はてなキーワード: みくるとは
「推し」って感覚が未だにまったくわからない。なんだよ推しって。
俺はみくるたん萌え~とか、あーみんは俺の嫁!って世代のオタクだ。二次元・V含めアイドルには一切興味がない。
だがなんとなくわかった気になっているだけかもしれない。なので改めて調べてみた。
推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E3%81%97
推し(おし)とは、特定の人物やキャラクター、作品、商品などに対して、熱心な支持や愛情を示す行為やその対象を指す言葉である。推しの語源は、「推す」(おす)という動詞から派生し、主に若者を中心に広まったインターネット用語である。推しは、アイドルや俳優、声優、アーティスト、アニメキャラクター、漫画、ゲーム、映画、テレビ番組など、幅広い分野において使用される。
推しの行為には、対象の情報収集や作品の購入、イベントへの参加、SNSでの応援メッセージの投稿などが含まれる。また、推しを応援するファン同士が交流し、情報共有や意見交換を行うことも一般的である。推しの対象は個人の好みや価値観によって異なり、多様な選択肢が存在する。
推しに対する熱意や忠誠心は、ファン同士のつながりを深める要素となり、コミュニティの形成や発展に寄与することがある。推しを通じて、ファンは新たな友人や知り合いを得ることができる場合もある。しかし、推しに対する過度な熱狂や執着は、他者への配慮を欠く行為やトラブルを引き起こすことがあるため、適度な範囲での応援が求められる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%8E%A8%E3%81%97
う~ん、やはりピンと来ない。
と頭を捻っていたら、Pixiv百科事典にそこそこしっくりくる記述を見つけた。
そもそも「推す」が「他者に薦める」という意味の言葉のため、「推し」は自分が独占欲を持たないものに対して使う言葉である。つまり、自分が恋愛的な感情を持っている相手に対して表現するにはあまり適切でない言葉と言える。英語における「Love」と「Like」の違いで言えばLikeに当たる。
日本のことわざに「高嶺の花」があるが、花を取ろうとせずに見るだけで良いと思えるのが「推し」である。
https://dic.pixiv.net/a/%E6%8E%A8%E3%81%97
ここまでをまとめると「推し」っていうのは、
存在に対して使うのか(間違ってたら教えて)。
いや~こうして改めて意味を調べてみるとよくわかるな。自分にはまったく理解できない感覚だってことが。
例えばハルヒなら俺は佐々木が好きというか俺の嫁なんだが、ハルヒを読んでいるとき俺はキョンだ。俺自身がキョンになっている。だから佐々木がキョン以外と絡むエロ同人を読んだだけで寝取られた気分になる。これは紛れもない独占欲だな。
「佐々木は俺の嫁!」ってTwitterで主張したい気持ちは無くはないが、別に他人に佐々木の良さを薦めたいわけじゃない。別に他人に佐々木を好きになってほしいわけじゃない。ただ「刮目せよ!俺の嫁を見ろ!」って言いたいだけだ。他人の好みなんてどうでもいい。いやどうでも良くはないな。俺以外で「佐々木は俺の嫁!」って言ってる奴を見かけたらイラつく。お前の嫁じゃなくて俺の嫁だって思う。交流なんてぜんぜんしたくねえ。
こうして我が身を振り返ると、昨今の「推し」文化ってのは随分と上品じゃあないか?
みんなが私の好きなものを好きになってほしいです、独占欲は持ちませ~んってか。
嘘つけやって思ってしまうのは俺が古いオタクだからかそれとも歪んでいるからか或いはその両方か?
大学生時代に「涼宮ハルヒの憂鬱」ブームを経験した三十代。当時はひねくれた人間だったので、ハルヒが流行っている真っただ中に、原作ではなくその元ネタとなった「ハイペリオン」に手を伸ばした。当時の自分はきらきらとした学生生活にあこがれていたくせに、そういう青春をテーマにしたラノベを避けていた。みんなと同じものを読むのが嫌だったのと、そういうきらきらしたものを読むと、自分の灰色の生活と引き比べてしまうからだ。そういうわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の知識は、書店で一気読みした第一巻と、ウィキペディアの情報、断片的に見たアニメの数エピソードに頼っている。おそらく粗があるので、話半分に聞いてもらいたい。
「ハイペリオン」とはダン・シモンズが1989年に発表したSF小説である。邦訳は1994年に出版された。ヒューゴー賞・ローカス賞・星雲賞を受賞している超大作で、登場人物である長門有希が読んでいる。
ジャンルは一応スペースオペラなのだが、あえて言うならばSF全ジャンルと英米文学のごった煮である。というのも、七人の登場人物がそれぞれの身の上を語るのだが、それぞれがホラーだったりサイバーパンクだったり時間SFだったりで、しかもそれぞれの出来がいい。
続編として「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」がある。作者の思想がややうるさいところもあるが、絵になる場面が多くて楽しい。また、人類の各文化の多様性を高らかに褒めたたたえているのが、やや西洋・アメリカ中心主義ではあるが、気持ちがいい。
長門は「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」であり、言い換えるならば「宇宙人が作った人間の形をした存在」ということになる。「情報統合思念体」には「主流派」「急進派」「穏健派」「革新派」「折衷派」といった派閥が存在し、それぞれの思惑ごとに動いている。
一方、「ハイペリオン」には、英国の詩人ジョン・キーツの人格を再現したサイブリッド(人造人間みたいなもの)が登場する。これは、人類に様々な助言をするAI群「テクノコア」によって、ある目的のために作られたものである。彼は長門ほど万能ではないが、この背後にいるテクノコアには「穏健派」「急進派」「究極派」が存在していることが共通している。ちなみに、それぞれの立場としては、当面は人類とは共存する、さっさと人類を滅ぼして自分たちが覇権を握る、人類も自分たちも滅んでもかまわないので究極の知性を創造する、である。このAIたちはとっくの昔に人類を超えており、人類を裏切ろうとしている。というか、作中ではすでにある方法で人類をひどく搾取しているのだが、これは読んでみてのお楽しみだ。
設定の上ではよく似ているけれども決定的に異なるところがたくさんあり、よくできたオマージュだと思う。
結論から述べると登場する。そもそも、舞台となるハイペリオンという惑星には「時間の墓標」なるものがあり、そこの封印が開くと未来から様々な事物や情報が送られてくる。同時に「シュライク」という殺戮マシーンが封じられているが、シュライクは時折人間の願いを叶える、とされているのだ。七人の登場人物がハイペリオンまで巡礼に向かうのもそれが理由だ。
ここで未来と述べたのだが、実は未来は確定していない。「テクノコア」が作り出す究極知性が宇宙を支配するか、人類の集合意識が生んだ究極知性が覇権を握るか、この二つの間で揺れ動いている。ここでいう究極知性とは神と言い換えてもいい。つまり、遠い未来で行われる人類とテクノコアの戦いが、現代にも影響を及ぼしているのだ。なんといったって彼らは神なのだから、なんでもありなのである。
この状態は、まさに朝比奈みくる(大)の周囲の事情とよく似ている。現代に干渉し、自分たちの望む形の未来を確定させようと活動している点が近い。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の全てを読破したわけではない自分が、本文から有効な証拠をあげることはできない。というか、いくつかのブログでそれを示唆する記述が十分に述べられており、自分が付け加えることは何もない。
よって本記事では、「ハイペリオン」で行われたテクニックを間接的な証拠として用いたい。以下、「ハイペリオン」のネタバレに触れる。読みたくない方は引用部分を読み飛ばしてください。
「ハイペリオン」の七人の登場人物は、旅の無聊を慰めるため、それぞれの出自を語る。一人はフィドマーン・カッサードという兵士である。仮想訓練の度に謎の美女モニータと遭遇し、そこでむさぼるように体を重ねるが、彼女とは仮想空間とでしか会うことができなかった。やがてアウスター(人類連邦に所属しない宇宙の蛮族)の襲撃を受けるが、そこで彼女と再会し、殺されかける。カッサードは彼女との再会を目指している。
もう一人の人物はソル・ワイントラウブという学者である。彼は娘である赤ん坊を抱えて巡礼に来た。彼の願いは、娘であるレイチェルの病を治すことである。レイチェルはかつて学者としてハイペリオンを訪れた際、シュライクによって年齢を逆行する呪いをかけられてしまった。父と同じ聡明な学者であったレイチェルは日に日に幼くなり、とうとう赤ん坊にまで戻ってしまった。レイチェルが「誕生」の日付を迎えるまで、あと数日しかない。
さて、結論を簡潔に述べよう。レイチェルの病は癒される。そして彼女は未来世界へと連れていかれ、そこで再び大人へと成長する。やがてレイチェルはモニータと名乗り、カッサードと出会うのである。
つまり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のオマージュ元である「ハイペリオン」では、意外な二人の人物が同一人物であった、そしてその片方は未来人であった、というギミックが存在するのである。
もちろん、年齢遡行までオマージュしているのかどうかはわからない。記憶に蓋をしているだけかもしれない。ただ、妖艶な美女と無邪気な赤ん坊が同一人物であった、という驚きを、朝比奈みくる(大)とキョンの妹が同一人物であった、というかたちで本歌取りしている可能性は、検討される余地はある。
どうなのだろう。キョンの妹は小五だが低学年にしか見えないという記述もあるので、実は成長がストップし、年齢が逆転し始めているのかもしれない……。
鶴屋さんは「宇宙人と未来人だったら、どっちがいい? そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」と発言したそうだが、これは今後の展開を予測する大きな鍵となる可能性がある。というのも、「涼宮ハルヒの憂鬱」が「ハイペリオン」をどこまでなぞるかははっきりしないが、もしも設定を強く意識しているのなら、「ハイペリオン」で「テクノコア」が人類を裏切ったように、「情報統合思念体」が最後には人類に敵対する可能性があるからだ。そして、みくるは人類と「情報統合思念体」との争いの中で、少しでも人類に有利な未来へと導こうとしているのではないか。となると、長門とみくるの決別は避けらないことになる。みくるが長門を幾分苦手としている描写を考えると、興味深い。
少しだけ触れておく。「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」のなかには、超能力は出てこない。出てくるのは「エディミオンの覚醒」以降であり、主人公たちがある能力に目覚めることで、クライマックスに人類の命運を大きく変えるのだが、これも読んでみてのお楽しみだ。
「ハイペリオン」であらゆる願いを叶えるとされるのは殺戮者シュライクである。実に気まぐれな神なのだ。そういうと、ハルヒが悪役シュライクだということになってしまうのだが、自分は違うと思う。明るい青春ラノベにこの設定は似合わない。願いが叶う、ということだけを拝借したのだろう。とはいえ、物語全体を通しての謎の一つ、ということは決定している。
それと、実はシュライクの正体は作中でも若干ぼやかされている。テクノコアが作った殺戮マシーンを人類側がのっとったことが示唆されているが、時間を行き来できるのだから時系列がはっきりせず、筆者の記憶も確かではない。
「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の語り手はいたって普通の青年ロールであり、彼は破天荒な少女アイネイアーの守護者に任命される。とはいえ、物語の大半は奔放な彼女の振り回されながら進む。それこそ「涼宮ハルヒの憂鬱」の本編のように。
しかし、ロールとアイネイアーは最後にはひどくつらく悲しい別れ方をしなければならない。この設定が本編のキョンとハルヒの関係に輸入されていないことを願う。
それと、ジョン・キーツ(ジョン・スミスではないが)のサイブリッドは二つ存在し、片方が殺される運命にある、とだけ述べておこう。
彼は「ハイペリオン」四部作ののちに「イリアム」「オリュンポス」を発表している。トロイア戦争の世界、遠未来の没落した人類、機械知性たちの話が入り組んでいて、文学とSFのマッシュアップ具合が楽しいのだが、残念ながら「ハイペリオン」四部作で述べた人類の多様性を寿ぐ姿勢から後退し、明確なイスラム嫌悪が出ているのはいただけない。さらに、邦訳されていない最近のシリーズは、ヒラリー・クリントンが大統領になったパラレルワールドで、国民皆保険で怠け者になったアメリカ人が薬物におぼれているというすごく政治的に偏向した作品なので、翻訳されないんじゃないかな……。
【追記】最新作ではないのだが、2011年の「Flashback」という作品。シリーズではなかった。失礼。
【もう一つ追記】その薬物は、いつでも自分の人生の最高の瞬間を追体験できるというしろものだ。そして、世界のほとんどがイスラム過激派に支配されている。経済は日本に牛耳られ、南西部の州はメキシコのギャングに支配され、作中では地球温暖化が否定されている。アメリカの保守的な世界観を煮詰めたような感がある。
ヒラリー・クリントンについての記述は記憶違いかもしれない。ただ、イスラム嫌悪が強いのは間違いない。
https://sosbrigade.miraheze.org/wiki/ハイペリオン
おそらく、ハルヒ全盛期の頃に、こうした議論は出尽くしていると思う。だが、検索をしても類似した意見が見つからなかったため、ここに記録した。
それから、ろくに原作を読んでいないのに、そして記憶もいい加減なのに、好き勝手言ってどうもすみませんでした。
多数のコメント、感謝しております。また、「全部読んでいないのに書くなんてずうずうしい」との指摘、まったくもってその通りです。ファンの気持ちを逆なでするような行い、お詫び申し上げます。また、立ち読みも迷惑でしたね。未成年の頃とはいえ、今にして思えば赤面ものです。
自分としては、「ハイペリオン」を読んだ人間からは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の設定はこう見える、と伝えたかったのです。笑ってやってください。また、類似した意見がネットになかったので、記録しておこうという思いもありました。
ただ、ブクマカにもあるように、ジオシティーズやインフォシーク、ヤフーブログなどの一斉削除が原因の可能性のほうが強いですね。はからずもアーカイブの問題にも思いをはせることになりました。
それでは、失礼します。
Jubileeって曲知ってますか?
どなたも、チオビタの牧歌的なCMで耳にしたことがあると思う。
語源をヘブライ語のヨベルに持つ言葉で、歓喜、記念日、祝祭とかそういう意味。
Jubilee 歓びとは 誰かが去る悲しみを 胸に抱きながらあふれた 一粒の雫なんだろう なんで僕は戻らないんだろう
この部分だけ抜き出してどうこういうのは野暮くさいとも思うけれど、どうしてもこの部分が胸に引っかかる。
心地いいんだと思う。響くんだと思う。でも「誰かが去る悲しみ」からあふれるものが、どうして「歓び」なんだろう。
「誰か」との出会いがもたらしてくれた、素晴らしい何らかを胸に、僕がこの先にまた進める歓び、ということなんだろうか。
「あふれた雫」は、その出会いに対する、後になってからしみじみくる感動、とか、そういうものなのかな。
自分はなんて安直で短絡的な考えしか(そしてそれをうまく言語化すること)できないんだ、と絶望しながらもいつもこの部分でいつも泣きそうになる。
この、どうしてなんだろうというクエスチョンが浮かんでいるのに、理屈じゃ説明できないけど泣きたくなるくらいに心が動いてるこの現状!
このバランスのままでいるのがいいのかもしれない。案外これが心地いいのかもしれない。
だけどだけど、周りの人がどんな風にこの歌とか言葉を受け取るのか、とても知りたい。