はてなキーワード: ぼんやりとは
80分約3万円で本番やるところだったんだが、後半10分ぐらい俺は断続的に泣いていた。
俺はバキバキの素人童貞で、自らの射精キャリアの殆どをオナニー(悪名高い床オナ、ここ一年ぐらいは床オナ封印して緩めのオナホ)でこなしてきた。
対人風俗歴は昨日入れて4回しかなく、デリヘル2回にソープ2回。対人で射精できたのはデリヘルの手コキ1回のみ。それ以外はいつも射精への挑戦と挫折を繰り返し、最後は抱き合ったりして終わっていた。(そしてそれを半ば言い聞かせるようにして自分を納得させていた節があった)
フェラや素股ではイクほどの快感はなく、中に入れてもしばらくするとフニャフニャになってしまう。(これは俺の「またいつものように中折れするかも」という不安が先立っている事も理由としてあるかもしれない)
昨日のソープも案の定中折れが発生し、心の中でいつも通り溜息をついたのだが、そこで俺は何故か「自分がイケた事がろくにない」と言う事を目の前のソープ嬢に吐露していた。
「ごめんね、しぼんじゃった。……実際、隠してもあれだから言うけど俺中でイケたことないんだよね。デリの手コキぐらい」
のような感じのことを一息に言って、それを聞いた嬢はえぇーと言っていた。
今まで昼の知り合いはおろか、風俗関係にも誰にも言ったことの無い秘密を、なんで今言っちゃったんだろう、とその時ぼんやりと思った。
ぼんやりの理由は、告白した瞬間に急に涙が滲み出してきたから。完全に予想外の涙だった。
涙の理由としてはイケない惨めさが大きかったけど、その中には少しだけど確実に、解放感があった。
こんな事言い出してキモいんだけどさ、と前置きして、俺は嬢に「イケないのが自分の中で凄くコンプレックスになっている事」「イケないという告白を何故か君に言ったけど理由は良く解らないこと」「抱きしめさせて欲しい、その上で泣かせてほしい事」をポロポロっと口走った。
嬢は泣かれると対応に困るから泣かないで〜と言っていたが、俺はお構い無しで嬢を抱きしめて涙ぐんだ。
嬢はそんな俺に対して、そんな事ありふれた事だから気にするな、泣くな、と言ってくれた。
ソープ嬢の仕事でイケない客なんて大勢見てきた。一回もイッた経験無いと言う客だっていた。気に病むほどのレアケースですらない、と。
自分の心の中でも「イケない男は実際いっぱい居るし……」という慰めはとうに作っていた。
でもそれは何処か空虚で、慰めにならない慰めだった。自己肯定感の低い人間が自分を自分で慰めたって元気付けられはしない。
でも嬢は今まで自慰に過ぎなかったその慰めに、同調する事で自分という存在をもってある種の重みを与えてくれた。たった1人分の客観性だけど、その瞬間に俺の自慰は「慰め」に変わった。
この問題に関して確かに存在する「個」としての味方が初めてできた事に、俺はまた泣いた。n=1だが、その嬉しさを初めて知って泣いた。だんだん流れる涙の意味が変わっていっているのをひしひしと感じていた。
最初と違って今は嬉しくて泣いていると伝えると、嬢はまた慰めてくれた。
朝からずっと待機してても1日客がつかない子もいる、プライベートで問題ある同僚の嬢もいる、でもみんなそれでも次の出勤している。
みんな色々抱えてるなかで、問題を解決するのには諦めないという事が絶対必要だから、あなたも諦めずHし続けるしかないよ。
最初に何の期待も不安も持たず、ただHして、イケなかったら「でも次はイケるかも」って考えるぐらいでいいんだよ。
それを聞いて、咀嚼して、俺は今日3万払って着て良かったと思った。
はっきり言ってソープ嬢としてはハズレの部類だった。ブスだし年齢詐称激しいし終始小馬鹿にした感じでプレイするし、なんかよそよそしくて時間稼ぎされてる様な感じもあった。何ならちょっとムカついてた。
でも、印象の良い嬢だったらイケない事告白して無かっただろうと思う。ましてや泣いてない。数十分経ったあとでも距離がある「他人」だったから、俺は自分の暗い部分をふっと投げつけられた。
「諦めない事」「フラットでいる事」「次を信じ続ける事」なんて模範回答すぎて陳腐ですらあるが、俺には刺さった。でももうその時には嬉し涙は出なくて、代わりに微笑みが出た。
今日来てよかった、感謝してる、ありがとうと言っていたら時間になった。
幼い頃は薄ぼんやりと自分も両親達のように誰かと結婚して子供を産む時が来るのだろうなと考えていたが
出産という自分の股の間から大きな質量をひねり出す激痛を伴った行為が怖くてたまらなくて、
遠い将来の話にもかかわらず考えるたびに足がすくむ思いだった。
それからしばらく生きて、誰かと恋仲になりたいとか、子供を育ててみたいとか、
そういった欲求が全くないことに気付いた。
一人暮らしを始めてからは、そもそも誰かと同じ空間で生活するということ自体が
大きなストレスになるタイプの人間だったということもわかった。
一人で誰にも横槍を入れられない空間で、映画を観たり絵を描いたりしながら暮らす、
そういうことに何よりも幸せを感じた。
このまま好きなものたちと向き合いながら、静かに過ごしていけたらな、と思う。
でもこのままの生活を自然に死ぬまで続けるということはできない。
身体的に問題がないにもかかわらず自らの意思で次世代を生産しない、
全てを金の力で解決できるだけの財力もない、
いつか身体が衰えて一人では何もできなくなった時に、誰かの子供の重荷になってしまうから。
おそらく自分は子供を産まないだろう、と気付いてから15年近く、
いつか自殺しなければいけない、ということを頭の片隅に置いて生活し続けている。
自殺の方法についても何度も調べてシミュレーションを重ねているが、
どの方法を選んでも痛そうで苦しそうで、足がすくむ。
それでもいつかやらなければいけない。まだ先の話だから、なんて後回しにしていたらあっという間に時間は経つ。
あと何年くらい生きてるの許されるんだろうな。
十月の執務室は寒い。老朽化した庁舎は、あちらこちらで感染者が出た為トイレが封鎖され使用不可能になっていた。事件現場のごとく黄色いテープが貼られ、仕方なく別の建物まで足を運び用を足す。そこには、かつて共に働いた正規職員がいる。電話番号を交換した間柄の相手は二三度こちらを確認したが、顔を見合わせただけで同僚との会話に戻った。自席へと戻ると職員と市民が唸りながら攻防を続けている。ゆらゆらと垂れ下がるビニールシート。課名を掲げたプレートがだらしなくさがっている。
時折、倉庫整理を指示された。お偉方が使う立派な椅子を昇降機で運搬するのだ。真っ暗な倉庫は雨漏りし書類が濡れないようビニールに覆われていた。換気扇はある物の全体的に黴臭く湿気で蒸れる。鍵を取りに行くと一人でそこで作業する事になった。
私はピラミッド型の階層構造の最底辺で働いていた。空調は全く意味を成さず、仕方なく自宅から持ち込んだストールは偉い人に揶揄された。冬場、コートを脱がずにいたらホッカイロを手渡された事もある。ヒートテックにダサいセーター。周囲は見栄を張ってミニ・スカートで出勤していた。電気ポットはあるが、熱湯を使うにはパワハラ上司の前を通る必要があった。電子レンジは当然ない、誰も彼もマイボトルを持参する事を推奨され、私は毎朝6時半に起床し紅茶を作ることを習慣にしていた。それだけやっても、夕方には体が氷のように冷たくなる。
Excelや専用ソフトを用いた書類作成、それから電話応対が主な仕事であり、封筒の発注雑務も行う、私はただの「派遣の事務の女性」だ。コロナ禍にも関わらずパーティションはボロボロで頼りなかった。そのパーティションから顔を突き出すようにして同僚たちはお喋りに励む。
そこに常駐しているのは私一人も同然だった。時たま爆破予告があった際も、同じ島の職員は打ち合わせと称して別棟に趣き、私を残して仕事をしていた。
スマートフォンは常に手元に置いていた。心細さも多分にあったが、新卒で入社した会社の同期が励ますようなメッセージを送ってくれていた。立場が違う私の連絡先を今の職場で知る人は少ない。メールでやり取りがしたいです、と言ったところすげなく断られた。しかし職員同士ではメッセージ、メールの交換、業後の飲み会などで頻繁にやり取りは続いていた。
そんな環境で半月ほど働いた。たったの半月。その半月で、私の心は駄目になった。
目は覚めているのに体が動かない。スマートフォンの目覚ましアラームが鳴っている、うるさい、止めなければ。頭では分かっているのに、全身が鉛のように重く、手を伸ばすのも一苦労だった。起き上がることはもちろん出来なかった。
毛布にくるまったまま、体調が悪いので休みます、と電話を入れた。受話器の向こうの職員は「予約番号は?」と頓珍漢な受け答えをした。そのまましばらくぼんやりしていた。その姿勢のまま、壁を見つめて泣いた。
休むつもりなどなかった。通常非正規の立場では任されないというバッチを効率化の為に作成しどんな環境でも瞬時に業務が終わるよう調整を繰り返した。
最後の一藁が積まれたのは、おそらく昼休憩中。私は近場のショッピングセンターでストレスチェックを受けた。結果は散々で疲労度が群を抜いていた。
そんな折、結婚して職を辞した友人が気になりメールをする事にした。ワクチンは打ったのか?と確認すると無職である自分にはまだ早いと言われた。同時期、コロナの煽りを受けて業績が悪化し退職した友人が旅行中の写真を送付してきた。
彼らのほとんどは、きっと悪いことをしたわけではないのだろう。それなりに一生懸命やってきたつもりだった。そうして勝ち取ったものが、この人間関係と、冷え切った体だった。
全ては心の背骨が、音を立てて折れる前の話だ。
体調を崩し病院に行くと、腰痛症と診断された。姿勢が悪いと医師に言われ、接種が義務だと伝えると絶句された。
それでも働き続けたのは、皆頑張っていたからだ。トラブルでチームの一員が異動されて少人数で回すしかなくなった。感謝の言葉は誰の口からも聞かれず、ふとした瞬間、市民からの怒号が飛び交う。その中で私はピエロになろうとした。そして、雨が連日降り続け気温は低下の一途を辿った。遂に防寒着ヒートテックで武装するしかない冬が来た。
投票率を上げようというキャンペーンは一般に、与党政権支持者よりも反政権・野党支持者の方が積極的である。しかし左派の人たちの、投票率が上がると自民党が負けるという素朴な前提には疑問が多い。むしろどう考えても逆だろう。
理由は「普段政治に関心のない人」というのは、(1)「政治的な公正さ」への関心が弱い、(2)選挙公約を色眼鏡なしに読む、(3)「みんなの空気」の風向きを重視する、という特徴を持っているからである。
(1)そもそも投票に消極的な「普段政治に関心のない人」は、野党が強調する「政治的な公正さ」などには関心を持たない。普通に考えれば、そういう問題に関心のある人はとっくに投票所に足を運んでいる。リベラルな政治理念やイデオロギーに訴えるのも逆効果である。「普段政治に関心のない人」は、そもそもそうした政治の話が苦手だからである。「普段政治に関心のない人」にとって、イデオロギー臭は嫌悪感しか与えない。(その意味で岸田首相「新自由主義からの転換」も逆効果)。
(2)「普段政治に関心のない人」が選挙に行く場合、選挙公約がそれなりにまともで、政権担当能力がありそうかどうか、というぼんやりしたイメージで投票する。そうすると、自ずと自民党一択になる。左派は「自民党は福祉と育児を家族と女性に丸投げしている」と批判するが、「普段政治に関心のない人」が自民党の公約を色眼鏡なしに読むと、完全に逆の印象を受けるはずである。与野党が似たようなことを言っているなら、当然ながら実現可能性の高いほうに投票するということになる。
(3)あとは、テレビの報道やTwitterなどのSNSの政治論議における「空気」で決まる。とくに「普段政治に関心のない人」は、「正しい人間と見られたい」という意識よりも、「馬鹿に見られたくない」「空気が読めない奴と思われたくない」という意識がはるかに強い。Twitterでは野党は「小馬鹿」にされることが非常に多く、岸田首相がかつての森喜朗や菅直人レベルの大バッシングをメディアで受けてでもいない限り、投票率の向上は野党にとって大きく不利と言わざるを得ない。
そもそも、投票率向上の主な呼びかけの対象である若い世代の野党支持率は、さまざまな調査で見てもきわめて低い。自民党が積極的に支持されているわけでもないが、投票先を決める段階では政権与党を消極的に支持することになるだろう。
もちろん投票率の上昇それ自体は悪いことではない。しかし左派の人たちの「投票率が低いから自民党の長期政権が続いている」「投票率が向上すれば野党が勝利する」という間違った前提は捨て去るべきだと思う。
先日、youtubeで『オノ・ヨーコへの偏見を取っ払いたい』という動画を見た
オノ・ヨーコ自身の人となりや作品を紹介することで、偏見をなくし彼女自身をとらえなおそう見たいな趣旨の内容だった
その中で、ジョンレノンとの関係でひとつくらいは触れておくとするならとの前置きでオノヨーコの詩集『Grapefruit』を紹介していた
曰く、ジョンレノンのイマジンの歌詞は『Grapefruit』の影響が強いとのことだ
その話を聞いて、思い出したのが冒頭のゆらゆら帝国の『グレープフルーツちょうだい』だった
この曲は誰だかわからん「あなた」に対し、自分の身の苦しみを訴えて、「お前の大事な冷蔵庫の中身を全部食っちまうぞ」と脅すみたいな歌詞だ
そんで「グレープフルーツちょうだい」の連呼が続くみたいな構成をしている
今まで、何かよくわからんが自分の衝動や満たされない乾きみたいなことを謡ってんのかなとぼんやり思っていた
もしかして、この曲の「グレープフルーツ」ってオノヨーコの『Graperuit』のことを言っていたのだろうか
ここにはいない「あなた」=「ジョンレノン」に対し、自分のアイデアの枯渇や身の丈を訴えて、ジョンにとってのオノヨーコみたいな恋人がほしい、『Grapefruit』みたいなアイデアの元を俺にもくれよという具体的な欲求についての歌だったのだのかなとちょっと考えた
ただロック調の曲を何でもジョンレノンに絡めて考えるのも安直な気もするし、『グレープフルーツちょうだい』は今まで通りよくわからん変な歌詞の歌として楽しんだ方が吉だなとも思った
初めて知った時びっくりしたんだけど
スプラトゥーン2が面白い。今までFPS/TPSは興味なかったけどスプラを通して見方が変わった。
一言で言うと陣地を広げながら撃ちあうゲームで、敵を倒して勝つのが楽しい。ただし自由度がめちゃ高くて、位置取り、撃つタイミング、攻めるか守るか等、全てがプレイヤーの判断次第なのね。
だから負ける時は、判断ミスが積み重なって負ける。現実では判断ミスを即座に実感することは少ないけど、スプラではすぐに分かる。だから撃ち合いで負けると悔しいし、勝てた時は自分が相手よりうわ手だったということで、無上の喜びがある。
スポーツ等の試合でメンタルの強さが勝ち負けに影響すると言われるけど、その意味もスプラで実感できる。メンタルが弱ると視野が狭くなる、反応速度が遅れる、判断ミス、指が思った通りに動かない、忍耐力が下がる、チャンスを逃す、それらが合わさって負けるべくして負ける。
・・・死ぬリスクが無いゲームでこれなんだから、実際の戦争でまともな判断なんて無理だろう。
余談だが、ワールドトリガーは、これまで命の危険があった場面は多くなく、基本的にみんな楽しく戦っている。だからみんな合理的に判断してるし、実力通りの強さを発揮出来ている。でも今後、実戦で死ぬリスクが出てきた場合に、キャラ達がどんな風に変わっていくのか楽しみでもある。
ワートリはスプラと同じようにフィジカルの性能がみんなほぼ一緒。反射神経や柔軟性や適応力の高い10代が強いのも一緒。ロボットアニメの搭乗者がみんな若いのも同じような理由があるのかも。そんなこともゲームから考える。
スプラでは、Xに到達するには早い人で1ヶ月、普通は800時間くらい?でもそれは才能や適正がある人達の話だ。「才能」というぼんやりしたワードも、スプラでは到達時間として可視化される。そして、私はおそらく適正が無く、そういう人はどれだけ時間を費やせばXに到達できるのだろうか。適正のある人と無い人が同じことに打ち込んで、結果が出るまでにどれだけ時間の差が出るのか興味深いところだ。現在プレイ時間1200時間くらいのAS+往復帯だが、いつかはXに行けると信じている。
https://anond.hatelabo.jp/20211003134639
児童は小、生徒は中高、学生は大学だがまとめて生徒と呼ぶことにする
ギャルゲエロゲは「ゲームとしてはアニメや漫画に近い」に入ると思う
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/sai_arts
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/IkaMaru
ぷよぷよ通と書くつもりだった。以降のシリーズはすまん知らなかった
通のストーリーの簡素さは初代〜64のマリオシリーズに近いと感じる
通より後からは急にストーリー濃度が上がるのはサンシャインに近そう
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/tsz
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/miruna
学校通ってたら旅できないじゃん
主要キャラが生徒という描写が少しでもあれば生徒主題と認定している
学校「や生徒」が主題と書いたのはここをはっきりさせるためだったが
さすがにさりげなさすぎて伝えられなかったようだ。申し訳ないと思う
生徒が主要キャラでも学校シーンはあまり描かないアニメや漫画は多く
例えばドラえもんやセラムンは学校の話は少なくコナンにはほぼ出ない
むしろ授業シーンに力が入っているハリポタなどの作品のほうが珍しい
だから生徒が主要キャラでも旅できるのは多くの作品で証明されている
ジョジョ三部など生徒でありながら数々の国を巡る大冒険を繰り広げた
お遍路の区切り打ちのように旅の途中で家に帰る変則的方法も行われる
光の石の伝説や日帰りクエストなどローファンタジーではよくあること
有名なのはソードアートオンラインのアルヴヘイム編とガンゲイル編か
劇場版ドラえもんもどこでもドアやタイムマシンで一旦帰ることがある
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/aa_R_waiwai
妙に多いといえば現代日本の子供が学校に通っている割合こそ妙に多い
現代の文明社会に生きる子供キャラを描いたらほとんど100%生徒だ
ttps://anond.hatelabo.jp/20211004124738
ゲームもオブジェクトを用意する手間が割としんどいのかもしれない
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/gabill
漫画の場合は授業時間などをスキップして学校行事や放課後だけをつまみ食いできるけど、ゲームだと省略し過ぎると没入感が削がれる。
納得がいくようでもありいかないようでもある。識者の登場が待たれる
しかし例えばドラクエ2の勇者は王子らしい生活がほぼ描かれてないが
そのせいでプレイヤーが没入しにくいという話を聞いたことはないから
生徒の生徒らしい生活描写もほんの数カット程度で足りたかもしれない
一揆をする農民や色を揃える医者もゲームの中ではただ戦ってるだけだ
初めはアキネイターぽちぽちしながら適当にぶちあげた理論だったけど
ブコメ見ながら考えてたり返信書いたりしていたら頭が整理されてきた
またブコメやトラバで学校が舞台のゲームとしてあげられているものが
想定となんか違ったので自分の立てた疑問がずれていることに気づいた
そうして浮かんできた思いつきとこのブコメが符合したので貼っておく
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/AKIYOSHI
ゲームはプレイアブルコンテンツだから、物語のベースにいわゆる「学園的共通体験」がなくとも自分ごとになるからでは。だから最初から世界で戦える。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/cotbormi
言われてみればゲームに少ないのは学校のような特定のものというより
平凡だった人間がある日突然変わった出来事に巻き込まれる物語構造だ
生徒が主要キャラになりにくいのはこの傾向が生む結果の一つのようだ
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/nakex1
マンガ等なら学生が思いがけないことから冒険や戦いにってするところを,ゲームだと最初から戦士や兵士ってことは多いかもしれないな。
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児童は小、生徒は中高、学生は大学だがまとめて生徒と呼ぶことにする
ギャルゲエロゲは「ゲームとしてはアニメや漫画に近い」に入ると思う
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https://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/IkaMaru
ぷよぷよ通と書くつもりだった。以降のシリーズはすまん知らなかった
通のストーリーの簡素さは初代〜64のマリオシリーズに近いと感じる
通より後からは急にストーリー濃度が上がるのはサンシャインに近そう
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/tsz
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/miruna
学校通ってたら旅できないじゃん
主要キャラが生徒という描写が少しでもあれば生徒主題と認定している
学校「や生徒」が主題と書いたのはここをはっきりさせるためだったが
さすがにさりげなさすぎて伝えられなかったようだ。申し訳ないと思う
生徒が主要キャラでも学校シーンはあまり描かないアニメや漫画は多く
例えばドラえもんやセラムンは学校の話は少なくコナンにはほぼ出ない
むしろ授業シーンに力が入っているハリポタなどの作品のほうが珍しい
だから生徒が主要キャラでも旅できるのは多くの作品で証明されている
ジョジョ三部など生徒でありながら数々の国を巡る大冒険を繰り広げた
お遍路の区切り打ちのように旅の途中で家に帰る変則的方法も行われる
光の石の伝説や日帰りクエストなどローファンタジーではよくあること
有名なのはソードアートオンラインのアルヴヘイム編とガンゲイル編か
劇場版ドラえもんもどこでもドアやタイムマシンで一旦帰ることがある
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/aa_R_waiwai
妙に多いといえば現代日本の子供が学校に通っている割合こそ妙に多い
現代の文明社会に生きる子供キャラを描いたらほとんど100%生徒だ
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ゲームもオブジェクトを用意する手間が割としんどいのかもしれない
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/gabill
漫画の場合は授業時間などをスキップして学校行事や放課後だけをつまみ食いできるけど、ゲームだと省略し過ぎると没入感が削がれる。
納得がいくようでもありいかないようでもある。識者の登場が待たれる
しかし例えばドラクエ2の勇者は王子らしい生活がほぼ描かれてないが
そのせいでプレイヤーが没入しにくいという話を聞いたことはないから
生徒の生徒らしい生活描写もほんの数カット程度で足りたかもしれない
一揆をする農民や色を揃える医者もゲームの中ではただ戦ってるだけだ
初めはアキネイターぽちぽちしながら適当にぶちあげた理論だったけど
ブコメ見ながら考えてたり返信書いたりしていたら頭が整理されてきた
またブコメやトラバで学校が舞台のゲームとしてあげられているものが
想定となんか違ったので自分の立てた疑問がずれていることに気づいた
そうして浮かんできた思いつきとこのブコメが符合したので貼っておく
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/AKIYOSHI
ゲームはプレイアブルコンテンツだから、物語のベースにいわゆる「学園的共通体験」がなくとも自分ごとになるからでは。だから最初から世界で戦える。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/cotbormi
言われてみればゲームに少ないのは学校のような特定のものというより
平凡だった人間がある日突然変わった出来事に巻き込まれる物語構造だ
生徒が主要キャラになりにくいのはこの傾向が生む結果の一つのようだ
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/nakex1
マンガ等なら学生が思いがけないことから冒険や戦いにってするところを,ゲームだと最初から戦士や兵士ってことは多いかもしれないな。
その頃によく、年齢を重ねれば悩まなくなるよとか、治るよ、と言われた。
実際に年をとってみて分かったのは、別に楽にはならないということ。
それどころか、どんどん現実的な選択肢は狭まる一方だし、悩んでいたことや恐れていたことが現実に起こることばかりで、辛さは増すばかり。
でも、若い頃にしていたように、辛さを言葉にして他人に伝えることはもうできない。
ぼんやりした不安や、自分の抱える問題を説明できる言語化能力が無くなっているし、
説明に漕ぎ着ける気力も無いし、
そもそもそんな事を言えるような友人や知人などとっくにいなくなっている。
5chに連投コピペで貼られてたんだけど、ググっても元の文章が出てこない。
・すぎやまこういち(1931年東京都生。作曲家。日本バックギャモン協会会長)
・植松伸夫(1959年高知県生。神奈川大学外国語学部英語科を卒業後、TVCM等フリーで活躍し、1986年スクウェア入社)
(要約)
すきやま:
だんだんドラクエ関連のスケジュールだけで1年終わっちゃうみたいな有様になってきちゃって、
あんまり他のことができなくなってきてるんだよね。困ったもんだよ。
ドラクエやると、やれCDブックだアニメだときて、レコードもブラスバージョンやエレクトーンバージョンやピアノバージョンが出て、
そうなると色んな出版社がピアノ譜やエレクトーン譜を出す。そんなことやってるから1年潰れちゃうもんね。
植松:
すきやま:
どうしても大変だと思いながら、「このゲームが好きだなあ」ってことになるとついね。
植松:
まさか本当にやって頂けるとはね。言ってみるもんだなとつくづく思いましたよ(笑)
すきやま:
でも楽しかったね、あれは。FFVも大変だったね。やっと僕も上がったんですけどね。
植松君は働き者だなとつくづく思いましたよ。何曲あるの、あれ?
植松:
60近くはあるかもしれないですね。
すぎやま:
60曲あのゲームの中にあるということは、実際作った曲はその裏にもっとあるでしょう。何曲ぐらい?
植松:
1コーラス作ったという感じで言ったら100曲ぐらいいってるかもしれないですね。
すぎやま:
働き者だなあ(笑)
植松:
曲数が多いというのも一既にいいとは言えないとも思ってるんですよね。
すぎやま:
植松:
そんなでもないんですけどね、それでも10曲ぐらいは少ないかな?
すぎやま:
そうでしょ。やってる時はこの曲面白いなと思うんだけど、終わったあと覚えてる数が少ない感じがしたね。
その原因は何だろうと思ったんだけど、多すぎるというのがあるのかもしれないな。
でもやっぱりどんどん意欲が湧いて、ここはこういう曲にしちゃおう、ここはこうしようっていうのが出てきちゃうものだよね。
植松:
作ってる方としてはまだ足りないんじゃないかという気もするんですよね。完成したあとに自分でやってみますよね。
そうすると、こことここの音楽変わってないやっていうところがいくつかあるんですよ。
だから作った本人は全部曲覚えてるから別に問題ないんですけど、
自分以外の一般の人にとっては多いかなとは思ってるんですけどね。
30曲に抑えようとしたんですよ。IVのときもちょっと多いと思ったんです。
今回は絞り込んでやろうと思ってたんですけど、欲が出てしまいますね。
すぎやま:
僕も曲を絞り込むときは断腸の思いでね。切る作業が大変ですよ。
前にも言ったと思うんだけど、むこうのミュージカルなんかを見ると本当に曲数少ないんだよね。
でも植松さんのやり方でいいなと思うのは、1つの曲をシーンに応じてアレンジを変えて出すケースが多いでしょう。
植松:
すきやま:
働き者なんだよ。FFVの曲は植松さんの趣味趣向がはっきり出てるから、
それがある意味でいい個性になってていいなというのがありますね。
スコットランド民謡をはじめとして、民族音楽への傾斜というのがあるでしょ。
植松:
今回そのアイルランドのリールっぽい曲を入れたのって初めてなんですけど、あれを入れますと
ユーザーの意見なんかのハガキに「アイルランド行ってきて帰ってきたらもうこれだ」というのがあるんですよ(笑)
別にアイルランドから帰ってきて、その影響受けてやってるわけじゃないんですけど。
以前から凄く民族音楽に興味がありまして、入れたかったんですけどファミコンのときとかって難しいじゃないですか。
すぎやま:
ちょっとやりにくいよね。
植松:
いつかやってやろうと思ってたんですけど、あんまり興味本位で民族音楽好きだから
入れるというのも安っぽく見えてイヤかなと思ったんですけどね。
先日、すぎやま先生がうちの職場にいらした時にお話ししたんですけど、今トルコ音楽を習いに行ってまして、
すぎやま:
植松:
日本人だったら日本の音楽ルーツとして民謡とかがあるはずだと思ってるんですよ。
日本に昔からある音楽が自分の血の中にあるはずだって自分では思ってるんですけど、
一度「雅楽(古来の宮廷音楽の総称)」の“ひちりき”(雅楽用の竹製の管楽器)を習いに行ったことがあるんです。
そうすると自分の中に流れている血というよりも、逆にそれがすごく新しい、
ブライアン・イーノのシンセサイザーの音楽に近い印象があったんですよね。
すぎやま:
笙(雅楽用の管楽器)のハーモニーなんかは音の響きが非常にシンセサイザー的な新しさがあるよね。
植松:
そうなんですよ。だからこれはものすごく面白いけど、自分にとっての血ではない気がしたんですよ。
雅楽は朝鮮からのものですけどね、そういうルーツみたいなものを考えていったら、
逆にヨーロッパの民族音楽がすごく自分にピンとくるものがあったんです。
自分にとってピンとくるものを追っかけていく方が面白いんじゃないだろうかと思って、
最近は自分が日本人だから日本古来の音楽をどうのこうのという考えはなくなってきてるんですよね。
すぎやま:
僕ら日本人で日本の文化の中で暮らしていると、いつかは三味線音楽や琴の音楽が耳に触れてるわけ。
和風喫茶やレストラン、エアラインなんかでもいつの間にか聞こえてくる。
アメリカで生まれ住んでるとそれは耳に触れないで大人になっちゃうでしょう。
僕らは耳に触れてるから、知らない間にそういう音感は身についてると思うの。
町の音楽「ミーファー」ってメロディがいくときに、もう1つの声部が「ミーミー」とそのまま引っ張って、
ミとファが平気でガチャーンと使ってるのがあるでしょう(トゥールの村などの音楽)。
植松:
バッテンなんですよね。
すぎやま:
植松さんはあれにある種の美しさを感じるからやってるわけでしょう。
で、僕も日本人だから聞いて「あ、ここいいな」と思ったんですよ。
「ソーミーファー」というのと「ソーミーミー」というところでミとファがぶつかっているのは、
西洋音楽のエフメジャーセブンの中のミとファのぶつかりの意味とは全然違う意味のミとファでしょ。
それは江戸時代の三味線や琴の音楽でしょっちゅうやってることなんだよな。
「ラファミミファミミファファミ」といってるときに、1は「ミミミ」といってミとファがぶつかってるという、
そういうテンションに美しさを感じるという江戸時代の音楽家らの伝統みたいな感覚の流れがあるんだよね。
あの部分を聞いて植松伸夫もやっぱり日本人だと思ったんですよ。
で、僕もアレをイヤだと思わずに、あぁこれいいなと感じて、僕も日本人だなと再確認したんです。
植松:
ミとファの半音でメロディと伴奏が平気でぶつかることがしばしばあるんですよね。
自分でもああぶつかってるな、クラシックの音楽のテストなら絶対にバツだなと思っても、
その響き欲しいしと思ってそのまま残すこともあるんですよ。
すぎやま:
それが間違いか間違いじゃないかというのは、感覚的にそのぶつかりが許せるかどうかなのよ。
いいと思うかどうかなのね。だから西洋音楽なんかも近代音楽以降はガンガンぷつかるでしょう。
それが前後の関係や音楽全体の姿からいって、感覚的にこれが美しいと思えるものはマルなのね。
ミとファのぶつかりあいが美しいと思える感受性があってやったものであれば間違いじゃないんだよ。
ただそれが自分一人でいいと思ってるだけで、世の中全員が気持ち悪いと思ったら
植松:
難しいですよね。音楽を学問にした人というのは、かなり強引だと思ってるんですよ。
どうやって音楽の点つけるんだろうって未だに僕思ってるんですよね。
小中学校を通して音楽というものを学校の教育に取り入れて100点取った人は偉い、
大人になって楽器を手にしなくなっちゃう人が多いんじゃないでしょうかね。
すぎやま:
音楽教育というのがどうあるべきかというものは、これはもっと考えなくてはいけない問題で、
植松:
すぎやま:
笛を吹いたことについて点数つけることよりも、笛吹く楽しさをわからせるのが大事だよね。
だからファイナルファンタジーとかドラゴンクエストの音楽というのは大事なんですよ。
植松:
ドラゴンクエストの音楽が好きになってコンサート行きますよね。
すぎやま先生なんかのコンサートはフルオーケストラでやってらっしゃるでしょう。
それはものすごい影響力だと思うんですよね。
子供がオーケストラを生で聞くチャンスが普段あるかというと、少なくとも僕は子供の頃そんな経験はしてないんですよ。
そうすると、ある意味ですごく羨ましいんですよね。小学校2-3年という頃に、N響の音が年に1回、生で聞けるわけでしょう。
すぎやま:
他のオケなんかのコンサート数えると、20-30回やってるよ。全部ドラクエじゃないにしても、1コーナーとかね。
だから、あちこちに頼まれて棒振りに行く仕事もやってます。それは大事なことだからね。
植松:
すぎやま:
しかし、いつもゲームの音楽作るときに、昔の大作曲家の作品聞くじゃない。
とてもかなわないなと思うことが多いね。
植松:
すぎやまさんがそんなこと言ったらこちらの立場はどうなるんですか(笑)
すぎやま:
昨日久しぶりにバレエ見ようと思って神奈川県民ホールに「くるみ割り人形」見に行ったの。
チャイコフスキーのド天才めって感じだよ(笑)。とんでもない天才だね。
植松:
チャイコフスキーは僕もすごく好きですね。音楽は誰が好きなんですかなんてインタビューとかであるじゃないですか。
すぎやま:
とんでもない大天才だよね、あの人は。
あの時代で20世紀の音楽家が考えて書くようなヴォイシングやってたりするわけよ。オーケストレーションのうまいこと。
植松:
この前、西田敏行がロシアに行ってチャイコフスキーの足跡を辿るという番組をテレビでやってたんですよ。
僕もチャイコフスキー好きだから見てたんですけど、チャイコフスキーはホモであるというのを聞いて、
「ああ良かった」と思ったんですよね(笑)
すきやま:
その良かったというのはどういう意味なの?
植松:
チャイコフスキーも人間だったんだなというね。ま、噂なんですけどね。
すきやま:
モーツァルトなんか完全にいってるよね。大天才でも大欠点があるという。
植松:
チャイコフスキーにしろモーツァルトにしろ、メロディが非常にわかりやすいんですよね。
クラシックって難しいから嫌いという人が多いですけど、そんなことないと思うんですよ。
すきやま:
ベートーベンとかブラームスあたりはみんなそうだよ。いいメロディもってるよ。
植松:
すぎやま:
植松:
だからドラクエなんかはオーケストラでやっても子供が聞けるんですよ。
すぎやま:
ドラクエにしてもFFにしてもメロディ大事にしてるからそこに強みがあるでしょう。
他にもFFでは民族音楽的なのがありましたな。デデンッデデンッ…てやつ(笑)
植松:
すきやま:
だからそのうちトルコも出てくるぞ(笑) FFでは吟遊詩人というジョブがあるじゃない。
吟遊詩人がマップの中のトルコやアイルランドみたいなところへ行ったりするとそこの音楽を覚えて、
それを戦闘中に唄うと何かが起こるみたいなことがあれば面白いんじゃない。
植松:
すぎやま:
増えるね(笑) でも吟遊詩人というジョブがあるから使えそうな気もするね。
植松:
一度何かに絡めてやってやろうと思ってるんですけどね。
どうしても容量がそういう余分なところまで回らないんですよ。
すぎやま:
植松:
すぎやま:
ダンジョンも違う?そんな気もしたんだけど。
植松:
いや、ダンジョンという曲は1曲しか用意してないんですよね。他で使ってるのを使いまわしてるんです。
すぎやま:
でもなんかすごく多い気がしたな。
植松:
実際多いんですよね。飛空艇は1曲ですし、チョコボは2曲だし。
すぎやま:
チョコボはまた面白いね。あの音楽と動きを見事にシンクロさせてて良かった。
植松:
あそこらへんはプログラマなんかと楽しんで作ってましたよ。
すぎやま:
植松:
ヘタクソなやつが最後はコンサートピアニストぐらいにしてくれと言われたんで、
最初はメトロノームにも合わせられないようなところから始めて、最後はドビュッシーまで弾けちゃうんですけど、
あのドビュッシーの曲(月の光)をみんなあんまり知らないんで、ガッカリしちゃったんです。
すぎやま:
グリークとかチャイコフスキーのピアノコンチェルトみたいな方がコンサートピアニストみたいな気がするからね。
植松:
そうですよね。最後のが弱かったのが残念だったな。
すぎやま:
植松:
息抜きというやつですね。でも結構一生懸命やっちゃうんで、息抜きできなくなっちゃうんですけど。
すぎやま:
作ってる本人はいいんだよ。遊ぶ方は息抜きできるんだから。植松さんはドラクエは上がったの?
植松:
実は最後のダンジョンの手前でFFVのアレンジCDの仕事に入っちゃいまして、まだなんですよ。
すぎやま:
上がってないの!?
植松:
今日までに終わらせるつもりだったんですけど。
すぎやま:
僕は対談頼まれたときに、12月中だと聞いてそれまでにFFVを終わらせる自信ないって言ってたんだけど、
元祖プロゲーマーを称してるからには面目にかけても上がろうと、しゃにむにやって上がりましたよ。
途中でやんなっちゃうゲームだと上がれないけど、やってて楽しかったから相当寝不足になりましたよ。
植松:
今回はアマチュアの勝利ですかね。スクウェアのメンツって、単独で独立して音楽で食っていけるか、
絵で食っていけるか、企画で食っていけるかという連中がまだ1人もいないんですよね。
すぎやま:
植松:
いえいえ。平均年齢がまだFFチームでいうと25ぐらいなんですよね。
すぎやま:
ドラクエチームもそうですよ。皆さん若い。僕1人だけ飛び抜けてるんだ。
植松:
結局若い、何かやってやろうという奴らが集まってるんですよね。
そいつらが泥まみれになって一緒くたになって限度知らずの頑張りをするんですよね。
全てのプロの人がそうというわけじゃないんですけど、中にはお金と割り切って仕事をする方もいらっしゃいますよね。
そうするとある程度から先の気力とか頑張りを越すというのは難しいというのがたまにあるじゃないですか。
そういうことが5のチームには無かったんですよ。
とにかく最後の最後まで、〆切のマスターを任天堂に送る朝まで、どこまでできるかということをみんながやったので、
そこらへんの適当なプロの人を集めて作っても、ああいう気合いの入った作品は出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。
今になってやってみると、あそこをこうした方がいいというのはうのはいっぱいあるんですけど、
終わった時点ではもうこれ以上はできない、とみんなが思ってるんですよね。僕もあのときはそうでしたしね。
すぎやま:
結局世の中を見てると、FFにしてもドラクエにしてもそうだけど、
好きで好きでとことんまで頑張るという人が集まってるところのゲームがヒットしてるんだよね。
植松:
未だに処女だ。カレシがいたことはない。男性のいない環境に身をおいたことはないが、カレシがいたことはない。好きな人はいたしアタックもしたしデートもしたけど振られている。未だに処女だ。
人から聞くとどうにもセックスは「気持ちよくはない」らしく、「出し入れされている」感じらしい。
自分の身体は陰核を擦るオナニーが好きだ。棒を出し入れしてみても気持ちいいとあまり感じない。
周囲からは何故か変わり者扱い。かといって恋する相手は普通の相手なので私を相手には決して選ばない。私の見た目は可愛くもないしぶさいくでもない。化粧もするけどゲームも好きだ。
もうそろそろ処女であることが恥ずかしい年齢だ。他の人には処女だと思われていない。なんでか。
でも想像だけで人の話題についていくわけにはいかない。男の人の性器を見たことなんて、小さい頃一緒にお風呂に入った父親のものくらいなものだ。それももううすぼんやり。
そういう話題が苦手なのだと押し切るにはもうそろそろ限界があるんじゃなかろうか。
というか皆が私が処女だと気付き始めるんじゃないだろうか。
……このまま3040までいったら、女は妖精になれるのかな。
処女を捨てること自体はその辺のナンパについていけばいいんだから、簡単なんだけど、
ソフトウェア開発における名著とされる読みものがある。かつて、そういった著作のエッセンスをひたすら抜き出して黙々とまとめていくはてなダイアリーが存在した。2010 年代のことである。GoF のデザパタ本とか UNIX 哲学とかピープルウェアとかそういうの。ジュンク堂の本棚でいえば「SE 読みもの」というやつだ。業界に入って間もなかった当時の自分は、技術的な相談ができる大人が周囲にいなかった。いま思えば、残業中のオフィスで長いコンパイルを待つあいだ、ぼんやりとこのはてダを読み、目の前のやるせないソースや、所属するチームが置かれた状況について思いを巡らせながら、ガス抜き感覚でこのはてダを読む時間が好きだった。どの項目も歯切れの良い紋切り型の文体で読みやすく、読んでいるうちに不安のかたまりがスルスルと解かれていき、気持ちがラクになるような気がしたのだった。
その後、わたしがアラサーになるころには、そこで紹介されていた大部分の原著は書店で購入し物理的に所持するに至っている。あのはてダがなければ、本屋でも仕事関連の棚で足を止める人間にはなっていなかったのではないかと思う。その後、当時のはてダの内容を抜粋したものが秀和システムで書籍化され出版される運びになった。ファンだったわたしは発売をとても楽しみにしていた。が、本屋に並んだ書籍を手にとってみると、あのはてダにあった宝物のような輝きはすっかり失われていた。なぜかはわからないけれど、説得力が損なわれている気がしたのだった。書籍化の都合、はてダに貼られていた Amazon へのリンクが取り払われ、原著との接続性がいくぶん薄らいでしまったせいかもしれない。またこの書籍化に伴って、はてダも閉鎖されてしまった。もっとも新刊の売上にも関わるだろうし、あの「要約」は原著に対する網羅度がかなり高いもので、権利面ではかなりグレーなものだったように思うから、閉鎖されるのは当然の成り行きだったと言える。が、自分の成長期にあたる年代にあのはてダがあったことは本当にキャリアの上で助けになったと感じているし、原著を所持していてもなおあのはてダを参照したいという思いがあるくらい、とても優れたものだった。他人の「きれいなノート」を借りて勉強していたような感覚というか、そんなような。「新人に読ませたい n 冊の本」というタイトルのクソ記事がもはや春先の業界の風物詩になっているが、そんな記事とは段違いにもっと直接的に本が持つ価値を訴えてくるコンテンツだったのだった、少なくともわたしにとっては。
図解界隈というのが流行っていると聞いて、そんなはてダがあったことを思い出した。結局のところ「SE 読みもの」も自己啓発本に他ならないし、個人的に DDD
なんて宗教だとすら思う。それにしても「要約」がきっかけで世界が広がるとことは実際あるかもしれないよ、ということが伝えたかった。
・Sennheiser px 100 と同世代の数千円のイヤフォン からスタート。
・その後、スペックや能書きだけを頼りに、確かいくつか買って失敗している。 試聴できる店を知ってから、以降、自分の好きな音がするイヤフォンを買えるようになって、失敗しなくなった。
・MUIX IX3000 :とても好きな音がしたのだけど、脆くて、右か左か片方が聴こえなくなることが続いて、3本は買った。3本目が壊れて買わなくなり、いつの間にか販売終了していたので、1本は買いおいておけばよかったなと思っている。
・Final E2000:あまり記憶がなく、外出したときに紛失してしまった。
・ZERO AUDIO CARBO MEZZO:店で試聴していたときより、あまり良く聴こえなくなった気がして、使わなくなってしまった。そのうち、片方が聴こえなくなったけどなんだか捨てられなくて手元にある。
・intime 碧:今でもよく使ってる。音の解像度が高くていろんな音が聞こえるので楽しい。普段使いで流し聴きしても、のんびりしているときに音を拾うように聴いて使っても、どちらもいけてよい。
・SHURE SE112:Shure 掛けが苦手で、でも、店で試聴したときによかったので買った。 人の声より、そのほかの音がよく聴こえて面白いので、intime と使い分けしている。
・JBL E25BT:発売当時は人気過ぎて、色を選ぶ余地がなく、唯一売れ残っていた青を買った。おかしな色なので、鞄の底からも探し当てやすくて良かった。細く長く、今も使ってる。かなりラフに扱っているので、そろそろ断線しそう。ワイヤレス Bluetooth イヤフォンをぼんやりずっと探してる。
「パパ何やってるのって言われて清掃してる、清掃員って(笑)」
「清掃員だよ……掃除とか、頑張ったよ……」「あっ……」
一年が過ぎてもあの、人を見下した笑い声が耳から離れないでいる。職場について、制服を着込んでからはずっと聞こえている。早く脱ぎたくて仕方がない。なんの必要があって植えたのかわからない木の落ち葉を掃き掃除する時もそれは聞こえてくるし、決まりきったコースでぼんやりしながら掃除機をかけている時も聞こえてくる。
綺麗と汚いの違いがよくわからないでいるので、トイレ掃除だとか床のモップ掛けはそれよりももっと嫌だ。汚いと罵る上司が見本として便器を磨いてみせても、磨いた前と後の違いが全くわからない。洗ったはずの制服が汚いと言われるのも違いがわからないし、だいたいこの上司は俺が隠れてサボっているのではないかといつも疑っている。節電のために電気を半分消していると、スマホを見ているのを見つからないように消しているんだろうと、指示した当人が言ってくる。そんな上司当人よりも、ろくな教育も受けさせずにバイト同然の契約社員を無理やり管理職にした中小企業の方が嫌になる。サービス残業させようとしてくる上司を躱して帰ろうとすると、お前はいつも逃げるように帰ると罵られる。俺が逃げているのはあの声からだ。たとえ寝る間際になって、急にあの声が聞こえてきたとしても、仕事中よりは幾分マシだからだ。
こんな仕事を9年も続けているが、奴らにとっては9年も20年も変わらないだろう。冷笑され嘲笑される対象は俺だ。俺が最低賃金で働いている間に奴らはあの、俺を嘲笑した笑い声一つで10万円近く軽く稼ぎ出している。あれがそう、というよりもだいたいのレイシストがそういうものだ。ちょっと謝罪して、ほとぼりが冷めるまで火事場から遠ざかり、戻ってきたらほいほい稼ぎ出し、一年が過ぎればもう誰も覚えていない。覚えているのは俺くらいだ。いつだってレイシストというのは自分のあざ笑った人間のことをすっかり忘れて、俺の関係のないところで楽しく暮らしているのだ。
そう。結局彼女達はこの世に沢山いるレイシストの中の1人に過ぎず、たまたま彼女の声が他のレイシストよりもでかかっただけなのだ。あの笑い声が聞こえるのは、そもそも本当に一年前だったのか?俺は気が付かないふりをしていたのだ。俺が清掃をしている様を横目で見ている利用者達や職員の、見下したような目を。あの声を俺は本当のところ9年前からずっとずっと聞いてきたんじゃないか。初めて聞いた時からあの嘲笑は聞き覚えのある声だったじゃないか。世間一般的に清掃員という職業が見下されているのだから、その一般的な見解として奴らは清掃員のことをヘイトしていたに過ぎない。
エッセンシャルワーカーに感謝をみたいな運動を見た時、俺はNYのアジア人差別反対運動を思い出した。差別されているから急に感謝を。なんて言い出すのだ。医者に感謝を、運送業に感謝をとか言いながら、ドアを開けた途端消毒スプレーかけてきたりするような話などを聞いたりしても、関係ないのに俺がやられてるように思ったりした。俺なんぞに共感されても運送業もアジア人もいい迷惑だろうけど。だから通行人にありがとうとかお疲れ様とか言われても、つまりそれは自分が上の立場の人間だと思って、見下しているから出る言葉なんだろうななどと思ったりする。こんなことを言うと被害妄想だと思われるかもしれないが、どういう人間を見ても清掃員を本当は見下しているんだろうなという風にしか思えなくなってしまった。実際一回年寄がなんか君達のような若い底辺の人々が頑張ってこそこの国は云々とかなんとか話しかけてきたことがあったし。全く悪気もないような風でそんなこと言うんだもんな。
こんな風に思うのは何より俺自身がこの仕事を、自分自身の行っている仕事を見下しているからだ。こんなゴミ箱のゴミを集めて掃除機をかけてなんて小学生でもできるような仕事をして金をもらっている。俺1人がやるより本当はあの働いている沢山の職員が10分かそこら手を動かせば終わってしまう、必要のない仕事だ。本来は俺に配っている予算なんぞ削減して自分達でやればいいのだ。そんなに自分の手が汚れるのが嫌なんだろうか。実際のところ俺はお前らのこと皆汚いと思っているけど。毎日捨てられる紙ゴミプラごみ生ゴミ腐った食い物ゴミ箱に貼りついて離れないテープ、人間の体から出てくる糞手垢脂髪の毛、あらゆる汚らしいものを拾い集めていれば、同じように人間は汚いのだということがわかる。この職についている人間ならばそんなことは一番はじめにわかることだ。
元々俺自身が俺の仕事と、そんな仕事についている俺自身を見下しているから、周りの人間が同じように俺を見下しているように見えるし、実際に見下している人間が現れることで答え合わせが済んでしまったような形になってしまったのだ。もう俺には周りの人間が全員雪花ラミィに見えるし、尾丸ポルカに見えるし、獅白ぼたんに見える。こういうとただの被害妄想だという風に他人は言うだろうけど、しかしレイシストとそうでない人間の見分けなんてつくのか?僕は見下していませんとか言われても、それをどう証明しろっていうんだ?
だけど俺にはそうやって周りの人間を憎んだところで何もできやしない。もしも俺が自分を見下した奴らにテロしてやろうと、マスクもせずに街に繰り出しコロナをもらったとしても、仕事場に出れば透明の手袋やマスクを付けさせられ、職域接種により耐性をつけた職員達にはウイルスが届くことなく、俺だけが誰もいない部屋で死ぬことになるだろう。感染対策で守られているのは俺ではなくあいつらなのだ。
できることは精々増田に駄文を書き連ねて、世の中に忘れるな忘れるなと囁き続けることだけだ。世の中に雪花ラミィ、尾丸ポルカ、獅白ぼたんという名前を見た時に、こいつは10月2日に清掃員をヘイトしたVtuberだなと認知させることくらいだ。後はこの文章を世の中に存在する無数の雪花ラミィ、尾丸ポルカ、獅白ぼたん達に送りつけて、俺が増田であり匿名でありAnonymousである限り、俺はお前達の近くにいるぞ。お前達を憎んでいるぞと伝えることで、ほんのわずかに不愉快な気持ちにさせることくらいのことしかできない。10月2日、明日はお前達が俺をヘイトした一周年だ。
俺はいるぞ。お前達の使っているあらゆる建設物の中に俺はいるぞ。お前達を憎んでいるぞ。磨かれた床を見るたびに思い出せ。ゴミ箱を見るたびに思い出せ。お前が忘れても、俺だけはお前のことを忘れはしないぞ。
年内に初めての子どもが産まれる。夫は男の子を切望していた。早くから決めていた名前が旦那の名前から一文字取ったものだったが「そういう名前の昭和の漫才師がいたよね」ってやつだった。その上、夫だけでなく、夫の弟、私の父、兄と漢字や響きがかぶりまくっている。名前の話しになるとやんわり、他の候補は無いの?と促したが、夫は自分で考えた名前が非常に気に入って、頑として聞いてくれなかった。でも子どもを欲しがったのは夫の方なので、折れることにしていた。
しかし、お腹の子どもはどうやら女の子の可能性が高いことが最近分かった。「女の子みたいだよ」と伝えるとあからさまにガッカリされて「女の子の名前なんて分からないから、お前が何か考えて」と言われた。これだけでもまーまークソ案件。
私は、所謂キラキラネームは絶対いやだけれど、程よく今時の名前がいいなぁとぼんやり思っていた。胎児ネームで使っていた名前の響きが気に入っていたけれど、そのままでは人の名前としてどうかな?といった感じなので、1文字だけ変更したもので考えてみた。調べてみたら1〜2年前の女の子の名付けで多かったランキングで上位に入っている名前だった。今時の名前というのもクリアできたし、多いということはキラキラネームでもないなと確信した。漢字の各数も他の色々考えた候補の中で群を抜いて良かった。男の子の名前の時に各数にも拘りがあった夫だから、これなら気に入ってくれるだろうと思っていた。
そうしたら「そんな名前いやだな…」と言われた。どこが?と聞いたら、「名付けで多いなら、周りにいっぱい同じ名前の子どもがいるから」とのこと。「じゃー何ならいいの?自分で考える?」と聞いたら「わからん。女の子の名前なんて分からん(調べもせずに言う)」何度か、やっぱりあの名前気に入ったんだけれど…と聞いても「わからん」「好きにしたら」「でも多い名前は嫌だ」としか言わない。
そんなにも変な名前かな…と思って周りに相談したら「かわいい」と言ってもらえた。その相談をしてる時に友達が「他と名前かぶりたくないとかって、キラキラネームの入口じゃん」って言われて、本当だ!!と思った。
男の子の名前の時、正直夫の案が嫌だったけれど、夫は私の意見なんて無視してその名前にしようとしていた。自分がやってたことじゃん。「好きにしたら」というお言葉も頂いているので、好きにさせて頂こうと思う。
時間が経って気持ちが落ち着いたのか夫は最近、女の子もかわいいでしょ?と聞いたら、そうだねと答えてくれるようにはなったけれど、産まれる前からこんなにも考えにズレがあってちょっとしんどいなと思った。10年くらい一緒に居るので、今更こんなにズレがあるなんて思わなかった。思わず吐き出しに書いた。
この度はあらゆる方にご迷惑をお掛けすることとなり申し訳ございません。
誰にも迷惑をかけず、誰にも存在を認知されないまま消えたかったです。
誰にも心を割けず、人に迷惑を掛けるだけの価値のない存在でした。
本当にすみませんでした。
仕事が忙しく自分の責任能力のなさと矮小さで死を考える癖がついてしまいました。
退職直前には既にまともな思考力がなくなっていたのだと思います。
それから個人で受けた仕事も家のことも碌に手がつけれず風呂にも入らず、いつ死ねるのかどうすれば迷惑を掛けず楽に死ねるのかばかり考えていました。
友人が家に来てくれた時もありましたし、とても心配掛けました。
ほっておいてほしい気持ちと、私が鬱々とした状況に心を痛めた友人を見て許された気持ちになりました。
他人がどう思い、嫌な気持ちになるかが人一倍欠落し、自己中心的な人間なのだと思います。
死ぬ失敗と死後の迷惑がちらついて、情けなくも怖くなりました。
自殺した人が偉いとは一切思いませんが、行動に移した度胸は尊敬します。
自殺について調べた際気づいたことは、こころの相談ダイヤルに救われるなら今年だけで14000人も自殺していないです。
死ぬことも責任も放棄した全ての言い訳をみっともなく残し、自らデジタルタトゥーを彫りました。
これを書いている今も誰かに助けてほしいわけではなく、きっとどうにか自分で出来るだろうと過信している自分がいます。
一先ずここで一度、私は私を殺します。
/////////////////////////////////////////
【追記】
自殺するつもりなわけでもなく、何か起きるかもしれないので残します。
相手もいません。
なので後悔はしていません。
前職に勤めていた頃から退職後しばらくまで、その頃の自分の精神状況は非常におかしかったと思います。
本業と同時に、友人の仕事請け負いをしていたのですが、当時勤めていた仕事が非常に激務で段々と気づかない内に自分の考え方や精神の在り方が崩れていったのだと思います。
本来の仕事と友人からの仕事、自分なら両立できると思っていましたが、自分が弱く計画性もなく、楽な方に逃げた結果、友人からの仕事は手を付けれない状況が続いていました。
しかし、退職する目途が立っていたので虚偽の進捗連絡をしました。
退職さえすればどうにかなるだろうと思っていました。
そして約半年で退職を迎えましたが、その頃にはおかしくなっていました。
自分が入社してからスタートした案件だったのですが、社内で対応できる人間もおらず、ほんのわずかな知識しかなく実績もない自分が担当となりました。
自分は人前で話すことが得意ではなく、注目を集めた状態で人前で話をすると頭が真っ白になったり声が震えたり、頭や手が痙攣したようになってしまうので精神科に通ったこともありました。
しかし自分の業務は打ち合わせ等が比較的多く、確実に負担になっていました。
件数が増えると外注先が対応しきれない案件のフォローも増え、回しきれない業務による残業・ストレス諸々で逃げ出したい気持ちが大きくなりました。
そこで初めて自殺を考えました。
朝起きる度、自殺がちらつく日が続きました。
風呂にも入らず、外にも出ず、家事も手を付けず、食事は宅配で済ませ重なる出費、前までの自分ならやばいと思えたこともどうでもよくなりました。
どうせ自殺するし今日しなくていいや、という投げやりな考え方をするようになりました。
結果、ありませんでした。
マンションでの自殺・電車飛び込みは損害賠償費が発生し迷惑になるのでNGです。
いのちの相談ダイヤルとかいうクソの役にも立たないものが出てきて少し嫌な気持ちになりました。
結果、繋がりませんでした。やっぱりクソです。
ですが死ぬぞ死ぬぞと考えて数カ月経ち、いい加減死ななきゃと思い紙ごみ用の紐を首に巻き付けてドアに掛けました。
30秒もしない内に喉が辛くなり紐を外してしまいました。
結局、私は死ぬ度胸はありませんでした。
そうなると生きるしかないので、これからどうするかぼんやり考えました。(※)
そうこうしていると虚偽申告を続け連絡を絶っていた知人の仕事について、催促の連絡が届きました。
最終的に弁護士を挟んで損害費用を請求するとも伝えられました。
本当に申し訳なかったので借金をしてお金を送りました。(今はリリースしているのを知ったので申し訳ない気持ちは消えました)
この知人が同級生なので、それから他の同級生とも連絡を取っていません。
また、同時期べつの界隈の友人からも依頼をされていたのですが、こちらも逃亡。
どん底なのでこれ以上気持ちが下がることはなですが、上がることは二度とないと思います。
他人と関わると誰かの迷惑になるので、誰とも関わらないように生きていきます。
(※)のタイミングで仕事を探していたところ、就職できました。
借金は年内に返す予定です。
これ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGKKZO76055910V20C21A9EA3000/
日頃「弱者を助けよう」「格差をなくせ」「所得再分配強化を」との論調が強く、ネット言論空間の中においては比較的リベラル寄りなはてなぁだが、蓋を開ければ御覧の通り。
ご存じの通り日本の平均年収は436万円、中央値は男性425万円、女性315万円。
年収1000万円以上は人口の4.3%、世帯年収1000万以上は12.1%、である。
にもかかわらず、
に も か か わ ら ず、
「都民の支持を得るなら1500万は欲しいし地方でも1000万は共働きの天井になってしまうには低いと思う。」
だ と ?
世帯年収1000万超は中間層ではありません、上位12%の富裕層です。
年収の中央値から言っても300万~1000万あたりが中間層ではないでしょうか。
「持てる者」として「持たざる者」に富を分け与えて然るべき存在なのです。
結局のところ、はてなぁはイイ人ヅラしたいからリベラルを気取っているだけなのだ。
己の身を削ってでも格差をなくしたいだとか弱者を救いたいだとかは思っていない。
(自分以外の誰かが救ってくれたらいいなあ…”自分より”めぐまれてる誰かが身を挺して救うべきだ!)とぼんやり思っているだけ。
だから富を差し出せと言われた途端、「いや、それはちょっと…」と言い訳をせずにはいられないのだ。
テーマは深刻なんだけど、ジョニーデップの持ち味の出た、面白い映画だった。
どうでもいいことだけど、昔からなぜか、
ジョニー・デップのことをしょっちゅう、ジョニー・ディップと言い間違えてきた。
これは、バングラデシュのことを、バングラディッシュと言い間違えるより恥ずかしいことだと思っている。
そのジョニーデップが写真家ユージン・スミスを演じる?というのが、
パイレーツオブカリビアンのイメージがこびり付いた身には全く想像がつかない。
興味本位で観に行ったら、本人としか思えないユージン・スミスぶりに、おお、と感動してしまった(あったことはないけど)。
ユージン・スミスのことは、というと
この映画を見るまでほとんど何も知らなかったので、どういう背景があって、あの写真が生まれたのか、垣間見られてちょっと感銘を受けたりもした。
映画で描かれているユージン・スミスは、アル中で薬中。過去のいろいろで、メンタルをやられて写真家としてのモチベーションがどん底にあった頃のユージン・スミスだ。
一方、フォトジャーナリズムを標ぼうしたものの、売上が上がらず、次第に、魂を売るかのような大衆迎合的な記事や広告を載せ始めた、落ち目の写真誌「ライフ」が背景として描かれている。
ピューリッツァ賞を夢見て起死回生を図るべく、次の目標に選んだテーマが、当時、世界のあちこちで問題化し始めた公害だった。
当時、すでにMINAMATAの名は世界でも、
日本の辺境の地で奇病だの猫踊り病だのと言われ、長い間、対応がなされず蓋をされ続けてきた公害として知られていた。
この映画は、写真家として再起を図るユージン・スミスと逆転ホームランを狙う写真誌が、水俣病に目を付けるところから始まる。
いやー、こういう不純な動機、構図。なかなか良いと思う。
水俣の記録ドキュメンタリは、これまでも土本典昭やNHK、いくつかみたことがあったけれども、この目線はいままでなかった。
この映画の見どころはなんといっても、ユージン・スミスの写真家として、親としての葛藤を描くジョニーデップの演技。
日本にきたものの、途中でやる気をなくして投げ出してしまい、大切なはずのカメラまで現地の少年にあげてしまうシーンとか。
ただ、残念でならないのは、ロケ地。
違和感があったのでググったら、なんと日本ではない。観終わったあとに読んだ町山智浩のコメントによると、セルビア・モンテネグロなのだという。
どうりで、海のシーンが逆光でぼんやりしているものが多かったわけだ。
漁民も、漁民たちが扱う魚も、明らかに違和感ありまくりで、端的に貧相だった。違うだろ。。もっと豊かな海を描いてほしかった。
あと、土本作品へのリスペクト、というのもひそかに注目していたのだけど、
まあ特にないのかな、という印象だった。
過去の記録映画を観ていれば、モデルが誰なのか、すぐにピンとくる。
ここはやはり、あれだろう、船頭小唄だろう、と思ったのだけど
そのかわり、ユージン・スミスになついて、カメラに興味を示し、撮って遊ぶ天真爛漫な少年が描かれている。
しかし、考えてみれば、船頭小唄なんぞ奏でようものなら、そのメッセージ性が強烈すぎて、
物語を邪魔してしまうだろうから、日本の観客向けにはむしろないほうがいい、ということかもしれない。
映画のクライマックスは、水俣病の歴史で欠かすことのできない、大きな事件である、チッソ株主総会。
そこからの流れはとてもテンポがよく、裁判によりチッソが補償を決定するまでの激動の動きが、
ユージン・スミスのもっとも有名な写真である、「入浴する智子と母」の撮影シーンを織り込んで進んでゆく。
國村隼演じるチッソ社長が人間味があって、いい味を出していた。土本作品など過去のドキュメンタリ映画ではなかなか見ることのできなかった加害者の視点、被害者と向き合い補償を決断するチッソ社長の描かれ方は映画ならではであり、圧巻と言わざるを得ない。
見事な演出だと思う。
NHKアーカイブスでも視聴できる有名なチッソ株主総会は、1970年。
スミスが乱闘に巻き込まれて負傷した事件は翌年の東京本社での事件なので史実とはちょっと違うが、
映画は、1973年、チッソが補償を決断し、川本輝夫(映画では真田広之演じるミツオ)が裁判での勝訴をかみしめるところで終わる。
その後の水俣病の動きはわずかにエンドロールで触れられているに過ぎない。
この映画は、ベースの設定が雑誌ライフの復活とユージン・スミスの再起というテーマを背負っていたため、
チッソが責任を認め、補償に応じる、という、ここで終わりになるのは、それはそれでエンタメ的な収まりどころ、なのかもしれない。
しかし、現実の水俣病の歴史は、ある意味、まさにこの裁判勝訴と、それに続くチッソの補償協定とを契機に、
チッソVS被害者団体という構図から、経済優先で被害を黙認する行政VS被害者という構図に大きく変化してゆく。
この映画が第2幕の終わりだとすれば、第3幕はスーパーヒーロー不在の、果てしなき国との闘いだ。
チッソの社長が除去された水をコップで飲んで見せたことで有名な、有機水銀除去サーキュレーター。
効果がないのを知りつつ黙認してきた通産省を筆頭に、高度経済成長を錦の御旗に被害に蓋をし続けてきた行政の悪業が明らかにされてゆく。
最終的に国の規制権限を行使しなかった責任が最高裁で認められたのは、それから四半世紀後の2004年。
さらに一方で、1973年の被害者の勝訴判決は、チッソの患者への補償の契機となったものの、その補償協定そのものが、地域社会の新たな分断の出発点ともなった。
補償をするためには、患者が症状によって定義される必要があるのは自明の理だが、補償協定の1600万円を受け取るに値する症状という形で定義・整理されてしまったのだ。
そこに絡んでくるのが厚生省と当時の環境庁だ。国の定める、公健法上の患者認定基準が、チッソと患者団体との補償協定の要件に連動してしまったのだ。
どういうことかというと、国は広範囲に患者認定を推進するため、公害健康被害補償法により水俣病被害者の認定制度を創設したが、
そこで認定された被害者は、73年に本来は一部の患者団体と締結した補償協定の適用を受けることが認められ、1600万円を受け取ることができるようになる、という仕組みだった。
しかし、1600万という高額の補償が、結果的に、チッソの補償能力を超え、被害者認定の足かせとなってしまう。取りこぼされた多くの被害者が今日に至るまで苦しんでいる、というのが、
映画のその後の世界なのだ。2004年に最高裁が被害者の要件を国の認定基準より緩く認定した、にもかかわらず、だ。
そして国の重要産業である化学工業、そしてチッソの賠償破産を食い止めるため国や県が金融支援をし続ける、という構図がこの映画の後に待ち構えている世界だ。
国は当然、実態調査、疫学的調査に消極的で、というか一度もなされたことがない。
その意味では、映画のエンディングシーンである勝訴判決は、実は新たな闘いの出発点ともいえるのが水俣病の歴史だ。
そのことを思い返しながら、映画の話に戻ると、この映画の残念なところは、以下の点。
・風景が日本でない、不知火海が見えない、漁民がいまひとつリアリティがない
・写真家、出版社、一部の被害者闘争のリーダーという限られた構図で、実態解明に尽力した熊大や問題を放置した行政が出てこない
・だから、なぜ原因企業が折れて補償に応じたのに問題が解決しないか、みえてこない→多分世界中の公害で類似のことが起きているだろう。
・エンドロールで見せている世界の公害にリアリティを与えるためにはやはり行政の視点をどこかに織り込まなければならなかったのでは。
ただ、だからといってつまらない映画では決してなかったし、満足感は高かった。みようによっては、セルビア・モンテネグロにしちゃあ頑張って日本の漁村を描いた、ともいえる。
ジョニーデップのクズっぽいキャラは最高に楽しめたし、撮影に至るまでの信頼関係の醸成など背景がみえたのは、この映画の見どころだ。
(追記)
いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。