私の母は3年前にがんで亡くなった。まだ50代半ばだった。
ヘビースモーカーだった母が肺がんを患ったのは、まあ仕方ないことだったのかもしれないが、
驚くべきスピードでがんは進行し、病名告知からわずか1年も経たずに、母は逝ってしまった。
余談だが、母は病気がわかってからも煙草を吸いたいと言っており(禁煙はしていたが)、
当時は正直あきれてしまった。
これは私が喫煙者でないから、彼女の心情はあまりわからなかったのだろう。
病名告知の時点で、種々の抗がん剤が効かなければ、手術の適応にすらならないと言われていた。
がんだとわかった時点でもう左の肺はレントゲン上で真っ白、ほとんど機能していなかった。
この時から、本当は近い将来母が死ぬことはわかっていたのに、わたしはこのことについてきちんと考えることすらしなかった。
残された時間が短いことはわかりきっていたのに、5年後、10年後も母は生きていると信じていた。
亡くなる2か月前、母は治療してもらっていた病院を退院し、自宅療養となった。
母が言うに「医者に見放された」ようだったが、これは現在のがん治療の方針を考えるとしかるべき流れだったのだろう。
わたしとしても主治医に思うところがなかったわけではないが、それも仕方ないことだろうと納めていた。
ことあるごとに、母はこのことについて主治医に恨み言のようなものを言っていたが、そうだね、としか返せなかった。
一人暮らしをしていたが、父や兄弟からヘルプがあり、仕事を辞め、実家に戻って母の介護をすることになった。
少し回復しては悪化し、またそれを繰り返し、だんだんと母はできることが少なくなっていった。
呼吸が乱れて大好きだったお風呂に入れなくなった。
歩けなくなった。立てなくなった。座れなくなった。
オムツを変えて、体を拭いて、食事の介助をして、いつも母の隣にいた。
浮腫がひどく、水分出納バランスを見なくてはならないときにはバルーンカテーテルも入った。
私は看護師だが、所属が全く違うために寝たきりのバルーンはすぐ詰まることすら知らなかった。
母はバルーンが嫌で、少しでも違和感があると、流出は問題なくてもカテーテルの交換をしてほしがった。
ほぼ1~2日おきだったと思う。
訪問看護師さんに頼んで、バルーンキットを何個か家に置いて行ってもらっていた。
母にバルーンを入れるなんて、看護師になった当初は想像もしなかった。
夜中は背中が痛むといって隣で寝ている私にさすってくれないかと頼んだ。一晩に何度も何度も。
さすがに私も眠くて、いら立って「もういい?」と言ってしまう夜もあった。
でもそんなこと、何度だってしてあげればよかった。
死んでしまったらなにもできない。
母が好きだったもの、したかったこと、なんでも話せばよかった。
母の声はどんなだったか、ときどき思い出さないと忘れてしまうのが怖い。
母が何を好きだったのか、どんな夢があったのか、なんとなくしか知らない。
できないことが増えていく母がどんな思いだったのか、きちんと聞けばよかった。
母に何もできなかった。
本当に親不孝な娘だ。
そのレシピは、地元のスーパーにおいてあったチラシに書かれていたもので、
一人暮らしをして以降、実家に帰ると必ず母はからあげを作ってくれた。
母が自宅療養となって、あるときこのからあげのレシピを教えてあげる、と言った。
縁起でもないといって私は聞かなかった。
あのとき素直に聞いておけばよかった。
もう母はいない。
夢に出てくる母はいつも病気になる前の、元気で働き者の母の姿をしている。
病気になったのは夢だったんだな、よかった、と思ったところで起きる。
そして、もう母に会えないことを思い出す。
もう一度母が作ったからあげが食べたい。
いつまで経っても悲しいままだ。