はてなキーワード: 寺社勢力とは
信長は革命者ではなかったというのは、歴史の見方によるところが大きい。
しかし、近年の研究では、信長の政策は中世社会の延長線上にあり、革新性は低いという見方が主流である 。
信長は、自らの権力を強化するために、室町幕府や寺社勢力と対立したが、それは中世的な権力闘争の一環であり、社会制度や思想に対する批判や改革を行ったわけではない。
また、信長が推進した「天下布武」や「天下統一」も、中世的な観念に基づくものである。
信長は、「天下」(五畿内)を支配することを目指したが、「日本国」全体を統一することを考えていなかった。
信長は、「天皇」や「将軍」という中世的な権威に依拠しようとしたが、「国王」や「皇帝」という近代的な権威を自ら名乗ろうとしなかった 。
このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室を牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年)7月、小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている[19]。
秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。作家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。
江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。
大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍が仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]