はてなキーワード: 主治医とは
病気で常に肉体的な痛みを抱えてるような人はどうやって思考を保ってるんだろう。
筋トレや運動の苦痛で思考をジャックすることと同じことが常に病によって行われてしまう。
大野更紗の麻美ゆまとの対談http://blogos.com/article/92801/
大野:私、全然乗り越えてないですよ(笑)。もうぐっだぐっだに未練たらたらですから。
自分の病気を許しがたいと思う時もあります。正面から闘う時もありますし。免疫抑制剤を常に投与しているので感染症に罹患しやすいので、今マスクをしていますが、実は今年は2月と3月にノロとインフルエンザにかかって、もう大変でした。あやうく死にかけ、ドクターに怒られてしまいました。
そういう時は、劇的に病気と対峙しているのですが、そうじゃない時が、日常の大半の時間を占めるんです。全身の痛みや、言葉にできないような倦怠感、疲れやすさや病気のコントロールのために必要な朝から眠る前までの日常生活の工夫と服薬管理。そういう延々とした時間と、どうやって付き合っていくか。慢性の病気とか、治癒が困難な病気とか、再発のおそれのある病気を抱えながら、自分ではどうしようもないことを抱えながら生きるということは、そういう状況にサーフボードのように適当にユラユラのってみるというのも、それはそれで1つのあり方なのかなと思ったりもします。で、たまに無茶してドクターに説教される、みたいな感じですかね。
大野:気分は今もずっと落ちています(笑)。基本的によく「大野さん、明るい」とか「前向き」とか言われますが、ネクラで心配性。心配性が過ぎるわけですよね。
人から「こうすれば何とかなるよ」とか「たぶん、こうなんじゃない」などと言われても、自分の主治医にすら、「こうだと思うから、たぶん何とかなるんじゃない」と言われても、それらを信用できないわけです。自分で確かめて確信を持てるところまで至らないと、一歩を踏み出せないんです。
同じく、軽度のクローン病と精神病で精神障害者手帳貰って社会復帰している者です。
一応、精神障害者手帳の申請用医師診断書に、他の病気を書く欄があって、精神科医に事情を説明すればそこにクローン病と書き加えて貰えます。
国の審査でどこまで合わせ技一本が認められるかはブラックボックスの中ですが
そういう記入欄があるということは、精神障害の単騎で申請するよりは通りやすくなっているはずです。
そもそも精神障害者手帳の申請のチェック事項は、日常生活・社会生活を送れているかどうかの選択枝を選んでいくだけで
原因とか、特に問われていないし。
大半の医者は、治療することと、患者が社会に出られるように図らってやることの狭間で、判断のバランス取ってくれているので
「この患者が社会福祉に助けられず詰んでいる」と判断したときには、型に嵌った診断書ではなく工夫して書類を作ってくれたりします。
ズルではありません。だって、クローン病が治療法も原因も不明の難病である以上、
頑張れないのがクローン病から来ることかメンタルヘルスから来ることかなんて、判別不可能なのです。
頻繁にトイレに駆け込もうが。
社会福祉の恩恵を受けやすい精神病に寄せても、バチは当たりません。
精神科の主治医が、学会で症例報告とかする時の倫理はまた別問題で、厳密に考えた方がいいでしょうけど。
そして、働くにしても最初の稼ぎは、生活保護基準以下でしょう。
才能を疑うようで申し訳ありませんが。
やはりクローン病対応の障害者用グループホームを探して、世帯を分けて住むことをお勧めします。
役所の障害者窓口で相談すれば、消化器疾患に強いグループホームを紹介してくれます。
町に一つはある「障害者就労支援センター」みたいな所でも相談しましょう。
親があなたを扶養できるかなんて、親の自己申告でしかないのです。
幾ら親に収入があろうが、「養っていたら我々が最低限度の文化的生活を維持できなくなる」と言えばそれで扶養義務から外れるのです。
親に差押えとかありません。
(
ただ、御父上が自営業とのことですが、都道府県・市区町村との取引が多いと、田舎の場合業務に支障が出るかもしれません。
俺はこれと、地方だから車を手放せない、クレジットカードは欲しいという理由で生活保護以下の収入で食いつないでいた時期がありました。
御父上の名誉の問題になるなら、2,3隣町のグループホームを探すのも手です。
)
親と世帯を分ければ、社会保険も親の扶養から国民健康保険になり、保険料基準が自分の所得になります。
精神科でも自立支援医療制度を使った場合の月額上限が、かなり下がります。
働き始めたころ、もうアラサーの立派な大人なのに連日おねしょをした。
翌日から、尿漏れパンツを着用し、敷布団と布団シーツの間に尿漏れガードシートを敷いて、
仕事のストレスから、夜中に何度も「お母さーん!!」と寝言で叫ぶ日が増えたそうだ(家族談)
通院先の主治医に話したが、そうですかーと真剣に聞いてもらえなかった。
仕事をするたびにお漏らしをして、夜中に奇声を発し家族の安眠を妨害する。
処方が増えた睡眠薬によってまた取り止めにない文章を書いてしまう。
衝動が抑えられない。
私はゴミだ。
障害のことは伏せて働いているけど、普通の人のふりをするのがつらい。
つらいよ、助けて。
前回の記事
https://anond.hatelabo.jp/20180717173436
未読の方は、↑これ読んでもらったほうがいいと思います。
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おかげさまで、お仕事が見つかりました。増田の皆さん、相談にのってくれた皆さん、ありがとう(まだ契約書を送ってもらっていないし、サインもしていないけどね)。
まずは、猶予(延滞金がかからない)ではなく、未納扱い(延滞金がかかる)で督促状が届いた年金を納めるところから始めたいです(事情を説明したんだけど、一年分しか猶予扱いにならなかった)。
その次に、母のためにメガネを買ってあげたいです。二年前にコンタクトレンズをなくして、それ以来ずっと裸眼で生活しているんですよね。もう歳だし、今更視力もおちないと思うからメガネでもいいんじゃないかな?
それと、やらないといっていたブログを開設しました。URL:https://kuron.hateblo.jp(そのIDはやめたほうがいいといわれたので、IDごとURLも変えました。紛らわしくてすみません) 月一更新が目標です。(次回更新が「とんこ」報告にならないことを願ってます。)
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現在は諸々の事情からHTMLとCSSについて勉強中。どの書籍を購入すればいいのかわからなくて、とりあえずpaizaを使っていたんだけど、量も少ないし途中から有料だし悩んでいました。フォロワーのかたからプロゲートを勧められたので、そっちをやってみようと思います。
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以下、今までにあった質問への返信です。量が多いので、誠に勝手ながら質問だけ抜き出して返信します。すみません。
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Q.よく運転免許をとれたね?
A.運がよかったんです。
クローン病だと確定診断される少し前で、痔瘻の膿を排膿してもらった直後でした。狭窄による痛みが酷くて、腸の蠕動運動のたびにお腹は鳴るし痛いしで大変でしたが、一日一食にして時間帯をコントロールすればなんとかなった時期でもあります。
当時は就活も就職も全部諦めていて、学校を卒業後は親父の仕事を手伝うつもりでした。そのためには運転免許がどうしても必要で、必死になって一日最長2~3時間ドライビングスクールに通いました。腹痛で途中退席したせいで教習をこなせなくなったときには、スケジュール組み直してくれとスタッフさんに泣きつきましたね。マジでヘビーなクレーマーだったと思います。反省してます。足向けて眠れません。
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A.クローン病の場合、発症するだけでは受給資格を満たせないです。
慢性的な痔瘻(痔のせいで膿が溜まる)が癌化して肛門や直腸を取ってストーマ(人工肛門)にしたり、小腸を切除したせいで栄養を吸収するのが難しくなって、鼻からチューブを入れて胃に直接エレンタール (経腸栄養剤) などを落とすようになったり、それすら無理になって注射針を刺して点滴を落とすようになるとやっと障害者扱い。ここでやっと障害者手帳がもらえます。
僕の場合、クローン病を患っているけどストーマ(人工肛門)ではないし、食事をとることもできます。というか、エレンタール(経腸栄養剤)を飲むと浸透圧の関係で絶対に下痢になってしまい痔瘻が悪化するので、胃がもたれようが下痢になろうが、無理して食べています(だから、痔瘻が悪化して身動きとれない状況になると、体重減少の速度が凄まじいです。3~4キロは簡単に落ちる)。主治医もQOL(生活の質)を考えたら食べられるほうがいいだろうって方針で、食べることを勧めています。正直な所、仕事が見つからないことと、食事をとれることを天秤にかけた場合、QOLは上がっているのか下がっているのか怪しいところです。QOLと就職は別問題だから関知しないってのが主治医の方針なので、こればっかりはしょうがないです。
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Q.鼻チューブ(鼻からチューブを差し込み、 睡眠時に ポンプを使って一滴ずつゆっくりと胃へエレンタールを落とす方法)やってるなら、障害者手帳いけるやろ。
A.マジで……?(´・ω・`) 今度通院したときに聞いてみます。
僕のお世話になってる病院ってIBD(クローン病のほか炎症性腸疾患をまとめた総称)の専門医はいるけど、サポート適当なんだよね。クローン病の治療では初手術となるシートン法のときとか、特定疾患(現:指定難病)の受給者証の申請を教えてもらわなかったので、実費で払ってましたから……その後事務のかたが高額の支払いを疑問に思い調べてくれたおかげで助かりましたが、遡って返還請求できるのは三ヶ月(たぶん)だったので、手術費は無理で経済的にきつかった思い出があります。(これはネットでみた経験談なんだけど、特定疾患(現在は指定難病)の受給者証について知らないまま、医療費の助成を受けずに借金までして払っていた人がいるみたいですね。確定診断されたら自動的に申請されるような仕組みが求められます。)
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A.安心して。医者はコンプラ守るし、これを書いているのは25歳中卒無職職歴なしのクローン病患者だよ。
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Q.生活保護もらわないの?
A.父は有限会社の社長で(従業員なんていないけど)、収入もあるため生活保護は受給できません。
借金の返済に追われてクビが回らなくなって自宅を差し押さえられて競売にかけられたし車も手放したけど、収入はあるんです、生活苦だけど。ちなみに、大きな仕事もこないのに有限会社なのは、得意先から「社長さん」っていわれたいからね、これ公然の秘密。
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Q.自己破産しないの?
A.親父の実家の土地の名義が、どういうわけか婿入りした親父の名義になっていて嫌がっている。
国に土地を取られたくないんだとか。親族の名義に変える方法もあるけどお金ないし、父方の叔母の介護を巡ってご兄弟の間で喧嘩をしたから、頼れる人がいないみたい。
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Q.職業訓練うけたら?
A.受けたいんだけど、体調的に通えない。
慢性的な下痢のせいでトイレに行きたくなったら我慢できないし、痔瘻が定期的に悪化する。一度悪化すると排膿して落ち着くまでイスに座れないから、2~3ヶ月講習を受けに通うのは現実的じゃないんよ。これは冗談抜きで、通信制の職業訓練の創設を所望する。
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A.検討したけど、できなくなった
僕だけ一人暮らしをして生活保護を受給するか検討したこともあったんですが、当時は手術前でとんでもなく体調がわるく、母親から身の回りの世話が必要だろうからやめとけば、といわれてやめました。その後共働きの両親が多忙になり(まさしく貧乏暇なし)、物件探しをできなくなったのも理由の一つです。
どういう状況だったかは、今度ブログに書く病気遍歴を交えた時系列を見てもらえば、察してもらえると思う。(もともとは書くつもりなかったんだけど、クローン病患者の症状は十人十色で差がありすぎるので、ネットで見れる経験談は多いほうがいいって話になった。)
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最後になりますが、一部誤解があったようなので訂正させてください。僕は生活保護や生活保護受給者に対して反発していません。
反応・ご指摘ありがとうございます。
漠然と脂肪分の吸収阻害!凄い!という所だけに注目していたのですが、いくらなんでも軽率でしたね…
仕組みとしては胆汁と脂肪が吸着→胆汁と脂肪が吸着したものにキトサンが吸着→まとめて排出という形になるんですね。膵臓への影響もそうですし、昔に膵炎が大幅に悪化した時に胆嚢の方にも炎症が出たことがあるので、やはり主治医の先生への確認第一としようと思います。
30代半ば、軽度のクローンです。自分の場合は手術を受けていないので身体障害者手帳を取得出来ませんでした。手術をしてるかしてないかが分かれ目になるようです。
長年のうつ病もあったため精神の方で手帳を取得、就労移行支援を受けながら半年で就職しました。35歳でした。
この場合は身体障害者手帳を取得出来るのではないかと思います。
また、病気やご家庭の事でかなり悩まれ苦しんでいるかと思います。
心療内科には通院していらっしゃいますか?文章を読んでいるとうつにも該当するような気が。。。地域の健康課などで精神の手帳取得についても相談してみた方が良いと思います。お医者さんを紹介して頂く事も可能かと。
ここまで追い詰められていると心療内科に受診して精神でも手帳を取得しておいた方が良いと思います。メンタルのケアをする事でクローンの方も多少良くなる可能性はあります。
手帳取得して就労移行支援施設でExcel,Word,PowerPointの授業受けてスキル磨きましょう。
また、履歴書の書き方、ビジネスマナー研修、コミュニケーション研修など積極的に受講し面接時にアピールすれば仕事見つかると思います。
あとは第一印象がかなり大事なので髪を切って身なりを清潔にしましょう。
働き出してお給料が貰えるようになったら高卒の資格取りましょう。まだまだ若いのでチャンスはいくらでもあります。
それからMicrosoft Office Specialist(MOS)の資格も役に立ちますよ。
病気で大変だとは思いますが、むしろをそれを自らの武器にするぐらいの前向きさがあれば必ず道は開けます。
出来れば通信制の大学に入学したいとも考えています。ちょっと前まで無職で絶望して塞ぎ込んでたのに。
正社員になれないのもわかってる。
保険とかもろもろややこしいものもいらないから、お金を稼ぎたいです。
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僕のスペック
・中卒(正確には高校中退)
・年齢20代
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中学生のころにクローン病という病気を発症。当時は過敏性腸症候群だと診断された。
その後腹痛で通学できなくなり、不登校状態で卒業。通信制の高校に進学したが三年で卒業できないとわかった頃、クローン病だと診断されて退学した。
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クローン病ってなに?って人向けに説明すると、粘膜に炎症が起きる病気。原因がわからないので、完治はできない。症状をコントロールするのが目標。
僕の場合症状がでてから診断されるまで間があったので治療が遅れた。クローン病だとわかったときには小腸や大腸で炎症がおきていて、狭窄ができていた。
腸管内で繰り返し炎症がおきて、傷口にできるかさぶたが積み重なって狭くなったといえばイメージしやすいかもしれない。
炎症を抑えるために免疫抑制剤を使いながら様子を見てたんだけど、狭窄の痛みが酷かったので腹腔鏡手術で切除した。
手術のおかげで狭窄の痛みはなくなったけど、これが原因で現在は慢性的な下痢に苦しんでる。
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慢性的な下痢になると、痔になる。酒飲みのおっさんみたいだが、笑えない。酒飲みは酒を絶てば治るが、僕の場合食生活ではなく腸のせいだから治らない。
痔が慢性化すると、膿んで痔瘻になる。こうなると発熱するし、痛くて座れなくなる。肛門周囲に膿が溜まって、水ぶくれができて、その後自壊(破裂)して中身が垂れてくる。
痔瘻の手術もした。シートン法といって、膿んだ部分をくり抜いて、ストローみたいなチューブをぶっ刺すんだ。
こうするとチューブが邪魔でくり抜いた部分がいつまでたっても埋まらない。その間ずっと膿が出てくるわけだ。
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毎日の排泄が辛い。トイレにいくたび痔瘻が腫れる。トイレにいって、横になって、なにやってるんだろうと思う。
トイレにいく回数がふえるだけで、横になる時間が増える。これじゃ予定も入れられない。
「治してからにしてください」
いや、治したいよ。だけど、治せんのよ(´・ω・`)
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無理して両親のつてで土木建築の現場を紹介してもらい、バイトをしたこともある。
だけど、現場のトイレは使えないからコンビニまで行かなきゃいけないし、下痢プラス痔瘻のコンボで漏らしてしまった(文字通り)。
それ以前に、免疫抑制剤のせいで道具を握れば突発性じん麻疹が出てしまう。
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どうしようもないが、悲しいし、悔しい。
クローン病の患者の会に出席したことがある。職業について語る場面で、普通に「生活保護です」と喋っている人たちがいた。
いずれ僕もそうなるんだろう、とは感じてる。だけど、今は働きたい。20代で諦めたくない。
だけど、手伝ってくれる人なんて周囲にいないし、相談相手もいない。金もない、仕事探しに使える資格もない。学校通ってないから友達もいないし、ネット上の友達っぽい人もいない。ヒモになれるイケメンでもない(というか、ブスだ)。体力もないし、すぐじん麻疹でるし、かゆみから貧乏ゆすりがとまらないどうしようもない人間だけど、それでも諦めるのは辛いんだ。
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両親には今まで数多くの迷惑をかけてしまった。顔を見ただけで疲労困憊しているのがわかる。申し訳なく思う。
だからこそ、経済的に自立、もしくは家計を手助けするぐらいのことをしたい。
だけどネットの求人を探しても、中卒の病気持ちを雇ってくれるところはない。学歴不問のラブホの厨房のような仕事でも、スケジュールに穴を空けられると困るし、勤務中にトイレに行くのは困ると言われてしまった。
狭い知見しか持ち合わせていないから、これ以上僕一人でできることはない。
雇ってくれる経済力のある人は自殺者1人減らすと思って声をかけてほしい。雇用者じゃない人も、こういう仕事ならいけるんじゃね?と思ったら書き込んでほしい。
今現在夢も希望もないが、ここに書き込めばなにか見つかるかもしれないと思った次第。できるだけ返信はするので、よろしく。
Twitter https://twitter.com/kuron_hatena
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まず高校を卒業したら?と考える人がいるかもしれないけど、親父が借金抱えていて経済的な余裕がないんです。学歴のせいで中卒OKなバイト探すだけでも苦労する有様なので、将来的には高校を卒業したいと思っています。だけど、まずはお金です。そういうこともあって、この日記を書きました。
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追記2
クローン病患者なので、特定疾患による医療費の助成は受けていますが、障害者ではありません。だから、障害者雇用枠で就職することは出来ません。
障害者と健常者の間でセーフティーネットからこぼれ落ちた男の話として読んでもらえれば理解しやすいかと思います。
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追記3
>>住み込みや単身赴任でもいいのだろうか。通院があるから難しい? 希望勤務地とかそのあたりの条件が意外とポイントじゃない? 引っ越しも可なら、意識高い系の農業法人とかなら宣伝も兼ねてワンチャンないかな?
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二ヶ月に一度通院して、ヒュミラをもらうサイクルを繰り返しています。
二ヶ月に一度なのは、特定疾患の助成の度合いが「高額かつ長期であるか」で決まるからです。都道府県によって違うみたいですが、僕の県では高額の支払いが年6回以上あって、世帯収入が低収入の場合、月の支払い上限額は5000円になります。ヒュミラ二ヶ月分で30万円ほどかかっているので、一割負担でも三万円。かなりデカいです。
なので、二ヶ月に一度クローン病(IBDでもいい)に詳しい先生がいる病院に通院ができて(高額かつ長期のための実績づくり)、ヒュミラが受け取れて、医療費の助成が受けられる立地なら、どこでもいいです。
もちろん農業もばっちこいです。ただし、ヒュミラのせいで感染症になりやすかったり、怪我が治りにくかったりするので、そういう仕事には注意が必要です。
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追記4
>>gonzales66 京都難病支援パッショーネ 上野山さんの京都新聞の連載 > 難病患者 就労への挑戦
>> 「41歳男性、難病患者で通院中、はい、重症筋無力症という病気です。短時間労働を希望しています。はい、障害者手帳は持っていません。あ、そうですか…失礼します」。おおむねこんなパターンで撃沈します。後で担当者からいつ頃病気は治るのですかと聞かれ、「いやあ基本治らないっすわあ」とこのくだりまでがいつもの流れです。
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僕のバイトの面接もこんな感じでしたね。この気まずさ痛いほどわかります。
長時間労働希望のほうがシフト埋めやすいのはわかるんですが、慢性的な下痢で痔瘻患ってるとトイレが長いんでワンオペ無理です、短時間労働希望です、と告げると理由を聞かれます。
病気を告げると、障害者手帳の話になり、持ってないというと、いつ治るの?と聞かれて撃沈。
唯一の例外は新聞配達のバイトでしたね。人柄採用でした。下血が酷くなり痔瘻が悪化、患部が腫れて自転車を漕げなくなり、一週間の研修が終わると同時にやめちゃったんだけどね(´・ω・`)
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追記5
>>worris 戀塚昭彦さんがUCで在宅勤務ですね。私はCDで経腸栄養剤を補助的に摂取して通勤できています。
僕もそれ試してみたんだけど、経腸栄養剤(エレンタール)にすると下痢の回数が増えちゃうんだよね……浸透圧のせいかと思って薄めに作ったり、鼻チューブで就寝中に一滴ずつおとすのとか試したんだけど、お腹ゴロゴロして日中なにもできないわ、下痢の回数増えて痔瘻が悪化して、外科の先生に排膿(患部を切開)してもらうことになったりと散々だった。主治医のススメで栄養指導も受けたんだけど、エレンタール無理なら他にない、とさじを投げられてしまった。
クローン病の好発部位である回腸を切除すると下痢になりやすくなるみたい。
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追記6
>>a254103 患者の会に生活保護を受けていない人たちもいそうだけど、その人たちはどんな仕事をやってるのだろう?参考にならないかな??
患者の会は今現在健康的な生活を送れている人しかこないので、あんまり参考にならないんですよ。
パターンA、下痢や痔瘻に悩んだことはないし、狭窄になったこともない。免疫抑制剤やエレンタールでコントロールできている人。
パターンB、下痢や痔瘻や狭窄に苦しんだが、ストーマ造設手術を行い、オストメイトになった。現在は障害者として普通に生活できている人。
だから参考にならないし、相談するとストーマにしちゃえば?としか言われない。主治医にそのことを伝えると、クローン病自体はコントロールできている(実際小腸、大腸の縫合後に潰瘍が見られる以外再燃していない)。QOL(生活の質)と就職は別問題(なので関知しない)と言われました。
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追記7
自分の健康面での将来が不安で「クローン病を患っていて、とうとうストーマになった患者さんのブログ」を見ていたんですが、コメント欄をみてもアドバイスが殆どなかったんですよ。僕自身fc2(アメーバだったかも)で一度記事を書いたことあったんですけど、最初のコメントが通販でサプリメント売りつけている別ユーザーの慰めのコメントでした。そういうのはもうお腹いっぱいなので(いっぱいなので)あえて増田かな、と。
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追記8
>>pmonty きっついね。自助努力ならプログラミングだと思う。あとブロガー(文才あるよね)。流行りならYoutuber, Vtuber とか?住んでる県か市くらい明らかにした方が救済が期待できるのではないかと。
どこまで書いていいのかわからなかったので書いてなかったんですが、大阪府在住です。
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追記9
>>いちおう欲しい収入は書いたほうがいいんじゃね
本音でいうと、お金をもらえるなら具体的な金額はどうでもいいです。10円とかじゃ困るけど……。
高校をちゃんと卒業するためのお金を貯めたいって目標はあるのですが、それだって残ってる単位40ほど×1単位9000円でけっこうな額になっちゃうし、入学費用(退学してるので)も含めるともっと増える。
二年以上新しく服買えていない(バイトの面接でジーンズダメと言われて本気で困った)、未払いで電話が止まること多い、というかクレカが全部死んでる、家差し押さえられた、車手放した状況なんで、世帯収入増えるならなんでもいいです。
そのうえでですが、僕の医療費の支払い上限は5000円で、特定疾患による医療費の助成表から逆算すると世帯収入は370万円以下のはずです。これが370万円~810万円になると、上限が10,000円になります。年6回通院なので、30,000円の負担増がペイできて、家計に貢献できるならうれしいです。
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みんないろいろありがとう。まだ報告できることはないけど、TwitterのアカウントにDMがたくさん来て嬉しいよ。
ブログやらないの?って書き込みはあったけど、このアカウント思いつきで取ったので、IDがkawango2525なんだよね。誤解しか生まないからどうしようか悩んでるよ。
ちなみにkawango2525なのは、Twitterで低能先生がトレンド入り→kawango2525のつぶやきが話題になってるのを知る→低能先生についてのはてなアノニマスダイアリーの記事を読む→自殺を考える→禁止されていた飲酒をする→酔った勢いではてなアノニマスダイアリーに記事を投稿しようと思い至る→アカウントを取得するって流れだったからだよ。
Twitterのアカウントは見ているので、なにか用事のあるかたはDM送ってくれたらと思うよ。
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来週中になにか報告できるかもしれません。DM送ってくれた皆さん本当にありがとう。この恩は働いて返します。
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5年間精神病で働けず、精神科に通院しているが、先日治らないだろうと宣言された
もちろんこの5年間いくつも薬を変え、治療してきたが一向に薬が効かない。他の病気かとも思い検査も受けてみたが、まったくどこも悪いところはないらしい
薬飲んでも何も変わりないんだから、減薬してみてもいいかと主治医に許可をもらい、時間を掛けて1日1錠だけ飲む状態になった。1日4錠飲んでた頃と本当に何も変わらない
薬がゼロになったら今後どういう治療をするのかと聞くと、「ここに来ても私と数分話すだけで何も変わりませんから、(別の常用薬)が欲しいなら内科でももらえますよ」とのたまった
意味がわからず聞き返したら、将来的に効く“かも”しれない薬が出てくるまで待つしかないんだと。他に治療法や検査法もないと主治医に言われた
どうやら5年間周りからも家族からもやいやい言われながら治療に費やした日々は無駄だったらしい、30代で働けない病気も治らない身動きもまともに取れない人間は何のために生きればいいのか
死ぬしか無いかなと思うが、年老いた両親の事を思うとこんな役立たずの出来損ないでも生きてた方が何かの役に立つかもしれないしなと葛藤する
もう何年も前のことだが仕事のストレスで体調を崩し主治医の勧めで心療内科の世話になったことがある。世話になったと書いたが実際には何の世話にもなっていない。私は自分が抱える人生の問題を解決する知恵が得られると期待していたが心療内科はそう言う場所ではなかった。例えるなら歯が痛い人に痛み止めは出すが痛みの原因である虫歯を治療しないような場所だ。これはカウンセリングも同じで、話は聞くが問題解決に役立つアドバイスがされることはない。
心療内科やカウセリングがそういう場所であることは別に構わない。ただ、そのような機関が何のために存在するのか未だに謎である。世の中に心療内科の医者やカウンセラーに救われた人は本当にいるのだろうか。結局、私は人間の認知の仕組みを独学で学び、古今東西の哲学書や苦労人の伝記を読み漁り自分の生き方を根本から見直すことで体調不良から抜け出した。その経験から言うと現代人に必要なのは心療内科の医者やカウンセラーではなく生きるための知恵や知識を伝える人ではないかと思う。
もちろん心療内科(精神科)での治療が必要な人もいるだろう。認知症や統合失調症などの重篤な病気は物事に対する考え方を変えても治らない。病気の治療に効果があるとされる薬物を医者の指示に従い適切に摂取して症状を和らげる必要がある。しかし、そういった病気でなければ必要な情報を集め偏った考え方を変える努力をした方が病院やカウンセリングに通うより有益である。
本文をうっかり読んでしまうのは時間の無駄なのでいくらか前置きで警告をしておく。
これは一人のクソ女の自分語りだ。
多分恋愛をしている人にもメンヘラをやっている人にも響かないと思うので、ノンフィクションの小説が好きな人とかが読んで哀れむなり蔑むなりネタにするなりしてくれたらいいと思う。
文章にすると落ち着くたちなので、一回字に起こして整理したかっただけだ。
特に意見やアドバイスを期待してはいないけれど、私が想像も出来なかったような現実を打開する魔法があるなら教えて欲しい。
そうじゃないなら今はほうれん草を沢山使うレシピくらいしか知りたいことはない。
石を投げたりして気持ち良くなるなら好きにこの文章の私を罵ってくれて良い。もし肯定したいとか共感したとか優しい言葉を掛けたいとか思ったら、それは上手く受け取れないので胸に仕舞うか何かしておいて欲しい。言って満足するなら言って満足して欲しい。
それから、ぼかしたりフェイクを入れてはいるけれど一応念のため。私の彼氏さん。あなたがこれをもし読んでいたら、私にいい加減愛想を尽かして下さい。メールもしなくていいし、顔も合わせなくていいです。ここにはあまり書いてないけどあなたはすてきな人なので、きっと可愛くて気立てが良くて知的で趣味の合う恋人や奥さんがそのうち出来ると思います。私抜きで幸せになって下さい。でも今までありがとう。
さて、数えてないけど多分これ五千字くらいある本文。
私には彼氏がいる。中学生の頃男女混ざった仲良しグループに居た同士だったが、彼は当時テンプレの中二病クソ女であった私に親切だった。私はいわゆる愛情に飢えたメンヘラであり、被虐待児でもあったので親切な彼を好きになった。
親に無理矢理突っ込まれた進学塾、殴られたくないから沢山勉強して、私が目指した志望高校は彼と同じ学校だった。志望理由は、当時不良やヤンキーが苦手だったのでそれでもやって行けそうな校風であることと、私のやりたい部活の成績が良かったこと。通える範囲で目指せる偏差値で勝手に割り出されたその高校を志望していると自分に言い聞かせるために、彼と一緒に高校に通えるかもしれないことを考えていた。彼は頭が良かった。彼の頭が良いところにも好感を持っていた。
結果として高校受験は失敗だった。兄弟が多い我が家は長子の私の滑り止めを用意出来なかった。模試のきれいな紙に印刷された合格する確率が70%まで落ち込んだ。挑戦は許されず漫画のように家庭の都合で通いやすくそれなりの偏差値の親が決めた高校を受験して合格した。
妥協のご褒美に私は携帯電話を買い与えられた。猿のように熱中した。友達とひっきりなしにメールをするのが楽しかった。そんな携帯中毒に付き合ってくれたのが彼だった。
彼は愚痴をうんうん聴いてくれた。肌寒い日にはコートをかけてくれて、雨の日は傘を差して家まで送ってくれた。
彼は誰にでもそうする人間だ。
そういう人間を私は好きだと思った。
高校一年の夏、好意を伝えた。彼はいわゆる恋愛恋愛した面倒は嫌だけど、と前置きした上で私と付き合う返事をくれた。友達にも家族にも内緒だった。私はおおっぴらに恋愛を満喫して盛大に恋心に振り回される友人たちのようになりたかったが、その夢は絶たれたと言ってもいい。
彼は時折、家族が留守にしている放課後や休日、私を自宅に呼んだ。彼の家は急な坂の向こうにあり、私は暑い日も寒い日も自転車をこいで彼の呼び出しに応じた。二人でカーペットの床に並んで座って、他愛もない話をするのはとても楽しかった。彼はキスがしたいと言ったので応じた。こんなもんか、と思った。彼は私の胸や下半身に触れたがった。胸は触らせたが、下半身を他人に触られるのは嫌だったので精一杯かわいこぶって断っていた。
彼が満足そうで良かった。私にかわいいとか偉いとか頭が良いとか言ってくれるのは彼だけだったからだ。
たまにデートなるものもした。彼は共通の友人にばれたら面倒だからと地元ではないところで待ち合わせて、博物館などに行った。博物館が好きなので楽しかったが、多分一人でいても楽しかったとは思う。彼は理系なので解説をしてくれて、知らないことを知れたのは楽しかった。
いわゆる中学生ぐらいのいじましいお付き合いは高校三年生になるまで続いた。
部活の大会や模試で顔を合わせたら、こっそり示し合わせて抜け出して会って話したりしていた。
関係が、と言うよりも私が変わったのは高校三年生の秋頃だっただろうか。
鬱を発症していたと知るのは年明けに通院をはじめてからだ。高校の卒業も危うくなった。彼のメールを無視し続けた。友人たちのラインもブロックした。手首を切った。酔い止めを何箱も一気に飲んだりした。苦しかった。とにかく早く死にたかったが、癇癪を起こすと椅子を投げてくる母親から兄弟を守らなければならなかったので死ねなかった。
音信不通を続け、両親の説得も不登校支援センターも保健室も諦め、私は精神科に通院することになった。
高校三年生の一月、私はセンター試験どころか学校へも行かず精神科に通った。薬が効き始めるまでが地獄のように長かった。向精神薬と睡眠薬がなんとか効力を発揮する雰囲気を醸しはじめた頃には、卒業はほぼ絶望的だった。
私は主治医から診断書をぶん取り、校長などのお偉方と交渉を重ね、補講を組んでもらうことでなんとか、卒業式から数日はずれが生じるものの年度内に卒業出来ることになった。周りの大人は私の想像をはるかに超えて優しかった。同情し、時には私の身の上話に涙ぐんでくれた。そんなことで悩んでいたなんて知らなかった、と口々に言った。進学校だったので不登校の前例が無かったのが幸いした。先生方は私一人のために会議室で卒業式をやってくれた。
さて、話を恋愛に戻そう。私はなんとか卒業証書をぶん取り、彼は第一志望の難関大学に合格していた。サイゼリアで久し振りに会って彼は「元気そうで良かった」と言った。
私は全くもって元気では無かった。
恋愛どころじゃない、何度も死にかけた。
人に説明する元気もあまり無かったので、かなり端折って私はことの顛末を説明した。ずたずたの腕を見せて「メンヘラと付き合うとろくなことがないって言うから、別れるなら今だと思うよ」と彼に提案した。彼は「それは別れる理由にはならない」と言った。
そういうことでお付き合いは継続されることになった。
彼は大学に入学した。私はそれを祝福した。彼が受験勉強を頑張っていたのを知っていた。とても尊敬している。
私はといえば、自分を殺そうとする自分に耐え、病状を必死に家族に説明し、ひたすら精神科に通った。
彼は以前と変わらず家族が留守の合間に私を家に呼んだ。私は行かなかった。外に出る元気も無かったし、当日朝「今日家誰もいないよ」と言われても動き出す頃には翌日の昼間だ。
彼はサークルが忙しかった。理系だから男ばかりで可愛い子いないよ、と言っていた。
私達はあまり会わなくなった。
彼は私が死んだら悲しむだろう。優しくて弱い人だから。自殺だけはしてはいけないと自分に言い聞かせた。
色々なことがあった。
死なないために意識を失うことが必要だった。私は酒浸りになり、睡眠薬はどんどん強いものに変わった。早朝起きて、Amazonで買ったウォッカを水で割り、それで頓服を服用して眠り、昼過ぎに起き出して母に罵倒されながら(これは10年来の日課だ)食事をとり、薬を飲んでまた眠った。眠れない夜は頓服を酒で服用した。そうすれば眠れる。眠っている間は死にたくならないので楽だった。
私某居酒屋で酒を飲みすぎて意識を失い救急車に乗った。倒れたはずみに骨折もしていたのでそれを治療するため更に入院した。入院中は母に罵倒されず三食昼寝付きだったので手術の痛みを差し引いてもお釣りが来るくらい快適だった。
そんな状況を医者は許さず、私は精神科の閉鎖病棟に入院することになった。彼は見舞いに来たがったが、私は断った。誰にも会いたく無かった。自分自身と二人きりになりたかった。何もかもに疲れ果てていた。
看護師さんは優しい。変な人が沢山いるけどそれぞれが自分のことで精一杯だから誰も干渉してこない。
母の罵倒が無いなら、現実逃避するためのスマートフォンは要らなかったので無くても困らなかった。
少しの本、ポータブルCDプレイヤーと何枚かのCD。それだけで完結した生活は確実に私の心を癒した。
これが人生の正解だと思った。誰も、何も要らない、天国だと思った。
あらかじめ定めていた期間が過ぎ、私は退院した。
閉鎖病棟に入院したことがあるレッテル付きの私は母からの罵倒が少しは薄まったと感じた。もう死にたくならないために一人で十分だった。
そして同い年の彼が大学二年生になると同時に、私は大学一年生になった。
母が勝手に推薦入学に出願して受験料も払い込んでいた。仕方がないので面接に行ったら大学に受かった。入学した。
彼はおめでとうと言ってくれた。
新調したスーツ、きれいなキャンパス、好きな学問、新しい友達。
私はまともな人間に戻れるかもしれないと期待した。
しかし、ゴールデンウィークが明けた頃には既に私はくたびれていた。夏休みが明けて、大学へも行かなくなった。アルバイトはクビになった。
私はただ家で時間を潰し、母の(以前よりはマシな)罵倒に耐え、薬を飲み生活していた。もう死のうと思っていた。
大学で新たな人間関係を築いた彼は、私の死を受け入れるキャパがあると思った。
そういえば私は彼とセックスしていなかった。
呼ばれても家に行かない、共通の友人たちと遊ぶ以外では会わない、そんな恋人であったから、私はなんだか彼に申し訳が無かった。
セックスする前に私は酒を飲んだ。
薬の副作用で性欲は無く、彼とキスしても気持ち悪いと思ったからだ。
こんなもんか、と思った。
彼は別にセックスしたからといってこれまでより優しくなる訳でも冷たくなる訳でも無かった。
その日私からやや強引に誘い、夕食を食べながら話をした。私は彼と話がしたかったからだ。彼と話すのは楽しかった。
それが数ヶ月前のこと。
それ以降、私は彼と一度も顔を合わせていない。
精神科に通い続けて、自傷行為をやめられた。アルコール中毒も治った。睡眠も規則的になった。
兄弟が進学と同時に一人暮らしを始めた。もう自分の身を自分で守ってくれる。
私の生きる価値は無くなった。
ある夜母が癇癪を起こして私に出て行けと怒鳴り、私を家から蹴り出そうとした。
終電が無かったので私はははに頭を下げて「一泊止めてください、明日出て行きます」と言ってその場をおさめた。
翌朝、私は最小限の荷物だけを持って逃げるように家を出て、何度か遊びに行っては掃除をしてやったりしていた兄弟が一人暮らしをしている家に転がり込んだ。
それから紆余曲折あり、結局兄弟の仕送りで私は生活している。兄弟は大学に行き、私は自分と兄弟の二人分の家事をしている。おそらく幸せなのだろう。私が欲しかった暮らしは手に入ったのだろう。
もう死んじゃおっかな。くたびれた。もう何も要らない。
今死んだら同居している兄弟がショックを受けるだろうから、死んでないだけ。
彼と連絡を取っていない。
これが自然消滅と言うのならそうなのかもしれない。
私は多分もう駄目だ。大学は妹宅からは距離的に通えないので中退する。アルバイトでせめて食い扶持を稼ぐのが目標だが、達成出来るのはいつになるやら。
自分は異性愛者ではないのかもしれないとも思ったが、同性も好きにならないのでたんに今恋愛をしたくないだけだと思う・
彼は人間としてすてきだから好きだけれど、セックスはしたいと思わない。それじゃあ社会的地位の高い彼にぶら下がりたいだけの厄介メンヘラだ。しかもセックスさせてくれないときた。そんなクズになってまで恋愛とかいうフィールドに立っていたくない。情けないし申し訳ない。
友達に戻って彼と飲みに行きたい。手を繋がないで一緒に博物館に行きたい。一緒に食事がしたい。でも今は会いたくない。
さよならを言うために約束を取り付けようと思って、彼が通う大学の夏休みの期間を調べている。
でも何だか会うのも連絡するのも嫌になってきた。
こうやってぐずぐずしたまま、付き合い始めてこの夏で四年。嫌だ。
生活が忙しくて、朝起きて夜寝るのが精一杯で、恋愛なんかやってる場合じゃない。
そろそろ死んじゃおうと思っている。
メンヘラはよく人生を虚無虚無言うけど例に漏れず私もやはり虚無を感じている。
恋愛には向いてなかった。
多分健康でいることが出来なくなった段階で恋愛なんかやめにしておけばよかったのに、彼の優しさでそれは人工的に延命措置を受け続けている。
罪悪感はそれだけで健康を害するから排除しなければ、と、病気を治療する上で判断出来る。だからさっさと別れようってメールを打てば良いのだ。
参ったなあ。
今日もSNSを眺めていた。ADHDプログラマの人が書いたはてなブログが流れて来た。
http://simplearchitect.hatenablog.com/entry/2018/07/02/080248
読んだら涙が出てきた。
私もADHDと診断されて、プログラマのようなことをやっている。ブログの人は47年も生きて働いているけれど、私はその半分も生きていない。共感したなんて言うのもおこがましいのだが、一つ一つの事例が胸に刺さった。
遠くから見ていると私は何かが出来てるように見えるかもしれないが、冗談抜きで人の3倍ぐらい時間をかけないと成果が出ない。しかも、中途半端にしか完成しない。
小学生の時、自分は人の3倍時間をかけないとモノにならないことに気づいた。すぐに身につかない絶望感から目を逸らすために、今日の努力は3ヶ月後に力になると自分に言い聞かせた。それなりに聞こえのいい国立大学に入ったけれど、それは他人の3倍勉強したからと自負しているし、実際、合格最低点とコンマ1点まで同じ点数の滑り込みだった。
同僚がバケーションを楽しみながらも、効率よく色々なものをマスターしていくのを横目に、自分は時間がずっとかかり、しかも中途半端。
新卒でプログラマに就職した。俗に言う文系プログラマというやつだ。慣れない土地、見知らぬ言語、慣れない人たち。研修が終わったら、本社に帰社して短時間の業務をする。日誌を書き、添削を受ける。帰って次の日の予習。1度で理解できないため、ノートにまとめて、単語帳をつくる。朝は起きれないので、夜のうちに次の日の服と荷物を用意する。最初の3ヶ月は本当にパンクしていた。毎晩お風呂場で寝落ちしそうになり、浴槽から這い出て洗い場で仮眠していた。
先日プログラミングの技術調査をして、サンプルコードを書こうと思っていてパソコンに向った。やりたかった事は、たった1つのAPIの検証。しかし朝7時から初めて気づいたら15時だった。しかも、終わっていない。ADHDの私が昔から何回も体験した感覚。いつもながら自分にがっかりする。自分が知らず知らずに無意識にやってる見積りでは、「2時間ぐらいでできるかな。余裕を持って」だった。しかし、いつも私の考えている見積りは大幅に遅い方に間違うのが普通だ。
未だに時間の見積もりが上手くできない。優先順位も上手くつけられない。遅れているのがわかっているのに、追い詰められるほどに助けを求められなくなる。何度も何度も同じことを繰り返し、毎回自分の首を絞めたくなる。絶望。
ほかにも、大事なコンクールの時に限って遅刻したり、いつの間にか部屋の足の踏み場がなくなったり、前日に用意したはずなのに忘れ物をしたり、形式の変わっていない勤務管理表を今も書き間違えたり。
ADHDだと言われてから、まだ1年も経っていない。言われるまでは、自分がそうだと思いもしなかった。みんな同じようにミスをしたり苦しかったりする。だからこれらの出来事は、全部自分の集中力が足りないからだと考えていた。
「ADHDの人の一番大きな特徴は、よくミスをするとか時間を守れないということではなくて、その回数が他人より多いことによって自分を責めてしまって、他人よりずっと打たれ弱いことだ」。
思い起こしてみると、もっとも大きな問題は「最初に思ったことと、関係ないことを大量にしていること」だった。ちなみに、次点は、「何かを調べているうちに、前にやっていたことを忘れる」だった。
ストラテラを飲みはじめる前は、起きている時間の8割は、自分が今していること(例えば歯磨きとか)、別のことを複数スレッドで考えていた。そのうちいくつかのスレッドは、過去に自分が失敗した出来事で、もうどうしようもならないのに何度も何度も自分を責めた。
心療内科に行ったのは、仕事に追い詰められて眠れなくなったため、家人の通っているクリニックを勧められたから。鬱になって不眠気味だから、薬で眠れるようになったり休めるようになればいいな、と思ったからだ。
病院で先生に「ADHDだね」と言われて、帰ってその特徴を調べた夜、寝る前にベッドで大泣きした。
苦しい思いをしたとき、精神力が足りないからだって自分を責めなくていいんだ。脳の特徴だから仕方なかったんだ。薬を飲めば、治る病気なんだ。
いまは家人と可愛い猫たちと一緒に、「無理しない」「健康になろう」をテーマに生活を立て直している。ADHDについて調べたとき、「まんま君のことじゃないか」と言ってくれた家人でも、よく分かっていないんだな、とたまに感じることがある。
親にはまだ言っていない。家人が「君が分身したみたいにそっくり」だという彼らも、きっとADHDなんだろうな、と考える。離れて暮らしているから、言わなくても生活はまわるし、できれば一生言わずにすめばいいと思う。
弟たちには、機会があれば言ってみようと思う。私以上に不器用な彼らが、そう望んだとき、少しでも生きづらさを減らせるように。
タスクリストは前からつくっていけれど、ついタスクリストを無視して動いてしまうことが多い。前日までに荷物を用意したり、他人の3倍練習できるようになったのは、繰り返した失敗と後悔の日々から身につけた私の処世術。
40代、女医、麻酔科医です。子供いないので、あまり参考になるようなことが言えないかもだけど。
確かに責任は重く、労働時間は長く、突然の呼び出しもあり、私生活に対しても社会の目は厳しい。
こんな状況で出産・子育てなんてできるかという気持ちはごもっともです。
社会全体を見れば、共稼ぎの世帯が増加したことで、男性の育児参加は当たり前、育休収得も増え始めています。
男性医師も少しずつ意識が変わりつつあります。メジャー科の男性医師でも「子供の入学式にために休みます」という人も珍しくない。
長期の育休を取った男性医師はまだ見たことがないのですが、制度上は問題ないんだし、そのうち出てくるんじゃないでしょうか。
今までの医師のロールモデルは「(家庭を顧みる必要のない男性)医師が私的な領域まで犠牲にして働く」という昭和的なものだったのですが、
平成も終わろうという今、これを踏襲し続けなければならないわけがありません。
陳腐な言い方であまり好きではないのですが、「女性が(家庭を顧みなくていい)男性並みに働く」ではなく「男女ともに家庭を大切にしながら働く」。
正直男性医師だって休みたいし、家庭を大事にしたい人は多いんです。メジャー科だって、これからの時代に医局員増やしたいならここらへんちゃんと考えてます。
今後老年人口が増加していく中で、これ以上医者が疲弊しない労働環境づくりは結構重視されてます。
主治医制を撤廃した病院もあります。ベテランだって皆、もっと楽に仕事が回るようにしたいんです。
あなたに「メジャーに行け」という意味じゃなくて、「『出産・子育てをする女性だからできない』という考え方は、次世代への呪いになるからやめときなさい」と言いたいのです。
あと新専門医制度は悪い文明。一回滅びろ。一回と言わず永遠に滅びてろ。
産後復帰しようとしたら入局後2-3年は、あなたの言うようにすべてを捨てて頑張ったほうがいい。そうしないとまともな産後復帰は難しいです。
復帰しても指導者の監督下で簡単なことしかさせてもらえない→やりがいもなくなって退職というコースになりやすいです。
サブスペシャリティが得られるまで頑張ったなら、よいバイト先もまわってきてやりやすくなるのですが、そこに至るまでの年数がネックですね。
まー、意地悪な言い方ですが、夫が医師でない場合は経済的な理由からか復帰への意気込みが違います。
正直「旦那さんが医師で入局1-2年以内に出産」ってパターンの子は、まず戻ってこないだろうなーと思って見てます。
どうなるにせよ、医師という職業を続けるからには一生勉強なのです。
「子供がいるから・育休取ってたから」は労働時間の制限にはなっても、医療の質を下げていい言い訳にはなりません。
子供がいて育休たくさんとってても、時間内の仕事の質が高く、医局内でも評価が高く後輩からも尊敬されているような女医さんもいます。
近くに良いモデルになるような先輩がいないのかもしれないけど、産休・育休取った女医さんのこと、あんまり低く見ちゃだめだよ。
「女が女を低く見る」構図は、ますます男性有利な状況を作り出すよ?
医療崩壊なんて、あなた一人の決断ぐらいでそんなに簡単に起きないから。自分のやれることをやるだけだよ。
(つーか、お若い方だからだろうけど、私ぐらいの世代だと今は「いったん崩壊した後の焼野原になんとか芽が生えてきた」という認識なんだけどねえ。)
https://anond.hatelabo.jp/20180630150652
タイムリーな投稿があったので、女医さんと一緒に働くことになった男性医師側の意見を書いておく。
さて、俺のいる科はこの数年、5人で仕事をやってきた。この業界、5人というのは数字だけみると恵まれているほうだ。
1.ジジイ:名目上のトップ。現場の仕事はほとんどしない。たまに外来をやるくらい。出張多い。
2.上司:実務上のトップ。ベテランにさしかかってきた年で、体力がないと言いつつなんでもバリバリやる。
4.若手:5年目。ルーチンワークは一通り覚えている。
5.新人A:研修医上がりで、この科を選んだばかりの卒後3年目。
以上の体制が、新年度から以下のようになった。なお全員が某医大の医局人事に従っている。
1.ジジイ
2.上司
3.俺
4.女医:育休明けたばかり。いちおう専門医で、俺より1つ2つ上だが修練歴は短い。
異動にあたって医局とジジイが話をつけてきたのだが、「若手を減らすかわりに、非常勤だが専門医を一人増やす」とのことだった。
ふたを開けてみれば、
・女医さんは週3.5日来るはずが、週3日・時短勤務に→人数に余裕のない曜日、時間帯が増える
・夜間の呼び出しに対応できない→ジジイと新人は無理なので、上司と俺で時間外の電話を全部受ける
・今まで下っ端二人に病棟の細々した仕事をお願いしていたのが、年の順で俺にも回ってくるようになる
・女医さんは久しぶりで仕事を忘れている部分もあるので、俺がそのつど教えることに
など明らかにきつくなっている。帰宅時間は平均して1-1.5時間遅くなった。
元々呼び出しはかなり少ない科ではあるが、2日に一回の拘束が生じ、心理的にきつくなった。
少し俺の話をしよう。俺自身が今の診療科を選んだのは「楽だから」だ。
うちは3代続く外科系の家で、長兄も外科だ。俺自身は家に帰らない親父の仕事ぶりを見て「あれは無理だな」と思っていた。
10年以上も前になるが、2chでQOML(quality of my life, quality of medical staff's life)という考えが流行ったことがあった。
仕事もいいが医者自身の私生活も大事にしようぜ、というものだ。(雪月花のブログ、と言えば一部の人に伝わるだろうか?懐かしい。)
俺は大いに感銘を受け、医学生時代は2chのQOMLスレに入り浸った。フリーター・ドロッポ(ドロップアウト)のスレなどもあった。
どこの科が楽だ、研修病院はこう選べ。地方の医師不足や診療科の偏在?構うものか。医療崩壊?ハードランディング上等じゃないか。
いやなら辞めろ、代わりはいくらでもいる。逃散だ。そう言って盛り上がった。
今の若い人たちもQOMLの影響は受けているようだ。今は単にQOLと称することが多いらしい。
「研修医やる気なしクラブ」スレッドなど、その思想は受け継がれている。
とにかく患者が少ないか、急変しないか、そもそも患者を持たない。それが進路選びの大前提だった。実際それに従って進む科を選んだ。
10年経って、意外に医療崩壊の進みは遅く、ゆっくりとシュリンクしていく様相を見せている。
産科、小児科、外科の減少のために人が殺到するかに思われた当科も、思いのほか人手不足のままである。
今年、女医の影響というか、女医にまつわる産休や育休の影響をはじめて受ける立場になった。
女性の同僚はいたが、フルタイムだったためこれまで特に気にすることもなかった。
むしろ俺自身は女医の働き方に理解があるつもりだった。半分が女子学生の大学だってある時代だ。
そして実際に影響を受けて思った。これはきつい、と。
女医さん、時間あたりで外来件数を比較すると、俺の1/3くらいしか働いてない。
それでいて時給換算すると俺より高い額をもらっている(なんで知ってるかというと雇用通知書を机の上に置いてたからだ)。
朝のカンファレンスが終わった頃やってきて、多少の仕事をして、早く帰っていく。俺たちは溜まった仕事もそこそこに、夕方のカンファレンスに臨む。
彼女はときおり電話1本で「子どもが熱出たんで休みます」と言い、俺たちは一つ減ったブースで外来をこなす。
そんでこの前、彼女がさらに時短を望んでいるとかの話を小耳にはさむ。
ジジイや上司は、家庭は大事だからねーと言う。認める方向のようだ。
いやいやお前それ、俺らの家庭が間接的に犠牲になってるのはいいのか。聖人か。
短いなら短いでせめて同じ密度で仕事できませんかって聞きたいが、当の女医さんはいい人そうなので、ってか多分普通にいい人なので聞けない。
やる気はない、医者はただの生きる手段。病院や業界に対する忠誠心はまるでない、と俺は自分で思っていた。
それでもQOMLを達成するためには馬力と要領が必要で、全力投球して9時5時を目指すもんだと考えていた。
そこへ余りにもマイペースな(ように見える)同僚が現れて困惑している。じつはQOML派じゃなかったのか俺。
業界みんなで支えなきゃ。
お前も無理って言えばいいじゃん。お前も真似してみれば?
マネジメントの問題だ。人を別に雇え。できなければ診療規模を縮小しろ。
そんな正論はいくらでも思いつくが、理想論の上に即効性もなく、さえずるなという感じ。
給料上げてもらえば?とかね。俸給表で決まってるんですがね。ま、残業や呼び出しで10万ほど増えましたがね。
「やっぱさー、一緒に働くなら元気のいい男の子がいいよ」
この人がそんなこと言うんだ、まだこの業界後進だなって思った。
でも今度から俺も言おうと思うわ。「次は活きのいい若い男を頼む」
人間は、週5〜6日働くらしい。
私は週5〜6日働くのが辛い。
5〜6日の内訳はこうだ。
1日ソープ(1日4〜6万円)
ソープが減ることと裏引きが減ることはある。派遣の事務は週4の契約なので基本は減らない。私が突発的に休むと減る。
小学生まではまともな人間の擬態ができていた。中学受験のため塾に通っていたのもあり、成績は良かった。
過食嘔吐とリストカット。度胸がないので傷は浅い。アラサー現在残ってはいるけれどそう目立たない。
母に電車で寝過ごしたから遅刻と伝え、体調不良のため遅刻と連絡をいれてもらった。私は体調不良でもなんでもなく、ただ環状線をうとうとしながらやりすごし、3〜4限目から学校に行った。
大学にはいり、生活はいよいよ破綻した。大学に行かないので当然単位は取れない。とくに宿題のある講座が苦手で、宿題ができていないために出席ができない講座がいくつかあった。語学系の講座と、学科の必修科目だった。
大学1年の夏、チャトレ的な仕事で稼ぐ予定だった出会い系サイトで援助交際を知り、サークルの先輩で処女を捨てていわゆる援交少女となった。
大学5年目の秋、卒論の提出期限を家で過ごして安堵したのち、自分の現状が不安になって「やるべきこと できない」でGoogle先生に聞いてみた。
実家から一番近い"大人のADHD"を扱う精神科医にかかり、心理検査などを受けてあなたはADHDですねという診断を受けた。
大学が県内でいちばんいい私立大学だったこともあり(中学受験をした学校の付属校だ。成績が悪くても推薦入学が可能だった)、大学を辞めるのはもったいないのではと主治医に言われた。
私は6年目を過ごしたのちに大学を卒業する自信がなく、親に診断結果を告げて大学を5年で退学した。
実家を出て、インターネットで知り合ったデリヘル嬢と暮らしはじめる。彼女に紹介してもらい、デリヘルで働く。
実家を出て2年目の夏、両親に今の仕事を心配されて正社員になる。第二新卒に強い転職サイトを利用した。
しばらくは順調だったが、友人との関係がこじれたことをきっかけに鬱状態になる。
高校時代学習塾に思うように行けなかったり、大学時代軽音部の課題キーボードが進まなかったことで自殺を図ったことはあったため、彼女が悪いとはとても言えない。
鬱状態になってから、それまでの趣味が色褪せていたこともあり、精神科にかかる。
私の主訴は、見捨てられ不安からの鬱状態だったためか、双極性Ⅱ型の疑いを持たれ、躁鬱向けの投薬をされていた。
ご存知のかたも多いとは思うが、精神科を予約するためには1〜2ヶ月待つ必要がある。私が待っている間に友人との関係はゆっくりと改善され、主訴はADHD的な、毎月1日くらい当日欠勤してしまうとか、仕事中ねむいとか、集中できないとか、そういう内容になるはずだった。
主治医はADHDよりも躁鬱を優先すべきだと言った。わたしはADHDが自己否定感情の由来であり、躁鬱の原因なのではと話した。
私が大学時代検査を受けた病院の診断書を今の病院に届けるのをめんどうがり、そうこうしているうちに職場へはどんどん行かなくなった。
職場に行けていないことや、風俗で生計を立てていることをきちんと話せない病院なら通う意味はないのではと思い、病院に行くのをやめた。
有給がなくなったことをきっかけに、職場を1ヶ月休職した。1ヶ月間給料はもらえなかったがのびのびと過ごした。
生活のなかで、私のできる仕事は今の職場の仕事だけでなく、もっと選択肢があるのではと気付くことができた。
(休職するまでは、そのとき勤めている会社で働けないことはすなわちふつうの会社に勤めていけないことだと考えていた)
仕事を辞めて、派遣の仕事を探しはじめた。私は自分で面接をセッティングすることを避けていたし、できればフルタイムではなく週3〜週4の仕事をしたかった。
派遣先は大企業で、仕事は暇だ。私がいなくてもまわっていく職場にいるとはっきりと言える。
私の当日欠勤の癖はなおらない。朝起きて、仕事に行くことがどうしても無理な気がしてしまう日が月に1〜2度ある。
ソープや裏引きの日も合わせると月に4〜5度ある。
今はマネージャーやソープの店員、裏引きの相手に連絡することで休みをいただいているが、次の派遣先はこうもいくまい。あるいは、今の派遣先でもすでに私の欠勤は問題視されているかもしれない。
人間は、週5〜6日働くらしい。
私は週5〜6日働くことが難しいと感じることがよくある。朝行くことができないと感じたり、遅刻してでも出勤できないと感じたりする。
宿題のある講義が苦手だったことを踏まえると、在宅であっても仕事ができるとは思えない。
もしかしたら、毎日家まで迎えに来てくれる人がいることで私の当日欠勤癖は治るのかもしれない。でもその人の給与は誰が払うんだろう。
私の母は3年前にがんで亡くなった。まだ50代半ばだった。
ヘビースモーカーだった母が肺がんを患ったのは、まあ仕方ないことだったのかもしれないが、
驚くべきスピードでがんは進行し、病名告知からわずか1年も経たずに、母は逝ってしまった。
余談だが、母は病気がわかってからも煙草を吸いたいと言っており(禁煙はしていたが)、
当時は正直あきれてしまった。
これは私が喫煙者でないから、彼女の心情はあまりわからなかったのだろう。
病名告知の時点で、種々の抗がん剤が効かなければ、手術の適応にすらならないと言われていた。
がんだとわかった時点でもう左の肺はレントゲン上で真っ白、ほとんど機能していなかった。
この時から、本当は近い将来母が死ぬことはわかっていたのに、わたしはこのことについてきちんと考えることすらしなかった。
残された時間が短いことはわかりきっていたのに、5年後、10年後も母は生きていると信じていた。
亡くなる2か月前、母は治療してもらっていた病院を退院し、自宅療養となった。
母が言うに「医者に見放された」ようだったが、これは現在のがん治療の方針を考えるとしかるべき流れだったのだろう。
わたしとしても主治医に思うところがなかったわけではないが、それも仕方ないことだろうと納めていた。
ことあるごとに、母はこのことについて主治医に恨み言のようなものを言っていたが、そうだね、としか返せなかった。
一人暮らしをしていたが、父や兄弟からヘルプがあり、仕事を辞め、実家に戻って母の介護をすることになった。
少し回復しては悪化し、またそれを繰り返し、だんだんと母はできることが少なくなっていった。
呼吸が乱れて大好きだったお風呂に入れなくなった。
歩けなくなった。立てなくなった。座れなくなった。
オムツを変えて、体を拭いて、食事の介助をして、いつも母の隣にいた。
浮腫がひどく、水分出納バランスを見なくてはならないときにはバルーンカテーテルも入った。
私は看護師だが、所属が全く違うために寝たきりのバルーンはすぐ詰まることすら知らなかった。
母はバルーンが嫌で、少しでも違和感があると、流出は問題なくてもカテーテルの交換をしてほしがった。
ほぼ1~2日おきだったと思う。
訪問看護師さんに頼んで、バルーンキットを何個か家に置いて行ってもらっていた。
母にバルーンを入れるなんて、看護師になった当初は想像もしなかった。
夜中は背中が痛むといって隣で寝ている私にさすってくれないかと頼んだ。一晩に何度も何度も。
さすがに私も眠くて、いら立って「もういい?」と言ってしまう夜もあった。
でもそんなこと、何度だってしてあげればよかった。
死んでしまったらなにもできない。
母が好きだったもの、したかったこと、なんでも話せばよかった。
母の声はどんなだったか、ときどき思い出さないと忘れてしまうのが怖い。
母が何を好きだったのか、どんな夢があったのか、なんとなくしか知らない。
できないことが増えていく母がどんな思いだったのか、きちんと聞けばよかった。
母に何もできなかった。
本当に親不孝な娘だ。
そのレシピは、地元のスーパーにおいてあったチラシに書かれていたもので、
一人暮らしをして以降、実家に帰ると必ず母はからあげを作ってくれた。
母が自宅療養となって、あるときこのからあげのレシピを教えてあげる、と言った。
縁起でもないといって私は聞かなかった。
あのとき素直に聞いておけばよかった。
もう母はいない。
夢に出てくる母はいつも病気になる前の、元気で働き者の母の姿をしている。
病気になったのは夢だったんだな、よかった、と思ったところで起きる。
そして、もう母に会えないことを思い出す。
もう一度母が作ったからあげが食べたい。
いつまで経っても悲しいままだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180608-00000086-mai-soci
自分自身が検査結果見忘れトラブルを起こしたことはないけど、前任の主治医が見忘れてカルテに挟んであった結果表を見つけてしまったことはある。
SLEっていう、難病ではあるんだけどステロイドはじめいろいろコントロールしようはある病気で、それを診断確定する結果を見落としていたものだから「原因不明の腎炎」のまま透析導入になって腎機能ももう尿がほとんどでないところまで来てしまっていた。
見忘れていなければ腎臓は救えていたというだけでなくもっと悔しい事実があった。実は前任主治医時代の看護記録に「膝の痛みに整形外科がステロイドを出したら尿がよく出るようになり患者さん本人が『魔法の薬だ』と喜んでいた」という一節があったのだ。それ、飲み続けていれば本当に効いたんだってば。
まあ教授は激怒して前任医は派遣先の病院から呼び出されてきつくお叱りされたようでしたね。院内放送かかって呼び出されたとか。
ニュースになってた覚えはない。