はてなキーワード: 白杖とは
中途半端に話せるため健常者と同じ土俵に居ざるを得ないから、からかわれたり迷惑がられたりする
むしろ全く話せない方がまだ違うレイヤーに移動して自他共に折り合いつけやすいんじゃないかと思うことすらある
だって、
白杖持ってる人に「どこ見て歩いてんだよ!」とか
ガチで何も話せない病気の人に「あいさつくらいしろや!」とか言わないでしょ、普通は
でも吃音は健常者でも「あるある」って勘違いしやすいから普通にツッコんだりからかったりしやすい
自分も当事者だけど聞いてて割と耳障りだし、「お名前は?」に「えーと…」とか言い出すやべーやつだと思う
こんな、口開くだけでゴリゴリ自尊心削られる永久デバフみたいなもんを歌とか芸に昇華させられる人が心底うらやましい
そこまで突き抜けられないフツーの人も、ある程度普通じゃない生き方を覚悟したほうがいいってのはギリ健界隈と同じだと思う
できれば生きてるうちに声帯を使わずに脳直結で言いたいことを発声できるデバイス誕生してほしい
イケボで
俺は今、看板が少なくて、アナウンスが必要最低限の地域に住んでる。
よく眠れるし、自分の時間が増えたような気がしている。24時間って、結構長いなと思っているぞ。(以前は24時間では足りなかった)
ニコニコして生活してるし、ありがとうとごめんよをよく言うようになった。
キレてる人もたまにいる。ゼロではない。
点字ブロックの上に物置かないとか、盲導犬にちょっかいかけないとか店内にいてもOKとか。
でもヘルプマークってわりと誰でももらえるし、あくまでお願いレベルじゃんね。
なんかこないだ、黄色いリボン付けてる犬を見かけたら配慮しましょうみたいなのを見かけた。
いや、知らん知らんってなった。
あとは○○っていう病気の人はこういうのが苦手です……とか。
同じ職場学校にいたら控えるけど、カフェにいるかもしれないから気をつけようみたいなレベルで話をされても困りますってーの。
話は少し変わるけど、駅構内で流れてる、困ってるお客様を見たら声かけお願いしますアナウンスおかしくない?っていうやつ。
駅員が巡回しろ、なんで客にファーストエイドを当たり前のように求めてんのっていう。
(そりゃ人として具合悪い人見かけたら何とかするべきだけど、それを駅側がお願いするのはおかしくない?っていうことね)
こういう事象あわせて、最近一般人に配慮を求めることが多すぎる。
黄色いリボンなんて、ただ可愛いね♡だけで付けてるワンコたくさんいるだろうに。
そりゃね、困ってるとき、具合が悪いときに人に声をかけて助けを求めるのが難しいのも分かるし、揉め事に巻き込まれたくないから前もって意思表示をするのも分かるよ。
でも、なんだか最近はやりすぎやんね。
普段ROM専で初めて書き込むので、読みにくいところ、分かりにくいところあったら申し訳ない。
通勤途中に踏切と踏切前に横断歩道があるんだが、ほぼ毎朝そこで白杖持ったおじさんとすれ違うんだ。
そこの踏切が降りている時に右折または左折してきた車が横断歩道の真ん中に停止していることがある。
そのタイミングでおじさんが横断歩道を渡ろうとして停止している車にぶつかってるのを何度か見た。
俺も車邪魔だなぁと思いながら横断歩道を渡っているのでおじさんがぶつかるかもしれないのが分かってずっと見てたんだ。
でも声をかける勇気がなくて傍観者になってしまっているのがもやもやする。
こういう場合って何て声をかけるのが正解なんだろう。
突然話しかけてびっくりされないかな…とか、ボディタッチして一緒に渡ってあげたらいいのかな…とか考えるけど行動に移せないことに毎朝自己嫌悪になってしまう。
それと、踏切が降りてて進めないからといって横断歩道の真ん中に停止するのってアリなの?
有識者いたら教えてほしいです。
【追記1】
一時停止じゃなくて停止だった。横断歩道の真ん中で踏切が上がるのを待ってる状態のことを言いたかった。
【追記2】
コメントくれた方ありがとうございます。
早速だけどさっき近くの交番に行ってきた。
分かってたことだけどまぁそうだよね…
交番に行ってみて思ったけど、その場で何かをできるかもしれない自分が白杖おじさんに声をかけるなり勇気を出さなきゃなと思ったよ。
明日こそおじさんが困ってたら声をかけるぞ。
私は本当にもやもやしている。発端は例の伊是名夏子さんのこの投稿。
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html
バリアフリーは推進されるべきだ。その方向性に異論はない。そしてバリアフリーを訴える目的はよいと思うし、その目的を批判している人はほとんどいない。
でもこの記事を最初に読んだ時、「これは炎上するな」と思った。
私は、きちんとした教育を受けそれなりの大学を出て、結婚もして家族もあるし、収入はそこそこあり持ち家にも住んでいる。
ただ片目があまり見えない。病気というか、発達障碍というか、弱視という視覚障碍がある。ちなみに弱視というのは、眼鏡などで矯正しても視力がでないことをいう。
だが片目だけの視覚障碍なので、私は身体障碍者ではない。健常者だ。もっとも正常な方の目も、近視、乱視がはいって矯正しないと0.5ぐらいなので、そんなに見えるわけではないけれど、視力矯正できるかできないかは全然違う。
もっとも、もしかすると両目がきちんと見える人よりも、遠近感の把握ができなかったり、視野が狭いのかもしれないが、両目見えていた経験がないので、違うのかは全くわからない。
不自由はないといいつつも、ほんの少し、両目が見えたらいいのにと思うことがある。例えばVRゴーグルをかけてみた時などにそう思うことがある。でもそれは総じて大したことではない。
逆に見えなくてよかったと思うこともほとんどないのだけど、ひとつだけ、心からよかったと思うことがある。
私は、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目を持っている。社会を、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目で見ることができる。それは本当によかったと思う。
私は、時々、自分の健常者の目をつぶり、視覚障碍の目だけで街を歩くことがある。特に、今回は、もやもやし続けているので、いろんな場所で何度もそうしている。
通しでやったことはまだないが、眼帯などで健常者の目を隠し、視覚障碍の目だけで自宅から会社まで通勤するのは可能と思う。
なぜ可能と思うかというと、私は、自宅のドアを開けたところから、会社の入り口まで、健常者の目で何度も通勤しているので、途中の、①道路、通路の硬さ、すべりやすさ、段差、②曲がるときの角度、直線で歩くべき距離、③階段のおおよその段数やエスカレーターなどの位置、こういうものを覚えている。
見えないものは、記憶で補いながら歩く。ゆっくり歩けば、弱視の目でも歩くことができる。
そして音は重要だ。自動車が近づいてくる。こういうものは音で判断する。
自転車は、音が小さいから、怖い。電気自動車も、音が小さいから、怖い。
電車の時間も、発着ホームも、だいたい覚えているので、目的の電車に乗ることはできる。ただし、遅延などが発生し、行き先が違う電車が普段とは違う時間にやってきたりすると、困る。
そういう時は駅員さんしか頼りにできなくなるだろう。
本当の視覚障碍者の人は、情報を得るのにとても困るだろうなと思っている。ホームに駅員さんがいれば聞くことができるのだろうけど、いつもいるわけではない。視覚障害者はそうたやすくホームを歩けないので、同じホームに駅員さんがいても、距離が離れていたら聞くのは難しくなる。
少なくとも私は、視覚障碍者の目で歩くとき、普段と違う状況になると状況を把握できず、いらいらする。
私が、視覚障碍者の目で歩くときは、記憶と、耳と、手と、足の裏の感覚と、それ以外の感覚も総動員しながら、歩く。
集中しているので、いきなり肩や腕をつかまれたりすると、とてもびっくりするだろうと思う。怖いと思うかもしれない。
もし皆さんが視覚障碍者に何か情報を伝えたい、手助けしようと思ったら、白杖や身体をいきなり触るのではなく、まずは声をかけてほしい。もし声をかけて手助けを断られたり、声をかけるのを躊躇するなら、見守ってほしい。
私の弱視は、光線の具合で、見えたり見えなかったりすることがある。
広い平坦な場所で、突起に気づかずつまづくぐらいなら笑い話かもしれないが、ホームの端がみえにくくて転落することがあれば、それは生命の問題に直結する。((ホームと線路の彩色、彩度が似ていると、ホームの端がわかりにくい。))
その対策だが、蛍光色で10cmぐらいの幅のラインを描くことで、ホームの端の視認性はかなり上がる。これをCPラインというらしい。
一部、導入されつつあるが、まだまだ普及がすすんでいない。
https://ameblo.jp/milkyht2/entry-12244392124.html
ホームドアは、視覚障碍者のためだけではなく、酔っ払いなど一般の人の転落事故も防止する。ホームドアがあれば死なずにすんだ命は多い。できる限りペースを速めて、設置してほしいと思う。
ネックは、ご存じの通り、多額の費用がかかることだ。
でも、生命にかかわることだから、優先順位は一番高くていいのではないかと思う。
日本視覚障害者団体連合もホームドアの設置を求め続けている。2020年7月の阿佐ヶ谷駅での視覚障碍者の転落死亡事故をうけて、同年9月にも国土交通大臣に要望書を提出している。こういう働きかけは大切だ。政治や企業への働きかけは、絶え間なく行わないといけない。
働きかけを行うべき先は、政治も企業もしかるべき権限をもつ者=責任者であるべきだろう。「なんでホームドアがないんだ!」と現場で駅員さんに怒鳴っても、何も改善しない。
http://nichimou.org/notice/200923-jimu/
歩道や施設などの通路、ホーム上にある点字ブロックは日本発祥のものだ。これはよい発明だと思う。かなり普及しているのも評価したい。
また、2016年に近鉄大阪線河内国分駅ホームから視覚障害者が転落死した事件をうけ、対策として「内方線付き点状ブロック」設置を推進していたが、これはかなり進んだと思う。評価したい。
https://www.sankei.com/affairs/news/161017/afr1610170045-n1.html
でも、「なんでこうなった?」というような謎な点字ブロックも多々ある。そんな役に立たない点字ブロックや、かえって危険を作っている点字ブロックがある。
ホームなどの点字ブロックの配置についてはガイドラインがあるが、まだそれが守られていないことがある。2019年の京成立石駅で視覚障碍者が転落死した事件は、規格外ブロックが問題と指摘された。
https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=14s53i742ax788in6
ガイドラインに沿っていても、転落事故(死)が起こることがある。視覚障碍者は、目からの情報が少ないため、点字ブロックを認識しつつも、現在地と歩く方向を間違い転落することがある。
点字ブロックはとても有効な設備だが、点字ブロックだけでは転落事故はなくせない。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/437710.html
点字ブロックは、黄色のものが多い。(私も健常者の目で見た時はそう思うが)黄色のブロックは、色がガシャガシャして、うるさく感じないだろうか?
そこで、街並みをおしゃれにするため、点字ブロックを歩道の色と合わせて設置することがある。最近増えた感じがする。
でも弱視者には、これがわかりづらい。
視覚障碍者は全盲の人ばかりではないという認知がもっと広まってほしい。
「視覚障碍者は見えないのだから、点字ブロックは何色でもいいのでは?」と思わないでほしい。
少ない視力を使って点字ブロックの上を歩きながら、足の裏の感覚などで点字ブロックの助けを得て歩く視覚障碍者もいる。
視覚障碍者は、道路交通法によって、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることが義務づけられている。(第14条第1項)
また、視覚障碍者でなければ、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることを禁止されている。(第14条第2項)
さきほども書いたが、視覚障碍者は全盲の人だけではない。ロービジョンといわれるのだが、若干の視力はあるのだが日常生活に支障がある人がいる。白杖の使い方は、人それぞれだ。
ところで、視覚障碍者が白杖を持つ理由は次の3つとされている。
https://nippokai.jp/wp/formembers/canes/
障害物もなく、路面が確かな場合、ロービジョンの視覚障碍者は、白杖を「視覚障害を持つことを周囲に知らせる」だけに使うことがある。つまり周囲の人に自分の存在を知らせるために、白杖を動かさず抱えることがある。
それを白杖を使っていないと思わないでほしい。白杖で地面を叩いていないからといって、「こいつは視覚障害ではないのでは?」なんて思わないでほしい。
点字ブロックの上や近くで立っていたり、荷物を置いていたりしていないだろうか?
いわゆる歩きスマホはしていないだろうか?
視覚障碍者は、器用にぶつからないようにしたり、避けたりするのが苦手だ。
伊是名夏子さんの投稿とその後の議論、動きなどみて、私がもやもやした理由は主に次の3つになる。
私が、ここに書いた話題は、全部が「視覚障碍者にとってのバリアフリー」問題だ。
伊是名夏子さんの投稿は、さまざまな議論を呼んだが、その議論は、エレベーターとかスロープとか、「車いす利用者にとってのバリアフリー」だけしか議論されていないでは?と感じた。
確かに伊是名夏子さんは自分自身の障碍のため、「車いす利用者にとってのバリアフリー」を問題にしている。それは当然だと思う。
でも、「バリアフリー」を必要としている人は、車いす利用者だけではない。視覚障碍者も、聴覚障碍者も、妊婦や精神障碍者なども、「バリアフリー」を必要としている。
それぞれの障碍やハンディキャップが違えば、「バリアフリー」として求めるものは違う。でもそこまで広く捉えた「バリアフリー」議論はほとんどなかった。
いつでもどこにでも自由に行ける自由はとても大切なことだと思うけど、毎日、命の危険を感じながら鉄道を使う人のことも思い出してほしい。
案の定、伊是名夏子さんの投稿は炎上した。あの投稿を批判的に見る人は、来宮駅を巡るトラブルの作為性を問題にしている。作為性とは、バリアフリーを訴えるために、わざとトラブルを起こしたのではという見方だ。ご本人は否定している。しかし私も実は、作為性はあっただろうと思っている。
現場でのトラブルを、乗車拒否などの強い言葉を使った非難を行い、耳目を集める手法というのは、そのトラブルの作為性を巡って反感を買いやすい。
伊是名夏子さんご本人が、それが戦いだとお考えになることは、批判できない。こうしなければ、耳目を集められないという気持ちも理解できる。
しかし、何かバリアフリーの課題を改善したいと考えた時、この手法が一番効果的となってしまえば、他の障碍者も(少々作為性があろうと)トラブルを起こし、それを声高に訴えないといけなくなってしまうのではないか? 私は、そういう状況が本当のバリアフリー社会とは思えない。
そして、あの手法に反感をもつ人と、支援する人との分断は、更に広がったように思う。
分断されたバリアフリー社会とか、笑えないブラックジョークだ。
伊是名夏子さんの投稿に対しては、私も批判的だし、批判する人の気持ちはわかる。
一方、こういったネットの炎上が生じると、その人の過去の行動を洗い出し、それらも併せて執拗に非難するような行動がよく見られる。晒しと呼ばれる行為だと思う。
確かに、伊是名夏子さんの過去の行動で、「それはよくないな」と思う事例はいくつか見つかった。
しかし、既に法的には時効を迎えたと思われる古い過去を、声高に非難する合理性はないように思う。
話は変わるが、視覚障碍者の投稿を読むと、白杖を持って歩いている時に誰かとぶつかった後、その人から心無い言葉を浴びせられたという投稿がいくつも見つかる。
他の障碍者やハンディキャップを持つ人も、そういう経験をしているのだろうと思う。
そんな心無い言葉を浴びせる人は、たぶんその人の心の中に、障碍者への「偏見」というバリア(障壁)を持っていると思う。
心の中のバリア(障壁)は、目に見えるものではないので、取り除く=バリアフリーを作るのはとても難しいと思う。
インフラは整っているが、人の心の中はバリア(障壁)だらけのバリアフリー社会って、何かのアイロニーだろうか?
今回、伊是名夏子さんの過去の行動を非難した人の心の中に、障碍者に対するバリア(障壁)ができないことを願う。そして本当のバリアフリー社会を作るには、あなたの協力が必要だと訴えたい。
私はまだもやもやしている。
弱者男性を「コミュニケーション要介護者」と捉えた場合、その支援は訪問しておしゃべり、みたいな直接的かつ具体的な支援に限らないだろう。
たとえば「コミュニケーション要介護者」ともできるだけ親しく関係を持つのがよいことです、というプロモーションを明に暗に打ち続ける方法がある。
お年寄りには席を譲りましょう、白杖を持っている人が立ちすくんでいたら声を掛けましょう、みたいな感じでな。
仕事としておしゃべり介護してもらうのも悪くないが、プライベートで友達や恋人が作れたらもっと嬉しいんだし、プロモーションの影響で人々がキモくてカネのないおっさんおばさんに対するイメージがよくなり恋人ができる可能性が増すならよろこばしい。
これは弱者男性に限らず弱者女性も「コミュニケーション要介護者」に含むことができ、彼女たちの孤独を救うことができるだろう。
ボダやメンヘラや鬱や統合失調症の人も友達や恋人ができやすくなるってわけだ。
なにより、社会がお前たちを排除や矯正していくつもりではないというメッセージを出すことで、彼ら彼女らに希望を持たせられるのがいいことだ。
弱者男性が反フェミニズムに熱心になりがちなのは、フェミニズムの声ばかり重用されて自分たち男性がどんどん追い詰められる未来の流れが見える不安や鬱憤があるからで、フェミニズムで女の欲望は肯定していくけど、男の欲望は男の欲望で社会として肯定していく意図があるよ、という雰囲気があればだいぶ状況が変わるだろう。
ただしこれは「コミュニケーション要介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するが。
人権同士が衝突することも多いってのを勘案してくれ。
世の中はままならないので、増田のような、人権侵害は迷うことなく拒否してよいしそれでうまくいく、って整理では片付けられないのだ。
たとえば要介護者の世話は、家族など周囲の人間が担わねばならんのだが、やりたくもない介護をさせられるってのは周囲の人間の人権を侵害している。
公的にも私的にも扶助はあるが、それでもきょうだいに障害者を持って生まれた辛さ、親の介護の辛さ、みたいな記事がたまにバズるよな。
これは要介護者と健常者の人権がぶつかる中で、妥協点を探って暫定的に今の仕組みになってるわけだ。
なので、仕方ないけど周囲の健常者や国民の税を要介護者にあてがいましょうという仕組み、これが現時点での対処法である。
だが、増田のような考え方では、介護や公共のためであっても、人権制限に繋がるあてがえ論はノータイムで拒否してよい、となってしまう。
要介護者の意見で聞く価値があるのは「私は障害があり要介護者だけど仕事や外出や人間関係を楽しみたいのが本音だ、でもそれには他人に介護を強要する人権侵害をせねばらなんので、おとなしく家にこもることを選ぶよ」という内容だけだ! なんてことを誰かが言ったら、現代社会では賛同されづらいだろう。
そして増田の、弱者男性の意見で聞く価値があるのは「ぼくは女性とのコミュニケーションが欲しくて苦しいが、その苦しみの解消には女性の人権を侵害せざるをえないとわかってるから、おとなしく苦しみつづけることにします」ってタイプの弱者男性だけだ……という態度はこれに近いのだ。
それ自体もまずいが、もっとまずいのが、増田の主張の危うさに気づいていいはずのブコメ聴衆さえも、増田は道徳的で素晴らしい考え方をしていると褒めまくってしまうことである。
弱者男性の生きづらさが認めてもらえないというのは、誰か一人が偏った意見を言うってこと以上に、それを客観的に聴いているはずの大衆までもが無自覚に弱者男性に辛さを押し付けてるってことだと思うぞ。
俺の論をもう少し詳しく説明しよう。
弱者男性論の中でも、異性恋愛部分で揉めやすいのは、わかりやすく人権同士が衝突するからだ。
周囲の人間の自由意志を尊重することと、キモいとされる男性が異性とのコミュニケーションを得られず孤独に苦しむのをを救うこと、その両立が困難だと判明してきたからこじれているのだ。
(多くの人間または男性の心には、性的対象とのコミュニケーションによってしか埋まらない大きな飢えがあり、非恋愛の友人関係では満たせない、という仮定はとりあえず正しいとする。その真偽は心理学者などが長い時間をかけて研究せねばならないだろう)
箇条書きにすると、以下のようになる。
・だが、悪意がなくても他者に不快感を抱かせがちな上に改善困難な人間は存在し、その代表がキモくてカネのないおっさんのような弱者男性である。(女にもそういう存在はいる)
・よって、他者に不快感を抱かせる弱者男性は、諦めて孤独に暮らすべきだ。
・いや、それで本当に倫理的にいいのだろうか?
繰り返すが、弱者男性の人間関係についての話は、介護や障害者支援と近いんだよ。特に、支援が進まない精神障害の問題。
接触すると周囲の負担になりやすい人間をどう扱うか、という問題だ。
要介護者を厄介者みたいに言うのはかなり危ういんだが、実際のとこ、厄介者(とされちゃう人)をどう包括するかを真面目に考えることで社会や福祉は成り立っている。
現在の日本では、家族の扶養義務とか、介護ビジネスへの補助金とか、福祉とか、障害者雇用義務とかで要介護者に対処している。
たまたま家族に要介護者がいるからってその世話をさせられるのは人権侵害ではないか、という論点は当然あるが、今のところ、その人権侵害を一定程度許容してでも、要介護者を社会から切り捨てるのを防ぐべき、という風になっているわけだ。
耳を傾ける意見:「正直異性(他人)とのコミュニケーションは欲しいが、現実の女性の意思や人権を制限するなんて酷いことは考えていない」
すなわち、周囲に不快感を抱かせてしまう気持ち悪い弱者男性にもコミュニケーション欲求があるのは納得するが、その援助が周囲の人権を制限しなければならないなら無視してよい、ということになるだろう。
自由意志を制限するべきではないので、周囲が世話をしたがらないなら要介護者は介護される必要なし、弱者男性につきあってやる必要なし。
それで本当にいいのだろうか。
だが、弱者男性と言うカテゴリの中には、精神障害者やパーソナリティ障害に発達障害、さらに障害と健常のボーダーに位置する人間がおそらく結構な割合で含まれる。
また、そのボーダーは時代と共に変化し、歴史の傾向としては要支援の障害者と認定される範囲が広がっているのだから、ワガママで苦しいアピールする人間と正当な要介護者を現在の基準で完全に分割して別物と扱うのは適切ではない。
そして、弱者男性問題を、介護や障害と地続きの問題として見れば、精神障害者への支援の遅れと近いことに気づける。
対人能力や人格や情緒の安定にハンデを抱えている人間に対する扱いは、いまだに相当に厳しい。
障害者支援の代表例は雇用義務だが、精神障害は本当に厳しくて、障害者雇用でも採用されるのはおもに身体障害者だ。
精神障害者の雇用義務ができたのは、驚くべきことに2018年というつい最近だ。(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000192051.html)
精神病院についてのゴタゴタも頻繁に取りざたされる。
今も世の中には、「精神に障害のある人たちも苦しいだろうけど、関わるの負担が大きいし、その負担を強いるのは人権侵害だから、仕方ないだろ」なんて感覚があるのだ。
政策的知識のない俺が具体的なことを考えたってツッコミどころが多いだろうし、そこにツッコミが入りまくると、まるで総論としても弱者男性論が間違ってるような印象を持たれるからだ。
具体策として考えた内容に穴があるからって、総論としての方向が間違ってるとは限らないのにな。
……と思ってたが、「要は公的なカウンセリングと風俗か? それとも奴隷化か?」なんて人が多いので、それ以外の方法として、ACの広告みたいなイメージ戦略なども考えられるよね、とトラバで書いた話を追記として挟んでおく。
弱者男性を「コミュニケーション要介護者」と捉えた場合、その支援は職員が訪問しておしゃべり、みたいな直接的な支援に限らない。
たとえば、コミュニケーション要介護者ともできるだけ親しく関係を持つのがよいことです、というプロモーションを明に暗に打ち続ける。
お年寄りと地域で交流しましょうもたつきは温かく見守りましょう、白杖を持っている人が立ちすくんでいたら声を掛けましょう、みたいな感じでな。
仕事としておしゃべり介護してもらうより、プライベートで友達や恋人が作れたらもっと嬉しいんだし、プロモーションの影響で世間からキモくてカネのないおっさんおばさんに対するイメージがよくなり「自由意志」でイチャコラしてもらえる可能性が増すならよろこばしい。
これは弱者男性に限らず弱者女性もコミュニケーション要介護者に含むことができ、彼女たちの孤独を和らげることができるだろう。
男女問わず、ボダやメンヘラや鬱や統合失調症やアダルトチルドレンや無職の人も友達や恋人やセフレができやすくなるってわけだ。(弱者女性はむしろセックス相手として求められすぎて困ってるみたいな話もあるが)
なにより、社会がお前たちを排除や矯正していくつもりではないというメッセージを出すことで、彼ら彼女らに希望を持たせられるのがいいことだ。
弱者男性の中に反フェミニズムに熱心になる層がいるのは、フェミニズムの声が主に重視されて自分たち男性は相対的にどんどん追い詰められる未来が予想されて不安や鬱憤があるからだろう。
そこを変えて、フェミニズムで女の欲望は肯定していくけど、同時に男の欲望は男の欲望で社会として肯定していく意図があるよ、という雰囲気があればだいぶ状況が変わるのではないか。
もちろんこれは「コミュニケーション要介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するので常にバランスの綱引きが行われるだろう。
あとはアンドロイドやセクサロイドで代替とかってのもアリかもと思うが、それならそれで、真面目にその方向の技術振興をしましょうという政策議論に繋げるべきだ。
「50年後か100年後にできたらいいよね~科学の発展に期待だね~」じゃなくて、それを少しでも早められるよう本気で向き合い、技術や金を使うために協力してほしいんだよ。
(追記ここまで)
まあダラダラ書いたけどさ、とにかくこういうことよ。
健康で文化的な最低限度の生活のためには周囲に負担を強いることが必要になる、広い意味での「要介護者」は世の中にけっこういる。税金を利用する全員がそうだとさえいえる。
人権侵害は絶対拒絶すべきという考え方をすると、周囲の強制負担も認められないということになり、その「要介護者」たちは見捨てられることになってしまう
現代では、人権同士が衝突する場面も多いとわかってきたのだから、その中でどう折衷していくかが大事だ。
そのためには、人権の侵害は議論の余地なく即却下、という素朴で潔癖な姿勢は話が進まなくなるので良くない。
このさい、弱者男性論はさておいてもいいや。
現代では人権同士がぶつかりあってるので、「人権は絶対守るべし。そしてみんなの人権を同時に守れる方法はある」とシンプルにいかないことはわかってくれや。
某SNSのちっさいコミュニティにいた時のこと、ふとしたメンバーの思いつきでオフ会を開催することになった。
コミュニティの内容は断定を避けるために伏せるが、「ポケGO」とか「初心者バンド」とかそれくらいの「有り体」具合を想像すると良い。
顔出しアイコンの人が一人もいなく、平均年齢も30代くらいの比較的大人しめなコミュニティで、オフ会もママさんが来て手作りのお菓子を振る舞ってくれたりした。
まあまあ楽しかった。みんなもそう思っていたからか、メンバーの中のいろんな人がオフ会を主催するようになり、参加できる人はポツポツと4,5人で集まるようになった。
ある日のこと、コミュニティの掲示板で自分がADHDだと打ち明けた人がいた。(以降、Aさんとする。)
先述の通り、比較的大人しくて平均年齢も高いコミュニティだったのでそれで過剰に反応することはなかった。
言われてみればまあちょっとズレた発言をするような気はしていたが、別に気にするほどでもなかったし、Mさんの投稿に乗っかってADHDを打ち明けた人(以下、Bさんとする)もいたが、その人ともそつなくやれていた。
今のなってはこの反応が良くなかったのかもしれない。Aさんのズレた発言や行動が徐々に目立ち始めた。
例えばサバゲーの話で盛り上がったとしたら、Aさんはミリオタばりの武器の知識や戦争の詳しい話を延々と繰り広げてしまう。
Aさんは博識だった。だけど我々はライトな話題で盛り上がっていたいのだ。
かと思えば「あー、明日死ぬなら今日何したい?」などと突拍子もなければ答えに困るような話をぶっこんでくる。
まあそれでも、なんとかやり過ごせる範疇だった。
このオフ会を何度か開催していくにつれ、Aさんにとってこのコミュニティは「自分が居ていい」場所から「自分が居なくてはならない」という勝手な使命感に変わっていったように思う。毎回のオフ会の写真を撮っては掲示板に貼っていたから、Aさんはオフ会皆勤賞だったのだと思う。
ただAさんの「エアークラッシャー」ぶりを良く思わない人も出てくる訳で、最初のうちは参加していたけど参加しなくなった人や、
1回のみの参加でそれっきりの人が増えてきた。
ある日、一人のメンバー(以下、Cさんとする)がオフ会を主催した時のこと、いつも通りAさんが参加表明をした。
自分もその日は空いていたので参加することにした。あとは2,3人が参加表明していた気がする。
しかし、数日後に主催のCさんが「すいません!やっぱりバイトが入りました...」と中止の連絡をしたのだ。
別にそれ自体は気にすることはなかった。20代でバンド活動とかをやりながらフリーターをやってる人も何人かいて、シフトが入っちゃうみたいなことはよくあった。
じゃ、予定が無きゃ無いで別に、と思っていた矢先、Aさんから「その幹事、引き受けますよ!(=予定通り開催しましょう)」というメッセージが。
自分含め「暇なんで参加します」と返答していた手前で引くにも引けず、Aさん幹事のオフ会が強行開催された。
Aさんに「中止になりかけたオフ会を存続させた自分えらい!やっぱり自分はここにいるべきなんだ!」と思わせてしまったのだろう。
自己肯定感爆上がりでオタトーク炸裂状態。会場はお通夜状態なんだが気づかないんだコレが。
参加者の中でも若い女の子(以下、Dさんとする)がいて、Dさんは初対面の人がいたので「初めまして〜」などと話していた。
そこへも割って入るAさん。「DちゃんはXXっていう会社で働いている子でね、XXってサイトの記事にもインタビューが掲載されているんだよ!XXっていうサービス知ってる?それの開発に関わっていてね」と言いかけたところでDさんが
と遮った。後から聞けば働いている会社こそ合っているものの、開発に携わっているサービスが違うのだという。しかも幾度とその誤情報をAさんが言いふらして回っているからその度に訂正しなければならなくて困っていたとのこと。
Dさんは比較的穏やかな人だったが、この時ばかりは怒っていた。
「ごめん。僕がADHDだから無神経に気に障ることを言った?」
Aさんのこの言い方がまた逆撫でするような言い方だった。謝罪のつもりが、自分がADHDであることを言い訳にしている上に、
発言のどこに問題があるのかすら分かっていないという意思表明に過ぎなかった。
そう、Aさんはよく会話の中で「ADHD」を連発した。「俺がADHDだからかな〜」というように、自虐で使ったり言い訳にしたり。
一方、Bさんは初めてカミングアウトして以降、一切口にしなかったあたり、AさんがADHDを言い訳にする様子は対照的だった。
Dさんが怒ったオフ会以降、掲示板でオフ会の開催をする人はなくなった。
当時も既にTwitterやFacebookが普及していたから、コミュニティでこそ知り合うものの、それ以降のやり取りはTwitterで事足りた。だから初期のオフ会で知り合ったメンバーで今でも繋がっていて、時折会ったりしている。Bさんとも会っている。
あのコミュニティはAさんに話を合わせるためのボランティアだった訳じゃないし、プライベートでわざわざ我慢することもないからこそ言うけど、障害者だから優しくされるべき理由にもならないし、誰かに嫌な思いをさせても許される理由にはならないよねーっていう。
視覚障害者(白杖の方)、車椅子、歩行器や杖を使った老人、松葉杖を使う病人の方、ヘルプマークの方やその介助者等が乗る車両だ。
女性専用車は別途設置、女性専用車の位置については各路線の混雑しにくい位置の車両をケースバイケースで設定すればいいと思う。
なんでこんなことを言い出したのかというと、私が鉄道会社で車掌をしているからだ。
障害者の介助は色々と大変で、車椅子用のスロープを用意したり視覚障害者の場合は肩を掴んでもらって誘導したり、介助を断られた場合も遠くから見守ったりと駅係員の方には頭が下がる思いだ。
元気なお年寄りが多いが、元気なつもりでも歩くのがゆっくりだったり荷物を乗せるのに苦労していたりといった光景は多い。
車掌視点だと、目で確認できる範囲は精々車両側面と後ろ2両の車内ぐらいのものだ。
かろうじて見えるシルエットや、駅によっては備え付けのモニター等を使用して状況を判断しながら扉を閉め、電車が出られる状態にするのが車掌の大きな仕事の一つだ。
そんな感じなので、全員の乗車が終わって扉を閉めるタイミングになってから編成の中程からヌルっと出てこられると非常に肝が冷える思いをすることになる。
そんな感じなもので、時折杖を挟んだまま発車した、ベビーカーを挟んだまま発車したなどの事故が発生する。
事故が起こったときの車掌の責任は結構重い。業務上過失傷害罪ですよ過失傷害。
正直乗務員は痴漢とかよりよっぽど気を尖らせている。自分の責任で人が死にかねないのだから当然だ。
まあ乗客はそんなこと知らずに飛び込んだり飛び降りたり杖挟んだり傘挟んだり。
介助者なしで乗り込もうとする無謀な車椅子や勝手に乗って降車駅で転倒する車椅子に、発車数分前に駅に来てすぐの電車に乗せろといい、断ればクレームを入れてくる車椅子の介助者。
確認のため声をかければ機嫌を損ねる視覚障害者に関係ない駅で飛び降りて騒ぎを起こす泥酔の客。
皆何かあっても自己責任だからとか考えてるんだろうけど何かあったときにはこっちの責任になるんだ。責任は自分一人だけなんて思い上がるのもそこまでにしてほしい。
最後尾は車内で一番車掌の目が届く場所だ。車椅子や白杖の客がいればだいたい目にとまる。
目にとまったら車掌は隙を見て降車駅の確認に伺えるしそうでなくても動向に注意することが出来る。会社によっては降車の手配もするところもあるだろう。
「とにかく最後尾は優先車両!」と業界全体でルールにしてくれたら初めて乗る路線でも分かりやすくていい。
自分で出来ることは尊重すべきとか障害者の自立とかないがしろにする気はないがこっちから言わせてもらえば安全第一だ。
電車のドアって万が一にも転落しないように物凄い空気圧で抑えてるんだよ。
一度挟まれてみたらいい(よくない)。大の大人でもすごく痛いから。
今の電車は加速も最高速も優れた迫りくる鉄の壁みたいなもの。駅のホームは危険の塊だから用心して行動してほしいの。
安全第一でお願い。
遅延は乗務員が詫びれば済む。数分の遅れ程度で問題になるようなスケジュールの杜撰さと心の余裕のなさが問題だろって内心多くの鉄道従事員は思ってるだろうけど取り敢えず詫びればいい。