はてなキーワード: 創造論とは
ガキ産んだから世界の半分を知ったったとか言ってるけどそれはさすがにおまえの世界は狭すぎるだろ、って話だよね。
多分こういう単純な人間には想像も出来ないんだろうけど、世界にはいろんな人が住んでてそれぞれ全く違う人生を送っているわけよ。ガキを生んだ人間も産んでない人間もそれぞれ全く違う人生を送ってて、ガキを生んだ自分ひとりの人生だけで他のガキを生んだ人の人生もガキを生んでない人の人生も測れるわけはないわけ。どう考えても。おまえがガキを生んだっていう体験はおまえだけの体験で、それを知っても世界の半分なんて分かるわけないわけよ。おまえが知ったのは「おまえの世界」の半分で、自分自身の世界さえガキ産まなかったら半分も知らなかったんだとしたら、それはおまえの頭が悪すぎるってだけの話なのよね。
そんでな、自分のガキ産んだだけで「他の人間の世界」も半分知ったと思ってるなら、それはただ頭の悪い勘違いだからあまり公言しないようにな? この人頭悪いのかな?と思われるだけだから。
で、このようなごくごく常識的な、普通の人間なら当然知っているようなことを話して聞かせると逆ギレして「年金ガー」とか言いだす頭の悪いのが思いの外多いんだけど、オレが年金を受給できるのはオレが保険料を納めて年金制度の維持に貢献してきたからで、おまえのガキが保険料を納めるのもオレのためじゃなくてそのガキが将来年金を受給するためなんだわ。自分のためにやってんの。自分のためにやってることを「あなたのため」とか言いだすのはもうモラのハラだから。しかも年金制度に貢献するのは保険料を納めてる人で「その人間を生産した人」じゃねーんだわ。自分の子供の手柄を自分のことのように言うんじゃない。恥ずかしくないのか? だいたいおまえがガキが出来たのも自分がなんかイイコトしたからだろうが。自分のためにやった事を「社会のため」とか言いだすんじゃないよ、図々しい。むしろ社会のためを考えたらおまえのような低級国民は繁殖しない方がいいんだから。おまえのガキは貢献どころか生ポ受給者になって社会にぶら下がる可能性の方が高いのよ?おまえのガキだから。「おまえはガキなんか持たずにもっと優秀な国民の繁殖に協力しろ」とか言われたらヤだろ? それをおまえが望んだ通り繁殖の機会を与えていただいてるのにガキ産んだだけで役に立ってるとかね。もう今年の「いつから勘違いしていたんだ?」大賞よ。
とまあこのように本人もうすうす勘づいてるんだけどなるべく見ないように目を背けていた現実にやんわりと目を向けてあげると「生物として」とかあたかも「自分自身の無価値さが繁殖という生命の目的を達することによって補完される」みたいなスルドイ頭の悪さを開陳するレア珍獣も稀によくいるんだけど、おまえは創造論者か! キリスト教原理主義者か! 生命に目的などないしデザインも設計も戦略もない。複製をつくれば複製が残り、つくらなければ残らず、複製を二個以上作れば数が増えていく。それらは単なる事実であってそこには正誤も善悪も優劣も勝敗もない。生命にとって「残る」は単に「残る」であって「勝ち」ではないし、「数が増える」は単に「数が増える」であって「善」ではないのである。複製が残ることが嬉しいと感じる者がいるのと全く同じようにそんなことは嬉しくもなんともない者もいる。正誤はない。複製をつくれば複製が残るというだけだ。複製を残すのが嬉しいものは存分に嬉しがればいいことだろう。そこでガキを生むやつが「自分が嬉しい」だけでなく「人間として正しい」とか「社会的に上」とか「生物として優」とか「他者から価値を与えられたい」のはなんなんだろう? まあ本人がそうすることで幸せならそれでいいんだろうが「親の劣等感や無価値感を補填するために使われる子供」というのはそこそこ不幸になるんではないだろうか?
まあそれもオレのガキじゃないからどうでもいいんだけどね。とことん不幸になっても。ガキの親にとってもどうでもいいんだろう。自分が嬉しければ。
優生主義を考えるにあたって、進化論の適者生存のコンセプトが重要になる。
「この生き物が今ここにいるということは、この環境に適合したからだろう、いない生き物は環境に適合できずに死滅した」
という結構シンプルなものだ。別にその個体が優れているわけでも劣っているわけでもない。「生き延びたからここにいる」ということだ。
優生主義においてはこの「適者生存」のコンセプトが「優れているから生き延びた」にすり替わっている点だ。たまに創造論とかのアンチ進化論者のなかにわざわざこの優生思想を持ち出してだから進化論は間違いだという論をはる人がいるがお前も間違ってるからなとか突っ込みたくなるが閑話休題。
優れているから生き延びたのなら優れた遺伝子だけを次代に残せばもっとすごくなるんじゃね?という考えになるのだけど、そもそも生き延びる条件に優先劣後なんかないというポイントを思い切り間違えているという点で優生思想はおかしい。もっと言うなら間違っている。
優生思想を弱肉強食にまで昇華させてしまったのがナチスドイツだ。その結果虐殺行為にまで及んだわけだが、このときの優生思想、と言うよりは、食べる側に回る強者の条件、というのが政治的に決められたという点だ。科学的にではない(そもそもそんなのを決める科学はないと思うが)。
というように優生思想の問題は「何を持って優れているか」の基準がないという点だ。言う人が言うなら「単なる一左翼思想」でしか無い。
ちなみに優生思想が本当に間違っているかと言うと、ある意味正しい。競馬のサラブレッドなんかはまさにそうだろう。ただ、これは競走馬を競馬場で早く走らせるという限定された条件のもとでの優生思想なので、成立する。
単純に「優れた馬だけを残したい」といっても、優れた馬の条件は時と場合によって変わる。早く走れる競走馬、重い荷物を引っ張れる馬力のある馬、御者のコントロールをキチンと理解できる馬車馬なのか、馬という動物にすら簡単には当てはまらない。
現在、ジョージ・フロイド氏の死をきっかけにアメリカだけではなく、世界レベルの人種差別撤廃運動が盛んだ。
ただ、この活動は結局何も意味を成さないように思う。正確には何かしらの影響は出る。コロナによる閉塞感や不況に苦しむアメリカ国民のガス抜きになったり、マスター/スレーブや白黒という既に定着した用語がコンテキストを無視して言葉狩りされたり、あるいはトランプが失脚して後のアメリカの動きが大きく変わるかもしれない。
それだけだ。アメリカでの人種差別の本質は何も解決しない。あれはアメリカの社会構造/経済構造に深く根ざしている。100年かけて作られた社会構造を変えるには100年かかるのかもしれない。少なくとも表面的な言葉狩りで悦に入ってるだけでは何も変わらないだろう。
まず、アメリカにおいて「黒人あるいはヒスパニッシュを恐れ疑うのは正しい」というどうしようもない事実がある。
言うまでもないが個人を取り出したときに善良な人は山ほどいる。私の知人にも黒人は居るが彼らをことさら警戒することは当然無い。
ならばなぜ警戒することが正しいのか? それは彼らが貧困層としてスラムに多く居るからだ。スラムには黒人やヒスパニッシュが多く居るの方が正確かもしれない。性善説にしろ性悪説にしろ衣食足りて礼節を知るので、貧民街の治安は一般的に悪い。それは教育不足によるモラルの崩壊や全うな職にありつけないため犯罪に手を出さないと生きていけないという事に起因する。かつての日本の同和差別なんかもそうなのだが「ガラの悪い地域の人間と付き合うな」というのは小市民的な処世術としては致し方ないと言わざる得ない。お金があれば犯罪をしないかと言われれば当然そんなことはないが「今日のご飯のために」盗みはリスクが高すぎるのでしないという話だ。
適切な教育を受けねば経済的に自立できず、経済的な自立ができなければ犯罪に走らざる得ず、その状態では適切な教育を与えられない。そして「中には善良な人もたくさん居る」というのは事実と知りながらも貧困層と向き合うときには警戒せざる得ない。10人に1人の犯罪に走ろうとする人間が目の前の知らない誰かとは分からないからだ。
日本から見るとアメリカは教育先進国として紹介されることもある。それは一面で事実だ。多様性を重視しリーダシップ型の人間を育てるのに適した学校も多い。
義務教育期間の授業料が無料という話を聞いたこともあるだろう。そんなアメリカで経済的な理由で教育が受けれないというのは何故だろうか。なんのことはない、アメリカの教育費はメチャクチャ高額なのだ。
アメリカに住めばわかるがアメリカの教育費は基本的に高い。何故なら学区という考え方があるからだ。
日本では文部省主導による教育指導要領によってどの小中学校も基本的には同じことを教える。同じことを教えるから原則的には設備も似たようなものだ。教室があり体育館がありプールがある。調理実習のための家庭科室や実験のための理科室、音楽室なんかもふつうはあるだろう。最近ならコンピューター室とかもあるかもしれない。そんなのは当たり前で多少の地域性や教員のスキルの優劣はあっても、日本ではどの学校に行っても誰に教わってもだいたい同じことが学べる。だが、アメリカではそんなことはない。
アメリカの学校は学区ごとに完全に独立している。これは設備の有無はもちろん、教える内容も全然違う。進化論の代わりに創造論教える学校も普通にある。何故このような独立性があるかといえば、学校の費用は学区の税金から賄われている。つまり学校の周りの地価/家賃によって学校の予算が変わる。そして、予算のある学校は良い施設と教員を揃え先程あげたような先進的な教育をしてくれる。では、そうでない学校は? 不足した設備とやる気のない教員により十分な教育を受けることができない。
しかもアメリカは日本なんて比べ物にならないほどの学歴社会だ。なので、親は子供に良い教育を受けさせようと良い学区、すなわち家賃の高いところに住む。子供のために良い学区に住むなどもザラだ。そうして比較的裕福な層が住むことで治安も安定する。市の予算があるので街も綺麗で便利になる。すると子供を持ってない層でも住みたがる。アメリカで治安はマジで大事だ。そうすると家賃はどんどん上がり、貧困層は住めなくなり下手をすると元々居た土地から追い出される。
この学区というやつは相当細かくて、道路挟んで一つで世界レベルの金持ちが住む超優良学区と経済的に弱く残念な学区が同じ地域にあったりする。パロアルトとか。
サンフランシスコ等のシリコンバレー界隈で時々問題になる不動産の高騰問題がこれだ。ただ、これはアメリカ全土で程度はさておき起こっている事だ。家賃と教育や治安といった部分が強く結びついているため、経済的弱者が這い上がる事が難しく裕福層との差分は時と共に拡大していく。
無論、アメリカは自由の国だ。アメリカンドリームの国でもある。当然、貧困層への教育も考えており特に成績上位者を特別に上級な学校に通えるようにする仕組み等も整っている。「機会の平等を!」これに関してアメリカは取り組んでいる。
しかしながらそれは上澄みを救う対応だ。伸ばすべき人をもっと伸ばす。これはとても理にかなったことだが、固定化された格差の解決にはならない。必要なのは底上げだ。
これには奇しくも日本型の「結果平等」の考え方の方が向いている。日本の教育は決して万能では無いが、格差を固定させない----すなわち富の再分配としては良く機能している。
さて、話を戻そう。
先程から経済格差の固定の問題について話してきた。では何故それがアメリカでの人種差別の問題に繋がるのか?
このような社会構造が出来たとき、100年200年前の経済的弱者は誰だっただろうか? そう、奴隷解放されたばかりの黒人たちや中南米からやってきたヒスパニック達だだ。
ここから経済格差が固定され拡大された。今以上に白人至上主義な世相も大きく影響しただろう。
ヨーロッパの時代かユダヤ人差別を筆頭とした差別はあるし、それはどの地域、どの時代でも残念ながら変わらない。日本だって同和問題とか在日問題とか色々ある。
ただ、今のアメリカでそれはより深刻だ。単なる風説とか好悪だけではなく、必要悪として「貧困地域の人間を恐れる」という事と一体化してしまっている。元々差別にあっていた人種そのものが地域で固定されかつ教育/経済の両方に負のスパイラルが入り用意に抜け出せないという最悪の状態だ。この状態では単に黒人を恐れるなと言っても仕方がない。なぜなら犯罪を犯すものも事実として多いのだ。もっと良い職をというのも難しい。それは適切な教育を受けてないからだ。そして、それは偏見をどんどん加速させていく。事実と虚実がおり混ざって差別の根はどんどん深くなる。誤解と偏見を無くせば良い生易しい話ではない。
これは政治が全うに富の再分配をして、地域経済によらない教育/地域経済によらない治安というものを打ち立てるしかない。もちろん、偏見をなくすための活動はとても大事だが同時に事実としての固定化された経済と教育の格差を解決しないと根本治療とならない。
ただ、今までのアメリカはそういう国ではないし、これからなるにはかなり長い道のりの気がする。事実、このデモのさなかでそういったことはさほど話題にはなっていない。もっと初等教育を平等にすることに力を入れる方が大事なのに。誰だって今持ってる利権を手放したくないのだが、そこから目を逸しては今回の人種差別問題もさしたる成果は得られないのだろうな。。。。
「公共放送(NHK)が真っ昼間から神の教えに反する同性愛を肯定的に取り上げる番組を流すことは、我々の教義を公然と侮辱する信仰への迫害だ、少なくとも子供が悪魔の誘惑に晒されぬようにゾーニングせよ」
と文句を言いだしたら、どうするんだろうね?
「公共の場にオタク向け萌えエロセクシズムステロタイプ表現が露出することは、集団としての女性の権利侵害なので自粛せよ、少なくとも子供が見ないようにゾーニングせよ」
という主張と同じなので、フェミの主張でキズナアイ(あの衣装のまま女性のステロタイプを演じる)のNHK出演が自粛に追い込まれるなら、宗教原理主義者の主張にもNHKは屈するしかないと思うんだけど。
これは別に非現実的な思考実験じゃないんだよね。既に欧米ではあちこちで起きてる問題だし。学校教育で進化論を教えるべきではない創造論も教えるべきとかね。
日本でも徐々に外国人ムスリムの長期在住者が増えていて、インドネシアやマレーシアからの観光客もしばらくは増え続けるでしょう。
その中のほんの一部ではあっても、「日本では書店もテレビも公共の場に信仰へのあからさまな攻撃で溢れているので、マイノリティである我々はとても生き辛い」と言い出す日はそう遠く無いと思うんだ。
そういう敬虔な信徒の彼らにとっては切実な抗議にどう応答する? 心底嫌そうな顔でゲイを「気持ち悪い……」と指差す我が子の傷つきやすい幼い心を守りたい親心に日本社会はどう向き合うべきか?
「日本には表現の自由って物があるんだから、お前らカルトの定量化できない被害の主張(=お気持ち)に耳を傾ける義務はこちらには無いんだよ! このホモフォビアどもめ!」で書店やテレビ局は突っぱねるべき?
だったら「お前らフェミの定量化できない被害の主張(=お気持ち)に耳を傾ける義務はこちらには無いんだよ! この退廃芸術を禁止したナチの末裔のファシストどもめ!」と突っぱね続けないとね!
なんだ、創造論者か
>そもそもこのツリーは「科学」の定義を求められた低能が、議論に関係しない単語の定義を言えと難癖をつけてきたもの
それは科学の定義を求めるのも難癖に過ぎないから皮肉を言われてるのに気付けてないだけでは?
>まあわかりにくい書き方なのは認める
分かりにくい書き方をしたら勘違いされて当然では?
読解力がないのと同様にわかりやすい分が書けないのは国語ができないという事
https://anond.hatelabo.jp/20170726215433
これに関してなんだけど、
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/orcagy/status/888355304450215937
およそアメリカで偽科学を批判する人が歴史修正主義に親和的であるのは考え難いが本邦はそうでもない。
その理由を、この偽科学批判と歴史修正主義批判は違うと言う意見がアメリカではおよそあてはまらないのかなって感じた。
「実害性や人が死ぬかどうかで、違う」
これに関してはアメリカの偽科学批判者がまず批判する「創造論」や「ID論」にも当てはまってしまう。
キリスト教原理主義と親和性が高く、それらの中にはテロリズムに走るものもいるが、そんなものはごく一部で大部分の創造論者やID論者には当てはまらない。
それに危険性を言うならある集団への差別や憎悪、偏見を助長することの多い歴史修正主義の方がさらに危険とも言える。
なんというかアメリカの偽科学批判者なら進化論に関する議論で何度も聞いてそうである。
進化自体は追試できないし、方法論や手法は違うが現在ある証拠から過去を再現する点では古生物学や歴史は共通しており、原理的に歴史を偽科学から除外することにはならない。
さらに言えば、アポロ計画陰謀論もアポロ11号が月面に着陸したこと自体は歴史的事実であり、厳密には追試できないが、アメリカの偽科学批判者はアポロ陰謀論も否定する。
「専門分野の違いだ」
著名な懐疑論者でThe Skeptics Society の創始者マイケル・シャーマーは反ホロコースト否定論でもしられる。
こうして見ていくと、偽科学批判者が歴史修正主義者たりうる理由が良くわからないが注目する点で
そう、実は偽科学批判をしている人も歴史修正主義を批判している例はある。
では何で、南京事件や慰安婦問題など、日本でもっとも議論になる歴史修正主義はスルーするのか。
これで気づいたのは、それらの南京や慰安婦に関する議論は日本では、政治的、イデオロギー的、感情的な反応が引き起こさる。
ある意味「虎の尾」と言える。
そう考えると、アメリカで政治的、イデオロギー的に議論となる創造論を主要なテーマとしている偽科学批判者は「虎の尾を敢えて踏む」どころか「虎が倒れるまでボコボコにして、再度起き上がってくるならまたボコボコにする」くらいの覚悟が最初からあった感じなのでは。
実際、創造論やID論はアメリカで公教育から排除はされているが、何度も復活を試みようとされている。
虎の尾を踏んだ山本弘氏あたりはネット黎明期から今にいたるまでさんざん難癖をつけられている。
そうやって考えると偽科学批判者の中に感じられる「我々は政治やイデオロギーから自由である」と言う勘違いが生じやすかったり「自分の政治的、イデオロギー的立場に反しない限り歴史修正主義を認識できるが、政治的、イデオロギー立場に合致する物は歴史修正主義と認識できない」こともなんとなく分かってきたかな。
いわゆるニセ科学批判はその選択性を批判してるんだが、本人は「普通の日本人」として選択したつもりもないから何を批判されてるか分からないところとか
科学なんてのは、
「適当な条件で、適当な試行を繰り返したら、ある一定の結果が得られるっぽい」
程度の事しか示せない。
科学はこの世界の真理を求めているんじゃない。
人間の欲する結果を得るための処方箋を提示するだけだ。
天動説が信じられていた頃にも、惑星の軌道をほぼ正確に求められる方程式は存在してたんだ。
もっと言うと、科学は科学的手法・思考が通用する対象のみを研究するものなんだ。
だから科学が答えられない問いなんていくらでも存在するし(俺は何のために生まれてきたのか?)、
「非科学的だから間違っている」という主張は前提から破綻している。
科学だけが正しいと思っている人は、科学という色メガネを通した世界でしか生きられない。
何でそんな不確かなものを信じているのか?
それは、科学を信じれば世界が上手く回るから。
科学様の仰る、たぶん正しいだろう、という事柄を信用し活用してみたら、
この世界の謎に納得のいく説明がついた。生活を便利にする道具がたくさんできた。
キリスト教的創造論よりも、ダーウィンの進化論を信じた方が、世界を上手く説明できた。
信じてみたら、世界が上手く回った。でもそれが真実かどうかは証明できない。
ようするに、科学って宗教なんだよ。
とりあえず信じてみて、世界が上手く回ったら、それが信仰になるんだよ。
自分の信じる世界観こそが信仰の正体なんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140719201818
“人生の選択肢を他人に委ねて、委ねられたほうは従わなければ罰だ地獄だと脅しをかけて支配する”
みたいな世界観が嫌いなら、人生を自力で切り開いていけるような宗教を選べばいい。
信仰は“架空の何か”に期待するような、そんな力のないものじゃない。
あんたの信仰次第であんたの世界が変わる。宗教は慎重に選びなよ。
・われわれは生存機械--遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。この真実に私は今なおただ驚き続けている。私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。私の願いのひとつは、ほかの人たちを何とかして驚かせてみる事である。
・「乗り物」(普通は個体)とのその中にいてそれを運転する「自己複製子」(実際は遺伝子)の間の区別について、わたしが明確な考えを持ち始めたのは、ようやく1978年になってからだという事情がある。
・自然淘汰の単位として競合する遺伝子と個体の間の見かけ上の論争(故エルンスト・マイアを最後まで悩ませた論争)は解消されている。自然淘汰の単位には2種類があり、その二つの間に論争はない。
遺伝子は自己複製子という意味での単位であり、個体はビークルという意味での単位である。両方とも重要なのである。
・「利己的な遺伝子」のもうひとつのいい代案は「協力的な遺伝子」だったかもしれない。それは矛盾してまったく正反対のように聞こえるが、本書の中心的な部分は、利己主義的な遺伝子の間におけるある種の協力を主張しているのである。
このことは遺伝子のあるグループが自分たちの仲間を犠牲にして、あるいはほかのグループ犠牲にして栄えるということを意味するわけでは断じてない。
そうではなく、各遺伝子は、遺伝子プール-ひとつの種内で有性生殖のシャッフルの候補となる遺伝子のセット-に含まれるほかの遺伝子が作る背景のもとで、自己の利益を追求しているとみなされる。こうしたほかの遺伝子は、天候、捕食者や獲物、生命を支える植物や土壌細菌が環境の一部であるのと同じ意味で、それぞれの遺伝子が生き残る環境の一部なのである。
・ローレンツの攻撃、アードリーの社会契約、アイブルアイズフェルトの愛と憎しみ、もこのような問題を論じているといえようが、これらの本の難点は、その著者たちが全面的にかつ完全に間違っていることである。彼らは進化の働き方を誤解したために、間違ってしまったのだ。彼らは進化において重要なのは個体ないし遺伝子の利益ではなくて、種ないし集団の利益だという誤った仮定をおこなっている。
・ダーウィニズム理論の現代的説明の驚くべき結果のひとつは、生存の見込みに対するささいな作用が進化に多大な力を及ぼしうることである。これはこうした作用が影響を及ぼすのに使える時間がたっぷりあるからである。
・おそらく群淘汰説が非常に受けたのは、ひとつにはそれが、われわれの大部分が持ってる倫理的思想や政治的思想と調和しているからであろう。
・進化を眺める最良の方法は最も低いレベルに起こる淘汰の点から見ることだ、というわたしの信念について述べなければならない。
・複数の誤りが進化に必要不可欠だという説と、自然淘汰が忠実な複製に有利に働くという説は果たして両立するものだろうか?われわれは自分が進化の産物であるがために、進化を漠然と「よいもの」であると考えがちだが、実際に進化したいと「望み」ものはないというのが、その答えである。進化とは、自己複製子(そして今日では遺伝子)がその防止にあらゆる努力を傾けているにもかかわらず、いやおうなしに起こってしまう類のものなのである。
・化学的手段を講じるか、あるいは身の回りにたんぱく質の物理的な壁をもうけるかして、身を守る術を編み出した。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在を始めただけでなく、自らの容れ物、つまり存在し続けるための場所をも作り始めたのである。
・海中を気ままに漂う彼らを探しても無駄である。彼らは当の昔にあの騎士のような自由を放棄してしまった。今や彼らは、外界から遮断された巨大なぶざまなロボットの中に巨大な集団となって群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡を取りリモートコントロールによって外界を操っている。彼らはあなたの中にもわたしの中にもいる。彼らはわれわれを体と心を生み出した。
・遺伝子が決定論として批判されるような強い意味でのその創造論を制御したりしないことは、誰にも理解できることだ。われわれは避妊手段を用いるたびに何の努力もなしに(そう、かなり簡単に)、それらを否認しているのである。
2011年12月31日、僕の父方の祖父、父の父が亡くなったと田舎から連絡が入った。
葬儀は三が日が明けた4日になるそうだ。父の田舎の風習で、先に火葬を行うとのことで、火葬を3日、葬儀を4日に行う予定だ。
父は長男なので、当然喪主となるべきところなのだが、数年前に脳卒中をしており、言葉と体が不自由だ。
近しい親戚がいるので、その親戚が喪主をすることになる。本来は長男である父がすることであるのはわかっているのだが、
挨拶が満足にできない、歩くのも立ち上がるのにも時間がかかる父が、喪主のような忙しい役目は果たせない。
親戚が喪主を務めることには誰も反対しなかった。大晦日の時点で、祖母もそれを了承していた。
我が家は田舎から離れているので、2日には現地入りができるように移動手段・ホテルの手配をした。
ここでも本来ならすぐにでも駆けつけなくてはいけないのだが、31日はまだ帰省ラッシュであり、新幹線も飛行機も取ることができなかった。
ここからが問題なのだが、1日年が明けた頃に親戚から連絡があり、父は出席をしないように、と母が言われたのだ。
田舎では、脳卒中のような病気で障害をもつと、狐に憑かれたとか、祟られたと思われるというのである。
父が脳卒中をして体が不自由なことも祖父母は近所に話をしていなかったそうだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
実の息子である父が、障害を持っているからといって、葬儀に参加できない理由になるだろうか。
そりゃあアメリカだって創造論や神の存在を一般市民が信じているのだから、日本の片田舎の住人が狐の祟りを恐れていても不思議じゃない。
しかし、親の死目に立ち会えなかった父が葬儀に出れない理由にはならないだろう。
無理解ゆえの憤りを、これほど覚えたことはない。
もちろん親戚や祖母も、父には来て欲しい気持ちがあるのだ。それは分かっている。
だからこそ、世間の目のために葬儀に出席できないというのは、やりきれないのだ。
父は言葉が不自由だからか、葬儀に連れて行かないことを告げても何も言わない。
おそらく田舎の考え方が分かっているのだろう。しかし、葬儀に出たくないはずがない。
普通の家庭なら、親の葬儀にはなんとしても参加したいはずなのだ。どうかしている。
長男不在のまま、長男の息子として出席する。おそらく何かしらの役目を果たすこととなるだろう。
きっと会ったこともないような祖父の知り合いなどに、父は病気で来れない、とか嘘をつくだろう。
そう言うように、という説明を親戚なりから受けるのだろう。
どのような顔をして親戚や祖母に会えばいいのか、まったく分からない。
宗教って間違ってる事を主張してんのも結構あるでしょう、進化論にしても宇宙にしても宗教より科学の方が正確に把握してる。
宗教っつっても大昔の人が想像だけで考えた物語なんだから当然だけどさ。
だけどそれを認めず下みたいに学校で間違った知識を教えさせている宗教もある。
宗教には昔の人の世界の真理を知りたいって欲求に答える要素もあるんだろうけど、その分野で宗教の方が科学より優れてると思えんのよな。
>アメリカのいくつかの州では、キリスト教右派とキリスト教根本主義の圧力により、生物の授業において、旧約聖書の『創世記』に基づく創造論(人類が唯一神により創造されたとする信仰)を記載した教科書を使用して教えることが義務付けられている。
セオバルド氏によると、「複数の祖先が存在したとする説で最も有力なもの」は、1つの種が真正細菌に進化し、1つの種が古細菌と真核生物に進化したという説である。しかし今回の分析結果から、その確率は10の2680乗分の1であることがわかった。10の2680乗とは10の後ろにゼロが2680個並ぶ数字である。「これは天文学的な数字で、あまりの小ささに、口にするのもはばかられるほどだ」。
同氏はまた、ヒトは始めから現在の形でこの世に存在し、進化的な祖先など存在しないとする創造論的な考え方についても検証を行った。統計分析の結果、ヒトが独自の起源を持つなど「ひどくお粗末な仮説だ」との結論に達した。ヒトが他のどの生物とも別に創造された確率は10の6000乗分の1だという。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20100514004&expand
確率論的に低いからといって、創造論が間違ってるとは限らない。
むしろ確率論的にありえないようなこと、普通ならありえないようなことを体験したときこそ、我々はそこに奇跡を見出すのではないだろうか?
そう考えることで、まさに神の創造である奇跡そのものの、「私達が生きているこの世界」の素晴らしさが見えて来ると思いませんか?