
この映画は紛れもなく巨女信仰映画であり、子供達に巨女属性を幼い頃より刷り込ませ、更に一般的認知をも拡大せんとする目的で作られた映画であることは間違いがないだろう。
去年一年間就活を行ったが、内定が得られず、また3月から行っている。
この一年くらいずっとつらかったし、「就活は糞」とずっと思い続けているのだけれど、なんか世間の就活うつとかの印象と自分で思った思想とかに食い違いが見られるので書き起こしてみる。
前述として:
私は旧帝大の理系に所属しており、今年院卒になる。つまり、18年採用には既卒。
学歴は悪くないと思うが、理系で忙しかったり何たりでインターンとか、留学とかはできていない。
就活がつらいひとっていうのは主に「自分に自信がない人」である。
この、自分に自信がない人が就活をするっていうのは、料理の才能がない人が「今日からあなたは他人が作ってくれたものは食べれません。なお、つくった料理についてはプロの料理人にすべて採点してもらいます」と言われているに等しい。
毎日毎日不味い料理しか食べれないとそれだけで吐き気がするのに、その上、不合格、不合格と数か月にわたって評価されると、かなり精神的にくる。
その点、意識高い系というのは自分の能力に問わず、自分の作ったどんな料理もおいしい!と言える人である。
私はこの料理が下手な人だった。自己PRと言われても、自分の長所が何かわからず、一日ずっと考えても何も思い浮かばなかった。下手なりに頑張った料理にて、「こんなまずいものよく作れるね。なんでこんなのだそうと思ったの?」なんていちいち言われると、かなり精神的に病んだ。
いろいろネットを見ていると、「就活ぐらいで精神を病むなんておかしい」とか書かれているし、面接官に言われることを真に受ける必要はないとか出てくるけど、就活が苦手な人って、そういう自分が苦手なフィールドで戦わなければならないっていうハンデを背負ってる負い目があるので、うまくいかないんじゃないだろうか。
ちなみに、私自身、自分がコミュニケーションが苦手であること、また自己PRが苦手なことは10年くらい前から自覚していた。そんな自分がそこそこの会社でそれなりの生活をするにはどうすればいいのか考えた結果、いい大学にいくしかないと思って中高でそこそこ勉強してたし、バイトもサークルも頑張ってきた。
進路指導の人から「受験でうまくいってても就活は別なのよね」とか、今まで人生うまくいってる人を一回叩き潰そう的な言葉を投げかけてくるけれど、逆だ!逆!なんで最初から、自分が持っている相対的な価値をもつ長所みたいなところをつぶそうとするのもまたつらいのでやめてほしい。
しかも就活なんて自己申告なので、「今まで本当は何してきたのか」よりもどれだけうまい虚言をはけるかが勝負なところもある。
知人に「特技はお菓子作り」っていってる人がいるけれど、全部目分量で作っているし。メシマズでも自分で「おいしい!」と思っとけば勝利!みたいな図も好きじゃない。
あと、就活サイトで「就活で自分をどれだけごまかしても、働いててつらいだけだからね」とかいうのをしばしば見るけれど、内定を一つももらえなかった自分としては、live or deadの就活でそういうことをいうのは社会人の詭弁という気がする。
3年ほどスーツ必須の職場でバイトしていたけれど、就活ファッションの人とかいなかったよ。女性なら私服でオフィスカジュアルの服とか用意できるので、自分を出して!とか訴える前に、服装自由とかから始めたほうが個性ができる気がする。
以上。
17卒だが就活に失敗して15日に家から追い出されることになった
行く宛もないし、金も仕事もない このままだとホームレスになるしかない
ホリエモンこと堀江貴文氏が「失敗しても0になるだけ」と言っていたがどうやら私はマイナスからスタートになるようだ
22歳にして人生詰むとは思っても見なかった
バイトをしても周りに馴染めず辞めてばかりで長続きせず、色々なバイトを転々としていた
勿論そんな状態では友達が出来るはずもなく友達は1人も居なかった
大学に進学しても高校生の頃と同じでずっと下りしかない人生だった
じゃあ残り5%って何なんだろうか?
そしてその社会不適合者が私だ
何も誇れるものはないし、何かに熱中した訳でもない
過去に帰ってもう一度やり直せるチャンスがあっても、多分私は今までの人生と同じで変われないだろう
何故なら過去に帰ってやり直せる人は、過去に帰らなくてもやり直せる人だと思うからだ
22年間生きてて何も良いことは無かったし、22年間は本当に無意味だったと思う
面白い! 以上。
アナ雪の第一印象は、多くの女性が絶賛しているが、私が好きな一部 お笑い芸人さんの評価はイマイチ。っていうか、「特にストーリーは無い」というような評価だった事が強く残っている。
公開当時にネット上で大量に書かれた感想、評論、考察なども結構興味深く読んだ。宇多丸さんと荻上チキさんの評とかも聞いた。
それらを読んだり聞いたりした上で時間が経ってから本編を見たので、完全に真っ白な状態では見れていないのだが、
私の感想としては、少なくない超絶賛には付いて行けないものの、しかし一部 芸人さんの評価は低過ぎると思う。ストーリーはちゃんと有る! むしろ濃過ぎる! 丁寧に煮込まれたスープの上澄みだけを飲んでいるようなモノで パッと見の印象がシンプルに感じられるだけだ。
かなり好き。勿論、素晴らしい作品で、超絶賛される理由も分かる。
んで、ここからが本題なんだけど、
公開当時も沢山の評論や考察はあったんだけど、私が読んだ範囲では それらには書かれていない部分が気になっているんだ。
それをここで書こうと思う。
ザックリ書くと、
「アナ雪って、作中での『運が良い事』が重要な基盤になっているんじゃね?」って事。
まぁ、ディズニーアニメの例によって例のごとく アナ雪も『真実の愛』が重要なテーマになってるじゃん。そして、それが問題解決の鍵じゃん。 それは……、良い。
私が気になるのは、その焦点が「自発的な愛」なのか、他者から与えられる「受動的な愛」なのか、「両方」なのか って事なんだけど、
私は、その「先」も気になるのよ。
つまり、私は、
「エルサの『雪の呪い』は『自発的な真実の愛』でしか解呪出来ない。」という解釈の余地がある事が アナ雪のパワーの源じゃないのか?と思っているんだ。
いや、分からんよ。 旧来型通りクリストフから与えられたであろう「受動的な愛」でも解呪可能なのかもしれない。
でも、無視出来ない描写もある。エルサの良心+妹への贈り物であるオラフが愛が何であるかを知っている事だ。
これは少なくともエルサは愛が何であるかを知っている証拠だし、アナに対して「受動的な愛」を与えている。でも、アナの呪いは解けていない。
また最終盤、エルサが自身の愛を自覚することで氷の魔法を制御出来るようになることも重要だ。
では、仮に「エルサの『雪の呪い』は『自発的な真実の愛』でしか解呪出来ない。」という前提で本編の描写を見てみよう。
まず、最序盤、城の中で二人が雪遊びするシーン、この時点で雪の魔法がアナの心臓に当たっていればアナは為す術無く死んでいたよね。
だって、幼児に自発的自己犠牲的愛なんて期待出来る訳が無いんだから。
これはトロールの長がエルサの魔法を強く警戒する事とも整合性がとれる。子供に対しては致死性の呪いになるからだ。
両親がエルサを自室に閉じ込めるのも危険性を顧みれば已むを得なく、エルサからすれば妹を殺しかけた訳だから強い反省からくる自傷的な引き篭もり、恐怖も理解できる。
つまり、最初にエルサが「運良く」アナを殺さなかった事が最終的なハッピーエンドの結果を生んだのではないか?
日に日に強くなる自分では制御出来ない魔法。閉じ込めるという対処法。最初の被害者は自分より幼く弱い近親者。一度、開放されれば国中を巻き込む影響力。
エルサの雪の魔法は「感染症」のメタファーでもあるのではないか?……
これは”エグゼクティブ・プロデューサーのジョン・ラセターが、難病である1型糖尿病と10歳で診断された息子からエルサのキャラクター作りにインスピレーションを得たと語っている。”
事とも整合性がとれる。
つまり、アナ雪は 表層の魔法とファンタジー+家族再生の物語。中層のディズニープリンセスからの脱却といったジェンダー論。下層の人類の「感染症」との戦いの歴史。対処、献身、治療、回復。の三層構造のストーリーが極めて高い次元で昇華されているため大きな感動を産んでいるのではないか?
そして、ハッピーエンドの核を「運が良い」事に放り投げているので説得力が損なわれず説教臭くさえない。
ただし、無意識の不安は残る。が、アナ雪の場合、コレさえ長所にもなっている。
これを「正義の主人公(達)の努力と理性と決断による悪に対する『必然的勝利』」という構成に出来れば、物語としての強度も視聴者の快感も高まる。が、
同時に説教臭くもなってしまう。作中の「問題」解決の条件と能力に焦点が集まり、説得力が損なわれやすい。
ズートピアとベイマックスは両方とも素晴らしい作品だが、どこか説教臭く、アナ雪に比べ説得力が薄いのはこのためだ。
主人公(達)に「運」の影響が無い作劇は、安心で子供向けにもしやすいが、ややもすると『答え合わせ』になってしまう。
が、主人公(達)に「運」が有りすぎても御都合主義展開になってしまう。
アナ雪はこのバランスが絶妙で、ディズニーアニメとしてはギリギリまで「運」が良く、更にそれを最初の「室内雪遊び事故」一点に絞ってるのが凄い。
要は アナ雪 超良かったです。好き。
ズートピアは素晴らしいし良かったけど、完全には好きになれない。
来年3年になるので就活サイトをとりあえず登録し、配送されてきた資料をざっと見てみた
載っているのは名前が分かる大学の学生のコメントや大手ばかりが並ぶ説明会の詳細
これも就職支援側のビジネスかもしれないが、こういうのはあくまで上位の大学生を対象にしたプランだと思ってる
あと気になったのは就活生としての強みが「忍耐力」と「部活・サークル活動での経験」が多く
足りないものが「自分の長所をアピールさせる方法」と大きく出ていた
その部分を読んでいて自分が大学に入ってまでやりたかったことはなかったか、あるいは大学生をしながら目指したかったことがなかったのか疑問に感じた
そうなってくると大学に行くことは学位とコネを得るだけの場所で、上の大学にさえ入ることが出来たらもっといいという考えになった
自分は学歴が上であれば偉いのはこの国の風潮だから仕方ないと思っている
だがしかし、そんな立派なタスキを持っていてもそれ以外に趣味や特技など誰しもあるはず
たぶん社会の役には立たないから使える戦力だけをアピールすればいいのか
自分だったら学歴でしか測れない人よりかは、あるテレビ番組に出ていたクジャクを飼育している京大生のような人物だったら興味が持てる
そういう変わったことをしている方が目に留まりやすいし、思い出しやすい
必ず誰もが得意でなくても好きなことなら自らのポートフォリオとして設計できるはず
だから自分も就活生になったら周りの空気というよりかは企業に買ってもらう姿勢で売り込もうと思ってる
その為に今できることをより向上させたい
私にはADHDとPDDの2つの発達障害の診断が下っている。いわゆるASDの気があるADHDというやつだ。
しかし支援が受けられるようなレベルではなく、定期的にカウンセリングや診察を受けている程度。
一応正社員として働いて自立しているが、今のところなんとかクビにならずにやっていけているのは本当にただただ運がいいだけの綱渡り状態でしかないと感じている。
しかし主治医に言わせると私程度では投薬をするほどでもないらしく、認知行動療法だの、自分用マニュアルを作るだのをしながら、
日々塞いだ穴と違う穴から水が漏れては失敗を重ね、社会から完全に脱落してしまうことへのカウントダウンが進む焦燥感をちょっとずつ募らせている。
以下はそんな程度の人間が、自分の状況を確認するために書き殴った、こういうことがあるよね、ということの羅列。
無駄に長く読みにくいが、その辺も含めて現時点での自分をよくあらわしている気がするのでこのまま残しておく。
一般にかなり生き辛いとされるっぽい併発マンの1サンプルとして御査収ください。
個人的な感覚としては、確かに生き辛いけど不幸ではないかなー?といったところ。
落ち着きがなく早とちり、常に体のどこかが動いており、隙あらばクネクネと身を捩って踊り始める。
道を歩けば電柱に激突し、側溝に落ち、何もない場所をまっすぐ歩いているだけで躓いたり足が絡まったりしてすっ転ぶが、転び慣れていて受け身は妙に上手い。
手に力を入れる感覚というのがまだ今一つ習得できていないらしく、握力計で測るとR9㎏/L6㎏とか。
当然力仕事は戦力外で500mlのペットボトルを持って歩いているとすぐに取り落とす。
何とかしようとスポンジボールをグニグニ握ってみたりするのだが、30回もやると手の平が攣る。
余計なことや場の空気をわきまえない発言をしがちで、それを予防するために、
職場では明示的に発言を求められない限り挨拶以外では口を開かないように気を付けている。にもかかわらずこのテの余計な一言による失敗が年に数回はある。
些細な言い間違いなどの流していい引っ掛かりで思考が完全にフリーズし、人混みや刺激の多い空間に行くと簡単にパニックになる。
他者の心の機微に疎く、表情は読み取れず、冗談が冗談とわからず翻弄されて勝手に疲弊し、相手からは呆れられる。
金銭の管理ができず、いくら気を付けていても持っている分だけ使ってしまうので、財布の中に2000円以上の現金を入れておくことができない。
異常に楽観的で、20分以上かかるような作業でも、根拠なく7分あればできると思い込んで毎回失敗する。
何事にも危機感がなくヘラヘラしているように見られるが、そうは言っても来月の給料日まであと20日で所持金1300円というような状況でも、
花が風に揺れていたり、子供が楽し気に遊んでいるのを見たりすればそれはそれとして笑顔になってしまう。
普段は抑えているが、一人になってリラックスしてしまっていると、
ちょっとした苛立ちからのボルテージの高まりを制御できなくなって癇癪を起こし、
最終的にホァーホァーと奇声を発して跳ねまわりながら自身の頬や体をパチパチパンチの如く乱打したり頭をぶつける発作を起こすまでに至る。
初対面の相手と3時間ミーティングをしたら、その日の夜から38度越えの高熱を出す。弟が試験で家に泊まった後も寝込んだ。
ネクタイや襟付きの服のボタンを上まで留めて一日過ごすだけでも高確率で熱を出すので、冠婚葬祭は休みを最低2日確保できなければ参加できない。
靴下を履いているだけで集中力が3割ぐらい減る感じがするし、爪は念入りにお湯でふやかさないと痛くて切ることができない。
パニック発作はだいぶマシになったもののまだ満員電車に乗ると3駅10分に満たない移動に途中下車を必要とし、降りると脂汗でドロドロになる。
夜は安定して寝付きにくく、帰り際に見た月がとても大きかった程度のことでテンションが上がってしまって、朝まで眠れず生活リズムが容易に崩壊する。
たまに早く寝付いてたっぷり眠れた日でも関係なしに朝は朝で大変起きにくい。
起こされても起こされたことを覚えておらず、場合によっては無意識に手足を振り回し奇声を発して抵抗するらしいのだが、記憶はない。
遅刻ギリギリで支度をしていたはずなのに、ハッと気付いたらピンセットを手に2時間近く腕毛をひたすら抜いていてスマホには会社から山ほど着信がきていたりする。
そういえばよーく思い出せばなにやら目の前でスマホが鳴っていたような気がしないでもないでもない……。
慌てて会社に向かいながら、衝動的にいつもと違う道を選んで迷子になり、道を確認しようとしたらスマホは家に忘れていた。
雨が降れば酷い頭痛に襲われ、雨に濡れるとアンパンマンのように覇気を失って耐え難い眠気に襲われ眠り込み、太陽の日差しを浴びて吐き気を催す。
そうかと思えば下痢が出るまで腹が冷えていることにも自分が寒さを感じていることにも気付かずむしろ暑いと感じていたりする感覚のエラーがある。
湯たんぽやストーブで低温やけどして皮膚がグズグズになっていても気付かない。
吐くまで自分が満腹であることに気付かなかったり、ガス漏れや下水の逆流にも気付かないほど一部の感覚が鈍い。
そのくせ視認、認識している痛みには過敏で、袖口やニット帽の締め付けが痛くてつけていられないし、
テレビや映画の他人のケガを見ているだけでも同じあたりが本当に痛み出して使えなくなってしまう。
同じように、体調が悪い他人を見ると、引っ張られて自分も本当に体調を崩す。病は気からとはよく言ったものだ。
奇跡的に結婚に漕ぎつけた妻は、ボディタッチが苦手で触れられることを無意識に拒否してしまったり、言われたことを忘れたりし続けて、
「宇宙人と暮らしている」「人の形をした別種の生物」という言葉が出てくるほど典型的なカサンドラ症候群に陥ってしまった。
その後抑うつ状態と診断された妻は心身の不調を頻繁に訴えるようになり、それに引っ張られて私も体調不良が激増し数年前には休職せざるを得ないところまでいった。
妻の体調を考えて妻を実家に帰して別居した結果、事実として途端に私の体調が劇的に改善してしまったので、他人と暮らす事自体に根本的に向いていないのだろう。
お互いに相手の事は悪しからず思っているので、現時点では別居したまま、一緒に住まない夫婦という形態を継続している。
耳からの情報獲得が壊滅的で、たびたび音声による意思疎通が困難なほど聞き取れないくせに、他人の話し声が耳に入ると頭の中の思考がすぐにリセットされる。
気を付けていても言葉を額面通りに解釈してしまっていてトラブルを起こす。
自分の普通が信用できないので様子を伺って行動を起こすのが遅れる。
3桁の数字すら覚えていられないのでメモを要するのだが、咄嗟にメモに書き込もうと取り出した時点で既に頭には何も残っていないので
相手がメモするほどでもないだろうと思っているしょうもない事ほど相手に二度手間をかけさせてしまう。
何度も見直して音読して指さし確認までした項目が、後から見ると完全に間違った内容になっていたりするし、
動かして整列させられない20個ほどのものを計数するような作業が苦手で、
何度やり直しても誤差が出るので何度も何度もやり直すが数が合わず、最後には数えながら眠ってしまう。
写真を撮ってペイントで書き込みながら数えるのが私がやる分には一番早いのだが、ただ数えるだけの雑用にそんな珍妙な方法をとる事には流石に理解も許可も得られない。
全体的に、長所は短所で打ち消されてそこまで伸びず、短所の数が倍になっているような印象がある。
過集中状態に入りかけたタイミングで、タスクを前から順番に潰していかないと落ち着かない
気持ち悪いというASD的な欲求が沸き出て来てしまうと、不得意なタスクにわざわざ向かってしまって集中がすぐに解けてしまうとか。
跳び込んだはいいが入水角度が浅く、すぐに浮いて来てしまうような感覚に似ている。
長所と長所の相互作用などもあってもよさそうなものだが、ADHDとASD的な特性の長所は割と違った方を向いていて、
うまくいい方向に重なって活かせるタイミングということが滅多にない。(ゼロではないし、実際に人生で数回爆発的な成果を残してはいる。)
今後も私は、周囲には踊り狂っているように映りつつ、もがく日々を過ごしていくのだろう。
漫画っていうのは、絵を用いることで圧倒的な分かりやすさ、情報伝達の素早さを特徴とした表現手段だと思うんですね。
小説で、風景描写にリアリティを持たせようとしたら、相当の文字数を読ませないと伝わらないけど、
漫画なら1枚の絵によってほぼ瞬時に伝えられるみたいな感じ。
これまでの人生、優しさというものに疑問を感じずに生きて来た。
自分はのび太ADHDというのもあり、いじめられたり、無視されたり、また一度自分と遊ぶ約束をしても、友達が別の子に誘われたらあっさり断られるような存在だった。
当時は自分はどうしていつもこういうポジションなのか、悩んだ。
自分に原因があるのかもと思って、ちゃんとしている子のしていることを見ては、ああしてみたらこうしてみたらと試行錯誤もした。
でも、大人になりADHDと分かり、その特性を知れば知るほど、自分がそういうポジションだった理由がわかった。
今でもいじめではないものの、仲良くしていたはずが、あっさり縁が切れることがあったりする。
自分の取り柄といえば、優しいことだと思っていた。
相手の気持ちや立場に立って、自分だったらと考え、相手の気持ちを理解するように努めたり、
自分がADHDだからこそ、ちょっと変だと思うことも、相手の特性やいろんな環境の違いなども考え、尊重するように努めたりして来た。
友人が困っていたら、話を聞いたり、手を差し伸べたり、そうやって人と人は優しさでしか繋がれないと思って生きて来た。
優しい=いいこと
優しくない=よくないこと
という子供の頃に教えられた、人に優しくしなさいという当たり前の教えを、疑いもぜずに生きて来た。
自分がされて来たことを振り返ると、優しくない人は多いけれど、
それは優しくない側がよくない行為をしたということであって、
優しい人間でありたい、優しいのは良いこと、長所という考え方で当たり前だと思っていた。
世の中の優しさというものは、自分にメリットがある場合にしか使わないのではないか?
例えば、誰かに優しくして、その優しさが自分にとって得になる場合は優しくするが、
優しくしたところで、自分にとって得がない場合は、優しくしない方を選ぶのではないか?と。
そう考えると、無視なども、自分にとって得しない相手に対しては邪険に扱っても良く、
自分にメリットがある人間に対して、優しさを使って、もっと得をしよう、という考え方なのではないかと。
そうなると、社会的弱者(障害者や発達障害者など)に対して優しくしてもメリットなどはなく、
現在そういった社会的弱者に優しくする人は、いわゆる建前上実施している社会福祉による収入の得られる者のみであって、
無償で、優しくするのが良いという理由だけでそういったメリットのない相手に対して理解し助けるといった優しさは机上の空論なのではないか?
正直者は馬鹿をみる、とか
優しい人間は損をする、というようなものがこの世の本質であり、
人々が多様性を認め、尊重し合うことを良しとするような考え方は所詮理想論であって、不可能なものではないのか?
「人に優しくしよう」
大人は子供にそう教えるが、なぜメリットもないのにそんなことを言うのか。
事実、他の子のおもちゃを奪う、自分のしたいようにやる子の方が生きやすく、得をする社会であって、
本音ではそれをわかっていながら建前上、一応そういった声かけをしているだけ、と言うことなのだろうか。
もし、メリットのない優しさなど損で不利なものであるとするなら、
世の中の優しさには期待せずに生きるというのはあまりにも過酷すぎる。
ソクラテスは言った。
人は道徳的でない行いをしている時、実は内心傷ついていると。
メリットのない優しさを切り捨てることは道徳ではない行為ではないのだろうか。
そういう優しさを行使しない分、税金を納めて社会的弱者を守る福祉事業を支援しているのだから良いということなのだろうか。
長年信じて来た、優しさというものを捨て去ったら、
自分は一体、何を心の活力として生きていけば良いのだろう。
父よ
いま一人親で私を養ってくれていることは感謝している
家事の面やお金の面、雨風の強い日でも凍えず眠れるのは貴方のおかげである
しかし
ひとつの例外、特殊例を持ち出して私に当てはまることを強要しないではいただけないだろうか
母よ
私を産んでくれたことや父に相談できないこともフランクに聞いてくれることには感謝している
しかし
父との離婚についてはもう少し迅速に行ってくれても良かったのではないのか
自分で言うのは甚だおかしな話であるが 私の中学・高校生活を犠牲にするほどの価値が6年間の離婚訴訟にあったのだろうか
大人たちよ
多く問題を起こした私を見放さずに現在まで見守ってくれたことには感謝している
しかし
私の話をきちんと聞いていただくことを、約20年間で一回くらいはしてくれても良かったのではないか
私の話をいったん聞いた上でどこがおかしいか、ということを教えてほしい、話し合いたい10代だった
頭ごなし、「聞く気も義務もないから聞かない」ではなく、子供としてではなく、「人生の後輩」として扱ってほしかった
友人たちよ
しかし
私のいないところで私のことを叩くのはやめていただけないだろうか
目の前で言われることに耐性があるわけではないが、口裏を合わせ物を隠したり捨てられるよりは改善する気持ちになるものだ
悪意がないとしても嫌である、という旨を説明しても、盗撮して、SNSにアップロードするのを繰り返すことをやめていただけないだろうか
私は貴方たちに小ばかにされるために趣味を楽しんでいたわけではない
皆よ
私を生かしてくれることは冥利に尽きる
しかし
私の主張を一切受け入れる必要はないから、理由をもって否定していただけないだろうか
顔も、体型も、頭脳も、性格も、能力も、器量も、扱いやすさも、何もかもが人様に劣る私であるが
落ち込むことを
足踏みすることを
主張することを
許してほしい
私には、一点の長所と一点の短所を相殺させるという発想にこれまでの人生で至ることはなかった
「飛び降りれば万事解決」の思想にはどうしても至らないのである
ではなく
「車酔いになる人を極力減らす運転をできれば完璧ではないのか?」
「完璧でなくとも、理由をつけて短所をなくそうとする努力を惜しむことはダメなことではないのか?」
と 考えてしまう
この問いについて私の意見を抑圧せず
なぜだ
やはり
誰も私と話をしたくないという
裏側で言われていた通りのことなのか
一生受け入れられない異端児なら、そのように自覚して生きるしかあるまい
決意しなければ
ああ
友達には話してないけど案の定ADHDだ。うちの母親も父親もその気があるので遺伝率ぶっ高い。前々からwebとかのセルフチェックやると「気になるなら通院」とか言われるし、時間などの約束を守るのがなんかツラいので時々すっぽかすのはよくある。いや、つらいって言うか、単純に感情云々の前にスイッチが入らない。スイッチが入らないから仕事の納期とか結構遅れるし、部屋は汚いので時々テレビでゴミ屋敷の特集やってたらいつか自分がそうなるんじゃないかと思ってゾッとする。他にもいろいろあって毎日憂鬱になる。同じく怒りのスイッチが入っちゃうとキレたら止まらないのも時々ある。母親もちょっとアレなのでこの間、
「もう少し自立してください。」
って何も考えずに言われたので何十年ぶりに大喧嘩したけど、母親はどうして俺が怒ったのか一生理解出来ないと思う。何も考えてないし、昔からそういう人だから何も考えずにズケズケ言うのでなるべく一緒に居たくない。
昔からお金の管理が死ぬほど出来ないので酷い時には一日の食費が300円以下になる。どこの国の貧困層だよ。あまりに困ったのでいろいろ調べて近所の区役所にある福祉課みたいなところでお金を管理してもらうサービス探して登録した。元々年金暮らしとかの身寄りが居ないお年寄りのサービスなのにお年寄りじゃない中年が来たからはじめは向こうも半信半疑だった。担当の人に状況を話すと向こうもエキスパートなので話は聞いてくれて献身的にやってくれるが、約束した事が全く出来ない。だけど状況は改善してる。ついでに話すと図書館で借りた本も1年以上返せなくなくて漠然と困ってる。毎月電話が来るけど本が返却できないし、こないだも担当者が返しに行こうか?って言ってくれたけど、いい年した大人なのに本も返却できない自分は人として足りなさすぎてその後少し悲しくなった。最近は毎月交通違反の徴収に警察がやってくる。
ただ一つだけ長所があって、測ったらIQが自分でもびっくりするぐらいに高くてRPGのアビリティの振り分けが失敗したおかしな突出したキャラが出来てしまったが感がすごくある。中学生の時に担任の先生がプライバシーの問題から言っちゃいけないけど、お前はクラスで突出してIQ高いからがんばれって言われたのを思い出す。誤解されると嫌なので言っておくと別に自分が特別な存在とか思った事一度も無い。
人の顔と名前を覚えるのがとても苦手だけど、仕事の打ち合わせとか、バーで人と話しても顔と名前は思い出せないけど、会話の内容はかなり記憶していて次会った特に半年前ぐらいだと誰がどこに座っててどんな会話したとかほぼ忘れないので時々気持ち悪いって言われる。
基本的に誰にも言ってない。言ったところで理解されないし、してもらおうとも思ってないし、どうせ偏見になるので誰にも話したくない。こないだも心優しい友達が
って慰めてくれた。優しい。でもきっと根本的に伝わってないって思うからやきもきするし、なんか自分の短所を押して話すのもちょっと違う。レイヤーがずれてて疲れるし、友達が悪い訳じゃないから申し訳無い。結局最終的に根性論になるし、精神病んじゃう人がネットでアウトプットしてるの見ても誰徳なんだろう?って思う。逆の立場なら心ないから絶対努力の問題とか上目線で言っちゃう。理解がないってこういう事だ。だから僕の周りは僕のADHDを知らないので「基本ポンコツだけどやればすごく出来る人」みたいな評価になってる。社会人に求められるのは野球に例えると「2割でも打てばいいから毎日バッターボックスに立つ人」だけど、僕は基本1割未満の5分ぐらいでたまに10割に近づくので普通に会社は使いにくいのは自分でもよく分かる。結局フリーランスになってスイッチのオンオフを活用する生活してる。
そんなこんなで通院してた事があった、病院でもらったクスリをもらうと自分の中で変化が起きた。
まず、数日に一度部屋でほうきとちりとりを持ってて部屋でニヤニヤしちゃった事がある。ゴミ屋敷に近づいてる僕の部屋がいままでより"は"きれいになってた。床が見えてるんだもの。
あと、昔から疑問になってる事があって、怒りがやって来た時に友達が
「寝て起きたら忘れるよ」
って言ってくれるけど、そんなやついるのか?って思ってた。そうなったらもうダメ。寝ても覚めても何年経っても怒りなんて収まらない。未だに何十年も前の怒りとか簡単によみがえる。だから最終的に当事者とトラブルになる。上にも書いたけど、嫌なやつは無神経なので何言ったか覚えてないだろうけど、言った本人が忘れてても、僕は場面状況から思い出すからムカつく奴はきっと死ぬまで忘れない。嫌な奴と会わないようにしてたら友達はほとんど居なくなった。だったけど、クスリを飲んでたらイライラしなくなった。まーいいやみたいになった。ホントに寝て起きたら怒りが結構収まってる。自分でもブレイクスルーみたいになった。ちょっと感動して主治医に、
「先生!今までマイナスだったのがクスリで大分プラスになってるんですね!」
と興奮気味に話したら主治医が、
「田中さん。言いにくいのですが、世の中の人の普通のレベルがここぐらいですね...」
って悲壮感出して来たのでそこが何となく切な面白い感じだった。お笑いで面白いのは切なさが含まれるところだ。同じく、別の日も自分の性格的にハッキリわかっていた方が楽なので率直な意見を聞こうと思って自分の程度が5/10ぐらいかな?と思って聞いたら
「大変申し上げにくいのですが、8か9です」
ってまた切な面白いがきた。
結局、何となくいつもの億劫がやって来て病院に行かなくなったけど、自分の中では答えが出てて、クスリを飲んでるときには真人間に近づくけど、別人になって毎日頭がぼーっとする。頭の回転も悪くなってるのがわかる。実はそこが一番悲しくて、鬱病の人がマイナスになって健常者の時のプラマイ0に戻るのと違って、何十年もこれでやって来て急に別人になったら今までの自分は何だろう?大層な話だけど、アイデンティティって何だろうってすごく悩んだ。クスリを飲んでる今後の人生は自分の人生なのだろうか?ってなったのが大きい。だからいろいろ諦めて自分の人生を受け入れることにした。クスリで踊らされる人生は僕の人生じゃなくて他人の人生だ。
昔から頭の回転が人より抜群に速い。でも当たり前の事ができない。すごく困る。
自分の問題点なんて俯瞰で見える。初見の人にはすごく頭良さそうって言われる。実際頭"だけ"良いし。だけど問題を解決するための行動ができない。問題の解決方法がわかるのに。車で例えるとエンジンがフェラーリなのに足回りが竹馬レベル。
美人が困るって意味ちょっとわかる。好きで美人に生まれた訳じゃ無いのに男から襲われそうになったり、ちょっと優しくしたら童貞が勘違いする。毎日油断できない。ちょっと似てて頭良いって褒められるけど、頭良い"だけ"のポンコツなんて何もハッピーじゃない。人を見下してるんじゃなくて本当に普通がいい。毎日解法がない数学解いてるみたいだ。地獄ってそばにある。
【最後に】
どうせブクマとかで心ない奴に、
「そんなこともできないなら頭悪いだろ」
とか謎の上目線で言われるだろうけど、そういう人はそういう認識で。利口なフリして揚げ足でも取ってろww
案の定文章の読解力の無い奴からの謎のコメント来たけど、じゃお前が俺と代わってくれよ。
【追記】
id:supu6000 こいつのコメントホントにバカ。医者で診断されたから書いた”だけ”なのにね。カミングアウトできない環境ってこういうバカがいるから。
僕は診断もしてないし専門家の判断がないのに勝手にアスペ呼ばわりしたり、それって差別って理解してないのかな?
http://anond.hatelabo.jp/20170217144516
こういう考え方しかできないのって本当にかわいそうな人ですね。
単純に心優しい人に感謝を述べただけなんだけど。勝手につけあがる呼ばわりとかウケる。
別に文筆業じゃないのに、事実だけを書いてもネガな事しか考えられないって人として欠落してるなw
この人は問題の認識ができない気の毒な人なんだろうな。読解力とか弱そう。
上にも書いたけどさ、言語理解が高いっていうなら文筆業でも無い俺にそこまで求めて、勝手に副作用呼ばわりすんなよw
そっちの方が問題だよ。こういう頭良いフリしてるバカが一番苦手。
キリが無いからやめよう。