はてなキーワード: サブカルチャーとは
AIさん、また自信満々に嘘ついてない?
ジェンダー:15回
ジェンダーバイアス:1回
男女共同参画:8回
25回(ジェンダー平等2回、ジェンダー視点3回、ジェンダー問題0回、ジェンダーバイアス1回)
人文社会科学系のGender Equality Matters ─日本学術会議総合ジェンダー分科会第24期の成果から─
「学術支援・研究職」の現状と課題 ─ジェンダー視点からの検討─
「卵子の老化」が問題になる社会を考える ─少子化社会対策と医療・ジェンダー─
若手研究者養成とジェンダー ─人文・社会科学領域における女性・若手研究者養成の支援―
減災の科学を豊かに -多様性・ジェンダーの視点の主流化に向けて-
教養教育は何の役に立つのか? -ジェンダー視点からの問いかけ-
日本のジェンダー平等の達成と課題を総点検する -CEDAW(国連女性差別撤廃委員会)勧告2009を中心に-
8回(特集7件)
日本の戦略としての学術・科学技術における男女共同参画 ―「第4次男女共同参画基本計画」との関わりで―
男女共同参画の一層の推進に向けて
どこまで進んだ男女共同参画
2回(ジェンダーと1件重複)
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
中途採用でECサイトの業界に入った。二十代半ばの頃である。外資ということで緊張してたけど、意外とそうでもなかった。
厳しい社風ではあったが、それはルールや数字に厳しいというだけであり。自社のポリシーや規則に従って行動していれば、結果が悪くてもそうまで低い評価が付けられることはない。
もっというと、上の意向をしっかり確認して動くということか。いや、違うな。ちゃんとした意思決定の過程を踏むということだ。上の判断が必要なら議論をし、委任事項であれば自分の責任で物事に挑み、失敗しても成功しても検証記録を残していく。これだけのことができずに消えていく人間を何十人も見てきた。
語りが過ぎた。私はeコマース(ネットでの買い物)の世界で長い間働いてきた。実はもう転職が決まっている。記念に、これまでの努力の過程を書き綴っておきたいと思った。ちょうど今は卒業シーズンである。
ただ、努力はしたけれども、いい結果が出ないことの方が多かった。もしくは結果自体の測定ができないか。それでもいくつかの改善はできた。その一部を記していきたい。
私の専門分野はレビューシステムだった。あなたも、ECサイトで★を付けたことが一度はあるのではないか。私は、そのあたりの仕組みやルールを作っていく部門で働いていた。SE寄りではなくて、インフラ寄りでもなくて、格好よくいえば社内Sler兼企画といったところか。
これから、何点かのトピックに分けて思い出深い改善活動について述べていきたい。なお、特定の用語を出すとどこの会社かわかってしまうので、専門用語は一般的な言葉に置き換える。例えば、あるレビューにクリック等で賛意を示すことは「いいね!」で統一する。
昔は、ある特定のレビュアーへの通報が多かった。違反報告か、問い合わせ窓口(TEL,mail)を通じて、「あのレビューは誹謗中傷だ」「特定個人の名誉を傷つけている」「製造メーカーへの粘着が見られる」「差別的な表現を用いているので削除すべし」といったものが多かった。確かに、通報先のレビューを読んでみると、大変よろしくない表現が散見された。
当時は、電話によるカスタマーサポートがあった。その窓口に、正義感を持った方々が、上記の善くないレビュー及びレビュアー(bad egg)について抗議していた。
こういった問題あるレビューについて、私がいた部署では対応が必要と考えていなかった。直属の上司も、さらに上の人間も、どの国にも地域にもいる悪口をたくさん言う人としか捉えていなかった。
しかし、私や数人のチームメンバーは、彼ら悪辣なレビュアー(bad egg,bad person)の行為が、サイト全体の害になると考えていた。具体的には、次のような行為を彼ら(彼女ら)は行う。
・商品をわざと口汚く罵り、マイナス評価や罵倒コメントが付くことを喜んでいる
※アニメや漫画、小説といったエンターテインメントに多く見られる
特に、一番下のタイプの顧客の場合、サイト利用者に不愉快な印象を残す可能性が高い。対処が必要と思われた。
しかし、データがなかった。上司にある対策を提案した際に言われたのは、「今あなたがしようとしているのは、私の権限を超える行為であり、本社への協議も必要である。主観ではなく、根拠を示したうえで提案せよ」というものだった。
それから半年以上かかったものの、私とその小さいチームで初版の検証資料を作成した。それは、次の結論から成り立っている。
・悪辣なレビュアーと論戦になった顧客は、その後半年間での実質退会率が高い
具体的なマイナス幅を提示することはできないが、統計学上、数パーセント以上という有意な範囲で顧客にマイナスの影響を与えていた。当然売り上げも落ちている。
悪辣なレビュアーは、一般的な顧客とレビュー内容を巡って論争(※当時はコメント機能あり)になった際、いわゆる煽り行為をする。その口汚い言葉が顧客を傷つけ、顧客体験を棄損してしまう。そんな当たり前のことに気が付くのは容易だったが、数値的に証明することは難しかった。
私たちの検証結果は、上の階層へと引き継がれた。さらに細かく検証するという――それから数ヶ月が経って、本社の方から通達があった。
「次のとおりレビューシステムの仕様変更を検討する。そちらの考えをまとめて回答せよ」とのことだった。以下は仕様変更案の参考文面である。
‐改善案‐
「参考にならなかった」のコンバージョンボタン(Conversion Button)の廃止を検討する。
理由:悪質な利用者が一定数いることで顧客体験を損ねている。顧客がより安全にショッピングを楽しむためにも、悪意をもって低評価をする者への対処が必要である。
私たちは、その通達と、添付されていた検証資料を読んだうえで、時間をかけて再検証を行い、廃止は正しい行為であるという回答を上申した。
加えて、現状のレビューシステムにある顧客同士で討論できるコメント機能についても、建設的な議論が行われているとは言い難い状況にあることから、廃止を提言した。
積年の課題だった。残念ながら目下解決には至っていない。不正レビュー根絶の目途もつかない。明白な違反者であれば発見・処分ができるのだが、グレー段階での処分は難しい。
実際に、不正を行ったと思しき者を見つけることはできる。AIが発展した現在だと、いわゆるサクラレビューと呼ばれるものはシステムの方で自動的に発見し、一定確率で怪しいものを報告してくれる。
昔は、一件一件手作業であったり、Excelのフィルタ機能を組み合わせるかのように検索条件を設定して虱潰し(shirami-press)に見ていく必要があった。
そう、不正行為と思しきレビューを見つけることはできる。あくまで見つけることは。だが、はっきりクロだと断定し、処分を下すのは人間にしかできない。1日につき何十件、多い日だと百件以上も上がってくる不正と思しきレビューに対応するのは不可能に近い。
多くのECサイトには、利用規約や社会倫理に反する行為をする利用者(販売者、注文者、閲覧者)を処罰するためのポジションが存在する。弊社においても当然あったが、少数精鋭が過ぎて不正レビューへの対応が後手に回っていた。
不正を見つけることはできても、処分することは難しい。冤罪があってはならないのはもちろんのこと、微妙なケースである場合も、利用者が今後弊社を利用してもらえるよう最大限配慮する必要がある。
はてなのサービスでいうならば、以下の利用規約の適用に係る取扱いが最も近い。
d. 迷惑行為、嫌がらせ行為、誹謗中傷行為、正当な権利なく他者に精神的被害・経済的被害を与える行為
e. 自分以外の個人や会社、団体を名乗ったり、権限なく特定の会社や団体の名称を使用したり、架空の個人や会社、団体を名乗ったり、事実がないにも関わらず他の人物や会社、団体と業務提携や協力関係があると偽ったりする行為
私は、学生時代からはてなのサービスを利用している。はてな匿名ダイアリーにおいては、この規定を制限的に運用しているように見える。
というのも、明らかに釣りと思われる投稿をしたり、他人になりすましたり、特定の企業や団体を匂わせる文書を発しているエントリが一定数みられるが、運営が規約規範として対処している様子はない。
推測ではあるが、99%のクロであっても、それが100%でない限りは対処しないという方針であろうと思われる。冤罪を避ける意図もあるが、意見の多様性を保持するためでもあるし、はてな匿名ダイアリーをひとつの実験場として捉えているのかもしれない。当方は、増田なる場所を蟲毒のひとつであると考えている。
話を戻す。レビューに関する不正行為について――その大半がサクラ行為であるが、不正行為の抽出までは技術的に自動化できるものの、最終判断は人がせねばならない、かつ間違いがあってはならない――という課題について説明した。
ただし、今のところはそれで問題ないと個人的に考えている。というのも、不正レビューへの対処が迅速ではないというだけで、悪質な行為をする利用者を取り締まること自体はできているからだ。技術が向上すれば、今後の改善も見込まれる。
今でも、ECサイトを覗いているとサクラレビューが多く散見される。会社を去って他業界に行く自分がいうのもどうかと思うが、今後も建設的な手段により不正行為への対策が効率化される未来を願っている。
多くのECサイトでは、役に立つレビューを行った人に賛意を示すことができる(冒頭の「いいね!」ボタン)。多くの点数がついたレビューは、商品欄において上位に表示されるようになる。
どのECサイトも、できるだけ多くのレビューを投稿してほしいと考えている。世の中の儲かる商売というのは、消費者に働いていただくことで成り立っている(GoogleやTwitterが典型例。もちろんはてなもそうである。運営会社はブロガーの生産活動によって生きている。ほかには食べログ・リクルート・メルカリなど)。
過去の弊社においても、どういった仕組みを採用すれば多くの利用者にレビューを書いてもらえるのか、サイト黎明期の先達は検討に検討を積み重ねた。
結果として、レビュアーランキングシステムという、今では各社で一般的になった仕組みが誕生した。かつてECサイトが未開の荒野を歩いていた時代の発明のひとつである。
永きにわたって活躍したランキングシステムだが、今では隔世の感が否めない。レビュアー同士の競争を促進することで、より多くの良質なレビューが生まれるという判断があったが、それは一企業人の錯覚に過ぎなかった。一企業においても高度の統計分析が可能となった現代において判明したのは、その役割を果たさなくなっていることである。
「レビュアーランキングの存在によって、自らの票を集めることのみを目的としたレビューが増える。初めは良質なレビューを書いていた利用者でも、ランキング上位になった後にレビューの質が低下する傾向にある」
ある時、自分の書いたレビューがバズったとする。それは、有名な映画か小説か漫画かアニメか、化粧品か家電製品か衣服か、はたまた書籍か、なんでもいい。自分のレビューが数百人からの「いいね!」を集めたとする。その後も良質のレビューを投稿し続け、同じような体験を繰り返したとする。そして、あなたは晴れてレビュアーランキングの相当上位に昇った。あなたが投稿したレビューのどこかに、それを示すバッジが掲示される。
さて、晴れて上位レビュアーとなったあなたであるが、その後に何もしなかった場合、順位は落ちていく。数ヶ月も何もしなければ、まず確実にバッジは剥がれる。元に戻るのだ。
それが嫌なレビュアーもいる。上位レビュアーでありたいがために、関連商品にとりあえずのレビューをいくつも投稿する。人の目を引くために過激な表現を使うし、ゴシップサイトさながらの低俗な言葉遣いをすることもある。また、省力化のため、自己や他者のレビュー内容の一部を借用することがあるかもしれない。
上記の調査研究において、上位レビュアーによるそういった傾向が明らかになった。特に、サブカルチャーにおいては顕著であった。
【具体例】
・新作アニメの公開時期になると、数行程度のレビューを無差別に付けて回る
・水平展開するコンテンツ(原作→アニメ、小説、映画、舞台etc)の各所に似たレビューをする
現在では、レビュアーランキングシステムは廃止されている。上に挙げたようなマイナス効果の方が大きいというのが、社内の統一された意見となった。
レビュー自体については、今後も廃止されることはないだろう。私自身も、レビューの調査研究を続ける度に学びになることがあった。人の親愛の興味深い傾向(ex.数千字にわたって自分の家族の話をする)であったり、笑いを狙ったユーモア(ex.ヘッドフォンの音質は、元の電源によって異なる。原子力発電か火力発電かソーラー発電かを聞き分けられると一人前)であったり、その道のプロと思われる学術的なレビュー(読書カテゴリに多い)も多数拝読した。
日記は以上である。懐かしい思い出を振り返る機会ができてよかった。年度末ということで、新しい職場に移る前に買き始めておきたかった。投稿はゴールデンウィークになってしまった。
次の職場も、一般企業と各消費者を結びつけるタイプの仕事になる。フリマアプリの会社である。残念ながら、自分の仕事を通じて、どれほどの顧客体験を社会にもたらしたのかを測定できる手法は未だ確立されていない。私が生きているうちに、そういった手法が生み出されることがあるのだろうか。
最後に、ここまでお読みいただきありがとう。今後、あなたが利用した商品をレビューしたことで、そのサイトでショッピングをする何千、何百万人という利用者が喜ぶ未来を祈っている。
大人がアニメを見たり漫画を読んだりするのは、かつて命がけの行為だった。
世間にオタク趣味がバレるということは社会的な死を意味していた。
これは誇張でもなんでもない。
俺のオタクの友人のひとりは、勤め先でオタク趣味であることがバラされて会社に居づらくなり転職を余儀なくされた。
当時は転職市場もそれほど育っておらず、待遇を下げに下げて何とか新たな勤務先に就職することができていた。
「自分の好きな趣味を他人と分かち合う」なんてごく当然の喜びをほとんど一切経験できないまま孤独に過ごしてきた。
年に1度か2度あるかないかの、僅かなオタクの友人たちとの交流の時だけが自分の人生の喜びだった。
それが今ではどうだ?
新海誠の映画が100億以上も売れる。進撃の巨人なんてグロ漫画が国民的傑作ともてはやされる。
一体なんなんだこれは?
かつて俺達が隠れながらなんとかひっそり楽しんでいたサブカルチャーをいまの若者は当然のような顔をして楽しんでいる。
先日、職場に入ってきた新卒が自己紹介で「私は漫画やアニメが好きです」と言っていた。
課内の全員に向かってだ。
「流石に職場の自己紹介でそれを言うのはどうなんだ」と後で説教してやろうと思っていたら、別の新人も「私も実はオタクで漫画やアニメが好きです。もし好きな人いたら一緒に語りましょう」なんて言いやがった。
その新卒どもは昼休みに集まって飯を食いながら葬送のフリーレンやチェンソーマンの話をしてやがる。
許せない。許せない許せない許せない。
かつて世間のみんなは言ったじゃないか。いい歳してアニメを観たり漫画を読んだりするのは恥ずかしいことだと。
Wikipediaにはブランディングされライト化、大衆化、陳腐化してきた経緯もちゃんと書いてあるじゃん
世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し[26]、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“
原田曜平は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある[28]。
また、日本政府が観光資源の一環として、国策で「クールジャパン」戦略を行うようになったのも2010年代からであり、迫害から一転し、おたく文化は政府お墨付きの“体制側”の文化になったとも言える。
昔の日本の様子について調べるとフェイク動画、偽情報にあふれていて
どれが本物か見分けがつかない
ネットの有志で本物か偽物かラベリングしていく作業が行われているが
東京の平成館という場所にはフェイクを完全排除した昔の映像コンテンツがあるらしいが
最近の若者はAI汚染が進んでいて、平成世代の昔の話すら「嘘だ」と決めつけている
ファンタジー平成、ファンタジー昭和が彼らにとっては真実なのだ
本物の映像より偽物の映像のほうが説得力はあるのだが、そういうのは逆に怪しいと気づいて欲しい
あと教科書には映像の一般化は昭和だったと書かれているのに、この前なんかは江戸時代の映像が本物かどうかで荒れていた
昔はこんなことなかった、こうやって歴史がAIにかき消されていくのを目の当たりにするとは思わなかった
最近恐ろしいのが、たった10年前の出来事でさえ真実を調べにくくなっていることだ
いずれすべてが信じられなくなる
元増田には「男じゃないだろ」という言及が集まっているが、実際に男である俺も異常に胸がデカいキャラが苦手だ。援護射撃ではないけれど、どう苦手なのかを語ろうと思う。そういう男もいるのだ。
まず前提として、俺の場合は正直リアルの人でもオエっとなる。オエっとなるというか、見るとストレスがかかると言った方が正しいか。
感覚としては、情報として無視できない重みがあり、居心地の悪さを感じる。
じゃあアニメや漫画だとどうか。これがまたよりオエっとなる。居心地の悪さが半端ではない。
ただこの居心地の悪さは「胸であるから」「胸が大きいから」という単純な話ではないと考えている。
2023年に放映されたアニメで、最もクオリティの高かった作品は何か?
もちろん『お兄ちゃんはおしまい!』だろう。この答えに疑問を挟む余地はないと考えている。
中学生女子になってしまった主人公のパニックや成長を、素晴らしい作画・演出によって余すことなく表現していたこの傑作にも、難点があった。胸のデカいギャルである。
ギャルの胸だけ異様に肉感があり、異様に歪み、異様に光沢があり、異様に陰影がついているのだ。
『お兄ちゃんはおしまい!』は色彩もデフォルメも美しい作品だった。だがこのギャルの乳ばかりは受け入れ難い。
技巧に溺れ、揺らすために揺らされた乳に、魂はない。
それは肉の塊であり、人の身体ではない。
肉体の変化によって膀胱の容量に変化を来し、慌ててトイレに駆け込もうとするまひろの肢体のような、繊細な美しさはないのだ。
俺が思うに、日本のサブカルチャーコンテンツにおいて「お色気」要素として提示される乳・尻表象は、その技術的水準が低い傾向にあるように思う。
他の巧みさに比べて、お色気だけ稚拙と言うべきか。誇張された乳や尻を描く時だけ、不自然な動き、不自然な光沢が発生するのだ。
察しの悪い消費者のために、「これはお色気なんですよ。だからここで興奮してくださいね」と親切心からわかりやすい誇張をしているという事情もあるかもしれない。それはあまりに消費者を信頼していないように思う。フェルンの乳は揺れないし光沢もない。けれど、きちんと消費者は乳を盛ったイラストをこさえているじゃないか。
(フェルンのデカい乳は俺的にOKです。たまに本編でしょうもない下ネタの対象になってるけど、映像的にはそんなに視線が誘導されないし、変な揺れとか変な光沢とかないし。話めちゃくちゃ逸れるけどフリーレンって作風とか受容層の割に、谷間がガッツリできてるキャラ多いよね。アウラとゼーリエの乳が結構デカいことを、人の指摘で初めて気がついたよ)
話が逸れた。
調和に満ちた映像表現の中に、ゴロリと紛れ込む異物。それが俺にとってのアニメや漫画のデカい乳だ。美しくない割に、やたらと存在感がある。
誰かのツイートで、お色気表現をマヨネーズに喩えているものがあったけれど、これには俺も深く頷ける。
それで喜ぶ奴がいることはわかるが、そこになぜマヨネーズ(乳)をぶち込んだのかしばしば不可解であり、無視するにはくどい。
しかも、そのマヨネーズ(乳)は、しばしば人気があるということに胡座をかいており、品質が低い。
そんな風に思っている男もいるのだ。
元増田には「男じゃないだろ」という言及が集まっているが、実際に男である俺も異常に胸がデカいキャラが苦手だ。援護射撃ではないけれど、どう苦手なのかを語ろうと思う。そういう男もいるのだ。
まず前提として、俺の場合は正直リアルの人でもオエっとなる。オエっとなるというか、見るとストレスがかかると言った方が正しいか。
感覚としては、情報として無視できない重みがあり、居心地の悪さを感じる。
じゃあアニメや漫画だとどうか。これがまたよりオエっとなる。居心地の悪さが半端ではない。
ただこの居心地の悪さは「胸であるから」「胸が大きいから」という単純な話ではないと考えている。
2023年に放映されたアニメで、最もクオリティの高かった作品は何か?
もちろん『お兄ちゃんはおしまい!』だろう。この答えに疑問を挟む余地はないと考えている。
中学生女子になってしまった主人公のパニックや成長を、素晴らしい作画・演出によって余すことなく表現していたこの傑作にも、難点があった。胸のデカいギャルである。
ギャルの胸だけ異様に肉感があり、異様に歪み、異様に光沢があり、異様に陰影がついているのだ。
『お兄ちゃんはおしまい!』は色彩もデフォルメも美しい作品だった。だがこのギャルの乳ばかりは受け入れ難い。
技巧に溺れ、揺らすために揺らされた乳に、魂はない。
それは肉の塊であり、人の身体ではない。
肉体の変化によって膀胱の容量に変化を来し、慌ててトイレに駆け込もうとするまひろの肢体のような、繊細な美しさはないのだ。
俺が思うに、日本のサブカルチャーコンテンツにおいて「お色気」要素として提示される乳・尻表象は、その技術的水準が低い傾向にあるように思う。
他の巧みさに比べて、お色気だけ稚拙と言うべきか。誇張された乳や尻を描く時だけ、不自然な動き、不自然な光沢が発生するのだ。
察しの悪い消費者のために、「これはお色気なんですよ。だからここで興奮してくださいね」と親切心からわかりやすい誇張をしているという事情もあるかもしれない。それはあまりに消費者を信頼していないように思う。フェルンの乳は揺れないし光沢もない。けれど、きちんと消費者は乳を盛ったイラストをこさえているじゃないか。
(フェルンのデカい乳は俺的にOKです。たまに本編でしょうもない下ネタの対象になってるけど、映像的にはそんなに視線が誘導されないし、変な揺れとか変な光沢とかないし。話めちゃくちゃ逸れるけどフリーレンって作風とか受容層の割に、谷間がガッツリできてるキャラ多いよね。アウラとゼーリエの乳が結構デカいことを、人の指摘で初めて気がついたよ)
話が逸れた。
調和に満ちた映像表現の中に、ゴロリと紛れ込む異物。それが俺にとってのアニメや漫画のデカい乳だ。美しくない割に、やたらと存在感がある。
誰かのツイートで、お色気表現をマヨネーズに喩えているものがあったけれど、これには俺も深く頷ける。
それで喜ぶ奴がいることはわかるが、そこになぜマヨネーズ(乳)をぶち込んだのかしばしば不可解であり、無視するにはくどい。
しかも、そのマヨネーズ(乳)は、しばしば人気があるということに胡座をかいており、品質が低い。
そんな風に思っている男もいるのだ。
>話を本題に移すのだが、あの頃のインターネットをやっているやつは、みんなネトウヨだったと思う。
2chの特亜板とかに入り浸ってた人をネットの全てのように錯覚したまま記憶してないか…??
てっきり「みんなネトウヨだと思っていたが、違った」ってここから目が覚めるのかと思ったら、この前提は動かないらしい…そんなことある…?
美談のつもりなんだろうし、まあある種の美談なのかもしれないけど、前提からおかしいから腑に落ちない…
サブカルチャーお約束で言えばいわゆる古典的な「不良がちょっとマトモになっただけでべた褒めされる」状態というか、
元がズレていたのが少し良くなりましたは美談なの…?
元増田と同世代で、同じくサブカルチャーを通してネトウヨを脱した。
あの時代はネットのそこかしこで半島を揶揄する“悪質かつ愉快”なコンテンツが溢れていた。それらに日常的にアクセスする無知な消防厨房が嫌韓思想に染まるのは自然な成り行きといえるだろう。
ファビョーンと暴れるニダーのイメージは、悪徳反日国家韓国・北朝鮮へのヘイト感情に違和感なく移行した。
今の若い子は00年代のネットの空気に憧れていると聞くが、あの時代は数多のネット発カルチャーの黎明期であると同時に信じがたいデマとヘイトに溢れた暗黒期でもある。Xで「〇〇人は劣等民族」などとほざいている悲しきおっさん達はひどいインターネットの負の遺産なのだ。
私も元増田と同じように、成長に伴って最低限のリテラシーを獲得し、信じていた愚劣な半島像がほぼデマか誇張だと理解した。
しかし後遺症は残った。江南スタイルの流行は内心怖いなと思っていたし、凶悪犯罪者が逮捕されれば「コイツもしかして」と一瞬悪い想像がはたらいた。
後遺症改善のきっかけは韓国の縦読みマンガだった。2012年ごろ、まだLINEマンガもピッコマもcomicoもない時代。
ガラケーでケータイまんが王国に親しんでいた私は、買いたてのスマホでも漫画が読みたくてApp Storeで LINEマンガの前身のさらに前身であるアプリをインストールした。韓国産でも読めれば何でもいいだろうと。
アプリのUIはとても簡素だった。広告は小さいバナーだけで鬱陶しいポップアップもない。
NAVER WEBTOONの人気作が訳され、作品ごとに割り当てられた曜日に更新される。コメント欄はなく、星で5段階評価をつける以外に作品にリアクションするすべはない。課金要素は皆無。チケット制ですらなく1話から無料で遡って読み放題だった。どのように収益化していたのか未だにわからない。
はっきり言って読み始めて間もなくはほとんどの漫画がつまらなかった。あの頃の韓国漫画は今ほどシュッとしておらず、大半が芋っぽかった。
絵柄がダサイ、つまらないと思いながらも通学時間の暇潰しに毎日毎日読んだ。慣れてくるとじょじょに面白く感じるようになった。
すると不思議なことに、次第に韓国社会に息づく個人の生活を感じるようになったのだ。特にエッセイ漫画の影響が大きかったように思う。日々の些細なことに一喜一憂するその様子は、言語やいくらかの文化の違いを除けば日本人と何も変わらない。
日本と同じで、韓国にも国民の総意なぞ存在しないという至極当たり前のことに気づいた瞬間、自分の中で未知の生き物だった韓国人が完全に同じ人間になった。
また、日本漫画への親しみの強さを感じたのも理由のひとつだ。話の中に差し挟まれるコナンやスラムダンクのパロディの向こうには、日本の全てを憎んでいて日の丸を燃やして喜ぶモンスターのような韓国人はいなかった。
彼もただの人間だった。
もう、ある年代以上の芸能界とか、カルチャーとか、そういったものを、根本的に、文字通り「切り離す」しかないと思う。
何言ってんだこいつ、と思われるかもしれないけど
国家レベルの罪悪が革命であるとか戦勝国側の裁判で形式上は清算されるように(それが上手くいってないという問題はあるとしても、ポーズは取り続けている)
日本も、例えば2000年以前から活動している芸能人の、公に発された言動を一つ一つ精査して、ある程度以上の悪質さが累積した芸能人は謝罪や引退させ、ちゃんとしている芸能人とちゃんと人権教育を受けている若い芸能人だけで構成された芸能界を作り直す
そういう仕切り直しをするしかないと思う。
個人的な話に絡むけど、2010年代入ってから卒論を書くときに、国会図書館で70年代後半から80年代にかけての週刊誌を読んだんだけど、もう本当に別世界だったよ
完全に男による男の男の為のセックスと暴力と無知の賛美みたいな感じ、今のコンビニにかろうじて残されてる実話誌みたいなのが全てのページを乗っ取ってる感じ。
「そういうものを調べてるんだからそういうのしか出ないだろ」ってのは違くて、本当に今はまともな報道誌扱いされてるような雑誌でも昔はそうで、しかもそれが今より部数が多い。
行ける奴は行って見てみるといいよ、今は週刊ポストとかサンケイとか大体デジタル化されてるみたいだから。
それで私達は人権だ何だって普段さわいでるけど、90年代鬼畜系とか以前に、80年代にそもそも地層の様にどっしりとそういう世界があって、それに使って生きていた人間が何百万といて、
あるインフルエンサーとかが個人で「80年代90年代の私は間違っていました、セクハラを軽視してすみません、反省します」と謝罪しようが他の何百万人はヘッと笑ってるわけ。
幾ら数年前や十数年前のことを掘り返そうが運の悪かった奴扱い。
これからもそういった芸風は再生産されていく。若い世代のかなりの人達がいくらアップデートしようが、追い付かなくて潰されたりしてしまう。
それを断ち切るにはもう、根本的にスパッと、「はい、お前らは芸能界Part1。ここまで。これからはちゃんと新しい世代の、ちゃんと客観視と人権を守れる人による芸能界Part2を始めます」とするしかないじゃん。
そして問題は芸能界とか、サブカルみたいな分野だけじゃないんだよね。
80年代90年代のオタクって弾圧されてたとかそういう被害者面ばかり取り上げられるけど
コミケとかのイベントに「ぼくのロリータを紹介します」とかいって、大学生が中学生とかを連れ込んで無修正(80年代当時は黙認されてた)のエロ同人の売り子をさせてたとか
昔のオタクは明らかに少女ヌード、児童ポルノも許容して一流の文化扱いしていたとかそういうことは忘却されているわけで
そういう時代の人脈、漫画家とかライターが今でも大手を振って下手したら文化人扱いされてるわけだよね
そしてコメントを求められても、明らかに本気でやっていたことを「あれはシャレ、遊びだった」「本気にしだす人がいて困った」とかいって逃げたりする。
逃げるなら逃げるで退場しないとだめだよ。
そして今のオタク文化もそういうものの上に成り立っている以上、存続したいなら切り離すしかない。
絵柄とか美意識とかは今現在は無理だとしても(あくまで今現在はね)、「もう繰り返しません」「この人脈の賛美はやめ、二度と肯定的な引用はしません」みたいなやり方をするしかない。
突拍子ないとか狂ってるとか言われるかもしれないけど
数年前の時点では私も薄々どうかなって感じだったけど
今となってはもう被害者を直接産み出すシステム(それも熟成された何百年ものの)の否定をどう行うかが重要なんだから
あなたの息子や娘や友達が、そしてあなた自身がそういう昔の価値観の被害者になったら、そして「そういうものだから仕方ないじゃん」っていう空気に押しつぶされる側になったら遅いんだよ。
シンプルに夢精で済ますのは賛成だけど、日本のオタクサブカルチャーって性的消費が盛り上げてきた側面はやっぱり大きくて、いまからトロッコのレールを切り替えたら轢き殺す過去は丸ごと黒歴史化する事になると思う。
「任天堂には昔から親衛隊がいるんだよ 20年前の俺なら妊信必死過ぎとゲハにレスしていたろう」
単にゲーム遊んでるだけの暇人オタのくせに「称賛承認」取り付けようとしてるんじゃねぇよ。
その反対行動で自己称賛しようと試みてるのが『パルワールド』批判な。
ゲームなんてパクりパクられが普通で、単に「金になった」「社会現象を起こした」から上昇しただけのサブカルチャーなんだぞ。
答えは複雑。
アメリカから乳房を性徴として重宝する文化を輸入したときから始まる。
それ以前の日本では乳房は女性らしさとしての価値を持たなかった。
ブラジャーなどが日本に根付いたとき、女らしさとしての乳房が社会的に認められた。
マンガ表現でも女らしさを表すために乳房強調はよく用いられる。
乳袋などが有名な記号表現だ。目を大きく描くのと同様に、女性性を前面に出す際に役に立つ表現だ。
日本の旧弊な男性中心社会にとっては、ホモソーシャルを支える便利な道具だった。
女性性をオモチャのように扱って、女性を囃し立てるのを、男たちは愉しんだ。
オタク趣味は、最初はそんな後ろ暗さから表社会に出てこなかった。
だけどテレビアニメが子どもたちを引きつける中で、サブカルチャーとして広まっていった。
女子たちも幼い頃から、オタクコンテンツの中での女性の扱いに慣れている。
女性として男性オタクから腫れ物扱いされつつも、性欲を煽る道具として女性性が使われるのを見てきた。
だから、女とはそういう生き物なのだ、と刷り込まれてしまったんだ。
かくして、日本では男女関係なく女性性の強調を好むようになった。
典型的な女性キャラクターは男に都合がいいような、慕ってくれそうな赤ちゃんのような特徴を持つ。
大きい目、消された鼻、低い背丈。それでいて女性の性徴である乳房は強調される。
癇癪持ちだった
ゲームで癇癪起こしたことが0とは言わないけど、それはゲーム如きで怒るほどマジになっている人っていうコントをしてるだけ。
ごっつでもガキの使いでも、そういう体のコントとか、コント風の企画山程ある。
割とたまにスベっていた
常にホームランを打つタイプではないけど、滑る時に大怪我しない方法をシステム化したのがすごいと思っている。
少なくとも、滑って、それを受け入れないとか、むくれるとか、それは俺の見てきた松本の中にはない。
知的ではなかった
自分が一番正しい!と言い放つ人だった
これはほんとそう思う。ガキの使いのコーナーで、自分に点数をつけるとしたら?で100点だからね。
無茶苦茶なことを言っている人間を演じてる時もあるから、しばらく笑えるんだけど、
え、こいつまじやん・・・ってなる瞬間はあった。
映画は向いていなかった
怖くて未だに見れていない。
結構前から松本は「自分が一番面白い」という看板は下ろしてて、「若い頃ほど面白いことができない」も自覚している。
ダウンタウン双方力の衰えを自覚しながらどうやってゴールするのか単純に興味があっただけに、それがぶつ切れになってしまって残念。