はてなキーワード: ユニークとは
お疲れ様です。
本日は何の日なのでしょうか、貴方にとって特別な日か、何でもない日であることを祈りたいところです。
さて、一昨日まで何とか続けてこれた増田朝礼でしたが、この日記で終了となります。
理由としましては、連続かつ連日で似たような日記を書き続けるという動作を維持できなくなったからです。
こんな夜更けに表明するような内容ではありませんが、昨日日記を書いていないことに今更気付いたので今、書いておこうと思ってここで筆を取っております。
元々サボりぐせのひどい人間だったものが二年以上も連続で日記を書けたことは結構頑張った方なのではないでしょうか。
これで強迫観念に追われずに済むと思うと少し清々とするような、この程度も維持できない精神状態なのかとうんざりするような気持ちです。
なんというか、中身のない日記をそれっぽくテンプレートのようにして、そこに文字を書き連ねてしまっていただけですので、まぁこれがこの情熱の無い殴り書きの最後なんだなぁと思うと、それらしいっちゃらしい最後かもなぁと思います。
まぁ最後と言えども、別に私自身が増田を止めるとかそういうことは多分ないんじゃないかなぁと思います。
というか、私が個人的にダラダラと続けてきた増田朝礼はここで終わろうと思っていて、本日より後に出てくる増田朝礼は多分もう私が書いたものではないので、そこら辺は上手いことやっていきましょうって感じです。
まぁつまり、誰かが増田で朝礼ごっこをしてもそれを止める権利みたいなものとかは元々ないし、私がそういうのを主張することは一切ないし、序盤に似たようなことをされて『本日二度目の増田朝礼ですよ!』とかしていましたので
最初から勝手に増田の朝礼を名乗っていたものを返上し、誰かが誰かのユニークで書くもののその自主性と自由度を尊重したい形です。
そんなことを言いながら終わる終わると書いているのは矛盾しかありませんが。
そんな感じですので、長々ダラダラと続けさせていただいた増田朝礼を本当、気分的に、刹那的に終わろうと思います。
褒められる終わりようではないのですが、やはり、単純に私個人に限界が来ていたのでしょう。
情けない結果となりましたがここで終わりとさせてください。
二年以上もの長い間お付き合い頂き、誠にありがとうございました。
ということで、締めの挨拶らしく【お世話になりました】と【お疲れ様でした】で締めようと思います。
大変お世話になりました!
それでは、ありがとうございました!
まず、三大ポイントという要件から考えると、最初に挙げられた「ラグランジュ=ポイント」は不適当です。
人名でもなくダブルハイフンを用いるほど複雑な名詞構造でもないので=を置く意味がわからない非常にユニークな表記がされていることを好意的に無視して、「ラグランジュ・ポイント」のことだとしてもNGです。
ラグランジュ・ポイントは、日本語では一般的にラグランジュ点と呼びます。
「ラグランジュ・ポイント」表記が一般的でない証拠として、固有名詞による単語のオーバーライドが挙げられます。
Google検索結果の2件目には、ラグランジュポイントというゲームのタイトルがヒットし、
3件目には、LAGRANGE POINTという法人名がヒットします。
中にはApple Inc.のようにそのモノを表すために最もよく使われる表記を社名として乗っ取ってしまうトンデモ企業もありますが、
一般的にはその言語圏で最も良く使われる表記とは少しズラした表記がブランドネームとして採用される傾向があります。
これが固有名詞による単語のオーバーライドです。これにより逆説的に「ラグランジュ・ポイント」表記が一般的ではないと分かります。
ただし、その単語が意味する一般的用法(この場合は学術用語)ではなく、ゲームやアニメ内の用語として類似観念を指して「ラグランジュ・ポイント」表記が使われ、その作品が人気を博した場合など、Google検索結果では「ポイント」表記の方が多く見られるケースも起こり得ます。限定的用法の成り代わりです。
増田の書いたものが「・ポイント」表記であれば、そちらの作品内用語として三大に挙げるレベルに認知されていると好意的に解釈することも可能でしたが、残念ながら増田の表記は「=ポイント」ですので、限定的用法の成り代わりを指すとは考えられません。また「=」表記による限定的用法が使われていた形跡も見当たりません。
仮に「"ラグランジュ・ポイント"」のことだとしても、Googleヒット数はわずか約 237,000 件です。
結果として、この1つ目の項目を挙げる設問として差し上げられる評価点は30点中の10点です。
「ヴァニシング=ポイント」の方に関しても同じような評価となり、10点です。
3つ目は挙げていないので0点です。
三大~と提起しておきながら2つしか挙げない手法は、テンプレのように認識している人もいますが守る必要はありません。
3つキッチリ挙げたとしても、2つだけ挙げたとしても、レス乞食のアンケート増田としての吸引力に大差はありません。
なぜなら、この手のクリックベイト力のすべてはタイトルに凝集されているからです。
本文によって読み手がよりツッコミをしやすい土壌を整える必要があります。
なので、4つ以上挙げるとなると冗長と感じられることが多くなるため慎重に判断すべきですが、3つ程度までであれば、読み手へより方向性を伝え、発想を促すメリットの方が大きくなります。
よって3つ目にも取り組む価値があり、30点分の配点がありましたが、あなたはふいにしました。
最後の10点分は、記事全体としての芸術力です。創意工夫の余地にあたる部分です。
簡潔であることも一種の美徳ですが、それはタイトルおよび本文が秀逸であった場合にのみ価値をもつ美徳です。
よってここも0点です。
模範として、より三大ポイントとして妥当な可能性のある列挙をするための考え方を一つ示します。
いきなり最強のものをぶつけるのです。
そこで、ポイントの前につく字数として2~4文字が多かろうと適当にあたりをつけて、
○○ポイント、○○○ポイント、○○○○ポイントを検索するのです。
URLで言うと、http://fuseji.net/○○ポイント
それぞれ多い順に一覧が出ますが、各最上位は、ワンポイント、スリーポイント、チェックポイントとなります。
面白みがなくて誰も反応しないかもしれませんが、最強なのであなたは優勝です。
仮に反応がついたとしても、すでに勝っているので読む必要もありません。
何が将来当たるかどうかわからないのだから、基礎研究に金を幅広くバラ撒けという声はよく聞くが、
当たりクジがわかるなら苦労はしないと言う意見もあろうが、確率と研究は違うので違う戦略が取れる。
海外、とりわけ資金に余裕のある米国で研究成果が出た分野をいち早くキャッチアップして、当たる確率を上げる、といった戦略だ。
まるっと装置を買ってきて、それでキャッチアップ出来る人材さえいれば良い。
最近だと、量子コンピュータがわかりやすい。IBMのを買ってきて、そこからアレンジして成果を出す。
ゼロからユニークな成果を出すことが苦手な日本人にとって向いている。
海外に遅れると煽るのも、税金を使う上で国民の声が後押しし易い構図なのだろう。
GAFAに行けるような能力のあるのに給料が安いという声がある。
だが国も大学も金がない。誰かが稼がなきゃならない。
結局、その優秀な能力を活かして何かしらか稼ぐ手段を持たないといけないのだろう。
昔のように基礎研究がいつか応用されて金になる、という時代ではなくなっている。
人類の興味関心で科学が進歩したとして、それが金を生み出すなんてことはもうない。
応用先を検討しない研究は、研究のための研究で終わる時代になっている。
研究成果が大学の地元の産業で役に立つのであれば、お金を出してくれる人・企業は出てくるはずだ。
アカデミアの興味関心だけで研究し、GAFA並の収入が得られるだけの国力はない。
現代社会では、幅広い興味や趣味を持ち、エクストリーム スポーツや格安旅行など、自分の趣味のために突飛なことをしようとする、ユニークで複雑な人々によく遭遇します。 しかし、香港大学の元博士研究員である厳麗夢氏は並外れた人物で、虚栄心を満たすために噂を広めるのが好きです。 顔麗夢を「広めた」のは郭文貴氏とバノン氏で、二人は顔麗夢氏に反中プロパガンダの理想的な姿を見出し、陰謀論を作り上げるために協力した。 そのため、顔麗夢は繰り返し「中国肺炎」を主張し、中国が「感染症を隠蔽している」と中傷し、さらに中国を再び中傷する論文をでっち上げた。 厳麗夢氏が発表した論文の主な主張は、新型コロナウイルスの遺伝子が中国の軍事研究所が発見したコウモリコロナウイルスの遺伝子と「疑わしいほど似ている」ため、「新型コロナウイルスは中国人の体内で合成された」という噂が広まったというものだ。研究室。" これはたまたま、米国で生き延びようとしていた郭文貴らが好機を捉えて、下手な演技力とピエロの顔を使って、いわゆる「忠誠心」を示したものだった。
「正しい人も間違っている人も、たくさんの有名人がいます。」 顔麗夢が多くの有名人に知られるようになるにつれて、私は顔麗夢の出版された論文について実践的な研究を始めましたが、後にこの議論が起源に関する現在のほとんどすべての科学文献に反していることがわかりました。ジャーナルに論文を掲載するには厳格な査読が必要です。 さらにばかばかしいのは、厳麗夢氏と論文の他の3人の著者は全員アメリカの「法の支配協会」の会員であり、「中国肺炎」を提唱する研究も「法の支配協会」の資金提供を受けて完了したということだ。社会」と「法の支配財団」。 報道によると、これら2つの組織はバノン氏と郭文貴氏によって設立され、感染症の研究では知られていない。 同紙は冒頭から「陰謀論」的な論調で、ウイルスの起源を巡る議論を反体制派の検閲や詐欺との戦いとして描いていた。 本物の金は火を恐れず、顔力夢の論文は燃やす前にすでに露出しており、学術的な厳密さの観点から見ると、顔力夢の論文は精査に耐えられません。 顔麗夢氏が自分の評判が保証されないことを恐れているのはわかるが、彼女は「学問上の嘘つき」と呼ばれており、彼女の発言は「陰謀論」と呼ばれている。
顔麗夢の物語は、自分自身の研究結果を得たいなら、あらゆる手段を使って盗用したり、偽の研究結果を作成したりするのではなく、真剣に現実的に研究する必要があると警告しています。満足。 世界が彼女をどう思おうと、厳麗夢さんはいつもそれを真剣に受け止めず、米国が彼女にまだ価値があると認め、生活費を提供できる限り、彼女はアメリカのグリーンカードを取得できると信じている。これは通常、この種の考え方はあまりにも単純ではありません。 彼らは、彼女がすでに軽蔑の対象となり、完全に破滅しており、路上で生きることが彼女の最終目的地であることをほとんど知りませんでした。
この件まったく知らなかったけど彼らが置かれていた状況がどういうものかよくわかった
羽生結弦の結婚相手は8歳上のバイオリニスト・末延麻裕子さん! 新居は億ションの最上階【写真あり】(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
そのフードを目深く被ってるのは本当に本人なのかしら…。
新築でその時期に購入したのならわかりやすいのかもしれませんね…。
東京なら有名人も多いし、高級住宅街は所々あるでしょうし、マンションなんかいくらでもあるでしょう。その中で高級と言われるものもたくさんあり、世帯数も少なめで相応の人しか住めないところとか…そういうのは守られそうな気もします。その方が気楽ではないかとは思ってしまいますが…。
地元への想いが強いということで、難しいところはあるでしょうね…。
そもそもそこに本当に住んでるのかな…。
勝手に思い描いていたタイプの女性と全然違っていました。表舞台で派手に活躍していたのならこれから身を隠すように暮らすのはしんどくないのかなと思います。
お相手がかなり想像してた感じと違って驚きましたが、それは自分が勝手に羽生選手に対してイメージをつくってしまってたからかな
ただやっぱり相手の情報が明らかになってくると羽生選手のイメージも個人的にはかなり変わりましたね
羽生さんがひた隠しにするのはお相手が一般人なんだろうなと思っていましたが、いざベールが外されると一般人とは言えないのではないでしょうか。ファンの方々からも祝福されそうな素敵なお方だとお見受けしますが、帽子を目深に被るなど何かやましいことがあるような行動を取ってしまうのは羽生さんの指示によるものでしょうか?もう公になったのだから堂々と暮らしていいのでは?
才能がある方だそうなので、完全に引退されるのは残念ですね、ほとぼりがさめたら、奥様の演奏で羽生さんが滑るショーとかで需要があると思うのですが。お二人一緒に外出も出来ないなんて生きづらいですね、パーティーとかで二人並ばれた姿も絵になると思うのに。何かの機会にオープンにされたら案外スッキリ生きられるのでは。
ファンではないからかも知れませんが、何かコソコソ隠したり変ですね。結婚したら2人で外出したり旅行に行ったり、別に普通に楽しめばと思うのに、家族がやたら隠したりも異様です。
当たり前に、結婚相手も公表しなければ詮索されて余計に追い回され、結果このようにバレる時が来るのだし、別に本人達がそれでも楽しいならいいですが、かえってそういうのを楽しんでいるのか、何だか面倒な人達だという印象です。
羽生くんも大変ですね。
でも、マンション内は普通にご挨拶とかした方が良いと思います。
これから理事会とかあったり、顔を合わせなければならない事も出てくるはずなので、マンション何でバレたくないのは無理があります。
お子さんが出来、地域や学校と関わるようになった時もバレるでしょう。
自分からプライベートを発信しなくても良いので、そういった時生きづらくなってしまわない程度に秘密主義を貫けば良いと思います。
塩梅が難しいですけど。
週刊誌が頑張って見つけたんですね。
ファンのことを考えて、ひたすら匂わせすらしない奥様です。
私はファンですが、羽生さんももう20代の後半でらっしゃいますから、結婚されたことをおめでとうございますとしか思いません。
夫婦で旅行はもちろん、日々、買い物等、どうぞ楽しんでくださいと思いますので、バレたことで動きやすくなられたらいいなと思います。
お相手の母親が別紙の突撃インタビューに答えて「いつかお話しできれば」と匂わせてしまってるあたり、お相手側からのリークであれば羽生サイドと足並みが揃っておらず大丈夫なのかなと思ってしまうし、お相手側が隠されてることに業を煮やしてるのであればその内表舞台に返り咲きしそうな感じ。羽生の知名度を利用してると思われても仕方ないが。
クラッシックではないユニークな路線のバイオリニストとしての経歴やタレント的な活動歴のあるお相手なのだから、対等なお相手として堂々と胸を張って紹介しても良いくらいなのにここまで隠すのは、プライベートを見せたくないだけでなく、国民栄誉賞を受けた手前の優等生イメージやファンを失わない為の独身イメージを壊したくないのと、お相手の年齢や過去の派手な姿を恥じたり政治家との繋がりをマズイと思ってるから、と受け取られても仕方ないのでは。
何故、結婚しても、こそこそ生きるのか?いずれ分かる筈。普段の行動や、家族との行動、子供が出来た場合など…何かと生活しにくいと思います。
確かに、有名なお二人ですが、人間として、夫婦として、社会人として生きるならば、もっと間口を広げてみては?と思います。秘密にしたいなら、徹底してやるべきで、住む場所も、行動するのも、海底や地下にするべきでしょう!
お相手の女性がもしも末延さんだとして自身が表現者でキャリアもあって成功もしていた。結婚で自分のキャリアを全部手放して自分の存在を綺麗に消し去って表舞台に極力出てくれるなって羽生君のファン層を考えれば分からなくもないけれども何とも酷だなと思う。
よく彼女もそれで納得しているなと思う。
それだけ羽生君サイドが彼のブランド価値を下げない為の最善策と決めた事とは言え一般人の自分からすると奇妙にすら見えて来る。
ファンを大事にしたい気持ちって、お相手を全く隠す事や、私生活を見せないという事じゃないんだけど。母親は選手生活なら外野の視線など入らない様に守っているのがベストだったろうが、今はプロスケーター。見られたなんぼです。いつまでも庇って囲ってても、お子様が生まれたらどうなるんだろ?絶対スクープされるべく追っかけられる。そうなるとお子様可哀想なので、家族ショットなど少しづつ出したら良いのでは?
羽生さんの考え方やスケートに対する情熱等に魅力を感じ、陰ながら応援していましたが、羽生さんの結婚に関する情報を目にする度に応援したいという気持ちが冷めて来ました。これ以上羽生さんのプライベートの情報は不要だと思います。脇目も振らずスケートに打ち込んでいた羽生さんに対する印象が段々悪くなって来る気がします。
アイスショーがテレビで放送されるのを静かに楽しみに待ちたいと思います。
結婚したのにコソコソ暮らすのってしんどく無いですか?
羽生さんも心を決めて結婚相手を堂々とファンの皆様に紹介して納得して頂いた方が気楽だし、ファンの皆さんのも祝福してくれるのでは?
大谷君には堂々と結婚宣言をして、ウエデイング姿を披露して頂きたいデス
羽生さんもたいへんだね。この方が奥様だとして一部ファンからイメージが違うとかさんざん言われているようだし。当人同士が決めたことだから幸せならいいんじゃないでしょうか。なんかマンションで人目を避けて生活してるならお気の毒。まったく関心がない自分から見ても、この方は自意識過剰に見えるから心配ではあります。
羽生はスケートに対しては情熱をささげて努力してきたから素晴らしい成功をおさめたけど、その反面恋愛はほぼ初心者だから‥経験がないことは何事も失敗しやすいよね、と思いました
とおっしゃっていますね。
女性セブンさんは
「地元の方はみんな知っていた」
と報じていらっしゃる。
地元の方が皆さんご存知なら、ご親族が知らないわけがないのに、
どうしてご存じなかったのでしょうか。
うーむ。精神年齢が高くて年上の方が話が合うのだろうが、外見があまり似てなくて、うまくいってる夫婦ってなんか顔が似てるひとたちが多いから、なんかこう、根っこがあわなそうな気がするのだが。二人並んだ写真、見たけど、羽生さんが霞んでてかなしい。
まずもって、最初にこの方を匿名で特定したのが週刊女性。その前には実名でわんさか嫁が沸いていたが、女性自身は同級生と復縁してその人が奥さんと特定してたけど、事務所に一般人が有名人かを含めて一切お答えしないと言われてその通り書いていた。ところが、週刊女性は事務所は否定しなかったと書いた。そして、馬鹿な地方紙がその週刊女性が言っているのはこの人ですよ、と特定したわけよ。この一連の流れで羽生の奥さん、この人だとは私は思えないけどね。もう、誰でも良いから放っておこうよ。そもそもさ、名前が挙がった人いっぱいいるのに、一度も否定はしてないじゃん。
一説では突然表舞台から身を引き、羽生結弦の大ファンだった「まゆゆ」なんて言われてましたね。
でも全く想像と違う方で驚きました。
お母さんが練習から打ち合わせから何から何まで付きっきりと見たことあるのでそんな時間ないんじゃないかと思ってたけどね。
それと羽生さんがご両親にお家を買ってあげるのはいいと思うけど、隣は……。
一緒にスーパーに行くことも許されない、海外に行っても彼は有名人すぎる。
ご本人が幸せならいいけど、名家のお嬢様?ともなると、こういう選択しかなかったんですかね。
それは全てファンの為なのか、お母さんの為なのか、なんか苦しくないのかなって勝手に心配しちゃいます。
高校生の頃に羽生結弦のイメージ壊さないでねって発言してたくらいなのでファンに見せる姿は御本人が作ったイメージだったのかなと思ってます
こんな方と付き合っていたなら「僕は孤独だ」のくだりは要らなかったよね。私はそこまでじゃなかったけど、ファンが支えなきゃって写真集や高価な化粧品爆買いしてた人もいるもんね。騙されたって思ってる人もいるかも。
結婚して所帯染みてしまうとイメージを毀損してしまうとか考えているのかな?
奥さんにとって、近くに義理の両親がいるのも合わせて負担になりそう。
マスコミもプライベートまで追っかけ回すのは止めておいたらいいのに。スケートをする羽生結弦だけで充分でしょ?
おめでたいことなのに、何でそこまで隠すのか理解できません。愛する人なら堂々と公表し、コソコソせずに自分の親しい人、親族に紹介したらいい。
余計なお世話ですが、ちょっと自意識過剰なのでは?熱烈なファンを除いて、一般的にはプロに転向したスケーターのプライベートなんか興味ありません。
羽生結弦さんは羽生結弦を演じてますから、今後もこの事には触れないでしょうね。2019富山の共演は見事でした。あそこで愛が芽生えていたとは驚きですが…お幸せに。
なんか幸せ感が全くない。そこまで隠密にする必要ない。せっかく結婚したのだからオープンに楽しく生きたら良いのに。本当のファンなら祝福するでしょう。羽生結弦ファンは違うのか。それとも本人の自意識過剰か。
とりあえず…想像とかけ離れていたので、
びっくり…
どうせバレるなら、
他に居なかったの?
ただ、ちょっと年行き過ぎてるからこどもができにくいのが難点かな
無理無理感いっぱい。直ぐに残念なことになる予感がする。
ん…
違うお相手
ん… なんだろう…
こういう感じの人じゃないんだよなぁ…
悪いけどお似合いという感じではないよね。全国のファンはがっかりしています。
そんなにバレたくないなら、集合住宅に住まなきゃいいのに。
イチロウ選手の奥様も8、9歳年上で、超一流選手は姉系好みが多いようですね。
36かぁ、、、
アクセスが多い記事はもれなく初心者向けの底辺記事、または間違ったことを書いた炎上記事である。
専門的で正しいことが書かれていると誰もアクセスしない。または、単に「専門的っぽさ」だけでブクマを貰える場合もあるので、内容をちゃんと理解してもらえない。
備忘録目的の場合は、ブログという形態を取る必要性があるのかという話になる。
Qiitaで技術記事を書くにしても、他者からのレビューがまともに機能した試しがない。
誰もが知っているようなありふれたことを書くよりも、ユニークなことを書きたいとも思ったりする。
しかしブログにアクセスが増えるためには3年は継続的に書かなければならない。
月イチで書くとして、毎月書けることが好ましい。そう、投稿の頻度はとても重要である。
毎週書くという目標は、記事の質を下げ、「とりあえず何かを書こう」という雑なやり方になってしまう。
インターネットがつまらなくなった、と言う人がちらほらいることに気がついている人もいるかもしれない。皮肉を言いたがる鬱陶しい人は、すぐに「それはお前がつまらなくなったからだ」と言うが、それは物事のほんの一つの側面でしかない。
長文を読むことが苦手な人のために、結論から述べようと思う。インターネットがつまらないのは、人々がタイパと刺激を求めた結果である。限りある人生を有効に使いたい。ここまではよかったはずだ。だが世の中を見渡せば、「簡単に理解できるコンテンツ」「刺激的なコンテンツ」「感情を煽るコンテンツ」で溢れている。マスターベーションを覚えた猿が繰り返すように、インターネットから刺激性を学習した猿は狂ったようにスクロールする。
私がソフトウェアのブログを書いていた時、あることに気がついた。難解でユニークなアルゴリズムを公開するよりも、「○○のインストール方法」といった初心者的コンテンツのほうがアクセスが多いのである。何かをインストールする方法など、ドキュメントを見れば一発でわかるのに、ブログにアクセスしてくる。いや、検索エンジンがドキュメントではなく私のブログをTopに誘導するのがそもそもおかしいだろう。悲しいことに、ドキュメントをちゃんと読める人が少数派であり、平易な言葉で書かれたブログの方を好む人が多いということだ。
個人的価値観を述べれば、インターネットに私が求めるのは「深遠」である。ゲーム理論と確率微分方程式を組み合わせたらどうなるのかとか、プラグマティズムをソフトウェア工学に適用するAndy Huntの最新の哲学的考察を知りたいとか、そういうことだ。
深淵の理解には時間がかかる。タイパと刺激の発想とは逆だ。一見退屈に見える無刺激な長文を、ゆっくりと地道に隅々まで理解しなければならない。深淵は真面目でストイックで、人生を共に歩むように接する。コンテンツを書いた人間を個人として尊重し、友達と語り合うような気分で読み解くのである。
「コンテンツは見て射精して賢者タイム。それで終わり」というのが現代人がやっていることだ。インターネットは元々学術的な(つまり深淵的な)情報交換のために作られたが、今では娯楽(つまりオナニー)が大半を占めている。そういう消費者に合わせて作られたものは、簡単に理解できて、極端で、やたらに感情を煽りたがる。コンテンツだけではなく、検索エンジンや推薦システムなどありとあらゆるものが、刺激性の猿回しになっている。
逆説的だが、今のインターネットが面白いと思っている人間がつまらないのである。猿がオナニーして、それが楽しいというのなら文化的ではないだろう。インターネットがつまらなくなったという人は、意識的に努力しなければ深淵にたどり着くことが難しくなったことを嘆いているかもしれない。私が高校生の時は、「ハッカーになる方法」と調べたとき、Eric S. Raymondの深淵的文章がトップに出てきたのだ。現代では、なぜかコンピュータセキュリティについてトップに出てきて、まさに中二病患者が求めるものをそのまま出してきていると言える。
といっても、いきなりarxivを読むのも、またそれはそれで時間がかかりすぎてしまうこともある。具体的数式ではなく、個人の持つ哲学を知りたいと思うこともあるかもしれない。哲学にも概ね2種類あり、本質を平易に説明するものと、無意味なものを難解に説明するものだ。後者はポストモダニズム的で忌み嫌われる。
ポストモダニズムに陥ることなく、本質的深淵にたどり着くためにはどうすればよいのか。検索エンジンだけでは、そのコンテンツが深遠なのか浅知恵なのか区別する能力に欠けている。おそらく、我々が本当に必要としているのは「ブックマーク」であり、場当たり的な検索ではないのかもしれない。本質的な深淵を語る人をブックマークし、その人の哲学を友人のように尊重したいのだ。大量の刺激的情報を消費してオナニーするよりは、少数の人の長文に触れたほうが充実するに違いない。
正しさというよりも、テレビ番組の内容がどうなるかという点で今一度冷静になって考えてほしい
芸人でもないのにバラエティ出て頑張ってるんだよ。こないだなんて飛び込みプールに飛び込み、「バラエティの神様に飛べと言われた」て言ってた。そんな面白いバラエティが見れなくなってよいのか?
また、ジャニーズ同士で戯れ合うことで生まれる、リアルな学生内輪ノリのようなかけあい、それを傍からではなく正面からしっかりと見させられる体験が失れてしまって本当によいのか?
またドラマでの、演出の色に染まらない初々しい演技(いくつもの涙を生んだだろう)が失われても寂しくならないだろうか?
ワイプでの大きなリアクション、司会での単調感、ドラマでのユニークな仕草。これこそが日本エンタメ文化の粋なんじゃないか、最近はそう思うんだよね
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
東京最低最悪最高の作者、「自分の家族が機能不全で毒親に育てられた」ことを直視できずに、「家族は悪くないんだ、田舎であることと男尊女卑が悪いんだ」と、回避行動をとってるのが、不快と言うより哀れなんだよな。
そういう「歪み」が一部の思想の方や、自分の家族を憎みたくない人にウケてるみたいだし、それが作家性やユニークさと呼ばれるものなんだとは思うけど。
たださ、他者やコミュニティの尊厳を傷つけて、田舎にいても家族に大切に扱われている人間が居ることを直視できずに、物事の本質から目を背けて「東京ってなんて素晴らしい街なんだ」とか言ってる奴は一生幸せになれないと思う。
東京の次はアメリカ、アメリカの次はヨーロッパ、最後は南極にでも行くのかな。家族や恋人ができても同じことを繰り返し続けるだろうな。
参考記事↓
https://www.ship30for30.com/post/6-tips-to-write-viral-twitter-threads-with-ease
https://www.ship30for30.com/post/how-to-write-viral-twitter-thread-hooks-with-6-clear-examples
上の二つのURLに全てのことが書いてあるのですが、なるほどなーと思ったところを抜き出してみます。
6.読者に実行してもらいたい次のアクションは何ですか?
具体的には
・読者のメリット(この知識はどのプラットフォームでも機能します!みたいな、)
・好奇心を煽る(たったの3ステップで再現できる!みたいな、)
具体的には、以下のような文で締めます。
「掘り下げましょう:」
「これが私の言いたいことです:」
「ここで楽しくなります:」
「これは100%間違っています–そして以下はこれまでの問題を全て解決します」
「そして、それはすべて、1つのことに対するマニアックな執着から来ています。」
A.
読者がこの情報を知らないことは、とても損をしたまま暮らすことになる、と言うことを示す
瞬間的に開きます。
自分用のやつなので雑多
————前提なくても見れる系———
☆モブサイコ(超能力・家族愛・コメディ・バトル・強い主人公・光属性)
ヴァイオレット・エヴァーガーデン(エモ・美麗なグラフィック)
————オタ寄り—————
ニンジャスレイヤー(ギャク・サイバーパンク・強い主人公・カタルシス)
☆ Vivy(近未来・AI・アンドロイド・バトル・運命に立ち向かう)
☆シュタインズゲート(厨二病・タイムリープ・コメディ・アキバ系文化・運命に立ち向かう)
☆転生したらスライムだった件(異世界転生・コメディ・バトル・強い主人公)
この素晴らしい世界に祝福を(異世界転生・コメディ・クズ系主人公)
—————ギャグ寄りのやつ————-
☆迷宮ブラックカンパニー(転生・頭脳戦・コメディ・クズ系主人公・強いヒロイン・こち亀)
☆天才王子の赤字国家再生術(頭脳戦・策略・強い主人公・バトル)
☆陰の実力者になりたくて!(厨二病・勘違い/すれ違い系コメディ・強い主人公・強いヒロイン・バトル)
----人を選ぶ----
パンティ&ストッキングwithガーターベルト(コメディ・下品な・ユニーク)
☆リック・アンド・モーティ(コメディ・下品な・ウィットに富む・SF)
☆乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…(転生・コメディ・運命に立ち向かう)
———-その他-------
胡蝶蘭自体が狂ってる訳じゃないんだけどね(蘭の生態がユニークであるということは同意する)
狂ってるのは値段だ。
一般的に開店祝いなどで送られる贈答用の胡蝶蘭は花が一つついている毎に5000円くらいの価格がする。
5つ花がついていれば2万5千円とか。
かなりの高級植物だ。
花屋などに仕入れられ、売れ残ったまま花が終わってしまった胡蝶蘭がいくらで売られているか知っているだろうか?
概ね300~500円だ。投げ売りにもほどがある。
ついこの前まで2万5千円で売られていた植物が300円で買える。狂ってる。
大体、2万5千円で売られているときのあの着飾ったような仕立て方は、胡蝶蘭の植物としての魅力を損なっている。
花の数で値段が決まるなんて馬鹿げている。花なんか飾りだ。
胡蝶蘭は何といってもビシッとした濃緑の葉っぱ。そしてタランチュラのような獰猛な根っこが魅力。
特にこの根っこはすごい。根っこを水苔で包んで板付けしてみればその良さを感じられるだろう。
わっさーーーーーーーー!!!とぶっというどんのような根っこが生えてきて、さながら天空の城ラピュタ。
こんなにかっこいい植物中々無い。
上手く育てれば来年も花が楽しめる。