これまでの人生、優しさというものに疑問を感じずに生きて来た。
自分はのび太ADHDというのもあり、いじめられたり、無視されたり、また一度自分と遊ぶ約束をしても、友達が別の子に誘われたらあっさり断られるような存在だった。
当時は自分はどうしていつもこういうポジションなのか、悩んだ。
自分に原因があるのかもと思って、ちゃんとしている子のしていることを見ては、ああしてみたらこうしてみたらと試行錯誤もした。
でも、大人になりADHDと分かり、その特性を知れば知るほど、自分がそういうポジションだった理由がわかった。
今でもいじめではないものの、仲良くしていたはずが、あっさり縁が切れることがあったりする。
自分の取り柄といえば、優しいことだと思っていた。
相手の気持ちや立場に立って、自分だったらと考え、相手の気持ちを理解するように努めたり、
自分がADHDだからこそ、ちょっと変だと思うことも、相手の特性やいろんな環境の違いなども考え、尊重するように努めたりして来た。
友人が困っていたら、話を聞いたり、手を差し伸べたり、そうやって人と人は優しさでしか繋がれないと思って生きて来た。
優しい=いいこと
優しくない=よくないこと
という子供の頃に教えられた、人に優しくしなさいという当たり前の教えを、疑いもぜずに生きて来た。
自分がされて来たことを振り返ると、優しくない人は多いけれど、
それは優しくない側がよくない行為をしたということであって、
優しい人間でありたい、優しいのは良いこと、長所という考え方で当たり前だと思っていた。
世の中の優しさというものは、自分にメリットがある場合にしか使わないのではないか?
例えば、誰かに優しくして、その優しさが自分にとって得になる場合は優しくするが、
優しくしたところで、自分にとって得がない場合は、優しくしない方を選ぶのではないか?と。
そう考えると、無視なども、自分にとって得しない相手に対しては邪険に扱っても良く、
自分にメリットがある人間に対して、優しさを使って、もっと得をしよう、という考え方なのではないかと。
そうなると、社会的弱者(障害者や発達障害者など)に対して優しくしてもメリットなどはなく、
現在そういった社会的弱者に優しくする人は、いわゆる建前上実施している社会福祉による収入の得られる者のみであって、
無償で、優しくするのが良いという理由だけでそういったメリットのない相手に対して理解し助けるといった優しさは机上の空論なのではないか?
正直者は馬鹿をみる、とか
優しい人間は損をする、というようなものがこの世の本質であり、
人々が多様性を認め、尊重し合うことを良しとするような考え方は所詮理想論であって、不可能なものではないのか?
「人に優しくしよう」
大人は子供にそう教えるが、なぜメリットもないのにそんなことを言うのか。
事実、他の子のおもちゃを奪う、自分のしたいようにやる子の方が生きやすく、得をする社会であって、
本音ではそれをわかっていながら建前上、一応そういった声かけをしているだけ、と言うことなのだろうか。
もし、メリットのない優しさなど損で不利なものであるとするなら、
世の中の優しさには期待せずに生きるというのはあまりにも過酷すぎる。
ソクラテスは言った。
人は道徳的でない行いをしている時、実は内心傷ついていると。
メリットのない優しさを切り捨てることは道徳ではない行為ではないのだろうか。
そういう優しさを行使しない分、税金を納めて社会的弱者を守る福祉事業を支援しているのだから良いということなのだろうか。
長年信じて来た、優しさというものを捨て去ったら、
自分は一体、何を心の活力として生きていけば良いのだろう。