はてなキーワード: 大夫とは
元々侍と武士は同じ意味だったが、時代を経ると侍は高位の武士の意味になってる。
侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。
「侍」という言葉は元来は、朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える位階六位下程度の下級貴族(官人)を意味した
武芸を仕事内容とする技能官人である武士が発達すると、「侍」は武士を指すようになった。
さらに、武士階層の裾野は広がり貴族に連なる支配階層に加え、本来は百姓身分である地侍や徒士、卒、足軽なども武士に含まれるようになると、「侍」は武士の中でも比較的高い地位にある「騎馬戦闘の権利資格を有する階層以上の武士」を指すようになった。
足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。
弥助が侍かどうかの話があるが、そもそも侍の定義を明示してないと話が始まらない。
足軽だったとしても下級武士であり武士=侍の時代の定義に従えば足軽も侍と言うことも可能なので議論する上で当たり前だがそもそも言葉の定義についてはっきりさせておく必要がある。
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。
信玄もさすがだが、綱成の死去3年後に北条が滅亡したとかんがえると、傑物ですなあ
北条綱成は北条家中随一の猛将として他国にも知られ、戦場において常に勇敢で、特に野戦では大将であるにも関わらずに常に先頭に立って「勝った! 勝った!」と怒号しながら真っ先に敵陣に突入したと言われる。
旗指物は朽葉色(黄色)の練の四隅にそれぞれ「八幡」と墨書きしたもので、その武勇高き北条綱成の姿は「地黄八幡」と呼ばれた。
この地黄八幡の旗指物は現在、長野市松代の真田宝物館に現存する。
1571年、北条綱成が駿河・深沢城を開城した際に城内に残されていたものだ。
武田の兵は置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、北条綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。
しかし武田信玄は「左衛門大夫(北条綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。
あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。
旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田幸隆の子・真田源次郎(真田昌輝)に「左衛門大夫(北条綱成)の武勇にあやかるように」と旗を与えた。
一度トラバいれた相手のページは全部ブックマーク入れて巡回してるのかもな
トラバが増えるたびに一度の巡回量が増えていきいずれ一日とかじゃ見切れない量になっていくこと必至だが、そこはまあ命続くまで巡回を続けるという意気込みなのだろう。
1日→1日半→2日、ここまで4日半だが、この「ここまで○○」の○○が寿命までの期間と一致するまで続けるのみのことなのだ、彼にしてみれば。
記事への言及が変化していても見落とすという確率は増えていきそうだけどな。巡回を繰り返すつもりでもそこらへんの限界はあろう。いくら彼が粘着質だとしてもそもそも返信がついたことに気付けなければ、それまでだ。寿命の面でも認識可能性の面でも、彼はじわじわ負けている。(妓楼大夫のパクリw)
女を何年もやってると、ある程度の時期など把握できることもあるが
不意にやってくることもある。
一度来たら、止められない、終わるまで。
出血だけなら、1万歩譲って許せるかもしれない。
肌が弱いと、や、弱くなくても
濡れると摩擦が大きくなるのはご存知でしょう。
それで、痛かったり、かゆかったり。
眠りをさまたげることもあるくらい。
なるべく快適にすごしたいなら、だいたい相応の良い値段のものを使わなければいけない。
安心を得たいなら、それらを多めに確保しなければならない。
しかし、それがいつでも買えるとは限らない。
使い慣れたもの、お気に入りのものが、売り切れていることもしばしば。
代わりにしかたなく選ぶことが多い。
店員さんは、そんなん気にしてねえ、ってのも分かってる。
分かってるけど、こっちは恥ずかしいもんは恥ずかしいんだ。
そんな、いろいろの要因で、気分も落ち込む。
そして、行動も制限される。
数時間おきに取り替えないといけない。
動いてなくても、寝てる時に壮大に漏れていることもある。
起きた時に下半身の着衣が血塗れ、さらにシーツなどにも被害が及んでいる時の絶望感。
そうなったら捨てちゃえばいいじゃん!
とも思う。できるなら、じゃんじゃん捨てたい。
でもそうもいかない。
血まみれの布を冷水で洗う。
でも血はお湯だと固まって落ちにくくなるから、冷たい水じゃないとだめなんだ。
人に知られたくないから、こっそり寒い風呂場で冷たい水で手洗いする
寒いさみしいみじめさ。
つらい。
わーっと書き殴ってみたけど、誰も責めるつもりはないよ。
生理つらいみなさま、おなか中心にあったかくして過ごしてくださいませ。
お大事にです。
薬も要ることあるの書き忘れてたー
ちんつう
大学生かな?w
この話をつきつめるとバベルの塔みたいな話になってくるからやめるけど、個人とか自宅とかに置き換えてみればいい。
自分の庭に隣人の柿の木の枝がのびてきたり、熟した柿が落ちてきたら抗議する、それがまあ「利害」という概念のプリミティブな例である。
企業活動は通貨・金融・経済活動というルールが指定されているのでそのルールを逸脱した利害行動はできない。
たとえば暴力だとか、不法占拠だとか。そのかわりに法律と金が動く。
いっぽう国家や民族においては、その国家や民族を「定義」した時点で利害が発生する、と考えている。
たとえばウイグル人は東トルキスタンという国がもともとあったから、中国に侵略されても、中の人間が「我々は東トルキスタン人だ」といえば、
その「利害」を消すことができない。だからそれを完全に消そうとして、100万人以上を奴隷労働させて臓器を抜いたりしている。
基本的に人間である以上は利害が必ず発生するわけだが、それを国家レベルでやると、間違えた人間が王になると「暴力」「不法占拠」「弾圧」「虐殺」が発生する。
それがエスカレートした有名な例は、呉越戦争のきっかけがわかりやすい。
けっきょく、サイズの違いはあれど「人間の争い」が利害であり、国家を建国した人間や、その時点でのトップの「人間性」が利害の拡大縮小を左右させるのだと思う。
紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さな争いから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕(ようさん)が盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の蔿越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚に属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢に突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国の軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に鶏父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢に攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩余が指揮し、胡と沈の若い君主を捕虜し、陳の大夫の夏齧も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した[1]。