はてなキーワード: 配慮する必要とは
発達障害について正しい理解をしているなら、このような人を「発達障害っぽい」という判断(レッテル貼り)はしないんですよ
別に語に対する訂正をしているわけではなくて、偏見に満ちた言動をして尚恥じない人間を軽蔑してるだけですよ
そういう言動の何が「この程度」だと思えるのかはよく分かりませんが、それを抜きにしたとして、少なくとも増田姉が大学の同級生に対して叩いていた陰口とやってることは大差ないという話です
見識がなかろうが何だろうが、本人と面と向かって殴り合うならどんなレベルの議論をしようが当人同士の問題なので知ったことではありませんが、姉を本人の預かり知らぬところでサンドバッグしたがってる増田(トラバでも他人による何らかの反応を求めてると述べている)に対して何を配慮する必要があるのでしょうか
叩かれたくねえなら迂闊な言動を慎めばいいだけだろ
最近は色々なところで色々なものが燃えているがとうとう自村も燃やされた。
・これまでのあらすじ
発端はとある絵師が男児型ラブドールを購入し、そのレポ漫画をpixivにアップしたことらしい。
私はその漫画を読んでいないし、リアルタイムで事態を追っていたわけではないので、漫画の内容や作者本人の発言等についての言及はしないが、ようはリアルなショタコンの実態が描かれた漫画が非ショタコンの目に触れてヤバイキモい性犯罪者やんけ!!!と批判されてしまったというのが大筋のようだ。
まず本題に入る前に、ペドフィリアという性癖がペドフィリア以外の人にとっては気持ち悪く、危険なもののように感じられるということについて、私は反論するつもりはない。
小児性愛は倫理的に大きな問題を抱えた性的嗜好(指向)であり、性的マイノリティのLGBTQと比べても、受け入れられ難い。
また、児童への性的行為は明確に犯罪であり、その被害者が実在する以上、けして公にできない趣味である。
当事者は自分の性癖に関して慎重に振る舞う責任があると思うし、理解のない人たちがペドフィリアに対して身構えてしまうのも仕方のないことだ。
そのうえで、今回の漫画の内容、公開手段には問題がなかったと主張したい。
ここでは、争点の一つとなったであろう「インターネットの公共性」について考えてみようと思う。
これ、本当か?
・「公共性」とは
「公共性」、最近一部界隈でよく見かけるようになった言葉だ。インターネット激アツエクストリームスポーツであるところのツイフェミvsアンチフェミ闘争では毎秒この言葉が使用され、醜い表現物を公共の場に持ってくる持ってこないの論争が日々行われている。
これまでツイフェミ陣が燃やしてきたものは、主に自治体や献血等のコラボポスターだったりテレビCMだったりした。
フェミ陣営の批判の根拠は多岐に渡るが、その中の一つが「公共の場に相応しくない表現である」というものだ。
ポスター、広告、政府のHP、そのどれもが(一応は)不特定多数に向けて無差別に公開されているものであり、しかるべき場所に行けばいやでも目に入ってくるため、それが苦手な人たちにとってハラスメントになりうるというのがだいたいの主旨である。
この話題に深く突っ込むことはしないが、これらの炎上と今回の炎上が決定的に異なる点があるとするなら「公共性」、この点だと思う。
過去、インターネットとは便所の落書きであった。汚い言葉の廃棄場であり、そこには現実とは異なる独自のルールが存在した。
インターネットにおいては、基本的に「嫌なら見ない」がマナーだった。そもそも歩いていれば目に入ってくるような看板広告などとは違い、インターネット上のコンテンツは基本的に検索しなければ出てこない。
「全世界どこからでもアクセスできるから」「誰でも見られるから」
だから発信するな、やるにしてももっと隠れてやれ、そんな意見をたくさん見た。
でも、本当にこれが規制の根拠になり得るのだろうか。誰でも見ることができる、ということは、誰の前にも無差別に出てくる可能性がある、ということではない。
インターネットの仕組みは見たい人が見れるというものであって、見たくない人に無理やり見せつけるようなものではない。
今回の漫画に関して言えば、これはpixivにアップされたようだ(もちろんR18タグや注意書きありで)。あとTwitterで告知もしたかもしれない。
この時点で、件の漫画が目に入るのは「pixivで作者をフォローしている人」「似たような絵をいいねしていてオススメ欄に表示された人」「Twitterのフォロワー」そして「RTでそれを目にした人」たったそれだけだ。作者には3万人フォロワーがいたらしいが、絵師のフォロワーは大多数が作品のファンであると考えられるので、数の多さは重要ではない。
この中のうち、一つの集団を除いては、誰もあの漫画を問題とは思わないだろう。好きで見ているのだから。
この点から、問題の本質はインターネット上で公開したことではない、ということがわかってくる。好きで見るなら問題はない。
彼らはどうだろう。もちろんショタラブドールレポ漫画を堂々とRTするような人をフォローしている人は、似たような変態だろうと考えるのが自然ではある。
でも万が一、そうでない人がいたら。見たくもない特殊性癖のディープな漫画を見つけてしまい、さぞ不愉快な気持ちになってしまうことだろう。
つまり、問題の核心は「公開をある程度限定しているにもかかわらず、見たくない人の前にその情報が流れた」というところにある。
なぜショタコンでもない人にショタラブドールレポ漫画がシェアされてしまったのか?
これはTwitterの仕様であるリツイート機能が原因だと思う。
自分のフォロワーに向けて特定のツイートやウェブ情報を公開できる機能は、手軽に情報を共有できるという利点はあるが、相手に見たくないものを見せてしまう危険性を常にはらんでいる。
リツイートはたんに便利なだけの緑色のボタンではない。ある意味では、二次的な情報発信手段なのだ。だからリツイートする人は、その情報がフォロワーにどんな影響を及ぼすかを配慮する必要があると私は思う。
RT先で誰かが嫌な思いをした場合、そのツイート主本人よりも、むしろリツイートした人間にこそ責任が問われるべきなのではないだろうか。
そう、まさにこのリツイートという行為こそ、炎上を引き起こす諸悪の根源に他ならない。
想像してほしい。
インターネット教室の隅で、オタクがキモい絵を描いている。それ自体めちゃくちゃキモいし、周囲から白い目で見られてしまうのはもう仕方がないことだが、その中に猛然と突っ込んできて絵を引っ掴んで
「おい!!!!!!オタクがこんなキモい絵描いてる!!!!!!!」
と触れ回る奴がいたら、どうだろう。
オタクは自分たちのキモい絵をパンピに見られたくはないし、みんなもそんなもの見たくない。なのに、わざわざそれをオタク→一般人に拡散するやつ……
なんでそんなことするんですか。
放っといてくれればいいじゃないですか。
不快なものを見たとき、「ウワ!マジでキモい!!」と言いたくなる気持ちはわかる。だが幸にして、インターネットは情報を選択することができる。見たくないものはミュートできるし、気に入らないユーザーはブロックできる。
もしオタクのキモい絵をみて反射的にRTしてしまったら、フォロワー全体にそのキモい絵が拡散されてしまう。キモい絵をみた人たちは嫌な気分になり、その中からさらに絵を拡散する人が出てくる。
だが、最初にキモい絵を見たとき、「これキモいんだけど〜!」と言いたい気持ちをグッと抑えてRTの代わりにブロックボタンを押すことができたら。キモい絵はオタクたちの間でひっそり閲覧されるし、フォロワーはそんな絵のことなど知らずに可愛いねこの画像とかにいいねをする。
それは被害者の方であれ、まだ幼い子ども(といってもインターネットは使える程度の)であれ。嫌だなと思うものは見なくていいし、公開する側もそういう選択ができるように、キャプションやbioで注意書きをしている。
見たくないし、見られたくない。ペドフィリアと一般人の間の距離感はそんなふうに保たれてきたし、これからもそうあるべきだと思う。
結論。燃えるべき問題など最初からどこにもない。ショタコンの漫画はショタコンしか見ない。内容が多少、かなり、めちゃくちゃ過激だったとしても、見ない人には「関係ない」。
それなのに、
性犯罪の被害者や、子持ちの親御さんや、多感な時期の子供を不安にさせる、
そんな人たちこそ、1番の加害者なのではありませんか。
今、現在、性犯罪の被害者や子供たちを直接傷つけているのは、気持ち悪いペドフィリアたちではなく、あなたかもしれないのです。
・おわりに
これを書く前、あるツイートをみた。
「自分はショタコンだったが、子供が生まれて考えが変わった。ペドはいるだけで不安だから、規制してほしい」
なんだよそれ。子供産まれたら気が変わったからもうショタコンは消えてくれって?
ふざけやがってクソが。テメーみたいなのが一番迷惑なんだよ。そんな程度の気持ちでショタコンやってんじゃねー
以上です。
ポリコレが「どういったもの」に対して「何を」求めるのかといえば、
「特定の属性に関係なく開かれているはず」のものに対して「特定の属性を贔屓、または蔑ろにしない」ことを求めるものである。
例えばデパートのような万人が利用する施設が「メリークリスマス」という表現を使うのは
キリスト教以外の信仰を蔑ろにしているので「ハッピーホリデー」という言葉を使うべきだが、
一方でキリスト教徒しか利用しない教会は万人に開かれた施設ではないのでそのような要請は意味がないのである。
ゆえに、全国放送という都道府県の境に関係なく発信されるテレビ放送で、
特定の自治体の情報ばかりが流れるという状態は、ポリコレが正すべきとしている状況そのものである。
しかし反ポリコレ派もポリコレ派もこの原理に対する意識が薄く、
「女児」向けに限定されたコンテンツであるプリキュアに男のプリキュアを出せといったり、
社会人になりたての頃、世間が貧困である事実があまりにも悲しかった。
「お金がないせいで○○ができない」という程悲しいことはない。幸い実家が太かった為、今までお金がないせいで何かができずに諦めるという制約を受ける経験がなかったのだ。お小遣いのやりくりの為に今日のお菓子を我慢するような事はあれど。
理由あって生涯未婚と決めていた増田は、はっきり言って金があった。
収入自体は中の下かもしれないが、結婚式の費用も、子供が成人するまでにかかるウン千万も、家族で住むマイホームもない。とにかく支出が大幅に削減されていた。
世の中にはお金がないせいで結婚できない人だっているのにと、抱えた若干の罪悪感を解消したいと思ったのだ。直接お金を与える訳ではないにしても、なにかしら他人のために経済を回さねばという義務感もあった。
とはいえ、ぱっと寄付が出来るほど心が綺麗にはなれなかった。どうせ金を使うならば自分にもなにかメリットがあって欲しいと浅ましくも思ってしまっていたのだ。
そこで目をつけたのがクラウドファンディングというやつだった。
クラウドファンディングは面白かった。こんな自分にぴったりのサービスだった。
夢を叶えたい人がいた。少しお金を払うとお礼の手紙や珍しいものを送ってくれた。
新しいものを創りたい人がいた。少しお金を払うと創ったものを送ってくれた。
災害で壊れたものを直したい人がいた。少しお金を払うと地元の特産品を送ってくれた。
誰かお金が足りなくて困っている人がいて、しかもお金を払うと少し自分にもメリットが戻ってくる。求めていたものだった。毎月の給料の一部をクラウドファンディングに充てた。
でもクラウドファンディングはつまらなくなった。コロナ禍でピンチなところが叫び声を挙げているだけのサイトになったからだ。
コロナ禍でピンチな人は無限のようにいる。別にコロナで苦しむ人は助けたくないという意味ではない。挙がる手が多過ぎて、どの手を取ったらいいのか分からないのだ。全ての手をとる事は出来ない。「コロナで可哀想だから」という動機だけで特定のプロジェクトに投資することができない。
普段通り何かが創りたくてプロジェクトを立ち上げている人もいる。でもこんな時にコロナもなにも関係ない夢に投資するのもなんかなという気持ちがふとよぎってしまう。
どうして誰かの夢を叶えることにあたって、夢が叶わない人や苦しんでいる人に配慮する必要があるのだろう。 と論理的に考えると、その必要はないのだ。だって平時でも誰かは苦しんでるわけだし。とはいえこれは論理的な問題ではないのだろう。
元増田はまるで百合オタクのあいだで意見が一致しているように書いているがもちろんそんなことはなく、
たとえば私は「作品にどんな形で男が出てきていようと女同士の感情が描かれていれば百合である」という派閥に属している。
だいたいにおいて「百合に男が登場するのは許せない」などというオタクは、
「伊達眼鏡は眼鏡っ娘ではない」とか「義妹は妹ではない」とか言い出す狭量な連中と同じく、
「その属性に何やらこだわりを持っている」というポーズ、アピールをしているにすぎない。
「こういった代物を嫌うのがオタクとしての私なんだ」という自己催眠にかかっている。
そんな甘ったれは、百合の発展を阻害する邪魔者でしかないし、もちろん彼らに配慮する必要もない。
「Not for meを避けよう」「タグで住み分けよう」などという平和ボケした考えは捨てろ。
ここは戦場だぞ。
看護や介護だと人手不足だから、体調悪けりゃ休職させてくれる所が多いと思うし(首にしたら人材がもったいない)
辞めても再就職も容易だよ。
職住近接ってのも近場に転職すればいいだけだし、夫の転勤とかで辞めざるを得なくてもどこでも仕事は見つかる。
ただ土日勤務や夜勤があるから、子供がいるとどっちみち無理って人は多いだろうと思う。
(外来のみのクリニックとか訪問介護とかで平日日中だけって職場もあるだろうが)
一度無職になると保育園入れない地域だと子供が幼稚園に入れる年齢になるまで再就職出来ない、ってのはある。
逆に、楽なデスクワークだと他にやりたがる人がいくらでもいるから職場側もそこまで配慮する必要ないし、
一度首になったらまず再就職できない。だから皆必死でしがみつくしかない。